« 毒を持つ、ということ。 | メイン | アイコンのからくりと、ソーシャルメディア。 »

2013年2月10日

一回性のドラマという愉しみ。

■■イベント情報■■
おはようの一皿、365日。
ちょっと風変わりな展覧会を開きます。展示するのはスープの写真。私が毎朝作り、家庭の食卓に出してきたスープです。
+++



物語というのは(大袈裟に言ってしまえば人生も同じですが)原則としては巻き戻せないもので、時間軸の上に沿って進行していきます。

難しいことを言ってしまうと「不可逆的」でしょうか。人間の発話する言葉も同様であり、リアルな世界においては言ってしまったことを消去できなければ、逆回転させることもできません。書かれた物語は何度も読み直すことができるけれど、最初に読み進めるときは一回性のもの。とはいえ物語も人生も発話も、取り返しのつかない一回性のものだからこそ尊いともいえるでしょう。

さて、1月19日から毎週土曜日の午後9時に日テレで放映されている『泣くな、はらちゃん』というドラマを観ています。土曜日が来るたびに、今週はどんなはらちゃんに会えるのだろうという「一回性」の気持ちでわくわくしながら観ています。今週で4回目でした。公式サイトはこちらです。

■「泣くな、はらちゃん」公式サイト
130210_泣くなはらちゃん.jpg


ぼくはドラマどころかテレビ自体をあまり観ないほうなのですが、TOKIOの長瀬智也さんが出演されるドラマが好きで、石田衣良さん原作の『池袋ウェストゲートパーク』もレンタルでDVDを借りてきたら面白くて次々と借りてしまったし、『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』も(新垣結衣さんが出ていることもあったけれど)毎回観ていました。長瀬智也さん出演のドラマは期待外れがない気がします。彼だけにしか演じられないキャラクターを演じているからかもしれません。

B00005HNT7池袋ウエストゲートパーク DVD-BOX
ジェネオン エンタテインメント 2000-10-25

by G-Tools
B000NJWNLWマイ★ボス マイ★ヒーロー DVD-BOX
大森美香
バップ 2007-04-25

by G-Tools

『泣くな、はらちゃん』も、長瀬さんらしいドラマだなあ、とおもいました。というのも、脚本家の岡田惠和さんが長瀬智也さんをイメージして書き下ろしたものだそうです。なるほど、長瀬さんの魅力を最大限に活かすように作られたわけだから、世界観がびしっと嵌っているわけです。

物語の主人公は、かまぼこ工場で働く薄幸そうな独身女性の越前さん(麻生久美子さん)。彼女は現実世界の不満などをマンガに書いて鬱憤を晴らしていますが、彼女の書いたマンガの世界に住む「はらちゃん(長瀬智也さん)」が現実の世界に飛び出して、ひとりの女性に恋をします。その女性こそが、自分のマンガを書いている越前さんでした。

はらちゃんはマンガの世界の人間なので、マンガに設定された古臭い居酒屋のちいさな世界のことしか知らず、現実の世界の「イヌ」や「ピラフ」に驚き、ひとつひとついちいち感動します。また、片思いという心理が理解できずに涙を流します。長瀬さんは、この赤ん坊のようなはらちゃんの純粋さを好演していて、毎回観ていて微笑ましくなります。

ドラマの挿入歌である「私の世界」も人気があるようです。歌詞と楽譜は公式サイトの「はらちゃんギャラリー/はらちゃんの歌「私の世界」の歌詞&楽譜」にあります。とてもいい詩なので引用させていただきます。

世界じゅうの敵に降参さ 戦う意志はない
世界じゅうの人の幸せを 祈ります

世界の誰の邪魔もしません 静かにしています
世界の中の小さな場所だけ あればいい

おかしいですか? ひとはそれぞれ違うでしょ?
でしょでしょ?

だからお願いかかわらないで そっとしといてくださいな
だからお願いかかわらないで 私のことはほっといて

いきなり「世界じゅう」という大上段から入って、かかわりを拒否するサビに落ちていく。しかし、どういうわけかそれが「つながり意識過剰」ともいえそうな現在の「世界」に住むぼくらを癒してくれるような気がします。この曲をかもめ合唱団に歌わせたところもいい。サウンドトラックのCDも発売されるようですが、携帯サイトでは着うたで先行配信されています。詳細は「はらちゃんの歌『私の世界』(かもめ児童合唱団ver)」にて。

B00AQC2QWC「泣くな、はらちゃん」オリジナル・サウンドトラック
井上 鑑
バップ 2013-02-20

by G-Tools

はらちゃん自体は越前さんに恋をしたがゆえに、執拗なくらいに(でも純粋に)越前さんにかかわろうとするのですが、そんなはらちゃんの歌は越前さんの気持ちを反映して「ほっといて」になっている。それが、かもめ児童合唱団の子供の声で歌われると、ひねくれたような感じで和みます。

同じメロディで歌詞だけかえて「清美の歌「初恋は片思い」」にもなっています。ドラマのなかでは忽那(くつな)汐里さんが歌っていて、こちらもいい感じ。忽那さんが演じる紺野清美はツンデレぶりがかわいいですね。

