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2006年7月31日

「態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い」 内田樹

▼book06-056:しなやかな思想、身体に耳を傾けること。

4047100323態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い (角川oneテーマ21)
角川書店 2006-04

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いい加減という言葉は適当とは異なっていて、ぼくにとってはよい加減という意味に思えるものであり、それはつまり風呂でいうと温くもなく熱くもなく、ゆったりと湯船で身体を伸ばしていると、うぇいーなんて言葉が思わず漏れてしまうような湯加減ではないかと思います。内田樹さんの本には、ぼくにとってはそんな"うぇい"な本であり、それでいて抜き出して深く考察したい部分がたくさんありすぎて困ってしまうほどです。

漫画から大滝詠一さんのことまで、内容も幅広く多岐にわたっていて、この節操のなさ(すみません)にも、体裁などに執着しないやわらかさを感じました。どうしてこんなにやわらかいのだろう、と思ったら、あとがきで、そもそもはブログに書かれた文章をあらためて書き直して集めた「コンピレーション本」とのこと。なるほどなあ、と思いました。内田さんのブログは拝見したことがないのですが、探してみようと思います。

ちょっと難しいテーマになってしまうのでまだ力量がなくて書けなかったのですが、「敗戦後論」の書評についても、深く考えるところがあり、つまりこれは靖国参拝問題なのですが、高橋哲哉さんの文章に悪い意味で「鳥肌」が立つと批判されていて、日本国民に周知徹底されない「正解」と、それが「正しすぎる」ゆえに危険であることを身体的に拒否する、という部分がすごいなと思いました。つまりどんなに理想で正しいことであっても、身体的にどこか警鐘が鳴らされることがある。戦争も同じことで、身体のともなわない理屈で判断することがいちばん怖い。「よくわからないけど変だ」「なんとなくおかしい」という、判断の留保を大事にしたいと思いました。考えてみると、「第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい (翻訳)」という本にも書かれていたことかもしれません。

構造主義の本質は、いまここにある自分をカッコに入れること、また系譜として祖先からのツリー(樹形図)による「順−系図」は母方のリストを抹殺していることであり、私からはじまって時間を逆に辿る「逆−系図」の発想など、いろいろとインスピレーションを感じてブログに書きたいことがあったのですが、残念ながら本を読み終えてしまいました。というのは、ぼくはたぶん本を読み終えてしまうと、ひらめきも本といっしょに閉じてしまうからで、閉じてしまうと健忘症のようにすべてを忘れてしまうことが多いからです。もっとゆっくり読めばよかった。7月31日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(56/100冊+48/100本)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

ユーモアとアイロニー。

しなやかでありたいものです。硬直しているものすべてに死の傾向があり、生きているものはやわらかくしなやかだということを読んだのは、海原純子さんの「こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人 (角川oneテーマ21)」という本に引用されていた老子の文章だったかと思うのですが、性別にかかわらず、女性にもこちこちに固まっている思想の方もいれば、読んでいるとふにゃふにゃになるぐらいやわらかい発想のひともいる。それは書き方の問題ではなくて、テキストの背後に息吹いている人間性の問題という気がします。文体でもなくて、「である」調でかしこまっていても、やわらかい身体をイマジネーションさせるような方もいる。一方で、明るくやわらかい文章で書いていても毒のあるひとには毒があるもので、ああ、隠して書いているけどほんとうは違うでしょ?ということがわかる。毒というものはそう簡単には抜けないものです。困ったことに。

一方で男性は比較的こちこちなひとが多いのだけど、男性のなかにもとてもやわらかい発想の方がいて、今日読み終えたのですが「態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い」という本を書かれた内田樹さんは、非常にしなやかな方だと思いました。何がしなやかであるかというと、まずタイトルからして、「すみません」と謝ってしまうことが、やわらかい。たいてい、自分の説を曲げずに、あやまるもんか、悪に染まるものか、まっすぐに生きてやるぞオレは、と頑なになるもので、その執着やこだわりは偉いものだと思うのですが、その肩に力が入った生き方が結構、窮屈だったりもする。うちのちいさな息子も、謝りなさいっ!というと頑なに謝らないのだけど、さっさと謝ってしまえばその後でおやつにもありつけるわけで、もちろん反省がなければまた叱られるのですが、謝ることで全人格が否定されることはなく、打たれ強くなってほしいし、しなやかであってほしいものだ、と思う。

内田さんの文章を読んでいて思ったことは、文章に余裕がある、ユーモアがあるということでした。ユーモアのある文章を書くためには、相当の余裕がなければ書けないもので、肩に余計な力が入っていると書けない。ところで、ユーモアとちょっと近い言葉にアイロニー(皮肉)があるのだけど、どのように違うのかを考えてみると、ユーモアは人を笑わせる言葉であり、アイロニーは人を笑う言葉のような気がしました。ユーモアは他人を豊かにするけれど、アイロニーは他人を損なうことで自分の優位性を確保しようとする。ユーモアは笑いというクリエイティブな日常のゆとりを生み出すけれど、アイロニーは批判という言葉で他人を縛りつけて自由を奪うものです。ユーモアには拡散性があり、アイロニーには方向性がある。ユーモアは忘れてしまうけれど、アイロニーは根にもつ。

悪口や愚痴や皮肉をサカナに酔っ払うことが大好きなひとがいて、そのひとにとってそれがしあわせであればそれもまた人生だとは思うのだけど、どちらかといえば、ぼくはユーモアのある生き方を選びたいものです。それは単純に価値観の違いであって、どちらが正解というものではないと思います。ほんとうのところどちらの生き方がよいのか、というとぼくにはわからないのだけど、選ぶのはユーモアのほうかな、という感じでしょうか。ただ、ユーモアのほうが難しいんですよね、アイロニーよりも数段。

さて。よくわからないのですが肩甲骨(背中の翼)の痛みについて先日書いたところ、翌日から次第に痛みが引きつつあり、なんだかとても健康になりつつあります。気持ちも落ち着いて、のんびりゆったりした時間を過ごしています。ブログ健康術って、あるんでしょうか。言葉にすると、文体が身体を浄化するとか。気持ちのもちようかもしれませんが。

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2006年7月30日

イン・ザ・カット

▽cinema06-048:映像が表現する心理と、個人的な困惑。

B0002MV51Eイン・ザ・カット [DVD]
ジェーン・カンピオン
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2004-10-06

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遺体をバラバラに切り裂く連続殺人犯を中心に、文学の講師であるフラニー(メグ・ライアン)が事件に関与する刑事マロイと愛欲に溺れていく世界を描いたサスペンスです。フラニーはスラングや地下鉄の広告や、詩などの言葉を収集しては、ピンで机の前に貼っていく。彼女自身もどこか破綻している性格なのだけど、ストーカーまがいの人物が周囲にいて、だれもが犯人に思えてきます。この倒錯した世界をうまく表現しているのが、深みのある色と、部分的にボケた映像だと思いました。しかしながら、映像はいい雰囲気なんだけど、ストーリーがいかがなものか、という感じです。深みがないのでは。

メグ・ライアンは、かつて好きな女優のひとりでした。というのも彼女の底抜けな明るさと、映画におけるちょっとドジなキャラクターがものすごく気に入っていた。ところがこの映画のなかでは一転して暗く、疲れた顔が多い。ついでに全裸もあり、濃厚なラブシーンまで演じているのですが、好きな女優だとはいえ(ちょっとうれしいけど)ぼくは裸がみたかったわけではない。この映画で、大切なひとを殺されて泣きつづけて目が腫れて、しかも泥酔状態で衣類もぐちゃぐちゃになっているメグ・ライアンをみて、いや、ぼくがみたかったのはこういう彼女じゃないんだけど、と切なくなりました。しあわせそうな結末で、はにかんで笑っている彼女の映画のほうが好きです。ストーリーとは関係のない、ものすごく個人的な感想ですが。7月30日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(55/100冊+48/100本)

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骨太な遺産たち。

世界の巨大恐竜博2006に行ってきました。仕事ではよく行くことのある幕張メッセですが、息子を連れて行ったのは、はじめてです。下の子はまだ無理だろうということで、長男とふたりで本格的な夏らしい快晴の天気のなか、恐竜三昧してきました。

Kyoryu.jpg

アーケードゲームで恐竜のカードゲームが流行っていたこともありましたが、もう下火じゃないだろうか?とタカをくくっていたのですが、そんなことはなく、夏休みということもあって家族でかなりの混雑でした。世のなかのお父さん、お母さんたち、ほんとうにお疲れさまです。

ジュラ紀とか白亜紀とか、そんな昔のことはどうでもよかろうと思っていたのですが、子供に帰ってあらためて学んでみると、なかなか面白い。ちいさな恐竜博士ともいえる息子の頭のなかは、ものすごいデータベースになっていて、今日ばかりは全面的に彼に教えてもらいました。会場のあちらこちらには、CGで恐竜たちの生態を再現した映像も流されていて、ビデオ&ゲーム世代の子供たちと親たちの注目を集めていたようです。しかし、やはりとんでもない存在感だったのは恐竜たちのでっかい骨で、スーパーサウルスが目玉だったのですが、それ以外の恐竜たちもなかなかのものでした。

と、これだけでは単なるマイホームパパの日記になってしまうので、いつものような思考を働かせて理屈っぽく考えてみます。

短い歴史で連続的な世界というのは「つづいている」感じがあります。たとえば、昭和と平成は大きく変わったといえ、まだ時間的にお隣りさんという感覚がある。けれども何億年と離れてしまうと、これはもう別の地球のできごとではないか、と思いました。あの骨になっているでっかい生き物は爬虫類のおじいさんだ、と言われたらそうかなとも思うのですが、理屈では納得できたとしても感覚的に疑問符がある。あなたたちは、ほんとに存在しているんですか、で、地球のいまにつながっているわけですか、と疑わしい。

この感覚は、恐竜の時代に関してだけではないと思います。ドッグ・イヤーなどといわれるインターネットやITの世界も同じです。紙にパンチ穴をあけてプログラムを書いていた時代なんて恐竜のようなものであって、そのITはいまとは別の世界のできごとだったのではないか、ひょっとしたら夢のなかの出来事だったんじゃないか、と思う。同時代に生きていれば、そういう時代もあったよね、と懐かしく語ることができるのですが、現在のネット社会も、子供たちが大人になる頃には恐竜のような化石になっているかもしれません。

とはいえ、とにかくでっかい骨を残した恐竜というやつらは、すごいなと思いました。彼等の影には、土となって風化したやからがたくさんいるわけであって、それはビジネスの世界にもいえるかもしれない。歴史に残るのはそれこそ一部の巨大な業績を残した企業であり、それこそ恐竜のしっぽ(ロング・テール)のように試行錯誤を繰り返していたのだけれど、結局のところ芽が出ずに、隕石の衝突のような突然の環境変化によって滅んでいった恐竜(=企業)も多い。

しかしながら、たとえ骨だけであっても歴史に何かを残すことはすごいことであって、そこには生きてきた証がある。願わくば実体は滅んだとしても、時代に何かを残したいものだと思いました。骨が風化しても生きつづけるのは、もしかするとビジョンのようなものかもしれません。「ビジョナリー・カンパニー」に書いてあったことですが、業績をいくら残したとしてもそれは束の間の栄光であって、ビジョンを残した企業こそが未来へと存続できる。

もう少し別の視点から考えてみると、以前、日刊デジクリというメールマガジンに、「進化」と「深化」の違いが書いてあったような気がします。いま手もとにそのメルマガがないので、内容はすっかり忘れてしまいましたが、あらためてぼくがその言葉について解釈を加えると、淘汰などを含めて対外的に変わっていくことが「進化」であり、より内省的に自分の思考を深めていくことが「深化」ではないかと思います。そして、どちらが優れているか、ということではなく、その「進化」と「深化」のどちらも自己には(企業には、生命には、地球には)必要な気がしました。

つまり進化に関して言えば、自分はなりたくないのにこんなになっちゃったよ、という進化もきっとある。競争社会のなかで淘汰されないためには必要だったことで、そのときには必要なのだけど、長期的にみると歪みが生じるような進化もあります。しかし、深化については、じっくりと深耕していけばよいのであって、社会がどうあろうと関係ないかもしれない。これを究めたいから放っておいてくれ、というカタチで深めていくことです。

恐竜というばかでかいやつらには深い考えなどなく、ただ生きて、ただ喰らい、時期がくれば繁殖し、夢をみることもなく滅んでいったのかもしれませんが、ぼくらは彼等の生命としての素朴な生きざまを継承しつつ、さらに言葉を操り、考える生き物として骨ではない何かを残していきたいものです。

いずれは骨になるのであれば、いまをせいいっぱいに丁寧に生きたいものだ、とも思いつつ、おとうさんは恐竜三昧にくたびれてしまいました。息子とすごした楽しい一日と心地よい疲労を反芻しつつ眠ることにします。骨にならない程度に。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2006年7月29日

ウォーク・ザ・ライン 君につづく道

▽cinema06-047:食傷気味な、ミュージシャンの苦悩と成功

B000KQFCHUウォーク・ザ・ライン 君につづく道 [DVD]
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2007-02-16

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すべての映画を観つくしたわけではなく、ぼくは映画ファンとしてはまだまだ未熟だと思うのですが、音楽をテーマにした映画は、なんとなく特定のフレームワークに絡め取られてしまっていて、ワンパターンであり、やれやれ、またこのストーリーか、と感じてしまうことがあります。どういうことかというと、幼少のときのトラウマを抱えつつ(兄弟を亡くした)、ものすごくよい曲を書いてデビューするのだけど、トラウマゆえに心の弱さを抱えきれずに、ツアーのストレスのなかで主人公はドラッグへ退廃的に溺れてゆく。ツアー中に心を許した女性と、残してきた妻や子供などの家族を両立できずに悩む。悩むのだけど最後はその泥沼から立ち直る。そんなストーリーです。「レイ」もそうだったと思うし、「バード」も同様でしょうか。サクセスストーリーというと、どうしても構造だけ抜き出してみると同じようなものになるのかもしれないのですが、もうちょっと別の音楽系映画のパターンってないものか、と思いました。むしろミュージシャンは登場しないのですが、このあいだ観た「エリザベスタウン」の方が音楽的だったなあ。7月29日鑑賞。

公式サイト
http://www.foxjapan.com/movies/walktheline/

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(55/100冊+47/100本)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

複雑に絡み合う倍音、言葉。

夕方から夜のはやい時間にかけて、近所でお祭りの音らしきものが聞こえていて、遠くに聞こえるその音にそわそわと促される何かがあったのだけど、結局のところ静かに家で過ごしました。梅雨は終わっていないらしいのですが(もうすぐ終了らしい)、夏らしくなってきた夜の雰囲気がよいなあと思いつつ、ロディ・フレイムの「ウェスタン・スカイズ」などを聴きながら書いています。

趣味としてぼくはDTMで曲を創ってmuzieで公開しているのですが、最近はVAIOのノートパソコンのなかですべて完結しています。外部からの録音することはまったくなく、さらにキーボードさえも使わないでマウスで音を置いて作っていく。ボーカルに関してはVocaloidというソフトウェアで音声合成によって歌わせています。しかしながら、この試みのなかで、どんなにリアルに近づけようとしても近づかない何かがあることに気づきました。それは何かというと、VSTiによるソフトウェアシンセやVocaloidには「身体がない」ということかもしれません。

いま、内田樹さんの「態度が悪くてすみません」という本を読み進めていて(現在、P.170)、その「言語と身体(P.58)」という章が非常に面白くて、実は書店でこの部分を立ち読みして思わず買ってしまったのだけど、音楽にも文章にもあてはまるような深い考察があります。

大学の研究室にいるとき、高校生が芝居の稽古をしている声が外から聞こえてくる。その芝居の声は日常の言葉であるにも関わらず、嘘(芝居)であることがすぐにわかる。それは、言葉の平坦さ、なめらかさにあると指摘します。そうして次のように書いています(P.61)。

「嘘」や「芝居の台詞」には「何か」が決定的に欠けている。
身体が欠けているのだ。

もちろん発話している芝居の稽古をしている高校生には、身体があります。しかしながら、演じている言葉には、どんなにリアリティをもたせようとしても再現として「印字」する言葉でしかない。身体の欠けている言葉は、どんなにきれいでなめらかであったとしても相手には「届かない」とします。

言葉が相手に届き、理解されるためには、まず相手の身体に「響く」必要がある。そして、言葉における「響き」を担保するのは、さしあたり意味性よりはむしろ身体性なのである。

このあとに村上春樹さんの言葉を引用しています。それはJ・D・サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の翻訳に対して書いたことらしいのですが、ぼくも非常に興味深く読みました。村上春樹さんの言葉を引用します。

極端なことを言ってしまえば、小説にとって意味性というのは、多くの人が考えているほど、そんなに重要なものじゃないんじゃないかな。というか、より大事なのは、意味性と意味性がどのように有機的に呼応し合うかだと思うんです。それはたとえば音楽でいう『倍音』みたいなもので、その倍音は人間の耳には聞きとれないんだけど、何倍音までそこに込められているかということは、音楽の深さにとってものすごく大事なことなんです。

当然ですが、村上春樹さんが言っている倍音とは倍音的な何かであって、音楽的に倍音そのものではありません。だからシンセサイザーで倍音を付加すればカイゼンされるという問題でもない。人間が声を出すことを考えてみると、身体のさまざまな部位で共鳴したりしなかったり、とても複雑になる。さらに歌っているひとのプライベートも含めたさまざまな「思い」が歌声のなかに存在していると思います。発話を音声的に解析すれば、そうした思いは削ぎ落とされてしまうかもしれないのだけど、その思いが微妙に音程を狂わせたり音質を変えたりしている。Vocaloidは非常に細かくハーモニクスなどのパラメーターを指定できるのだけど、その「思い」までをシンセサイズすることはできません。

文章あるいは文体も同じだと思います。2バイトの文字情報のデータの集合として置き換えてしまえば、書いているひとの「思い」はデジタルに削ぎ落とされてしまうのだけど、しかしどこかにその見えない「思い」が反映されていて、思いがあるということはそれに応じた心拍数の変化であるとか、汗のかき具合、快や不快の感情による体内や脳内物質の変化もある。そうした身体も含めた変化が伝わる文章と言うのは確かにあるもので、だからこそブログを読んでいて泣ける文章もあれば、非常に腹が立つこともある。

その身体性を削ぎ落とした言葉がまさに、「ブログスフィア」という本で語られている「スーツ」な言葉であり、企業における広報的な統制と抑制によって平坦になったリリース文、もしくは戦略的な意図で心脳的な操作を目的としたマーケティング的なアプローチかもしれません。

ずばっと鋭利な刃物で斬るような言葉も考えもので、ぼくは曖昧性に富んだ文章こそ、身体の複雑さを文体にも投影しているような気がします。白か黒かはっきりさせることが大事なのではなく、グレイであることをグレイであるとする文章に誠実さを感じる。

内田樹さんの本では、「知性が躍動する瞬間(P.119)」でそのことが書かれています。優秀な学生の論文を読んでいて、最近は「一刀両断」に斬り捨てるような文章ではなく、「書いている学生の息づかいや体温のようなものがにじみ出した文章」が多いとのこと。それは、AとBという主張があるがどちらが正しいかわからないという主張だそうですが、以下のように述べられています。

こういう文を読むと、私はほっとする。
「私にはわからない」という判断留保は知性が主体の内側に切り込んでゆくときの起点である。「なぜ、私はこのクリアーカットな議論に心から同意することができないのか?」という自問からしか「まだ誰も言葉にしたことのない思考」にたどりつくことはできないからである。

わからないことを無理にわかろうとするのではなく、わからないままに留保する。あるいは、わからないと言ってみる。それは複雑に響きあう言葉に耳を傾けることでもあり、結果ではなくプロセスを楽しむ生き方にも通じるものがあるような気がします。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2006年7月28日

身体の言葉に耳を傾ける。

とんでもないモノモライに悩まされたかと思うと、今週は背中が痛くなり、もう夜中に寝返りを打つことさえままならず、寝ているどころではないぐらいに痛んで困ったのですが、結石らしき痛みとはまた違っていて、背中にある翼のあたり(翼というのは比喩で、なんという骨でしたっけ。忘れました)が、すごく痛む。たぶんストレスだとか、不摂生だとか、そうしたものがここへきて一気に痛みとなって顕在化しているのだと思います。しかしながら、身体が痛むときに限って精神的にはかなりハイだったりするのも困りものです。翼のあたりの筋肉が痛むのは、とべない自分に対する身体的な肉離れの状態かとも思ったりするのですが、のんきなことを言っていないで医者に行け、ということが正しいような気もしています。

