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2010年8月 4日

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かいじゅうたちのいるところ

▼cinema10-07:子供のなかにある大人的な。

B002SSSUGSかいじゅうたちのいるところ Blu-ray&DVDセット(初回限定生産)
ワーナー・ホーム・ビデオ 2010-05-19

by G-Tools


「子供」と「大人」というカテゴリー(分類)があります。あのひとは大人/子供だね、と批評することもあります。しかし、どこまでが子供でどこからが大人なのでしょう。煙草を吸えるようになったから、ビールを飲めるようになったから。給料を稼ぐようになったから、童貞もしくは処女を喪失したから。子供を育てるようになったから、自己責任と他者の権利を尊重して落ち着いて社会を批判的に眺められるようになったから。新聞の経済面をよく読むようになったから、ひとりで喫茶店に入ってコーヒーをミルクと砂糖なしで飲めるようになったから・・・だから大人なのでしょうか。よくわかりません。

子供と大人はまったく別個である、とぼくにはおもえない。また、子供という薄い殻に守られた成長過程があって、その殻が割れると大人になるとも考えられない。ぱんぱかぱーん、今日からあなたは大人です!なんてことはない。うまくいえないのですが、子供と大人の境界は存在しないのでは?

考えられるとすれば、子供と大人という"パラメーター"があるのではないか、とおもうのです。つまり子供成分と大人成分の配合と組み合わせによって、大人的であったり子供的であったりする。けっして年齢ではない。外見でもない。行動の規範があるわけでもない。そのひとの"成分"の違いが子供と大人を分ける。それがぼくの子供・大人観です。

音楽用語に喩えると、EQ(イコライザー)のような感じでしょうか。EQは音質を調整する装置です。通常いくつかの上下に動かすスライダーがあり、そのスライダーによって高音や低音を強調したり減衰させたりします。同様に、成長にしたがって大人的な要素を上げたり子供的な要素を下げたりしながら、ぼくらは生きているのではないか。

大人になってわかりました。完璧な大人などいないと(笑)。大人にも子供的要素はあり、子供にも大人的要素があります。潜在的に種が蒔かれていた大人的要素が成長すると、子供たちは大人になる。そして、大人になっても子供的な要素が部分的に育たなかったひともいる。シニアが子供じみた動機から犯罪を起こすこともあれば、20歳の女性がしっかりとした社会的な洞察をもっていることもあります。みずみずしい若さを失わない老人もいれば、ティーンエイジャーなのに体力も気力も底をついたひともいます。

政治的や社会的という大義のもとに、いい年をした大人が顔を真っ赤にして子供じみた喧嘩をすることもあれば、子供たちも人間関係に深刻に悩み、社会を憂いたりするものです。経験値によってもたらされる年の功は否定できないものかもしれませんが、子供も大人もある意味、対等に、ひとりのにんげんとして、その時代と社会を生きています。

モーリス・センダックの有名な絵本を映像化した「かいじゅうたちのいるところ」は、子供の世界における大人的な葛藤を感じさせる作品です。

かいじゅうたちのいるところ

8歳の主人公マックス(マックス・レコーズ)は、わがままだけれど繊細な少年。離婚して父親がいない家庭で、恋と仕事に夢中な母親、友達ばかりを大切にする姉のふたりの家族から相手にされず、ついにオオカミの着ぐるみのまま家を飛び出します。

家出したマックスが小舟に乗って辿り着いたのは「かいじゅうたち」の島でした。彼は、かいじゅうたちに「王様」として迎えられます。ほんとうは王様などではなく、ちっぽけな子供なのだけれど、食べられてしまいそうになって、王様の振りをする。そして、かいじゅうたちをひとつにまとめて、みんながしあわせになれるように大きな提案をするのですが・・・。

かいじゅうたちは二頭身で、クマやヤギ、ニワトリのような姿ですが、その顔つきは「大人」です。破壊や「かいじゅうおどり」を楽しむ子供っぽさもある一方で、嫉妬や怒りなど、かいじゅうどうしの関係の難しさに悩んでいます。

特にかいじゅうのリーダー格であるキャロルは、友達を作って出て行ってしまったKWに激しく嫉妬し、怒りのために次々と周囲のものを破壊しようとします。このキャロルとKWの関係は、マックスのリアルな世界における離婚(母親と父親の関係)に通じるのではないかとおもいました。

キャロルとKWの壊れた関係を修復するために、マックスは王様として、いろいろなアイディアを練ります。そのひとつが「どろだんごによる戦争」。どろだんごをつくって雪合戦のようにぶつけ合って楽しむのですが、結局、怪我をするかいじゅうが出たり、気まずいことになってしまったり。「戦争(ごっこ)」が仲直りの方法だ、というマックスの発想は子供っぽいものです。複雑でアンバランスな大人の顔をした「かいじゅう」関係には通用しませんでした。そして、マックスは王様としての力を疑われてしまうようになります。

