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2009年1月 9日

国際的であること、日本語を使うこと。

水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」を読んだとき、ぼくのなかに批判的な思考が生まれるのを感じました。それはこの本を支持していたシリコンバレーの信奉者であるブロガーに対する批判とも重なりました。

4480814965日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
筑摩書房 2008-11-05

by G-Tools

茂木健一郎さんから明治時代の福沢諭吉のようだといわしめた梅田望夫さんにしても、オープンソースに詳しくギークとして鋭い切り口でブログを書かれていた小飼弾さんにしても、インターネットによる新しい技術や文化を日本に伝えてきた意味では、ぼくらのブログライフに大きな影響を与えてくれたひとたちです。その功績は認めたいし、彼等の書いたエントリにぼくは考えさせられることが多くありました。目標とすべきブロガーでした。

しかし、海外偏重の「外向き」な視点に対して、長いあいだぼくのなかに漠然とした違和感があったことも確かです。それはどういうことだったのか。少しきちんと考えてみようと思います。

市場規模として世界標準をめざすビジネスの重要性はわかります。そのためのツールとして、世界標準である英語を使いこなす必要があることは理解しているつもりであり、さらに自分の子供たちの世代になれば、いまよりも英語を使いこなす必要性が高くなるのは当然であると認識しています。技術面からいえば、シリコンバレーの最先端の技術と、技術を生み出した文化には学ぶことはたくさんある。日本にはないワークスタイルにも惹かれるところがありました。海外の動向は刺激的です。

しかしながら、外国にあるものがすべてよい、外国で生まれた技術や文化を妄信的に支持する価値観には疑問符を投げかけたいと思っています。海外への進出だけを尺度としていたずらに煽るような姿勢にも完全に頷けるわけではありません(もちろん肯定する部分もあります)。さらにそれが、日本語とその文化を捨てて<普遍語>として世界に通用する英語文化へ、という乱暴な論旨であれば話は別です。

<普遍語>という絶対多数として力を持つものがマイノリティを駆逐する、英語中心の文化が日本の文化を滅びさせるという、「日本語が亡びるとき」に書かれたような思考に対しては、どうしてもあらがう気持ちがありました。西洋かぶれ、といってしまうと乱暴かもしれませんが、外向きにばかり目を向けていると、ほんとうに身辺にある素敵なものに気づかないのではないか。

「あなたの国のすばらしさは何ですか?」と外国人に聞かれたとき、日本語です、とぼくは答えたい。マイノリティな言語でもいい。複雑だけれど豊かな表現、そして書き継がれてきた作品たちの伝統と美しさを胸を張って誇りたい。たとえ若い世代が乱れた日本語を使うようになったとしても、変わってしまった日本語を見放さずに、ぼくは生涯その変容を受け止めていたい。日本語がどれだけ素敵であるかについて、老いても力説できる人間でありたい。

日本語なんて滅びちゃうものですよ(ふっ)と、わかったような傍観者の顔で憂うのは「日本人として」最低ではないですか。そんな主張をする日本の作家の文学など、誰が読みたいと思うだろうか。あなたが滅びさせるような日本語であれば、むしろぼくは擁護したい。

しかし、一方でまた水村美苗さんをも擁護するのだけれど、梅田望夫さんや小飼弾さんの思惑とは別に、水村美苗さんがほんとうに伝えたかったことは、英語に支配されつつある世界のなかで、日本語に対する再評価をして、この複雑だけれどユニークな言語を守りたい、存続させていきたい気持ちではなかったのか、とも考えています。しかし、キャッチーな「日本語が亡びる」という言葉によって、その真意を梅田望夫さんや小飼弾さんたちブロガーが曲げてしまった。

逆説的ではありますが、国際化社会において、ほんとうに世界的な視野で評価される日本人とは、「日本人として日本のよさをきちんと理解し、説明できるひと」ではないか、と考えています。

国際人というのは、決して諸外国の技術動向に詳しかったり、世界に視野が開けていればよいというものではない。世界を見据えた俯瞰的な視点を持ちながら、「内向き」にも目を向けられることが重要ではないでしょうか。

外国人のなかにこそ日本のよさをきちんと理解しているひとが多い、というのも皮肉なことです。「シルク」や「ラストサムライ」のような映画を観て、あらためて日本の奥ゆかしい文化について気付かされました。日本人でありながら、あまりにも日本に対する理解が貧困な自分が恥ずかしくなりました。ああ、この映画で描かれているような、慎みがあり成熟した思考のある日本人になりたいな、と。海外からの視点を経由した日本のすばらしさは、少しだけフィルタリングされた日本かもしれません。しかし、他者としての視点を受け止めて、日本らしさを追求しても構わないとぼくは思います。