背中の痛みに悩まされていたら、いま読んでいる内田樹さんの本「態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い」に、三軸修正法という接骨医の池上先生の話が書いてあり、これも「偶然の符合」かもしれないと思って、興味深く読みました。ここで書かれているのは、三軸修正法と構造主義の共通点なのだけど、内田さんが思想的な見解から解釈するところが非常に面白かった。三軸修正法では、「アラインメント」(alignment)と言う言葉がキーワードのひとつにあり、それは「直線にすること、整除すること、提携・連合」という意味だそうです。そうして、それを次のように解釈されているところです(P.113)。

だが、「アラインメント」にはもう一つ語義がある。
それは「ネットワークの中での自己の位置づけ」という意味である。
私たちの身体の歪みや不調は、単なる局所的な疲労や損傷ではなく、ある「ネットワーク」の中で、適性な「ポジション」にないことによってもたらされることもある。いわば「記号としての病」である。

これはぼくの見解ですが、われわれの身体をテクスト(=さまざまな文脈が絡まって構成された織り物)としてとらえると、縦糸の整合性は取れていたとしても、横糸に「歪み」があることも考えられます。精神的には良好だったとしても、身体に思いも寄らないしわ寄せが出てきてしまっていることがある。あるいは逆も考えられます。身体的には健康であっても、精神に歪みが生じることもある。もちろん身体的にも、外科的には良好でも内科的に歪んでいる、なども考えられるかもしれません。ぼくは医学についてはまったくのシロウトなのでわからないのですが、部分ではなく「全体思考」によって身体全体の在り方を判断しなければならないような気がしています。

つまりぼくの背中の痛みは、単純に寝違えた筋肉痛かもしれないのですが、精神的に飛躍ができないとべない痛みが記号的にぼくの背中を刺激していると読み取ることもできるだろうし、背後に気をつけろ、というゴルゴ13的な暗喩かもしれない。オレの背後に立つな、という台詞があったかもしれないのですが、ぼくの足元をすくおうとしている何か不穏な動きがあって、それがぼくの背中に警戒を発しているのかもしれないわけです。まあ、あまりそんなことを思い詰めると被害妄想に発展しそうなので、これぐらいにしておきますが、身体のシグナルに耳を傾けることも大事かもしれません。

それは、身体をコーチングする、ということかもしれない。偏見や前提条件を排除して、身体の発している言葉をありのままにとらえること。仕事などに集中していると、そうした声を聞き逃して、まだ頑張んなきゃ、もっと頑張んなきゃと過度に負荷をかけることで、気づいたときにはどうしようもなく身体がぼろぼろになっていることもあります。そうならないためには、他者の言葉はもちろん、自分の身体の言葉にも耳を傾けるようにしておきたい。

聴くこと、というのは予想以上に深いな、と思いました。とかなんとか言っていないで、医者に行け、ということだと思うのですが、身体論はなかなか面白いものがあります。内田樹さんの本でさらに面白かったのは、肉声と倍音についての考察だったのですが、背中も痛むので今日はこの辺にしておいて、またいつか。

さて、今夜は家族そろってテレビで「となりのトトロ」をみました。宮崎さんの描く世界はいいですね。夕焼けの空、空を背景にした木々の暗い陰影がよいと思いました。あと、ゲド戦記の挿入歌がいいなあ。歌声の背後に流れるふわーっとした浮遊感のあるパッド系のシンセ(ストリングス)の音が素敵です。

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2006年7月27日

「ざらざら」川上弘美

▼book06-055:ひらがなというやすらぎ、そしてユーモア。

483871694Xざらざら
マガジンハウス 2006-07-20

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ざらざら、というタイトルをぼくは、ざわざわ、と読み間違えていたのですが、ぼくにとって川上弘美さんの文章は途方もなくざわざわした気持ちを呼び起こす小説で、転がされるものか、と警戒しつつ構えながら読んだのですが、この短編集はそれほどでもなく、ほっとしました。クウネルというマガジンハウスの雑誌に連載されていた作品で、既に雑誌で読んでいたものもいくつかありました。この雑誌は写真がオシャレで、会社帰りのコンビニでビールと一緒に買いました。

いま、ぼくはたぶん左脳的な本を思想関連書や脳科学、ビジネス書などで吸収していて、そのぶん、右脳的な本を女性作家のやわらかい小説で吸収しているような気がします。そんなわけで、重松清さんの文庫も買っているのだけど、なんとなく抵抗を感じて読まずにいる。また、物語に関しては映画で満足しているところもあり、だからこそ詩的なものや、やわらかい言葉を小説に求めている。もちろん船戸与一さんなどの硬派な冒険小説も好きだけど、いま読まないのは、そんなフレームワークが自然とできてしまっているからかもしれません。

川上弘美さんの描く女性は、なんだかちょっと間が抜けていて、ぼーっとしているようで繊細で、存在感がある。「ときどき、きらいで」という短編では、女の子の友達ふたりが部屋で夕飯を作りながら「はだかエプロン」をします。男の永遠のロマン的ファッションとはいえ、女の子の友人どうしでそんな試してみることってあるんでしょうかね?と思いました。しかし、そのありそうでない、なさそうでありそうなシチュエーションを生み出してしまうのが作家のイマジネーションです。「椰子の実」では、ちょっと、む、と思いました。兄と妹を描いた小説なのですが、人間の幸運・不運というのはある時期だけで判断できるものではなく、折り重なるような波を描きつつ、結局のところプラスマイナスゼロに落ち着くのではないか。そんなことを深く考えました。7月27日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(55/100冊+46/100本)

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ふだん着の言葉と、継続は力。

めぐりめぐってまた同じ場所に戻る、というか、ぼくのブログは途方もない繰り返しと循環だと思うのだけど、最近はそれでいいのではないかと思いつつあります。そして、小森陽一先生が文芸評論家であることを公言したように、ぼくはブロガーであることをきちんと認識しようとも考えています。アルファもベータもつかない、ただのブロガーです。それはただのオトコであるとか、ただの会社員であるとか、その意味に等しいものであり、特別である必要はない。プロダクトデザイナーである深澤さんの言葉を借りるならば「ふつう」であることを大事にしたい。

ロバート・スコーブル+シェル・イスラエルによる「ブログスフィア」という本も読み始めたのだけど(また買ってしまった(泣)。夏よりもぼくの財布のなかの方が熱い。火の車です)、その冒頭で、ブログは生身の言葉であることが重要ということが書かれていました(P.8)。

4822245292ブログスフィア アメリカ企業を変えた100人のブロガーたち
酒井 泰介
日経BP社 2006-07-20

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ブロガーは、ブログを通して、とにかく単純に会話をする。投稿には文法ミスも多い。話題があれこれと移り変わっては、堂々巡りもしたりする。質問、提案、議論のふっかけなどによって、ブロガー同士のさやあてが起きたりもする。だからこそ、彼らの間に信頼が生まれるのだ。ブログ界の草分けのひとりデイブ・ワイナーは、このやり取りを「ふだん着の会話」と言う。

では、ふだん着の会話の反対は何かというと、「スーツ」だそうです。それは企業においては広報の言葉でもある。

さらにブロガーは、大多数の人々と同じように、企業の公式スポークス・パーソンの如才ない流れるような言葉遣いを、総じてうさん臭く思う。ブログ用語で「スーツ(お歴々)」といえば、投稿者が生身の人間ではないという含みがある。広報担当者の奇妙な言葉遣いは「コープスピーク」と呼ばれ、それは慎重な法律用語とマーケティング的誇張があいまったつじつまの合わない物言いを指す。コープスピーカーは、相手が聞きたいときにではなく、自分の都合で勝手に語りかける。

一時期、広告の時代は終わってこれからはPRだ、広報だ、という流れもあったかと思うのですが、統制されて抑止がきいた企業広報の言葉といえども、そのつくられた言葉が逆に消費者の心を打たなくなっている。そんな時代かもしれません。だからこそ、ホンネのトークが展開されるブログが注目される。もちろんブログにも倫理感は必要だと思うのですが、企業の倫理を個人に適用する必要はない。スーツを着ていては語れない言葉があるもので、なんとなく嫌なものは嫌だ、逆にこれはもう大好きだ、ということについて語ることができるのがブログであり、社会的な抑制や権力に縛られた評論家には語れないものだと思います。しかしながら企業広報の語る言葉もブログに遜色なくターゲットに届くスタイルやエクリチュールがあると思います。それは誠実であることを原則として語る零度の言葉、という気がしているのですが。

ぼくはブロガーとして、そんな風にうまく語れるようになりたいと思うのだけど、なかなか難しい。そのためにはセンスも必要になります。センスというのは難しいものだけど、地下鉄の駅で配布されているGOLDEN min.を読んでいたところ、藤巻幸夫さんの「サムライ・チェーン・マネジメント」というコラムに次のような一文がありました。ちなみにこれはSCM(サプライ・チェーン・マネジメント)にかけている言葉だと思うのですが。

たくさん美術品を見たり、良い物に触れたり、美意識を持つことがセンスを高めると、本とかに書かれているし、フジマキもそう思う。だけど、誰もが言うような"良い物"だけじゃなく、日常のなかにもセンスを磨く要素はたくさんある。例えば、気になる音楽があったらすぐに手に入れて、すぐ聴いて、たくさん聴くことで音楽のセンスが磨かれるわけ。そうやって何でも触れてみることが大事。センスは雑誌や本だけを読んで得るものじゃない。平たく言えば、日常の一瞬一瞬の中でひたすらにどう生きるか、どう楽しませるか、どう楽しむかを考え続けるっていう継続力こそがセンス。

うーん、いいなあと思いました。まさにぼくは昨日、衝動買いでCDを購入したところでもあり、その衝動買いが正当化されたからうれしいということもあるのですが、最後の「継続力こそがセンス」というのも思いっきり頷きました。当たり外れ、上昇と下降という波があるのだけど、それでもつづけることが大切です。継続して、積み重ねていったとき、アリとキリギリスじゃないけれど、夏のあいだ遊んでいたキリギリスには出せないパワーが生まれる(と信じていたい)。

それから、最終形を予測しないことも大事だと思います。どうなるかわからないけれど、とにかくつづける。読書としては、同時進行的に内田樹さんの「態度が悪くてすみません」を読んでいるのですが、書くという行為は、わかっていることを言葉にするのではなく、わかっていないことを書こうとするからいい、という表現があり、なるほどなーと思いました。引用します(P.8)。

4047100323態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い (角川oneテーマ21)
角川書店 2006-04

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私たちがものを書くのは、「もうわかっている」ことを出力するためではなく、「まだ知らないこと」を知るためです。自分が次にどんなことばを書くのか、それがここまで書いたセンテンスとどうつながるかが「わからない」ときのあのめまいに似た感覚を求めて、わたしたちはことばを手探りしているのです。

この表現、いいですね。内田樹さんの本は、ものすごく面白い。文章が詩的ですらあります。そしてぼくも、未知の何かを追い求めつつ、文章を書いていきたいと思っています。

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2006年7月24日

エリザベスタウン

▽cinema06-046:自分を見直す旅、家族、彼女、そして音楽。

B000HKDEUGエリザベスタウン スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2006-11-02

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泣けました。一流のシューズメーカーに勤務している主人公ドリュー(オーランド・ブルーム)は、新しくデザインした靴が大失敗をして、会社に10億ドルもの損害を与えます。解雇されて家で自殺しようと思うのだけど、そのときに電話がかかってきて、父が心臓発作で亡くなったという知らせを聞く。悪いときには悪いことが重なるものだけれど、田舎に帰る途中でスチュワーデスのクレアと出会います。別れ際に電話番号を教えてくれたので、電話で一晩中、話をしてさらに徹夜で会うのですが、話が尽きない相手というのはいるもので、なんだか懐かしいものを感じました。

田舎では、近所はもちろん親戚たちなどたくさんのひとが集まって、ほんとうにうざったいのだけど、それがあたたかい。都会に暮らしているとかなりドライになるものですが、田舎というのはほんとうに面倒くさいことも多いけれど、おせっかいも含めてひとびとのあたたかい関係があるような気がします。父の葬儀の騒がしさのなかで、ドリューは人々のつながりにも癒されていきます。

この映画は、失恋したりし仕事がうまくいかなかったり落ち込んでいる方におススメです。「失敗がなんなの?」と言ってくれて、自分を取り戻すための分厚い旅のマップ(BGMつき)を作ってくれるクレアのような彼女がほしい。ひとりのクルマ旅、火葬されてツボに入ってしまった父を助手席に乗せながら、彼はいろんなことをツボのなかの父と話して、笑ったり怒ったり号泣したりするのですが、この場面はぼくには涙なしには見れませんでした。

それから、映画のなかの音楽がいずれもすばらしい。以下の公式サイトを開くと映画のなかで使われている音楽が流れます(ENTERからFlashのサイトに入ると音が出るのでご注意ください)。サイトを確認しながら、ずっと聴いてしまった。アコースティックギターの音がいいなあ。シーンが目に浮かんでじーんとします。キャメロン・クロウ監督は10代から音楽評論の仕事に携わっていたとのこと。なるほど、やはり音楽をわかっていると使う音楽も違います。サントラがほしくなりました。7月24日鑑賞。

公式サイト
http://www.e-town-movie.jp/

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(53/100冊+46/100本)

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メタファーと記憶の改変。

記憶について昨日書いたのですが、小森陽一先生の「心脳コントロール社会」という本にもちょうど記憶に関する記述が出てきたところでした。これはぼくがまだ読み終えていない(というよりも途中で放り出してしまった)ジェラルド・ザルトマンの「心脳マーケティング」という本から引用しているのですが、イメージやメタファーを通じて消費者の心を無意識の部分でコントロールできるということを中心に、広告や政治がどのようにして大衆の心を操ろうとしているか、ということを解き明かしていきます。

広告でも政治でもないのですが、とてもわかりやすかったのが「手を貸してくれないか」というメタファーについての解説です。これのどこがメタファーなのか、ふつうの表現ではないのか、とも思えるのですが、よく考えてみると自分の身体の一部である「手」は切り取って貸すことができない。したがって、メタファーであるということになるのですが、不可能なことをやってくれという依頼、援助と協力だけはしてほしいけど主体的な考えはいらないという思考停止の要求などがある、という分析になるほどな、と思いました。

仕事で確かに「手伝ってください」といわれることもあるのですが、仕事として引き受けた以上、しっかりやりたいという意識がある。だから、自分の主張をしようとするのですが、そうすると、なんとなく胡散臭がられるものです。そうして、手伝った部分が終わると、あとは「はい、もう結構」と経緯などは一切教えてくれないこともありました。それはまさに、手は借りるけど頭(というか、あなたの人格)は必要ないよ、ということです。「手を貸してくれ(手伝ってくれ)」という言葉には、気をつけたほうがいいなと思いました。人格を無視して、労働力を搾取するとともに思考停止を促す言葉の場合もあるかもしれません。もちろん基本的には心地よく仕事をしたいと思うので、きちんと個を認めた上での手伝いはウェルカムなのですが。

メタファーは「思考や感情の表現の基本」であって、実はこれは比喩だとわからずに使っていることも多い。「手を貸す」もそうですが、「口を出す」もうそうだし、「目に入らない」もそうです。この多様性と重要性を理解することで、マーケッターは消費者を操ることができる、というと直接的で過激ですが、「効果的なコミュニケーション手法を考案」できるとします。

ほとんど「心脳コントロール社会」に書かれているまとめから要点を抜粋する形になるのですが、ザルトマンは記憶の操作として、エングラム(脳細胞上の物理的な現象の貯蔵)、キュー(エングラムを活性化させる刺激)、ゴール(消費者が抱く購買行動の目的や目標)の3つが重要であると考えます。また、記憶には意味記憶(記号に対する記憶)、エピソード記憶(体験に対する記憶)、手続き記憶(社会で生きていくための諸手続きの記憶)の3つがあるとします。

そしてこれらに「バックワード・フレーミング(過去の経験の改変)」、「フォワード・フレーミング(未来の経験の改変)」という2つの手法によって、記憶を変えてしまうことで、企業が求める方向の「ゴール」へ消費者を導くというわけです。

記憶は生成するものである、という部分はジャック・ラカン的なアプローチを感じるとともに、記憶を改変するということは昨日観た「バタフライ・エフェクト」という映画そのままという気がします。あの映画のなかでは、実際に抑圧された記憶を日記の言葉で思い出すことによって、自分の脳の組成を変えてしまうとともに現実も変えてしまうというSFっぽい演出だったのですが、記憶という物語に新しい解釈を与えることがとてつもない刺激(キュー)になるとすると、未来の生き方も変わってしまうこともないとはいえず、あの映画は作り物だ、ともいえなくなってくるような気がします。

たとえば、ぼくは父の死というものを何度も振り返っているのですが、そのことによって生前に感じていた父のイメージは明らかに変わってしまったような気がします。と同時に、不完全ではあるけれど父親として、現在ふたりの息子に接する生き方も変わりつつあるような気がする。記憶がぼくを変えつつある、ということです。

そんなことを感じたのは、今日、「エリザベスタウン」という映画を観たからかもしれません。

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2006年7月23日

バタフライ・エフェクト

▽cinema06-045:記憶が現実をつくりかえる。

B000AM6R00バタフライ・エフェクト プレミアム・エディション [DVD]
エリック・ブレス
ジェネオン エンタテインメント 2005-10-21

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内田樹さんの本でラカンについての解説を読んでいたのですが、そのなかで興味深かったのは、過去の記憶というものは真実である必要がなくて、いまここで話をしているコミュニケーションにおいて意味づけられ、現在に都合のよいように作り変えられるものだ、ということでした。つまり記憶は確実なモノとして残っているわけではなく、ぼくの印象なのだけど、ぶよぶよとしたものというか粘土みたいなものというか、自由につくりかえてよいものだ、ということです。少なくとも写真のように現実を切り取るものではないと感じました。

物語は、少年の頃の事件がもとに不幸な現在を過ごしている主人公エヴァンと、彼が想いを寄せる少女ケイリー、少女の兄、ちょっと太目の友人という4人を中心に展開します。主人公は、ときどき記憶がとんでしまう。ひどいストレスにあったときに、抑圧のため記憶を失ってしまうようです。ぼくもときどき記憶をなくしてしまうことがあり(飲みすぎですが)、記憶を失くしても自動操縦で家に戻っているものの、その間に何かとんでもないことをしでかしていないかと心配です。ぼくの記憶喪失なんかはしょうもないことですが、主人公の不安な気持ちはよくわかります。

エヴァンはあまりにも記憶を失うので日記を書きつづけるのですが、心理学を学ぶ大学生になったときに、過去の日記の抑圧されている部分を読むと、記憶を遡ることで過去に戻って、現実を変えてしまう力が自分にあることを知ります。このあたりはバック・トゥー・ザ・フューチャー的な感じがするのですが、何かをよく変えようとすると別の何かが悪い状態になってしまって、その度に新しい現実が生れてしまう。あのときあのひとに会わなければいまどうなっていただろう、ということはよく考えることですが、現実というのはやり直しがきかないもので、出会っていなければよいことがあるわけでもなく、よいこともあるけれども悪いこともある。そういうものかもしれません。世のなかというものは、よいことと悪いことで平衡がとれている。

最初のシーンが重要な意味を持っているというよくある映画の手法ではあるのですが、とても楽しめました。DVDには、マルチエンディングとして2つのラストシーンが掲載されていて、監督たちのコメントもあるのですが、「このエンディングでは、こいつは何も学んでない。あんだけつらいことがあったのに、こりゃないだろう」と、学習することを重視してエンディングの可能性を却下しているのが面白かった。記憶は学習し、成長するためにあるものです。7月23日鑑賞。

公式サイト
http://www.butterflyeffect.jp/

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(53/100冊+45/100本)

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ハイブリッドな役割。

谷川俊太郎さんの「夜のミッキー・マウス」のあとがきに、この詩で何を言いたいのかと聞かれると答えられなくなってしまう、という表現がありました。そこで思い出したのですが、先日読み終わった内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」という本にも、類似した表現をみつけました。村上龍さんのインタビューについて書かれています(P.128)。引用します。

村上龍はあるインタビューで、「この小説で、あなたは何が言いたかったのですか」と質問されて、「それを言えるくらいなら、小説なんか書きません」と苦い顔で答えていましたが、これは村上龍の言うとおり。答えたくても答えられないのです。その答えは作家自身も知らないのです。もし村上龍が「あの小説はね・・・・・」と「解説」を始めたとしても、それは「批評家・村上龍」がある小説の「解説」をしているのであって、そこで語っているのは「村上龍」ではありません。

