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2009年1月31日

自分を再構築する。

恒例の人間ドックに行ってきました。昨年もブログに書いたけれどドッグではなくてドック。どこかしら人面犬を思わせますが、人間ドッグじゃないですよ。年末に予約して都合によりキャンセルしたところ、スケジュールが合わなくて1月に延期となりました。日記を読み直すと、去年もそんなことを書いています。進歩がないわたくし(困惑)。

パソコンも定期的にメンテナンスが必要なように、ぼくらの健康もときどきチェックが必要です。病院に1泊して、血を抜かれたり、心電図のケーブルをつながれたり、超音波で腹をぐりぐりされたり(くすぐったい)、白くてまずいバリウムを飲まされて、胃の検査のために俎板のような機材の上をゴロゴロ転がったりしてチェックしてきました。胃の検査に関していえば、ほんとうは胃カメラのほうがピロリ菌なども検出できるようですが、いまだにぼくは怖くてカメラが飲めません。

泊りがけで人間ドックを受けるひとたちは、白髪のおじさんを通り越して、おじーさんばかりです。枯れた年配の方が多く、茶髪のちゃらちゃらした似非おにーさんはぼくぐらいでした。そろそろシニアの仲間入りなのだなあ、ということを実感。しかし、最初は戸惑ったのですが、年を重ねるにしたがって、おじさまたちにすっかり馴染むようになってきています。いいのかどうか。

090131_dock.jpg病室内では携帯電話は使ってはいけないのですが、ちょっとだけ病院内の自分をスナップ。寒いのでガウン着ています。リッチな感じもなきにしもあらず。しかし、ガウンの下は検査着です。

近所の学校から子供たちの声を聞きながら、ベッドの上でうとうとする時間が贅沢なのですが、今年は大雨のため、窓の外はごうごうという風と雨粒の音ばかり。毎年、ぼくがドックに入る日は晴れの日が多く、日差しの差し込む部屋で少しだけ人の世を離れた楽園気分にもなれるのですが、雨の日の病院はなんとはなしに憂鬱です。気持ちが塞ぎます。入院している患者さんは大変ですよね。

とはいえ、糖尿病の診断のために、甘い炭酸水を飲まされて1時間ごとに3回採血をされるのですが、かわいい女性の看護師さんに2回抜いていただいて、それがせめてもの救いでした(「抜いていただいて」という表現がいかがなものか、とも思うけれど)。ちなみに最後の1回はベテランのおばーちゃん看護師さんでした。はやかった。すぐ抜けた。手際よすぎる。

診察と診察の空き時間、消灯後の夜。ぼくは静かにいろんなことを考えました。人生のあれこれとか、自分についてとか。自分と向き合って思索に耽り、さらに集中して本を読むことができました。合計で400ページぐらい読んだでしょうか。2冊の本を読んだのですが、面白くてアドレナリンが出た。血圧が上がってしまうとまずいので、控えようと思ったぐらいです。診察に行ったんだか、読書に行ったんだか、よくわかりません(苦笑)。

まず1冊目は、ビジネス書で「戦略のパラドックス」。「イノベーションの解」のクレイトン・クリステンと共著者であるマイケル・E・レイナーの本です。こちらは第3章89ページまで読み進めました。

4798115088戦略のパラドックス
高橋 淳一 松下 芳生 櫻井 祐子
翔泳社 2008-01-18

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正しい戦略が必ずしも成功を導くとは限らない。正攻法で緻密に練られた戦略であるがゆえに失敗になることもある、という指摘が鋭いと思いました。時代は変化していくものであり、不確実性要因によって、完璧な計画をも狂わせてしまう。つまり動く的を自分自身も動きながら狙うようなものあって、結果が予測できない。戦略的に完璧なものではなく、不完全なものが成功することもある。

「成功の反対は失敗ではなく、凡庸である」という言葉にも頷きました。

中立的な戦略をとろうとすると、あっちもこっちも取り入れて、まあ折衷案で・・・というように、ありふれた凡庸なプランになっていきます。しかし凡庸な戦略は成果を生まない。リスクを回避することによって成功からも遠ざかるわけです。ハイリスクであっても、先鋭化された戦略(純粋戦略)のほうがよいとされる。もちろん、その成功の影には無数の失敗があるわけだけれど。

余談ですが、成功の反対は凡庸であると同じような言葉として、「対立物の類似性」というコラムで次のような見解が取り上げられていました。とても奥が深いものでした(P.3)。

対立物には、思ったほどの違いがないことが多い。たとえばノーベル賞受賞者エリー・ヴィーゼルが指摘するように、愛の反対は憎しみではなく、無関心だ。だれを愛したり憎んだりするということは、その人に対して少なくとも強烈な感情を持つということだからだ。

愛の反対は憎しみではなく無関心、といったのは、マザー・テレサだと思っていたのですが、エリー・ヴィーゼルも述べていたのでしょうか。

相反するふたつの感情は似ているということは、とてもよくわかる。単純に相手のことを考える時間だけを抽出しても、それだけの労力を割いていることになります。愛情がほんとうに終わるのは、"あなたには関心がなくなった"というときなのかもしれません。確かに辛いな、それを言われると。憎い、といわれたほうがましかもしれません。

2冊目は、かなり前に購入しておきながら遅々として読み進めていなかったポール・オースターの「ミスター・ヴァーティゴ」。

4102451099ミスター・ヴァーティゴ (新潮文庫)
Paul Auster 柴田 元幸
新潮社 2006-12

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4分の1ぐらいしか読んでいなくて、300ページほど残っていたのですが一気に読了。面白かった。ぐいぐい読み進めて、2度ほど病院のベットでぼろぼろ泣きました。いまのところ、オースターの作品のなかではいちばんです。

しかし、個人的な評価です。人間ドックで人生について考えていたぼくには、時期的に、ぴったりとはまったのかもしれません。作品とめぐりあう適切な時間というものがあって、最適な時期にめぐりあうと、作品以上の効果を読者のなかに生むと、ぼくは考えています。作品は作品単体で存在しているのではなく、時代や個人のさまざまな文脈が交差する場に生まれるものとしてとらえています。ちょうど「ミスター・ヴァーティゴ」という作品にめぐりあう時期だったのでしょう。そんな時期に読み終えたことがぼくにはとてもうれしい。

読むまで知らなかったのだけれど、実は内容もBirdWingというハンドルを使うぼくには無関係とはいえませんでした。というのは、この小説は、ひとりの少年が「ウォルト・ザ・ワンダーボーイ」として、修行をして空を飛べるようになり、その後年老いるまでの物語だからです。鳥男(バードマン)などという言葉も出てくるのだけれど、空にまつわるおとぎばなしです(柴田元幸さんの訳者あとがきを参考にしました)。そして、物語中に何度も少年が映画を観に行くのですが、とても映画的なストーリーです。映画にしてほしいなあ。

映画ではネタばれなのでエンディングは言うべきではないのですが、この小説でぼくが打ちのめされて、めまい(Vertigo)まで感じたのは最後の部分でした。まずは次の部分(P.410)。

ようやく初めて宙に浮いたとき、それはべつに師匠に教わったことのおかげじゃなかった。冷たい台所の床で、俺は一人でやってのけたのだ。長いあいだしくしく泣いて、絶望に浸っていた末に、魂が体の外に飛び出ていき、もう自分が誰なのかの意識もなくしていたとき、初めて床から浮かび上がったのだ。ひょっとすると、唯一本当に必要だったのは、絶望だったのかもしれない。

ウォルトは「三十三段階」の厳しい修行をします。地面に生き埋めにされたり、小指を切り取られたりする。その上にやっと掴んだ飛ぶ技術なのですが、高揚した楽しい気分が自分を宙に浮かせるのではなく、飛ばせるためのエネルギーは重く沈みこむような「絶望」だ、というのがいい。そして最後の終わり方(P.411)。

胸の奥底で、俺は信じている。地面から身を浮かせて宙に漂うのに、何も特別な才能は要らないと。人はみな、男も女も子供も、その力を内に持っているのだ。こつこつ根つめて頑張っていれば、いずれは誰でも、俺がウォルト・ザ・ワンダーボーイとして成しとげたことを成しとげられるはずだ。まずは自分を捨てる、それを学ばなければならない。それが第一歩であって、あとのことはすべてそこから出てくる。自分を霧散させなくてはいけない。筋肉の力を抜いて、魂が自分の外に流れ出るのが感じられるまで呼吸をつづけ、それから目を閉じる。そうやるのだ。体のなかの空虚が、周りの空気より軽くなる。少しずつ少しずつ、体の重さがゼロ以下になっていく。目を閉じる。両腕を拡げる。自分を霧散させる。そうやって、少しずつ、地面から浮き上がっていく。
そう、そんな感じ。

物語を読んでいないとそれほど感動はないかもしれませんが、この部分は凄い。途方もない人生の物語を経由して、ウォルトが尊敬する師匠の「楽しかった日々を忘れるなよ(P.312)」という言葉やいっしょに過ごしてきた日々がありながら、長い時間と人々のつながりの蓄積を、すべて飛ぶ瞬間において無に変えてしまう結末。詩的でさえあります。

飛ぶためには、「自分を捨てる」ことが必要であるということ。自分という重みが地面に繋ぎとめているのであって、気球が重い砂袋を捨てて空に上がるように、何かの犠牲なくしては高みに行けない。「そう、そんな感じ。」という終わり方も秀逸です。この部分は大好きですね。原文で読みたい。

読書以外に考えたことについても書こうと思ったのですが、エンドレスな長文になりそうなので、見送ることにしました。

「自分を大切に」というアドバイスをいただいたことがあり、そのことをずっと考えていました。自分を究める、というテーマとも重なりそうです。しかしエゴではなく、自分を大切にすることで同時に誰かを大切にするような、関係性の連鎖のなかで考えようとしています。

自分や内なるものを出発点として考えているのですが、最終的な到達点は、「ミスター・ヴァーティゴ」のウォルトのように、絶望のなかで自分を捨てて重力から解放される方法がゴールなのかもしれません。

人間ドックを契機として、自分を再構築中です。ちなみに、簡単な検査の結果が出たのですが、再検査になりそうなのは血液中の鉄分です。一般に80~140なのですが、前々回112 → 前回47 → 今回29と激減しています。鉄が減りすぎ。なぜだ。ああ、そういえば、去年は再検査の連絡を受けたのだけれど行かなかったんだった。今年はきちんと行きます。

投稿者 birdwing 日時: 18:10 | | トラックバック

2009年1月29日

John Coltrane Quartet / BALLADS

▼music09-01:きめ細かなサックスの肌触り、粒子の調べ。

Ballads
John Coltrane Quartet
Ballads
曲名リスト
1. Say It (Over and Over Again)
2. You Don't Know What Love Is
3. Too Young to Go Steady
4. All or Nothing at All
5. I Wish I Knew
6. What's New?
7. It's Easy to Remember
8. Nancy (With the Laughing Face)

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ジャズには夜がよく似合う。と思っていたのですが、朝日にあふれた部屋のなかで聴いても、なかなかよかった。さわやかでした。願わくば、しっかりとしたコーンの幅がでかいスピーカーで聴きたいところです。

コルトレーンの名盤です。初心者向けかもしれないけれど、その通りぼくは初心者なのでしっくりきました。ジャズというジャンルには詳しくないのですが、音に身体を委ねていると心地よい。薀蓄を探すのはやめて、少しばかり印象で語ってみましょうか。

張りのある美しいサックスの音色は、どこかすーっと伸びた帯のようです。そのしなやかな帯が折れたり絡み合いながら旋律を織り成していく。バラードだけにゆったりと白玉系の長い音が多いのですが、メロディラインというよりもトーンのきめ細かさがぼくには気持ちよく感じられました。

クールなプレイは若干あたたかみに欠ける感じもするのですが、一方で、女性のなめらかな腰のラインを想像させます。くびれた曲線を指で確かめるような感触です。とはいっても淫靡ではない。朝もしくは午後にたゆとう逆光。肌が艶やかにみえる部屋の薄明かりのなかで、眠っている裸のシルエットのなめらかな輪郭を指の腹で辿っていく感じ。どこか聴覚よりも触感的な気持ちよさがあります。そういう意味では、明るいセクシーさに溢れたアルバムかもしれません。

好きな曲は、第一に1曲目の「Say It (Over and Over Again)」。出だしの音からぱあっと世界が開けます。しかしながら、ピアノソロの高音から低音への過剰に弾き込んだフレーズが、ぼくには耳障りなのですが、この曲はいいなあ。少しアマノジャクなことを書いてしまうと、音楽がはじまるまでの静けさがいい。3曲目「Too Young to Go Steady」も1曲目と似ているような印象ですが、好みです。それから8曲目つまり最後の「Nancy (With the Laughing Face)」もいい。コルトレーンらしさという意味では、4曲目「All or Nothing At All」は雰囲気があるのではないかと思います。

マッコイ・タイナーのピアノに関していうと、ぼくはあまり好きではないかもしれない。派手に高音から低音へグリッサンドのように動き回る旋律が、なんとなく苦手です。きれいなのだけれど・・・美しすぎてダメだ。もう少し謙虚さがほしい。音符通りに正確に弾くよりも、ちょっとぐらい外れてもいいから朴訥としたピアノが好きです。整いすぎているような気がします、なんだか。

というのは、趣味のDTMで単音の打ち込みをやっているからかもしれません。どうしてもきれいにグリッサンドした音符は、打ち込みのピアノロールに置かれた幾何学的な棒の配列をイメージしてしまう。どちらかというとジャズのピアノは、コードバッキングで、しかもたどたどしいような音がぼくの好みです。音の粒立ちがはっきりしていないような弾き方がいい。

ついでに、ドラムのロール、「 It's Easy to Remember」の、どこどこどこどこ・・・というおどろしい音にも困惑。盛り上げるのはわかるのですが、怖い。もう少し地味にしてほしい。ただ、その地の底からわきあがってくるようなリズムがいい、というひともいるのでしょう。

とかなんとか、ぶつぶつ文句を並べてみたのですが、やっぱりいいですね。なんだかとても懐かしい感じさえしました。コルトレーンのバラードがいい、ということをあるひとから聞いて、無知なぼくは音楽ジャンルとしてバラードかと思って返事をしてしまったのですが、あとから考えて、ああ、アルバム名だったかも・・・と思いました。そんなことを思い出しながら購入しました。

詳しくはないけれど、まっさらな状態で少しずつジャズも吸収していきたい。あまり変化球から入ると後が続かないので、まずは名盤からでしょうか。とはいえ、薀蓄より音を楽しみたい。そして聴きながら脳裏に思い浮かべたイメージを言葉にできれば、と考えています(1月22日観賞)。

投稿者 birdwing 日時: 23:56 | | トラックバック

2009年1月28日

開通記念は、ぼやきで。

引越しのため自宅でネットができなかったのですが、午前中、工事の立会いをして、やっと光ファイバーによるネットが開通しました。

充電式のドリルで、ごりごりきゅいーんという感じで壁に穴を開けてケーブルを通して、電話口のようなコンセントを設置。作業をしてくれたのは、引っ越す前にこの家に住人が使っていたネットの後片付けをしてくれた同じ担当者で、髭の生えたにーちゃんでした。下見から丁寧にアドバイスや相談をしてくれるので、なかなか好感触の業者さんです。

今回のモデムは無線LAN付きなので、以前に使っていた無線LANのルーターが無駄になりました。WiiやDSを使うために再度設定をしなければ。

試しにPCを立ち上げてネットにつないでみたのですが、Sleipnir(通称、ぷにる)というブラウザのタブに、ブログの原稿として書こうと思っていたYouTubeのページが残っていて苦笑。最後のエントリを書いたときに、このページをみていたのだった。そのまま残っていました。以前住んでいた家の回線より遅く感じるのは気のせいでしょうか。久しぶりのネット接続にマシンが悲鳴をあげているのかもしれません。買い換えたいなあ、PC。

とにかく長かった。思えば12月から1ヶ月あまり、自宅にネットがない断絶の日々がありました。ネットカフェで時間(=料金)に追われて、せわしなくブログを更新していた日々が懐かしい。延長すると15分単位で100円などお金がかかるので、落ち着いて更新もできませんでした。納得がいかずに再度カフェのはしごをしたこともありました。USBメモリを忘れたこともありましたっけ。

ネットがないと、どうなるか。まず早寝になります。ネットジャンキーな頃には、3時から4時の間に就寝していたこともあったのだけれど、ネット断絶後には遅くても2時、早いときには10時に就寝となりました。それでも4時に起きてDTMに夢中になっていた日もあるので、不規則な睡眠はぼくの悪い癖なのかもしれません。きっと長生きはできないですね。

ただ、とあるメールだけは、どんなに寝ていても届いたのがわかった。ひょっとしてテレパシーがあるのか?と怖くなったほどです。いまメールが来たかもしれない・・・と思ったときに、PCはネットにつながっていないので携帯電話でチェックすると、予想通り必ず届いていました。メーラーにはタスクバーに常駐して、ポップアップでメールの到着を教えてくれる機能がありますが、その機能が身体のなかにもあるようでした。それほどまでにネットはぼくの生活や身体に溶け込んでいたのでしょう。残念ながら、いまはテレパシーもなくなりましたが。

PCをネットにつながずにローカルで原稿を書いていると、どんどん長文化していきます。公開のためにはネットカフェに行かなければならないため、推敲を繰り返すので、文章の精度は高まるかもしれません。仕上がりとしては丁寧になります。でも、勢いはなくなる。どちらかというとブログのよさは勢いに拠るところが大きいと思うので、さくっと書いてさくっと掲載したほうがよいのかもしれません。

さぁ、ゆっくりネットをしよう、と思って会社から帰る途中、携帯電話で呼び出されて、寒いなか路上にて電話で話をすることに。楽しい話であればともかく、薀蓄とか、自慢とか、ぼくに対する批判が多かったので閉口しました。

多少、酔っていたのかもしれない。あるいはストレスが溜まっていて、ぼくと話をして発散したかったのだろうと思いますが、一方的にかけてきて、不愉快なことを語られるのは正直なところ困った。ご飯も食べていなくて、家は目前なのに、近所をぐるぐる回りつつ震えながら話をしました。まあ、すぐに切ればよかったのだろうけど。

ぼくは読みたいものを読みたいと思うし、聞きたいことを聞きたい。そうして、話したいことを話したいと思っています。

しかし、すべては相手あってのことです。聞きたくないことを話されても困ることでしょう。ぼくだって聞きたくないことは、できれば聞かないでいたい。話したくても話せないことだってあります。時間や場所など、TPOによって制限されることもあるでしょう。

いま外です、と言っているにも関わらず延々と配慮なしに一方的な電話をされるのなら(しかも、ぼくにとって面白くない話であれば)、あまり話したくないなあ、というのが本音でした。何か書きものをされているようですが、同様にして押し付けられたら読みたくないなあ。それがどんなに面白いものであっても、読む前に抵抗を感じてしまう。

