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2009年1月 7日

内向きとか外向きとか。

内田樹さんのブログを読んでいたところ、面白いな、と思ったのが「 「内向き」で何か問題でも? 」というエントリでした。

乱暴かもしれませんが、簡単にまとめます。

ノキアは岐阜県の人口に等しいフィンランドで成功しても採算が合わないので、世界市場をめざすしかなかった。しかし日本では、国内の市場で十分に食っていけるだけの規模のビジネスがある。だから、いたずらにグローバル化して世界をめざさなくても、国内で採算が取れるのならいいじゃないか。内向きで何が悪い・・・というような主張だと思います。簡略化しすぎかもしれませんが。

外需依存の結果として日本は成長してきたけれど、だからこそいま米国の金融危機に大きな影響を受けて経済が破綻しつつある、というアナリストの解説を読んだこともありました。もちろん国内と世界では市場規模が違います。世界標準を見据えた大きなビジネスは重要であり、マクロの視点では、それが日本経済を支える屋台骨になるともいえるでしょう。しかしですね、鎖国とまではいかなくても、自国内で完結するビジネスもあっていいのではないか、と考えました。

この内田樹さんのエントリには小飼弾さんのブログが突っ込みを入れ、さらにそのブログ経由で池田信夫さんが論じています。それぞれの考え方が興味深い。特に「規模の経済」が内向きの企業を駆逐していくという池田信夫さんの見解には説得力がありました。

一般の方の見解も少し眺めてみたのですが、どうも二極論になりがちなことが気になります。すべてのビジネスで内向きに、ということを内田樹さんは書いているのではないと思います。内向きにビジネスを展開する企業はどちらかというと肩身が狭いのですが、それでも自信を持っていいんだよ、と言っているのではないか。そうぼくは解釈しました。弱者に対する配慮かもしれません。

トビラを開いて外国からの風を入れることが景気を活性化させることもありますが、強風によって、かえって被害をこうむることだってあるかもしれない。現実問題として、中堅、中小企業は体力がないから厳しい。

モバイルのキャリアに関していえば日本独自の閉鎖性には問題もありますが、では国際的なローミングサービスのようなものが必要かというと、正直なところぼくにはあまり関係ありません。だから国内で携帯電話を使うことができれば、それでいい。むしろ余計なオプションがごちゃごちゃ付属しているよりも、シンプルなほうが使いやすい。

また、みんながみんな外向きになる必要はないのに、右といえば全員が右を向かせるのは日本的な「空気」の圧力を感じます。だから、内向きで何が悪い、という内田樹さんの主張には気持ちよさを感じました。

ところで、内田樹さん、小飼弾さん、池田信夫さんのエントリを眺めながら思い出したのは、梅田望夫さんが絶賛していた水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」という本のことです。

4480814965日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
筑摩書房 2008-11-05

by G-Tools

「普遍語」という外向きの強大な言語である英語のもとに、日本語は滅びていくという見解が示されていて、ブログの界隈ではちょっとした話題になりました。

この本については、梅田望夫さん、小飼弾さんは絶賛されていました。しかしながら、池田信夫さんは奥さんの感想も含めて、「つまらない」というひとことで終えています(「日本語はすでに滅びている」という12/4のエントリ)。

実はぼくも購入したのですが、中盤170ページあたりから読む気力が失われて現在に至ります。個人的見解を述べると、つまらない本です。お金を払って読むには値しない内容でした。

それでも、冒頭の一章「アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々」はよかったですね。世界の作家がアイオワ大学に集まってIWPというワークショップを行う話については、"エッセイとして"十分に楽しめました。多国籍の作家が集うようすが鮮やかに描かれていて、それぞれの作家についての描写もうまい。個々のエピソードにもお国の違いがあらわれていて、映画のように脳裏にイメージが浮かぶ文章でした。

しかし、そのあとにつづく根拠のない自分勝手な日本語論などは酷いと思います。最低です。

帰国子女の感傷に浸って根拠のあやしい日本語論が展開されます。私小説作家の憂鬱なポーズを気取った憂国論には、正直なところ、うんざりしました。べたべたした暗い思考をだらだら語っていて歯切れが悪い。学問的には曖昧なのに、作家としてのプライドなのか文学をやっているというポーズなのか、知的にみせかけようとしている。そんなに日本語を憂うのであれば、うじうじ書いてないで、いっそのことすぱっと割り切って英語で小説を書けば?というのが率直な感想です(世界で通用するという奢りがあるのなら、ですが)。

梅田望夫さんは、この「日本語が亡びるとき」を絶賛するエントリをブログに書いたあと、読まずにコメントするはてブ利用者をTwitterで批判。その発言によって炎上状態になりました。しかもそれだけにとどまらず、その後、水村美苗さんと対談することを発表したため、「日本語が亡びるとき」をめぐる騒動は対談を前提としたプロモーションだったのか、話題集めだったか・・・と勘繰られて、ネットでヒンシュクをかってしまったようです。

梅田さんは作家でもなければ特に日本語や文章を書くことにこだわりがあるひとではないし(1冊だけ本が出せればそれでいい、という発言を読んだことがあります)、よくいえば計算高いひとだろうなとぼくは思っていたので憤りもありませんでしたが、思うに、シリコンバレー信奉者である梅田望夫さん、小飼弾さんにとっては、「日本語が亡びるとき」という本は、アジテーションをかつぐだけの意味で絶賛したのではないでしょうか。

