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2008年7月31日

技術をどう開発するか、伝えるか。

技術の進歩に関心があります。新しもの好きということもあるのだけれど、いま使っているコンピュータがもっと使いやすくなってほしいし、こいつはすげーっ!というような何かが生まれてほしい。21世紀に生きているのだから、変化の過程を堪能したい。ロボットはもちろん、ブログのように技術を含めた文化の行く末も追いかけていきたいと思います。追い回されないように気をつけながら。

たとえば、iPhone3Gの登場で注目を集めているタッチパネル。手で触れるなど直感的なインターフェースに、ぼくは個人的な関心があります。「指で触れる、操る。」のようなエントリーで、マイクロソフトの「Microsoft Surface」について書いたこともありました。

面白いなと思ったのは、マイクロソフトが公開した球面コンピュータ「Sphere」です。映像を見たほうが早いと思うのでYouTubeから。

■Microsoft Surface Sphere

水晶玉を操っている占い師あるいは魔法使いのようなイメージも重なるのですが、写真などのイメージを指先で操作し、ぐっと押すと反対側に飛ばすこともできるらしい。これは、反対側にいる別のひとに「ほら、これ見てよ」というようなコミュニケーションをするときに使うようです。

CNETJapanの「MSの球面コンピュータ「Sphere」--研究者が語る将来性」の記事から引用します。

Microsoftは独自に球体コンピュータの概念を追求してきたが、ハードウェアの研究は単独では難しいと結論づけた。そこで、美術館、博物館での展示やマーケティングディスプレイなどの用途ですでに球体コンピュータディスプレイを市販しているGlobal Imaginationのテクノロジを取り入れることにした。「Magic Planet」という名前で知られている球体ディスプレイは、直径16インチ(約40.6cm)から高さ6フィート(約1.8m)まで、さまざまなサイズがあり、アクリル製で、特殊コーティングにより、投影された画像をくっきりと表示できる。

独自で開発ではなく、既に開発しているところの技術を取り入れるところがマイクロソフトらしいと思いました。しかし、この記事に書かれているように、面白いんだけれど一体どこに・・・という困惑があります。

最近、デジタルサイネージと呼ばれる屋外広告の話題も聞きます。液晶などによって屋外広告で動画などでみせる設備が生まれていますが、それに近い用途でしょうか。しかし、実践的な開発というよりも、どこか注目を集めるための奇抜なプロトタイプ(試作品)に目的がある気もしています。人寄せのような意図ばかりが感じられて、いまひとつ疑問がある。

「Sphere」の技術はちょっと現実離れしている気がするのですが、マイクロソフト関連でもうひとつ面白いなと思ったニュースは「Mojave」プロジェクトでした。サイトも洒落ています。50人を越えるユーザーの動画のサムネイルが表示されていて、マウスを動かすとウェーブする。楽しい。

■The "Mojave Experiment"(英語)
http://www.mojaveexperiment.com/
080731_mojave.jpg

Windowsの最新OSはVistaですが、Vistaに関しては使いにくいという悪評が多い。会社でもいまだにXPの機種が多く、売れ行きも芳しくないということも聞きます。

このMojaveというプロジェクトは、ちょっとドッキリカメラっぽいのですが、「マイクロソフトの新しいOSを使ってみてくれませんか」ということで、いろんなひとに使ってもらいます。その結果、ほぼ9割を超えるひひとに、すげーっ!という声をいただくのですが、実は・・・。

その後、テスターのみなさんが使っていたOSはVistaだった・・・というタネあかしがされます。広告にも似たようなものがありますが、これは広告代理店を使わずに、マイクロソフトが自ら試みたテストをまとめたものだとか。コーラの宣伝だったかと記憶しているのだけれど、銘柄を示さずに「どちらが美味しいと思いますか?」という声を聞く手法にも似たところがありますね。

やはりユーザーあっての技術なのだな、と思いました。ユーザーの声に勝る広告はない、とも。

とある事例制作のコンサルタントの方が、映画のCMで「○○サイコー!」という試写会の参加者の声がわざとらしくて効果がないのではないか、実際に映画を観たひとはサイコーなんていわない、という考察をされていました。確かにそうかもしれません。ただ、臨場感を伝えることはできると思います。

答えを誘導するような質問によって無意識のうちに言わせるように仕向けた言葉ではなく、ユーザーが自発的に語った言葉は強い。それがネガティブな意見であっても、「Vistaはひどい」というようなマイナスの言葉があるからこそ、よいという評価も真実味を帯びるのではないでしょうか。もちろん、この動画がやらせではないことが前提ですが。

CNETJapanの「「Vista」復権計画--MSの「Mojave」プロジェクトとその背景「から次を引用します。

 「今後数週間以内に、Microsoftの顧客がWindows Vistaに対して抱いているかもしれない根強い不安感に対処するキャンペーンを開始する。さらに2008年中に、顧客にとってのWindowsの意味および価値を再定義する、より包括的な活動を行う」(Ballmer氏)
 しかし、Mojaveプロジェクトの力となったのは、Vistaは不当に悪く言われていると語るBallmer氏を初めとするMicrosoftの社員ではなく、一般の人たちだ。
 数年前のAppleの「リアルピープル」キャンペーン、Folgersなどの昔ながらのコマーシャルを思い起こさせるMojaveプロジェクトは強い武器になるかもしれない。

iPhoneの快進撃によりMacの売り上げも伸びているとか。マイクロソフトとしては、アップルに対抗するキャンペーンやプロモーションが重要になってきます。しかし、単なるイメージ戦略ではなくユーザーに語らせるという手法のほうが効果的ではないかと思いました。

ブログのようなCGMの場でもVisitaを擁護する動きがあれば面白いのですけれどね。これもまた広告のプロによって作られたイメージや、意図的な「やらせ」ではなく。

投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

2008年7月30日

「ゆるみ力」阪本啓一

▼Book:現実を直視すること、蓋を外すこと。

4532260078ゆるみ力 (日経プレミアシリーズ 7)
阪本 啓一
日本経済新聞出版社 2008-06

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阪本啓一さんといえばサラリーマン時代に翻訳したセス・ゴーディンのマーケティング書「パーミションマーケティング」がヒットして、独立および起業された方です。もとから偉いコンサルタントだと思っていたのですが、40代過ぎまで、ふつうに企業にお勤めだったことを知って愕然としました。

阪本さんの書かれる書物は、あたたかい。ご自身の体験をもとに情に訴える箇所が多いので、肌に合わない方もいるかもしれません。しかし、うがった視点ではなく、ストレートに読むと気持ちよいものがあります。どこかのアタマでっかちのコンサルタントが書いた本よりも心に染みる。ぼく自身は、阪本さんの本では、「マーケティングに何ができるかとことん語ろう!」 を読んだことがあります。こちらも上から目線ではなく、語りかけるスタンスで書かれた本であたたかい。

というのはやはり、阪本さんがさまざまな辛い思いをしてきたから、ということにあるかもしれません。

誰もが複雑な社会のなかで複数のペルソナ(仮面)を持っています。けれども、その仮面を崩さなければならないときがある。「見たくない現実」を直視しなければならない。けれども、このペルソナが崩れるときにきちんと向き合うことが重要である。そう阪本さんは書かれています。

ここまで書いてしまっていいのか、と思うぐらいに無防備に自分の弱さを晒す阪本さんの文章は、読んでいてとても辛い箇所も多い。たとえば人間関係で薄い関係しか作れなかった阪本さんが、その原因を、子供の頃に浮気で離婚したご自身の父親にあるということに気付くところ。48歳のときだそうで、わずか2年前という最近のことだそうです。長いのですが以下、引用します(P.70)。