書く行為においては、書いたことの背後に書かずにおいた(あるいは書けなかった)ことがある。書いた意図、あるいは書かれなかった意図について解明するのが評論家の役割です。だから、作家が評論家のように語れないジレンマがある。もちろん作家の内面にも書きたかったことや理由はあるだろうと思うですが、正解の答え合わせが文芸的な活動かというと、そうではないような気もします。内田さんの本では、作品の意図を読み解けば批評家の「勝ち」、作者の秘密に手が届かなければ批評家の「負け」というようにも書かれていました。けれども、その原則を退け、「起源=初期条件」というものがないとしたのがロラン・バルトであったと解説されています。

また難しくなってしまいそうなのでなるべく難解になることを避けたいのですが、作家というのは理屈を考えるよりも、四の五の言わずに書け、まず書くことが大事だ、という一般論のようのものもあります。理論で武装するよりは作品を創ることが先決だ、という考え方です。だから、テレビ番組に出演して本業以外のことを語り出す作家は、なんとなくうさんくさく感じる。とはいえ、村上龍さんなどはメディアに出つつも作品を精力的に書いていて、すごいなと思うのですが。

書かれたものに対して意味をつけることが評論家の役割ともいえます。小森陽一先生の本を読んでいると、「文芸評論家」としての責任という言葉があり、危険な思想をジャッジするような役割もその言葉に込められているようです。とはいえ、評論家には、ぼくはどうしてもネガティブなイメージを感じます。ちょっとやわらかい話を書いてみると、名探偵コナンというマンガに怪盗KIDという泥棒(といっても少年)が出てくるのですが、彼が「泥棒は芸術家で、探偵はその芸術を批判する批評家にすぎない」とコナンに言う台詞がありました。台詞は正確ではないかもしれないけれど、計画的な完全犯罪を生み出すことに才能が必要で、それを解読したり、トリックを見破るのは簡単でしょ、とKIDは冷ややかな目でみるわけです。

音楽でも、他の芸術でもそうかもしれないのですが、自分の創ったものに対して自ら批評家の立場で何かを解説したり、弁解したり、過剰に何かを語ることはよい印象がないようです。プロダクトデザイナーである深澤直人さんの本にも「デザイナーは語る必要はない。ものが語ればいい。」という言葉があり、そのことをブログにも書きました。

しかしながら、ほんとうにそうだろうか?ということを考えてしまったのですが、現代においてはそうともいえない状況にあるような気がします。作家は作家であればそれでいい、あとは批評家が何かを言ってくれる、という時代ではないのではないか。というのはインターネットが出現して、表現を取り巻く環境が変わりつつあるからです。

すべての人がブログを書いているとはいえないとは思うのですが、インターネットやテクノロジーがもたらした現象として、ひとりの人間において、作家/読者のふたつの面が混在しつつあると感じています。つまり、ハイブリッドな役割になりつつある、ということです。

ブログを書いているひとは、自分のブログにおいては作者ですが、他のひとのブログを読むときには読者になってコメントする。コメントされたひとにおいても、また別の誰かのブログでは読者です。書くと同時に読む。書くだけではなく、必然的に読みとる力、コメンテーターの力も必要になります。さらに、作家/読者のハイブリッドだけでなく、買い手/売り手のハイブリッドも考えられます。つまりオークションにおいては、自分で何かを売ると同時に買い手でもある。さらに、広告についても配信主(アフィリエイトなど)であると同時に、広告のターゲットとして広告にも接触します。

ややこしい時代になったものだ、と思うのですが、作家はこれから「きみたちには説明できない何かを書いているんだ」と、えへんと胸を張って言えなくなるような時代ではなくなる気もしています。というのは、一般の読者の方が、ブログによって表現者としても批評家としても磨かれていくと思うので。

といっても、言葉にならない何かというものは確実に存在していて、作家にしてもブロガーにしても、その何かに揺り動かされて書きつづけるのですけどね。

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2006年7月22日

スタイル、ことばづかいの選択。

所有すること、表現は誰のものか、ということを考えつづけています。いま自分が語っている言葉は、カギカッコで引用をしなくても誰かの言葉の影響を確実に受けていて、厳密にいえば、ぼく自身がオリジナルな表現はできない。また、たとえば会社で提出する書類を話し言葉で書けないように、ぼくらの言葉は、どこで使うかという社会的な枠組みの制約を受けています。いまぼくがブログで書いている言葉にも制約があって、自由に書きたいけれど何もかも自由に書くことはできない。ただ、どのような「ことばづかい」をするのか、という選択はできます。

ブログの文章にもいくつかのスタイルがあります。改行を多用したり、絵文字を使ったり、文字のサイズを大きくしたり色を使ったりすることもできる。スタイルはもちろんどんな「ことばづかい」をするか、ということも連動していて、たとえば絵文字の入った文章で社会批判をされてもちょっと説得力がないし、ちぐはぐな感じがする。やはり社会派のブログを書くのであればそれなりのスタイルが必要だし、友達とのさりげないやりとりをするのであれば、くだいた書き方の方がよいのではないでしょうか。

ぼくはいま段落で区切って大量の文章を書くスタイルでブログを書いていますが、もともとは改行して、もっと短い文章をぽつりぽつりと書くスタイルでした。つまり、はてなで書きつづけているうちに変わっていったのですが、スタイルが変わると内容やテーマも限定されていくような気がします(もっと言ってしまうと、リアルの生き方も変わってくるのかも)。もちろんこの書き方で「とかいっちゃったりして」とか「うーむ、それは困った」などと軽めの文章を書くこともできるのだけど、すべてその書き方で進めることはできません。どんどんスタイルが崩れてしまうので。スタイル先行で内容も書き方も固まっていくようです。

ぼくがこのスタイルをとるようになった背景には、はてなのシステムも大きな要因のひとつとなっている気がします。最初は使いにくさも感じていたのですが、最近ではこのシステムに慣れてしまって、むしろ気に入っています。編集ページでプレビューのタブができたのも、何気なくうれしい。けれども、システム以上に「はてな」という会社、近藤さんの社長としての考え方に共感するから、使いつづけているということもあります。

Think!という雑誌のNo.18は「ウェブ2.0時代の仕事力」として、さまざまな取材記事が掲載されているのですが、はてなの近藤社長の記事に、ネットが「知恵の増殖装置」という考え方が示されていて共感を得ました。株式を公開しない理由、ネットビジネスの資本は「人」であるというビジョンにも頷けました。ネット企業の志やモラルを感じたというか。

ところで、スタイルを選択することによって、ずるずると周辺のさまざまなものも選択をせざるを得ないようです。これはファッションでもそうかもしれません。ある種の洋服を着るときには、音楽とか、読む雑誌とか、映画とか、ファッションをきっかけにしてその他の文化も限定されることがある。その選択が自己表現ともいえます。

ということを考えている背景には、先日読んだ内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」に書かれていた、ロラン・バルトの考え方があります。さきほどの改行したり文字を大きくしたり、ということはどちらかというと「スティル(文体)」という視点だけれど、ほかに「エクリチュール」という考え方があり、これが「ことばづかい」です。ぼくがブログで「ぼく」という「語り口」を選んだ時点で、「私」という社会的な「ことばづかい」とは異なることになります。つまりこの時点で、会社員ではない自分の人生を「ぼく」を書くという行為を選び取り、その言葉で多様なぼくを統合していく。

テーマが拡散して論点がぼやけてきた感じがしますが、何を書きたかったかというと、自分らしい表現が何かと考えたとき、結局のところみんなが考えた既存の知恵の「選択や組み合わせ」でしかなく、その内容については「自分のものでなく人間全体のもの」であるということです。ということを考えた先に、クリエイティブ・コモンズのような著作権の考え方もあると思うし、技術でいえばリナックスなどのオープンソースの取り組みもあると思います。

バルトの言葉を使うと「作者の死」ということであり、インターネットが存在する以前にこのような考え方を提示していたことが、いまとなっては新しい気がします。内田さんの本では、「テクストの快楽」から次の文章を引用しています。

すなわちテクストは終わることのない絡み合いを通じて、自らを生成し、自らを織り上げていくという考え方である。この織物――このテクスチュア――のうちに呑み込まれて、主体は解体する。おのれの巣を作る分泌物の中に溶解してしまう蜘蛛のように。

内田さんも指摘されているように、ここに蜘蛛の巣(=ウェブ)という表現があるのが興味深いと思いました。引用の織物というバルトの「テクスト」の概念は、まさにインターネットのコンテンツそのままであり、「もともと誰が発信したものか」という作者のコピーライトは問題ではなくなる。そして重要なのは、意味を生み出すのは作者ではなく、読者であるということです。情報を創り出す側はもちろん、受信する側も重要になってくる。

内田さんは、オープンソースのOSであるLinux(リナックス)の話のあとに、この章を次のように結んでいます。

作家やアーティストたちが、コピーライトを行使して得られる金銭的なリターンよりも、自分のアイディアや創意工夫や知見が全世界の人々に共有され享受されているという事実のうちに深い満足を見出すようになる、という作品のあり方のほうに私自身は惹かれるものを感じます。それがテクストの生成の運動のうちに、名声でも利益でも権力でもなく、「快楽」を求めたバルトの姿勢を受け継ぐ考え方のように思われるからです。

まだあまり手をつけていないのですが、個人的に古いPCにFedra Coreというリナックスのディストリビューションを入れてみました。このシステムを無料で提供しているのか、と思うとすごい。さらに、たくさんのひとが協力して創り上げているシステムであるということに単純に感動すらします。ぼくは文系の人間なのでプログラムなどを書けないのが悔しいのですが、こういう活動には共感します。

ちょうど、Think!ではてなの近藤社長のページにも、同様のことを言及している部分があったので、引用してみます。

何億円持っているとか、いいクルマを乗り回しているとか、そんなことは死ぬときには何の自慢にもなりません。それより「ネットでたくさんの人が使っているあのサービスはぼくが考えたんだ」といえるなら、それは死んだ後も自慢になる。ぼくはそういうものを作っていきたいんです。

これはいいですね。自慢という言葉だけに執着すると意味を取り違えるのですが、最終的には名声もどうでもよいことであって、自分の好きなことをやっていたら社会のためにもなった、というマズローの究極の自己実現をめざすということかもしれません。

いまぼくが途方もなくブログを書きつづけている理由も、個人的な知恵の探求というテーマがあるからで、もし原稿料をもらえるような仕事だったら逆につづかなかったかもしれません。というのも、もちろん小遣いはほしいけれど、小遣いのために「文化的雪かき」をして、あまり書きたくもないテーマで原稿を書かなきゃいけないのであれば、書きたいことを書いていたほうがずっと楽しい。働いてそこそこ稼いでいるのだから、あとは自分の好きなことをやりたい。自分で選ぶこと。自分でテーマを決めて、スタイルを選択してつづけることが、いちばんつづくのではないかと考えました。

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2006年7月21日

挨拶としてのブログ。

ブログ「挨拶」論として書こうと思ったのですが、よくわからないのでやめました。ブログに関する超・個人的な見解であり、まだ理論にもなっていません。とはいえ思ったことをまとめてみようと思います。ブログを長くつづけるための心がまえというか、個人的なぼくの覚え書きです。

韓国のオーマイニュースという市民ジャーナリズム(参加型ニュースサイト)が日本にも進出することが決まり、8月28日の創刊を予定されているそうです。鳥越俊太郎さんが編集長とのこと。これで一般の投稿も本格的にメディアになりそうな予感もするのですが、なかなか難しい問題もありそうな気がしています。というのはWeb2.0と騒がれていますが、日本のブログやSNSが成熟しているかというと、私見では疑問もありそうです。盛り上がってはいるけれど、内輪の話題だったりもする。さらに成熟が必要なのか、という観点もある。成熟とは何か、ということも考えてみるとよくわかりません。

ぼくも社会的な話題を書いてみたい、挑戦しようと思うときがあるのですが、結局のところ、権力をカタログ的に羅列して批判したときに、その行為自体が権力的であるというフーコー的な視点が気にかかります。別に社会的な話題で権力批判をする必要はなく、ただ日常の身辺で「こんなことがありましたー」というニュースを発信してもいいと思うのだけど、それでいいのかな?と疑問です。もちろん、このような考え方こそが「あらねばならない」偏見や執着にとらわれているのかもしれないのですが、単純に、日常生活で何か投稿するネタはないかと探しまくるような生活はおかしいと思うし、かといって流行っている話題を引用するだけのブログもマンネリに陥ります。それに、あまりに気負うと書きつづけられなくなってしまいそうな気がするのです。

そこで、崇高な見解を捨てて、ものすごく個人的な見解を述べるのですが、ぼくがなぜブログを毎日つづけられているか、というと、非常に個人的なことを書いているからです。さらにテーマすら絞り込んでいない。思考というテーマがあることはあるのですが、崇高なことを考えても、しょうもないことを考えても、それは思考の一部であり、よく考えてみると何を書いてもいいわけです。このいい加減さがつづける秘訣なのかもしれない、と思いました。日記でもないですね。というのは、今日あったことを書いていない日もあるので。

ついでに、文章を書いているとも思っていない。ブログ文章術について語られたブログもあったりするのですが、はっきりいって、文章術について語るのであれば面白い文章を書いてからにしてくれ、というようなブログもありました。妙にテンションが高い文章が面白い、と思っているかのような記述もあるのですが、読んでいる方はさむく感じていることもある。このレベルの文章を書いているひとに教わりたくないなあ、と思う。ぼくに関していえば、文章は上手くなりたいと思っているけれど、このブログは「ですます」「である」混在であるし、誤字もかなりあるし、ひどいものだと思います。高みから教えられるような能力はないのだけど、しいていえば息子の作文ぐらいはみてやることができる。そんなものです。

そこでぼくの持論なのですが、ブログは「挨拶」だと思います。ニュースでも良質の文章でもなくていいのではないでしょうか。

「こんにちはー、お元気ですか?」と世のなかに向って挨拶する。「今日は雨降っちゃいましたね。ちょっとブルーです」と世間話をつづけてみる。興にのってきたら「いま、こんなことに興味あるんですよ。ははは、面白いですよー」と言ってみる。最後に「じゃあまた」と挨拶をして終わる。礼にはじまり、礼に終わる、です。

挨拶だからといって、答えろ、と強要してはいけません。答えを強要した途端に、つづかなくなります。

ぼくは挨拶というものは、自分でするものであって、相手が答えてくれようがくれまいが、自ら挨拶することが大事だと思っています。そして一期一会、毎回はじめてのひとと出会い(もちろんいつも読んでいる方もいるかもしれないのですが)、はじめてのひとと別れることを大事にすべきではないかと考えました。だからブログの冒頭の文章は大事だし、最後の文章も大切です。はじめて出会うひとにきちんと礼を尽くし、きちんと別れる。もしかすると、また出会えることもあるだろうし、もう会えないかもしれない。でも、テキストがサーバーにアーカイブされているとはいえ、削除することも書き換えることもあるわけで、一回性の出会いだからこそ、大切にしたい。

特にブログは必ず新しいエントリーを読むわけではありません。検索エンジンを辿って、以前の記事を読むひともいる。そのときに、きちんと挨拶できているかどうか、ということが大事です。挨拶をコミュニケーションと置き換えることもできるかもしれませんが、必ずコミュニケーションが成立するとはいえません。まとまらないのですが、先日読んだ構造主義の入門書から、エクリチュールという考え方によってブログ論を展開できそうな気もしています。

今日は外出したあと、池袋のリブロに立ち寄って、Think!という雑誌(「Web2.0時代の仕事力」という特集です)、川上弘美さんの「ざらざら」という短編集、カフカの「流刑地にて」を買いました。いま恩師である小森陽一先生の「心脳コントロール社会」を読んでいて(P.56あたりを読書中)、こちらも面白い。つまらないことに腹を立てるのはやめて、楽しいことを考えていようと思います。

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2006年7月20日

「寝ながら学べる構造主義」内田樹

▼book06-053:テツガクは、年を取ってからの愉しみに。

4166602519寝ながら学べる構造主義 (文春新書)
文藝春秋 2002-06

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学生のときの読書というのは、なんとなく見栄なんかもあり、難しくてよくわからないのだけど難しい哲学書を読んでしまったり、流行の作家を追いかけたりしたものでした。いま、もう若くもない時期になって、自分の好きなものを読んでいればいいや、という気持ちになっています。とはいえ、それでもやはり見栄もあるのだけど、ぼくに関していえば、例えばリリー・フランキーさんの「東京タワー」は途中で自叙伝的な言説に飽きてしまい、いまは積み上げられた本のどこかで化石化してしまっています。ただ、ひょっとしたらまたいつの日か読みはじめて最後まで読みきって号泣、ということもあるかもしれません。

学生時代には、構造主義とかポスト構造主義にかぶれていた気がします。しかし、ほんとうのところはよくわかっていなかった気がする。ところが、この「寝ながら読む構造主義」を読んで、あらためて面白すぎる!と思いました。それは入門書だからであって、実際にラカンやフーコー、レヴィ=ストロースやバルトなんかを読み直すとつらいものがあるかもしれないのですが、またじっくりと読んでみたい気がしました。とはいえ、個人的には来年以降でしょうか。今年はとにかく広く浅く、意識の網にひっかかってくるものを探す年にしたいので。

後書きで内田さんは、年を取ってから構造主義者たちの言いたいことがすらすら分かるようになった、と書かれていますが、確かに本にも期が熟さないと読み頃ではないものがあって、さらに人生経験が浅い若い人にはこの深みは理解できないだろう、ということがある。たいてい若いひとというのは、いや十分にオレは大人だ、などと強がってみせるのだけど(ぼくもそうでしたが)、ちっちっち、きみは若いからわからないよ、ということが確かにある。もちろんもっと先輩からみれば、ぼくもまだ青い年齢かもしれないのですが。

もう何度もブログでこの本から引用してきたので、本とは関係のないことばかりを書いてしまいましたが、まだまだ示唆を受けたことがたくさんあります。頭脳のなかにキープしつつ、また何か書いてみたいと思っています。7月20日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(53/100冊+44/100本)

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「夜のミッキー・マウス」谷川俊太郎

▼book06-052:みずみずしい詩人の感性は衰えを知らず。

4101266220夜のミッキー・マウス (新潮文庫)
新潮社 2006-06

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「夜のミッキー・マウス」「朝のドナルド・ダック」「詩に吠えかかるプルートー」とディズニーキャラクター3体の不思議な詩がつづいたあと、「百三歳になったアトム」となります。そういえば、そ〜ら〜をこ〜えて〜という鉄腕アトムの歌は、谷川俊太郎さんの作詞だったなあということを思い出しながら、きみょうな詩の世界に引き込まれていきました。

文庫のあとがきに書かれていて、杉本彩責任編集の「エロティックス」というムックにこの詩集から三篇の詩が採録されているそうなのだけど、確かに困ってしまうような詩もあって、それを困ってしまうのが大人の思考であって、無邪気に書いてとぼけているのが詩人という気がしました。タイトルからして過激で、女性の読者は「例のあの詩」としか言ってくれないようなひともいるらしいのだけど、ぼくが谷川俊太郎さんの詩を過激だと思うのは、表層的な言葉の過激さよりも、もっと心の根源のようなものをえぐるような感覚ではないかと思いました。それをものすごくわかりやすい言葉で、やさしく書いている。これにはまいりました。

たとえば「ママ」という詩は母親と息子の対話のようなかたちで進められるのだけど、いつまでも息子を自分の子供として独占しようとする母親の意識と、「コイビト」は「ママとおんなじ匂いがする人がいいな」とか「でもママいつかは死ぬよね/ぼくママが死んでも生きていけるようにしなくちゃ」という子供ならではの残虐な思考があったりして、鋭いものを感じます。これらがすべてやさしい言葉で語られていくから、余計に鋭い。

なんとなくふつうだな、と思う詩もあるのですが、本を閉じたあとにざわざわと感情がよみがえってくることもある。それからどう表現してよいのかわからないのですが、ものすごく遠い感じ(うーむ、うまくいえない)がする詩もありました。言葉自体は耳元で囁かれるのだけど、耳元から脳に向かった途端にぱあっと草原が広がるような感じ。だめだ、この感覚は表現不可能です。最後にこれもまた「あとがき」の言葉を引用します。

「この詩で何が言いたいのですか」と問いかけられる度に戸惑う。私は詩では何かを言いたくないから、私はただ詩をそこに存在させたいだけだから。

読んだ感想を言葉にできないのは、そういうことだからかもしれません。7月20日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(52/100冊+44/100本)

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像を結ぶ言葉。

午前中、電車のなかで構造主義の入門書を読み終えてしまい、たまたま谷川俊太郎さんの「夜のミッキー・マウス」という本が鞄のなかにあったので、電車に揺られながら詩集を読むのはどうだろう、ちょっと恥ずかしくないか、と思ったのですが、それでもその本を読むことにしました。

