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2009年11月29日

色に音を聴く、ことばを探す。

ふと立ち寄ったちいさな公園に金色の銀杏の樹がありました。そこだけが輝いてみえる佇まい。しばし樹木の相貌に見惚れてしまいました。空は青い。雲はない。静けさのなかに子供の遊ぶ声だけが聞こえています。時折、はらりと樹木から金色が剥がれて地面に落ちてゆく。地面には剥がれた金色が絨毯のように敷き詰められていました。秋の純度が高まったような、そんな風景でした。

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この風景に似合う音は何だろう。

公園を横切りながら、そんなことを考えました。透き通ったグラスハープのようなはかない減衰音。あるいは古典派クラシックによる弦のしらべ。しかし、どうしてもアタマで考えているとイメージが陳腐になります。枠に嵌められたイメージに偏りがちになる。もっと直感的に、風景を音に、あるいはことばに翻訳できるといいのですが。どうしても現前の風景を通俗の枠組み(紅葉、わびしさ、美しさなど)に入れて考えてしまう。

表現者であるために大切なことは何でしょう。ステレオタイプの表現から脱して、眼前の風景をことばや音にできることもそのひとつだとおもうのですが、難しい。新しい表現を創造しようとしても、どうしても既存の感覚に絡め取られてしまう。ことばにすることで、はらはらと零れ落ちてしまう何かがたくさんあります。写生をするように感情を排して風景を描くのもひとつの手法です。ところが、感情を込めようとすると別の困難な壁に立ち向かうことになります。

さて、最相葉月さんの「絶対音感」という本を読み終わりました。

4101482233絶対音感 (新潮文庫)
新潮社 2006-04

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最近関心のある共感覚にもかかわりがある本でした。音と色彩の関連についても言及されています。

以前、久石譲さんと養老猛司さんの「耳で考える」という本からオリヴィエ・メシアンという作曲家が絶対音感と共感覚を持っていたことが書かれていてブログに引用しましたが、「耳で考える」の本ではさわりに過ぎなかったオリヴィエ・メシアンのことが、「絶対音感」にはやや詳しく書かれていました。次のように色彩イメージを持っていたそうです。最相葉月さんが取材したシンセサイザーの元祖といわれるオンド・マルトノの奏者、原田節さんの発言から引用です(P.41)。

ただ、フランスの作曲家のオリヴィエ・メシアンはもっと複雑な色彩イメージを持っていたといわれています。たとえば、『神の降在の三つの小礼拝楽』の楽譜の解説によれば、ド・レ♭・ミ♭・ミ・ファ♯・ソ・ラ・シ♭の音程配列(旋法)ではバイオレット、ド・レ・ミ♭・ミ・ファ♯・ソ・ラ♭・シ♭・シの音程配列ではグレーの奥から金が反射してきて、オレンジ色の粒が散らばって、そこに黄金色に輝いている濃い目のクリーム色が・・・・・・などといろんな色が見えたようです。

音に色彩がみえる。この特殊な感覚は、ぼくにはまったく想像できません。色彩から音へ、という逆の方向が可能かどうかわかりませんが、オリヴィエ・メシアンが銀杏の葉をみたとしたら、どのような音にしたでしょうか。ド・レ・ミ♭・ミ・ファ♯・ソ・ラ♭・シ♭・シの音程配列において「金が反射してきて」という視覚的イメージがあるのなら、この音程に近いメロディということも考えられます。

メルロ=ポンティは「知覚の現象学」で、「諸感官は、ものの構造にみずからを開くことによって、互いに交流しあう」と述べているとのこと(P.142)。視覚による色彩と聴覚による音程も交流し合うものがあるとすれば、音程によって色彩を表現することもできそうです。次のような実験によって、共通の色彩感を見出す試みもされたようです(P.143)。

京都市立芸術大学音楽部教授の大串健吾らは、一九九〇年(平成二)年に「音楽の調性感と色彩感」と題する調査を行っている。それによると、これまで個人差が大きいといわれていた色彩感が、ある程度の共通点を持っていることがわかってきた。
被験者は九割以上が絶対音感の持ち主で、彼らに最も共通していたのは、ハ長調=白だった。順に、ト長調=青、ニ短調・ホ長調=橙や黄色、イ長調=赤・・・・・・といった色彩イメージがあることもわかった。実際、イ長調にはショパンの『軍隊ポロネーズ』やベートーベンの『交響曲第七番』など華やかな明るいイメージの曲が多く、緑をイメージした人の多いヘ長調には、ベートーベンの『交響曲第六番・田園』や『バイオリンソナタ第五番・春』などがある。