ただ、ぼく自身も同じように不躾なことになっていないか、ということを反省しました。ブログであれば、読むか読まないかの選択を相手に委ねることができます。特にぼくの場合には、読んでくれ、と声高にアピールしていないし、ごく少数の信頼できる知人にしかブログの存在を教えていません(しかし、これがまずかったか・・・と思うことがたまにある)。検索エンジンには引っかからないように控えているぐらいです。

でも、メールは違う。相手にとってはしんどい状況下で、たたみかけるように厳しいメールを送るような場合、かなりの負荷をかけてしまいます。まず読まなければ、というプレッシャーがあるだろうし、次にお返事を書かなくては、という風に追い込まれていく。内容が相手にとって面白くないものであればスパムに近い。迷惑きわまりない。

どちらかというと信じるがままに猛進して押すばかりで控えることを知らない性格のぼくですが、相手の状況を配慮して、自分の気持ちを抑えて、引くべきところは引くことにしよう(けれども引けないところは、きっちりと堪えよう)。ということを最近強く自戒しています。

感情の抑制、あるいはコントロールができない場合には、そうもいかない事態が多くありました。けれども、それは自分の未成熟さ以外の何ものでもない。相手によいことだから話そう、という前提はもしかすると余計なお世話なこともあるだろうし、自分のなかのわだかまりやストレスを解消するために話すのであれば、最低だ。楽しい関係を維持するためには、黙ること、語らないことも必要です。妥協する、のではなくてね。

というわけで、冷え切ったこころで帰宅したのですが、ネットにつないでほっとしました。

仕事では日を追うごとにハードな状況に置かれている今日このごろ。どんなものであれ、ほっとひといきできる時間があるのは大切です。嫌味な言葉が飛んでくることもありますが、スルーでやり過ごすことにして。

体調が悪くて弱っているときなどには、毒を吐いたことばに必要以上にやられてしまうことがあります。こころも身体の一部だから、身体が弱っているときにはこころもやられてしまう。インフルエンザも流行っています。気をつけましょう。

投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

2009年1月25日

娘をシミュレーションする。

ぼくには音大を出ていまは専業主婦をやっている妹がいます。大学では音楽療法のようなものを専攻していたようで、サックスを吹いていた時期もありました。音楽教室の先生に就職したのち、音楽だけではいけないと思い立って大学の通信講座で図書館司書の資格を取ったこともありましたが、結局のところ母に落ち着きました。いまのところは、ですが。

母であるところの妹は(といっても、ぼくにはやはり妹は妹なのだけれど)、そこそこ幸せそうです。去年の暮れには、ふたりめの子供を出産。上の子も女の子なのですが、下の子も女の子です。娘がふたり。いいなあ。お年頃になったら大変そうですけどね。

残念ながら、うちは息子ふたりです。娘がほしかった・・・。

そんなぼくのぼやきにいつかブログでコメントをいただいたこともありましたが、子供の頃であれば朝の出がけに「いってらっしゃい」のちゅーを娘にしてもらうとか、パパちゅき・・・のようなバースデイカードをもらうとか、彼氏のことで喧嘩するとか(おとーさんはそんな男は許さないぞ。ああ言ってみたい。苦笑)、嫁いでいく娘を結婚式に送り出す父親の悲哀とか、そんな経験をしたいと思いました。

いや、しかしだめだ。特に最後の結婚式はいけません。きっと涙でぼろぼろになりそうな気がします。

ちなみに何かの本で読んだのですが、娘ができると、おとーさんは丸くなるらしい。やさしくなるそうです。そりゃそうですね、家のなかにコイビトのような存在がいるわけなので。といっても娘からすれば、親父うざい、あっちいけ、という感じなのかもしれませんが(苦笑)。

逆に息子を持った父親はワイルドになるとのこと。これもわかります。ある意味、息子はオトコとして競争相手なので、一種の敵です。敵と常に臨戦状態で暮らしているのだから、そりゃワイルドになる。最近は油断していると刺されちゃったりもしますから、しゃれになりません。たまにぼくも取っ組み合いの喧嘩をするのですが、なんとなく最近は負けそうです。すっかり弱ってしまったので。

娘がいないぼくにも、娘のいる人生をシミュレーションできるサイトがありました。ソニーのハンディカムのキャンペーンサイト「Cam with me」です。

■Cam with me
http://www.sony.jp/products/Consumer/handycam/camwithme/

090124_cam1.JPG

一部で盛り上がっているらしい。ブログパーツになっていたので、以下、貼り付けてみます。


「Cam with me」は娘の成長に合わせて、ビデオを撮る楽しみをシミュレーションできるサイトです。スタートボタンを押すと、ひとりの女の子が0歳から26歳まで大きくなっていきます。その途中で、赤いRECボタンを押すと、その年齢のシーンを擬似撮影できる。ストップを押すことで、画像を切り取ることができ、スクラップした画像は下に並んでいきます。そして、最後には連続して再生される。

女の子は最初、無邪気に笛を吹いていたりします。行進するようにして歩きながら、どんどん成長していきます。

090124_cam2.JPG

その後、彼氏ができたりして。

090124_cam3.JPG<

やがて高校や大学を卒業して、就職して・・・。

090124_cam4.JPGのサムネール画像

はうう。な、泣けた(涙)。ストーリーらしき筋はなくて、映像は何気ない日常のひとこまばかりです。でも、ふつーの日常の断片というのがいい。結婚式の最後に流れるスライドショーっぽい雰囲気がありますが、なんだかじーんとした。

実際にひとりの人間の成長を撮影して映像を編集して観賞するまでには、26年間という長い時間がかかります。このときやっぱり不安になるのは、メディアの問題です。うちも最初は8ミリビデオでしたが、その後にDVに買い換えました。8ミリビデオは壊れてしまったため、当時に撮影した映像は観ることができません。さらにDVDの時代もそろそろ終わりを告げようとしているらしい。ブルーレイディスクが主流になっていくようです。

将来的には、技術の進歩のもとに、せっかく映像というソースはあったとしてもハードウェアとして観ることができない環境になっている可能性もありますね。互換性、持続性をなんとかしてほしい。それこそインターネットの雲の向こう側に、半永久的に保存してくれるような場所があるといいのですが。

ソニーとしては、ライフストリーミングのサービスであるLife-Xなどと連携する試みだと思います。業績の大幅な下方修正が発表され、人員削減の嵐が吹き荒れるソニーですが、がんばってほしいなあ。

投稿者 birdwing 日時: 17:37 | | トラックバック

2009年1月23日

「日本語が亡びるとき」水村美苗

▼book09-01:愛を見失った小説家の、さびしい日本語論。

4480814965日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
筑摩書房 2008-11-05

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期待とともに読みはじめた「日本語が亡びるとき」。中盤からは失望と反感とともにページをめくる速度が緩み、いったん読む意欲が萎えました。しかし、偏見というバイアスをかけて中断することは、成熟した知の在り方とはいえないのではないか。そう考えて批判的な気持ちや感情的な抵抗を押さえながら、最後まで読み終えることに決めました。きちんとこの本と関わってみよう。それから判断しよう、と。

そして読了。最終的にぼくが到達した気持ちは、途方もない"さびしさ"でした。

水村美苗はさびしい小説家である。

この卓越した文章力を誇る「日本語で書く」作家は、日本文学に対する愛を見失い、愛するものの生命を自ら亡びさせようとしている。そんな寂寥とした気持ちを残したまま本を閉じました。

作家論と作品論を考えたとき、ひとつの作品しか読んでいないにもかかわらず、作家のすべてを見抜いたように批評を語るのは傲慢であり、慎むべき行為といえるでしょう。

また、作品に出来不出来の波があるとすれば、可能な限りすべての作品を網羅しなければ、ひとりの作家について十分な評価ができないかもしれません。一冊の駄作をもって作家のすべてを全否定するのはフェアではない。違うでしょうか。

ぼくは水村美苗さんの小説をまったく読んでいません。漱石が生き返って書いたようだと絶賛された「續明暗」も読んでいなければ、英語と日本語が混じりあう実験的ともいえる「私小説 from left to right」も読んでいない。だから本来であれば評価を保留にして、もう少しだけ作家を理解すべきかもしれない。歩み寄る努力が必要です。結論を出すのは早急ともいえます。

ただ、妄信的なファンではないからこそ、「日本語を亡びるとき」を読んで直感的に感じたことがありました。暴言・偏見を辞さずに論じてみたいと思います。感想やレビューというよりも、「日本語を亡びるとき」を通じて、作家である水村美苗という人間を批判することになるでしょう。まずは非礼をお詫びします。

ぼくは評論家でもなければ、文学者でもありません。ひとりのブロガーです。ブロガーのぼくにとって関心があるのは、うまい感想文を書くことでもなければ、書いたエントリの対価として原稿料を請求することでもない。レビューで注目を集めてアクセスを稼ぐことでもなければ、アフィリエイトで稼ぐことでもありません。

小説にしろ映画にしろ音楽にしろ、ぼくがこの場で作品を通じて追究するのは、自分がよりよく生きるためのヒントです。

自分を救済する方策を探ることで、わずかであったとしてもここに訪問して共感できるような誰かを救済できればいい、と考えています。文章のテクニックを修練したい気持ちはありますが、無駄に思考遊びに長文を費やしているわけではありません。文章を書くことによって、現実を生きるためのヒントを探りたい。そんなエントリを展開したい。

というスタンスから、失礼極まりないのですが、水村美苗さん個人を想定して、作家というひとりの女性に向けて語らせていただきます。

+++++

水村美苗さん。あなたは、誰よりも日本の近代文学を、そして日本語を愛していたのではないのでしょうか。

まずあなたには当たり前すぎると思われるそんな問いから投げかけてみます。寂れた美しい池に石を投げ込むように。みなもに、わずかな波紋を起こすように。

漱石の作品に対する深い造詣はもちろん、ちりばめられた膨大な日本語と日本文学の歴史に、ぼくはあなたの愛情を感じました。

学問的には少々あやしい評論だったとしても、あなたは学者ではない。だから赦すことができます。読書家としてのひたむきな姿勢には、ぼくは素直に尊敬を送りたい。

たとえば、何度か引用されている漱石の「文学論」。ぼくも学生の頃にわざわざ古本屋を数件めぐって購入した本でした。その後、社会人になって購入した新版の岩波の漱石全集とともに、2冊の「文学論」をぼくは持っています。しかし、不勉強なぼくは、この風変わりな科学的なアプローチによって書かれた漱石の理論書を完全に読破していません。

「文学論」が失敗だったかどうかについては別に詳しく論じたいのですが、漱石を研究するひとにとってはメジャーでも、一般的にはマイナーともいえる「文学論」をあなたが取り上げていたことが、ぼくには嬉しく感じました。少しばかり親しみを抱きました。

少女の時代に渡米して、英語の空気に馴染めず、ひたすら海の向こうの日本と日本の文化を想い、古典から近代文学まで読みあさった日々。トラウマのようにあなたを苦しめた過去かもしれませんが、反面、夢のように甘く美しい時間だったことでしょう。孤独な日々のなかで醸成された日本文学に対する焼け焦がれるほどの憧れは、「日本語を亡びるとき」のなかに息づいています。

しかし反面、あなたのなかには、愛しさとともに憎さがある。その相反する感情が論旨を揺さぶっているような印象を受けました。

揺さぶっているどころではない。この本のなかで亡びているのは、日本語ではありませんでした。水村美苗という小説家、というよりも愛に疲れたひとりの女が亡びている。そんなイメージをぼくは抱きました。あなたが愛したものたちの骸(むくろ)がここにある。そう感じました。

「日本語を亡びるとき」から浮かびあがる水村美苗像は、一途に愛しつづけたあまりに愛の強度に疲れ果てて、愛するものたちを亡びさせようとしている、ひとりのさびしい女の姿でした。愛の残骸、想いのなれの果てが、がらくたのようなことばで積み重ねられています。

論旨が紆余曲折して文章だけが途方もなく膨れ上がる日本語論は、自暴自棄になっているようにさえ読み取れました。あなたは、愛するものたち、愛する日本語を抱きしめることを放棄しようとしている。絶対的な多数として世界を制圧しつつある<普遍語>としての英語に、あなたが少女の頃から愛してきた日本語が亡ぼされることを夢見ている。

それはどういうことなのか。

極論かもしれないし、批判を覚悟でぼくは言い切ります。あなたは絶対的な強者に降伏し、<普遍語>という相手に力ずくでレイプされることを望んでいるのだ。愛してもいないのに。愛されてすらいないのに。

あなたはプライドを捨てた。英語という権力に屈しようとしている。侵されるがままにしている。情けなくだらしなく文体という身体を開いて権力を受け入れようとする文章に、自分を捨てた無力な女のなれの果てを感じました。あなたは、ほんとうに英語に「犯されて」いいと思っているのでしょうか。あなたが愛していた、あれほどまでに強く抱きしめていた日本語を見捨てて。

力がなくても、マイノリティだったとしても、凛とした姿勢で数の圧力に背を向けて自分のことばで語ろうとしている作家もいます。自分の選んだことばを愛しつづける作家がいます。たとえば第一章に登場する、北欧のことば、ノルウェー語で書くブリットです。

ノルウェーには公用語として「ブークモール」と「ニノーシュク」があるそうですが、ブリットはあえて新しい言葉である「ニノーシュク」を使います。それは圧倒的に使うひとが少ないことばです(P.47)。

ノルウェーの人口は四百六十万人。その一〇パーセントというと四十六万人。私が住む杉並区は人口五十四万である。ということは、ブリットは、杉並区の住民に読者を限って書いているようなものなのである。「ブークモール」で書くこともできたブリットが、あえて「ニノーシュク」で書くことを選んだのは、彼女が漁村で生まれ育ち、「ニノーシュク」の方が自分の魂と奥深くつながっているような気がするかららしい。詩的な言葉、詩的すぎるぐらいの言葉なの、と彼女は言っていた。

あなたに欠けるのは、この高潔さ、自分の気持ちに誠実に向きあい、愛情を守ろうとする信念ではないでしょうか。

世界的に絶対多数であろうとなかろうと、ブリットには関係ありません。<私>が、「詩的な言葉」だから、好きだから、マイノリティな言語でも書きつづける。たとえ読者が少なかったとしても、たぶんブリットは、「杉並区の住民に読者を限って書いているような」ことばをきちんと抱きしめることができていると思います。

作家・水村美苗に、ブリットのような覚悟はないでしょう。暗いこころの水面にうごめくものは、格差の呪縛ではないか。圧倒的な規模の経済が弱者を駆逐する囚われた思考が、あなたの自由を奪っている。

世界に向けて普遍的でありたい、たくさんのひとに読まれたい、という大きな志とともに、売れたい、というさもしい低い欲望もあるかもしれません。しかし現実として、あなたは「日本語で書く」マイノリティな作家にすぎません。

自虐で自分を嗤い、売名の欲望にとらわれている。敗者のみじめな意識で、時代を嘆く自分に陶酔し、退廃的な思考に溺れている。澱んだ沼から抜け出すことができないあなたは、その苛立ちを、自分の暗い欲望を、日本語が亡びるという言葉に転嫁して誤魔化しつづけている。自分の内なるほんとうの気持ちに目を瞑って。

冷めた読者の目で読んだとき、あなたの妄想の熱さがぼくには非常識に思われました。だから、とらわれたこころに批判的なことばを投げかけたい。いい加減に目を覚ましたらどうか、と。それでいいのか。

そうではない生き方、あなたが好きだったものたちを愛しつづける方法もあるのではないでしょうか。

ぼくは日本語を信じています。そもそも日本語は、中国からの漢字や、日本独自のひらがなや、外来語をしなやかに吸収して、生成変化しつつあることばであったはずです。

日本語を大切にすることは、古きよき時代を懐古し、古典という権威に絶対的に服従することではない。もちろんそんな至上主義もあるかと思いますが、別の考え方もあると、ぼくは考えます。時代は変わっていきます。変わっていく時代のなかで生成変化するものを受け止めることもまた愛である、と。

「英語の世紀」に入ったことは確かな現実かもしれません。けれども決して日本語はなくなったりはしない。守りつづけようとするひとが、たったひとりでもいる限り、日本語は生きつづける。

日本の教育が、社会が、政治が・・・と批判しはじめると、あまりにもブンガクは無力です。何もできなくなってしまう。けれども、朝起きたときに「おはよう」を大切に告げたり、子供の鏡面文字のようなひらがなの「の」や「と」を正したり、書きかけのブログの助詞や接続詞にこだわって何時間も悩むとき、ささやかではあるけれど、ぼくの行動は日本語を守っているのではないか、と感じます。

水村美苗さんのような国の言葉をどうこうしようという大義はぼくにはない。しかし、このパーソナルコンピュータの前にひろがるインターネットの身近な場所で、ぼくは(あくまでも個人としてのぼくは)日本語をきちんと抱きしめていたい。

<普遍語>として圧倒的な勢力を誇る英語を受け止めるということは、単純に英語を公用語にすること、英語教育を強化すればよいという話ではないと思います。言語の背景にある文化をきちんと流通させなければ意味がありません。

だからもし日本のグローバル化について考えるとすれば、英語力はもちろん、自分で考えること、意思をはっきりと述べるという英語圏の文化を社会に流通させることが重要ではないでしょうか。引用で自分を武装するのではなく、自分の思考力を駆使して自分で考えて、世界に向けて主張する姿勢を獲得すること。その真摯な取り組みのなかでは必然的に英語で話す必要性が生まれます。また、異なる文化に耳を澄ませることで、逆に日本のことばについての意識も高まるのではないでしょうか。

愛情は変化します。ティーンエイジャーのように、ひたすら憧れのひとに夢中になり、高いテンションで想うだけが愛情ではありません。抑圧され虐げられたとしても静かに長く想いつづけることもまた、愛情のひとつのかたちです。直視しがたい憎しみも含めて、変わり果てた愛をみつめるときもあるでしょう。だから、亡びるという水村美苗さんの言動も、日本語に対する愛の変容のひとつかもしれません。けれども、その姿はあまりにもさびしすぎます。

陳腐なことばではありますが、日本語と英語を継ぎ接ぎにしたような両性具有の作品を作るのではなく、英語のロジックをゆき渡らせながら日本語で書くような、きちんと交合した、つまり異なるものたちが愛し合ってひとつになったブンガクを生み出すことができたら・・・。

漱石は、そういうひとであったと捉えています。ロンドン留学における苦渋は彼に影を落としましたが、その悩み苦しんだ時間を作品のなかに融合させていったのではないか。村上春樹さんもまた、翻訳という仕事を通じて、文化の架け橋に注力されています。外国文学を愛しながら、日本のぼくらにもきちんと伝えようとしてくれている。きちんと日本語に対してこだわっている。

あなたは、決してマクロ経済のような冷たい視点でブンガクを語るのではなく(あなたは経済学者の父親のもとに生まれたということも知りました)、日本を担う作家のひとりとして、愛した日本語を<普遍語>のなかで生かす新しい日本語の「子供たち」を産み出すことができるはず。亡びるなどという安易な言葉で終わりを告げるのではなく、たとえ亡びつつあるものであっても抱きしめること。それが日本語を愛した作家として意義があるのではないでしょうか。

