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2013年1月21日
毒を持つ、ということ。
東京では1月14日に初雪が降りました。ちょうど成人の日。雪に困った新成人の方もいらっしゃったのではないでしょうか。でも天候が祝福してくれたのだとおもいますよ。大きな通りでは雪は消えましたが、いまでも屋根の上や建物の陰に雪が残っているところもあります。
さて、1月中旬までの朝の連投ツイート(140文字×5ツイート)によるコラムを以下にまとめてみました。どうぞ。
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■ライフワークのすすめ。2013.01.06
やりたいことを仕事にする、ということがよく言われる。だから就職活動では自己分析が要求される。しかしながら、仕事を「金を稼ぐ手段」と割り切ってしまえば「やりたいこと」を仕事にする必要はないんじゃないか。一方で、金を稼ぐ手段ではない仕事をここで「ライフワーク」と呼んでみたい。
金を稼ぐ手段と自分のやりたいことを混同するから、いわゆる「仕事」に不満も出る。アフィリエイターなのかブロガーなのかわからなくなる。ところが、儲けることにこだわらず、自分が納得するまで定年なしで関わりつづける仕事として「ライフワーク」を考えると、その呪縛から解かれる気がする。
究極をいえばライフワークは儲からなくてもいい。しかし徹底的にこだわりたい。自分がやりたいことなのだから妥協は許さない。かつ社会に求められ、非貨幣市場的な価値を生み出すものでありたい。こうした「仕事」を実現するためには、生活基盤を安定させるために金を稼ぐ「仕事」も重要だろう。
ライフワークとして考えている「仕事」がぼくにもある。それはカタカナ用語で幻惑させるマーケッターでなければ、物書きやプロブロガーの仕事でもない。「市井の思想家」である。ぼくは市井の思想家として、ちいさなコミュニティであっても自分の言葉と思想を後世にまで残したい。それがぼくの仕事だ。
黒川伊保子氏は著書で「ヒトの脳は男女とも、五十代半ばに、知の大団円=連想記憶力という力がピークに達する。」と述べている。よわいを経たからこそ結果を出せる「仕事」もある。金を稼ぐための仕事とライフワークの複線的スタイルで生きていくことも、人生の選択肢としてあるのではないか。
キレる女 懲りない男: 男と女の脳科学 (ちくま新書) 黒川 伊保子 筑摩書房 2012-12-05 by G-Tools |
■流れるままに。2013.01.17
辞めた会社に机の引き出し一段分の量の名刺をごっそり残してきたことがある。何枚あったのか自分でも把握できていない。若かりし頃、異業種交流会に参加して「収集」したり、積極的にひとに会いに行っていただいた名刺だった。しかしながら、そのなかで芽が出たものは、ほんの一握りにすぎなかった。
家入一真氏が「人の付き合いなんてストックするんじゃなくてフローでどんどん回す。」とつぶやいていて共感した。「名刺なんてバンバン捨てたら良いし、名刺交換会なんてのも行かなくていい。必要な時に必要な人とはまたどこかで出会うから。」にも頷いた。さわやかでポジティブな考え方だ。
人の付き合いなんてストックするんじゃなくてフローでどんどん回す。死んだ人脈なんて貯め込んだって意味ないよね。必要な時に思い出してもらえる人間になれたらそれでいい。名刺なんてバンバン捨てたら良いし、名刺交換会なんてのも行かなくていい。必要な時に必要な人とはまたどこかで出会うから。
— 家入一真さん (@hbkr) 1月 15, 2013
来るものは拒まず(ただし選別し)去るものは追わず。「流れる」ままにフローな人生を漂ってみたい。しかし、ほんとうに大切だと感じた人脈には楔を打つように努力したい。流れていく人生のなかでストックすること、流れに抗うことは容易ではない。しかし、だからこそストックする努力も必要だ。
ストックすることが必要だとしても、執着心からは解き放たれていたい。どうしようもなく去っていくものについては、執着しても仕方がない。去っていく運命に任せるのみである。何をフローさせるか、何をストックさせるかという選別は大切なのだろう。得てしてぼくらはその選別を間違うものだけれども。
流れるものには「生」を感じる。執着によりとどまる、澱むものに感じるのは「死」だ。生成変化する時間に無理やり楔を打とうとすると、生命のチカラを失う。若さに「生」を感じるのは日々インプットとアウトプットがあって、とどまるところがないからだろう。人生は轍ではなく回転する車輪でありたい。
■人間関係を楽にする方法。2013.01.13
いつもあったかい雰囲気のしあわせな話をするひとがいる。かといって、そのひとの人生がしあわせなことばかりだとは限らないだろう。ちっと舌打ちしたくなるようなこともあるだろうし、辛くて立ち上がれないこともあるに違いない。けれどもそのひとは、しあわせそうにツイートしている。