両親の離婚の理由は父の浮気だ。しかし、ぼくは父を恨んだり、怒りの感情をもったりしたことがなかった。ずっと、ニュートラルな気持ちでいた。しかし、これらの平たい気持ちは、こころの地下水脈に流れる本当の気持ちに蓋をしていたからに過ぎなかった。四八歳の誕生日、友人たちがレストランで祝ってくれて、夜遅く帰宅した。楽しかった夕べの余韻を感じながら、居間で家人と雑談していた。何かの拍子に、父の話題になった。家人が聞いた。それは直球ストライクど真ん中の球だった。

「本当に、お父さんいなくて淋しくなかったの?」

いつもならニュートラルな感情のはずが、その夜は、どういうわけか、ポン、とこころの地下水脈の蓋が取れた。あまりにど真ん中へストライクが入ったから。蓋の取れた途端、「おとうちゃんがいなくて淋しかった!」「おとうちゃんに甘えたかった!」「おとうちゃんに相談したいことがいっぱいあった!」などの幼児のような感情が噴出してきた。漢字一文字で表現するなら、「淋」。地下水脈のこころが一気に溢れ出し、それは涙となり頬を伝って、口からは号泣の声が轟々と飛び出した。


泣けました。大人になるということは、さまざまな感情に蓋をすることで、けれども蓋をすることによって過剰に問題を避けたり、こころの深いところでは辛いのに楽しそうに繕ったりもするものです。しかし蓋をした感情は、積もり積もって大きな痛みとなる。蓋を取ってしまうことは怖いのですが、誠実に問題を直視し、向き合うことで、はじめて「ゆるむ」ことができる。この考え方に共感します。

だからこそ、すべてに意味があり、自分の弱さも過去も全部肯定できるのであって、誰かに嫉妬や猜疑心に苛まれることもなく、自分の人生をきちんと生きることができるのでしょう。自分の弱さを認めることは負けではないし、マイナスではない。弱さを認めてしまえば、肩の力も抜けます。頑張らなくてもいい。そのままでいい。

スローライフという言葉も聞かれますが、結局のところスタイルやファッションではなく、こころの在り方に拠るところが大きいと思います。どんなに田舎で解放的な生活に変えても、オーガニックな生活に変えても、こころがゆるんでなければ根本的な解決にはならない。そして、ゆるむためには逃げるのではなく(厳しく辛いこともあるけれど)根本的な問題や現実に向き合い、蓋をされて隠されている感情に向き合うことが大切です。

ところで、個人的には健康面で「経皮毒」について書かれていることが参考になりました。経皮毒とは、「日用品に含まれている化学物質が皮膚を通して浸透、体内で有毒な作用を引き起こしたり、蓄積すること」だそうです。健康に気をつけているひとであれば、ふつうに知っていることかもしれませんが。以下、引用(P.217)。

子宮内膜症と診断された女性が、医師の治療を受けても一向に良くならず、友人の薦めで無添加のシャンプーとリンスに変えたところ、どんどん痛みが減り、一年で治ってしまった事例がある。
また、女子中学生が無添加のシャンプー、リンスに変えただけで、生理痛が激減した事例もある。
私は家庭内で食器洗いの担当なのだが、無添加の食器洗い石鹸を使ったおかげで、この冬は手のあかぎれやひびわれがなかった。

これもまた、現実を直視し、ほんとうに問題となっているものの蓋を取り去ることで、ゆるむことができる実例なのかもしれません。そして、正しい知識を得ることがゆるむための近道となります。

とはいえ、最近、公務員の不正が発覚したり、電車の駅員さんが寝坊して切符が買えないようなことがあったり、社会全体がどこかゆるみがちな気がするので、しゃきっとしなきゃならないところはしゃきっとすべきだと思いますけどね。頑張っているひとにはゆるみ力は大切ですが、社会全体には「しまり力」が必要ではないか、と思ったりしています。7月30日読了。

+++++

■関連図書

4881358057パーミションマーケティング―ブランドからパーミションへ
Seth Godin 阪本 啓一
翔泳社 1999-11

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4534035624マーケティングに何ができるかとことん語ろう!
阪本 啓一
日本実業出版社 2003-03-26

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投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

2008年7月29日

ライメイに夏の音を聴く。

帰宅後、ネクタイを緩めているうちに窓の外に一瞬の閃光があり、しばらくすると轟音とともにばらばらと雨が降ってきました。はー危なかった。あと10分、駅から自宅までの途中でコンビ二に立ち寄ったり書店で本を探していたり道草をしたら、土砂降りの雨にやられるところでした。間一髪です。濡れないままで家にいる自分が、うれしい。

ごろごろというよりも、しゃきーんとかぴしゃーんというホワイトノイズな雷鳴を聞きながら、ぼくが思ったのは、ああこれ録音したいな・・・と(苦笑)。

ビョーキですね。最近またフィールドレコーディングだとか、シンセでは作れないような自然の音に惹かれているせいでしょうか。もちろん土砂降りの雨のなかでは、そんな悠長なことは考えられなかったと思いますが、安全な家のなかで聞いていると、そんな欲も出ます。

カミナリの音は夏らしい音のひとつです。ライメイ(カタカナもまた鋭さがあってよろしい。なんとなくぎざぎざな雰囲気もある)が鳴って、雨が窓を叩く。夕立の時間には遅すぎたのだけれど、空気中の湿度が一気に雨で拡散して、あわてて通りを走るひとがアスファルトの水を散らかしていったりする。音だけでも、そんなイメージを想起させてくれます。

ところで、次男くんが入院しているときにも病院から外に出ると、空がイナヅマで光っていたことがありました。雨は降らずに静かに夜空が時折光って、遠くの方で雷鳴が聞こえる。なかなか見られない光景です。天空ショーのようなところもあり、帰宅するのも忘れてしばし空を眺めていたのですが、ケータイで撮れないかと思い、動画を撮影してみました。

ケータイで動画なんて撮ったことがないのでちいさな画像になってしまったのですが、暗い夜空がときどき光ってみえる。この映像は、親しいひとりに見せただけですが、YouTubeなどにアップすればみんなで楽しめるかもしれませんね。といっても、ぼくのケータイはdocomoで、保存される動画ファイルといえば3GPP。WMVだとかmp4に変換する必要があるのではないか。きっとコンバーターなどがあるのだとは思うのですが。あるいはYouTubeは携帯からそのままアップできるんだっけ。

などと考えつつYouTubeを検索していたら、いろんなイナヅマ映像がありました。ぼくがみたカミナリはこんな感じでした。

■飛行機から見た雷雲

どわー!次のは怖い。楽しめない。

■距離200m 落雷の衝撃的瞬間

Wikipediaの「」には詳細に雷について書かれています。なかでも、ほう!と思ったのが雷対策です。ロケットやレーザーによって雷を誘導する対策もあるらしい。また参考になるのは、以下の野外の場合の対策です。

地面に落ちた雷は、ある程度の距離ならば地表を伝わってきて、人は強い衝撃波を受ける。この時、足を開いていると「片脚>胴体>反対の脚」と体内を電流が流れ感電する可能性が高くなるので、脚は閉じているほうが良いとされている。更に、身をできる限り小さくして座ると効果はあるとされている。