みんながしあわせになれること。幸福の最大化という「功利主義」的な考え方といえるでしょうか。しかし、かいじゅうたち個々の性格がぶつかり合った末、うまく噛み合ったように感じられた関係の歯車は、いつも最後にはぎこちなく破壊されます。KWがしあわせになることでキャロルは不機嫌になり、みんなでいっしょに暮らそうという提案をしたマックスが王様の部屋を作ろうとしたとき、キャロルは、みんなが等しく幸福になるはずだったのに、ひとりきりの部屋を作るのはおかしいんじゃないか?と疑問をぶつけます。彼には返すことばもありません。

不満のあまりに当り散らすキャロルは、トリのようなかいじゅうの羽をもぎとってしまう。このとき、キャロルの行き場のない怒りは、父親を失い、母親と姉にも冷たくされたマックスの憤りに重なります。残忍さが痛々しく響きました。トリさん(名前を失念)は、なくした片腕のかわりに義手(羽?)として木の枝を挿してあらわれます。羽を失ってもマックスを責めずに、木の枝の羽でマックスに優しく話しかけるトリさんは、かいじゅうたちのなかでは、いちばん大人だなあと感じました。

最後に素朴な感想を。

「これ、子供が観てわかるのかな?」が本音です。対象年齢とすれば小学校高学年から中学以上。しかし、描かれているかいじゅうたちの心理は、孤独や嫉妬など複雑に入り組んだ「大人」の感情です。だから子供であっても、大人的な感受性のある子供たちにしか理解されないのではないか。

ぼくは児童文学研究者でもないし、心理学者でもないからわからないのですが、かなり高度な「大人意識」がなければ、なぜキャロルがそんなに不機嫌なのか、みんなのしあわせとはどういうことか、わからないとおもうのです。

一方で、大人の観点からは理解しやすいのではないでしょうか。「かいじゅうたち」とは、戦争などの諍いを好み、退屈に飽きていつも不機嫌で、あるいは嫉妬や差別意識に苛まれている大人たちそのものなのだから。

この映画は大人向けのファンタジーと捉えたほうがいい。スパイク・ジョーンズ監督の映像は魅力的で、かいじゅうたちが森をどっかんどっかん破壊したり、重なり合って眠るシーンは子供たちには楽しいかもしれないのだけれど、かいじゅうたちの関係や心理の機微は、大人的素養の高い子供にしか理解されないような気がします。

が、しかし。ぼくら大人たちが考えるほど、子供たちは「子供」ではないのかもしれません。幼い彼らのなかに眠っている大人意識を目覚めさせる、そんな映画かもしれない。絵本が高い評価で読みつづけられていることも考慮すると、表面的な子供というかいじゅうの裏側でうごめいている、大人というかいじゅうを「目覚めさせる」絵本だからかもしれないですね。

■トレイラー

■公式サイト

http://wwws.warnerbros.co.jp/wherethewildthingsare/

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投稿者: birdwing 日時: 22:29 | | トラックバック (0)

2010年5月20日

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空気人形

▼cinema10-07:ゴミに埋もれた代用品のこころ、空気のゆくえ。

B0033BSJ88空気人形 [DVD]
バンダイビジュアル 2010-03-26

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「あなたは空っぽだ」といわれて深く傷付いたことがあります。自分の本質を突かれたような気がしました。鋭い言葉で貫かれた身体のどこかから、空気が抜けていくようでした。せいいっぱい頑張って維持していた張力がぱちんと弾けて、しゅうっと風船がしぼんでしまうように。

空まわり、空虚、空しさ。かなしみには痛みで満たされるものだけではなく、抜き型のようにこころに穴を空けて生きる力を損なうものもあるかもしれません。空気が吹き抜けるようなかなしみ。自分のなかみが噴出してしまうような。

「空気人形」は、こころを持ってしまったダッチワイフの物語です。

ファミリーレストランで働いている冴えない中年の秀雄(板尾創路さん)は、古びたアパートに住み、ダッチワイフ(ラブ・ドール)に話しかけて、人形を抱くことでさびしさを紛らわせています。ところが、ある日、空気人形の「のぞみ(ぺ・ドゥナさん)」はこころを持ってしまう。部屋から抜け出して、老人やさびしい受付嬢や子供など、さまざまなひとに出会いながら、やがてDVDレンタルショップでアルバイトをするようになるのですが・・・。

監督は、是枝裕和監督。彼の監督作品としては、シングルマザーに置き去りにされた子供たちのサバイバルを描いた「誰も知らない」に衝撃を受けました。是枝監督は、雑然としたゴミに埋もれた世界、猥雑なものと美しいものを同時に描くことのできる監督ではないでしょうか。ゴミのなかに美しさを見出せるひとです。原作は業田良家さんの「ゴーダ哲学堂 空気人形」。懐かしく感じました。彼のマンガをすごーく昔に読んだっけ。

ダッチワイフは、男性が性欲処理のために使うオトナの玩具です。空気を入れて膨らませるタイプが多いようですが、高級なものになるとシリコンで作られ人間そっくりらしい。そういえば去年知人に教えてもらったのですが、バジリコという出版社から「南極一号伝説」というダッチワイフに関する本が出ていて、これがものすごく面白いとか。