いまのあなたの姿勢には、ぼくは情けないとしか感じない。水村美苗さん。あなたは見失った愛を再発見するべきだと思う。余計なおせっかいではあるけれど、ぼくはそのことを伝えたい。

あなたは、自分の愛したものたちを、日本語を亡びさせるべきではない。日本語と日本文学に対する愛を貫いてほしい。そう願っています。あくまでも日本語を愛しているひとりとして(1月16日読了)。

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2009年1月22日

就任演説、翻訳とレトリック。

アメリカ史上初の黒人大統領が就任しました。実はオバマ氏の就任前に、こっそり買った本があります。CNNで報道された生い立ちや過去のスピーチの原文+対訳を掲載、音声をCDに収録したこの本です。

425500451X生声CD付き [対訳] オバマ演説集
CNN English Express編
朝日出版社 2008-11-20

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黄色のバックに赤い文字の表紙は視認性は高いかもしれませんが、いまいちデザインのセンスが悪いなあ、と思うのですが。それはさておき。

インターネットで検索すれば、原文や対訳はもちろん、YouTubeなどで実際の演説の映像もみつかる時代です。わかっていたのですが、自宅のネットが引っ越しのために開通していなかったこと、値段が1000円だったこと、たまたま1000円札がポケットのなかにあったので、自宅近くの本屋で購入。

内容がまとまっているのがうれしいですね。英語は苦手なのですが、説得力のあるスピーチはどういうものかということを考えながら聴くと、耳を傾けることができます。確かにスピーチはうまい。

冒頭で、オバマ流スピーチのレトリックとして、津田塾大学准教授の鈴木健さんが次の3つの特徴を挙げています。

①「実演」(enactment)
②「再現」(repetition)
③「イデオグラフ」(ideograph)

「実演」(enactment)とは、「話している内容の証明として話し手自身が機能する技巧」だそうです。「ケニアからの黒人留学生とカンザス州出身の白人女性との間に生まれたオバマ」は、自分自身のことを「人種の融合の象徴」として引き合いに出すことによって、多様性を肯定しながら人々が力を合わせる重要性を説得したようです。要するに、わたしがアメリカだ、というような主張なのでしょう。たしかに自分のことを比喩として取り上げながらアメリカのことを話すと、親近感が沸くだけでなく同調できます。

「再現」(repetition)は、「同じ構造の文を繰り返すことで、リズムを整え、聴衆に内容を理解しやすくする効果」。「イデオグラフ」(ideograph)は「覚えやすくインパクトのある言葉やフレーズを、政治的スローガンとして用いる技巧」とのこと。「希望(hope)」「変化(change)」そして「アメリカの約束(American Promise)」というキーワードが多用されたようです。あとはお決まりの「Yes,we can.」でしょう。

このレトリックは、政治だけでなく、企画提案などのプレゼンにも使えるかもしれません。もちろん技巧だけうまくなっても、人間性がともなわなければ、ほんとうに相手を説得することは難しいと思いますけどね。

就任式の日、最近巡回しているブログでもスピーチが取り上げられていました。小飼弾さんがスピード重視で原文と翻訳をアップされていました。ブログならではのスピードです。朝日新聞のニュースサイトも早かった。翌日には内田樹さんが原文と訳を掲載しながら所感を述べられていました。

訳文を比較してみます。というのは、「翻訳夜話」という本だったかと思うのですが、柴田元幸さんと村上春樹さんが、レイモンド・カーヴァーとポール・オースターの短編をそれぞれ翻訳していて、同じ英文でもこんなに違う雰囲気になるのか、と面白かったからです。

4166601296翻訳夜話 (文春新書)
村上 春樹
文藝春秋 2000-10

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学者であり本を書くひとの翻訳(内田樹さんのブログ)、ギークでありブロガーの翻訳(小飼弾さんのブログ)、メディアの翻訳(朝日新聞のサイト)ということで比較してみます。英文は内田樹さんのブログから引用させていただきました。

For us, they packed up their few worldly possessions and traveled across oceans in search of a new life.

■内田樹さん訳

私たちのために、彼らはわずかばかりの身の回りのものを鞄につめて大洋を渡り、新しい生活を求めてきました。

■小飼弾さん訳

我々にとって、それはろくな荷物ももたず、新たな生活を求め海を渡ってきた人々です。

■朝日新聞訳

私たちのために、彼らはわずかな財産を荷物にまとめ、新しい生活を求めて海を越えた。

For us, they toiled in sweatshops and settled the West; endured the lash of the whip and plowed the hard earth.

■内田樹さん訳

私たちのために、彼らは過酷な労働に耐え、西部を拓き、鞭打ちに耐え、硬い大地を耕してきました。

■小飼弾さん訳

我々にとって、それは搾取に耐え、西部へと渡り、鞭に耐えつつ硬い大地を耕してきた人々です。

■朝日新聞訳

私たちのために、彼らは汗を流して懸命に働き、西部を開拓した。むち打ちに耐え、硬い土を耕した。

For us, they fought and died, in places like Concord and Gettysburg; Normandy and Khe Sahn.

■内田樹さん訳

私たちのために、彼らはコンコードやゲティスバーグやノルマンディーやケサンのような場所で戦い、死んでゆきました。

■小飼弾さん訳

我々にとって、それはコンコード[独立戦争]、ゲティスバーグ[南北戦争]、ノルマンディー[第二次世界大戦]、そしてケサン[ベトナム戦争]で戦い命を落とした人々です。

■朝日新聞訳

私たちのために、彼らは(独立戦争の)コンコードや(南北戦争の)ゲティズバーグ、(第2次世界大戦の)ノルマンディーや(ベトナム戦争の)ケサンで戦い、命を落とした。

Time and again these men and women struggled and sacrificed and worked till their hands were raw so that we might live a better life. They saw America as bigger than the sum of our individual ambitions ; greater than all the differences of birth or wealth or faction.

■内田樹さん訳

繰り返し、これらの男女は戦い、犠牲を捧げ、そして手の皮が擦り剥けるまで働いてきました。それは私たちがよりよき生活を送ることができるように彼らが願ったからです。彼らはアメリカを私たちひとりひとりの個人的野心の総和以上のものと考えていました。どのような出自の差、富の差、党派の差をも超えたものだと見なしていました。

■小飼弾さん訳

よりよき生活を求め、犠牲もとわず争いそして働いてきたこれら男女のことです。彼らにとってアメリカは単なる個人の集まりより大きく、生まれや富や思想の違いよりも大きかったのです。

■朝日新聞訳

彼らは、私たちがより良い生活を送れるように、何度も何度も奮闘し、犠牲を払い、手がひび割れるまで働いた。彼らは、米国を個人の野心の集まりより大きなもの、出自の違いや貧富の差、党派の違いよりも偉大なものだとみていたのだ。

部分を抜き出したのですが、冒頭が「For us」の構文が3回繰り返され、先程の技巧でいうと「再現」(repetition)というレトリックになります。たたみかけるように繰り返すことで、意識のなかにイメージが折り重なっていきます。さすがだ。

訳文に優劣をつけるのはいかがなものかと思いますが、個人的な好みでいうと、ぼくは内田樹さんの訳に軍配を上げます。文章がこなれていて、やわらかくて読みやすい。著作全般にも感じられる印象ですが、しなやかに考えられるひとだと思う。

ブロガーの翻訳はどうでしょう。小飼弾さんの訳文は早かったのだけれど、残念なことに雑です。意図がわかりにくい(じゃあ、おまえが訳してみろといわれたらできませんが。すみません)。

海外の技術翻訳に、この日本語ってどうだ?と首を傾げる文章があります。申し訳ないのですが、悪い意味で、とても技術者らしい翻訳だと思いました。たぶんこういう書きかたをしているから、情報機器などのマニュアルって伝わらないんですよね。英語はもちろん、技術のことばを初心者にわかりやすく"翻訳"できていない。どうしても技術者・開発者は俺様視点で書くから、読み手に対して冷たい印象があります。でも、まあギークということで(意味不明)。

同様に朝日新聞も報道的な文章で味気がない。要旨はその通りかもしれませんが、読んでいてこころは打たないなあ、これでは。ただ、メディアによる報道はそういうものだと思うので(主観や感情を排して伝えることが重要)、これもまた仕方ありません。

内田樹さんのブログでは、この演説がなぜ説得力があるのかを次のように解説されています。以下の考察に、やっぱり内田樹さんの視点は鋭いな、と舌を巻きました。引用します。

よいスピーチである。
政策的内容ではなく、アメリカの行く道を「過去」と「未来」をつなぐ「物語」によって導き出すロジックがすぐれている。
「それに引き換え」、本邦の政治家には「こういう言説」を語る人間がいない。
私はいま「日本辺境論」という本を書いているのだが、タイトルからわかるように、日本人というのは「それに引き換え」というかたちでしか自己を定義できない国民である。
水平的なのである。
「アメリカではこうだが、日本はこうである」「フィンランドはこうだが、日本はこうである」というようなワーディングでしか現状分析も戦略も語ることができないという「空間的表象形式の呪い」にかかっている。

うーむ。考えてみると、ぼくが試みた3人の翻訳を比較する試みも「それに引き換え」的な「空間的表象形式の呪い」にとらわれている思考かもしれない(苦笑)。

自立したアイデンティティより、関係性を大事にしますね、日本人は。自分はこう思う、ではなくて、あのひとがこう言っていたから私もこう思う、というように、誰かの主張を借りてくることによって自分の主張の根拠とします。基本的に引用がうまい。決して悪いことではないと思うのだけれど。

ついでにこれも。

「過去の日本」はどうであったのか、「未来の日本」はどうあるべきなのか、という「時間軸」の上にナショナル・アイデンティティを構想するという発想そのものが私たちには「ない」からである。

オバマ大統領の演説に説得力があるのは時間軸による統合があるからで、日本の場合は空間軸に配置した発想で考えるのでまとまりがなくなる。範列(Paradigms)と統辞(Syntagms)という言語学的な用語を思い浮かべたりしたのですが、ひょっとすると英語が音の配列からなるリニア(線的)なことばであるのに対して、書き言葉において日本語は意味の広がりを持つ範列的な言葉だからかもしれないな、などとぼんやり考えました。学問的にきちんと裏づけはありません。思い付きです。

ちょうど麻生首相の言葉が「ぶれる」ことについて批判がありましたが、時間軸による統合がないから「ぶれる」わけですね。

過去にAと考えた→現在はBと考える→したがって、未来にはCを選択するだろう、というロジックの強い流れがない。というよりも各施策を貫くコンセプトあるいはメタの思考がないから、言っていることに「ぶれ」が生じるのかもしれません。報道をウォッチしている限りですが、どうしても日本の政治家は目前の施策のことしか考えられないようにみえます。

ただ、さらに考えを進めると、時間的な統合による説得は、ロジックとしての強さはあるのですが、一方で盲目的になり、排他性をもつ危険性があると感じました。オバマ氏の演説はアメリカの国民にとってこそ有効だけれど、その結束力がゆえに他の考え方を排除する印象もなきにしもあらず。

内田樹さんの指摘通り、日本人には時間軸の統合による説得力のある言説は苦手かもしれません。一方で、多くの言説を見渡したきめ細かな配慮は得意です。それを強みにすれば、よいのではないでしょうか。ロジックの弱さがあるかもしれませんが、全体を配慮できる思考も悪くはないと思います。やさしさ、ともいえるかもしれない。ただ、これからの国際社会のなかでは時間軸によるロジック負けてしまいそうな気もする。やさしいだけでは、だめか・・・。

理想としては、時間の統合に空間的な範列の視点とを取り入れることで、多角的な考え方ができるようになるのでは? 個人的には、タテ(時間軸)とヨコ(空間軸)の糸を織ったような思考ができるといいと思っています。概念的ですが、そんな思考の獲得を求めて、いままでブログを書いてきました。これがまた、難しいことなんですけどね。

投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

2009年1月21日

雇用問題を考える。

夢をみました。学校のような場所で試験の採点を受けている。セピア色の解答用紙に墨で大きな丸が付けられていきます。サインペンか何かの、しゃっ、しゃっ、という丸付けの音が聞こえるようです。紙をめくりながら採点していくのですが、あれ?一枚提出していない・・・と焦る内容でした。

いくつになっても、試験の夢ほど居心地の悪いものはありませんね。小学校の頃にはそこそこ勉強もできたはずなのですが、以後、すっかり勉強嫌いの路線をまっしぐらでした。大学を卒業するときの成績は目も当てられない状態です。けれども、若いころの不勉強の反動からか、最近は勉強意欲がぽつぽつと沸いています。ふつふつ、ではないところが控えめです。ぽつぽつ。

1月も半ばを過ぎて、通勤電車のなかでは参考書や講義ノートを開いて熱心に読み込んでいるひとたちをみかけます。大学入試センター試験は終わりましたが、受験の時期なのでしょう。

大学に通う学生たちは、後期試験の期間中かもしれません。遠い昔のことなので忘れてしまいましたが、そんな時期なのだと思います。レポートなどの課題もありました。徹夜で書き上げたこともあったっけ。結構大変なんですよね。学生の頃を偲びながら、まずはエールを送りたいと思います。

がんばってね。

プレッシャーもあり、しんどいかもしれないけれど、悔いのないように。

その辛さは永遠につづくものではありません。きっとあなたの未来は開けると思う。春には新しい世界が待っています。だからいたずらに焦らずに、落ち着いて、集中して、できるところからひとつずつ乗り越えてください。大統領のことばを真似るわけではありませんが、あなたにはできる。大丈夫。

応援しています。

+++++

さて、池田信夫さんのブログを読みつつ考えたことを書きます。

正社員はなぜ保護されるのか」「19世紀には労働者はみんな「派遣」だった」「部族社会と大きな社会」の一連のエントリをまとめて読みました。ここで書かれている見解は非常に興味深いものでした。

しかし一方で、どうなんだろうな、というぼんやりとした反論も感じました。理屈よりも感情に負う部分が多いかもしれません。けれども、できるだけ冷静かつ論理的に考えてみようと思います。

理屈で考えると、「正社員を過剰に保護する解雇規制」の撤廃という、池田信夫さんをはじめとする識者の施策はあり得ると思います。派遣労働者だけにしわ寄せがあり、厳しい状況に追い込まれるアンフェアな現在の雇用を打開する方法としては、効果的といえるかもしれません。

とはいうものの、やはり学者の視点というか、プレパラートの上から社会を眺めて考えているのではないか、という印象を感じずにはいられませんでした。血の通わない考え方が納得できない。

人道的ともいえる面から訝ってしまったのは、施策に伴う"社会不安"や"痛み"をまったく考慮していないのではないか、ということでした。理屈では正論だけれど、社会的には池田さんの言っていることは、ひょっとしたら正しくないかもしれないのでは、と。

ソニーが正社員のリストラに踏み切ったとき、業界には衝撃が走りました。欧米的な合理的な施策として評価もされましたが、ビジョンなく追随した企業や揺れ動いた企業もなかったとはいえません。今年になって景況は悪化していますが、この過敏な状況下で、さらにアグレッシブな正社員の解雇規制を撤廃する施策をとることは、はたしてよいのでしょうか。恐慌に脅える社会をさらに不安におとしめるものになるのでは。

時代の全体を見渡した配慮に欠けている、とも考えました。

というのは、成長期であれば正社員の解雇規制を撤廃しても労働の需要があるため、流動的な仕事の機会が生まれて、労働環境は活性化するでしょう。しかしながら、現状では派遣労働者さえ救えないのに正社員まで解雇したら・・・。仕事のないひとたちで世のなかを溢れさせて、混乱させる様相が目にみえています。社会全体を見渡した配慮ができていない、きちんと考察されていない。そんな見解として、ぼくはとらえました。

環境下で生きるひとの痛みを考慮せずに、正社員の解雇規制の撤廃を掲げているとすれば、その提言者は、象牙の塔という安全な場所に引き篭もって思考遊びに夢中な世間知らずか、あるいは非人間のどちらかではないか。提言している知が正しく、学問に裏付けられて権威があったとしても、人間性に欠けた施策には、ぼくは賛同できません。

いや、甘いこと言ってんじゃないよ、強いものが生き残るんだ、この不況はサバイバルだ、それぐらいの血を流さなきゃ社会は変わんないよ、と、かつての政治のリーダーのような言葉で反論があるかもしれません。でも、それでいいのでしょうか。違うんじゃないかな。

こういう時代だからこそ人間性が求められると考えます。混乱した世の中だからこそ、合理性のもとに感情を逆撫でして混乱をさらにかき混ぜるイノベーターよりも、弱々しくても君子として志があり、じっくりと耐えるようなハートウォーマーな施策を求めたい。

社会全体を救うためには犠牲も必要だ、という考えもあるかもしれません。しかし、どちらかを切り捨てる発想ではなく、強者も弱者も同時に救おうとしたとき、もっとも高い次元の知が発動されるのではないでしょうか。それはとてつもなく困難な"課題"です。困難ではありますが、難しいからこそ取り組みがいがある。

派遣を切ればいい、正社員の解雇を認めればいい、というどちらも、ぼくには安易な施策にしか思えないし、根本的な解決にはならないと思います。

「終身雇用は日本の文化や伝統に根ざしたものだ」の「根ざしたものだ」という起源については池田信夫さんが指摘しているように「論理的にも歴史的にも根拠がない」誤りかもしれないのですが、その誤りを指摘することが重要ではない気がしました。それは言葉じりをとらえた、揚げ足とりにすぎない。

ぼくは正社員の解雇を認めることに反対、というわけではありません。そうした施策が新たな機会を創出することもあるだろうし、雇用の澱みを活性化する場合もあるでしょう。しかし、日本の文化や伝統に適合している、という意味では、終身雇用は重要だと考えます。

終身雇用によって雇用の流動性が失われるということもわかります。ただ、雇用対策の施策は理論で正しいことよりも、時代に合ったものであるべきです。景気が好調なとき、ビジネス全体が攻めの状態のときであれば、正社員の解雇も容認して、ワーカーの実力を流動的にすることで経済全体を活性化できるかもしれませんが、不況時には逆に守りを固めたほうが強いと思います。

たとえば、厳しい不況下において「おまえら一生守ってやるから頑張っていっしょに会社を守れ!」と、吹きすさぶ嵐のなかで全員を奮い立たせ、スクラムを組めるようなリーダーがどれだけ頼りになるか。

懐古趣味で言うわけではありませんが、ビジネスの現場では、一心同体のつながりが日本的経営の強みではなかったかと認識しています。そして、いまの政治に欠けることも、迷いのない強力なリーダーシップ+一致団結して協働して作り上げていく組織の在り方ではないか、と考えました。離党という安易な行動を取るのではなく、なぜ組織内で徹底的に話し合わないのか、納得がいくところまで考えないのか。中途半端さが、ぼくには歯がゆい。