ぴかっと光ったら、どっひゃーみたいな感じ(言葉ではうまく説明できない)で足を開いていちゃダメですね。丸くなりましょう。以下は雷に関する関連リンクです。

■ウェザーニュースの雷チャンネル
http://weathernews.jp/thunder/

■雷なんでもサイト
なんと写真の撮り方まで解説されています。
http://www.sonosaki-tech.com/kaminari/

■GIGAZINE
地震・雷・火事・親父のうち一番死亡確率の高い物はどれか

http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20070213_dieodds/

カミナリは二番目でした。やっぱりカミナリ怖い。おへそを出しているとカミナリ様に取られるなどとも言われましたが、カエルのような両生類になるのもどうかと思うので、カミナリに注意しましょう。カミナリが落ちるところを撮影しようとして命を落としてしまっては何にもなりません。外出時には十分にご注意ください。

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■8月14日追記

ぽろりさんに教えていただいて、QTConverterで動画を変換してPicasaにアップロードしてみました。ちいさい動画ですが、イナビカリが見えると思います。

イナビカリ

投稿者 birdwing 日時: 23:55 | | トラックバック

2008年7月24日

シルク

▼Cinema:残響が奏でる愛のかたち、なめらかに溶け合う文化。

B0015HPZM0シルク スペシャル・エディション
マイケル・ピット, キーラ・ナイトレイ, アルフレッド・モリーナ, 役所広司, フランソワ・ジラール
角川エンタテインメント 2008-05-23

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音楽にしても映像にしても匂いにしても、聴覚や視覚や嗅覚でありながら手触りのような触覚として感じられることがあります。ごつごつとした荒削りな音、あるいはきめ細かに織られた布のような映像、そして陽だまりのようなあたたかな匂い。分化して考えられがちな五感ですが、根幹となるものは同じなのかもしれません。ときには分かちがたい塊のようなものとして、五感の全体を刺激する感覚もあります。

「シルク」は、距離を越えた愛の遍歴を描いた映画です。19世紀、フランスの片田舎に住むひとりの青年エルヴェ(マイケル・ピット)が貿易商となり、蚕の卵を求めて世界の果てといわれていた日本へ渡る。そして、そのときに出会った女性(芦名星)の面影が忘れられなくなり、妻(キーラ・ナイトレイ)を残して、危険を省みずに何度も日本に足を運ぶことになります。

日本、カナダ、イタリアの合作とのことですが、ぼくが感じたのはフランス映画のような独白による耽美的な映像をベースに、イタリア映画のからっとした明るさと切なさをスパイスとして、日本の凛としたモノクロの情緒性で引き締めたという印象を受けました。物語だけを追っていくと単調であり、奇抜な筋もなければ大きな起伏もありません。けれども静かに心に残るものがある。美しい映像と音楽に浸ることができます。

ところで、外国からみた日本は、偏向したレンズを通して実体以上に高く評価されていることが多いと思います。時代性もあるのかもしれませんが、多くの外国映画で描かれる日本像は、ほんとうにかっこいい。男性は毅然としているし、女性はしなやかで美しい。この「シルク」でも同様のことを感じました。江戸時代のちょんまげはおかしいけれど、武士や娘たちの寡黙だけれど強い意思を感じさせる姿には、高い精神性を感じました。

もちろん映画のなかだけでなく、現在の日本にも、映画で描かれたような日本独特のよさは消えてはいないと思うのですが、諸外国に対して萎縮しているような弱さがあります。日本語という言語が、最終的に日本を守るというような提言をしていたのはドラッカーであると記憶しているのですが、和の文化について自信を持ち、古き日本の伝統を継承していく必要があるのではないでしょうか。

音楽は坂本龍一さんが担当されています。山間の温泉など、どちらかといえば色彩がないモノクロな日本の叙情に合ったピアノが美しい。YouTubeから坂本龍一さんのエンドロールの音楽を。

■Ryuichi Sakamoto - SILK ENDROLL 2008

映画の音楽を聴きながら、あらためて思ったのは、坂本龍一さんの奏でるピアノの美しさは、残響音の美しさにあるのだな、ということでした。

シンセサイザーの用語で解説すると、音には波形を制御するいくつかのパラメータがあります。アタック、ディケイ、サスティーン、リリースというつまみで音の推移をコントロールできる、エンベロープ・ジェネレーター (Envelope Generator)と呼ばれる機能です(詳細は、WikipediaのADSR)。

ポーンと一音だけ鳴り響いた音を分解すると、「ポ」という音の立ち上がりのあと、「・・・ーン」と減衰して残響音が残っていく。音が音として認識されるのはアタックの強さだと思うのですが、この映画のなかで使われている坂本龍一さんのピアノは、どちらかというと「・・・ーン」の美しさが際立っている。

つまり減衰し、他の音と交じり合い、そして最後は胴鳴りというかピアノの箱が鳴っている状態。その空間に漂うような空気感が美しい。ぼくはあまりピアノの裏側をみたことがないのですが、弦とハンマーで作られているらしいですね。つまり張られた弦をハンマーが叩いて音を出している。弦を叩く瞬間ではなく、叩いたあとに始まる無音に向けた長い推移の時間が美しい。その音はピアノの帰属から木材の部分を伝わり、周囲の空間へ広がっていくわけですが、埃の舞う部屋のなかで音の粒子が消えていくようなイメージがあります。

文章に喩えると、言った言葉ではなくて、言わなかった言葉の美しさ、あるいは言葉が余韻を残す行間の美しさ、でしょうか。

さらにシルクのなかでは、貿易商が長い時間をかけてフランスから旅をして日本で女性に出会う。大陸を横断して、中国から海を渡り、目隠しをされながら蚕の密輸を許している村に辿り着くわけです。そこには愛しい女性がいます。長い人生のなかでは刹那ともいえる逢瀬の時間ではなく、フランスの片田舎に戻るまでの長い時間、そして妻と過ごしながらも遠い異国の地にいる女性に思いを馳せる長い懐古の時間の残響が、この物語の世界を深めています。

和紙に書かれた日本語の文字と、そこに込められた想いもせつない。一瞬の現実は確かに一瞬で終わるものですが、脳裏で何度も繰り返せば永遠に響きを残してくれる。書かれた文字は、記憶を再生するメディアとなる・・・。

そんな愛の在り方もあるのかもしれません(7月24日観賞)。

■Silk / Soie シルク Trailer (film)

■公式サイト
http://www.silk-movie.com/

080724_silk.jpg

投稿者 birdwing 日時: 23:55 | | トラックバック

2008年7月23日

音の愉しみ。

フィールドレコーディングに興味があります。ひとむかし前の言葉でいうと生録(ナマロク)ですね。ソニーにデンスケという名機があったのですが、少年のぼくはその録音機材が欲しくてたまりませんでした。しかしながら、入門機であっても確か5万円~10万円ぐらいしたデンスケは、少年のぼくには手が届かない憧れの機械であり、カタログをぼろぼろになるまで読んで想像を膨らませて愉しむしか方法はなかったことを切なく覚えています。ちなみに、メディアは何かというとカセットテープです。当然アナログの録音になります。

「珈琲時光」という映画で、浅野忠信さんが電車の音を録音することが趣味の青年を演じていました。映画自体は小津安二郎へのオマージュということで淡々としていて、あまり面白いものではありませんでした。けれども、黙々と電車の音を録りつづける姿が印象に残っています。YouTubeからその映像を。

■珈琲時光

かつてぼくは趣味でバンドをやっていたこともありましたが、楽器を弾くのが下手なので、いまはすっかり楽器を弾くことをやめて部屋に引き篭もってパソコンで曲を作っています。その制作方法が気に入っているのですが、いずれは外で録音した音を切り貼りして作品を制作するような、そんなスタイルに変えていきたいと思っています。