最後に「あとがき」と文庫本用の後書きがあって、さらにめくってみるとオマケの詩が掲載されていました。なんだか得した気分だな、と思って読み進めたのですが、この詩にまいった。ぐさりとやられた気がした。「闇の豊かさ」という詩です。引用します。

小さな額縁の中のモノクロ写真
木に寄りかかっている子供が二人
何十年も前の午後の日差しの中の兄と妹
シャッターがきられたその日と
今日とのあいだの日々に存在した
割れたグラスや小さくなったシャツ
焦げてしまったパンケーキ
読み終えた何冊もの本
鉛のような気持ち
美し過ぎた音楽
テレビでしか見ることのなかった戦争・・・・・
今はもうほとんど退屈な細部なのに
それらが時折痛いような光となって
私の内部を照らし出し
私は知る
自分と世界を結ぶ闇の豊かさを

なんだふつうの言葉じゃん、と思うひともいるかもしれないのですが、ぼくは読んだ瞬間にハレーションを起こしたような写真の風景と、グラス、シャツ、焦げたパンケーキ、本、鉛、戦争、音楽など、フラッシュバックしたような光景がさっと頭脳のなかを走り抜けて、そうして最後の一行に辿りついたときに感動しました。

この闇という言葉は、先日購入した「暗やみの色」というCDのなかにある「闇は光の母」に共通するものがあるのかもしれないけれど、谷川俊太郎さんが使う「闇」はやはり「二十億光年の孤独」にある闇であって、湿度を感じさせるものではない。音も光もなく、ただ広がっている。広がっているんだけど無ではなく、何かみえないもので充足されている。そして闇の向こうにつづいている場所がある。そんな印象です。

特別な言葉ではないのだけど、詩人が使うと、どういうわけかものすごくリアルに像を結ぶ言葉があります。それは、どの言葉をチョイスするかということもあると思うし、言葉と言葉の連関、あるいは配列に詩人にしかできない技巧があるのかもしれない。

そんな言葉を使えるようになりたいものです。

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2006年7月19日

集中することと癒し。

本気で仕事に集中してみたところ、あっという間に時間が過ぎて夜の10時になっていました。では、いままで本気ではなかったのか、というとそんなこともないのですが、「そこそこ」本気だったということにしておきましょう。さすがに10時に近くなったところで、効率がぐんと下がったので潔く帰ることにしました。いままではそれでも頑張ってしまったこともあったのですが、最近は何事も「そこそこ」にしておきたいと思っています。

それにしても集中して帰ってきて飲むビールがうまい。このところPRIME TIMEという青い缶のビールをよく飲んでいるのですが、まさに極上の時間という気がします。このビールです。

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そもそもぼくは深い青が好きなのですが、この缶の色がぼくは好きです。といっても、冷蔵庫のなかにごろごろ入っているとなんとなくあんまりよろしくないのですが、一缶だけ取り出して机の上に置いてみると、なんだかいい感じがする。そんなことを考えるのは、ぼくだけかもしれませんが。

ところで、最近、情報系のメールマガジンはほとんどRSSで読むようにしたので、配信されていても開こうともしないのですが、3つのメールマガジンだけはきちんと読んでいます。テキスト系では日刊デジクリと村上龍さんが編集長で発行しているJMM(Japan Mail Media)、そして新潮社の「考える人」という雑誌のHTMLメールです。

このなかで日刊デジクリのNo.2014、7月18日号で三井英樹さんの「プロにとっての「癒し」」という記事があり、これがいいなあと思いました。日刊デジクリは、クリエイターの方が書いているだけあって、なかなか素敵な文章があります。

三井さんの文章は、あるプログラマーが「きれいなクラス定義を見たんです、癒されました」とほんとうに嬉しそうに言っていた、ということからはじまります。

「モノ作りの本質がここにある。」と書かれているのですが、ほんとうによい仕事をするということ、職人であるということは、クオリティに対する感度にあるとぼくも思いました。厳密にはモノづくりとはいえないプログラミングにも、感度のよいプログラマーと悪いプログラマーがいる。

企画も同じであり、ただきれいに企画書を作ればいいと思っているプランナーや、オシャレな横文字を意味も分からずに引用すればかっこいいと思っているようなひとは、違うんじゃないかと思います。というぼくも、かつてはそれがかっこいいと思っていた時期もあるのだけど、最近は変わってきました。相手が必要としないアイディアは、どんなにきれいにまとめても、よい企画とはいえません。しかしながら、そのアイディアをお客さんが求めているかどうかというのは、いつになっても自信がないものです。なぜなら、お客さんの心のなかは絶対に読むことができないものなので。だから難しい。

三井さんは、以下のようにも語っています。

本能的に仲良くできない人たちが居る。きっとそれは、Webそのものを舐めていると感じるのだと思う。開発を舐めている、エンドユーザを舐めている、交わす言葉の端々から、聖域を汚される予感がする。

わかるような気がします。どんな分野でも舐めているひとというのはいますね。それは汗をかかずに成功すると思っているひとのような気がします。

「こんなもんで良いだろう」、「ま、いいんじゃない」、怒りに直結する言葉が、「出来上がり」からプンプン匂う。手抜きをねじり込める場面は、山ほどある。企画、アイデア出し、検証、試作、開発、テスト、体制作り、コミュニケーション、どんな場所でも手は抜ける

手を抜くということに関してちょっと思い出したことがあり、田坂広志さんの「企画力」という本に書いてあったことかな、と引っ張り出して読んだところみつからないので、どこに書いてあったことなのかわからなくなってしまったのですが、「どんなちいさな仕事にも手を抜くべきではない。というのはちいさな仕事で手を抜くと、プロとしての腕が鈍る。腕が鈍ると大きな仕事をしたときに、力を発揮できなくなる」ということをどこかで読みました。しかし手を抜かないのは、こだわるということではなくて、ぼくはツボを押さえることに近いような気がしています。押さえなければならない部分さえ手を抜かなければ、あとは省略してもよい。そのメリハリが大事であって、逆にどうでもいいところにこだわりすぎると全体を見失う。

あとは理屈は置いておいて、集中すると気持ちがいいことは確かです。これも、こだわるのではなくて集中であって、だらだらと遅くまでただ会社に居残ることではない。時間内で最大限の効果をあげようとしたとき、そのためにはどうするか、という考えも巡らせなければならないわけで、緊迫感も生まれる。プレッシャーはきついけれど、そのあとのビールがうまい(こればっかりですが)。

週末に向けて忙しそうなのですが、忙しいというより充実しているという感じでしょうか。しかしながら、睡眠だけはきちんと取ろうと思っています。

+++++

■アサヒプライムタイムのページ。ビールらしくない缶ですが、なぜか好きです。
http://www.asahibeer.co.jp/primetime/primetime.html

■日刊デジクリは以前紹介したような気もするし、JMM(Japan Mail Media)はあまりにも有名なので、「考える人」のページです。実は、実際の雑誌は一度も読んでいなかったりするのですが、最新号は「100人100冊」のブックガイドらしく、気になりました。
http://book.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/index.html

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2006年7月18日

自然の音、人工の音。

顎が痛いです。というのも寝違えてしまったらしい。たいてい寝違えたときには首が痛くなるものですが、ぼくの場合、うつ伏せに寝てしまったためか左の顎が痛い。今日、提出するものがあって、その仕上げを深夜3時までやっていたのですが、その後眠れなくなって明け方5時まで起きていて、さすがにつらくなって前後不覚のまま眠り込んだところ、疲れていたせいか寝相がおかしかったせいか、顎をやられてしまいました。とはいえ、顎関節症などもあるらしいので、気をつけておこうと思います。

眠れないまま、趣味のDTMによる曲作りをつづけていました。いま手がけているのは、夏らしい曲づくりです。ほぼ全体構成は完成していて、あんまり手をかけずに公開するつもりでしたが、やっているうちに凝りはじめてしまい、結局のところ今月中には完成させたいという感じになってしまいました。せめて夏が終わらないうちに公開したいものです。

ところで昨夜、何にそんなに集中していたかというと、これが「波の音づくり」なのでした。夏らしい曲ということで、海の音がなんだかほしくなってしまった。そこで、SONARに付属しているソフトウェアシンセTTS-1のSeashoreというプリセットと、Ace Musicさんで無料配布されているAdventure of the Seaという波の音を出せるVSTiを使って、どうすればホンモノの波の音に近い音になるだろう、ということを四苦八苦していたわけです。そんなことより、メロディやアレンジに注力した方がずっと有意義だとは思うのですが。

波の音を創りながら思ったことですが、波といっても実際には複雑に絡み合った構成になっていて、たとえば遠くで崩れる波、浅瀬で崩れる波、引いて砂を転がしていく波、ぶくぶくという泡の音などがある。ここでまずはじめの波が崩れて、そのあと砂が転がって、次の波がきて・・・のように考えていたのですが、意図すると自然にはなりません。ぼくはステップ入力というスタイルで、音階と長さのマトリックスで表示されるピアノロールという画面を使って、ちくちくとマウスで音をおきながら制作していきます。気の遠くなるような制作方法です。そういえば、キーボード(MIDIコントローラ)をいただいたのですが、やっぱりマウスによるオルゴール職人スタイルの方が馴染みやすく、そのスタイルのままで創っています。そこで昨日もちくちく波の音を置いていたわけですが、方眼紙のようなグリッドにきちんと沿って並べるよりも、適当に置いた方が波らしくなります。その適当さが難しい。

なかなか自然にならないのですが、Adventure of the SeaにはSonitus.fxのリバーブとサラウンドのエフェクトもかけて、サラウンドは左と右のチャンネルをぐるぐるうねるようにしてみました。そんなことを深夜(というか明け方)にやっていると、ベッドルームで砂遊びをしていたとかいうブライアン・ウィルソン(ビーチボーイズのベーシストでメロディメイカー)のことを思い出したりしたのですが、どこか変だという感じもある。変だけれども楽しい。ギターなども打ち込まないで弾いてしまった方がはやいだろうと思うことも多く、海の音などは音響効果のフリーのCDか、あるいは実際に海に行って録音してきた方がリアルだろうとも思う。それでもなんだか、ニセモノなんだけどホンモノらしい音を創っていくのが楽しい。テレビの鉄腕ダッシュで効果音を創る番組もあり、あれも楽しかった。

そもそも少年の頃のぼくはナマロクに興味があり、デンスケというSONYのカセットデッキが欲しかったものです。機材にも興味があったのですが、最近はコンパクトで高機能な製品が出ていて、しかもEDIROLのR-09のようにSDカードで24bit/48kHzの録音ができるものも出てきています。これです。

EDIROL_R-09_re.jpg

もっと驚いたのが、MicroBRのように手のひらサイズで4トラック録音ができるものも登場しました。
Micro-BR.jpg

家にはRolandのVS-880というハードディスクレコーダーが眠っているのですが、大きくてでかい。長い間使っていないので、操作方法も忘れてしまったのですが、知らないうちに録音機材は大きく進化していて驚かされます。

写真やビデオを撮るのも楽しいのですが、海や鳥や虫などの地球の音を録音して、インターネットにアーカイブしたら楽しそうだ、という気もしました。カタログ化すると言う意味では、神の視点で地球の音を保存するという権力的な行為なのかもしれませんが、なんとなく数十年経って聴いてみるのも楽しそうです。タイムカプセルといえるかもしれない。

Webサイトや本、テレビ番組など、世界中のものをアーカイブしようと考えているBrewster Kahleさんの話が、「全人類の知識を収蔵するデジタル図書館--B・カール氏の壮大な使命」という記事にありました。Brewster Kahleさんはインターネットのコンテンツを残そうとしているようですが、音のアーカイブとしては、2006年7月18日雨の渋谷の雑踏の音、という別にそれを記録してどうするといった平凡なある日の音が残されていたりするのも、インターネットの面白さのような気がします。暇があればそんなことをやってみたいですね。

>ネットにアーカイブする音が、波や虫の声、あるいは風の音のようなものであれば、ロハス的でもあります。映画でいうと「イル・ポスティーノ」という作品がありました。有名な詩人の家に手紙を届けにいく郵便配達員の話で、詩人が遠くへ行ってしまったあと、詩人が残していった大型のテープレコーダーに波の音などを吹き込む。ほんとうは詩を書きたいのだけど、波の音や空にみえている星のようすなどを録音するわけです。

シンセサイザーで波の音を合成しているより、そちらの方が楽しいかもしれない。デジタルで構成された音楽も楽しいのですが、自然の音も音楽のひとつ、といえるかもしれません。

+++++

■Ace Musicさんの無料VSTiは以下のサイトのダウンロードのページにあります。muzieに公開しているぼくの曲では、そのものずばりですがAdventure of the Seaは「Adventure」という曲で使わせていただきました。
http://www.ace-music-exp.com/

■24ビットWAVE/MP3レコーダー「R-09」のページ。
http://www.roland.co.jp/FrontScene/index.html

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2006年7月17日

所有すること、カタログにすること。

雨が降っています。今日は雨のなか息子を連れて、ふたりでポケモンの映画を観に行ってきました。土曜日に公開したばかりなので、すごい混雑でした。劇場版のポケモンはCGが多用されていて、なかなか迫力のある映像になっています。ただ、ストーリーとしては去年のルカリオが出てきた映画の方がよかった、という印象です。先日テレビでやっていたようですが。

このブログ(注:かつて書いていた、はてな)はどんな時間に投稿しても午前9時にスタンプされるようになっているのですが、実際には夜中の日付変更線が変わるあたりで、1時間ほど、いろんなことを内省しながら書いています。映画や本を読んだ感想を中心にしているので、そのときに観たもの読んだものに影響されることも多い。最近は、格差社会とか構造主義とか、そんな本ばかりを読んでいるので、若干しんどい内容になってしまっている気がするのですが、とはいえ、しんどい時期もあれば、ぱぁっと開放的になるような時期もあるもので、しんどい時期にはその深みにどっぷりと浸かってみるのもよいものです。

いまさら構造主義、という感じもしないではないのですが、未来に何がくるのか(こないのか)ということを考える上では、古い考え方を知ることは決して無駄ではありません。思想に限らなくても、古い本のなかにびっくりするほど新しいことが書いてある場合もある。新しいものばかりを追いかける必要はなくて、音楽も映画も本も、古いものを見直してみてもいいかもしれないな、と思ったりします。

内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」という本で、現在のネット社会にも応用できるような考え方を2つほどみつけました。忘れないように書いておきます。ひとつは、フーコーについての解説です。彼が使う「権力」という言葉は、「国家権力」「イデオロギー装置」としてとらえてはならない、として次のようにつづきます(P.110)。

「権力」とは、あらゆる水準の人間的活動を、分類し、命名し、標準化し、公共の文化財として知のカタログに登録しようとする、「ストック趨向性」のことなのです。ですから、たとえ「権力批判」論であっても、それが「権力とはどのようなものであり、どのように機能するか」を実定的に列挙し、それを「カタログ化し、一覧的に位置づけ」ることを方法として選ぶ限り、その営みそのものがすでに「権力」と化していることになります。

一文とばして引用しますが、次のようにまとめています。こちらの方がわかりやすい。

フーコーが指摘したのは、あらゆる知の営みは、それが世界の成り立ちや人間のあり方についての情報を取りまとめて「ストック」しようという欲望によって駆動されている限り、必ず「権力」的に機能するということです。

標本化するということでしょうか。蝶や甲虫を捕まえて(捕まえてというか殺害して)、標本箱のなかに虫ピンでとめる。そうした行為が権力的であるということです。となると、昆虫採集が大好きな養老さんなどは権力的な趣味に夢中だということで、さらに最近流行っているカードゲームやムシキング、ポケモンのようなものも権力的な遊戯といえるかもしれません。ポケモンとの共生、などということが映画の冒頭で語られるのですが、キャプチャーしてコレクションする行為自体は、どうしても捕まえる人間が優位に立っている。いままでポケモンが権力的な映画などと考えたこともなかったのですが、雨の音を窓の外に聴きながらひとり深夜に考えていると、権力的なニュアンスがあるかもしれない、などと思う。

さらに連想したのは、グーグルなどの検索エンジンが権力的であるのは、情報をカタログ化する機能だからなのでしょう。グーグル八分のように検索に結果が表示されない、ということがなくても、検索して結果をカタログ化するだけで権力的になる。グーグルが権力的であるのは、そういうことなのか、と思いました。いまさら遅すぎるかもしれませんが。

つまり、それは企業にしても個人にしても、所有する力のような気がします。批判が権力的なのも、それが相手をカタログ化する行為だからかもしれません。「こういうことを言って、こういうことをしたから、おまえってこういうやつだよね」という発言は、権力的に聞こえる。それは他者を自分の論理によってカタログ化し、カタログ化した他者を支配する行為なのかもしれません。他者のなかにある何かを引き出す行為(コーチング的な行為です)ではなく、評価する行為というのはすべて権力的なのかもしれない。あるいは評論家などが社会的現象を意味づける行為も権力的です。だから、不快感が生じるのでしょう。おまえに言われたくないよ、なんでおまえがそういうことを言えちゃうわけ?という。

音楽や映画や小説など、自分の作品について所有的になると、著作権の問題になるのですが、それはロラン・バルトの「作者の死」という考え方が、クリエイティブコモンズなどにも通じることがあり、さらに引用によって成立するブログやインターネットの世界において所有とはどういうことか、と深く考えさせるものとしてあらためて刺激を受けました。ちょっと長くなりそうなので、またいつか考えをまとめてみます。

雨がやまないですね。明日も雨でしょうか。こうして夜更けに聴いている雨は、あまり嫌いじゃないのですが。

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2006年7月16日

しなやかさについて。

こだわりが重要ではないかと思っていた時期もあるのですが、最近は、こだわらなくてもよいのではないか、という感じです。こだわるよりむしろ「夢中」になっていたい。寝食を忘れて何かに打ち込むことができることは、しあわせじゃないだろうか。しかしながら、夢中になって他の何かを損なってしまわないように気をつけたい。何かを損なうぐらに夢中になることが、ぼくの考える「こだわること」という印象に近いのですが、それは「執着すること」かもしれません。夢中にはなりたいのだけど、執着からは自由でありたい。そして、いちばん面倒なことは、他人から縛られることではなく、自分で自分の思考に限界を作って思考を縛り付けてしまうことです。

という意味ではバランスが大事、ともいえるのですが、バランスといってしまうと何かぼくが言いたいニュアンスから遠ざかってしまう。たとえば感情に関して言うと、怒らなければならない場面で怒りを抑えて笑っていることは、バランスがあるとはいえないのではないか。それは感情の抑圧であって、抑圧された感情はどこかに悪影響を与えてしまうものです。身体かもしれないし、精神的なものかもしれない。抑圧されると心理学的には表情がなくなるようで、海原純子さんの本でそれを「よろい」と書いているのだけど、男の美学のようなものでがんじがらめになって、よろいをかぶって生きていくことが、実は自分だけでなく家族にもコミュニケーション不全を起こす要因になるようです。

とはいえ、ピークメーターを振り切るような感情を露出すればいいというものでもありません。トレンドの話題は避けていたのですが、サッカーのワールドカップでジダンが頭突きをしました。うーむ、見事な頭突きだ、と感心したのですが、一瞬後に、これは格闘技じゃなかったよね?とふと思った。どんなに汚い言葉をかけられたとしても、サッカーにはサッカーのやり方があるわけで、その怒りを感情に任せて暴力をふるうのではなく、ゲームの攻撃に込めればよかったのに、と思う。と、あまりにも当たり前の正論なので自分でどうかとも思うのですが、よい仕事をすればくだらないやつの言葉なんて霞んでしまうものじゃないだろうか、と。

頭にきたから頭突きした、頭にきたから批判した、頭にきたから人を刺した、頭にきたから戦争だ、というロジックは成立しないと思います。成立しないのだけど、同質化を重視するような右にならえの世のなかでは、成立しないようなことも大きなうねりのなかに飲み込まれてしまう。他のやり方がなかっただろうか、という選択肢がみえなくなる。執着する心は、ひとつ間違えると、とんでもないパワーで人間を意図しない世界に運んでいってしまいます。だから個としての自分を持たなければならない。

ただし、その個も流れに逆らって頑なに踏ん張って自分の場所を守るのではなくて、しなやかであればいいと思いました。やはり海原順子さんの「こころの格差社会」に孟子第76章の次のような言葉が引用されていました(P.76)。