南極1号伝説 ダッチワイフからラブドールまで-特殊用途愛玩人形の戦後史

もはや"代用品"とはいえないのかもしれません。オーナーは人形としての"彼女"を愛しているのでしょう。ラブ・ドールの高級品は一体数百万もするそうですが、コレクターは何体も収集するようです。

人形がこころを持つ、そして人間に憧れる、人間になる、という物語のルーツは「ピノキオ」なのかもしれません。このテーマはさまざまにカタチを変えたストーリーとして変奏されています。たとえば手塚治虫さんの「どろろ」も妖怪から人間になるための物語といえます。また、アンドロイド、ヒューマノイドからこころを持った人間へ、という領域に話を広げると「A.I.」や「アンドリュー NDR114」などの映画もありました。

A.I. [DVD] アンドリューNDR114 [DVD]

が、「空気人形」の物語世界における醍醐味はSFではない、日常の雑然とした風景に溶け込むリアリティではないかと考えます。

人形からこころを持った人間に変わるシーン、ぺ・ドゥナの裸体がとても美しく感じました。雑然としたアパートの部屋から窓辺で雨の滴を手ですくうシーン、全裸の後姿が女性らしい。この女優どんな経歴なのかな、と調べてびっくりしました。「グエムル 漢江の怪物」に出ていた女性なんですね。たどたどしい日本語、ぎこちない動きが人形らしさを感じさせていい。あまりの脱ぎっぷりのよさにどぎまぎしましたが。

「空気人形」では、人形がこころを持つという不条理さを当たり前のように描き、登場人物たちも当たり前の日常として受け入れます。

性欲処理として扱われていた人形が、こころを持ってレンタルショップの店員に恋をする、さまざまな映画に興味を惹かれる、化粧をしたり毎日を楽しむようになるという流れは、妻=ワイフ(つまりはダッチ・ワイフなので当然なのですが)のメタファであると考えました。性欲処理を含めた日々のルーティンに飽きて「こころを失った」妻が、不倫などによって自分を取り戻して生き生きとする、という。

痛烈なアイロニーは後半に進むにしたがって、多様に、しかも深く展開されていきます。さまざまなディティールが絡み合い、是枝裕和監督はうまいなあと考えさせられました。

人物像を織り成すさまざまな登場人物のひとりとして、オールドミスの孤独な受付嬢が登場します。とある会社の受付で、彼女は若い派遣の女性の隣りで居心地悪く座っている。訪問者が話しかけるのは彼女ではなく、若くてかわいい受付嬢ばかり。昼休みは公園でひとり弁当を食べ、自分で自分に向けて携帯で話をして空しさに耐えている。

空気人形であるのぞみには、身体の脇にビニールを貼りあわせたのりしろの線があります。受付嬢のストッキングが伝線しているのをみて、空虚なこころを持て余している彼女のことを、のぞみは自分と同じ人形であると勘違いします。化粧を覚えたとき自分の身体にある線を消してもらってうれしかったので、ストッキングが伝線している受付嬢に、これでビニールを貼りあわせた線が消えますよ、と笑顔で化粧品を差し出す。細かい演出ですが、いいなあとおもいました。

もはや若くはない派遣の受付嬢には、代用となる人材はいくらでもいます。秀雄もファミリーレストランの料理人から、「おまえの代理なんて、いくらでもいるんだよ!」と叱責される。こころがあったとしてもダッチワイフと同じように、空虚な「代用品」でしかない。

"人形は燃えないゴミ、人間は燃えるゴミ"であり、結局は、こころがあっても生きていてもゴミにすぎない、という残酷な現実。このテーマは後半で研ぎ澄まされていきます。代用品として愛されること、それは他者の妄想に生きることであり、自分の人生を生きていない。しかし、代用品だから(人形だから)重苦しい葛藤もなく、気ままに付き合うことができる。

ファンには激怒されそうですが、歌声をAuto-Tuneで加工して個性を払拭したPerfumeのボーカルは、アンドロイド=ラブ・ドール的ではないかと考えました。アイドルは「お人形みたい」とよく言われますが、理想的な恋人の代用でもあり、遠くにいて会話が成り立たないからこそ安心して愛でることができます。また、どこか存在をフィギュア化しています。

ところが、意思を持ち始めた途端に人形たちは拒絶されてしまう。「空気人形」の映画で、新しい人形を買った秀雄に対してのぞみが抗議すると「こういうのが嫌なんや。もとに(もとの人形に)戻ってくれへんかな」のようなことを秀雄は言います。勝手だけれど、ぐちゃぐちゃな面倒がなくて一方的に話しかけるだけで都合がいいからこそ代用品なわけです。のぞみが恋をしたコンビ二の店員も、のぞみに過去の恋人の影を重ねていました。

息を吹き込む=生命を吹き込む、ことなのかもしれません。だから、空気人形は体内のなかにある空気が抜けるとしぼんでしまいます。えーと、余談なのですが、ウルトラマンがカラータイマーを取られたシーンをおもい出しました。ウルトラマンって、カラータイマーを取られるとしゅーっとしぼんでしまうんですよね。やつも空気人形か。


