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2006年7月28日
身体の言葉に耳を傾ける。
とんでもないモノモライに悩まされたかと思うと、今週は背中が痛くなり、もう夜中に寝返りを打つことさえままならず、寝ているどころではないぐらいに痛んで困ったのですが、結石らしき痛みとはまた違っていて、背中にある翼のあたり(翼というのは比喩で、なんという骨でしたっけ。忘れました)が、すごく痛む。たぶんストレスだとか、不摂生だとか、そうしたものがここへきて一気に痛みとなって顕在化しているのだと思います。しかしながら、身体が痛むときに限って精神的にはかなりハイだったりするのも困りものです。翼のあたりの筋肉が痛むのは、とべない自分に対する身体的な肉離れの状態かとも思ったりするのですが、のんきなことを言っていないで医者に行け、ということが正しいような気もしています。
背中の痛みに悩まされていたら、いま読んでいる内田樹さんの本「態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い」に、三軸修正法という接骨医の池上先生の話が書いてあり、これも「偶然の符合」かもしれないと思って、興味深く読みました。ここで書かれているのは、三軸修正法と構造主義の共通点なのだけど、内田さんが思想的な見解から解釈するところが非常に面白かった。三軸修正法では、「アラインメント」(alignment)と言う言葉がキーワードのひとつにあり、それは「直線にすること、整除すること、提携・連合」という意味だそうです。そうして、それを次のように解釈されているところです(P.113)。
だが、「アラインメント」にはもう一つ語義がある。 それは「ネットワークの中での自己の位置づけ」という意味である。 私たちの身体の歪みや不調は、単なる局所的な疲労や損傷ではなく、ある「ネットワーク」の中で、適性な「ポジション」にないことによってもたらされることもある。いわば「記号としての病」である。
これはぼくの見解ですが、われわれの身体をテクスト(=さまざまな文脈が絡まって構成された織り物)としてとらえると、縦糸の整合性は取れていたとしても、横糸に「歪み」があることも考えられます。精神的には良好だったとしても、身体に思いも寄らないしわ寄せが出てきてしまっていることがある。あるいは逆も考えられます。身体的には健康であっても、精神に歪みが生じることもある。もちろん身体的にも、外科的には良好でも内科的に歪んでいる、なども考えられるかもしれません。ぼくは医学についてはまったくのシロウトなのでわからないのですが、部分ではなく「全体思考」によって身体全体の在り方を判断しなければならないような気がしています。
つまりぼくの背中の痛みは、単純に寝違えた筋肉痛かもしれないのですが、精神的に飛躍ができないとべない痛みが記号的にぼくの背中を刺激していると読み取ることもできるだろうし、背後に気をつけろ、というゴルゴ13的な暗喩かもしれない。オレの背後に立つな、という台詞があったかもしれないのですが、ぼくの足元をすくおうとしている何か不穏な動きがあって、それがぼくの背中に警戒を発しているのかもしれないわけです。まあ、あまりそんなことを思い詰めると被害妄想に発展しそうなので、これぐらいにしておきますが、身体のシグナルに耳を傾けることも大事かもしれません。
それは、身体をコーチングする、ということかもしれない。偏見や前提条件を排除して、身体の発している言葉をありのままにとらえること。仕事などに集中していると、そうした声を聞き逃して、まだ頑張んなきゃ、もっと頑張んなきゃと過度に負荷をかけることで、気づいたときにはどうしようもなく身体がぼろぼろになっていることもあります。そうならないためには、他者の言葉はもちろん、自分の身体の言葉にも耳を傾けるようにしておきたい。
聴くこと、というのは予想以上に深いな、と思いました。とかなんとか言っていないで、医者に行け、ということだと思うのですが、身体論はなかなか面白いものがあります。内田樹さんの本でさらに面白かったのは、肉声と倍音についての考察だったのですが、背中も痛むので今日はこの辺にしておいて、またいつか。
さて、今夜は家族そろってテレビで「となりのトトロ」をみました。宮崎さんの描く世界はいいですね。夕焼けの空、空を背景にした木々の暗い陰影がよいと思いました。あと、ゲド戦記の挿入歌がいいなあ。歌声の背後に流れるふわーっとした浮遊感のあるパッド系のシンセ(ストリングス)の音が素敵です。
投稿者 birdwing : 2006年7月28日 00:00
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