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一方で、外向きということを意識せずに、こつこつとよい仕事をしてきた職人さんたちが日本にはいます。結果として仕事に誇りを持って取り組むことで、世界にも通用する産業が生まれてきました。岡野工業のように、ちいさな会社であっても国防総省やNASAからも発注のある技術を生み出したような会社もあります。岡野工業については村上龍さんが司会をつとめる「カンブリア宮殿」で知ったのだけれど。

当然、最初から世界に照準をあてて成功した企業もありますが、カラオケやアニメ、ウォークマン以外にも、日本発による独自の文化や技術が生まれてきてもよいのではないか。そのためには、海外からの影響や雑念を一度シャットアウトして、内なるものに耳を澄ます必要があるのかもしれません。眠っているもののなかに、あるいは忘れ去られた歴史のなかに、いまの時代に通用する何かがきっとあるはず。

地域性、ローカルなもの、マイノリティだけれどあたたかいもの。

ぼくは(あくまでも個人的に、ぼくは、なのですが)そういうものを大切にしたいとも思っています。もともと音楽の趣味に関してはメジャーではなくインディーズ志向だったせいもあるのですが、絶対多数の価値判断から零れ落ちてしまうものを受け止めていたい。ブログに賛同したのも、ロングテールというマスの評価から零れ落ちてしまう何かにもきちんと居場所がある、という群集の知を尊重する場に期待したからでした(結局のところ、アクセス数やブックマークの数を競うマスのモノサシに絡め取られてしまいましたが)。

たとえば、日本語における「方言」について考えてみます。

テレビなどマスメディアの影響もあり、東京で使われる標準語が浸透した結果、いま方言は日本という狭い場所のなかでさらに「滅びつつある言葉」といえます。エンターテイメントの分野で圧倒的に勢いのある大阪弁はともかく、地方に行っても東京と同じように標準語で話すひとたちがいる。金太郎飴のように東京で流行っている服装を着て、同じような流行り言葉を使っている。

しかし、少なくなってきたからこそ、ぼくには方言はとてもあたたかい言葉に聞こえます。そのあたたかい言葉を大切にしたい。狭い日本という国のなかで考えたときにも、東京の言葉と地方の言葉を使い分ける「二重言語者」こそが、文化に豊かさを与えてきたのではないか、とぼくは考えました。

東京に住むひとたちは純粋に東京生まれというわけではなく、大学や短大への入学、あるいは就職を契機として、地方から上京してきた人々が多数ではないかと思います。年末年始や夏休みには帰省する学生や社会人たちのすべてがそう感じているかどうかはわかりませんが、彼等には、情報にあふれて最先端の流行が集まる東京の利便性がわかっている一方で、田舎に流れるゆったりとした時間の大切さもわかっている。おせっかいだけれどあたたかい言葉をかけてくれる田舎の家族との交流もわかっています。ふたつの地域性と言語を内に持ちながら生活しているといえます。

上京して間もない頃には、田舎に帰れば東京の言葉が気恥ずかしくもあり(その反面、誇らしくもあり)、一方、東京では地方の言葉が出ないように気を張り詰めていました。いまでこそ東京で過ごした年月のほうが長くなりましたが、ぼくもまた地方で東京に憧れて上京した地方人のひとりです。東京と地方で揺れ動くあやうい均衡を抱えながら、長い時間を過ごしてきました。とはいえ、地方と東京の言語的な差異がなくなり、標準語に駆逐されてしまったら、そんな意識もなくなってしまうのかもしれませんね。

自分の内面に地方出身者のどんくさい何かを感じながら(ぼくの場合は静岡県人としての温厚で、のほほーんとした性格を意識しながら)東京で暮らしています。けれどもそれは少しも悪いことではなくて、地方人を内包した東京人であることが、ぼくのパーソナリティーを豊かに形成している。自分のなかにある内なる地方性は捨てられません。実際に田舎に帰ると面倒なことばかりだけれど、東京に住む地方出身者という感覚は大切であると感じています。たとえ、もう戻れないふるさとだとしても。

この考え方をもう少し拡げると、英語に対するローカルな言葉としての日本語という位置づけも明確になるのではないでしょうか。英語が日本語を滅ぼす(標準語が方言を駆逐する)という事実はわかります。しかしだからこそ、地域性を守るべきである、とぼくは考えたい。

これもまた乱暴に喩えると、水村美苗さんは東京の標準語に憧れて地方の言葉なんてダサい、といって方言を捨てようとしているローカルな女子高生にしかみえない。だから水村美苗さんの主張は稚拙だと思うし、つまらない。