「日本語が亡びるとき」というキャッチーなフレーズは、シリコンバレー信奉者系ブロガーにとっては、かっこうのキーワードだったと思います。だから絶賛したのであって、内容はどうでもよかった。というのは、この酷い本を絶賛する感性が理解できない。梅田さんや小飼さんのほうこそ、ほんとうにきちんと読まずに語っているのではないかと疑ってしまう。レビューを書くブロガーとして考えても、絶賛ばかりして酷い面を言及しない姿勢は信用できません。

内田樹さんの「内向きで何が悪い」という言葉に対しても、小飼弾さんは脊髄反射しただけにすぎない、というのがぼくの見解です。ブログで書かれている主張には目新しさや鋭さを感じませんでした。

そもそも小飼弾さんのブログは、アルファブロガー全盛期には、辛口の切れ味のいい文章に小気味のよさを感じたこともありましたが、目が肥えてくると、はたしてそれほどのカリスマ性がある内容なのか?と疑問です。失礼ながら端的に断言すると、思考が乱雑であって文章もあまり上手ではない。

内田樹さんのエントリの引用に際しても、小飼弾さんは乱暴に「大商い」と「小商い」という表現によって二元論的な枠組みのなかでねじふせようとしている印象がありました。以下の最後の部分についても、二元論的な思考で「内向き」に対する「外向き」のスタンスで語っているように読み取れるのですが、その安易な構図もいかがなものだろうと思う。

「内向き」でいられるのは、外に向かって体を張っている人たちあってのこと。
大きな国ほど、それがわかっていない人が多いというのは確かなようだ。

言っていることは納得できます。外向きに頑張っているひとたちあってこその経済だと思うし、その恩恵に感謝すべきでしょう。しかし、外向きのひとたちの「おこぼれに預かっている」ことは、いけないことなのでしょうか。彼の文章からは批判的に読み取れるのですが、そうだろうか。

素人の見解で述べますが、ぼくは企業や経済は個々で成立しているのではないと思います。

思考の枠組みとして導入したいのは、生態系(エコシステム)ではないか、と考えました。世界規模で循環する社会や経済のシステムもあれば、ちいさな規模の循環もあります。大きな規模の循環によって、ちいさな規模の循環を生かしていることもあれば、ちいさな規模の循環が実は集まって大きな世界全体を支えていることもある。

助け合ってバランスを取って生存しているのが世界ではないでしょうか。甘ったるい理想論かもしれないけれど、ぼくは「大商い」「小商い」「外向き」「内向き」は二元論のもとに対比するものでなく、お互いの関係性のなかで調和させることも可能ではないかと考えました。

その考え方のフレームワークを借りて、別の社会現象を論じてみます。

派遣村の問題をはじめ、派遣という雇用形態が問題になっていますが、これもまた正社員/派遣社員という対立で考えていても不毛です。派遣社員の存在があるからこそ正社員は煩雑さから解放されることもあるし、また、派遣社員にとっては正社員の頑張りがあるから、責任の範囲を限定して自由なワークスタイルが守られる。内勤で事務を支えてくれる派遣社員があるからこそ、正社員は「外向きに」営業もかけられる。

家庭も同様。外で働くおとーさんの頑張りがあるから家族は安心して生活できるのであり、けれどもきっちりと内向きの家庭を守ってくれる女房の働きがあるからこそ、旦那は外で活躍できるというものです。

といっても男は外で女は家で、という古い体制に縛り付けるつもりはまったくありません。実際はもっと複雑であり多様でしょう。主夫として育児休暇をきちんと取得して子供を育てて家庭を守る男性と、外でばりばり働く女性もあっていい。多様だとしても、それぞれの夫婦なりに折り合いのつけたお互いに助けあう関係があることで、家庭という社会や経済もうまく循環されていくのではないか。

論旨の焦点がぼけてきました(苦笑)。

内田樹さんの見解には甘いところもあるかもしれないけれど、ぼくは多様性を擁護する考え方として内田樹さんのエントリを読みました。だからこそ、「内向き」で何か問題でも?というタイトルなのだ、と。

もう少し別の視点から補足すると、高度成長期の時代であればともかく、成長が鈍化した現代において、いたずらにでっかい外向きの夢を描くのもどうかと思いました。むしろ身の程サイズの願望で耐え、守るべきときには堅実に守り、体力をつけた上で新たなイノベーションの機会をねらっていく・・・そんな戦略がよいと思います。この不況のときに内側に力をためて逆風に耐えた企業にこそ、次の春に芽を出せる機会が訪れる。

最後に「内向き」に戻って言及すると、ほんとうに内向きになれる企業なり人間というのは勇気が必要だと思います。というのは、グローバルだ、外に向かうべきだ、という主張が大半を占める状況下で、内省的であれ独自の内向き路線であれ、あえてその方向性をチョイスするには強い信念が必要になるからです。外側に向けるよりも強い信念がなければできないことかもしれません。

自分を究めることを重視しようと昨年末に考えたのですが、内を固めた人間が外に向かったとき、ほんとうに敵なしになるのではないでしょうか。内なる敵がいちばんの強敵です。弱さに打ち克つことができた企業や人間は強い。

そんなわけで、実は、ぼくも内向き派です(苦笑)。内向きでいいや。

投稿者 birdwing : 2009年1月 7日 23:59

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