オンガクをはじめたきっかけや続けるモチベーションは、ひとそれぞれだと思いますが、憧れのアーティストのフレーズをコピーして弾くとか、楽器で目立って女の子にもてたいとか、そんな衝動がメインではないでしょうか。否定しないのですが、むしろぼくは作品ができればよかった。表現の手段として音楽があり、文章で代替されるのであれば小説や詩を書くことでもよかったわけです。

だから、ビートルズがライブ主体からレコーディング主体に変わっていき、その過程で逆回転や多重録音にはまっていった経緯はものすごくわかるし、そんな彼等の活動に興奮しました。音のコラージュ的な要素が強いホワイトアルバムは、ぼくにとっては衝撃的な存在でした。まあ少年のぼくには、正直なところよくわかりませんでしたが。

音といえば、面白いニュースをみました。7月31日まで、表参道ヒルズに期間限定でオトキノコというショップが開かれているとのこと。「「オトキノコ」が表参道に期間限定店」という産経ニュースでも読むことができますが、PRONWEB Watchでは店内の楽しい写真もみることができます。

■ウゴウゴルーガの世界が表参道ヒルズに突如出現!?
http://www.pronweb.tv/newsdigest/080711_otokinoko.html

藤原和通さんによるお店のようですね。以下、引用。

そのショップの名前は「オトキノコ」。1992年にフジテレビ系で放映され、サブカルチャーの情報発信源となった伝説的子供番組『ウゴウゴルーガ』にて「おとのはくぶつかん」を担当した藤原和通さんが店長を務める、音に触れられるショップなのだ。

音に触れられる、体感できるポータブル・ハンドフォン・プレーヤーもあるようです。ヒーリングの施設などでボディソニックのような振動で音を感じられる機械がありますが、そんな機能でしょうか。「ダヨン」というらしい。

ダヨンは微かな音から大きな音、低い音から高い音まで身の回りに溢れる様々な音を触ることができる“音のコミュニケーター”とのこと。当たり前のように聞いている音も、直接指で触れることで立体感を楽しむ事ができる…… のだが、こればっかりは実際に体験しないと面白さは分からない。

いろいろな音も売られているようです。なかにはムシの交尾音もあるらしい(笑)なんだろう、それ。

“キノコが胞子をまく瞬間の音”や“虫が必死で交尾をする音”などもあり、恐らく他では手に入らないであろうラインナップが魅力だ。
読者の中には「虫の交尾の音なんて興味が無い」と思われるかもしれないが、これが虫の必死加減がリアルに伝わってくるもので、そんなに必死にならなくてもと思わず笑ってしまいそうになる。一度聞いたら病み付きになってしまうが、残念ながらこれも実際に体験しないと分からない面白さなのだ。

わはは。ムシが、あはん、うふん、交尾している音なのでしょうか。ムシにとってはお恥ずかしいことかもしれないけれど好奇心がそそられます。そんな音を録音するのもどうかと思いますけれどね(苦笑)。ちょっと思い出したのが、大江健三郎さんの「取り替え子(チェンジリング)」です。ひとが愛を営む音を記録した膨大なカセットテープを主人公が電車のなかで聴くシーンがあったかと思います。

どんな音だろうと気になっていたのですが、検索してサイトを発見。サンプルを聴くことができました。マメコガネの交尾の音が聴けます(照)。なんか、ドリルで、がががががと穿っているような音ですね。まあ実際に穿っているのだろうと思いますが、確かに必死だ。シロサイのおならとか、ジャングルの早朝の音などもある。臨場感があって、楽しい。以下のサイトになります。

■オトキノコ
http://www.otokinoko.com/

080723_otokinoko.jpg

ダヨンの機械もみることができます。「音の40%は振動で聞いてる」らしい。知らなかった。

オンガクは音を楽しむと書きますが、曲を聴くことはもちろん、まだまだぼくの知らない音の愉しみ方がありそうです。

投稿者 birdwing 日時: 23:50 | | トラックバック

2008年7月22日

魔法にかけられて

▼Cinema:結婚について考えさせられるファンタジー。

B0019BE320魔法にかけられて 2-Disc・スペシャル・エディション
エイミー・アダムス, パトリック・デンプシー, ジェームズ・マースデン, ティモシー・スポール, ケヴィン・リマ
ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント 2008-07-18

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絵本のなかの世界と現実世界が同期する・・・そんなテーマで思い出すのは、ミヒャエル・エンデの「果てしない物語」なのだけれど、考えようによっては、世界というのは各自のアタマのなかに存在するので、仮想や架空の世界であっても、きちんとした現実の一部なのかもしれません。

当然のことながら、手に触れられるものだけが現実ではない。誰かの気持ちは触れられなくても、そこに存在しています。一方で、そこにはない他者の気持ちも、自分が思った瞬間に実体化するのかもしれません。疑うのも信じるのも自分次第。その結果として生まれる世界が自分の世界です。だから自分の心のなかにこそ、この世界を変える魔法がある。

と、なんだか哲学的な瞑想というか妄想に迷走しそうなので話をもとに戻すと、「魔法にかけられて」は、絵本のお姫さまが悪い継母の魔法で現実のニューヨークに追いやられて、その経験を通じて真のパートナーとは何かということを考え、成長していく物語です。ひとことでいえば、結婚とは何か(苦笑)について深く考えさせてくれるディズニー映画です。

ええと、ディズニーというところが結構重要かもしれません。トレイラーにはディズニーを超えるという宣伝文句もありましたが、なんだかんだいって、やはりディズニー的な世界観ではないでしょうか。よい意味でも、悪い意味でも、この映画はディズニーです。おとぎ話的な世界を否定するようでいて、結局のところ肯定しています。というよりも、逆に夢を持つことの大切さを説いている。

■魔法にかけられて


あらすじとしては、絵本のなかのお姫さまジゼル(エイミー・アダムス)が、継母であるナリッサ女王に井戸のなかに突き落とされてしまうのだけれど、その井戸の先には現実のニューヨークがあり、そこでバツイチで女の子もちの弁護士ロバート・フィリップ(パトリック・デンプシー)に出会います。彼には結婚を考えている女性がいる。ジゼルにもフィアンセの王子様がいて、お互いにパートナーがいるのだけれど、惹かれあう。惹かれあうのですが、ジゼルは助けにきた王子と絵本の世界に戻らなければならない・・・。

一度の離婚で懲りているロバートは、現実的な醒めた考え方を持っているのに対して、絵本の住人であるばかりか、さらにお姫さまでもあるジゼルは、夢見がちで世間知らずです。離婚したロバートが、離婚のために訪れた夫婦の裁判のために打ち合わせをしているのは皮肉ですが、話がまとまりそうなシリアスな場で、ジゼルは、なぜ別れてしまうのっ?このひとの目はこんなに輝いているのにっ(きらきら)というような無垢な涙を流して、その場をかき回してしまいます。

現実=ニューヨーク/理想=絵本の世界という対比があり、しかしながら実はどちらに対しても痛烈な批判を加えていきます。

フィアンセの王子様がいることを聞いて、「どれだけ付き合っているの?」と聞くロバートに対して「1日」とジゼルは応えるのだけれど、「1日で結婚を考えるか?ふつうは何度もデートをしてお互いを分かり合ってから結婚するものだ」という醒めたロバートの言葉が小気味よかった。絵本のお姫様にはデートという概念がないらしく、ロバートとデートしたあとで姫を追いかけてきた王子ともデートするのだけれど、そのシーンのぎこちなさも思わず苦笑、という感じです。