人は生きているときは柔らかで、しなやかである。しかし死んだらこちこちになり、かさかさになる。
草にしろ木にしろ、何もかも生きているときは柔らかで、しなやかであるが、死んだらひからびて、かさかさになる。こちこちして堅いものは――死の仲間であり、柔らかくしなやかなのは――生の仲間である。それゆえ暴力は真の勝利を収めえない。

よい言葉だと思います。孔子、老子、あるいは菜根譚を読み漁っていた時期があるのですが、あらためて上記の言葉は心に染みました。執着があると心が硬くなる。心が硬くなると身体的にも緊張があり、それは決してよいことではない。死の兆候ともいえるわけです。

感情に関しては、海原さんは以下のようにも書いています(P.161)。

感情を表現する、ときくとすぐに激怒、激情を連想する人は、平素感情の抑圧をしつづけている人である。先日あるラジオ番組で「感情」をテーマにしてトークを行ったところ、「私は感情をさらけ出すのははしたないし嫌いだ」という反応を中年男性からいただいた。
感情に対して、抑圧か、さらけ出すかという二者択一的反応は危険である。感情こそ、上手に伝える、表現する、という姿勢が大切なのである。

嫌いなものは嫌いだと言えばいいし、美しいものは美しいと言いたい。ただ激情は抑え気味にして、相手に伝わるように表現することが大切です。プライベートなことになりますが、徹夜の看病のあと、3歳の息子が病院に入院することになったとき、暴れて号泣する息子の声を聞いていたらぼくは涙が止まらなくなってしまった。そのときにハンカチをくれた奥さんには何かが伝わったような気がしました。あのとき、男だからかっこ悪いなどと頑張ってしまっていたら、ぼくは頑張ることで、もっと大切な何かを損ねたような気がします。

頑張らなくてもいいんじゃないでしょうか。肩の力を抜いて、深呼吸しつつ。

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2006年7月15日

スパイキッズ

▽cinema06-044:ストーリーよりも立体であることが大切なのかも。

B0000DKMK1スパイキッズ 3-D : ゲームオーバー 飛び出す ! DTSスペシャルエディション ( 初回限定 3D & 2D 2枚組 ) [DVD]
ロバート・ロドリゲス
アスミック 2004-03-12

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ストーリーはめちゃめちゃで、はっきり言ってお粗末だと思ったのですが、息子にとってはどうでもよいことらしく、ゲームがテーマでもあったので、どんな作品よりも熱心に観ていたようです。ただ、やはり何も残らなかったんじゃないか、という感じがしました。レンタルで3Dメガネ付きのDVDと、付いていないDVDがあって、付いていない方のDVDを借りてきたのですが、立体映像に感動してもらった方がよかったかもしれません。1作目はそれなりに丁寧に作っていたような気がするのですが、やはり立体映像に費やすコストが脚本などにはまわせないのでしょうか。どんなに楽しめたとしても、こういうエンターテイメントはどうかと思いますね。ぼくはやはり感動できる作品を自分も観たいと思うし、息子にも教えてあげたいと思いました。技術だけに傾倒した作品は、なんとなく今後は敬遠しておきたい。フル3Dとか、立体映像とか、それはどうでもいいことであって、重要となるのはやはり物語あるいは感動できるかどうかではないでしょうか。でも立体映はアリですね。単純に技術にも感動はあるのですが、物語の力があればさらに完璧です。7月15日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(51/100冊+44/100本)

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カナリア

▽cinema06-043:執着することの怖さと、自分が自分であることに負けないこと。

B000AYB2M6カナリア [DVD]
塩田明彦
バンダイビジュアル 2005-10-28

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難しい話題を扱った映画だと思いました。ニルヴァーナというカルト教団に入信した12歳の少年(光一)が、おじいさんによって連れ出された妹を取り戻すために、教団の施設を脱走します。途中で援助交際などをやっている少女(由希)と出会い、お金もなくぼろぼろになりながら妹の場所をめざす。ロードムービー的な要素もあるのですが、途中でレズビアンのカップルに会ったりして、なかなか波乱万丈です。

正しさとは何か、と深く考えさせられました。憎しみに盲目的になった光一は、マイナスドライバーを尖らせておじいさんの殺害することばかりを考えているのですが、旅の途中でお金がなくなって、万引きしようという由紀に対して、万引きはよくないと諭す。由紀は、人を殺すのはよくて万引きはダメなのか、と光一を非難する。

最後の台詞はかっこよすぎですね(ネタばれになるので書きませんが)。折れそうなぐらいに痩せていて、けれども大阪弁で気丈な由紀を演じている谷村美月さんがいい味を出していると思います。7月15日鑑賞。

公式サイト
http://www.shirous.com/canary/

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(51/100冊+43/100本)

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ニーチェで批判するネット社会。

午後には、ものすごい音でカミナリが鳴り、滝のように土砂降りの雨が落ちてきました。空が落ちてくる、というとキャロル・キングの歌のタイトルみたいですが、そんな感じです。少しだけ外出したときには、重苦しいぐらいに暑い空気で、暑さがまとわりついてくるようでしたが、午後からは本格的な外出は控えて、家でじっくりと趣味や片付けの時間にしました。そうして、考えること、書くことについてぼんやりと思いを巡らせました。

自分を語らずに自分について言及する、というと禅問答のようですが、そんなことができないかと考えています。というよりも、そうしたい、という理想のようなものです。ブログにしても論文などの文章にしても、他者を意識すると、どうしても本題とは別に、他者に対する「言い訳」的な文章を挿入するようになります。しかしながら、それがあまりにも多すぎると自意識過剰な印象があるし、なんとなく読んでいても冷めてしまう。メタ的に自分を他者としてとらえて言及したり解説するのではなく、自分のなかにある言葉をストレートに出した方が気持ちがよいし、また読む人にもストレートに伝わるのではないかと思いました。評価や感想は読むひとに任せればよいのであって、自分で自分を言及する必要はない。

よくビジネス系の雑誌にありがちなのですが「ちょっと待ってほしい」というフレーズがぼくは嫌いで、読者を待たせてどうする、と思う。はやく先に進めてください、ともどかしくなる。以前勤めていた会社で、とある雑誌の編集を担当していたときに、ライターさんからあがってきた原稿に400字に一度ぐらいの頻度で「ちょっと待ってほしい」と書かれていて、書くのがつらいのはわかるけど、このフレーズで文字を埋めないでほしい、と腹が立つのを通り越して脱力したことがありました。

このような他者の意識が思考に入り込んできたのは、構造主義的な世界観があったからではないかと思うのですが、内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」を読みながら、ベトナム戦争のときにアメリカはベトナムの気持ちなどを理解しなかった、それができるようになったのはつい最近である、というような指摘があり、当たり前のように思える他者のまなざしを感じ取る行為が、実は歴史上では新しいということにあらためて驚きました。

他者意識が過剰であるために、格差社会も広がりつつあるような気がしているのですが、構造主義・ポスト構造主義がもたらした弊害といえるかもしれません。一般に浸透している思想を乗り越え、新しい考え方のフレームワークを生み出さなければならない時代になっているのかもしれない。

しかし、そのためには気付かずに絡みとられている考え方、常識、「こころの格差社会」で海原さんが述べている言葉を借りるなら「ゴースト」の存在を意識し、語られたことよりもまだ語られていない何かを発見する必要があります。

「寝ながら学べる構造主義」から、ニーチェの「大衆社会」の批判を引用してみます(P.50)。

ニーチェによれば、「大衆社会」とは成員たちが「群」をなしていて、もっぱら「隣の人と同じようにふるまう」ことを最優先的に配慮するようにして成り立つ社会のことです。群れがある方向に向うと、批判も懐疑もなしで、全員が雪崩打つように同じ方向に殺到するのが大衆社会の特徴です。

同質化を求める社会ともいえます。裏返すと、多様化を拒む社会かもしれない。

ニーチェはこのような非主体的な群集を憎々しげに「畜群」(Herdeへールデ)と名づけました。
畜群の行動基準はただ一つ、「他の人と同じようにふるまう」ことです。
誰かが特殊であること、卓越していることを畜群は嫌います。畜群の理想は「みんな同じ」です。それが「畜群道徳」となります。ニーチェが批判したのはこの畜群道徳なのです。

これは古いニーチェの考え方なのですが、たとえばコミュニティの考え方にも通じるものがあり、ネット社会についても示唆を与えてくれるものかもしれません。次のような部分を読んで、そんな印象を受けました(P.53 )。

相互参照的に隣人を模倣し、集団全体が限りなく均質的になることに深い喜びを感じる人間たちを、ニーチェは「奴隷」(Sklaveスクラーフェ)と名づけました。
ニーチェの後期の著作には、この「奴隷」的存在者に対する罵倒と嘲笑の言葉が渦巻いています。

ブログにおいてトラックバックや引用は「相互参照的に隣人を模倣」する手段であり、もちろん批判も可能ですが、多くは引用者と「均質的」な喜びを得たいがための行為のように思えます。したがって、均質的な話題を増殖させていく。情報の奴隷となっていく。本人たちにとっては同質化した喜びがあるかもしれないのだけど、創造的な行為か、というと決してそうは思えない。

NHKの「おかあさんといっしょ」のスプーの絵描き歌で、歌のお姉さんが描いたキャラクターがあまりにも下手だったために、過剰にネットで盛り上がったという現象もありましたが、結局のところ「相互参照的に隣人を模倣」する行為がネガティブな部分に向えば、途方もない吊るし上げを展開することになります。それはまさに「畜人」の悦楽です。しかしながら、日刊デジクリというメールマガジンでそれを「気持ち悪い」と一刀両断していた記事があり、ぼくはその批判にすがすがしいものを感じました。やはりブロガーはマスメディアの優秀な記者には到底かなわないな、と思うのは、ゴシップや揚げ足取りや弱者に対するいじめが横行することで、批判するのであればもっと強いものを批判しろ、といいたい。例えば権力とか、しょうもない組織とか、別に正義のヒーローになる必要はないけれど、社会にはおかしい部分がたくさんあり、その部分におかしいと言及しなければ何も変わらないと思うのです。

基本的にぼくは力のないひとりの個ではあるのですが、個という地面を這いつくばった視点から、社会全体に対して何か提言できるようになりたいとも思っています。まだまだ力不足ですけど。

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2006年7月14日

比喩という跳躍。

たいてい本を読んでいる途中には、これはという言葉をいくつもみつけるのだけれど、読み終わってしまうと衝撃や感動を忘れてしまって、気持ちはもう次の本に動いている。そんなわけでブログを書いている途中に、できるだけ本のなかで気になった言葉を書きとめようと思っているのですが、なかなかすべての言葉を書きとめることはできない。もどかしいものです。

海原純子さんの「こころの格差社会」には、たくさんの寓話やエピソードが引用されていて、とても参考になりました。一行だけれど印象に残っているのは、レイ・ブラッドベリの次のような言葉です。海原さんはこの言葉を好きらしい。

安全を求めない生き方とはがけを落ちながら翼を作る生き方である。

その後、「男たちよ、「とび」なさい。」という挑発的な一文がつづくのだけど、なかなか気持ちよいと思いました。

一方で、その前には、ホルヘ・ブカイの「寓話セラピー 目からウロコの51話」という本から「翼は飛ぶためにある」というストーリーが引用されています。海原さんの本では、別の部分でも「寓話セラピー 目からウロコの51話」から引用されていて、この本も読んでみたいと思っているのですが、「翼は飛ぶためにある」という話は要約すると、翼のある息子に父は山の上に登って崖を指差して、ここから飛べと言う。ところが息子は怖くて飛べないので、とりあえずは木のてっぺんから飛んでみる。ところがうまく飛べなくて、頭にたんこぶを作って、父親に「嘘つき!飛べないじゃないか」と怒る。すると、父親は諭すわけです。「飛ぶためにはな、翼が十分に広がるための空間が必要なのだ。」と。

飛ぶためには高さが必要であり、さらにリスクも冒さなければならない。その空間も得られずにリスクも冒せないのであれば、一生翼を引き摺って生きていくしかない。

小説もいいけれど、こうした寓話もいいですね。もちろんあまりにも説教くさい話は読みたくないのですが、人生のエッセンスをそのまま書くのではなく、寓話というカタチに置き換える行為はクリエイティブな感じがします。それは直接書くことよりも技巧が必要であって、創作のためにはちょっとした跳躍が必要になる。

ここで跳躍というのは「とぶ」という言葉に関連しているのだけれど、ぼくがいま内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」という本を読んでいて(現在、P.62。ちなみになぜ現在ページを記しておくかというと、その後読み進めて別の見解を得ることもあるかもしれないと思うからです)、そのなかにヘーゲルの「命がけの跳躍」という言葉が出てきたからです。引用しておきます(P.27 )。

「存在すること」とは、与えられた状況の中でじっと静止しており、自然的、事物的な存在者という立場に甘んじることです。静止していることは「堕落すること、禽獣となることである」という考え方、これをマルクスはヘーゲルから受け継ぎました。たいせつなのは「自分のありのままにある」に満足することではなく、「命がけの跳躍」を試みて、「自分がそうありたいと願うものになること」である。煎じ詰めれば、ヘーゲルの人間学とはそういうものでした。

共感すると同時に、ぼくはこの熱さに距離も感じてしまうのですが、それは時代的な背景あるいはコンテクストの違いがあるからでしょう。次のような部分も同様です(P.30 )。

ヘーゲルの言う「自己意識」とは、要するに、いったん自分のポジションから離れて、そのポジションを振り返るということです。自分自身のフレームワークから逃れ出て、想像的にしつらえた俯瞰的な視座から、地上の自分や自分の周辺の事態を一望することです。

ブログを書き始めた最初の頃、ぼくはこの俯瞰的な視座にこだわって、それが立体的にものごとを考える上で重要な視点であると考えていたことがありました。また、自己のなかに仮想的に他者を存在させることで、相対的に自分をとらえることが可能ではないかと思い巡らせていたこともあります。いまこの本から意味づけてみると、それらはヘーゲル的な思考の枠組みから出ていないものだったんじゃないか、と思います。その思考からこそ跳躍をしたい。

このブログは途方もない助走である、ということも以前書いたことがあるのですが、考えたことをベースに、さらにまったく違うところへ跳躍したいと思っています。論文かもしれないし、仕事かもしれない。音楽かもしれないし小説かもしれないのですが、ある意味、比喩的に、いま考えているAをまったく違う位相のBに展開することができたら、そのときにはじめてぼくは読みつづけてきたこと、映画を観つづけてきたこと、ブログを書きつづけてきたことが完成するような気がしています。

それはひょっとしたら臨終の一瞬に、作品というカタチはとらずにぼくの頭のなかで「ああ、わかった」というものかもしれない。それでもいいと思っています。結果ではなく、プロセスを楽しむために、ぼくは生きようと思います。

++++++

■いろいろとほしいCDが目白押しなのですが、つい中古CD屋でリトル・クリーチャーズのフューチャー・ショッキング・ピンク を買ってしまった。今日のBGMです。

B00005HV6OFUTURE SHOCKING PINK
フェイスレコーズ 2001-03-28

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2006年7月13日

キング・コング

▽cinema06-042:ゴージャスなエンターテイメント超大作。

B000EHRAAMキング・コング 通常版 [DVD]
ピーター・ジャクソン
ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン 2006-05-25

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時間があまりなくて、長い映画を断片的に観たのですが、なによりも映像に圧倒されました。物語的には船に乗り込むまでは展開をぎゅうぎゅう詰めな感じがしたけれど、船のシーンはもちろん、コングがいる島の場面に移ったあとがすごかった。どこまでがCGなのか、ぼくにはもはやわかりません。さらにコングだけかと思っていたのですが、さまざまなモンスターも登場する。恐竜やよくわからない古代生物のようなものまで出てくるとは思わなかった。何でもあり、という感じで、エンターテイメントもここまで究めるとすごいなと単純に感動しました。

売れない喜劇女優というアン・ダロウ(ナオミ・ワッツ)がコングの前で踊ったり、ジャグリングのようなことをするシーンはなかなか和むものがありました。それから、夕焼けをコングと眺めるシーンは「美しい」。コングの顔は、怒りの顔が多いと思うのだけど、ときにものすごくさびしそうな表情だったり、哲学者のような深い面持ちだったりします。というのはやはり彼(彼だろうか?)の眼のあたりに漂う表情のせいだと思うのですが。

一度観たあとで息子と観ようかとも思ったのだけど、ちょっと衝撃が強すぎる気がして、やめておきました。7月13日鑑賞。

公式サイト
http://www.kk-movie.jp/top.html

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自分2.0という進化。

Web2.0という言葉が生まれ、かなり一般的にも浸透してきたようです。関連書籍も多くなりました。また、2.0という言葉を流用して、販促会議の表4広告にはトランスコスモスが「Marketing2.0」などというキャッチコピーもあったりしたのですが、本日、R25を読んでいたところ、タウンページとの連動記事で「自分2.0」という言葉があってちょっと面白かった。

2.0の上に「進化系」というルビがふられていて、なるほどなと思いました。1.0に対してバージョンアップした2.0というのは確かに進化系というと納得するものがある。さらにこの特集では、「2.0的」現象を列記している。冷蔵庫2.0(光パワー野菜室)、博物館2.0(山梨県立博物館)、素材2.0(ダイヤモンド)、病院2.0(外来の混雑度予測システム)、車2.0(クラウンマジェスタ)、日本料理2.0(龍吟)、旅館2.0(ゆ森野お宿いぶすき悠簸離庵)といった感じです。

>R25の定義によると「2.0=人に優しく進化したもの」だそうです。Web2.0の定義よりも、こちらの方がコンセプト的によろしいのではないでしょうか。ぼくは最近、Web2.0という言葉にあまり興味を失いつつあるのだけれど、AjaxだとかSNS、Wikiという技術的な何かよりも、技術を使うひとの意識であったりコミュニケーションの方法の進化こそが2.0なのであり、そちらを考えた方がよいのではないかと思っています。それはぼくが技術系ではないということもあるのだけれど、技術先行型のサービスは、どうしても点で何かを考えがちな気がしていて、技術を知っておくことは大事だけれど技術にとらわれずに、社会の進化を考えた方がよいのではないかと思ったりしているわけです。

ということを考えると、ばかばかしいほど単純だけど「自分2.0」というコピーが気に入っていて、もちろんインターネットによるコミュニケーションもあるのだけれど、ロハス的な思考だとか、スローライフだとか、創造性、全体思考、個のエンパワーメント、格差社会からの脱出、認知科学、脳科学、比喩、デザイン、コーチングなどなど、いままで考えてきたことは、2.0的なものだったからかもしれないと思いました。と書きつつ、じゃあどこまでもバージョンアップするのか、というとやはり直線的な方向性の回避というテーマから、違和感があるような気もします。ぼくが求めているのは上昇志向ではなくなりつつあり、というのは上や下、左や右というのは外部に対する位置づけの話であって、自分の内部においては上も下もないだろう、という気がするからです。

書き散らかしてきたぼくのブログですが、じっくりといままでの断片をまとめる必要を感じています。と、同時にそれをどのように表現するかという問題もある。仕事をしたい、と思います。しかも、よい仕事をしたい。会社に勤めているから仕事はしているじゃないか、ともいえるのだけど、右から左へ何かを動かすようなものは作業であって仕事といえるのかどうか、と思う。文化的雪かきと表現したのは村上春樹さんだったかと思うのだけど、たとえ文章を書いていても(それが収入に換わったとしても)、自虐的に自分を痛めつける作業ではないかどうか、右のものを左に移しているだけではないか、ということを見極めて、いい仕事かどうかということにこだわりたい。

抽象的なことを書いてしまいました。うまく言述できないのですが、また別のテーマを経由しつつ、自分なりのまとめをしてみたいと考えています。

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2006年7月12日

闇に聴こえる音。

プラネタリウムに行ってみたいと思いました。というのは、とても唐突なのですが、会社の帰りに自宅の近くにあるCDショップに立ち寄り、レイ・ハラカミ feat. 原田郁子の「暗やみの色」というCDを購入したからです。これは日本科学未来館のプラネタリウムのために、レイ・ハラカミさんが書き下ろした曲のようです。
暗やみの色
レイ・ハラカミ feat.原田郁子
暗やみの色
曲名リスト
1. intro
2. sequence_01
3. sequence_02
4. sequence_03
5. sequence_04
6. "yami wa hikari no haha"
7. outro

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透明なケースだけのCDなのですが、限定プレス盤ということで、16ページのガイドブックが付属しています*1。なんだか得した気分です。

このガイドブックには、「見える」ということはどういうことかについて、科学的な解説が書かれています。これから読むのですが、なんとなくわくわくします。そして何よりも、谷川俊太郎さんの詩「闇は光の母」が掲載されていて、さらにクラムボンの原田郁子さんとの対談があるのもうれしい。ちなみにCDのなかには、詩の朗読も入っています。