一匹狼の大学教授にすぎない池田信夫さんにはきっとわからないかもしれませんね。おれには関係ないし、正社員切っちゃえばいいじゃん、と言及するのはきっとたやすい。

20090126.jpg

時代を反映して、AERAの1.26号は、100社の「給与明細」というエグい記事のほか、人気企業ランキングなど不況のなかで強い企業の記事が特集されていました。

合理的清貧として、2年間のホームレス生活の経験があるオウケイウェイヴの兼元社長や、元マイクロソフト日本法人の社長だった成毛さんの記事などがありました。

記事のなかで「5%賃下げしても雇用は守る」という、日本電産の永守社長のインタビューに注目しました。

まずは、リーダーの在り方。経済危機に対して、スズキやトヨタなどの自動車メーカーでは、まっさきに創業家出身の経営者が陣頭に立ちました。そのことを次のように肯定します。

「平時は合議制でいいですよ、ワンマン経営には弊害もあるでしょう。しかし、こういうときは、求心力が大事です。創業者なり創業家出身者なりワンマン経営者なりが、ことに当たらないといけません。全社員のベクトルをあわせ、全員参加で不況に立ち向かう。そういうときに先頭に立てるのは、創業者やワンマン経営者です。やることが『甘い、遅い、中途半端』では手遅れになる」

そもそも日本電産には派遣社員が少ないそうですが、人員削減はしないとのこと。企業の生き残りだけでなく、広い視野で考えられています。

「正社員の雇用は絶対維持したい。営業損益段階では赤字にしたくないですが、もし赤字になりそうな状況が見えてきたら、ワークシェアリングを視野に入れないといけないと思っています。雇用が崩れたら社会がアウト。治安は悪くなるし自殺する人も出てくる。ワークシェアリングしてでも雇用を守ります」

ここで、池田信夫さんにはなかった視点は、治安や自殺者の増加という社会への影響です。自社を守るとともに社会的影響についても考えられる経営者は器がでかい。

守ることのほうが攻めることの何倍も大切なことがあります。しかし、「個」が「孤」である社会や会社は、結束力の面では弱い。正社員という戦力を削っていることは、コスト削減によって会社の全体を守ることができるかもしれませんが、はたして長期的にはどうなのか。数値にはあらわれない何かが失われていくような気がします。

最後に永守社長が新年に訓示したという次のことばを引用します。

「花の咲かない寒い日は下へ下へと根を伸ばせ」

+++++

この派遣労働者、正社員、終身雇用の問題には、正解は?ぼくにはわかりません。しかし、まず考えることに意義があると思っています。

投稿者 birdwing 日時: 22:19 | | トラックバック

2009年1月16日

セキュリティについて少し。

自宅でインターネットが使えないので、ネットカフェを転々としてブログをアップしています。引越し屋さんはとても手際よく仕事をしていただいて感動したのですが、インターネットのお引越しがいちばん手間がかかっています。願わくば、引越し屋さんでネットの移転もお願いできるといいんですけどね。

ネットカフェを使っていて、ときどき怖いなあという状況に遭遇します。ログインして使うWebメールでは気をつけたほうがいいですね。ほんとうにキホンなのですが、ユーザー名やパスワードの下ある「次回から入力を省略」のチェックボックスを外すということ。この基本ができていないひとがいるようです。そしてとても怖いことになっています。

なぜ怖いかというと、次にPCを使う他人にメールを読まれてしまう。

専門家ではないので常識的な解説しかできないのですが、入力を省略のチェックボックスにチェックを入れてしまうと、クッキー(Cookie)という情報を記録するファイルがPCのなかに保存されます(用語はこちら)。IDやパスワードが保存されるわけです。

自宅のPCであれば、次に使うときに入力を省略できるので便利ですが、ネットカフェや学校の共有マシンのような外部では、逆に保存したIDやパスワードから簡単に利用されてしまう。気をつけましょう。うっかりやってしまったら、パスワードをこまめに変更するなどしておいたほうがよいと思いますよ。

先日も、とあるネットカフェでブラウザを立ち上げたところ、Yahoo!がホームページとして表示されるのですが、Webメールの部分に男性と思われる個人のアカウントが表示されていました。まさか入れないよな、と思ってクリックしたら、受信メールの一覧が表示されてしまった。慌てて閉じました。mixiなどからの転送メール一覧が全部丸見えでした。かわいそうなので情報を消してあげたのですが、ぼくのような善人でよかったね、どこかの誰かさん。場合によっては、なりすましなどに悪用されてしまう。

ちなみに個人的な心がけとして、第一に怪しいネットカフェは入らないようにしています。第二に、カフェから出るときには必ずログアウトするとともに、ブラウザのキャッシュ(履歴やクッキーやファイル)を全部削除しています(それでも不安は残るのだけれど)。

信頼できるカフェでは、シャットダウン時に情報をクリアしたり、次のひとが使う前にメンテナンスしているようですが、念には念を入れたほうがいいと思います。いちばん安全なのは、自宅できちんとしたセキュリティの環境のもとで安全なネットを楽しみ、ファイル共有ソフトはぜったいに使わない、ということなのですが。

さらにこだわるのであれば、キーロガー対策だと思います。キーロガーは悪質なウィルスの一種で、キーボードから打ち込まれた文字列を読み取ってしまう。もしネットカフェのPCが感染している場合には、IDやパスワードが盗まれてしまうわけです。

マウスで入力すればキー操作が盗まれないため、ネットバンクなどでは、セキュリティキーボードが用意されているようです。キーロガー検出用のフリーソフトもありますが、簡単なところでは(ちょっと記事は古いけれど)、CNETのブログに書かれていた「ランダムで文字列を打ち込み、その中から必要な文字をコピーペーストしてIDとパスワードを入力」という方法もなるほどなあと思いました(記事はこちら)。

今年のはじめにはセキュリティのプロであるIPA(独立行政法人情報処理推進機構)の男性職員が情報漏えいの事件を起こして、ものすごいバッシングを浴びていました。「ファイル交換ソフトは危険だから使ってはいけない」と啓蒙している団体の職員がファイル共有ソフトを自宅で使っていたわけです。アプリケーションや、いかがわしい画像をダウンロードしていたところ、ウィルスに感染。しかもパソコンのなかには前職の仕事で扱っていた百貨店の顧客情報も保存してあり、それらが流出したため、大きな騒動になっていました。

気をつけなければなあと思って、先日深夜まで自宅近くのネットカフェでブログ公開作業をしていたのですが・・・。帰ってみると、USBメモリをPCに挿したままネットカフェに忘れてきた!どっひゃー。

慌てて次の日に、開店と同時に回収に行きました。きちんと店員さんが保管してくれていたので安堵。といっても、ブログの草稿と写真しか入っていなかったんですけどね。それでも推敲前の駄文がみられるのは恥ずかしい。

ただ、この契機にセキュリティのことをいろいろと考えました。指紋認証までいかなくても、USBメモリに物理的にロックをかけたり、ファイル自体もパスワードをかけておくとか、気をつけようと思います。

とはいえ、うっかり置き忘れたという人的ミスがいちばん怖い。どんなにテクノロジーが助けてくれたとしても、肝心の人間がぼけーっとしているのがいちばん問題です。気を引き締めよう。飲んだら乗るな、というクルマによる事故を防ぐための心構えのように、用心するよりしないのがいちばん。

仕事の重要情報はぜったいに持ち出せないようになっていますが、規律がゆるい会社でも、大事なデータは持ち帰らないこと。納期が切迫していたとしても、目前の仕事を優先するばかりに信頼を失くしてしまったら、どうしうようもないので。

ちょっとした配慮が大切です。気をつけましょう>特に、自分。

投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

2009年1月15日

カンフーダンク

▼cinema09-03:中国的な、なんでもアリの面白さ。

B001H4VTD0カンフー・ダンク! スタンダード・エディション [DVD]
ジェイ・チョウ, チェン・ボーリン, バロン・チェン, シャーリーン・チョイ, チュウ・イェンピン
角川エンタテインメント 2009-01-09

by G-Tools

中国というのは、凄い国だと思います(行ったことないけれど)。海賊版の製品が多く、日本のヒット商品も次々に真似をされているようなことを聞いた覚えがあります。商魂の逞しさには、ほとんどあきれるほど凄いなと思ってしまう。

また、なんでもアリのめちゃめちゃな発想も面白い。IT系のニュースで、中国製のノーブランド(メーカー名さえ記されていないことが多いらしい)の携帯電話を紹介した記事を読んだことがありました。太陽電池で充電できる電話など、中国製おもしろケータイはあらゆるものを融合させてしまうらしい。

ちなみに太陽電池付き携帯電話は、ほとんどすぐ使えなくなるとのこと。しかし、文句を言うと、充電すればいい、と切り替えされるようなところが中国的です。エコなのか何なのかわかりません。機能的には全然ダメなのですが、発想がすべてであとは知りませーん、のような無責任な脱力感が、なんだか気持ちいいですね。本気で考えると、怒りたくなりますが。

年末に「カンフーパンダ」という映画を家族で観ました。なかなか面白かったらしく、子供たちは3回ぐらい観ています。で、カンフーつながりの作品ということで、テレビでも紹介されていたので借りてきたのが「カンフーダンク」なのですが、結局、家族はあまり興味がないようでした。仕方なく、おとーさんはひとりで観てしまったよう(苦笑)。「少林サッカー」というヒット作品もありましたが、あのスタッフが作っているらしい(やっぱりねえ)。こちらの「カンフーダンク」は、格闘技(カンフー)+バスケットボールという組み合わせです。

発想法のポイントは組み合わせだ、ということを広告業界ではジェームス・ウェブ・ヤング、あるいは野口悠紀夫さんなどが言っていたように記憶していますが、パンダ+カンフーという組み合わせもあれば、カンフー+バスケットボールという組み合わせもあります。東洋的なものと西洋的なものの組み合わせです。

この組み合わせが実は難しいもので、ただ継ぎ足すだけでは完成された作品にならないと思う。異なる文化を融合させるところに意味があるのではないか。

と、思っていたのですが、あきらかにトンデモナイ結合感覚で作られた「カンフーダンク」にまいりました(笑)。これってありか?とひどい展開があるのだけれど、笑えます。はちゃめちゃな組み合わせぶりが中国のパワーなのかもしれない。具体的には映画の内容には触れませんが、ふつうはここまでやらないだろう・・・と困惑でした。しかしながら、なんとなく押し切られて納得してしまう。

スポーツ根性ものの要素もあれば、ブルース・リーから引き継がれてきた伝統的なカンフー映画の醍醐味もあり、ワイヤーアクションやSFXもある。ついでに恋愛映画の少しだけ切ないシーンもある。韓国映画のパクリか?と思うような涙を誘う場面もありました。ひょっとしたらそもそも、日本のマンガ「スラムダンク」を思いっきり意識している気がする。

屋外のバスケットコートの傍に捨てられていた赤ん坊ファン・シージエ(ジェイ・チョウ)は、カンフーの学校で育つのですが、公園で百発百中で缶をゴミ箱に捨てていたところ、リー(エリック・ツァン)に出会います。リーはプロモーターあるいは父親の役割を担って、彼を大学に編入させるとともに、両親を探している天涯孤独な天才バスケット選手として売り出します。

という物語の枠組みだけをとらえると、去年の終わりごろに観賞した「奇跡のシンフォニー」と重なりました。あの映画でも、子供たちストリートミュージシャンからお金を巻き上げるブローカーをロビン・ウィリアムズが演じていて、主人公の少年を音楽家として育てます。ただ、圧倒的に違うのは、どちらもお金儲けに目がないブローカーもしくはプロモーターなのですが、リーのほうは、結局のところお金よりも絆を選ぶということです。演じているエリック・ツァンの人間的な魅力もあるのだけれど、「カンフーダンク」のほうがあたたかい。ひとのつながりによるぬくもりを感じます。

というわけで、なんだか「ノーカントリー」「ダークナイト」とつづけて観た暗い気持ちを、笑いやら涙やらで、すかーっと爽快に吹き飛ばしてくれました。こういう映画もいいなあ、たまには(1月12日観賞)。

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■公式サイト
http://www.kf-d.jp/

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2009年1月14日

場の記憶、あるいは飛べない何か。

そうだ、空港に行こう、と思い立ちました。理由はないのですが、なんとなく。

空港に関していえば、旅行の経験が著しく少ないぼくには、いまでも空港は特別な場所です。特別というのにはもうひとつの理由があって、電車の駅であれば線路つづきでつながっていて、自動車であれば道路、船であれば海が介在している。しかし、飛行機は離陸すれば地上に残されたひととのつながりを絶ってしまう。地上におけるあれこれと接点を切る場として、ぼくは空港に特別な意味を求めていたように思います。

風景や場が記憶を覚醒することがあります。卒業した大学のキャンパスに戻ると、ありありと学生の頃を思い出すとか、旅行した土地に再び訪れたときに過去の時間がよみがえるとか。

ぼくのなかにある空港の記憶は、緊張が入り混じりながらも楽しいものばかりでした。空の写真を撮りつづけているぼくにとっては、ゲートを潜れば空に近づくことができる場所であり、それだけでもこころが逸る。

とかなんとか。

テツガク的な戯言はともかく、仕事をはやめに終わらせて電車に乗りました。

地下鉄で新橋まで出て、その後はJRに乗り換えて浜松町へ。帰宅時間のせいか、おじさんたちに囲まれて困惑。おじさんは新橋をめざす(のか?)。久し振りにモノレールに乗りました。

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時間帯のせいか、モノレールの席はがらがらでした。どこかの体育館でバレーをやっている姿や、和服で扇子を回しながら踊っている姿がみえました。煌々と灯りの付いているオフィスも多い。お疲れさまです。すっかり夜なので景色は全然みえません。でも、街の灯りが遠く後方に追いやられていくのを、ぼんやりと眺めていました。飛行機から眺めるときれいなんですけどね。ちなみに、ぼくは天空橋という駅名が好きです。なんだか詩的な感じがする。宮崎監督のラピュタを連想するというか。

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空港に到着。出発ロビーです。目の前で、がらがらのキャスター付き荷物を引っ張りながら女性がこけてた(苦笑)。その後、エスカレーターでもこけてる女性がいました。気をつけましょう。焦らずにね。

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見送るひと、到着するひと。チケットを持っていないのが残念です。これでは飛べない小鳥だ。どこかへ飛んで行きたいものだなあ。しかし、どうしてチケットがないのに空港にいるのでしょうか、わたくしは(苦笑)。まあいいか。帰国する国が紛争のために足止めされて、空港で働きながら出発の日を待つ「ターミナル」という映画もありました。トム・ハンクスが主演でしたっけ。

のぼったことがなかったのですが、6Fに展望デッキがあるということで行ってみました。名前はBIRD'S EYE(バードアイ)。おお、ブログのハンドルが鳥だけに親近感がわきます。

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しかし、外に出てみたらさみーのなんの(苦笑)。寒すぎ。風がびゅうびゅう吹いていて、オイルというかガスの臭いがきつい。そんなわけで、ほとんど数人しか人影なし。さ、さ、さ、寒すぎる。がたがたがた。しかし、どういうわけかカップルのほかは、単独の女性が数名。飛行機マニアでしょうか。それとも彼氏を見送っているのでしょうか。

鉄の柵には部分的に大きな穴があって、そこから撮影ができます。穴にデジカメを固定して飛行機をスナップ。暗いので、なかなかうまく撮れません。ぶれるぶれる。というか寒さでぶれる。

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夜の空港も、なかなかよいものです。すらりと流線型の機体が美しい。遠くに街の灯りが線のように並んでみえました。はああ、あの飛行機に乗ってやっぱり飛んでいきたい。

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レストランもありましたが、誰もいない。ゴーストだけが風に吹かれている。

すっかり冷え切ったので展望デッキを後にして内に入ると、次第に冷たい指先にもあたたかさが戻ってきました。書店をうろうろして体温が回復するのを待ったのですが、風で髪の毛がぼっさぼっさになっていた。その後、到着ロビーにあるプロントへ。お茶を飲もうと思ったのだけれど・・・。

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メニューを眺めながらいつの間にか頼んでいたのは、プレミアムモルツ(ビール)とパストラミビーフのサラダでした。ビールは足りなくて、その後プレミアムモルツクロのジョッキを追加してしまいました。苦味がうまい。向かいの席には誰もいないけれど、とりあえず乾杯。

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まったりとひとりで飲み食いしていると、隣の席にモデル風(あるいは水商売風)のきれいなおねえさんがふたりやってきて、ひとりは既婚らしいのですが、既婚ではないほうのおねえさんが、彼氏と元彼とフランス人の3つ巴のレンアイ関係について語りはじめました。

携帯電話の写真を友達に見せながら「これがフランス人、ちょーかっこいいでしょ?逆ナンしちゃったんだよね。逆ナンなんて、はじめてだったよ。で、ぶちゅーの写真。こっちもぶちゅー。でもね、このときは、もうひとりの彼が好きだったから、揺れてたのよねー」などと盛り上がりはじめたので、ぼくは退席。女性って気が多いよなあ。やれやれ。

帰りの電車が長かった(涙)。でも、下膨れの満月に近い月がとてもきれいでした。モノレールからは屋形船もみえました。家に帰りついたころにはすっかり酔いも冷めて、またビールをあけてしまった。なんだか小旅行をした気分です。なにやってんだか。でも、こういう無目的にどこかへふらりと行くのも悪くないですね。本格的に旅行をしたくなりました。どこかへ、ひとりで。

空港を離れた場所で考えたことを少しだけ。

日本語が亡びるとかブログは終わったとか、識者は終わりを宣言したがります。あるいは、おれの人生はもうおしまいだと、人生を諦めて自分を殺めてしまうひともいるかもしれません。安易に共感できる、よくわかるよ、とはいえませんが、終わらせなければならない辛さもきっとあるでしょう。煉獄のような苦しみから解き放たれるためには、どこかできっちり線を引かなければならない。負の連鎖を断ち切る勇気も、ときには必要です。

けれども・・・と、往生際の悪いぼくは考えます。

いずれは終わりたくなくても終わってしまう生なのだから、みずから終わらせる必要はないのではないかな。もう少しつづけてみませんか、と。あるいは、どうやったら継続できるか、維持できるか、ということを考えるときに新しい生き方も閃くのではないだろうか。関係性というものは生成変化していくものであり、一般論として正しいものが正解ではなく、状況下で自分が選択した答えが正しい。

淡い、とはいえない強い何かがぼくのなかにあり、終わらせることもできなければ、忘れ去ることも捨て去ることもできないまま、わだかまっています。いったいこれは何なのか。毎日のように考えつづけて考え抜いたところ、なんだかよくわからなくなりました(苦笑)。いっそのこと脳内のこの部分だけメモリをクリアできればしあわせなんだが、と思ったりするのですが、そうもいかない。しぶとく消えてくれないんだな、これが。

飛べない何か。夜の展望デッキで吹きさらしの風に凍えていたときは、そんな何かも吹き飛んでしまったのですが、どうやら根強くここに残っているようです。その何かを相棒として、うまくやっていこう。な?相棒。