マンガの世界の中は「永遠」ですが、現実の世界に飛び出した途端に毎回新しいものに出会う「驚き」と、自分の「意志」ではどうにもならない出来事がある。はらちゃんと同様に越前さんも恋をすることによって変わっていきます。そうしてドラマを観ているぼくらも変わる。毎回(厳しいところをいえば4回までは、ですが)新しい気持ちにさせられる。そんなところがいいなあとおもいます。

今後ドラマはどう展開していくんでしょうね。黙っておけばいいことかもしれませんがつぶやいておくと、薬師丸ひろ子さんの演じる矢口百合子が、越前さんの大好きなマンガ家の矢東薫子だとおもうんですよね。えーと、観ているひとには薄々気付いていることかもしれないけれども(苦笑)

というわけで、ドラマのお話は終わり。ここから先はコラムです。ぼくは気が向いたときにTwitterで140字×5回を目安にコラム的なことをつぶやいています。
1月中旬から2月初旬までの「Twitter Column」をまとめました。どうぞ。


+++++

TC_01.jpg
アクティブサポートの重要性。2013.01.29

現在、ぼくがマーケティングで注目しているのは「アクティブサポート」である。TwitterなどのSNSでつぶやいた製品やサービスに関する言葉を企業がウオッチし、「企業側」から声をかける。通常サポート業務は「インバウンド」だが、積極的に顧客などに接するアプローチである。

アクティブサポートについては河野武氏の『Twitterアクティブサポート入門』という本に詳しい。サイトから抜粋すると「疑問や不安、ときには不満を抱えている消費者をソーシャルメディア上で発見し、企業自らが能動的に、彼らに直接語りかけることで問題解決を図るもの」とまとめられている。

4844330748Twitterアクティブサポート入門 「愛される会社」時代のソーシャルメディアマーケティング
河野 武
インプレスジャパン 2011-08-24

by G-Tools

実際に、いくつかのアクティブサポートをぼくも体験した。たとえば人気ソーシャルゲームのなめこではツイッター上のキャラクターから感想に対する意見をいただいたし、シックス・アパート株式会社からは、質問として投稿していないにも関わらず設定上の疑問に解決方法をいただいた。とても嬉しかった。

購入を検討している見込み客の背中を押してあげたり、購買後の利用者の疑問に答えたり、アクティブサポートはさまざまな場面で活用が考えられるだろう。Get found(見つけてもらう)だけでなく、企業がアンテナを張り巡らして自ら顧客に手を差し延べる。新しい時代のマーケティングモデルである。

アクティブサポートには、高度なコミュニケーションスキルが求められるだろう。迅速に適切に、かつ「親切」な対応が必要になる。押し付けもいけない。顧客のこころを読まなければ対応できない。つまり、どれだけシステムが充実していても不可能で、アクティブサポートは人間の対応が重要なのである。


TC_02.jpg
ピュアであることについて。2013.01.30

ピュアであること、純粋であることは「残酷」である。ピュアな人間は他人を傷付ける。なぜなら純粋であるがゆえに自分の意志を尊重するからだ。他人の意志を尊重して妥協すること、汚れることを知らない。ピュアな人間はいつでも社会から浮いている。社会というものを知らないし、学ぼうとしない。

純粋であることは「悪」ともいえるだろう。不純であることが正しく善とされる世界において、ピュアである人間はいつでもはみ出している。抹殺すべき人間としてまっさきに吊るし上げられる。自分の感性に正直なだけなのに、だからこそ晒し者にされる。純粋であり続けることは、この世界では許されない。

不純物であふれたこの世界の澱みに、ぼくらは生きている。子供たちでさえ不純にまみれている。ピュアな人間は社会を変えようとはおもわない。自分のなかにある純粋なこころに従うのみだ。それが反感を誘うのは、だれもがほんの少しだけ、ピュアに生きたいと望む気持ちがあるからかもしれない。

干渉されたくないし、できれば動揺したくない気持ちがぼくらにはあるのだが、ピュアな人間は土足でぼくらのこころに入り込み、揺さぶる。ピュアな人間を嫌悪して罵るのは、それがぼくらを脅かす存在だからだ。攻撃の背後には身を守る怯えがあり恐怖が潜んでいる。不純であるほど純粋さを恐れる。

生成変化する世界のなかで、ピュアなものだけは変わらない。逆説のようだが、人間は変わっていくものに安心し、変わらないものに不安を抱く。永遠ではないからこそ安堵する。しかしながら、ピュアであることは永遠であり、未熟なまま維持されていく。ぼくらが純粋さを畏れるのはそれが永遠だからだ。


TC_03.jpg
140文字で可能なこと、不可能なこと。2013.02.05

ツイッターの制限文字数140字で「議論」は難しいかもしれない。しかし、自分の考えを伝えるのであれば、できないことはないとおもう。できないとすれば、書き手の能力がないだけだ。140字を数回連ねることが許されるとすれば、短いユニットを連結させてぼくらはかなりの内容を語ることが可能だ。