対談のなかで次のような言葉がよいと思いました。朗読についての対話です。


原田◆ナレーションを録るときに、天から降ってくるみたいな、ありがたい感じにはしたくないって話していて。耳元で喋りかけてるような方が、きっと入ってくると思ったんです。
谷川◇絶対そう。詩はすばらしいものだって思い込んで、普段の自分と全然違う声で読む人がいるけど、不思議なことに、そうすると詩は死ぬのね。祝詞みたいに、神様の前で読むんだったらそういうのもいいかもしれないけど、人間に聞かせているわけだから。現実生活のリアリティみたいなものがちゃんとないと、面白くないっていう気がしますね。

谷川俊太郎さん、やっぱり素敵です。

レイ・ハラカミさんの曲は、ものすごく映像的です。ぼくはぼーっとコーヒーなどを飲んだりするときに、レイ・ハラカミさん曲を聴きたくなります。集中して聴くのではなく、BGMでもなく、ちょっとメディテーションのような感じで自分の内側に広がる風景をぱらぱらめくりながら考えごとをするようなときに、ぴったりの曲です。逆に通勤電車のなかでiPodで聴いたときには、これは合わないと思った。閉鎖的な空間で(プラネタリウムもそうだけれど)、ゆったりとくつろぎながら瞑想するときに合う曲です。シンセサイザーなんだけれど妙にアコースティックで、ギターなのかピアノなのか分からないような音色のアルペジオがあって、ディレイによって広がった音の空間のなかに妙にリアルなドラムの音が聴こえたりする。独特の世界を追求していて、好きなアーティストのひとりです。

さて、「こころの格差社会」という本を読み終えました。格差社会というのは流行りなのか、いろいろなところで目にします。しかしながら、ただ煽るだけのキーワードにもなりつつあり、ほんとうに社会の問題を直視して、どう変えていけばよいのかということまで踏み込んだ議論は少ないような気もしています。

*1:いま気づいたのですが、今日発売だったんですね。このCD。

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■日本科学未来館のページ。プラネタリウムの館長さんはあの毛利さんでしたか。

http://www.miraikan.jst.go.jp/index.html

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▼Books051:自分らしさ、をあらためて考える。

こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人 (角川oneテーマ21)
海原 純子
こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人 (角川oneテーマ21)
曲名リスト
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「自分らしさ」という言葉を嫌い、その言葉にアレルギーを起こすようなひとがいることを海原さんは指摘します。そういうひとは男性社会的な思考にどっぷりと浸かっていて、過程よりも結果を重視し、内側よりも外側の評価を得ることにやっきになっていて、医学的にはタイプA(A型気質)というアグレッシブな傾向にあるひとが多いそうです。この背景には、「自己実現」という言葉ばかりが先行した、表層的な人材育成ブームによる洗脳(というかイメージづくり)の弊害があったからかもしれません。

しかしながら、ぼくがあらためて目からウロコだったのは、マズローの言っている自己実現には別の意味があって、自分の好きなことを集中してやっていると、それが他人のためにもなる、ということらしいのです。たとえば、料理が好きな女性がいるとします。別に旦那さんを喜ばせるわけでもなく、よい妻を演じるためでもなく、あるいは料理コンテストでいちばんを取るためにやっているわけでもないのですが、料理が好きで好きでたまらない。好きだからその道を究めるのですが、究めたところ家族も喜ぶ。ブログに書いたレシピが絶賛されたりする。利己的であることを追求すると、最終的には利己的ではなくなってひとのためになるわけです。それがマズローの自己実現の究極形らしい(さらにそこを超越するらしいのですが)。

音楽もそうかもしれないし、文章だってそうかもしれない。お金を儲けるためではなく、本を出して名声を得るわけでもなく、とにかく書くことが大好きで書きつづけていたら、なんとなく「きみの書いた文章を読みたい」というひとが増えてくる。重要なことは結果よりもプロセスなわけです。しかしながら、勝ち組社会が重視するのは結果だったりする。そこが大きな歪みとなっているのかもしれません。

海原さんはさらに孔子を引用して「欲する所にしたがって、矩を超えず」ではなく、自分のやりたいこと、好きなことに夢中になることで、それが社会のためになることが自分らしさであり、自己実現のためには他の社会的な欲求であるとか所属の欲求が満たされている必要があり、どうしても40歳以上になるのではないか、そんな長い道のりを必要とする「自分(らしさ)」探しを10代や20代などで求めても無理だ、という風に書いています。また、自己を醸成するためには、外側にばかり意識を向けるのではなく、内側に向けるひとりの時間が重要であると指摘されています。

考えさせられる部分がたくさんありすぎてまとまらないのですが、最後にメモとして、マズローの言う自己実現人間の特徴を抜粋しておきます(一部省略。P.176)



現実を有効に知覚し、それと快適な関係を保っている
A自己、他者、自然に対する受容的態度
B自発的な行動
C自己中心的でなく、問題中心的である
D孤独、プライバシーを好み、欠乏や不運に対して超然としている
E文化や環境からの自律性
F人生の基本的に必要なことを繰り返し新鮮に、無邪気に、畏敬や喜びをもって味わうことができる
G<神秘経験>(W・ジェームズ)や<至高体験>をしている
H共同社会感情
I深い対人関係
J民主的性格構造
K手段と目的の区別
L哲学的で悪意のないユーモアのセンス
M創造性
N文化に組み込まれることに対する抵抗
O確固とした価値体系
P対立性・二分性の解決、欲望と理性のすばらしい調和状態

「ハイコンセプト」という本に書かれていたキーワードとも合致するものがあり、格差社会を生き抜くためのヒントのようなものを感じます。いつも本を読んでいる途中には、さまざまなヒントに気づくのですが、読み終えると忘れてしまいます。読んだ本をじっくりと考察したり、研究する時間があってもいいんじゃないかと思いました。7月12日読了。

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2006年7月11日

メディアに力はあるのだけれど。

格差社会について昨日ブログで書いていたところ、会社からの帰りに駅の売店で日経ビジネスの表紙に「日米欧総力取材 格差の世紀 Global Gapitalismを誰が止めるか」というタイトルをみつけて、つい買ってしまいました。Gapitalismという造語はどうかと思ったのですが。

しかしながら、読んでちょっとがっかりしました。600円も払って、もったいなかったなと後悔しています。ブログなので思ったことをストレートに書きたいと思うのですが、内容が薄っぺらな気がしました。たかが16ページの特集なので、深い考察まで踏み込めないのかもしれませんが、これが「総力取材」なのでしょうか。大文字の言葉で語られているけれど、あまり目新しい見解はありません。たとえば「激しさを増す企業間競争」。そう書いてしまうともっともらしいのだけど、あまりにも大きな括りすぎて、何がどのように激しさを増しているのか焦点が定まらない感じです。それでも大変そうだ、という気持ちは伝わってくるのですが。

マスメディアは気楽なものかもしれません。煽ればいいだけなので。

しかしながら、その格差社会で生き抜かなければならないのは、いったい誰だろうと思う。

結局のところ、この特集記事において、未来への展望を感じさせる記事はまったくありませんでした。煽られている気持ちはあります。厳しい社会がくる、と脅されている感じもある。しかし、未来への構想は、ほとんどありません。しいていえば「格差資本主義に抗う英知を」という特集最後の2ページで、もう現役を退こうとしているビル・ゲイツ氏を登場させて、「その未来図を書き換える英知が我々にあるのだろうか」で結んでいるところでしょうか。とはいえ、非常に曖昧で悲観的な推測です。結びとしてはあまりにも弱い気がします。

このような危機感を煽るだけの薄っぺらなメディアの記事を読むぐらいであれば、むしろブログを読んだほうがよい、などという極論を考えました。地面を這うようなブログの英知のなかにこそ、未来を感じさせる何かがある。現実を生きているひとたちの言葉があります。

手を抜いたわけではないだろうけれども、なんとなく納得できない特集記事のために、600円という小遣いをはたいて買わされてしまうと、だからブログは新聞を殺すなんてことも言われてしまうんだと、なんとなく冷たい批判も生まれてきます。恐竜のような古びた言葉をたいそうに繰り返されても、ぼくの知的欲求はあまり満たされないようです。煽るのはほんとうに簡単だと思います。けれども展望や構想がなければ、読む気持ちも失せてしまいます。

これも日経という勝ち組メディアの奢りなのかもしれないな、と感じました。

三重県亀山のシャープの工場における非正社員の急増と労働者の使い捨てという記事から特集は始まるのですが、この記事においても、記者のまなざしに「無念さ」に対する「共感」が感じられません。というのは、その後に「格差論は甘えです/ほとんどがぜいたく失業/やりたい仕事と能力は別」という、ザ・アールの奥谷禮子さんのインタビューを配置しているからで、これは編集の暴力のようにも思えるのだけど、「やる気があれば何でもできる社会ですよ」と言い切ってしまう奥谷さん自身がもはや勝ち組の発言で、その権力的な言葉こそが格差社会を加速するものではないかと思いました。ウォルマートの抱えている問題も、なんとなくもう一歩先にある核心に触れていない印象がありました。

しかし、ぼくがそのように書かれた記事の背後を過剰に読み取ってしまうのは、「こころの格差社会」という海原純子さんの本を読んでいたからかもしれません。もし、海原さんの本を読んでいなければ、ああ大変な社会になるんだ、頑張らなくては、と思ったかもしれない。そもそも、ジャーナリズムはいま世界で起こっていることを伝えるのであって、これからあるべき姿については触れられないものです。しかし、「こころの格差社会」を読んで、権力がもたらす問題を意識し、あらねばならぬ的な思考を離れて二者択一的な考え方を捨てて考えてみると、このようなメディアの権力的な言葉にこそ抗わねばならないのではないか、という気持ちも生じてきます。つまり無意識的に、格差社会のぼんやりとした幽霊(ゴースト)を実体化させてしまう恐れもある。

実は今日は、ほんとうは「こころの格差社会」という本から、勝ち組ではなく負け組がしあわせになる方法、自分らしさを追及することの誤解と前向きにとらえた考え方、老子に学ぶしなやかな生き方などについて書きたかったのですが、つい雑誌に刺激されてしまって、感想を述べてみました。怒りに任せて書いた印象もありますが、別に怒っているわけではありません。

プロのメディアには、ブログが到底及ばないような、それこそ「総力取材」という力があると思います。なんとなく現状をまとめた記事ではなく、プロならではの深い洞察に満ちた記事を読みたいと思っています。

と、言いたいことを書いてしまいましたが、メディア批判をするにはまだまだ勉強が足りません。さまざまな本を読みつつ、考えを深めていくつもりです。

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2006年7月10日

共感と聴く力。

いま読み進めている海原純子さんの「こころの格差社会」という本は非常に示唆に富んでいて、深く考察すべきテーマがたくさんあります。

4047100439こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人 (角川oneテーマ21)
角川書店 2006-06

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あまり楽しいタイトルではないと思い、どちらかといえば読まないようにしていた類の本ですが、示唆を受けた部分について書いてみます。

まず、現在の社会の問題は、「勝ち組」が支配し、彼等がリーダーシップを取る社会であることが問題であると海原さんは指摘します。何が問題かというと、勝ち組には「聴く姿勢」や「共感」する心が欠けている。つまり、弱者のありのままの姿をみることができない。努力しても報われないひとたちの「無念」がわからない。勝ち組になれないのは努力が足りないからだろう、と考えるわけです。しかしながら、勝ち組であるひとたちには、実は自分の力で勝ち抜いてきたのではなく、「透明なあげ底」があるとします。

わかりやすい例を挙げると、たとえば医者になろうと考えたとき、どんな家の人間も医者になれるわけではない。なれるかもしれないけれど、現実問題として、まず金銭的に裕福でなければ、医者になるための教育を受けられないわけです。スタート時点から「あげ底」で差がついている。そのことに気づかずに、自分の力で医者になれたと勘違いする。無意識ではあるけれど、その格差があった時点で既に他者を理解しない権力的な心を生むというわけです。

ちょっと過激だなと思ったのですが、「勝ち組」が支配する社会は犯罪や問題が多くなるそうです。アメリカに犯罪が多いのも勝ち組が支配する格差社会だからかもしれません。パワーで支配するひとたちは弱者(負け組)の気持ちを理解しません。弱者は努力しないからそうなったんだ、と思っている。権力で支配しようとする勝ち組は一方的に話すばかりで、きちんと誰かの話を聞こうとしない。そこにコミュニケーション不全が生まれる。だから負け組は自分を主張できずに、抑圧された怒りが蓄積されやすい。それが爆発したときに、犯罪や暴力、テロにもなると指摘されています。

同時に「集団思考」の危険性も指摘されていて、「反対意見をじゃまにして、それを口にするものを排除したり出世できなくする」ような「一枚岩の組織」は、どんなに優秀な人物を集めたとしても失敗する(P.125)。権力で批判を封じ込める世界は不健全になっていく。勝ち組が一方的に権力をふるう世界は、みえない歪みを進展させるわけです。

いっそのこと政治家は「勝ち組」である一流大学出身者は禁止、という制度を作ったほうが世のなかはよくなるのではないか、ということも考えてしまったのですが、それは負け組の遠吠えかもしれません。

そんなことよりも個人的にぼくが注目したのは、ダニエル・ピンクさんの「ハイコンセプト」で語られていた、これからの時代に必要な能力である「共感」というキーワードや、ここ数日、個人的に関心のあったコーチングにおいて非常に重視される「聴く力」が、再びこの本のなかでも取り上げられていることでした。

勝手な思い込みかもしれませんが、現代社会の問題と、未来をよりよく変えていくための方策というのは、どうやらさまざまなひとの主張が重なりつつあるような気がします。多くのひとたちが現在問題になっていることの根幹をわかりはじめていて、その解決方法にも気づきはじめているように感じました。

ところで、話題を少し変えるのですが、どんな人間でも「勝ち組(=権力のパワーを駆使するもの)」になる場合があります。それは「親」として「子供」に接する場合です。

子供に何かを教えていると「どうしてそんなのもわからないんだ!」と苛立つことがあるのですが、わからない、できない弱者が子供です。身体的にも精神的にもでかい親が強者なのは当たり前で、子供を支配するのではなく、やろうとしてもできない「無念さ」を「共感」すべきです。自転車だって、大人になったいまでこそ簡単に乗ることができるから乗れない子供の気持ちがわからなくて、どうして乗れないんだっ!などと不条理にも叱ったりします。でも、コツをつかむまでは、たとえ頑張って努力したとしても、乗れないものは乗れない。ありのままに、その事実を認めることが必要です。

そんなことを反省しつつ、日曜日に長男の勉強をみてあげたのですが、さすがにコーチングを学ぶとなんとなく雰囲気が違ったような気がしました。もちろんぼくだけがそう感じていたのかもしれませんが、「彼のなかに答えがある」と信じていると、沈黙も苦になりません。たぶん力が抜けているからか、長男も安心していろんなことを話してくれる。やがて自分で答えをみつけていました。

子供のなかには未来の可能性が埋まっていて、それを取り出すことが親の役目だと思います。ちょうど、木のなかに埋まっている仏像を取り出す仏師のようなものです。

授業でもじもじして手を上げられなかったり、50メートル走で4番だった息子をみると、なんとなく親であるこちらまでしゅんとしてしまうのですが、世間的なモノサシで彼をみようとするから心が痛むのであって、いや、もっとよいところがうちの息子にはあるんだ、と信じていることが大事でしょう。そうすれば、きっと彼も変わるはずです。成長しなければならないのは、子供より親なのかもしれません。

海原純子さんの「こころの格差社会」という本は、引用されている寓話もすばらしい。イメージが広がります。また別の角度から引用しつつ何か書いてみたいと思っています。

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2006年7月 9日

円環で方向を束ねる。

2週間前から体調がすぐれずに、地球の重力に負けそうな日々がつづいているのですが、体調がすぐれないときには気分も低迷気味であって、気分が低迷気味だと文章にも切れがなくなります。そんなわけで2週間分のブログを見直すと、削除したいような日もあるのですが、あえて残しておくことにしましょう。上昇と下降を繰り返しながら、それでも最終的にはゼロかちょっと上向きあたりに着地すれば、よしとすることにします。

武満徹さんの「Visions in Time」という本を読んで、「時の円環(P.142)」の円環のイメージがずっとぼくのなかに残っています。それはいま読んでいる海原純子さんの「こころの格差社会」にもつながってきて、どうすればしあわせに日々を過ごせるか、というヒントにもなりそうな気がします。

4872951026武満徹―Visions in Time
エスクアイア マガジン ジャパン 2006-04-13

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どういうことかというと、ただ直線的に上昇していく社会においては、常に自分を(重力と逆らって)上へと向わせる力が必要になる。いま存在している自分の位置をゼロの座標だとすると、X,Y,Zの座標がそれぞれ3上昇したとすると、その(3,3,3)という位置が次の基準となる座標となる。と、書いていて数学的なことは苦手なので、ここでやめてしまうのですが(苦笑)、常に上を向いているとすれば、その到達する位置から考えると現在はマイナスの地点になるわけで、上に到達することを満足というとすると、現在の位置は「常に不満足」なわけです。

そこで直線ではなく円環という考え方で、ぼくらはある軌跡の上をぐるぐる回っている存在だとします。きれいな円というわけではなく、その円はぼこぼこと上がったり下がったりする。上がったり下がったりを繰り返しながら1周すると、もとの場所に辿りつくわけです。けれども辿りついた自分は、決して出発した自分ではない。「1周上がったり下がったりしながら廻ってきた自分」です。同じ位置にいたとしても、その廻ってきた経験というのは違う。

時計であっても方位磁石であってもいいし、太陽系をめぐる惑星というイメージもあるかと思うのですが、円環であるものの魅力をぼくは感じます。それが何か、というとうまく説明できないのですが、デジタルの時計よりもアナログの針がある時計のほうがなんとなく好ましい。それはつまり、加算されていくイメージがないからかもしれません。円(輪=和)のなかに閉ざされる安心感ともいえそうです。繰り返されることの安らぎ、のようなものがある。

ブログのなかで何度も同じことを書こうと思うし、上昇と下降を繰り返してもよいと思っています。けれども、直線的に上をめざしているのではなくて、大きな円を何度もなぞるような行為に似ているのではないか、と考えました。同じテーマで何度も書く。書いているうちに、その内容はどんどん深まっていくわけです。あまりテーマを広げなくてもかまわない。むしろ、ごりごりと深く掘り下げていきたい。

趣味のDTMも同様です。いま夏らしい曲を創っているのですが、別にアーティストを気取るつもりはないけれど、正直なところ自分の世界を壊すことができずに、ちょっと悩んでいます。なんとなく自分で自分のメロディが予測されるというか、ああやっぱりね、という感じになる。でも、それでいいのではないか。徹底的に自分がよいと思う世界をワンパターンで追いかけるのも、楽しいかもしれない。

とはいえ、まだ直線的な起承転結で構成された、いわゆるサビのある音楽しか創れないのですが、いずれは同じフレーズを延々と繰り返すような曲も創ってみたいものです。それこそ円環のような音楽を。

フレーズを延々と繰り返すような曲というのは、トム・ヨークのソロアルバムを聴いて、ベースで同じフレーズが繰り返されるのが、かっこいいな、と思ったからなのですが、彼の音楽は感情を不安定にする音楽というか、かなりざわざわと揺さぶられる曲もあります。2曲目の「analyse」という曲は好きなんですが、闇を感じさせますね。遠く旅をしてきたけれど結局のところあなたには答えを考えるために分析している時間はない、というミもフタもない歌詞です。どうしようもない暗さがあります。

B000FZEZPQジ・イレイザー
トム・ヨーク
ベガーズ・ジャパン 2006-07-05

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ぼくのブログもそんなものかもしれません。途方もない巡回があるだけで、どこかへ辿りつくためのものではない。辿りついてしまっても、その後に困ってしまうのですが。

それでも、季節がめぐるように、文章を書いていきたいと思っています。

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2006年7月 8日

ヒノキオ

▽cinema06-040:ありそうな近未来。でも、あたたかい未来。

B000B4NF9Sヒノキオ [DVD]
松竹 2005-11-26

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息子(特に長男)と映画を観るプロジェクトを勝手に進行しているのですが、まずいな、と思ったのは、ぼくが涙もろいということです。ヒノキオは、交通事故で母を失ってしまった少年が、トラウマによって引きこもってしまい、ロボット開発技術者の父(中村雅俊さん)によって作られたロボットを遠隔操縦することによって、学校に通うという物語です。小学6年生という微妙な時期であり、淡い恋愛のストーリーもあったりして、なかなかあたたかい映画でした。冒頭のシーンからすでにぼくは涙目状態だったのですが、うっビール飲みたくなっちゃった、とか、あっあれ忘れてた、とか、泣けそうなシーンはそうやって回避しました。