■ウルトラマンタロウ&帰ってきたウルトラマンVS泥棒怪獣ドロボン


ついでに、好奇心のおもむくままに、興味本位でヒューマノイドやラブドールを検索して調べてしまいました。これは凄い。


■リアルラブドール


ヒューマノイドでは、音声合成ソフトVOCALOIDを使って歌を歌わせる試みもあるようです。クオリティが高いですね。


■歌声合成ソフト VOCALOIDを使った 歌を歌うロボット「未夢(ミーム)」: DigInfo


し、しかし、ラブドールとかヒューマノイドばかりをみていたら、なんだか気持ちが悪くなりました(苦笑)。ううう、ほんとうに気分が悪い。この心理は「不気味の谷現象」と呼ばれるようです。人間からまったく遠いASIMOくんのようなロボットはかわいいのですが、人間に近くなると次第に嫌悪感が強くなる。しかし、「不気味の谷」を超えてしまうと感情的な嫌悪感はなくなるようです(Wikipediaの解説はこちら


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ゴミのような人間と、人間のようなゴミ。代用品のこころと、こころに満たされた空気のような魂。ときに空っぽなこころを持てあますのですが、それでも人間になりたい、人間でいたい。しぼんできた空っぽなこころに息を吹き込みつつ、生きていたいと感じました。そんなことを考えさせてくれるいい映画でした。

+++++

■トレイラー

■公式サイト
http://www.kuuki-ningyo.com/index.html
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投稿者: birdwing 日時: 19:45 | | トラックバック (0)

2010年4月18日

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サマーウォーズ

▼cinema10-06:現実と仮想空間、コミュニティのあたたかさ。

B0030680TYサマーウォーズ [DVD]
バップ 2010-03-03

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雪が降ったり霙が降ったり春らしくない天候です。そんな季節に「サマーウォーズ」。季節にまったくマッチしないタイトルの映画について、いまさらながら書くことにします。すこし前にDVDで観た映画の感想です。

そもそもアニメ映画自体、あまり観ません。嫌っているわけではないけれど、あまり食指が動かないというか、観る機会がないというか。そんなわけでアニメ業界の動向や制作の背景には詳しくないのですが、この映画はとてもよくできていると素直に感じました。泣けました。いい映画です。

物語の主人公は、数学オリンピックの日本代表になれなかった物理部の高校生、小磯賢二(声:神木隆之介くん)。おとなしくて線が細くて、いわゆる草食系の男子です。彼は部室のパソコンを使って、仮想空間OZのメンテナンスのバイトをしていたのですが、かわいい剣道部の先輩、篠原夏希(声:桜庭ななみさん)から夏休みの短期バイトを誘われます。

バイトの内容は聞かされていなかったのだけれど、実は夏希といっしょに長野県上田市の田舎の大おばあちゃんの誕生日に参加し、彼氏(というよりも婚約者)の代理をすることでした。

由緒ある陣内家の大おばあちゃんの誕生日には、たくさんの親戚が集まります。陣内家は女系の血統で、オンナが主導権を握っていて強い。その一方で、佳主馬というパソコンに夢中なハッカーの少年がいたり、陣内侘介という先代の隠し子で高学歴でアメリカに渡ってしまった男が登場したり。

代理彼氏としてすごす夏休みのある日、賢二のケータイに、不可解な数字を羅列した暗号のようなメールが届きます。数学好きな彼は、おもわず夢中になって、夜を徹してその暗号を解いてしまう。

ところが次の日の朝、彼が起きると、テレビで彼のアバターが仮想空間OZを混乱に陥らせていることが報道されていました。悪質ないたずらの犯人が賢二であるというのです。しかし実際には、「ラブマシーン」という人工知能型のウィルスに彼のアバターは乗っ取られていたのでした。

仮想空間OZのシステムは、現実のライフライン(水道、電気、交通情報、消防や警察など)にも直結しているため、現実世界も大混乱。なんとかしようと賢二は試みるのですが、次第に「ラブマシーン」は力を拡大して暴走は歯止めがなくなって・・・。

のんびりとした長野の田舎で大勢の親戚が集うコミュニティと、OZというどこかセカンドライフ(まだある?)をおもわせる最先端のネットコミュニティ。リアル/バーチャルのコミュニティが交差するストーリーの落差が大きくて、とても楽しく感じました。

この映画のみどころは、ひととひとの「つながり」です。

AI機能を持つウィルス「ラブマシーン」が現実世界の交通や消防システムなど社会を混乱させているとき、陣内家の大おばあちゃんは、政治家や諸官庁のトップなど各方面のキーマンに「電話」で「あんたがしっかりしなけりゃ」というように激励を飛ばします。古い手紙などをひっくり返して、とにかく自分ができる限りの手を尽くします。

感動しました。人脈が大事とはよく言われますが、ネット上のフォロワー数やマイミク、フレンドリンクがイコール人脈であるとは限りません。異業種交流会で入手した名刺や、合コンで集めたアドレスの数が人脈だと考えていると、単なる錯覚であることも多い。手紙をやりとりするアナログな間柄であっても、危機的な状況のときに話が通じる相手は信頼によって結ばれています。タラ・ハントが「ツイッターノミクス」で強調するウッフィー(信頼)を蓄えた、貴重な人脈であると感じました。それは親戚や家族であっても同様です。