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2009年1月13日

科学の欺瞞、文学の欺瞞。

リチャード・ドーキンス氏が英国の公共交通機関で展開されている「無神論」キャンペーンを支援していることを知り(ロイターの記事はこちら)、そういえば「利己的な遺伝子」は著名な本にも関わらず読んでいなかったことを思い出しました。遅ればせながら今度、本屋で購入することにしましょう。読まなきゃ。

そこで、彼のことをWikipediaで調べていたところ、脇道にそれて「疑似科学」のページを読んでしまった。ところがこれが面白かった。以下、まず疑似科学について定義している部分を引用します。

疑似科学(ぎじかがく)[1]とは、学問、学説、理論、知識、研究等のうち、その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりしていながら、現時点(As of Today)での知見において科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たしていないものを言う[2]。

たとえば脳科学者に関していえば、池谷裕二さんは科学者だと思うのだけれど、茂木健一郎さんは(とても失礼ですが)芸能人だと思う。科学者らしくない印象があります。

茂木健一郎さんは、数多くの著作を出されていますが、科学的には根拠のないエッセイも多く、科学者としては信憑性に欠ける気がしました。やわらかく最先端の知を教えてくれる意味ではよいのですが、初期の著作以外は疑似科学的な書物が多い。といってしまうと暴言でしょうか(苦笑)。

個人的な見解では、著作における茂木健一郎さんは科学者ではなく、小林秀雄のような評論家もしくはエッセイストだと思っているので、疑似科学でも十分だと思います。楽しければね。

しかし、さすがに「思考の補助線」は酷い本だと思いました。

448006415X思考の補助線 (ちくま新書)
茂木 健一郎
筑摩書房 2008-02

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茂木さんのファンではなければ読者は一冊一冊購入して読むわけです。献本でただで読めるブロガーならともかく、ぼくらはお金を払っている。購入した対価に相応しい内容を提供してほしいと思います。

同様に連想したのは、どこか偏った日本語論を語ろうとする水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」は、"疑似文学(論)"のようだ、ということでした。最近、よく引用しますが、とりあえず最後まで読もうとしているところで、もうすぐ読了です。

4480814965日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
筑摩書房 2008-11-05

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「日本語が亡びるとき」もまた、エッセイと銘打ったほうがよいと思います。中途半端に文学を論じているようなところがよくない。書店によっては人文科学系の専門書コーナーに置かれていて、探すのに苦労しました。あの内容は学問ではないと思う。といっても女性作家の棚では売れそうにないし、書店としても困るところかもしれません。

しかし、ですよ。仮に意図して無意味な用語をちりばめているのであればすごい、とも考えました。というのは、Wikipediaの「疑似科学」の項目を読んでいて、ソーカル事件について知ったからです。引用します。

学者として認知される人も、自説を権威づける為に科学的な専門用語をもともとの意味を理解するつもりもなく並べる事がある。[19]

このような事態の一つの批判として、物理学者のアラン・ソーカルは、あえて科学用語を出鱈目に使った疑似哲学論文を書き上げて、有名な人文学評論誌「ソーシャル・テキスト」に送りつけたところ、査読を通過し、見事に載録されてしまった。そしてソーカルはその後ブリクモンとともに「『知』の欺瞞」という本を書いて、人文学批評に疑似科学的な表現があふれている事実を広めた。

これはすごいですね。学者の論文のなかには、難しい専門用語を列記して煙に巻くような意味不明な文章も多くあります。意図を探ろうとすると、ますます迷路にはまり込みます。こうした知に対する批判として、アラン・ソーカル氏は意図的にめちゃくちゃな科学用語を使った論文を捏造して専門誌に送ったところ、スルーで掲載されてしまったわけです。やるねえ。ちょっと意地が悪いけれど、痛烈な批判だ。

ソーカル事件については、Wikipediaで別に項目が立てられて詳細に解説されていました。非常に興味深く読みました。

科学用語を比喩として使っているだけでなく、本気で出鱈目な科学用語を使っているポストモダンの哲学者もいて、そんな無節操な学者を批判したかったらしい。批判の対象になったポストモダンの思想家として、ジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリ、ジャック・ラカン、ジュリア・クリステヴァの名前が出てきて懐かしくなりました。クリステヴァとか学生の頃に読んだっけなあ。よくわからなかったけど(苦笑)。

それにしてもソーカル事件。編集者は何をやっていたのだろう。ザルだったのでしょうか。

茂木健一郎さんの「思考の補助線」にしても、水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」にしても、この2冊にぼくが不信感を抱いたのは、第一に作家の姿勢です。あまりにもひどい擬似学問的な言及によって、原稿用紙を埋めればいいだろうという枚数稼ぎとも思われる作家の不誠実な姿勢にあります。しかし第二に、編集者がきちんと世に出す前にチェックしたのか、ということを感じました。書籍は編集者との共同作業によって生まれるはずなので。

いずれも出版社は筑摩書房です。筑摩書房といえば知の最先端として、すぐれた本をたくさん出しているはず。優秀な編集者がたくさんいるのではないでしょうか。その編集者が、あの内容でよしとしたのだろうか。

活字離れは年々激しくなっていくようです。ブームの新書に活路を見出したとしても、キャッチーなタイトルの本ばかりが先行して、競争が激しくなっていると思います。しかし、酷い内容だけど出しちゃえ、のような悪書量産体制は、逆に本離れを加速させるのではないでしょうか。本好きな自分としては歓迎できる傾向ではありません。いい加減に書いてお金を巻き上げる作家より、真剣に書いている一般のひとのブログを読んだほうがよほどよいと思ってしまう。プロ意識に欠ける本にはお金を払いたくない。

編集にもプロモーターやマーケッターのスキルが必要な時代かもしれません。けれども、利潤追求の商人的なスタンスではなく、昔ながらの編集魂を取り戻して襟を正してほしいものです。もしかすると梅田望夫さん+水村早苗さんの一件も、筑摩書房がくわだてた「日本語が亡びるとき」のブログプロモーションの一環だったかもしれないですね。のせられたか。

という意味では、読者も批判精神を持って、自分の考えから情報を精査する必要があります。影響力のあるブロガーが推薦しているからといって浮わついた言葉に流されて闇雲に買うのは、無駄な出費です。結局のところ、そうやって意志薄弱なまま本を購入しても、献本者や出版社と共謀して一行だけのレビューを書いたブロガーをアフィリエイトで喜ばせるだけでしょう。読者には得るものが何もなかったりします。また、テレビに出ている、話題になっているから作家だからといって、書いたものを盲目的に信じるのも危険です。

一方、ブログで文章を書くぼくらも気をつけなければなりません。

なんとなくわかったような気になって、口当たりのよい言葉を使って安易に論じるていると、とんでもない思い込みだったりすることもあります。解釈は自由ですが、ひとつの解釈の対極となる解釈、あるいは横展開して派生する解釈をきちんと考え、複数の可能性のオプションから考えを立体的に組み立てることが重要ではないでしょうか。

脊髄反射的な"断言"はわかりやすいけれど、そのわかりやすさの危険性も知っておくべきです。ひょっとしていまオレはわかりやすさの暴力に洗脳されてないか?と振り返ること。常に自己を点検し確認する客観性は持っていたい。

ただし、慎重になりすぎてもいけない。一歩踏み出すときは無知でも構わない、とも考えます。そうではないと踏み出せなくなってしまうので。書いて、叩かれて、悩んで、考える。その過程でブロガーとしての成長もあるわけで、最初は無知であっても、書きつづけているうちに、おのずと内容は深まっていくはずです。

たとえば、5年前には、ぼくはほとんど映画を観ていませんでした。けれども年間100本鑑賞!を掲げて、とにかくノルマのように毎週2本レンタル屋で借りてきて(結局、忙しくて観れなかったことも多かった。泣)感想を書くという課題を課しているうちに、量が質に転じたと感じる時期がありました。まだ映画通にはほど遠いのですが、数年前の無知な状態と比べると、少しだけ映画についてわかってきた気がしています。

音楽についても同様です。最初は試聴してもハズレを掴むことが多かったのですが、試行錯誤をしているうちに、身体で好みの音楽を掴んでいくことができる。CDショップでどこへ行けば自分に合った音楽が眠っているか、その在り処について嗅覚が効くようになってきました。

が、知りすぎるのもよくない(うー、どっちなんだ。笑)。あの俳優がどうだとかカメラのアングルがどうだとか、インディーズの実験性の高い音楽にかぶれてしまうとか、これもまた知ったかぶりの行為や言葉が出てきてしまう。なので、踏み出しつつ振り返る進歩がやはり必要です。

わからない言説に出会ったとき、ああこれは自分のアタマが悪いからわからないんだ・・・と考えると思考停止します。ひょっとしたら、わからないことを言っている相手のほうが、アタマが悪いのかもしれない。あるいは、どこかで借りてきた言説を繰り返しているだけで、発言している本人が自分の言っていることを少しも理解していないかもしれません。

子供が、なぜ?どうして?ほんとう?と訊くように、鵜呑みにしないこと。知らないひとについていってはいけないこと。簡単に欺かれないこと。実は情報化社会で自衛のために最も必要であり、かつ知的な行為は、この疑う精神ではないでしょうか。振り込め詐欺にも対応できるわけで。

「日本語が亡びる」といわれたとき、ああ亡びちゃうんだ、やっぱり英語だ、とあたふたするのではなく、ほんとうに亡びるのか?と問いただせること。知的好奇心を発動させながら、ちょっとやそっとでは欺かれない。そんなひとになりたいものです。

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2009年1月12日

ダークナイト

▼cinema09-03:救われない暗黒の物語。

B001AQYQ1Mダークナイト 特別版 [DVD]
クリスチャン・ベール, マイケル・ケイン, ヒース・レジャー, ゲーリー・オールドマン, クリストファー・ノーラン
ワーナー・ホーム・ビデオ 2008-12-10

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ヒーローがヒーローになれない時代です。ぼくらが子供の頃にはヒーローといえば頼れる存在であり、何の迷いもなく悪を滅ぼせばよかった。勧善懲悪というステレオタイプの物語のなかで、善玉と悪玉の役割は水と油のように明確に分かれていました。

ところが、子供たちのテレビ番組(仮面ライダーやウルトラマンなど)に関しても同様のことがいえるのだけれど、数年前からヒーロー像が大きく変わりつつあると感じています。何が善で何が悪か、ということがはっきりしなくなってきました。ヒーローのなかにも悪いやつがいる。また、こいつは悪なのか善なのか?と立ち位置が曖昧なヒーローまで登場するようになりました。かと思うと、侵略者や怪獣にも倒すべきではない善人(善獣?)がいたりする。どうなってるんだ。

さらにヒーロー自体が、おれは正しいのか?と悩むようになってしまった。人間的な側面というか、弱さを開示するようになりました。ヒーローでありながら、プライベートな個人としてのしあわせ(恋人と結婚すべきか断念すべきか)と、汚れた悪人から社会を守ることの義務を天秤にかけたりもする。ある意味リアリティがあるのかもしれませんが、ヒーローはマッチョなだけでなく精神的にもタフであってほしいと思うのは、ぼくだけでしょうか。だから、なんとなくがっかりする部分でもあります。ヒーローは強くなくっちゃ。

アメリカンコミックに登場するヒーローたちも、昔はもっと単純だった印象があります。ところが、バットマンにしろスパイダーマンやスーパーマンにしても、ヒーローたちの苦悩は年々作品を追うごとに深まりつつあり、なんだかとても複雑なことになってきています。悪を滅ぼすことによって悪の力を強めているのではないかのような、殺虫剤を使ったら遺伝子の突然変異で強力な繁殖力をもった蚊が出てきちゃったんだけど、それって退治したぼくのせい?というようなことで、ちまちま悩むようになってしまった。あげくの果てに悪を倒すことにためらいまで生まれるようになりました。

うーん、ヒーローのみなさま。考えすぎじゃないのかなあ、これ(苦笑)。

世知辛く生きるのがツライ現実ですが、ヒーローもたいへん生きにくそうです。それだけ世のなかが複雑になってきているのでしょうね。世相を反映しているのだと思います。

たとえばインターネットという技術革新(=ヒーロー)によって世のなかは便利になったけれど、一方で人間の闇を掘り起こして、新たな犯罪も生まれています。人々にとってよいものが純粋によい結果をもたらすとはいえない社会です。よいものであるからこそ悪影響を及ぼすこともある。そうした社会の多様性をぼくは容認したいと思っているし、姜尚中さんの「悩む力」ではないのですが、悩むからこそヒーローは強くなれるのかもしれません。わかっているつもりです。わかるのだけれど映画としてはどうだろう。観賞後にすっきりしない。

「ダークナイト」は、映画としては珠玉の出来だと思います。バットマンシリーズはほとんど観ていますが、物語の緻密さでいうと、今回の作品がいちばん優れているような印象を受けました。

口が裂けた道化師のようなジョーカーの狂気、光に溢れた希望も一転して奈落に落ちるという人間の闇の描写、SFではなく純粋にマフィアの映画としても通用するようなハードボイルドな映像、サイケデリックな雰囲気など、ひとつひとつが見事です。単純にバットモービルのアクションだけでは終わらない深みがあります。きっとバットマンが救ってくれるだろう、という希望を抱きつつも、ヒーローでもどうしようもないことってあるよね、という切実なかなしみも感じられました。

しかしですね、暗い。暗すぎる。そして心理描写に重きを置いたせいか、派手なスタントや破壊シーンがあったとしても、なんとなく地味です。一瞬だけ人間性における信頼を回復できるようなシーンもありますが、全体を覆う暗さは拭いきれません。率直な感想としては、救われない映画でした。こういう映画を生み出してしまった時代に、うすら寒いものを感じます。なんだか滅入った。

「ノーカントリー」の後につづけてDVDを借りてきて観たせいかもしれません。「ノーカントリー」に登場する殺し屋も、金や名誉のために人を殺めているわけではありませんでした。トミー・リー・ジョーンズが演じる保安官が首を傾げて、結局のところ立ち向かうのを放棄するように、彼を殺人に駆り立てているのは狂気です。だから、理解の範疇を超えている。コインを投げて目の前の誰かを殺すかどうか運に委ねたりするわけで、そこには論理的な筋道はない。

ちょうど重なったのですが、「ダークナイト」のなかでも「光の騎士」と称賛されて悪を一掃するために全力を尽くす新人検事ハービー・デント(アーロン・エッカート)は、コインに運命を委ねます。しかし善意で使われていたコインの使い方が段々あやしくなってきます。

計画性ではなく運にすべてを任せること、意思とは関係のない狂気に犯罪の動機があることが、うすら寒さの要因かもしれません。だから理解できないし、コントロールもできない。守ろうとしていたものも守れなくなっていく。信念も揺らいでいきます。その不条理な結果として生まれるのは、無力感と不信感です。

映画の外の世界、つまり2009年の社会においても、動機の理解できない犯罪が増えてきました。お金を欲しさに・・・というのであれば、わかりやすいのですが、衝動的とも計画的とも言い難い犯罪が毎日のように報道されています。不安が犯罪を煽るのか、犯罪によって不安になるのかわかりませんが、この無力感は、「ダークナイト」の全体を覆う救われない感覚と同期するように感じました。

「ダークナイト」は、時代の共感を確かに生むでしょう。しかし、共感を生んで絶賛されることが、映画の外にある現実として果たしてよいことなのかどうか。ぼくには疑問ですね。

ゴッサム・シティの腐敗した警察官たちは、映画のなかのフィクションの話でとどめておいてほしい。映画という空想の世界が現実を侵食していかないように、無力なぼくは祈るばかりです。ただ、去年のうちに観ておけば、もう少し楽しめたのかもしれないな、ということも少しだけ考えました。どのような作品であっても、観賞したときの社会の文脈によって評価は変わると思うので。

願わくば、もう少し希望を描いてほしかったなあ。ほんと(1月12日鑑賞)。

■YouTubeからトレイラー

■公式サイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/thedarkknight/

投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

2009年1月11日

羊男の作り方。

ほとんどテレビを観ないのですが、最近は家に帰って家族が寝静まったリビングのソファにひとり座り込み、テレビを観るようになりました。えーと、インターネットのお引越しがいまだに終わっていないので、暇なのです(苦笑)。いやー、ほんとうに暇だ。暇だ暇だ暇だ。それにしても、ネットに接続しないおかげで早寝早起きになりました。時間がゆったりと流れます。ネットジャンキー気味の自分には、なんとなく日々が物足りないんですけどね。

そんなわけで暇をもてあまして、先日、日付変更線を越えるあたりの時間帯にNHKの韓国語講座をぼんやりと観ていたとき、面白い情報を得ました。

ドラマ形式のレッスンになっていて、とある家族のストーリーです。嫁いできた女性が体調を崩してしまう。すると息子の母親とお姉さんが彼女をサウナに連れて行って、元気づけてあげます。韓国風のサウナのことを韓国語で何といったか忘れましたが、みんながアタマに巻いているタオルが一風変わっていました。

それぞれの耳の横にボンボンみたいなものが付いています。なんだろうこれ?と思っていたら、その後、解説に加えて作り方を教えてくれました。「羊の頭」というそうです(韓国語は失念)。どうやらふつうのタオルで作ることができるらしい。作り方を覚えたので、写真つきで解説してみましょう。

①タオルを用意します。

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②3つに折ります。

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③端っこを内側から巻いていきます。

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④反対側も巻いていきます。

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⑤真ん中を開いてここに頭を入れます。

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というわけで、携帯電話のカメラで自分撮りですが、被ってみました。

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次男くんにもかぶせてみた。似合うようです。

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DSに夢中になっている長男くんにもかぶせてみました。どうやら気に入ったらしく、眠るまでずーっとかぶっていました。

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インドではターバンの巻き方に特長があります。あの巻き方をすれば、ああインド人だね、というように即席インド人になれます。被り物にもそれぞれの国の文化があるようですね。といっても、この「羊の頭」はサウナができた後に生まれたものだと思うので、遠い昔から伝統があったわけではなく、最近生まれたものではないでしょうか。サウナに入っているみんなが羊の頭を被っている光景を想像すると、おかしい。とはいえ主として女性向け、あるいは子供向けという気がします。いい年をした男性が被ると、どこか不気味だ(苦笑)。

羊の頭で思い出したのですが、村上春樹さんの初期の小説では、特長的なキャラクターとして羊男が出てきます。確か着ぐるみの羊だったような気がして気になって調べてみたところ、こんな挿絵が掲載されていました。

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これは「羊をめぐる冒険」のなかに出てくる挿絵です。ぼくが持っているのはハードカバーで、1983年3月10日の第5刷ですが、P.335に掲載されています。

4062002418羊をめぐる冒険
村上 春樹
講談社 1982-10

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「羊をめぐる冒険」といえば、いまは亡き親父が群像を定期購読していて、雑誌に書き下ろしで掲載されていたこの小説をひと晩で読み終えて、「面白いからおまえも読んでみろ」とすすめられたことを覚えています。いま思うと、村上春樹を息子にすすめる親父は、かなり頭がやわらかかったのかもしれない(羊毛なみに)。とっつきにくい親父で、頑固だとばかり思っていたんですけどね。