母が交通事故で亡くなる朝、仕事に忙しい父と母が電話で喧嘩したから母が亡くなったんだということから、母を殺したのはお父さんだ、という怒りを、ヒノキオというテクノロジーを媒介にサトル少年は父に伝えるシーンもあって、これは痛かった。子供ときちんとそのことについて話すことが怖いという父親の意識も痛かった。ぼくのふたりの息子たちもこれから大きくなっていって、いろいろと難しい時期を迎えることになると思います。ブログではいろいろと教育論的なことも書いているけれど、実際にリアルな彼等と向かい合って何ができるか、ということが大事です。

CGは、ほんとうに見事です。これは実写なのか?と思うような場面もありました。けれども、そんなことはどうでもいいことであって(というか大切ではあるのですが)、結局は何を描くか、何をテーマとするか、ということだと思う。子供向きではない映画かもしれないけれど、よくわからなくてもぼくは息子に観てほしかった。そして、息子は「ヒノキオ、よかったな」とぼそっと呟いていました。どこがよかったのか、訊いてみていないのですが。7月8日鑑賞。

公式サイト
http://www.hinokio-movie.com/

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きみに読む物語

▽cinema06-041:現実の物語と書かれた物語。

B000HA4DZQきみに読む物語 スタンダード・エディション [DVD]
ニコラス・スパークス
ハピネット 2006-10-27

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「私の頭の中の消しゴム」にも似たテーマで、最近、記憶や脳に関することを主題として作られている映画や小説が多いような気がしました。それは流行のようなものかもしれないし、ぼく自身が興味を持っているから自然と引き寄せてしまうのかもしれません。介護施設で、年老いた男性がある認知症(老人性痴呆症)の女性に本(原題はTHE NOTEBOOK。ノートに書かれた物語)を読み聞かせます。読み聞かせる内容は、裕福な家に生れたアリーと、カーニバルの夜に彼女にひとめぼれしてしまったノアという男性の物語です。

ノアは肉体労働者で、彼女とはまったく育った環境が違う。フラッシュバックしてしまったのは、かつて学生時代にぼくもお嬢様的な女性を好きになってしまったことがあり、デートするためにアルバイトをして、デートが終わると江戸川区の風呂なし四畳半のアパートに帰ってカップ麺をすすっていました。毎年のように海外に旅行していて知的にも洗練されていた彼女と、地方から出てきたばかりで金もなければ自分らしい何かを持っているわけでもなかったぼくは、喧嘩することも多く、ぜったいにうまくいかないなと思っていたのですが(その通り、結局のところ別れてしまったのですが)、もしノアのように長い時間をかけても再会できることを信じて生きていくことができていれば何かが変わっただろうか、そんなことを考えました。こんな風に、もし・・・を思いめぐらせてしまうのも、物語として優れた映画のよさではあります。

なんとなく演出過多という印象もありました。いまぼくが求めている映画は、創られた演出がなく、静かに淡々と進行しながらそれでいて心に染みるような映画です。そんなわけで大袈裟な演出には少しひいてしまうのだけど、そうはいってもやはり感動しました。7月8日鑑賞。

公式サイト
http://kimiyomu.jp/

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持続する方法。

3歳の息子(次男)と散歩をすると、最近はクルマのナンバープレートに書いてあるひらがなをずーっと読みつづけています。それで、ひらがなとひらがなをつづけて、「つ・せ・ってなんだろう?」と聞いてくる。もともと意味のないナンバーなんだけれど、彼はそれをつないでしまうようです。なんだろうね、と答えてしばらくはその意味について考え込んでしまうのですが、言った本人はまったく気にしているようではなくて、ほかの風景に夢中になっている。

ナンバーを読みつづけながら散歩していたら、一台のアルファロメオのナンバーが777でした。おお、7が揃っている、となんとなくうれしかった*1。次男は最近数字も読めることは読めるのですが(よんじゅうしちが好きらしい)、7が揃っていていてもどうでもいいようで、あんまりうれしそうじゃなかった。「おすい」というマンホールの蓋に書かれた文字の方が気になっていたようです。

どの本に書かれていたのか、いま忘れてしまって思い出せないのだけど、777という数字が重なるような、日常の生活におけるちょっとした偶然を楽しむことが、人生をより豊かなものにしてくれる、というような記述があったような気がします。たぶん、アルファロメオのオーナーは狙ったのかもしれないけれど、レシートのなかの合計金額が777なんてこともあったりする。時計をちらっと見たら、数字が揃っていたなんてこともある。くだらないな、と思うことも多いのだけど、そんな生活に存在するちいさな偶然を楽しんでいたい。

というのも、いま海原純子さんの「格差社会」という本を読んでいるのだけど(P.66)、日本の社会では「満足」が得られにくい社会のようです。そもそも人間は獲得したものに慣れてしまう心理学上の特性があり、宝くじがあたったとしてもその幸福感を持続できない。1年間でふつうの心理状態に戻ってしまう。大きなかなしみのようなマイナス要因も同じで、こちらはよくわかる気がしました。たとえば親しい人を失ったときに、かなしみが数年も持続していたら、たまらない。大きなかなしみも、大きなよろこびも、数年経つとふつうの状態に戻ってしまうように人間の心はできているようです。だから一度しあわせを得てしまうと、もっとしあわせを求めたがる。どんなに周囲から恵まれているような状況であっても、本人は満足しないという状況も生じるようです。

アメリカンドリームというように、権力によるシステムが機能している社会では、「がんばれば報われる」という、夢をみることができます。ところがアフリカのような社会においては、システムが機能していないので、がんばっても報われない。そういう社会では、成功者に対しては、汚い手を使ってうまくやったんだろう、というやっかみでしかみられない。日本もアフリカ的ではないか、と海原さんは書いています。

鋭い視点だとぼくは感じたのですが、確かに日本では出る杭は打たれる環境があり、成果主義といってもがんばったものが必ずしも成功を得るようにはなっていない気がします。「ぬけがけと嫉妬の日本社会」という章のタイトルにも鋭い洞察を感じていて、だからこそ同質化を執拗に追求しようとする。調和こそ美しい、という大義を掲げて、その実は、異端なものを吊るし上げて追い出す文化があり、しかしどちらかというと追い出された人材の方が成功していたりするものです。グローバルな社会で成功するのは、むしろ個性をきちんと確立した異端者の方であり、そのクリエイティビティを発揮できないような社会になっている。

このような社会でしあわせであるためには、ぼくは社会的な評価、マスの価値、統計的な指標という常識を疑って、より個の在り方を考えた方がいいのではないかと思いました。それは、777というナンバープレートを発見して、ちょっと楽しかった、というようなよりプライベートな価値の発掘という方向かもしれません。

そのいちばんよい方法が、ブログでちょっとした個人的なしあわせを書くこと、ではないでしょうか。いま、企業の記事をブログで書けば小遣いがもらえるようなサービスもあるようですが、なんとなくネットワークビジネス的な不自然さも感じています。急に、化粧品や健康食品などの記事を書きはじめたブロガーもいますが、あまりに宣伝的であると、なんとなくひいてしまう。ぼくはやはりどんなにちいさなことであっても、そのひとの個人的な生活や考え方がみえるブログに惹かれます。真摯に、誠実に生きているひとたちの言葉を読みたい。

しあわせを持続する方法は、ちいさなしあわせに対する感度を高めて、日々を一度きりのものとして有難く思うことなのかもしれません。

*1:9日の夜10:52にこのページにアクセスしたら、カウンターが67777でした。1個7が増えた。ちょっとうれしい。

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2006年7月 7日

「コーチングが人を活かす―やる気と能力を引きだす最新のコミュニケーション技術」鈴木義幸

▼book06-050:やさしい、そして深いノウハウ。

4887591195コーチングが人を活かす―やる気と能力を引きだす最新のコミュニケーション技術
ディスカヴァー・トゥエンティワン 2000-05-31

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ビジネス書のなかには、モジュール化されていてわかりやすいのだけど、時間が経つとあまり残らないような本もあれば、やさしい言葉のひとつひとつが実践のなかで現実に楔を打ち込むような本もあります。また、ものすごく難解な言葉で分厚い本もあって、それが重厚な知識として蓄積されるものもあれば、厚いだけで何を書いてあったのかさっぱりわからないこともある。たとえば、ジェームス W.ヤングの「アイディアのつくり方」のような本は、薄っぺらくて簡単で、すぐに読めてしまうのだけれど、時代を超えてアドマンのバイブルとされています。上司からすすめられた必読図書で、ぼくも何度も読み直しました。

このコーチングの本も薄くて、あっという間に読めてしまうのですが、コーチングのバイブル的な本だと思いました。すばらしい。やさしい言葉で書いてありますが、そのひとつひとつはものすごく深いノウハウばかりです。体系らしき構造がみえなくても、これだけ端的に(見開き単位で)整理されていると、実用度も高いと思いました。特に最後で、さまざまな場面を想定して、たとえば「部下に仕事を任せることができない」であれば「信頼する(22) 失敗する権利を与える(94)」のように、50の技術のどれとどれを組み合わせればコーチングできるというアルゴリズムのようなものが書かれているのはすごいと思いました。

テクニックだけでなく、ご自身の体験や聞いた話から構成されているので、説得力も違います。たとえば次のような挿話にはじーんとしました。「同僚のSさん」の話で、風邪をひいた6歳の娘さんがひとりで入院しなければならなくなる。そのとき最初はやさしく諭していたのですが、次第に声を荒げてしまった。そこで次のようにしたそうです。引用します(P.38)。

どうしたものかと途方に暮れはじめたとき、Sさんはふっと思い立って彼女の言葉をただ同じように繰り返しはじめました。「入院するのやだよ」「やだよね」、「お家帰りたいよ」「帰りたいよね」二分くらい繰り返していたそうです。すると彼女がぽつっと言いました。
「お父さん、入院する」
コーチングの基本的な哲学は、「安心感で人を動かす」というものです。アメやムチで相手を動機づけるのではなく、安心感をお互いの関係の中につくりだし、それを相手が行動を起こすための土壌とします。

泣けた。ほんとうにそうだと思います。特に、ぼくも次男が喘息で入院したときに同じようなことを感じました。コーチングは決して部下を掌握するためのテクニックではなく、もっと深い何かを教えてくれそうな気がします。7月7日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(50/100冊+39/100本)

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プレゼントを選ぶ。

自分のために生きるのにせいいっぱいです。だから、周囲のために何かするというのは難しい。もちろん電車のなかで年老いたひとに席を譲るぐらいのことは心がけているのだけど、それ以上のこととなると、いかがなものか。反省することが多いものです。しかしながら、どんなにささやかなことであったとしても、まず自分を満たすことができると、誰かほかのひとも何かしてあげたいと思うものです。ヘッドホン、本、そしてCDと自分のためにささやかなご褒美を用意した今週、次は家族のために何かプレゼントしてあげたいと思い、仕事が終わって、家族のためのプレゼントをいろいろと選んで帰りました。

まず奥さんは財布がほしい、と言っていたので財布。がまぐちっぽい財布にしようかと思ったのですが、無難なシンプルなものにしました。そして長男には、DS Liteのハードとポケモンレンジャー。ニンテンドーDSは売り切れ状態で、新宿で3つの店舗を歩き回って、やっとSofmapでみつけました。2台しかなくて、1台を買ったところ店内でアナウンスされてしまって恥ずかしかった。エナメルネイビーの色を購入したのですが、アイスブルーの色がよかったかなとちょっと後悔しています。ここでやれやれと思ったのですが、次男に買っていなかったことに気づき、玩具売り場へ。近鉄ビスタカーと特急みどりのNゲージを買いました(それがほしいらしいので)。

途中で何度も家に確認の電話など入れていたので、家に帰ると全員でお出迎えされて、みんなが巣のなかで餌を待つ雛鳥状態で、それぞれがプレゼントを受け取ると歓声をあげてくれた。短い時間にマッハで移動してプレゼントを選んだので、へとへとに疲れてしまったのですが、そんな笑顔をみると癒されるものです。ものすごくマイホームパパ的なコメントですが。

面白かったのが、次男は一度箱から出した電車の玩具をまた箱のなかにしまって、それを紙袋に入れると「ねえ、あけてみて」とぼくにすすめる。どうやら、家に帰ってきたときのぼくの真似をしているらしい。うわー、ビスタカーだ、とぼくが喜んであげると、また箱にしまってぼくに勧める。あまりよくわかってはいないと思うのですが、うれしかったこと、みんなが喜ぶ声といったものには反応するようで、意味はわからないけれど真似してしまう。ちょっといいな、と思いました。

3歳のきみが大人になって、誰か素敵な奥さんをもらって子供ができたときにも、そんな風に、たまには仕事やら何やらでへとへとに疲れながらも、家族のためにプレゼントを買ってきてほしい。そして、みんなを喜ばせてあげることができたら素敵だと思う。と、くたびれた父は思いました。あと10倍の年月を過ごした次男には、そんな記憶は残っていないのかもしれませんが。

息子がひとりのときにはまだ気軽だったのだけど、ふたりの子供になると玩具を選ぶ時間も倍になります。うちの場合、6つも離れているので、同じようなものを選ぶわけにはいかない。けれども、苦労だけでなく賑やかさも倍になる。もうひとりぐらいいてくれてもいいのかもしれないけれど、ちょっと無理でしょうか。

みんなが喜ぶ顔をみるとうれしい。それは家族はもちろん、どんなひとの集まりであっても同じです。

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2006年7月 6日

「数式を使わないデータマイニング入門 隠れた法則を発見する」岡嶋裕史

▼book06-049:データマイニングに困惑。

4334033555数式を使わないデータマイニング入門 隠れた法則を発見する (光文社新書)
光文社 2006-05-17

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数式を使わずにデータマイニングについて解説する入門書であり、データマイニングの書物といえば数式ばかりでうんざりしたのでつい買ってしまったのですが、この本を読み終えてぼくが得た感想を正直に書いてしまうと、「ひょっとしてデータマイニングって使えないのでは...」ということでした。やさしく解説すればするだけ、こんなもんに時間をかけるよりも直感で考えたことの方がよほど深い示唆を得られるのではないだろうか、と思ってしまいました。

自己組織化マップやニューラルネットワークなど、興味深い分析をとてもわかりやすく解説されていてとても参考になります。ただ、これもまた率直に印象を述べてしまうと、文章が「妙」です。それが理系的なオタクっぽい文章の特長なのかもしれないけれど、時々「?」という部分に突き当たる。たとえば、例にあがっている人物は男なのか女なのか、会話を読むとどちらなのかさっぱりわからないという部分がありました。

これもまたぼくの偏見から失礼だとは思いつつ本音を述べると、ガンダムが例に出てくるところで、気持ち悪いな、と思った。理系の学生に向けた講義であればやんやとウケる場所なのかもしれないし、別に掲示板やインターネットで書き込まれている分には読まずに通り過ぎればいいのですが、購入した本の場合そうもいきません。読むのをやめようとかなり強く思ったのですが、700円も払った本なので最後まで読むことにしました。ただ、その決断がよかったのかどうか、いまでもよくわかりません。

出版社あるいは著者の売り上げ増加の目論見なのか、コピーライティング的なタイトルに注目してしまうのだけれど、中身のない本も多いような気がします。余談ですが、いちばん腹が立ったのは橋本治さんの「上司は思いつきでものを言う」でした。あの本を買うぐらいなら、喫茶店でコーヒーを飲んだ方がどれだけ幸せな時間を過ごせたかわかりません。過去に名声のある作家は才能が枯渇しても思いつきで本を出すことが許されるんだ、と思いました。しかしながら、出版社にもコピーで騙して儲ければいい、という柳の下にドジョウ的な発想があるんじゃないだろうか。だから、出版は低迷しているんじゃないか、と思ったりもします。

ぼくは本が大好きで、本を読む時間が幸せだからこそあえて書きたいのですが、内容の薄い本を乱発しても出版社(あるいは作家)が損なだけです。いま、すばらしいブロガーがたくさんいるし、ブログを読んでいた方がずっとためになる。感動することも多い。プロの違いをみせてほしいものです。7月6日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(49/100冊+39/100本)

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活力のための補給。

どうでもいいことですが、R25の表紙、紙が変わったような気がしました。以前はコーティングされていた紙で、湿度が高かったりするとくるくる丸まってしまった。今週号は記念号のようですが、記念ということでこれから表紙の紙も変えるのでしょうか。なんとなく、もう少し硬かったら付録のトランプのような紙です。これはものすごく私見ですけれども。

風邪のため体調がすぐれず、ゆっくりと出社したのですが結局のところ、夜には10時過ぎまで仕事をしてしまいました。それでも体調はなぜかよい方向に向かいつつあるようです。ゆっくりと出社する途中で、これは体力を回復することも重要だが、知力などにも活力を補給した方がよいと考え、書店とCDショップに寄って、しこたま衝動買いをしてしまいました。

臨時収入があったということもあり、ヘッドホンの新調にはじまり浪費方面に傾倒しつあるのですが、今日はなんと本を7冊、雑誌2冊(PRIRと販促会議)、CDを3枚も買ってしまいました。さすがに買いすぎです。

ちなみに購入した本をリストアップすると次のような感じです。

1)「コーチングが人を活かす」鈴木義幸
2)「こころの格差社会」海原純子
3)「心脳コントロール社会」小森陽一
4)「寝ながら学べる構造主義」内田樹
5)「脳の中の人生」茂木健一郎
6)「ミーティングの英語表現」デイビッド・セイン/マーク・スプーン
7)「実務入門 改訂版よくわかるCSのすすめ方」武田哲男

仕事の本もありますが、最近の興味から脳関連の本が多いようです。ちなみにこんなに本を購入したきっかけとなったのは、恩師でもある小森陽一先生の「心脳コントロール」という本を発見したからでした。この本の表紙に書かれているのは「心脳マーケティング」という文字でした。小森先生がマーケティングを語る?と、ちょっと驚いた。と同時にこれは読まなくては、と思った。内容的にはどうやら政治的な話に持っていっているようなのですが、何か遠いシンクロナイズを感じて興味をひかれました。

購入したCDはこんな感じです。時間がなくて聴いていないのですが。

B000FZEZPQジ・イレイザー
トム・ヨーク
ベガーズ・ジャパン 2006-07-05

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レディオヘッドのトム・ヨークのソロ。ロックなんだけど、エレクトロニックな感じがして視聴して購入を決めました。ジャケットがジャバラっぽい。暗いですね。暗くて繊細です。でも、それが彼らしい世界なのでしょう。

B000FPWZJOCURRENTS
ショート・ストーリーズ
RALLYE 2006-06-24

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ショート・ストーリーズのカーレンツ(しばらくアーティスト名とアルバム名を逆にしていました)。これも視聴してよかったので購入。エレクトロニカなんだけど、ネオアコ的なギターが美しい。こういう音楽を創りたいです。最近の音楽ジャンルはぜんぜんわからないんですけど、フォークトロニカってあるんですか。打ち込みのポップスとネオアコが融合したような音楽をやりたいと思いました。

B000FGGEUYEl Sonido Efervescent De
La Casa Azul
Elefant 2006-06-19

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LA CASA AZUL。輸入版です。またまた視聴してよかったから購入したのですが、店頭の推薦文にも書いてあった通り、これはフリッパーズ・ギターです。思わず聴いていて、わははははと笑っちゃいました。さらにバリエーションがぜんぜんなくて、ほとんどの曲がフリッパーズ・ギターの一枚目のアルバムっぽいところがよい。しかし、これだけ聴いていると能天気すぎて疲れそう。なんか苦笑という感じのアルバムです。

と、やはり本と音楽のことを書いてみたところ、元気が出てきたようです。仕事も大事ですが、ときには仕事を忘れてぶらりと街や店を彷徨ってみると、それがかえって仕事のためになったりする。スポーツだったりもするだろうし、音楽だったりもする。けれども自分の好きなことであれば、何でもよいような気がします。活力のための補給は大切です。休息ではなくて補給。枯れたままにならないように、メーターを確認しつつ。

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2006年7月 5日

「武満徹―Visions in Time」武満徹

▼Books06-048:円環のように、音を視るように。

4872951026武満徹―Visions in Time
エスクアイア マガジン ジャパン 2006-04-13

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静かな庭園を散歩するように、ゆっくりと読み進めました。クレーの絵や、ジョン・ケージなどの文化的な知人はもちろん家族の写真や、円形の不思議な楽譜や、そんなビジュアルとともに武満徹さんの短い文章が抜粋されて掲載されていて、その言葉の透明な感じに打たれます。何度も引用してあからさまに影響を受けすぎてお恥ずかしいのですが、glasshouseさんのブログで紹介されていて、そのときにはどういうわけかCDだと思っていたのですが、本屋でみかけて、Visions in Timeは本だったのか、と勝手に驚きつつ購入した本でした。