陣内侘介は、大おばあちゃんにとっては先代の愛人の子供です。親戚一同から疎外されても仕方ない立場にいます。侘介自身も部外者としてのコンプレックスを抱えていて、陣内家に対して斜に構えている。しかし、大おばあちゃんは、人の道を外れた彼の行動に対してはきちんと激昂して叱るとともに、それでも家族の一員として迎え入れます。この寛容さがあったかい。

そんな田舎の風景と相反するように展開されているのが、バーチャルリアリティ上のコミュニティです。OZという世界は、高度なセキュリティに守られて、アバターで自由なキャラクターを設定でき、世界中のひとたちと交流できる、という特長がキャッチコピー。実際に現在のインターネットでは、ここまで追いついていない印象がありますが、デジタルな世界のつながりはとてもクールです。映画冒頭のシーン、このOZのプロモーションをYouTubeから引用します。

地方の行政機関のネット化はまだまだではないかとおもいますが、近い将来、このOZというシステムのように、仮想現実が整備されていく可能性も考えられます。決して遠い未来の話ではない。なにしろいまは21世紀なのですから。

陣内家の狭い一室に引き篭もっているかのようにみえる佳主馬は、OZの世界では格闘王キングカズマとして世界に名前の知れた実力者です。この陽と陰のコントラストも興味深い。

ぼくは彼のような存在も肯定したいですね。というのは、ネットもリアルの一部であるとおもうので。海外ではネットの稼ぎで生活できたり、ブログの世界における著名人もたくさんいるとおもいます。田舎に暮らしながら(しかもまだ年齢も若いのに)、実は世界的な実力者であるという寡黙な佳主馬はかっこいい。

佳主馬は13歳だけに未熟であり、こころの弱さもあります。しかし、目の前にあるパソコン端末からの入力が世界の命運を左右するとすれば、そのプレッシャーに耐えうるひとがいるでしょうか。長野の片田舎にある一室のパソコンが世界の存亡を握っている、という状況には手に汗を握るものを感じました。最後まで闘おうとする佳主馬をはじめ、陣内家のひとびと、そして賢二の力強さに打たれました。勇気を教えてもらった気がしました。

一方で映画を観終わったときの批判的な感想を想定すると、リアルとネットの二元論からネット批判が生まれるだろうことも想像できます。やっぱりシステムに全面的にライフラインを預けるのは無謀だ、結局リアルの人間のつながりがいちばんだ、ゲームはアブナイ、というような保守的な批判が。

しかし、いまぼくらが生きて日々生活をしている現実も、ネットと密接に連携し、その境界は曖昧になりつつあります。長野の田舎と先端の仮想空間を舞台にした「サマーウォーズ」に、これはSFなのだから、と客観視できないリアリティを感じました。マクロな視点でみると、現在はまだ大きな過渡期といえるでしょう。けれども、ネットの重要性は拡大しつつあります。非貨幣市場などが注目されるにつれて、ネットの世界における人間的な信頼などが重視されるようになりました。ネットは隔離された世界ではなく、現実世界の一部です。

「サマーウォーズ」では、自衛隊の戦略情報システムは出てくるし、スーパーコンピュータが運び込まれて氷で冷却されるし、電源確保のために漁船まで庭に運び込みます。あり得ないドタバタぶりが楽しかった。アニメ映画ならではの大袈裟な演出ですが、仮想空間だけの闘いではなく、現実に生きるひとたちも闘っているわけです。リアルとバーチャルをつなぐひとのつながりがリアリティをもって感じられました。

虚像のようにかすれていくリアリティもあります。夏休みということばの響きには一種の甘さが感じられます。「ぼくの夏休み」というプレイステーションのゲームがあったことをおもい出しましたが、自然のなかですごす田舎のひと夏の経験は、もはや郷愁の世界として失われつつあるのかもしれません。この映画で描かれた長野の田舎の夏休みのような風景は、いつしか映画やゲームのなかだけのフィクションに変わってしまうのでしょうか。

実際に田舎で少年時代の夏をすごした経験を持つぼく(ら)には、「サマーウォーズ」の世界はノンフィクションとして受け入れることができます。襖をぶち抜いた実家の広い部屋で、親戚やその子供たちがあつまって、みんなで食事をしたりスイカを食べたりしたっけ。蚊取り線香を焚いて、かやのなかで寝たこともありました。大きな長机の上にのったおばさんたちの手作りの料理を食べながら、わいわい語り合いながら酒を飲む大人たちの姿も脳裏に浮かびます。

そんな親戚の集りはいまは希少です。法事のときぐらいでしょうか。もちろん帰省するふるさとがあり、正月や夏休みには田舎の体験ができる子供たちもいることでしょう。けれども、これからの子供たちにとっては「サマーウォーズ」で描かれた風景を比較すると、仮想空間より現実シーンのほうがリアリティのない虚構として定着する恐れさえあります。つまりバーチャルなOZのほうが、懐かしい「ふるさと」におもえるかもしれない。すこし寂しく感じました。