小説から、羊男の容姿について描写された部分を引用してみます(P.336)。

羊男は頭からすっぽりと羊の皮をかぶっていた。彼のずんぐりとした体つきはその衣装にぴったりとあっていた。腕と脚の部分はつぎたされた作りものだった。頭部を覆うフードもやはり作りものだったが、そのてっぺんについた二本のくるくると巻いた角は本物だった。フードの両側には針金で形をつけたらしい平べったいふたつの耳が水平につきだしていた。頭の上半分を覆った皮マスクと手袋と靴下はお揃いの黒だった。衣装の首から股にかけてジッパーがついていて簡単に着脱できるようになっていた。

あらためて引用すると、さすが村上春樹さん。文章がとてもうまい。などと書くのは大変失礼ですが、描写の正確さといい、何を描写して何を描写しないかという取捨選択といい、ひらがなと漢字の配分といい、まいりました。昔の作品をいま読み直してみると、別の発見があるかもしれません。

引越しにともなって本を整理したのですが、村上春樹さんの小説が(ほとんどハードカバーで)ほぼ全作品出てきたのでびっくりしました。彼の作品だけピックアップして本の山を作ってみたのだけれど、他の誰よりも高くなりました。こんなに読んでいたのか。

とはいえ、80年代に学生だった世代にとっては、村上作品を読むことはひとつのステイタスだったような気がします。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」も物語が終わってしまうのを残念に思いながら、一気にひと晩で読み終えたっけなあ。

「羊をめぐる冒険」のように作り込んだ完璧な羊男になるのは手間がかかりますが、インスタントな羊男になってみたい方は、韓国風の「羊の頭」をぜひお試しください。

投稿者 birdwing 日時: 14:56 | | トラックバック

2009年1月10日

ノーカントリー

▼cinema09-02:タフさと無力さと、そして底知れぬ恐怖感と。

B001APXBUAノーカントリー スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]
トミー・リー・ジョーンズ, ハビエル・バルデム, ジョシュ・ブローリン, ウディ・ハレルソン, ジョエル・コーエン;イーサン・コーエン
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン 2008-08-08

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景気が悪化したせいでしょうか、いま世のなかでは、首を傾げたくなるような犯罪が多発しています。起き抜けに高校生の息子が父親を刺し殺したり、タクシーを狙った強盗であったり。日本は治安のよい国だと思っていたのに、不安が募るばかりです。テレビやマスコミの報道が連鎖した犯罪を煽っているようにも思えるのですが、どうでしょう。どこかで歯止めをかけることが必要ではないでしょうか。でもどうすればいいのか・・・。

「ノーカントリー」は麻薬の密輸売買に関わる殺し屋と、なんとなくお金をゲットしたばかりに事件に巻き込まれていく溶接工、そして事件を追う保安官の物語です。登場する保安官が、最近の犯罪は動機がよくわからなくなった、数十年前にはこんな犯罪が起きるとは予測できただろうか、というひとりごとを語るのですが、海外の遠い世界の物語ではなく、いま現在の日本の状況にぴったりの言葉であると感じました。背筋が寒くなりました。

そもそもコーエン兄弟監督の映画は、ふつうのひとがなんだかわからない不条理な犯罪にちょっと足を突っ込んでみたところ抜けなくなって、悲劇なのか喜劇なのかわからない状況に追い込まれるという映画が多いような気がします。一時期、集中してコーエン兄弟監督の作品を観たのですが、個人的に気に入っているのは「バーバー」でした。これも平凡な床屋として生きていた男が、どこかつんのめるようにしてまったく軌道を外れた人生に落ちていく、というような映画だったと記憶しています。

圧搾空気のボンベを担いで空気の圧力で施錠されたドアを吹き飛ばしたり、人間のアタマを打ち抜く殺し屋アントン・シガー(ハビエル・ダルビム)は、その存在感が恐ろしい。というか変な長髪が怖い(笑)。コインを投げて殺すかどうか決めるなど、この殺人鬼はどこか狂っています。正気ではない。正気ではないけれど、めちゃめちゃタフです。瀕死の状態になっても、自分で自分の身体を修復して、執念深くターゲットを追い詰めていく。ターミネーターかと思いました(笑)。

一見すると無駄とも思える会話が多いのですが、その冗長性もコーエン兄弟ならでは、という感じでしょうか。麻薬組織の銃撃戦のあとから大金を発見して逃げるルェリン・モス(ジョシュ・ブローリン)は、ガゼルのような動物を狙って弾を外すところから登場します。要するに射撃が下手なのに得体の知れない自信があって、金を持って逃げるどころか、殺し屋と戦おうとさえする。ただの溶接工なのに、おいおい、大丈夫か?という感じで、めちゃめちゃ心配でした。しかし、この彼もまたタフで、あらゆる手を使って追っ手からの逃亡をはかります。

保安官エド・トム・ビル(トミー・リー・ジョーンズ)も、使命感はあるのだけれど諦めムードが漂っていて、彼の存在から感じるのは、凶悪犯罪と暴力に関して無力であるという脱力感です。通常の映画の枠組みを考えると、勧善懲悪というか、保安官が使命に燃えて殺し屋を追い詰める物語を想像するのですが、この映画のなかでは悪人のみが元気であり、しかしばったばったと死んでいくばかりで、警察や保安官は手のほどこしようがありません。

この無力感が、いまの時代を象徴しているのかもしれないな、と思いました。メキシコの荒涼とした風景がメインなのですが、見終わったあとに殺伐とした感じが肌寒い恐怖感に変わっていきます。どこか淡々と進行されていくストーリーだからこそ、よけいに怖い。

じわじわと効いてくる映画かもしれません。そういう映画はたちが悪いものです。よい印象であれ、悪い印象であれ、観終わった瞬間に、ああ面白かった!で終わることができるエンターテイメントは害がない。しかし、「ノーカントリー」はエンディングのせいもあるかもしれないけれど(ネタバレになるので書きませんが)、なんだか終わった感じがしないのです。きっちりと終わってくれないので、観たぼくらのこころのなかに何かをつづけさせる。

問題ですね、これは。とんでもない問題作だと思いました(1月10日観賞)。

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http://www.nocountry.jp/

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2009年1月 9日

国際的であること、日本語を使うこと。

水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」を読んだとき、ぼくのなかに批判的な思考が生まれるのを感じました。それはこの本を支持していたシリコンバレーの信奉者であるブロガーに対する批判とも重なりました。

4480814965日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
筑摩書房 2008-11-05

by G-Tools

茂木健一郎さんから明治時代の福沢諭吉のようだといわしめた梅田望夫さんにしても、オープンソースに詳しくギークとして鋭い切り口でブログを書かれていた小飼弾さんにしても、インターネットによる新しい技術や文化を日本に伝えてきた意味では、ぼくらのブログライフに大きな影響を与えてくれたひとたちです。その功績は認めたいし、彼等の書いたエントリにぼくは考えさせられることが多くありました。目標とすべきブロガーでした。

しかし、海外偏重の「外向き」な視点に対して、長いあいだぼくのなかに漠然とした違和感があったことも確かです。それはどういうことだったのか。少しきちんと考えてみようと思います。

市場規模として世界標準をめざすビジネスの重要性はわかります。そのためのツールとして、世界標準である英語を使いこなす必要があることは理解しているつもりであり、さらに自分の子供たちの世代になれば、いまよりも英語を使いこなす必要性が高くなるのは当然であると認識しています。技術面からいえば、シリコンバレーの最先端の技術と、技術を生み出した文化には学ぶことはたくさんある。日本にはないワークスタイルにも惹かれるところがありました。海外の動向は刺激的です。

しかしながら、外国にあるものがすべてよい、外国で生まれた技術や文化を妄信的に支持する価値観には疑問符を投げかけたいと思っています。海外への進出だけを尺度としていたずらに煽るような姿勢にも完全に頷けるわけではありません(もちろん肯定する部分もあります)。さらにそれが、日本語とその文化を捨てて<普遍語>として世界に通用する英語文化へ、という乱暴な論旨であれば話は別です。

<普遍語>という絶対多数として力を持つものがマイノリティを駆逐する、英語中心の文化が日本の文化を滅びさせるという、「日本語が亡びるとき」に書かれたような思考に対しては、どうしてもあらがう気持ちがありました。西洋かぶれ、といってしまうと乱暴かもしれませんが、外向きにばかり目を向けていると、ほんとうに身辺にある素敵なものに気づかないのではないか。

「あなたの国のすばらしさは何ですか?」と外国人に聞かれたとき、日本語です、とぼくは答えたい。マイノリティな言語でもいい。複雑だけれど豊かな表現、そして書き継がれてきた作品たちの伝統と美しさを胸を張って誇りたい。たとえ若い世代が乱れた日本語を使うようになったとしても、変わってしまった日本語を見放さずに、ぼくは生涯その変容を受け止めていたい。日本語がどれだけ素敵であるかについて、老いても力説できる人間でありたい。

日本語なんて滅びちゃうものですよ(ふっ)と、わかったような傍観者の顔で憂うのは「日本人として」最低ではないですか。そんな主張をする日本の作家の文学など、誰が読みたいと思うだろうか。あなたが滅びさせるような日本語であれば、むしろぼくは擁護したい。

しかし、一方でまた水村美苗さんをも擁護するのだけれど、梅田望夫さんや小飼弾さんの思惑とは別に、水村美苗さんがほんとうに伝えたかったことは、英語に支配されつつある世界のなかで、日本語に対する再評価をして、この複雑だけれどユニークな言語を守りたい、存続させていきたい気持ちではなかったのか、とも考えています。しかし、キャッチーな「日本語が亡びる」という言葉によって、その真意を梅田望夫さんや小飼弾さんたちブロガーが曲げてしまった。

逆説的ではありますが、国際化社会において、ほんとうに世界的な視野で評価される日本人とは、「日本人として日本のよさをきちんと理解し、説明できるひと」ではないか、と考えています。

国際人というのは、決して諸外国の技術動向に詳しかったり、世界に視野が開けていればよいというものではない。世界を見据えた俯瞰的な視点を持ちながら、「内向き」にも目を向けられることが重要ではないでしょうか。

外国人のなかにこそ日本のよさをきちんと理解しているひとが多い、というのも皮肉なことです。「シルク」や「ラストサムライ」のような映画を観て、あらためて日本の奥ゆかしい文化について気付かされました。日本人でありながら、あまりにも日本に対する理解が貧困な自分が恥ずかしくなりました。ああ、この映画で描かれているような、慎みがあり成熟した思考のある日本人になりたいな、と。海外からの視点を経由した日本のすばらしさは、少しだけフィルタリングされた日本かもしれません。しかし、他者としての視点を受け止めて、日本らしさを追求しても構わないとぼくは思います。

シルク スペシャル・エディション [DVD] ラスト サムライ [DVD]


一方で、外向きということを意識せずに、こつこつとよい仕事をしてきた職人さんたちが日本にはいます。結果として仕事に誇りを持って取り組むことで、世界にも通用する産業が生まれてきました。岡野工業のように、ちいさな会社であっても国防総省やNASAからも発注のある技術を生み出したような会社もあります。岡野工業については村上龍さんが司会をつとめる「カンブリア宮殿」で知ったのだけれど。

当然、最初から世界に照準をあてて成功した企業もありますが、カラオケやアニメ、ウォークマン以外にも、日本発による独自の文化や技術が生まれてきてもよいのではないか。そのためには、海外からの影響や雑念を一度シャットアウトして、内なるものに耳を澄ます必要があるのかもしれません。眠っているもののなかに、あるいは忘れ去られた歴史のなかに、いまの時代に通用する何かがきっとあるはず。

地域性、ローカルなもの、マイノリティだけれどあたたかいもの。

ぼくは(あくまでも個人的に、ぼくは、なのですが)そういうものを大切にしたいとも思っています。もともと音楽の趣味に関してはメジャーではなくインディーズ志向だったせいもあるのですが、絶対多数の価値判断から零れ落ちてしまうものを受け止めていたい。ブログに賛同したのも、ロングテールというマスの評価から零れ落ちてしまう何かにもきちんと居場所がある、という群集の知を尊重する場に期待したからでした(結局のところ、アクセス数やブックマークの数を競うマスのモノサシに絡め取られてしまいましたが)。

たとえば、日本語における「方言」について考えてみます。

テレビなどマスメディアの影響もあり、東京で使われる標準語が浸透した結果、いま方言は日本という狭い場所のなかでさらに「滅びつつある言葉」といえます。エンターテイメントの分野で圧倒的に勢いのある大阪弁はともかく、地方に行っても東京と同じように標準語で話すひとたちがいる。金太郎飴のように東京で流行っている服装を着て、同じような流行り言葉を使っている。

しかし、少なくなってきたからこそ、ぼくには方言はとてもあたたかい言葉に聞こえます。そのあたたかい言葉を大切にしたい。狭い日本という国のなかで考えたときにも、東京の言葉と地方の言葉を使い分ける「二重言語者」こそが、文化に豊かさを与えてきたのではないか、とぼくは考えました。

東京に住むひとたちは純粋に東京生まれというわけではなく、大学や短大への入学、あるいは就職を契機として、地方から上京してきた人々が多数ではないかと思います。年末年始や夏休みには帰省する学生や社会人たちのすべてがそう感じているかどうかはわかりませんが、彼等には、情報にあふれて最先端の流行が集まる東京の利便性がわかっている一方で、田舎に流れるゆったりとした時間の大切さもわかっている。おせっかいだけれどあたたかい言葉をかけてくれる田舎の家族との交流もわかっています。ふたつの地域性と言語を内に持ちながら生活しているといえます。

上京して間もない頃には、田舎に帰れば東京の言葉が気恥ずかしくもあり(その反面、誇らしくもあり)、一方、東京では地方の言葉が出ないように気を張り詰めていました。いまでこそ東京で過ごした年月のほうが長くなりましたが、ぼくもまた地方で東京に憧れて上京した地方人のひとりです。東京と地方で揺れ動くあやうい均衡を抱えながら、長い時間を過ごしてきました。とはいえ、地方と東京の言語的な差異がなくなり、標準語に駆逐されてしまったら、そんな意識もなくなってしまうのかもしれませんね。

自分の内面に地方出身者のどんくさい何かを感じながら(ぼくの場合は静岡県人としての温厚で、のほほーんとした性格を意識しながら)東京で暮らしています。けれどもそれは少しも悪いことではなくて、地方人を内包した東京人であることが、ぼくのパーソナリティーを豊かに形成している。自分のなかにある内なる地方性は捨てられません。実際に田舎に帰ると面倒なことばかりだけれど、東京に住む地方出身者という感覚は大切であると感じています。たとえ、もう戻れないふるさとだとしても。

この考え方をもう少し拡げると、英語に対するローカルな言葉としての日本語という位置づけも明確になるのではないでしょうか。英語が日本語を滅ぼす(標準語が方言を駆逐する)という事実はわかります。しかしだからこそ、地域性を守るべきである、とぼくは考えたい。

これもまた乱暴に喩えると、水村美苗さんは東京の標準語に憧れて地方の言葉なんてダサい、といって方言を捨てようとしているローカルな女子高生にしかみえない。だから水村美苗さんの主張は稚拙だと思うし、つまらない。

文化というものは、同質のものではなく、異質なものが出会うときに生まれるものだと思います。

妄想で話しますが、東京にいて、自分とは郷里が異なる地方の彼女と遠距離恋愛をしていたとしましょう。深夜の電話でコイビトが地方の言葉をぽろっと零してしまったとしたら、たまらなくいとしくなると思う。自分に合わせて標準語を話してくれていたのだけれど、思わず素が出てしまった瞬間。それは彼女が一枚服を脱いでくれたような、数ミリ距離が縮まった感覚があるはずです。そんな標準的ではない飾らない表現に出会えたとき、自分に対する想いもわかるし、相手に対する理解も深まっていく気がしています。外向きの言葉だけでは出会えない、言葉の奥行きを感じる瞬間ともいえるでしょう。

フランス語にはフランス語の趣きが、スペイン語にはスペイン語の情熱があるのではないでしょうか。そして、多様な言語を意図して使い分けることができるのは、とても豊かな恵まれたことだと思います。あるいは、異なる文化を理解しようという原動力は、多様な言語があるからこそ生まれるものである、と言い換えることもできるでしょう。わからないことにこそ好奇心は発動するものであり、そうやってぼくらは文化を紡いできました。利便性や数の圧力のもとに効率化することが、必ずしもよいこととは思えない。

言語が一本化されたとしたら確かに効率的であり、コミュニケーションは円滑かもしれませんが、伝わらない「楽しさ」が失われます。ディスコミュニケーションという無駄が、実は文化の幅を拡げる大切なものだとも考えています。統一された言語は地域独自のびみょうなニュアンスを削ぎ落としてしまうわけで、ファシズムのように言語が統制されてしまったら、つまらない世界になる。

繰り返しますが、せっかく多様な言語があり、その言語によって培われた多様な文化があるのに、その豊かさを標準化という圧力のもとに単一に収束させていく思考に、ぼくは抵抗を感じますね。英語が標準だ、そのほかの言語は滅びゆくものだ、というのはとんでもない傲慢で権力的な思考として受け止めました。だからこそ異議を申し立てたい。

願わくばインターネットで検索してぼくのブログを訪れたどこかの外国人が、こいつは何を言ってるんだ?という疑問を持ち、他言語に翻訳したくなるようなブログを(日本語で)書こうと思います。

最初から英語でかけばいい、という見解もあります。でも、それじゃあつまらない。検索エンジンでふらりと訪れた外国人が「あなたの文章は何を言ってるかわかりまセーン。でも、なんだかクールデス。英語に翻訳したいデース」などとあらわれてくれると嬉しい。音楽は国籍には関係がない共通の言語であると思います。音楽を作っているうちに、なんとなくウマが合う海外の音楽好きも出てくるかもしれない。あいにく、いまのところ海外からは、コメントスパムかトラックバックスパムしか来ないですけどね(苦笑)。逆にぼくが、この海外サイト面白そうだと思ったら、翻訳を試みるのも楽しそうです。

シガー・ロスのふるさとである北欧の言語に翻訳されたりしたら、文化的な刺激がありそうです。英語と日本語で書き分けることも大事なことかもしれませんが、異なった文化の誰かとコラボできることはぜったいに楽しい。このブログで論争や喧嘩はしたくありませんが、創造的な対話であれば、異国のひとであってもウェルカムな姿勢でいたいものです。

日本語の乱れを憂うひともいますが、乱れや揺らぎも時代や文化のなかで変わりつつある姿です。完璧な理想系を保持できるほど、ぼくらの世界はスタティック(静的)なものではない。あるいは、理想とは何なのか、という問いもあります。