ジゼルが歌を歌うと、絵本のなかでは森の動物たちが集まります。ところが、ニューヨークでは鳩とかネズミとかゴキブリなどが集まってしまう(苦笑)。なかなかエグい場面で、なんとなくディズニーらしくない。ただ、これもエンターテイメントだけでなく都会の批判として観ると、かなり辛口な表現のような気がします。

子供たちといっしょに観ましたが、どうでしょう(苦笑)。長男は悪い女王がドラゴンに変身したときは喜んでいましたが、ロバートとジゼルのロマンスのときは映画も観ずにDSやってましたね。10歳ぐらいの女の子であれば、いろいろと思うところもあるかもしれない。いや、もし自分に娘がいたら、いっしょに観るのはどうかと思うなあ。

個人的には子供向けではないと思いました。はっきりいって昼ドラ的なロマンスではないでしょうか。やんわり言ってしまうと、大人向けのファンタジーです。

既婚者のぼくがロバートの視線からみると、既にパートナー(と決めたひと)がいるのに、歌ったり失敗をやらかしたり奔放で無垢な絵本から現われたお姫さまに惹かれてしまう、という気持ちはわからないでもないです。わからないでもないのだけれど、なんだかそわそわする。落ち着きません。結末は語りませんが、まあそうだろうな、と思いつつ、この物語全体がそもそもファンタジーであり、現実にはあり得ないよなあ(ふっ)と思ってみたり、すっきりしなかったり。ううむ。

だいだいですね、パトリック・デンプシーって地味なんだけど、何か妙な存在感がある。ちょっと軽めの恋愛もののコメディには、うってつけの俳優ではないかと思いました。あんまり好きじゃないんですけどね。と、デンプシーにやつあたりして終わってみることにしますか。きっとデンプシー困惑(8月20日鑑賞)。

■公式サイト
http://www.disney.co.jp/movies/mahokake/

080722_maho.jpg


投稿者 birdwing 日時: 23:27 | | トラックバック

2008年7月21日

[DTM作品] ouse(逢瀬)

うちの息子、次男くんは6月下旬から7月にかけて3週間ほど入院していたのですが、その間、会社には配慮いただいて定時で帰らせていただき、そのまま帰宅の途中に病院に通うようにしていました。病院の消灯時間は8時。早いときには7時、遅いときにはぎりぎりで7時半すぎに病院に到着して、ベッドで寝ている次男くんに会うことができます。

毎日かかさず病院に通っていました。誰に褒められるわけではないけれど皆勤賞です(記憶がないのだけれど)。病院までは徒歩では片道15分ぐらいかかり、往復で30分になります。へとへとに疲れ果てたときはタクシーを使ったり、自転車かっとばしたときもあるのですが、落ち着かない毎日のなかで病院で彼に会えるひとときは、たとえわずかな時間だったとしても尊い時間でした。彼に会ったあとで自宅に帰る前に、病院の地下1諧にある売店の前で缶コーヒーを飲むほっとタイムもまた、ぼくにとってはかけがえのない時間として忘れられません。

ところで、そんな状況のために慌しく過ぎ去ってしまったのですが、今月の7月7日といえば七夕。

織姫と彦星が1年のうちで一度だけ、天の川を渡って逢うことができるという天上の物語が展開される日です。そもそもこのふたり、結婚する前は働きものだったのですが、結婚した後にあまりの仲のよさのために織姫は機を織らなくなり、彦星も牛追いの仕事しなくなったようです。どんだけ仲がよかったのか・・・と思うのですが、天帝が怒ってふたりを天の川を隔てて引き離したとのこと(詳細は、Wikipediaの七夕を参照)。

七夕は、伝統的な遠距離恋愛かもしれない(笑)。映画では「近距離恋愛」というタイトルの作品も公開されたようです。予告編をYouTubeから。遠距離恋愛にかけているのだと思いますが、なかなかキャッチーなタイトルです。

そういえばパトリック・デンプシーが出ているディズニー映画「魔法にかけられて」を昨日観ましたが、こちらもなかなかせつないものがありました。

遠距離恋愛というものがどういうものか、あまりそういう経験の拙いぼくにはよくわかりません。しかし、離れていても通じ合う気持ちというのは強いものだろうと思うし、1年のうちの1日だけしか逢うことができないのであれば、限られた時間のなかでお互いに深く強く愛し合うことができるのではないでしょうか。毎日会うことができる間柄とは違った密度の高い時間を過ごせるような気がします。

時間は途方もなく永遠にあるような印象を受けます。会いたいと思えばいつでも会えるような関係、家族のようないつもいっしょに暮らしている関係であれば、ちょっとぐらい浪費しても大丈夫だろうと思うものです。けれども、何かが原因で遠く離れてしまったとき、お互いの価値を再確認できるのではないか。そして、会うことができる時間を大切に思うようになる。

と、長くなりましたが(苦笑)、そんなことを考えつつ久し振りに趣味のDTMで曲を作ってみました。息子の入院していた3週間は、まったくオンガクに触れない時間だったので、ほんとうに久し振りです。

タイトルは、「ouse(逢瀬)」としました。辞書によると、恋愛関係にある男女が人目をしのんで会うこと、だそうです。ちょっと恥ずかしい(照)。

しかしながら甘い印象だけでなく、せつなさ、激しい感情を曲調に込めたいと思いました。表現できているかどうかはともかくとして、ブログで公開してみます。


■ouse 逢瀬 (3分20秒 4.06MB 192kbps)

作曲・プログラミング:BirdWing


時計の音のような刻みのシークエンスで時間をイメージさせたいと思いました。影響を受けた音としては、ドイツのエレクトロニカユニットであるウルリッヒ・シュナウスでしょうか。そして、ギターの歪ませた音は、ウルリッヒ・シュナウスが影響を受けたというマイ・ブラッディ・ヴァレンタインあたりを意識しているかもしれません。いわゆるシューゲイザーです。弾かないで音源を切り貼りして制作しているのですが、テレキャスターを歪ませて、がこがこ弾きたい気分になりました。

B0007LLOVGFar Away Trains Passing By
Ulrich Schnauss
Domino 2005-11-01

by G-Tools
B000002LRJLoveless
My Bloody Valentine
WEA 1991-11-05

by G-Tools

リズムに関しては、若干ドラムのノイズが気になります。ローファイ志向ということで気にしないつもり(苦笑)。最近はいくつもフリーのWAVEファイルを切り貼りしてリズムを構成しているのだけれど、サンプルを選ぶ時間がものすごく長い。感性でチョイスしているのですが、もう少しシステマチックに制作できるといいなあというのが実感です。

天上の恋、七夕を意識したため、スペーシーな音像を作りたいと思っていました。そんなわけで空間系エフェクトとしてディレイを使いまくりです。途中でシーケンサーがメインになる部分では、フリーのVSTiであるCygnus-Oを重ねています。こんなインターフェースになっていますが、どこで拾ってきたか忘れました。

080721_cygnus.jpg

季節やそのときどきに感じたことを題材として、ブログを書くように曲を作り、ここで公開していきたいと思っています。制作方法は変わったとしても、10年ぐらい作りつづけるのが理想です。

織姫と彦星のあいだに流れるような、たゆとう時間の感覚でいろいろなことを継続していけるといいですね。ゆるゆると、ささやかなライフワークとして。

投稿者 birdwing 日時: 14:13 | | トラックバック

2008年7月19日

いまを生きる。

手垢のついたような言葉でもあり、あえていまさら言う必要もないかもしれないと思ったのですが、阪本啓一さんの「ゆるみ力」とリチャード・カールソンさんの「小さいことにくよくよするな!」を読みながら感じたのは、いまを大切にすることの重要性でした。