いつの間にか、ぼくも東京人になりました。田舎の生活はいいもんだ、とぼくには言えません。田舎が嫌で東京に出てきた強がりもあります。スローライフだとか、田舎へ引っ越そう、のようなブーム的な地方崇拝には、個人としては、違うとおもうんですけど、という異議を唱えたいぐらいです。率直なところ自然のなかに住んでいると昆虫はエグいし、草はうざったいし、田舎の近隣関係はじっとりと湿りがちで面倒なこと、しがらみもたくさんあります。東京のほうが情報は早いし、さっぱりしているし、便利なことも多い。

とはいえ、「サマーウォーズ」で描かれたひととひとのつながりや、親戚一同でとりあえず戦闘の前に飯を食うようなあったかさは、いつまでも残っていてほしいですね。ゆらゆら自論が揺れますが、ぼくらはノスタルジーと未来の過渡期にいるような気がします。そんな「はざま」にいる曖昧な現実に刺さる映画でした。

■トレイラー

■公式サイト
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投稿者: birdwing 日時: 11:00 | | トラックバック (0)

2010年1月22日

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Little DJ 小さな恋の物語

▼cinema10-05:死が生の原動力を与えてくれることも。

B0014CD2LMLittle DJ 小さな恋の物語 [DVD]
アミューズソフトエンタテインメント 2008-04-25

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確か12歳のときだったと記憶しているのですが、親父からソニー製のラジカセを買ってもらいました。ほんとうはマイクとミキシングができるラジカセがほしかったのだけれど、親父が買ってきたのは、ほんとうにベーシックな機能だけのシンプルなラジカセでした。子供ごころながら、すこしがっかりしたのを覚えています。それでもオールナイトニッポンなどの深夜放送を布団のなかで聴いたり、自分の声を録音して楽しんだりしたものです。

中学生になってからは、小遣いを貯めてソニー製のミキサー(MX-5)を購入。ミキサーといっても3系統だけの入力(モノラル入力・出力)なのだけれど、5,000円程度だったその機材は当時のぼくには宝物で、さらにダイナミックマイクを購入し、自分でディスクジョッキー(DJ)の真似事をして遊んでいました。

コンデンサーなどの部品を集めてオーディオ機器を自作する機械好きな友人がいて、彼の作ったトランスミッター(FM電波を飛ばす機械)で、近所に生放送をしたことも覚えています。あと、生放送だナマロクだといって、自転車にラジカセを積んで海に波の音を録りに行ったことも。

当時に買ったミキサーはいまでも大事に持っています。箱もきちんと残っています。何しろ、ぼくが音楽を趣味とする原点となったような機材ですから。

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そんなディスクジョッキー好きの過去があったため、「Little DJ」というタイトルに惹かれました。どうやら病院の院内放送のストーリーらしい。採血するときの注射針をみられないほど病院は苦手です。どうしようか半分は迷いつつ、それでもDJの誘惑に負けて借りてきました。

物語は、とあるFM局のディレクターである海乃たまき(大人の役は広末涼子さん)が、番組を打ち切られてしょげるシーンからはじまります。彼女の担当しているのは深夜3時の番組で、リクエストが一通も来ない。けれども、彼女がその仕事に就いたのは、ひとりの少年の忘れられない思い出があったからでした。そして、その少年、高野太郎(神木隆之介くん)の回想シーンに入っていきます。

野球の試合中に倒れてから調子を崩して入院した太郎は、退屈な入院生活をもてあまして、大先生(原田芳雄さん)の部屋に忍び込みます。定期的に院内放送を流しているその部屋には、壁一面にレコードがあり、オープンリールのデッキなどオーディオ機器が揃っている。思わずサウンド・エクスプレスのDJ尾崎誠(小林克也さん!)の真似をして、曲をかけながらマイクに向かって話しかける。と、それを大先生にみつかって、院内放送でDJをやってみないか、と話を持ちかけられます。いつもはレコードを流すだけの放送に、太郎の喋りを加える。

ええと、ワタクシゴトばかりで恥ずかしいのだけれど、実はぼくも少年の頃、自宅でミキサーを使って遊ぶだけではつまらなくなって、学校の放送委員になり、昼の放送をディスクジョッキースタイルにがらりと変えてしまったことがありました。保健室のかわいい先生から、「BWくん、大きくなったらDJになりなよ!ぜったいなりなよ」と言われて、照れたことがあったなあ(遠い目)。

大先生の部屋で、最初に神木隆之介くんが再生した音楽はシュガー・ベイブの「SHOW」 。思わず、にやりでした。まいりました。いい曲だ。

B000BNM8W4SONGS 30th Anniversary Edition
シュガー・ベイブ
ソニーレコード 2005-12-07

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その後、何回かDJのシーンがあるのですが、TULIPの「ブルー・スカイ」がかかったことにも感動。この曲、親父がFM番組からカセットに録音して、ドライブのときによく聴いていたテープに入っていました。当時はコード進行などわからなかったのですが、かなしみと嬉しさが交互にあらわれてくる感じでいいなあと、この曲がかかるのを待ち望んでいました。映画の場面で「チューリップ・ガーデン」という2枚組みのレコードが大先生の部屋にありましたが、ぼくもこのレコード持っています。これ、ほんとうに擦り切れるほど聴いたっけ。