大江健三郎さんや谷川俊太郎さんとも関係があり、なんとなくぼくの好きなものが円環でつながっていく感じがする。西洋人の直線的な時間感に対して、円環のイメージを解く「時の円環」という文章が気に入っていて、そういえば昨日は螺旋について書いたような気もするのですが、サークルというカタチから発想するものについては、また何か書いてみたい気がしています。デイビッド・シルビアンの追悼文が静かに心に染みました。いつか武満さんの音楽をきちんと聴いてみたいものです。7月5日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(48/100冊+39/100本)

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音の居心地。

パソコンで音楽を創るとき、ぼくはたいてい深夜の作業になります。みんなが寝静まったあとで、ヘッドホンで聴きながら創る。そんなわけでヘッドホンは必須アイテムです。いままで使っていたヘッドホンはSONYのMDR-Z700という密閉型のやつで、結構気に入っていました。なんとなく外見もかっこいいし、音もソニーらしい硬めのきれいな音がする。クリアで音が際立って聴こえる。

こんなヘッドホンです。

MDR-Z700DJ.jpg

ところが、さすがに5年ぐらい使いつづけていると壊れはじめてきて、スピーカーを留めてある部分がプラスチックなのですが、風化したのか、ぼろぼろになって割れてしまった。惜しいのでガムテープで巻いたり、針金で補強したりして使っていたのですが、聴いているうちにばきっと割れてプラスチックが頭に刺さってそれはもう痛いので、そろそろ買い換えようと思っていました。痛いことが刺激になってよい音楽ができればいいのですが、なんとなくオイタをした孫悟空というか、イバラの冠を被っている救世主というか、そんな感じだったので、とうとう買い換えを決意したわけです。

使い慣れたMDR-Z700の2代目にしようかどうしようか迷ったのですが、ついつい浮気心が生じてしまい、パイオニアのHDJ-1000にしました。これです。

00000563.jpg

似ているといえば似ているんですけどね。

店頭で試しに聴いてから買えばよかったのですが、なんだか風邪ということもあり判断力が鈍っていて、いいや、という感じで衝動的に買ってしまった。しかし一応チョイスの理由は考えていて「耐久性に優れる素材」と書いてあったからです。できれば長期的に使いたいので、プラスチックの部分が壊れてしまうと困る。長持ちすればいい、と。

ところが、家に帰ってきて聴いてみてびっくりしました。ヘッドホンが違うというだけで、こんなに音が違うとは。

たぶん音圧的にはすぐれていて、低音はずしんときて、高音はしゃりという感じで若干余韻まで長く残りがちな印象なんですが、ぼくの本音を言わせていただけば、ソニーの方がよかった(泣)。たぶんこのヘッドホンを好きなひとはいると思います。でも、ぼくが求めている音ではない気がする。

それでもよいところをみつけて好きになろうと努力しているのですが、なかなか困ったものです。どうも居心地が悪い。もちろんメーカーも違うのですが、ヘッドホンが違うだけで、こんなに音の居心地が違うものなのか、ヘッドホンにも個性があるんだ、と驚きました。ということは、ダウンロードして聴いているみなさんはすべて環境が違うわけで、ぼくが意図しないような聴こえ方をしているのかもしれない。いったい、何が正しいのだろうと不安になりました。音響専門の方であれば、ニュートラルな音というのがわかるのかもしれませんが。

そもそも店員さんが箱を運んできたときに若干がっかりしたんですよね。ソニーのMDR-Z700は箱もかっこいい(いまだにとってあるぐらいです)黒いダンボール系の箱に入っていました。ところが、パイオニアの方は透明なプラスチックの容器に入っていて、なんだか安っぽかった(こっちの方が価格的には高いのに)。ついでに、このパイオニアのHDJ-1000は密閉率が高くて、暑いです。集中できそうな気がするのですが、夏はツライ。

それでもせっかく購入したヘッドホンなので、文句ばかり言っていないで、仲良くやっていこうと思います。

さて、世のなかでは北朝鮮からミサイルが打ち込まれて大変なことになっています。ミサイルを開発する力を何か別のことに使えばいいのに、と思うのですが。密閉型だけど暑くないヘッドホンの開発とか。なわけないか。

+++++

■ソニーMDR-Z700のサイト。
http://www.ecat.sony.co.jp/headphone/product.cfm?PD=826&KM=MDR-Z700DJ

■パイオニアHDJ-1000のサイト。これはDJ用のものだったのでしょうか。騒がしいフロアでもモニターできるように、密閉されているし、音もぶんぶんしゃりしゃり派手なのかもしれない。しかし、静かな家のなかで聴くのはどうでしょう。
http://www3.pioneer.co.jp/product/product_info.php?product_no=00000064&cate_cd=050&option_no=0

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2006年7月 4日

螺旋状の上達。

文章が上手くなりたいと思っています。以前から文章読本のたぐいを読み漁ったりしているのですが、なかなかこれはという文章を書くことができません。やはりノウハウをどれだけ勉強しても身につかないところがある。文章を上達させるためには、ひとつにはたくさんの名文を読み、気に入った作家をみつけて、その作家の文体を徹底的に模倣することがいちばんかもしれません。あるいは、とにかく文章を書く。下手であろうが恥ずかしかろうが、書いて書いて書きまくる。まず書くことが好きという前提が必要ですが、上達したいと思っていても努力も実践もなければ、進歩というものはあり得ないのかもしれません。

かといって書き殴っていれば上達するかというとそんなこともなく、短い文章であっても、何かを真剣に考えたり感じ取ったりする文章は光るものがある。結局のところ仕事にしても文章にしても、あるいは音楽にしても、最終的には人間性なのかな、と思ったりもするのですが、そうするともはやテクニックの問題ではなく、余計に途方に暮れてしまいます。

文章で飯を食う、あるいはデザインで飯を食っているひと、金儲けのためだけではないけれども自分の好きなことに価値を付加できて結果として収入を得られるようなひとのことを、あらためて尊敬します。企業に属してくだらない同質化のために無駄な力を使ったり、ポジションを一日でも延命するために居座るような努力をしているよりも、自分の力で道を切り拓いているひとの方がどれだけ素晴らしいことか。孤高であっても、自分を磨くことに力を費やしているひとでありたい。それは陳腐かもしれないけれど、たとえばイチローのように。

「安全な場所にいてモノを言うひとがいちばん腹が立つ」という言葉を今日ちらりと耳にしたのですが、なるほどなと思った。結局のところ周囲を見渡してみると批評家か自分では何もしないひとばかりで、ほんとうに覚悟を決めて取り組んでいるのだろうかと思う。傍観者的に批判をしたり自分や他人を解説するのではなく、まっすぐやりたいことに取り組んでいたい。

ほぼ毎日に近い頻度でブログを継続して更新しているのですが、この積み重ねはぼくには無駄ではなく、途方もない助走の試みであるように感じています。ネガティブな思考に陥ることもあったけれど、そのことも決して無駄になっていない。稚拙であっても、そんな道草をすることによって、どこへ向おうとしているのかをはっきりと見定めたような気がします。転んでもまた立ち上がればいいだけであって、走るのを辞めてしまわなければ、どこかへゴールできるものです。

ちょっと今日はお酒を飲んでしまい、頭が働かないのでこの辺にしておきますが(というか、いつもお酒を飲んでいるような気もするのですが)、このブログは3時間も考え込まなければ書けない時期もあったのですが、いまぼくはほとんど30分から1時間の間で書き上げています。もちろん内容がないから早いということもあるのだけど、思考の速度でブログを書けるようにしていきたい。そして、ブログはブログで内容的にも向上させていきたいと考えています。「内容的に向上」というのは、あまりにも曖昧すぎるのですが、一日のなかで何か光るような発想をみつけたい。当たり前の何気ない生活のなかで、ちょっとしたきらめきのようなものをみつけられたらいいと思う。

それは自分のための何かでかまわないと思っています。誰かに評価されるために書いているのでもないし、無理やり気の利いたことを探さなくてもいい。書けないときはお休みにするし、書きたいときはそれこそものすごい長文を書くかもしれない。気持ちのバランスを崩したときはとんでもない暴言をするかもしれないし、ものすごくプライベートな誰にも理解できないことを突如としてカミングアウトするかもしれない。ぐるぐる同じ話題をめぐっていることもあるだろうし、突拍子もないことに首を突っ込むかもしれない。まあ、仕事もそんな風に自由にすることができればいいんだけど。

そうやって書きながら、螺旋状に上昇していけばいいんじゃないかと思っています。だだっ広い野原で、ぶんと投げたペーパークラフトの飛行機が、青空に吸い込まれていくように。そんな感じで書きつづけていたいものです。

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2006年7月 3日

「今すぐ使える!コーチング」播摩早苗

▼book06-047:ポータブル・スキルを獲得するために。

4569652417今すぐ使える!コーチング (PHPビジネス新書)
PHP研究所 2006-06

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コーチングにしてもファシリテーションにしても、どこか眉唾なものを感じてしまうのは、ぼくの根っからの偏見のせいで、というのも体系的な理論になっていないところに疑問を抱いてしまうことに原因があるような気がします。心理学的な裏づけもなく、会話のパターンだけが掲載されているような本を読んでいると、途中で読み進める気が失せてしまう。もちろん著者は抽象論より具体的な会話の方がわかりやすいと考えたのかもしれませんが、逆効果です。

しかしながら、この本に関していえば、非常によくまとまっていると思いました。例として挙げている会話も、その意図がきちんと伝わります。理論の体系化については、まだなんとなくすっきりしないものもあるのですが、指摘されているスキルには頷けるところが多いし、最近のビジネスが抱えている課題についても深い洞察があると思いました。コーチングとは「受け入れる力」であり、批判や偏見を排除して、ただそのひとの言葉を「聞く」のではなくて「聴く」。さらにそのひとのなかに「答えがある」ことを信じて、持論へ誘導したり仮説を押し付けたりするものではないという考え方に、ものすごく大切なことを教えられた気がしました。

かつてマニュアルが重視された時代があり、就職活動(いまは就活と短縮するんでしょうか)のマニュアルが爆発的に売れたりもしましたが、現在ではマニュアル通りにやっても成功するとは限らない時代です。ある本を読んでいて深く共感したのですが、その会社ではナレッジマネジメントという名のもとに過去の企画書を共有しようとしたそうですが、企画書を使いまわすことによって逆に創造性がガクッと低下したらしい。創造性と効率化は、ときに相反するようです。

とはいえ、「いまここ」だけで通用するスキルではなく、会社という枠がなくなっても通用するスキルを求めているわけで、もっと究極のことを言ってしまえば、仕事にも子育てにも趣味にも使える方法論をぼくは模索している。それは企画書のフォーマットをリサイクルして使いまわすこととは異なっていて、方法論は同じだとしても常に考えつづけなければならず、まったく異なった正解をみつけるということです。そんな究極のポータブル・スキルを習得するためのヒントが、この本のなかにあったような気がしています。7月3日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(47/100冊+39/100本)

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書くことの喜び。

昨日、集中してパソコンに向って文章を書きました。たかが8,349文字、400字詰め原稿用紙に換算して20枚ぐらいの文章を書いたのだけれど、なんだか久し振りに「もの」を書いたという気がした。充実した気持ちになりました。ただ書けばよいというものではなくて、文章には品質が問われます。品質についてはいまは触れないでおくのですが、書けたっ!という爽快感は書いてみないことには味わえません。それはもう、書けたっ!以外の何ものでもない。

ちなみに書いたのはブログではありません。考えてみるとブログでものすごい量の文章を書いているのですが、どうしても、ブログでは何かを書いているという気分にはならない。これはどうしてでしょう。話し言葉の延長線上にあるからでしょうか。

6月のぼくのブログの文字量を調べてみました。記号や日付やいただいたコメントも含むのですが、87,163文字というところです。先月は2日書かなかったので28日間であり、日で割ってみると1日3,112文字。およそ400字詰め原稿用紙に換算して8枚弱。なんということだ。こんなに書いていたとは。

もしかするとこれは月に218枚ってことでしょうか。リセットして書き始めたのは去年の11月なので8ヶ月をかけると・・・頭がクラクラしました。半年あまりの時間が経過していて、その情熱を別の何かに傾ければ、もっと立派な人物になれたかもしれないのに。人物形成にも不安を感じつつ、さらに突如として別の不安に襲われたのですが、はてなって容量制限なかったんでしたっけ。まあいいや。

あらためて書くまでもなく(けれども書いてしまうのですが)、ぼくは書くことが好きなんだと思います。いまに始まったことではなく、現存する古いカラー写真のなかの一枚に、たぶん2歳ぐらいのぼくが子供用の椅子の上に紙を置いて、なにやらしかめ面をしながら書いているシーンがありました。午後の日差しが差し込んでいて、椅子の横にはブリキのロボットの玩具がある。写真が趣味だった父が写したものらしく、構図が決まっている(きっと何度か位置を修正したに違いない)。絵なのか、文字なのか、その写真からぼくが書いているものを読み取ることはできないけれど、要するに三つ子のタマシイ百までも、です。

ところで、1日にブログで原稿用紙8枚ぐらい書けるのであれば、20枚ぐらいどうってことないだろうと思うのですが、そうはいかないもので、1/3はぜったいに書けないと思っていました。もう目の前に白い画面が広がるばかりで、ギブアップしようかと思った。ところが、書けるところから書き始めると、まるでぼろぼろと壁が崩れていくように目の前に文章が広がっていくもので、夢中になって気が付くとそれなりに埋まっていました。

そのあと夜中に書いたものをじーこじーこプリントアウトしたのですが、印刷された原稿に赤を入れる推敲の作業もまたよいものです。ブログでは校正などしたこともないので(だから誤字脱字が多いのですが)、楽しくて仕方なかった。一度真っ赤になってしまったので、テキストを打ち直して、また出力して赤を入れたら朝になっていました。

さすがに頭が痛んだのですが、そんなに根を詰めなくてもいいから、気ままにゆるゆると文章を書きつづけていたいものです。

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2006年7月 2日

ランド・オブ・プレンティ

▽cinema06-039:正しさがいくつもある社会がどこへ向うか。

B000EPFPBUランド・オブ・プレンティ スペシャル・エディション [DVD]
ヴィム・ヴェンダース
アスミック 2006-05-12

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静かな、よい映画でした。久し振りに泣けた。9・11から2年後のアメリカ、ベトナム戦争の後遺症を抱えているポールはひとりでテロを発見し、アメリカを守ろうとしています。そこに、姪であるラナが10年ぶりにもう他界してしまった母(ポールにとっては妹)の手紙を届けようとやってくる。ポールは戦争の余韻とテロに対する憎しみから、世界のすべてをテロ的な視点から眺めているのだけど、ラナとの交流のなかで閉ざされていた心が開いていく。もちろん開いていく過程には、混乱して泥酔してぼろぼろになったりもするのだけど。

憎しみというフィルターで世界を眺めると、どんなに平和な光景もテロのための何かに見えてくる。洗剤のダンボールに執拗にこだわり、それがテロのための化学兵器を作るための準備だと妄想を広げて、ものすごい装備で偵察をするポールは滑稽ですらあるのですが、ひとつの感情でしか世界をとらえられなくなったとき、心にはブラインドが落ちてポールのようになりかねないと思いました。

映像的にもすばらしい。夕焼けの色など感動的です。それでいて美しいだけではない。アメリカの貧困であるとか、病んでいる部分も映し出している。9・11のときにイスラエルでは喝采があがった、どうしようもないけれどそれが普通のひとたちだ、というエピソードも語られるのですが、戦争というのも正しさがいくつもあるから生じるわけで、ある国家の正義は別の国家の悪でもある。けれどもそういう社会においても、人間であることの優しさであるとか、救われる方法というのはきっとあるような気がしました。

ヴィム・ヴェンダース監督の解説では、この映画が批判的であることを認めながらも、家族の物語を描くことでアメリカの正しさとは何かを問いただそうとしたこと、そして批判は愛情がなければできない、というようなことを語られていて共感しました。7月2日鑑賞。

公式サイト
http://landofplenty.jp/

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(46/100冊+39/100本)

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ザスーラ

▽cinema06-038:仮想よりもリアルなゲーム。

B000EDWVO6ザスーラ [DVD]
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2006-04-16

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家族でみたのですが、長男のツボにはまったらしく立ち上がって興奮して観ていました。それどころか、二度も観ようとしたのでさすがにぼくの方がうんざりしてしまったのですが、なんとなくわかるような気がする。たぶん、9歳ぐらいの少年にとって、現実と仮想が境界なく入り混じるような物語にものすごく惹かれるのでしょう。NHKの少年ドラマシリーズなどというものが遠い昔にありましたが、それに近い感じでしょうか。

兄と弟、そして年齢の離れたお姉さんがいる家族ですが、兄弟げんかしているうちに弟が地下で「ザスーラ」というゲームをみつけてしまう。これは宇宙を舞台にしたボードゲームというかスゴロクのようなもので、ネジを巻くと駒が動いてカードが出てくる。しかしながら、そのカードに書かれていることが実際に起こってしまうわけです。流星雨が発生、というと、ちいさな隕石が降り注いでリビングにぼこぼこの穴が空いてしまう。ロボットが故障、というとロボットが出てきて襲ってくる。宇宙飛行士が登場したり、いきなりワニのような異星人に攻撃されたり、さんざんなことになる。この玩具のスゴロクに運命が託されていてゴールしないと、地球には戻れないわけです。

エンターテイメントの背景に、兄弟の対立と和解というテーマもあるのですが、そのあたりのテーマを息子が理解していたかどうかは不明です。ちょっと恥ずかしいかも。この作品を面白がるとすると、スパイキッズあたりもいけそうだろうか。最近、息子といっしょに観る映画鑑賞にはまりつつあります。7月2日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(46/100冊+38/100本)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

記憶を想起させる感覚。

夏の夕暮れ、あるいは夜には独特の匂いがあるようで、近所を散歩しただけでもそんな匂いを感じることがあります。それは焼き鳥の匂いであったり、蚊取り線香の懐かしさであったり、湯上りの石鹸のようなふんわりと漂う空気だったりするのだけれど、爽やかさとは正反対に湿度の高い重い空気がまとわりついてくる。汗をかいたTシャツが肌にぴったりと重なって気持ち悪くもあるのだけれど、そんな夏の夜が好きだったりもします。


小田急線の新宿地下ホームの匂いが好き、といったのは息子(長男)で、なんだかすーっとする匂いがするらしい。ぼくは駅で降りるたびに彼の言葉を思い出して空気を思い切り吸い込んでみるのだけど、いまだにそのすーっとする感じを味わえないでいる。きっとこれからも味わえそうにありません。それは地方で生れたぼくに対して、東京生れの子供だからこそ感じられる何かなのかもしれないけれど、あるいは東京に出てきたばかりのぼくはその匂いを感じていたのかもしれない、とも思ったりして。

嗅覚というのは、視覚や聴覚に比べると、それほど重視されていないようにも思うのですが、大切な感覚のひとつです。武満徹さんの「Visions of Time」という本は、次のような言葉の引用から始められています(P.4 )。

人間は、目と耳とがほぼ同じ位置にあります。これは決して偶然ではなく、もし神というものがあるとすれば、神がそのように造ったんです。目と耳。フランシス・ポンジュの言葉に、「目と耳のこの狭い隔たりのなかに世界のすべてがある。」という言葉がありますが、音を聴くとき--たぶん私は視覚的な人間だからでしょうか--視覚がいつも伴ってきます。そしてまた、眼で見た場合、それが聴感に作用する。しかもそれは別々のことではなく、常に互いに相乗してイマジネーションを活力あるものにしていると思うのです。

鼻と口が近い場所にあるのも、また食という行為に近い機能が集まっているのかもしれない、などと考えました。

さて。今日、仲人をしていただいたかつての職場の部長から電話をいただきました。いまは退職されて、畑を耕したり本を読むような日々を送っているそうです。絵も描かれているらしい。ときどき退屈もする、とのこと。電話の声を聴きながら、穏やかな顔を思い出しました。穏やかであることがいちばんいいと思います。穏やかでありたい。

思いのほか体調がすぐれずに、寝たり起きたりの一日だったのですが、こういうときだからこそ波長が合う何かというものもあるようです。元気なときには感じ取れない何かを捉えつつあるような気がします。

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