という理屈はともかく、ぼくは21世紀のとばぐちで日本語でブログを書いていることがしあわせであり、この言葉が大好きです。徹底的にこの国の言葉の美しさを追究すること、日本のよさを再発見すること。それもある意味で、国際的に意味のある姿勢ではないかと思っています。

ドラッカーは、日本語という文化の独自性が最終的には世界から日本を守る、ということを述べていたように記憶しています。日本人が生み出してきたものは、それがどんなにマイノリティだったとしても自信を持ってよいのではないかな。終身雇用という日本独自のシステムも見直すべき部分がたくさんあるはずです。西洋かぶれの成果主義を導入して破綻している企業も少なくはないでしょう。カイゼンが上手な日本人とはいえ、なんでもかんでも西洋のものを導入すればよいわけではありません。内なるものに目を向け、耳を澄ますべきです。

日本的なものを見直してみる。そんな内向きの思考にきちんと向き合うことによって、この厳しい不況を打開するヒントがみつかるかもしれませんね。

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2009年1月 7日

内向きとか外向きとか。

内田樹さんのブログを読んでいたところ、面白いな、と思ったのが「 「内向き」で何か問題でも? 」というエントリでした。

乱暴かもしれませんが、簡単にまとめます。

ノキアは岐阜県の人口に等しいフィンランドで成功しても採算が合わないので、世界市場をめざすしかなかった。しかし日本では、国内の市場で十分に食っていけるだけの規模のビジネスがある。だから、いたずらにグローバル化して世界をめざさなくても、国内で採算が取れるのならいいじゃないか。内向きで何が悪い・・・というような主張だと思います。簡略化しすぎかもしれませんが。

外需依存の結果として日本は成長してきたけれど、だからこそいま米国の金融危機に大きな影響を受けて経済が破綻しつつある、というアナリストの解説を読んだこともありました。もちろん国内と世界では市場規模が違います。世界標準を見据えた大きなビジネスは重要であり、マクロの視点では、それが日本経済を支える屋台骨になるともいえるでしょう。しかしですね、鎖国とまではいかなくても、自国内で完結するビジネスもあっていいのではないか、と考えました。

この内田樹さんのエントリには小飼弾さんのブログが突っ込みを入れ、さらにそのブログ経由で池田信夫さんが論じています。それぞれの考え方が興味深い。特に「規模の経済」が内向きの企業を駆逐していくという池田信夫さんの見解には説得力がありました。

一般の方の見解も少し眺めてみたのですが、どうも二極論になりがちなことが気になります。すべてのビジネスで内向きに、ということを内田樹さんは書いているのではないと思います。内向きにビジネスを展開する企業はどちらかというと肩身が狭いのですが、それでも自信を持っていいんだよ、と言っているのではないか。そうぼくは解釈しました。弱者に対する配慮かもしれません。

トビラを開いて外国からの風を入れることが景気を活性化させることもありますが、強風によって、かえって被害をこうむることだってあるかもしれない。現実問題として、中堅、中小企業は体力がないから厳しい。

モバイルのキャリアに関していえば日本独自の閉鎖性には問題もありますが、では国際的なローミングサービスのようなものが必要かというと、正直なところぼくにはあまり関係ありません。だから国内で携帯電話を使うことができれば、それでいい。むしろ余計なオプションがごちゃごちゃ付属しているよりも、シンプルなほうが使いやすい。

また、みんながみんな外向きになる必要はないのに、右といえば全員が右を向かせるのは日本的な「空気」の圧力を感じます。だから、内向きで何が悪い、という内田樹さんの主張には気持ちよさを感じました。

ところで、内田樹さん、小飼弾さん、池田信夫さんのエントリを眺めながら思い出したのは、梅田望夫さんが絶賛していた水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」という本のことです。

4480814965日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
筑摩書房 2008-11-05

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「普遍語」という外向きの強大な言語である英語のもとに、日本語は滅びていくという見解が示されていて、ブログの界隈ではちょっとした話題になりました。

この本については、梅田望夫さん、小飼弾さんは絶賛されていました。しかしながら、池田信夫さんは奥さんの感想も含めて、「つまらない」というひとことで終えています(「日本語はすでに滅びている」という12/4のエントリ)。

実はぼくも購入したのですが、中盤170ページあたりから読む気力が失われて現在に至ります。個人的見解を述べると、つまらない本です。お金を払って読むには値しない内容でした。

それでも、冒頭の一章「アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々」はよかったですね。世界の作家がアイオワ大学に集まってIWPというワークショップを行う話については、"エッセイとして"十分に楽しめました。多国籍の作家が集うようすが鮮やかに描かれていて、それぞれの作家についての描写もうまい。個々のエピソードにもお国の違いがあらわれていて、映画のように脳裏にイメージが浮かぶ文章でした。

しかし、そのあとにつづく根拠のない自分勝手な日本語論などは酷いと思います。最低です。

帰国子女の感傷に浸って根拠のあやしい日本語論が展開されます。私小説作家の憂鬱なポーズを気取った憂国論には、正直なところ、うんざりしました。べたべたした暗い思考をだらだら語っていて歯切れが悪い。学問的には曖昧なのに、作家としてのプライドなのか文学をやっているというポーズなのか、知的にみせかけようとしている。そんなに日本語を憂うのであれば、うじうじ書いてないで、いっそのことすぱっと割り切って英語で小説を書けば?というのが率直な感想です(世界で通用するという奢りがあるのなら、ですが)。

梅田望夫さんは、この「日本語が亡びるとき」を絶賛するエントリをブログに書いたあと、読まずにコメントするはてブ利用者をTwitterで批判。その発言によって炎上状態になりました。しかもそれだけにとどまらず、その後、水村美苗さんと対談することを発表したため、「日本語が亡びるとき」をめぐる騒動は対談を前提としたプロモーションだったのか、話題集めだったか・・・と勘繰られて、ネットでヒンシュクをかってしまったようです。

梅田さんは作家でもなければ特に日本語や文章を書くことにこだわりがあるひとではないし(1冊だけ本が出せればそれでいい、という発言を読んだことがあります)、よくいえば計算高いひとだろうなとぼくは思っていたので憤りもありませんでしたが、思うに、シリコンバレー信奉者である梅田望夫さん、小飼弾さんにとっては、「日本語が亡びるとき」という本は、アジテーションをかつぐだけの意味で絶賛したのではないでしょうか。

「日本語が亡びるとき」というキャッチーなフレーズは、シリコンバレー信奉者系ブロガーにとっては、かっこうのキーワードだったと思います。だから絶賛したのであって、内容はどうでもよかった。というのは、この酷い本を絶賛する感性が理解できない。梅田さんや小飼さんのほうこそ、ほんとうにきちんと読まずに語っているのではないかと疑ってしまう。レビューを書くブロガーとして考えても、絶賛ばかりして酷い面を言及しない姿勢は信用できません。

内田樹さんの「内向きで何が悪い」という言葉に対しても、小飼弾さんは脊髄反射しただけにすぎない、というのがぼくの見解です。ブログで書かれている主張には目新しさや鋭さを感じませんでした。

そもそも小飼弾さんのブログは、アルファブロガー全盛期には、辛口の切れ味のいい文章に小気味のよさを感じたこともありましたが、目が肥えてくると、はたしてそれほどのカリスマ性がある内容なのか?と疑問です。失礼ながら端的に断言すると、思考が乱雑であって文章もあまり上手ではない。

内田樹さんのエントリの引用に際しても、小飼弾さんは乱暴に「大商い」と「小商い」という表現によって二元論的な枠組みのなかでねじふせようとしている印象がありました。以下の最後の部分についても、二元論的な思考で「内向き」に対する「外向き」のスタンスで語っているように読み取れるのですが、その安易な構図もいかがなものだろうと思う。

「内向き」でいられるのは、外に向かって体を張っている人たちあってのこと。
大きな国ほど、それがわかっていない人が多いというのは確かなようだ。

言っていることは納得できます。外向きに頑張っているひとたちあってこその経済だと思うし、その恩恵に感謝すべきでしょう。しかし、外向きのひとたちの「おこぼれに預かっている」ことは、いけないことなのでしょうか。彼の文章からは批判的に読み取れるのですが、そうだろうか。

素人の見解で述べますが、ぼくは企業や経済は個々で成立しているのではないと思います。

思考の枠組みとして導入したいのは、生態系(エコシステム)ではないか、と考えました。世界規模で循環する社会や経済のシステムもあれば、ちいさな規模の循環もあります。大きな規模の循環によって、ちいさな規模の循環を生かしていることもあれば、ちいさな規模の循環が実は集まって大きな世界全体を支えていることもある。

助け合ってバランスを取って生存しているのが世界ではないでしょうか。甘ったるい理想論かもしれないけれど、ぼくは「大商い」「小商い」「外向き」「内向き」は二元論のもとに対比するものでなく、お互いの関係性のなかで調和させることも可能ではないかと考えました。

その考え方のフレームワークを借りて、別の社会現象を論じてみます。

派遣村の問題をはじめ、派遣という雇用形態が問題になっていますが、これもまた正社員/派遣社員という対立で考えていても不毛です。派遣社員の存在があるからこそ正社員は煩雑さから解放されることもあるし、また、派遣社員にとっては正社員の頑張りがあるから、責任の範囲を限定して自由なワークスタイルが守られる。内勤で事務を支えてくれる派遣社員があるからこそ、正社員は「外向きに」営業もかけられる。

家庭も同様。外で働くおとーさんの頑張りがあるから家族は安心して生活できるのであり、けれどもきっちりと内向きの家庭を守ってくれる女房の働きがあるからこそ、旦那は外で活躍できるというものです。

といっても男は外で女は家で、という古い体制に縛り付けるつもりはまったくありません。実際はもっと複雑であり多様でしょう。主夫として育児休暇をきちんと取得して子供を育てて家庭を守る男性と、外でばりばり働く女性もあっていい。多様だとしても、それぞれの夫婦なりに折り合いのつけたお互いに助けあう関係があることで、家庭という社会や経済もうまく循環されていくのではないか。

論旨の焦点がぼけてきました(苦笑)。

内田樹さんの見解には甘いところもあるかもしれないけれど、ぼくは多様性を擁護する考え方として内田樹さんのエントリを読みました。だからこそ、「内向き」で何か問題でも?というタイトルなのだ、と。

もう少し別の視点から補足すると、高度成長期の時代であればともかく、成長が鈍化した現代において、いたずらにでっかい外向きの夢を描くのもどうかと思いました。むしろ身の程サイズの願望で耐え、守るべきときには堅実に守り、体力をつけた上で新たなイノベーションの機会をねらっていく・・・そんな戦略がよいと思います。この不況のときに内側に力をためて逆風に耐えた企業にこそ、次の春に芽を出せる機会が訪れる。

最後に「内向き」に戻って言及すると、ほんとうに内向きになれる企業なり人間というのは勇気が必要だと思います。というのは、グローバルだ、外に向かうべきだ、という主張が大半を占める状況下で、内省的であれ独自の内向き路線であれ、あえてその方向性をチョイスするには強い信念が必要になるからです。外側に向けるよりも強い信念がなければできないことかもしれません。

自分を究めることを重視しようと昨年末に考えたのですが、内を固めた人間が外に向かったとき、ほんとうに敵なしになるのではないでしょうか。内なる敵がいちばんの強敵です。弱さに打ち克つことができた企業や人間は強い。

そんなわけで、実は、ぼくも内向き派です(苦笑)。内向きでいいや。

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2009年1月 4日

マイ・ブルーベリー・ナイツ

▼cinema09-01:遠まわりの恋、色彩美の味わい。

B001AP0GLWマイ・ブルーベリー・ナイツ スペシャル・エディション [DVD]
ノラ・ジョーンズ, ジュード・ロウ, デヴィッド・ストラザーン, レイチェル・ワイズ, ウォン・カーウァイ
角川エンタテインメント 2008-09-12

by G-Tools

ウォン・カーウァイ監督の映画といえば、色彩美という印象があります。それも淡い色彩ではなく、どちらかというと赤と黒、蛍光色のグリーンのような、けばけばしい淫靡で官能的ないろあいです。雨の夜のネオンという感じ。そのイメージで思い出したのは、スティーリー・ダンの「Aja」というアルバムのジャケットでした。山口小夜子さんがまとっている布の彩りのような印象でしょうか。

彩(エイジャ)

ぼくがいままでウォン・カーウァイ監督の作品で観た作品は、金城武さんが出演している「恋する惑星」、「花様年華」、「2046」(木村拓哉さんが出ていた)といったところですが、「花様年華」の暗くしっとりとした大人の映像にやられました。トニー・レオンかっこよすぎる。抑制された大人の愛を描いた映画ですが、夜のしじまにタバコの煙とかくゆらせてみたくなりますね、あの映画を観ると。

という意味では色彩を含めて、大人(そして大人の愛)を描くのがうまい監督といえるかもしれません。この「マイ・ブルーベリー・ナイツ」は、監督初の英語による映画とのこと。アジアの俳優ではないと、どこか湿り気がなくなって乾いた感じになるのは否めませんが、それでも色彩美は健在でした。とはいえ、スローモーションの多用と、ブルーベリーパイにアイスが溶けていくアップの映像はどうかな、と思いましたが。

そもそもこの映画に注目したのは、エリザベス(ノラ・ジョーンズ)とジェレミー(ジュード・ロウ)が、くちびるを触れるか触れないか接近させたまま眠っているようにみえるサントラ盤のジャケットでした。CDショップをうろうろしながら、フリーペーパーの表紙に掲載されていたのをみつけて、この映画のことを知ったのだった。

このショット自体がくらくらするほど官能的です。もちろん映画のなかにも出てくるのですが、ぼくは静止画のほうがよかったかな。まるで中国の陰陽マークのようだと感じたのですが、そういう意味ではアジア的な構図かもしれません。監督が意図したかどうかはともかく。

「マイ・ブルーベリー・ナイツ」の物語は、付き合っていた彼氏に新しい女性ができて失恋したエリザベス(ノラ・ジョーンズ)がジェレミー(ジュード・ロウ)の喫茶店に現れるところからはじまります。鍵にちなんだ名前のその店では、何人ものお客が鍵を預かってもらっている。そして、エリザベスも恋人の部屋の合鍵をジェレミーに預かってもらう。

失恋の痛みに行き場所をなくした彼女に、ジェレミーは何も言わずにつきあってあげて、残り物のブルーベリーパイを食べさせます。やがてエリザベスは何度か店を訪れるようになり、ふたりは親しくなるのですが、ある日、彼女はふいに姿を消す。そして、遠い場所で昼夜ふたつのバイトをしてクルマを買うために働きはじめます。けれどもジェレミーとは手紙をやりとりして、いろいろな話をします。付き合っていた彼のことを忘れるためには、失恋の痛手を癒すためには、遠い場所で働く「遠まわり」が必要だった。

その遠まわりの旅で、エリザベスはさまざまなひとと出会うのですが、妻に浮気されて、それでも愛しつづけていてぼろぼろな警察官の話は辛かった。愛情が強すぎるあまりに妻を縛りつけてしまい、妻から愛想を付かされてしまう。束縛しようとする彼から逃げ出そうとしたわけです。しかし、お互いに辛い状態になりつつも、それでも別れられない。愛しているはずなのに傷つけあうことしかできない。その関係の対極として、エンレン(遠距離恋愛)とでもいうべき、エリザベスとジェレミーの関係があるような印象を受けました。

ギャンブル好きな女性と出会うところからは、どこかロードムービー風になっていくのですが、アメリカのひとたちはこういう物語が好きですね。広大な土地のせいかもしれないけれど、誰かと出会ってクルマをかっとばす、あるいはドライブしながら自分の人生についてみつめる(「エリザベスタウン」という映画もそんな感じ)という展開が好まれる。ちょっとステレオタイプな気もするけれど、型にはまった気持ちよさがあります。

しっかし、ジュード・ロウもまたいい男だ。どこかおバカタレントとして名をあげた「羞恥心」のメンバーっぽい雰囲気も感じたりしたのですが、きっと逆でしょうね。日本のタレントが彼等の真似をしたんではないだろうか。

何がいい男かというと、もちろん見た目もあるけれど、この映画のなかでは、失恋して心を痛めているエリザベスに何もいわないこと、甘いものを食べさせてあげること。ぼくは我慢ができずに、つい何か言ってしまいそうな気がします(苦笑)。余計な慰めとか、解決方法の提案とか、女性はそんなものを聞きたいわけではないですよね。黙ってそばにいてほしいのだと思う。辛いときには。

ジェレミー(ジュード・ロウ)みたいになりたいと思いました。反省。いや、ここは反省するところではないか・・・。音楽好きとしては、この映画に挿入されたノラ・ジョーンズの歌声も素敵です(1月6日鑑賞)。

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http://blueberry-movie.com/

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2009年1月 3日

歳月とコメントの力。

年末に引っ越したのですが、ほとんどの部屋の片付けは終わったというのに、自分の部屋をまだ片付けつづけています。本に関しては3分の2を廃棄したり売り払ってきたつもりなのだけれど、依然として本多すぎです。それから無用な書類も多い。むきー、こんなものこうしてやるー、とぐちゃぐちゃにしたくなる気分を抑えて、快晴がつづく正月、いまだに年末気分で大掃除の延長戦です。

モノを捨てられない性格のせいでしょうか。大学時代の講義ノートや、浪人時代に住んでいたアパートの家賃の明細(小岩で1万3000円だった。もちろん風呂なし4畳半)、昔の彼女からの古い手紙のほにゃららとか(そんなものまだ隠し持っていていいのか?)、さまざまな過去を発掘して赤面したり懐かしんだりするので余計に時間がかかっています。

この重い箱はなんだっけかな、と開封したところレコードが70枚あまり出てきました。捨てたと思っていたのでびっくりしたのですが、さらに菊地桃子とかどうでもいいようなアルバムばかりで脱力しています。しいてよかったと思えるのは、輸入版を含めてビル・エヴァンスが何枚かあったことでしょうか。

最近、レコードプレイヤーも人気が再発してレコードからCDにデータを焼けるような機種やUSB端子を備えた機種も発売されているようですが、いまぼくはこれをどうやって聴けばいいんだろう(困惑)。ついでにCDと比較してあらためて盤のでかさに驚きました。無用の長物だ。時代を感じます。

そんな風に、20年あまりに遡って過去の残留物を整理しているわけだから、そりゃ時間がかかります。人生の節目かもしれない、自分を省みて整理する時期にあるのだろうと思って、観念して腰を据えて過去を点検することに決めました。しかし、そうして丁寧にみていくうちに、過去の遺物から元気づけられたこと、感動したことがふたつほどありました。

ひとつは、中学1年の頃に教育実習の先生からもらったと思われる色紙です。

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ショートカットでスレンダーで、きれいな女性の先生でした。13歳の多感な少年であったぼくは、目上なのに失礼なことですが、あがってとちってばかりのセンセイをかわいいと思いつつ、オトナの雰囲気にやられて淡い恋心を抱いていたのでした(照)。