過去は過ぎてしまってここにはないし、未来もまだ来ないのでここにはない。楽しかったことであっても辛かったことであっても、過去の幻想に囚われすぎると現在のしあわせに気付かないし、未来の理想にこだわりすぎても、やはり理想と現実のギャップに凹むことになります。

いまここにあることを大切にして、いまできることを最大限にしていくことが大切ではないか。あれやらなきゃよかったなと思っても、やっちゃったことは取り返しがつかない。また、あとでやろう、あとで書こうと思うと、たいていやらなかったり書かなかったりするものです。であれば、やらなきゃよかったなと思うようなことをしなければよいし、やりたいと思ったことをすぐに着手すればいい。・・・という簡単なことができないから困るのですが(苦笑)。

阪本啓一さんの「ゆるみ力」では、冒頭でマイアミに旅行した際、帰りのチケットを購入した航空会社が倒産したというご自身の実際のエピソードを引用しながら、そのトラブルから学んだ教訓を述べられています。

4532260078ゆるみ力 (日経プレミアシリーズ 7)
阪本 啓一
日本経済新聞出版社 2008-06

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すなわち、旅行中はネットなどで情報を入手せずにシャットアウトしておいたことがよかった、知らなくてよかった。なぜならもし帰りの航空券が使えないことを知ったらマイアミで休暇を楽しむことができなかったから、とのこと。そして、次のようにまとめられています(P.17)。

どこか遠い未来ではなく、過ぎ去ってしまった過去でもない。「ゆるめない」理由はひとえに、「心ここにあらず」が原因だ。せっかく心が今・ここにあるというのに、見えない未来、あるいは過ぎちゃった過去へと心を「送信」してしまう。心は今・ここではないとゆるめない性質を持っている。今・ここ以外に送信されてしまうと、固まる。これが「ゆるみを固くする」原因だ。

逆説的かもしれませんが、ぼくは次のようなことを考えました。人間も動物である以上、油断をみせることは外敵に襲われる隙をつくることであり、外界からの攻撃を恐れて身体が緊張する。いま・ここにない過去や未来に想いを馳せて、心ここにあらずの状態を作ることは、身体的には外敵の攻撃を受けやすい状態にあり、無意識的に危険を察知して(というよりも原始的な動物としての恐れが発動して)身体が攻撃に備えた状態になる。だから実は安心できないのではないか、と。

むしろ問題を直視して、現実をしっかりと受け止めて、そのための行動を起こしたほうが、逆に安心できる。やらなきゃならない問題は、取り組んでしまったほうが安心できるし、行かなきゃならない場所には行っておいたほうが安心する。やらなきゃ、行かなきゃ、と思いつつ行動しない状態が不安を呼ぶ。

情報も同じかもしれません。多くの情報は2次情報です。誰かの語った言葉であり、誰かが加工した現実といえます。それは自分の体験ではないし、自分の現実ではない。その現実に一喜一憂することは、過去や未来のように「ここにない」何かに不安になる状態と同じ。もし安心したいのであれば、自分でその場所へ行き、ひとから話を聞き、体験してみる。自分ではない誰かはそう思ったかもしれないけれど、自分はそうは思わないな、ということもきっとあるはずです。

リチャード・カールソンさんの「小さいことにくよくよするな!」からは、次のフレーズを引用してみます(P.20)。

頭で悩みごとの雪だるまを作らない。
Be Aware of the Snowball Effect of Your Thinking
マイナス思考や不安のタネというものは、勝手に膨らんでいく。
「思考の攻撃」には終りがないし、
悩みや不安で頭がいっぱいのとき、心が穏やかになれるはずもない。
真夜中ふと、「明日やるべきこと」が浮かび、忙しくて死にそうだと思ったら、
「ああ、またやっているよ」と自分に言いきかせ
つぼみのうちに摘み取ること。

そして、やはり次のことを心に留めておこうと思います(P.30)。

いま、この瞬間を生きる。
Learn to Live in the Present Moment
明日起きるかどうかわからないことは関係ない。
あなたが生きているのは
いまこの瞬間なのだ――いつも!

Irrespective of what may or may not happen tomorrow.
the present moment is where you are - always!

投稿者 birdwing 日時: 23:18 | | トラックバック

2008年7月17日

ひとつ目のガジェット。

ウェンツ瑛士さんが扮する鬼太郎の映画の2作目「ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌」が12日から公開されているとのこと。夏の風物でもあるオバケというわけで季節にぴったりです。しかしながらぼくとしては、妖怪というよりも厳しい暑さのせいで溶解しそうです。どろどろ~。汗みどろ~。

先日、旧作がテレビでやっていたので長男くんとぼけーっと観ました。どうせハリボテのような妖怪が登場する子供だましで、お笑いやアイドルを起用した話題づくりのしょうもない映画じゃないのかと思っていたのだけれど、そこそこ面白かった。長男くんも楽しんで観ていました。しかし、この映画でいちばんのはまり役といえば、田中麗奈さんの猫娘ではなかろうか。このひとは猫だ。ひじょーに猫らしい女優だ。

ということはどうでもいいのですが、原研哉さんの「白」というデザイン系の本を読んでいたこともあり、なんとなくよいデザインについて調べていたところ、ソニーのサイトで「手のひらにのるテレビ」に注目しました。

080717_tenohira1.jpg

これは・・・鬼太郎の父親、つまり目玉親父じゃないのかな(笑)。

白以外の色もあるのだけれど、なんとなくしっぽらしいものもあってちいさなオバケのようでかわいらしい。Flashバージョンのサイトをみると、みんなで歩き回るようなアニメーションも作られていて楽しい。YouTubeに映像があったので掲載してみます。

実際にこのテレビにはインターフェースとして、カラーバーのほかに「face」や「eye」という生物的なものもあります。まさに「eye」は目玉親父だ。インターフェースのページではアニメーションを見ることができるのですが、ときどきまばたきをする。とはいえ、こんなまばたきをするテレビが部屋にあると、ちょっと怖いかも。テレビオバケという気がします。

これが「eye」のインターフェース。

080717_tenohira2.jpg

どちらかというと、次の「face」のほうが愛嬌があります。

080717_tenohira3.jpg

アンドロイドやロボットにもいえることかもしれませんが、あまり人間や生物をリアルに模倣するのではなく、インターフェースはシンボル化したほうが利用するひとにとっては落ち着くこともありますよね。

手のひらにのるテレビの試みとイベント自体は昨年の春に開催されたもので、繊維とエレクトロニクスのコラボレーションというコンセプトで行われたようです。以下、プロフィールの部分から引用しておきます。

「日本のハイテク繊維を活用して、人と繊維とエレクトロニクスの新しい関係を築けないか?」

日本を代表するグラフィックデザイナー、原研哉氏のディレクションの下、「TOKYO FIBER '07 SENSEWARE」という展覧会が東京とパリで開催されました。テーマとして掲げられたのは「SENSEWARE(センスウェア)」。「WEAR(衣服)」ではなくて「WARE(機器)」。身体感覚とインタラクトするハイテク繊維との新たな関係を模索しました。この試みに、デザイナーや建築家、企業が賛同しました。

この目玉テレビ(失礼)に似ているな、と思ったのが情報端末のchumbyでした。iPhone3Gの登場で盛り上がりつつあるタッチスクリーンを採用したデバイスです。もうすぐ日本でも発売されるとのこと。詳細はアスキーの記事から。