いつもどす黒い毒ばかり吐いているひとがいる。何か言わせれば他人の誹謗中傷と暴言が口をつく。かといって、そのひとの人生が暗澹としたものであるとは限らないだろう。やさしい朝の光のなかで気持ちよさそうに伸びをすることもあるだろうし、電車のなかで隣りに座った赤ん坊に笑いかけることもある。
ぼくらのツイートする発言は所詮テキストだ。ある特定の瞬間にアウトプットされた文字にすぎない。しかしながらその文字をTLでつなげていくと、そのひとなりの人間性や傾向がみえてくる。人間にはアウトプットの特性や耐性があり、あるひとはしあわせな言葉が多く、あるひとは毒舌が多めになる。
「誠実に真摯に」を標榜するひとにも嘘つきは多い。誠実に真摯に対応することが他人を傷付けることがある。むしろ、正直に話さない嘘つきのほうが他人にやさしいこともある。どんな問いにも正解や不正解があるわけではない。善悪は表層的に判断されるものではない。善人が掌を裏返すことだってある。
発言や書かれたものではひとは判断できないということを前提に付き合うと、人間関係は随分楽になる。人間不信ではないが、一種の諦めとも妥協ともいえる。期待しなければ裏切られることもない。妄信しなければ隙を突かれることもない。人間関係には常に緊張(ストレス)が付きまとうものだと理解しよう。
■質問の技法。2013.01.16
質問されると怒るひとがいる。インタビュアーに対して「ノーコメント!」と吐き捨てて立ち去る政治家や芸能人がいる。答えないからといって彼らが不誠実なわけではない。質問をするひとが「失礼」なだけだ。どんな場合でも質問は相手に「回答」という「負荷」を負わせる。ゆえに質問は迷惑なのである。
コミュニケーションの観点から、優れた質問には三つの原則がある。第一に、相手が応えられる時間の余裕を設けること。第二に、ひとつの質問はひとつのテーマに限り、回答を待つこと。第三に、矢継ぎ早に次々と一方的に質問をぶつけないこと。この原則を外した場合には礼儀を欠いた質問になるだろう。
ある本で学んで以来、ぼくはメールなどで何かを催促するとき「送付していただけますか。」のように文末に「?」マークを付けないようにしている。「?」マークを付けてしまうと相手に強制的な圧力を感じさせ、負荷になるからだ。些細なこころ配りに過ぎないが、質問の語尾についても快くありたい。
幼児は「なぜ?」が大好きだ。「ねえママ、どうしてお月さまはまあるいの?」などの無邪気な質問をする。母親は「それはね・・・」と優しく答えてあげる。母親には許容性と余裕があるから応じてあげられる。しかし、なぜなぜなぜなぜ・・・が繰り返されると、母親も「うるさい!」と逆上しかねない。
好奇心から発生する質問は決して悪いものではない。といっても仕事の場面で、できるビジネスマンは質問をしながら答えを想定している。「・・・と私は考えますが、部長はどのようにお考えでしょう」のようにあらかじめ道筋を付けておけば、その後の対話がとんでもない方向に向かわなくなるものだ。
■わかる、ということ。2013.01.12
わかるひとは変われる。ここで「わかる」ということはアタマで理解することではなく身体と精神を含めた全体的でわかることだ。わかるということは一種の閃光的瞬間でもある。理屈ではなくセンスに関するものかもしれない。わからないひとにはその閃光が降りてこない。だからいつまで経っても変われない。
わからないひとには何がわからない障害になっているかというと、先入観などの固定観念かもしれない。定型的なフレームに囲まれた既成概念かもしれない。二〇代の若者は人生経験的にわからないことも多いけれど、思考が柔軟だから新しいものを理解する。スポンジのように新鮮な思考を取り入れる。
男性脳と女性脳の違いについて書かれた黒川伊保子氏の本を読んでわかったことがあった。女性は習慣的に責務を果たしている男性の行為を「大切にされている」とおもうらしい。洗濯物を干すとき「いつも」干しているからこそ妻は大切にされていると考える。持続しないことがなぜ怒りをかうのかわかった。
ずいぶん人生を重ねてきたが、まだわからないことが多い。しかし、わからないことが多い人生は楽しみが多いといえる。無知であることを素直に受け止め、決して恥じることなく、わかるときに降りてくる閃光を楽しみにしよう。ひととひとがわかり合えないことに可能性は宿る。それは絶望ではない。
わかるひとはしあわせである。わかりたい、理解したいという欲望がコミュニケーションの原動力にもなる。異質なものを排除したり畏怖したりしなくていい。異質なものに出会うときはチャンスである。いくつになってもわからないひとでありたい。したり顔で薀蓄などを垂れるのではなくて。
■オピニオン系ブロガーについて。2013.01.04
ネットメディアから配信される情報を仮に「報道系」と「オピニオン系」の2つに分けてみよう。報道系の情報は新聞社や記者などから配信され、速報性と信憑性が求められるために情報のチェックが厳重に入る。一方でオピニオン系のチェックはゆるい。著者の個性を際立たせた記事が喜ばれるからだろう。
最近、オピニオン系のブロガーや事業家が人気があるようだ。彼等はブログなどの独自メディアを持ち、ときには毒舌や辛口の批判などで炎上をさせながらも、若い世代を中心に支持されている。社会のカンフル剤として悪いことではない。しかし、プロなら発言の品質を考えたほうがいいと感じるときがある。