プレゼンテーションの能力に、エレベーターテストというものがある。シリコンバレーの企業家が投資家に売り込むための訓練だったそうだが、エレベーターに居合わせた30秒のあいだに相手に自分のアイディアを簡潔に伝えられるかどうかを問う。時間に合わせて伸縮させることができれば完璧だ。

文章を書くプロであれば、同じ内容でも数十文字のキャッチコピーから数百文字の記事まで自在に書きこなせるべきではないか。ただし、自分の意見であれば編集が可能であるが、他者との対話や議論はそうはいかない。議論や討論は互いの理解力などによって枠を超えることがある。すれ違いも起こりやすい。

特に日本の文化では議論や討論はハイコンテクストな認識の上に成り立つ。お互いにコードを共有していないと、まったく平行線の議論に陥る。このときコミュニケーションの上級者は相手のコードを読み解き、その範囲にみずから入り込んで語ろうとする。あんたとは話ができない!と憤るのは下級者である。

140字のやりとりで議論は難しいかもしれないが不可能とはいえない。思考の周波数をチューニングし、ハイコンテクストな文脈を共有できれば、短いメッセージのなかに多くの意味を込めることもできるのではないか。ソーシャルメディアの時代には、そんな高度なコミュニケーションが求められている。


TC_04.jpg
とても残念なイケダハヤト氏の言動から学ぶこと。2013.02.10

いまネットの界隈では、やまもといちろう氏とイケダハヤト氏の「交流」が話題になっているようだ。はしょって経緯を書くと、お互いの「意見交換」の後に、会ってお話しましょう、対談イベントをやりましょうということになったが、実施の条件が複雑過ぎたために進捗が滞ってしまったようである。

イケダハヤト氏が毎回書いている頼りないブログを読めば、ブログがこの程度ならイベントの仕切りなどこの若者に任せてもぜったい無理、と直感でわかる。家入氏なら「逃げろ」とアドバイスしたところだが、イケダ氏は条件付きで引き受けた。が、実はやるつもりなどなかったのではないかと推測する。

要するにイケダ氏の取ったのは「かぐや姫の3つの問題」作戦である。結論としてはイケダ氏はイベントをやるつもりはない(できない)のだが、200人規模だとか数百万の寄付だとかいう条件を張り巡らせて、イベントが不可能なことを自分の無能ではなく、条件のせいにしようと画策したわけだ。

イケダ氏が本気で200人規模の寄付を前提としたイベントを企画し、実現を想定していたら、話があった時点で外部協力会社にアウトソーシングすることが賢明だったろう。また、マーケッター的な視野があれば、日程・場所・人数・費用・運営体制のうちのプライオリティ(優先順位)もわかるはずだ。

やまもといちろう氏とイケダハヤト氏の件に関しては「何も箱を借りなくてもUSTでいいだろう、どこかの喫茶店の片隅で対談やっちゃえばいいじゃん」というのが自論である。というのは炎は熱いうちが旬であり、日程が優先だから。逃げようとするから行き詰まる。ビジネスには覚悟が必要なときがある。


TC_05.jpg
ドラッカーに憧れて。2013.02.08

ピーター・ドラッカーといえば経営学の父である。フューチャリスト(未来学者)と呼ばれたともいう。彼の本は8冊ほど持っている。そして彼の本を読んで非常に衝撃を受けたことがあった。それは愚かしいことだが内容ではなく『ポスト資本主義社会』を83歳のときに執筆したということだった。

447800210Xドラッカー名著集8 ポスト資本主義社会
P・F・ドラッカー 上田 惇生
ダイヤモンド社 2007-08-31

by G-Tools

80歳になったことがないのでわからないのだが、いったいひとは『ポスト資本主義社会』のような若々しい文章を80歳で書けるものだろうか。ドラッカーにはかなわない、とおもった。同時に元気を与えてもらえた。ドラッカーのようになれば、80歳になっても若々しい思考を保てるのだと。

ビジネスでは実績が重視される。現場にいないものは嗤われる。しかし、ぼくは実績はともかく、現場にいないからこそみえてくるものもあると考えている。もしドラッカーが経営者であったならば、あれほど若々しい思考を保ち、経営を俯瞰した見事な執筆活動には勤しめなかったのではないだろうか。

夏目漱石は教師や新聞社勤めをしたのちに作家になった。ぼくは漱石にはそんな「道草」があったからこそ、すぐれた文豪になったのではないかとおもう。人間を理解する上では世間という泥の上を這い回らなくてはいけない。しかし同時に、泥にまみれた地上から離れ、天上から地上を見渡すことも必要だ。

漱石とドラッカーを同一視することはいかがなものかと疑問だが、社会や人生を俯瞰するひとは、ときには「現場」から離れていたほうがよい。クリエイターは生活と切り離されている必要がある。若さから遠ざかったときに生まれる思考もある。だからこそ人生を半分降りた「老い」が面白くなるのだろう。

投稿者 birdwing : 2013年2月10日 10:35

« 毒を持つ、ということ。 | メイン | アイコンのからくりと、ソーシャルメディア。 »


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://birdwing.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/1316