TULIPの「ブルースカイ」はこんな曲です。いまでも青空の写真をよく撮りますが、空を好むようになったのは、この曲がきっかけだったかもしれない。

B00005HQL0チューリップ・ガーデン
チューリップ
EMIミュージック・ジャパン 2000-12-06

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音楽はもちろん、随所に70年代的なノスタルジックな小物が登場します。太郎の父親(石黒賢さん)が乗っているクルマは赤のスカイライン。丸いテールランプが懐かしかった。うちの父親のクルマもスカイラインでした。

と、物語の筋には関係のない共感ばかりを書き綴ってしまいましたが、太郎のDJによって、退屈な入院生活がはなやいできます。同じぐらいの年齢の友達もできる。個室から大部屋に移ってからは、大人たちとの交流も生まれます。一風変わったひとたちばかりだけれど、みんなあったかい。

太郎の父親は、彼にクィーンのアルバムを買ってくるのですが、ノートを覗き見していたため、太郎は怒ってレコードを投げ捨ててしまう。同室で入院している結城(光石研さん)の息子周平(賀来賢人さん)は「そんな風にレコードを扱っちゃだめだ」と諭します。

周平もまた父にそのレコードを買ってもらい、そんなの好きじゃないよ、と突っぱねていた。ぼくも、せっかく父から買ってもらったラジカセをミキサーがついていないなど贅沢な不満を感じたことがありました。いま息子たちにたまに変わった玩具を買って帰ると叱られます(苦笑)。父と息子の両側面から、わかるなあ・・・と思った場面でした。

そして、交通事故で入院し、太郎が"ミイラ"とあだ名をつけた海乃たまき(少女時代は、福田麻由子さん)との淡いレンアイ。オリオンの下にある星がみえると願いをかけられるとか、いっしょに深夜、ベッドのなかで寄り添ってミュージック・エクスプレスの深夜放送を聴くとか(これは耐えられないとおもうなあ。中学生の少年としては。笑)、くすぐったいようなシーンが連発です。いや、でもこんなにかわいい女の子が同室で入院していたら、ぜったいに熱が出るとおもう。

無愛想でとっつきにくい、中村捨次(松重豊さん)は、太郎に20年前に好きになった女がいまでも忘れられない、いい声だった・・・のようなことを語り、太郎に、たまきはいい女になる、想いを伝えなきゃダメだ、ぜったいに放すな、と伝えて去っていきます。

いま伝えなければ、想いは永遠に伝えられない。

それはとてもよくわかります。レンアイというものは、そういうものです。機会を失うと永遠に次のチャンスはめぐってはこない。太郎は、たまきに何度も想いを伝えようとしながら、勇気がなくて伝えられません。手紙も渡せなかった。たまきと映画を観るために、太郎は病院を抜け出すのですが、その結果、冷たい雨に打たれて無理をして倒れてしまいます。渡せなかった手紙を読んで、父親(石黒賢さん)が堪えながら涙を流すシーンには、ぼろぼろ泣けました。

太郎がたまきと映画「ラストコンサート」をいっしょに観たあとで、たまきは「ステラは白血病でありながらずっと隠し通して、残された命を恋にかけた。できる?そんなこと」というようなことを太郎に言います。無邪気な感想なのだけれど、残酷なことばです。子供の無邪気さは、ときに残酷になる。

結局、後半ぼくは号泣。久し振りに映画を観て泣きました。

できすぎた話だよね、という冷静な感想はありだとおもいます。ただ、ぼくはDJ(ただの皿回しではなく、曲と曲をうまくつなぎ合わせる技術者ではなくて)というシチュエーションや、70年代のノスタルジー、何かを伝えようとする表現者としての苦悩、函館という舞台の叙情など、そんなものを含めてこの映画に打たれました。観てよかった。

そうしてぼくが最後に強く感じたのは、残された海乃たまき(広末涼子さん)の現実に負けない、生きようとする力です。ひとりの少年の死が、彼女に生きる力を与えた。彼女は打ちひしがれた現実に負けずに、伝説のDJの存在や、かつてのようなわくわくする感動を蘇らせようとしている。ことばにならない力をこの映画から与えてもらったような気がしました。

ブログも(あるいは、ついったーのようなつぶやきも)、ぼくにとってはDJに近いのではないか、とおもうことがあります。

音声のように消えてしまうものであり、インターネットの情報の波にのまれて消滅するものであったとしても、表現することで聴いている(読んでいる)誰かをたったひとりでも生かすことができれば。とても素敵なことではないでしょうか。

■PV15(Little DJ)

■公式サイト
http://www.little-dj.com/
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投稿者: birdwing 日時: 20:25 | | トラックバック (0)