たぶんぼくはクラスをまとめるような役をやっていたと記憶しています。愛情を伝える術もなく、実習の最後の日に突然お別れ会をやることで婉曲に、先生想ってます・・・というような表現をして、先生を泣かせてしまったことがあったような。記憶力の悪いぼくは残念ながら詳細を覚えていないのですが、先生の面影だけはおぼろげながらイメージできます。なにしろ好きだったので。

クラスメイトがお別れの色紙にちゃかしたような楽しいメッセージをいただいていたので、ぼくもちょっと期待していたところ、思いのほか「孤独に耐えられる強いリーダーになって下さい」という真面目な言葉をいただいてショックを受けました(ちょっと残念だった)。でも「○○ちゃんへ(○○はぼくの名前の部分)」という呼びかけをいただいただけで、純真な少年は、完璧にノックアウトされました。名前を呼びかけられる妄想をして、何度も色紙を眺めながら溜息をついたものです。

しかし当時、この言葉はずしーんと響きました。10代のぼくは、ずっと行き場のない孤独というか寂寥感に悩まされていたような気がします。教育実習生とはいえ先生おそるべし。ぼくの内面を見抜いていたのかもしれません。というか、ぼくはわかりやすいひとなので、少年BirdWingは強がりながらも、さびしさを全身から発散していたのかもしれないですね。

先生のコメントを何度も読み返しているうちに、やがて恋心は尊敬に変わり、先生の叱咤激励をはっしと受け止め、よしっ!強いリーダーになってやる!あなたのために頑張ります、センセイ!・・・といたずらに夕陽に向かって鼻息を荒くしたような気がします。ま、それほど教育実習の先生は何か深いことを考えていたわけではないかもしれませんけれども(苦笑)。

恋は盲目です。大好きな誰かにアドバイスされたら、まっすぐに自分を変えようと思ってしまう。若さゆえの実直さですが、そんな愚直ともいえる素直さは失いたくないものです。あれからセンセイはどうしているのでしょう。もう、いいおばあちゃんになってしまわれたのだろうなあ(遠い目)。

さて、ふたつめの感動したことは、社会人になった20代の頃の残留物でした。

090103_kensyu1.JPG

入社3年目の社員研修だったかと思うのですが、グループになって、それぞれ別のひとのよいところを発見して渡すというワークショップがありました。そこで、5人の同僚がぼくのよい部分を2つずつ書いてくれたメモです。そういえばとても嬉しかったので取っておいたのだっけ。

自画自賛ではあるのですが、自分のために、ちょっと列記してみます(読んでいる方には白けることだと思います。すみません)。いずれもぼくに対する評価、印象です。

090103_kensyu2.JPGAさん
・やさしい。
・つねに表情がなごやかなので
 周囲を幸せにする。
 
 
 
 
 

090103_kensyu3.JPGBさん
・人をまとめるのがじょうずだと思います。
・自分の意見を素直に言える人だと思います。
 
 
 
 
 


090103_kensyu4.JPGCさん
・文章がうまい(入社案内第一弾を読んで感心!)
・スピーチも面白いです。
 
 
 
 

090103_kensyu5.JPGDさん
・何事にも動じない落ち着き
・いつでも絶やさない笑顔が場を
 やさしい雰囲気にすること
 
 
 

090103_kensyu6.JPGEさん
・要点をはっきりつたえる
・話しやすい人
 
 
 

 

なんだかこういうのを晒すのは悪趣味な気もしますが、でも、いいやつじゃないですか、20代の自分(泣)。というか、これはほんとうに自分なのだろうか。自信ないんですけど。

当然、相手のよいところを書きなさいというワークショップなので、悪いことは書いてありません。それにしても他者による自分のプラス評価が(たとえ数十年前のものだったとしても)、これほどまでにも自分を勇気付けるものとは思いませんでした。

ちなみにCさんの「入社案内第一弾を読んで感心!」というのは、当時勤めた会社で新人が入社案内を制作するプロジェクトがあったのですが、ぼくがコピーライティングを担当しました。社員の方からヒアリングしたことをベースに入社してほしい社員像を描いたのですが、なかなか熱いメッセージでもあり、体裁としては原田宗典さん風の面白い表現をしたことを覚えています。部分的に活字がゴシック+大きくなっているような文章です。

はあ・・・しかし、若くリーダーシップに溢れ、ほがらかでやさしい雰囲気のBirdWing青年が、数十年後のいまは、すっかりしょぼくれて自信のないおじさんになってしまったものだなあ。

いやいや。そんな風に悲観的になってはいけません。僅かではあるかもしれないけれど、いまでもあの頃の自分のよい部分は残っているのだ(と信じよう・・・)。そのうちのひとつとして、場をやさしい雰囲気に変えられることに注目しました。昔から、ぼくの大きな特長のひとつかもしれません。短気のあまりに、かーっと怒って場をぐちゃぐちゃにしてしまうことも多々あるのですが、できればやさしい雰囲気を忘れずにいましょう。背筋を伸ばしましょう。

というわけで前向きになろうと決意したぼくは、となり駅の書店を訪れて、次の二冊の本を買いました。

4478007462一瞬で新しい自分になる30の方法―24時間ストレスフリーでいられるNLPテクニック
北岡 泰典
ダイヤモンド社 2008-11-29

by G-Tools
4534044496デューデリジェンスのプロが教える 企業分析力養成講座
山口 揚平
日本実業出版社 2008-10-09

by G-Tools


ほんとうは新年からドラッカーあたりのがつんと読み応えのある本を購入したかったのですが、まずはとっつきやすい本から入ることにします。

1冊目はNLP(Nuro‐Linguistic Programing:神経言語プログラミング)の本です。NLPについては、以前エントリーで否定的なコメントをしたこともありますが、きちんと学ぼうと思いました。

なぜこの分野に抵抗を感じたかというと、ネットで軽く調べたところ、表層的に利用して好奇心を煽るようなサイトも多いと思ったからでした。また、宗教にしても心理学にしても、ほんとうにそうなのか?という客観性なしにのめり込むことは、ぼくには危険であると感じています。つまり洗脳のように盲目的に信じてしまう。思考する対象と自分を切り分けて考えられる客観性と自分を守る強さがないと、影響を受けすぎる危険性があります。そんなわけで敬遠していました。

しかし、NLPで扱っているテーマとして、五感を研ぎ澄ますことで意識の配線を変えたり、イメージを変えることによってストレスを軽減させること、言語学・心理学・人間工学などを横断した知の方法論については、ぼくの関心のあるスポットにはまる内容でした。したがって、ゆっくり内容を吟味しつつ学んでいきたいと考えています。

ちなみにNLPには、自分のなかに観察者や当事者に対する部外者のような「他者」を存在させることにより、いま拘っている思考の枠を外し、客観的な判断やネガティブな思考から解放する方法もあるようです。数十年前に研修でぼくが受けたワークショップ(他人から自分のよい部分を指摘してもらう)を自己内で行うことと近いのではないか、という印象を受けました。

自己のなかに他者の視点を導入することで、思い込みの支配から解放される。多様な視点、立体的な思考を獲得したいとずっとぼくは考えていました。それは他者との関係性のなかで獲得できるものでもありますが、セルフコントロールの手法としても興味深いものがあります。

あらためて見直すと、埋もれた過去のなかにも現在を変えるヒントはたくさんあります。歳月を経て発掘した「自分」に元気付けられたぼくは、ゴミ箱に捨てる前にちょっと点検してみたい。そして、過去の上に年齢を重ねた分別のある現在の自分を築いていきたい。そんな気持ちをあらたにしました。

+++++

追記

実はまだネットの引っ越しができていません。なんだかものすごいややこしいことになっている。そんなわけでネットカフェ難民になりながら、自宅で書いた原稿をUSBのメディアに保存して持ち歩いて、時間に追われながらのブログ執筆です。漂泊のブロガーというのも悪くないのですが、落ち着いて書けないのが辛い。しばらくは書きためた原稿を一気にネットカフェで公開する形で書いていきます。やれやれ。

投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

2009年1月 2日

初夢、そして夕焼け。

2日といえば初夢。縁起のいい夢は、「一富士、二鷹、三茄子」などといわれています。しかし、なすびの夢ってみることがあるのだろうか。ぼくはみたことがありません。三番目の茄子を狙って夢をみるほうが難しい気もします。

鷹がなすびをくわえて富士山の上空を飛んでいくような夢をみることができたらとてもいいことがありそうですが、そう都合よく夢はみれないものでしょう。また、合成された作りもののような夢では、ご利益がなさそうです。

ちょっと余談になるのだけれど、「合成された」で思い出したのが、去年公開されたウルトラマンの映画でした。

時間がなくて観にいくことができませんでしたが、この映画に出てきたギガキマイラという怪獣が次男くんのお気に入りで、人形を買ってあげました。箱入りで3000円もする豪華な人形でした。とはいえ、こいつがなんとも困惑するような怪獣で、ゲスラ、ヒッポリト星人など、往年のウルトラマンシリーズに出てきた怪獣を無理やり合体させています。これです。


B001F4PCQ2ウルトラ怪獣シリーズ2008MOVIE ギガキマイラ
バンダイ 2008-10-11

by G-Tools

パパには気持ち悪いだけだぞ、これ(苦笑)。

親たちの世代に向けて、ああ、懐かしいなというノスタルジーを誘う戦略かもしれないのですが、ただ寄せ集めればよいというものでもないだろうという感じ。なんだかとっても投げやりです。新しい怪獣をデザインする予算がなかったのか、と思わず円谷プロのお財布事情が気になります。経営に苦戦している、ということもどこかで聞いた覚えがありますが大丈夫でしょうか。ウルトラマンシリーズは子供に夢を与えるものだけに、頑張ってほしいと思います。

さて、よい夢がみられるように祈りつつ眠ったのですが、昨夜2度ほど夢をみました。それがどうにも首を傾げるような夢でした。こんな感じです。

■第1弾
電車に乗ってどこかの駅で降りる。JAZZバーが密集したようなところで店を探して歩く。ピアノの音色が低音のスタッカートで聴こえる。加山雄三がユニゾンして歌っている。環境についての話を聞く。内容は思い出せない。

■第2弾
鳥の丸焼きがテーブルの上に乗っている。羽の部分が黒くなっていて、食べるとちょっと気持ち悪くなる。

うーむ、よくわかりません(苦笑)。鳥系のハンドルを使っているぼくとしては、2番目の夢は共食いにも思えるのですが・・・。

このところあまりみないのですが、カラーの夢も一時期よくみました。一方で最近は音を聴く夢が多いですね。DTMをぱたっとやめてしまって音楽といえばラジオでFM(あるいは古いCD)ばかり聴いているので、音的な欲求が高まっているのかもしれません。加山雄三が出てくるのは意味不明ですが、ひょっとしたら過去の映像と合成しているパチンコか何かのCMをテレビで観たせいかもしれない。

家のなかで1日まったりと過ごしてしまったので、夕方、さっそく本屋を散策しながらふと気付くと、すばらしい夕焼けでした。電車の高架の向こうに富士山がみえました。きれいだなーということで、東京から富士を望む夕焼けをデジカメで撮影してみました。

090102_yuyake.JPG

望遠レンズのついているカメラではなく、チープなデジカメのため分かりにくいかもしれませんが、夕焼けのいちばん向こう側にちょこっとだけ富士山があります。夢ではみることができなかったけれど、現実の富士山を眺めることができて、少し得した気分です。

みなさんにも、ご利益がありますように。

投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

2009年1月 1日

続ける・深める・拡げる年に。

あけましておめでとうございます。

東京の年のはじまりは、すばらしい青空でした。年末から晴れた日がつづいていたのですが、年があらたまったこともあって、見上げる空も少しだけ新しい。まずはデジタルカメラを頭上に向けて、正月の空を切り取っておきました。

090101_sora.JPG

次男くんの自転車遊びに付き合ってあげながら近所を散歩したところ、空がめいっぱい見渡せるポイントをみつけたのが年始の大きな収穫です。電線や建物もあまりなく、頭上にぱあっと空が広がっている。この場所は、空マニアとしてぼくの定点観測のポイントになりそうです。

とはいえ東京で過ごす新年は、田舎の正月と比べて、いまひとつ正月的な何かが希薄です。近所を散歩していると初詣帰りのひとたちとすれ違うので、少々は正月らしさも感じられるのですが、どこかぴんと張り詰めた空気が感じられません。というよりも年々正月の新しさが消失していくような気がします。年を取ったせいでしょうか。薄味な正月にちょっと困惑。

正月であることを言い訳にして朝からビールでほろ酔い気分でしたが、ゆるみがちな気分を引き締めるべく、今年の抱負などをぼんやりと考えました。そして、次の方針でいこう、と決めました。

「続ける・深める・拡げる」

まず「続ける」。企業のCSRなどにおいてはサステナビリティ(sustainability:持続可能性)という言葉もあります。持続することは大変だけれど、だからこそ大事です。特に2009年、ビジネスの分野では金融危機の影響による100年に1度の不況といわれています。持続することが困難な事態も増えていくのではないでしょうか。

さまざまな環境の変化に負けて、くじけてしまうことも多いものです。覚悟を決めたことであっても、障害の前に諦めてしまう。もちろん諦めること、断念することが大事な局面もあります。けれども、できる限り継続していきたい。

とにかく、ブログは書きつづけようと思います。ただし、もちろん無理のないようにします。毎日書くことが理想ではあるのですが、回数よりも内容の持続性にこだわりたいと思っています。たとえば、音楽理論に関心がある、と書いたのであれば、年間を通じて1度のエントリで終わってしまうのではなく、何回か連続してそのことについて書きたいですね。

次に「深める」。そのときどきで関心のあるテーマにぱっと飛びついて、さっと忘れてしまうのがぼくの欠点であると反省しました。「続ける」とも関連しますが、浅く広く関心の赴くままに網を広げていると知識が深まっていきません。したがって、もう一歩踏み込んで思考を掘り下げたいと考えました。

趣味ではDTMや音楽、文学、映画のジャンルにおいて、作品の解釈を深めていきたい。一本の作品の背景には、さまざまなひとびとの関わりや、完成するまでの過程があります。どちらかといえば読者/リスナー/鑑賞者の立場から、面白かった、泣けた、つまらなくてアタマにきた・・・など、個人的な感情主体で結果中心のレビューや感想を書いてきたのですが、もう少し作り手の立場や作品をめぐるコンテキストにも注目しようと思っています。

たとえば映画の作品鑑賞の本数を重ねたなら、ある監督の全作品を俯瞰して、この作品の位置づけはここにある、などのように論じられるだろうし、アーティストが完成された既存の枠組みを破壊して行う創造的な挑戦についても気付くようになるかもしれません。ネットで調べられる範囲で深めていくつもりですが、そんなことに留意したいですね。

アスペルガー症候群についても、ちらっとひとつのエントリで触れただけでしたが、簡単には言及できないテーマであると感じました。また、現代の社会現象を根拠のないままに聞こえのいいキーワードと直結させて解釈することは、危険であると反省しました。

あまり深みにはまると何も書けなくなる恐れもあります(ブログに広報マン的なチェックをかけていくと論旨が曖昧になり、先鋭さが失われます)。けれども浅はかな知識しかない話題については無知であることを正々堂々と表明し、とはいえ誤りに気付いたらあっけなく謝罪し、ゼロの段階から知識を積み重ねていこうと考えています。

誠実であることについて最近、考えをめぐらせることが多いのですが、ぼくの考える誠実さとは、まずは自分のこころの動きに嘘をつかない、ということが前提です。おかしいんじゃないか?と思ったら、その気持ちに蓋をしない。誠実な発言によって、かえって角を立ててしまうこともあるかもしれません。しかし、自分の気持ちに嘘をついてまで、きれいごとでまとめようとはしない。

また、個人的には昔から、上手い文章を書けるようになりたい、という目標がありました。レトリックや技巧の表層的なテクニックにとどまらず、よい文章とは、ということについても考えつづけていきたい。時間があれば小説も書いてみたいところですが、少し欲張りすぎかもしれないので、ほどほどにしましょう。

そして最後に「拡げる」。ぼくにはブログを書くにあたって苦手とする領域があります。たとえば社会や政治的な話題です。決して逃げているわけではないのだけれど、日本という国をただ愚痴ったところで何もよくならないと思うし、政党批判をしたところで虚しい。やるのであれば、きちんと状況を理解し知識を得たうえでやりたい。

とはいえ、波風をたてずに趣味の世界に閉じこもっていればいいやという、ぼくを含めた年齢の世代にありがちな個人主義というか無責任な傾向は、社会を何も変えないのではないか、このままでいいのか、という自省があります(ぼくが社会に対する関心が低すぎるだけかもしれませんが)。まずは社会に関心を持ち、目を背けずに、いま社会はどうなっているのか、ということを認識したい。そして、よりよい社会とは、ということについて考えていきたいと思っています。

よい企業とは何か、ということも考えたいテーマですが、財務面の情報の読み方から採用、環境の問題など多様な側面から考えていこうと思います。また、最先端のテクノロジーやマーケティングについても情報をキャッチしていきます。テクノロジーを生み出した企業の文化にも注目したい。拡げた分野が収束を失うのではなく、自分のなかで確かにつながっていくといいのですが。

と、書きながら思ったのは、ぼくはこのブログで

「よりよく生きるためにはどうすればいいか

ということを芸術や社会など多様な局面から追究していくのではないか、ということです。答えは出ないかもしれません。出ないのだけれど、悩み、考え、試行錯誤する時間がぼくの人生であり、そこに意味を見出すつもりです。

ぼくという存在に大きな意味はないかもしれないのだけれど、いずれは遺伝子に定められた生をまっとうして消滅する人生なのだから、ちっぽけな生命であったとしても、きちんと完全燃焼させたほうが有意義です。この世界から最期にはオサラバするのは避けられないことだから、一瞬も無駄にしたくない。立ち止まったり悩んだりして生きた過程でさえ重視したい。存分に生きたい。

生をまっとうする過程で何を考えるか、どう行動するか、ということが、生活様式の革新(ライフスタイル・イノベーション)というブログのタイトルにもつながることであり、生涯を通じて取り組むぼくのライフワークなのかもしれません。80歳になっても社会に目を向けて著作をつづけた、ドラッカーのようになれればいいな、と身のほどを超えた希望を持っていたりもします。

などと書いている一方で、しょーもない些細な日常の顛末であるとか、夢日記だとか、レンアイ論であるとか、そんな話も書きたい。もちろん空の啓蒙者として、あるいは自称・風景写真家として空の写真を撮りつづけて、ちょっとした雑文をエントリしていくことも継続するつもりです。欲張りですね。あらためて思うのだけれど、ぼくはとんでもない欲張りであることだなあ。

というわけで、ブログを休止していたうえに、新年第1本目ということで、思いっきり肩に力が入ってしまいました。あまりに理想を高く掲げすぎると重さでつぶれてしまいそうなので、ひとまず力を抜きます。のっけから今年も長文になりましたが(苦笑)、こんな感じで綴っていくことにしましょう。

あらためて今年もよろしくお願いいたします。

投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

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