文化というものは、同質のものではなく、異質なものが出会うときに生まれるものだと思います。

妄想で話しますが、東京にいて、自分とは郷里が異なる地方の彼女と遠距離恋愛をしていたとしましょう。深夜の電話でコイビトが地方の言葉をぽろっと零してしまったとしたら、たまらなくいとしくなると思う。自分に合わせて標準語を話してくれていたのだけれど、思わず素が出てしまった瞬間。それは彼女が一枚服を脱いでくれたような、数ミリ距離が縮まった感覚があるはずです。そんな標準的ではない飾らない表現に出会えたとき、自分に対する想いもわかるし、相手に対する理解も深まっていく気がしています。外向きの言葉だけでは出会えない、言葉の奥行きを感じる瞬間ともいえるでしょう。

フランス語にはフランス語の趣きが、スペイン語にはスペイン語の情熱があるのではないでしょうか。そして、多様な言語を意図して使い分けることができるのは、とても豊かな恵まれたことだと思います。あるいは、異なる文化を理解しようという原動力は、多様な言語があるからこそ生まれるものである、と言い換えることもできるでしょう。わからないことにこそ好奇心は発動するものであり、そうやってぼくらは文化を紡いできました。利便性や数の圧力のもとに効率化することが、必ずしもよいこととは思えない。

言語が一本化されたとしたら確かに効率的であり、コミュニケーションは円滑かもしれませんが、伝わらない「楽しさ」が失われます。ディスコミュニケーションという無駄が、実は文化の幅を拡げる大切なものだとも考えています。統一された言語は地域独自のびみょうなニュアンスを削ぎ落としてしまうわけで、ファシズムのように言語が統制されてしまったら、つまらない世界になる。

繰り返しますが、せっかく多様な言語があり、その言語によって培われた多様な文化があるのに、その豊かさを標準化という圧力のもとに単一に収束させていく思考に、ぼくは抵抗を感じますね。英語が標準だ、そのほかの言語は滅びゆくものだ、というのはとんでもない傲慢で権力的な思考として受け止めました。だからこそ異議を申し立てたい。

願わくばインターネットで検索してぼくのブログを訪れたどこかの外国人が、こいつは何を言ってるんだ?という疑問を持ち、他言語に翻訳したくなるようなブログを(日本語で)書こうと思います。

最初から英語でかけばいい、という見解もあります。でも、それじゃあつまらない。検索エンジンでふらりと訪れた外国人が「あなたの文章は何を言ってるかわかりまセーン。でも、なんだかクールデス。英語に翻訳したいデース」などとあらわれてくれると嬉しい。音楽は国籍には関係がない共通の言語であると思います。音楽を作っているうちに、なんとなくウマが合う海外の音楽好きも出てくるかもしれない。あいにく、いまのところ海外からは、コメントスパムかトラックバックスパムしか来ないですけどね(苦笑)。逆にぼくが、この海外サイト面白そうだと思ったら、翻訳を試みるのも楽しそうです。

シガー・ロスのふるさとである北欧の言語に翻訳されたりしたら、文化的な刺激がありそうです。英語と日本語で書き分けることも大事なことかもしれませんが、異なった文化の誰かとコラボできることはぜったいに楽しい。このブログで論争や喧嘩はしたくありませんが、創造的な対話であれば、異国のひとであってもウェルカムな姿勢でいたいものです。

日本語の乱れを憂うひともいますが、乱れや揺らぎも時代や文化のなかで変わりつつある姿です。完璧な理想系を保持できるほど、ぼくらの世界はスタティック(静的)なものではない。あるいは、理想とは何なのか、という問いもあります。

という理屈はともかく、ぼくは21世紀のとばぐちで日本語でブログを書いていることがしあわせであり、この言葉が大好きです。徹底的にこの国の言葉の美しさを追究すること、日本のよさを再発見すること。それもある意味で、国際的に意味のある姿勢ではないかと思っています。

ドラッカーは、日本語という文化の独自性が最終的には世界から日本を守る、ということを述べていたように記憶しています。日本人が生み出してきたものは、それがどんなにマイノリティだったとしても自信を持ってよいのではないかな。終身雇用という日本独自のシステムも見直すべき部分がたくさんあるはずです。西洋かぶれの成果主義を導入して破綻している企業も少なくはないでしょう。カイゼンが上手な日本人とはいえ、なんでもかんでも西洋のものを導入すればよいわけではありません。内なるものに目を向け、耳を澄ますべきです。

日本的なものを見直してみる。そんな内向きの思考にきちんと向き合うことによって、この厳しい不況を打開するヒントがみつかるかもしれませんね。

投稿者 birdwing : 2009年1月 9日 23:59

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