銀杏の風景に戻って考えると、イチョウだけにイ長調かとおもうのですが(笑)、そうでもないようですね。一方で、次のような音の色彩感覚もあるようです(P.250)。

また、スクリャービンはハ長調は赤、ヘ長調は明るい青、変ホ長調は金属性の輝きをもった鋼色・・・・・・などと調に対して色彩のイメージを持っていたという記録が残っており、彼の創作活動に色彩は非常に重要な要素だったといわれている。これは絶対音感ゆえのカテゴリー化を思わせるものである。

絶対音感を持ち共感覚者である岩崎純一さんは、「音に色が見える世界」という著書で、音やことばから色彩を感じ取る能力について、古来の日本人の感覚に遡って検証されています。なるほどなあとおもったのは、日本語にはもともと「あか・あを・しろ・くろ」しかなかった、ということです。

4569771092音に色が見える世界 (PHP新書)
PHP研究所 2009-09-16

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以下、引用します(P.111)。

たとえば、「あか」。今の日本人が英語のredとほぼ同義で用いている赤の語は、実は「明か(あか)」「明け(あけ)」などと同源である。「あか」「あけ」は、redを意味するものではなく、上代においては、彩度と明度がともに高い状態を指した。したがって、現代日本語の赤や紅の色相だけでなく、黄という語で示される色相をも含み、他のほぼすべての色相にも及んでいた。すなわち、「光のある色」「明るい色」「輝く色」のこと、その程度の彩度と明度を持った様々な色相をすべて「あか」と呼んだのだ。

銀杏の写真を載せましたが、ぼくらが通常、赤というともみじの葉の色を指すとおもいます。つまり、こんな紅葉の風景でしょうか。

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しかし、古来の日本では、銀杏も、もみじも「あか」だったのかもしれません。確かに、輝くように明るい色の銀杏の葉は「明か(あか)」ということばを使っても間違っていない印象があります。音程的に長調が明るい、というのは後天的に刷り込まれた固定観念のようでもあり、短調でも抜けるような明るい和音があると感じています。どれが、と提示できないのがもどかしいのですが、弦楽四重奏曲を聴いていて、短調の曲がすべて暗いかというとそんなことはない。気分というより和音的に、すかっと抜けた音があります。

音と語と色彩のイメージを比較しましたが、共感覚者の岩崎純一さんは、五十音のそれぞれのひらがなやカタカナにも色がみえるそうです。これが凄い。著作のなかでは、このように紹介されています。

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よくみると、イチョウを構成していることばとして、イとチは黄色、ヨは灰色、ウは黒ですね。全体的に、イ行の音は黄色系のようにみえます。黒川伊保子さん的な解釈では、ア行の音、つまり口を大きく開いた音が身体的にも音的にも明るい色になるような気がしました。先鋭的なイ行の音も、ウ行やオ行のくぐもった音と比べると明るく発話できる/聞こえるのかもしれません。

なぜぼくは音と色彩、ことばと色彩などにこだわるのか。

最近、絶対音感や共感覚に関するテーマで本を探して読んできました。ぼくのアンテナがそちらの方面に向くのは、何より知的好奇心です。

個人的に、自分には絶対音感も共感覚もありません。だから、どんなに特殊な能力に関する本を読んでも完全に理解はできないし、ないものねだりの悔しさも感じる。絶対音感や共感覚を解釈しても、後付けの理屈ともいえるでしょう。

けれども好奇心を起点として、表現の可能性を追求してみたいとおもっています。五感それぞれを研ぎ澄ませること。また、研ぎ澄ませた五感を連携させること。そうすることによって、文章を書いたり音楽を作ったりするときに(最近では曲を作っていませんがDTMが趣味のぼくとしては)、自分のなかにあるなんとなくもやっとした感覚を適切に、リアルに、脳内にある質感をそのまま(つまりクオリアを)表現できないか、と夢想しました。

そのものズバリの風景を表現として切り取ることは無理だとしても、ある風景や感情を音や文章に「翻訳」したい。そんな尽きない欲望が自分のなかにあります。技術の問題ではなく、表現する身体に関わる問題かもしれません。あるいは、「死とは何か」「私とは何か」と考える哲学のように、永遠に答えに辿り着けないテーマのような気もします。

それでもぼくは銀杏の樹木をみるとき、煌くような樹木をことばにしたい。風景が奏でるオンガクがあれば聴いてみたい。そのためには、目で見る、耳で聴くという単一の方法だけでは難しい。五感をザッピング(テレビのリモコンのチャンネルを次々と変えること)したり、視覚×聴覚を交差させたり、西洋の哲学と日本古来の哲学を横断させたりする考え方や姿勢に、表現力を磨くための鍛錬があるのではないでしょうか。あるいは、音を視る、ことばに触れる、など、感覚を解放することにヒントがありそうです。

いま、デジタルカメラにおさめた銀杏の写真を眺めながら、静かに耳を澄ませています。残念ながら、ぼくのなかにある音叉はまだ共鳴しません。ふさわしい音楽も、そしてことばも聴こえてこないようです。

投稿者 birdwing : 2009年11月29日 22:38

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