■chumbyで遊ぼう!
http://ascii.jp/elem/000/000/148/148593/

chumbyも外側の部分は合成皮革を使っているようで、ふつうのPCなどと違って手触りがやわらかい。機能もやわらかく、無線LANの内蔵と700種類ものウィジェットを切り替えることができ、ゲームにもなれば天気予報を伝える端末にもなる。カスタマイズが可能で、Hackable(ハック可能な端末)だそうです。持っているひとたちの間でコミュニティもできそうです。

カラーバリエーションとしては、茶色と白の「Latte」(ラッテ)がかわいいのですが、白と黒のパンダなんてものも発売されそう。性能的にはひと昔前のPDAと同等らしく、末永く生き残る情報端末かというと疑問を感じますが、こういう楽しい端末があってもいいですね。USのサイトはこちら。

■chumby
http://www.chumby.com/

080717_chumby.jpg

iPhone3Gのようなクールな端末もかっこいいのですが、そうではない生活に馴染むような端末も生まれてくるのかもしれません。筐体の手触り感など五感に訴えることも、大切な訴求ポイントになるでしょう。そしてやはりデザインが重要になります。といっても、あまりに生物的であると、オバケみたいで困惑するのだけれど。やはり情報端末なので、親近感もほどほどに。

いまのところ爆発的に人気があって市場の「オバケ」となっているiPhone3Gですが、このヒットが牽引してタッチパネルという機能にも注目が集まっているようです。以前、ブログでも取り上げたMicrosoft Surfaceのような触って直感的に操作できる端末がもっと出てきてほしいと思います。

そのうちにデジタルな情報だけでなく、実体のないオバケにも触れるようになったりしてね(苦笑)。

投稿者 birdwing 日時: 23:37 | | トラックバック

2008年7月14日

空白という充足。

ブログを2週間あまり書かなかったのですが、その間にぼくは何もしなかったわけではありません。むしろめまぐるしいほど狂おしい毎日の連続でした。

空白の時間。まっしろな思考。比喩的に使われる言葉ではありますが、欠如していることが空白ではなく、真っ白な何かで埋め尽くされていることも空白といえるのではないでしょうか。静寂は、音がない状態ではなく、沈黙という静けさで埋め尽くされている。真空は、空気がないという現象でいっぱいである。そして孤独とは、誰かがいないことではなく、自分ひとりの思考で埋め尽くされている状態。そんなこともいえそうです。

また、真っ白であることは、あらゆる可能性をその描かれていないキャンバスのなかに秘めている、ともいえます。白い画用紙の上には、あるいは真っ白なノートの上には、これからさまざまなことを書き込むことができる。未来の可能性として現在の白があるわけで、書かれるはずの何かが白には内包されているのではないか。アタマのなかに描いたイメージを鉛筆で書き起こすのではなく、白い背景のなかに埋まっている図像を浮かび上がらせる行為が、描くという行為なのかもしれません。

などということを考えてしまうのは、昨日、デザイナーの原研哉さんの「白」という本を読了したからでしょう。

4120039374
原 研哉
中央公論新社 2008-05

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慌しく落ち着きのない日々に翻弄されながら、この本を開くと、不思議と落ち着いた気持ちになれました。原研哉さんは、デザイナーとしての職業的な視点を基盤として、和の伝統や背景のコンテクストを張り巡らせながら、白とはなにか、その本質に迫っていきます。

文字の記号的な観点から、□(四角)の図形と白を連携させたイメージは面白いと思いました。本という人口的なモノは、確かに四角形のカタチをしていて、その余白の白さが実は書かれている文章よりも多くを語ることがあります。すばらしいデザインは、文字の配列はもちろんホワイトスペースのバランスが絶妙です。

この本から感じ取ったことについてはいずれゆっくりと書くとして(などと言及すると、結局のところ書かないことが多いのですが)、この空白の期間に買って読んでいた本を書きとめておきます。

ええと、心が弱っていたこともあり、こんな本。

476319612X絵本 小さいことにくよくよするな!―しょせん、すべては小さなこと
リチャード・カールソン
サンマーク出版 2004-11

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そして、17歳のぼくにとって神様だった、このひとの詩集。

4087462684二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9) (集英社文庫 た 18-9)
川村 和夫 W.I.エリオット
集英社 2008-02-20

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この3冊はすべて、英文も掲載されているのがリッチです。原研哉さんの「白」は、真ん中に観音開きの写真のページがあって後半は英訳になっています。「小さいことにくよくよするな!」は、見出し部分が英語。そして、谷川俊太郎さんの「二十億光年の孤独」も英訳された詩が掲載されています。さらにうれしいのは、直筆ノートの写真があること。手書きの詩を読むことができます。しあわせです。憧れの詩人による手書きの文字は、ものすごくあったかい。パソコンによるフォントもよいのですが、手書きだからこそ伝わるやさしさもあります。

張り詰めた気持ちを弛緩させたい、という意味ではこの本も購入。

4532260078ゆるみ力 (日経プレミアシリーズ 7)
阪本 啓一
日本経済新聞出版社 2008-06

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空白という闇に覆われていたので、きちんとオンガクを聞いたり本を読む余裕もなかったのだけれど、少しずつ日常を取り戻していきたいと思います。それにしても眠い。どこかに1日泥のように眠ることができる部屋はないですかね。できれば真っ白な部屋がいいんですけど。

投稿者 birdwing 日時: 21:52 | | トラックバック

2008年7月13日

サカナのなかさ。

下手な回文のタイトルですみません(苦笑)。入院していた次男くんは先日、無事退院することができたのですが、仕事のため、ぼくは退院には立ち会えませんでした。そこで、お祝いに何か買って帰ろうと思って本屋をうろうろしてみたところ、みつけたのがサカナ20匹のペーパークラフトの本です。

りったいさかな館―小学館の図鑑NEOのクラフトぶっく
りったいさかな館―小学館の図鑑NEOのクラフトぶっく神谷 正徳

小学館 2007-03
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次男くんはお絵かきや立体造形が好きです。いつも画用紙に何か書いたり、丸めて何か作ったりしています。ネコの絵を描いて口だけぱくぱく動くようにして食べさせたり自分なりに絵本を作ったり、どうやらモノづくりに興味があるらしい。

どこかアーティスト気質な彼は、ひらがなやカタカナを混在させて鏡に映ったように反対に書くし、ペンの持ち方もぎゅうと握る感じなので、ふつうではない。できないとかんしゃくを起こすため、まさに芸術は爆発だという取っ付きにくい性格です。いまのところ興味があるのは、惑星、世界遺産、サカナ。もちろんポケモンにも興味があるのですが、一般的な5歳児とはピントがずれていると感じるのは父であるぼくだけでしょうか。

サカナ+立体造形で、彼の趣味にぴったりだと思って買ってみた本ですが、まさに父の思惑通り彼のツボにはまり込んだようでした。しかしながら、うすうすは感じていたものの、失敗したなあ・・・と思ったのは、これってぼくが作らなきゃならないんですよね。

「たのしい幼稚園」などの学習雑誌には、毎号趣向の凝らされた付録が添付されています。戦隊モノのシューティングゲームのようなものが多いのだけれど、完成させるまで1時間半ぐらいかかったりする。これが親泣かせだったりするのですが、全部まるごとペーパークラフトの本というのはよく考えると、本体(雑誌)のない付録オンリーの本ではないですか(泣)。

というわけで、週末に父はサカナを量産しまくりました。12匹分の作品を写真に撮ったので掲載してみます。1部の写真では布の生地がモアレ(波模様のようなノイズ)になってしまっていて残念ですが。

  

   

  

  