オピニオンを売りにするブロガーが「今月これだけ儲けました」「話題のあれをやってみました」というレベルの記事はつまらない。オピニオンでも何でもない自分語りと真似だからだ。「今年は嫌われ者になります」という宣言も失笑する。おずおず様子を伺わないで、とっとと嫌われればいい。
某テレビ番組の「1万円生活」のパクリで、ガラス張りのネットで自分の貧乏生活を晒してネタにする、という芸人的な生き方もあるかもしれないが、道化師であれば道化に徹するべきであり、道化師がオピニオンを語るのはうざったい。プロブロガーとして路上生活者になるぐらい体当たりで書いてほしい。
「オピニオン系」ブロガーは自分の身体を切り売りしているようなものであり、その態度が中途半端な場合、ぼくらは萎える。いずれ飽きる。別に成長は望まない。感情も情報であり、自暴自棄な生活も書けば情報になる。冷酷だが、ぼくらは情報に飢えている。そして、面白くなければ離れていくだけだ。
■毒を持つ、ということ。2013.01.18
岡本太郎氏の『自分の中に毒を持て』は、平凡な生きざまにインパクトを与える本である。安藤美冬氏もお薦めしていたことをどこかで読んだが、会社員から自由な世界に踏み出すための契機になったと評していた。既成概念を打ち破る破天荒な岡本太郎氏の発言は熱く、鋭利な刃物のように尖っている。
自分の中に毒を持て―あなたは"常識人間"を捨てられるか (青春文庫) 岡本 太郎 青春出版社 1993-08 by G-Tools |
中島義道氏の書物もまた独特の毒がある。彼の講演会後、精神に変調をきたした女子学生がいたというエピソードが語られているぐらいだ。しかし、その毒は常識や優等生気取りの社会を覆すものであり、ある意味ピュアな印象さえ受ける。彼の書物を貪るように読んだ時期があり、ほぼコンプリートした。
私の嫌いな10の人びと (新潮文庫) 中島 義道 新潮社 2008-08-28 by G-Tools |
悪口で他者を傷付ける、毒舌である、物言いが辛辣である、という表層的な言動が「毒を持つ」ことではない。社会一般の優等生的な常識に流されず、自分がおかしいと考えることに誠実に向き合う、正しいとおもったらリスクをともなうマイナスの道であっても選択する生き方が毒を持つということだ。
暴言を吐いて、特定の個人に食って掛かるような人間に毒があるとおもわれがちだが、そんな狂犬のような人間には、実はホンモノの毒なんてない。ただ、臆病だから他者を威嚇して自分の不安を慰めているだけである。ホンモノの毒は、生きざまに凄みとしてあらわれる。毒のある人間はおそろしく強い。
他者を見下す人間は傲慢で愚かである。ほんとうに自分より上の人間なら傾聴もするが、体裁だけ偉ぶった人間の言葉は聞くに値しない。最近、若者を見下したり、考え方の相違に執拗にこだわってdisってみるなど、そんな発言をネットで多く読んで呆れている。いまのネット社会には毒がない。
■徳とお金とエンターテイメントと。2013.01.19
与沢翼氏が話題になっている。29歳。株式会社フリーエージェントスタイルホールディングス代表取締役として情報商材ビジネスで年商12億円を稼ぎ、住居はミッドタウン最上階、愛車はロールスロイス、フェラーリ、ベントレーという「ネオヒルズ族」だそうだ。最近テレビなどのメディアに頻出らしい。
良識者の方々から顰蹙をかうかもしれないが、ぼくは与沢氏は「面白い」とおもう。クラウドファンディングに投資するならゴルフ用具買えばよかったとか、年収150万円で生活するとか、ルームシェアでも人生楽しめるとか、そんなちまちました話に比べると格段に面白いひとである。突き抜けている。
与沢翼氏は堀江貴文氏と比較されることが多いようだが、似ていてまったく異なるタイプだとおもう。しかし「儲けること」に対する執着はお二方とも強そうだ。日本では金儲けの成功者を嫌い、「徳」を重視し、出る杭を打とうとする。でも、いいんじゃないかな。社会と経済のために「成功者」は必要だ。
急速に成長する事業にはたいてい穴があるものだし、没落するリスクもある。ぼくは「徳」を重視し、結果はもちろんプロセスにも矜持を正すべきであると考える。しかしながら、物事は簡単に善悪や正誤の判断で裁くことはできない。社会を賑わすという意味では、与沢翼氏は良質なエンターテイナーである。
「徳」だけでしばられた世の中は窮屈だ。ときには「毒」も必要だ。萎縮しがちでちいさくまとまる日本の経済と社会において、不真面目かもしれないけれど、与沢翼氏のような存在は強烈なカンフル剤になる。かといってぼくは情報商材は要らないし、彼のような金持ちにもなりたいとはおもわないけどね。
スーパー フリーエージェント スタイル 21世紀型ビジネスの成功条件 (角川フォレスタ) 与沢 翼 角川学芸出版 2012-09-25 by G-Tools |
投稿者 birdwing : 2013年1月21日 18:03
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