2010年1月13日

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4分間のピアニスト

▽cinema10-04:極限で叩きつける情動の迫力。

B0015XEZ2U4分間のピアニスト [DVD]
ギャガ・コミュニケーションズ 2008-06-06

by G-Tools

ピアノは打楽器なのだなと実感するときがあります。構造上、弦をハンマーで叩くのだから鍵盤のある打楽器には違いないのだけれど、やさしいゆったりとした曲を聴いているときはそれほど感じません。しかし、感情を込めて低音の鍵盤をパーカッシブに叩き、がんがんががーんというような力強いバッキングを聴くとき、ああ、弾いているよりも叩いているな、と感じます。

「4分間のピアニスト」の女囚ジェニー・フォン・レーヴェン(ハンナー・ヘルシュプルング)の演奏は、さらに過激です。グランドピアノの弦を爪で引っ掻いたり、足でリズムを取り鍵盤の蓋の部分をリズミカルに叩くなど凄まじい。ギターでいえばタッピング奏法のような演奏をみせてくれます。舞台上のピアノがちいさくみえました。

身体全体で激しい感情を表現するジェニー。指や顔は傷だらけなのだけれど美しい。背中の大きく開いた黒い衣装は、黒い女豹のような野蛮さとシックな雰囲気が共存している印象でした。破壊的な演奏が終わり、舞台上できちんとお辞儀する彼女の視線にはいっそう凄みがあります。あの目つき。観終わった後も脳裏に残っています。

物語の舞台はドイツの刑務所です。ピアノ教師として勤める老婦人トラウデ・クリューガー(モニカ・ブライプトロイ)は、新しいグランドピアノを購入し、囚人たちを相手にピアノ教室を開こうとします。ところが生徒は看守も含めてたったの4人(ひとりは自殺してしまう)。習いにきた囚人のうち、ジェニー・フォン・レーヴェンは途中でぶち切れて、看守をめちゃめちゃに殴りつけてしまう。野蛮な猛獣のように手に負えません。しかしクリューガーは、即興で弾いた彼女の演奏を聴いて、即座に彼女の天才的な能力を見抜きます。

感情の赴くままに他人も自分も傷付けるジェニーは、何度も暴力行為を繰り返します。しかし、クリューガーはなんとかして彼女のピアノの才能を開花させたい。女囚でありながらピアノの天才である彼女は、新聞社の取材を受けて後ろ手に手錠で縛られながら演奏したり、派手なこともやってのける。クリューガーはそんな彼女を叱り、下劣な音楽ではなくきちんとしたクラシックを演奏するように指導していきます。檻のなかの猛獣のようなジェニーは逆らいながらも、年老いたクリューガーに次第にこころを開いていく。しかし開いたかとおもうと、また自分を閉ざしてしまう。

感情をあらわにせずジェニーを見守るクリューガーと、傷だらけで何にでも噛み付こうとする野蛮なジェニーは、「静」と「動」という対比になっています。この均衡が崩れるときの脆さや危うさが、この映画の素晴らしさでしょうか。

100114_4min2.jpg「個人的な関心はない」「音楽だけに関心がある」という年老いたクリューガーが孤独な自分の過去について語るところ。誰にも話したことのない愛情を告白する切羽詰まった表情。感情を爆発させてジェニーをドブネズミと罵る場面。そんなシーンもよいのですが、ちょっとした冗談で気難しいクリューガーが笑う何気ない瞬間がよかった。なんだかほっとする笑みでした。モニカ・ブライプトロイ、素敵なおばあさんであり、いい女優さんですね。

監獄で連想したのは、あまりにも有名な「ショーシャンクの空に」という映画です(DVDを持っていて、先日また最初から観直しました。よかった)。あの映画と同様、囚人や看守の陰湿な嫌がらせや、世間体を気にする監守の狭量さも描かれます。鏡を割って自分の身体を痛めつけたり、他人から傷付けられたり、いったいジェニーはコンクールに出られるのか、とはらはらする。

やっと辿り着いたコンクールのステージで、4分間だけの演奏にジェニーはすべてを込めます。それはクラシックでもないし、「下劣な音楽」でもない。極限の状況下で叩きつけられた彼女自身の情動、奔流のように溢れ出した才能です。

観終わって感じた大切なこと。クリューガーはクリューガーらしく、ジェニーはジェニーらしく、妥協なしに生きることがそれぞれを輝かせるということでした。過去に翳りがあっても構わない。めちゃくちゃな感情を押さえつけなくてもいい。お互いにぶつかり合い、すれ違うからこそ、理解も深まる。最初はナチスの回想や監獄などドイツ的な暗さが気になったけれど、いい映画です。

背中を丸めながら歩く小柄なおばあさん(クリューガー)の姿が記憶に残っています。コンクールの舞台に上がらなければならないのに、あばずれな普段着のTシャツ姿でやってきたジェニーに服を貸して、観客席の片隅で、派手なTシャツを着て恥ずかしそうにうずくまる彼女も印象的でした。1月11日観賞。

■トレイラー

■公式サイト
http://4minutes.gaga.ne.jp/
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投稿者: birdwing 日時: 20:06 | | トラックバック (0)