次男くんは枕元に作ったサカナを配置してご満悦だったようですが、平面のサカナたちを折ったり組み合わせたりしていくと立体になっていく過程は、父であるぼくもなかなか楽しい。リアルでありながら、どこか愛嬌のあるサカナたちにデザインされていて、ペーパークラフト作家である神谷正徳さんのセンスを感じます。さりげなく折って膨らませるだけなのに、サカナの特長が強調されて、すごいなと思いました。

しかし、できあがった作品をどーすればいいのだ。途方に暮れます。次男くんはクリップを付けて釣ってみたり、長男くんとサカナバトルを繰り広げていたようですが(きぇーい、ハコフグを召還、ハコフグの攻撃だ・・・とか、やってました。怪獣というかデュエルですか)、せっかくのきれいなペーパークラフトなのにゴミになってしまうのがちょっとさびしい。

とはいえ、遊んだらゴミ箱に捨ててしまえるのは、ある意味、ビニールの人形よりお手軽かもしれないと思いました。洞爺湖サミットで環境に対する意識が盛り上がっていたこともあり、エコロジー的にはどうかも思ったりするんですけどね。

+++++

■立体アートKAMIYA
http://www.hfj.com/pj/kamiya.html

投稿者 birdwing 日時: 23:03 | | トラックバック

2008年7月12日

おかげさまで。

080712_re.jpg細菌性髄膜炎で息子(次男くん・5歳)が入院していたのですが、おかげさまで10日に退院できました。ブログを読んでいる方にはご心配をおかけしました。あたたかい励ましの言葉もいただいて、ほんとうにありがとうございました。

完治というわけではなく、まだ炎症が残っているため、ときどきひどい頭痛に襲われるようです。1日のうちに何度かアタマを痛がっています。とはいえ抗生剤も効いて、脊髄のなかにうようよ増殖していたインフルエンザは退治できました。後遺症も残らないのではないかと思うので、まずまずの結果ではないでしょうか。よくやった、ラッキーボーイ。

ワリオというか紫ピクミンのような体型だった次男くんは(ゲームを知らないとわからないですね)、ピクトグラムの棒人間のように痩せてしまって痛々しい。今後、栄養のあるものをたくさん食べて、回復してくれることを祈るばかりです。

外出も禁止されているので、結局のところ幼稚園の先生や友達に会えるのは夏休みが終わってからということになってしまったのですが、仕方ない。人生そんなときもあります。というか5歳のきみの人生は、はじまったばかりなので、ゆっくりいきましょう。とはいえ、病室でママがいないときに暴れて号泣して、看護婦さんに激怒されて病室を変更されたぐらいのツワモノなので、以前にもまして甘えん坊になった性格は、なんとかしたほうがいいと思うのですが(苦笑)。

一方で、ぼくは地に足のつかない3週間でした。いまだに6月がつづいているような感覚があり、ものすごく長い時間を過ごしたかと思うと10分も経っていなかったり、あっという間に3時間を過ごしたり、破滅的に心が壊れていて処理機能が低下して考えがまとまらないのに、その半面シャープに研ぎ澄まされた感覚もあったりして、自分でありながら自分ではない状態でした。

あらためて気付いてびっくりしたのが、この3週間、ほとんどオンガクを聴いていなかったということ。かろうじて、いつだったか日曜日、病院からの帰り道、ラーシュ・ヤンソン・トリオの「HOPE」というアルバムを聴いてピアノの音が胸に染みまくったのですが、iPodをどこへ置いたかもわかりません。デイバックのなかに突っ込まれたままのこともあれば、部屋の片隅に放置されていたこともありました。音楽がなければ生きていけないぐらいの必需品であったぼくには、あり得ないことです。

Hope

おかしなテンションがあり、日々をいっぱいいっぱいの状態でやり切っていた感じです。オンガクに喩えると、変拍子というかポリリズム的なビートに翻弄される毎日でした。やっと生活のリズムが元に戻りつつある手ごたえを感じているのですが、客観的にみて冷静に毎日を過ごしていたかどうか、自信がありません。

ただ、非日常的な毎日だからこそ気付くことはたくさんありました。ぼくは家で長男くんと父子ふたりの生活をしていたのだけれど、長男くん(11歳)のめざましい成長にわずかながら気付くことができました。まだ子供だと思っていたのに、大人のような考え方になりつつあります。

眠る前に、国語の授業の「ぼくの世界、きみの世界」という教材の話を聞いて、親子でテツガク的な対話ができたのは、辛い毎日のなかでも楽しいひとときでした。ふだんは彼と別々に寝ているのですが、次男くんの入院中は隣りで寝ていたので、そんな話もできました。

「ぼくの世界、きみの世界」という教材は、西研さんという哲学者がわかりやすく哲学の入り口のようなものを解説されているエッセイのようで、同じチョコレートを食べても、甘いという感覚がきみとぼくとでは違う、ぼくとは一体なんだろう、どうすればきみと分かり合えるのだろう、というようなことを述べられているようです。この話が長男くんは好きらしい。国語の授業でいろいろと考えて、テツガクに興味を持ってしまったとのこと。

さすがぼくの息子というか、血は争えないな、と感じてうれしかったのだけれど、ぼくもこういう話は大好きです。電気を消した布団のなかで、共感、多様性、世界の認識の仕方(アフォーダンスなど)、構造化など、彼と1時間ぐらい話をしました。たぶん11歳のちいさな頭には理解できなかったと思うのですが、明日学校だからもう寝よう、と言っておきながら、もっと話したくてうずうずしていたのは、何を隠そう父であるぼくのほうだったかもしれません。

彼と将棋をやってみたのですが、強くなってしまって全然勝てない。「小学六年生」の雑誌に将棋のマンガが掲載されているらしく、それで守りの手などを研究してノートにまとめています。穴熊(詳細はWikipediaの穴熊囲いを参照ください)という守りの手を打たれて、え?え?なんだそれは?と思っているうちに負けてしまった。ちなみに穴熊とは玉将(王)が隅に配置されて周辺を金などで固める陣形のようで、鉄壁の守りを作りつつ着実に駒を取っていくという手法が、いま彼の得意の戦術のようです。悔しいのですが、出たとこ勝負の感覚的な攻め方のとーさんは息子に勝てません。

入院自体は辛いことなのですが、チャンスととらえることもできる。繰り返される毎日の日常的な生活のなかでは、気付かないことにもたくさん気付くようになります。そして入院している本人よりも、その周辺の家族のあり方であるとか、ぼくの人生にとってほんとうに重要なものは何だろうということを考えさせてくれた3週間でした。

子供が入院している非日常の毎日から日常の毎日へ変わりつつあり、そのときに感じたことは薄れてしまいつつあるのだけれど、大事だと感じたことをできる限り維持しながら、ふつうの毎日に戻ろうと思っています。なんでもないふつうの毎日が、いちばんしあわせかもしれない。

気が緩んだせいか土曜日の朝起きると耳が痛くて、病院に行ったら中耳炎と言われてしまい、今度は父であるぼくのほうがムコダインという抗生物質のクスリを飲むはめになったのですが、薬を飲んだらすっかりよくなりました(早めの対応が大事です)。

ついでに洗濯機がぶっ壊れたり、とんでもないカミナリと雨もあったりしたのですが、そんな日々の断片をまたブログで書き連ねていきたいと思います。無駄に長文ですが、暇な時間に読んでいただけるとありがたいです。あらためて、よろしくお願いします。

+++++

■西研さんのホームページ

http://www007.upp.so-net.ne.jp/inuhashi/index.htm

投稿者 birdwing 日時: 23:00 | | トラックバック

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