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2007年5月31日

Svoy / Eclectric

▼music07-029:高層ビルから夜景を見下ろすようなエレポップ。

Eclectric
Svoy
Eclectric
曲名リスト
1. Driving Away
2. Other Side
3. I Don't Love
4. On My Own
5. Make You Mine
6. Cared More
7. One Night Stand
8. Looking for You
9. Stronger Than Wind
10. Shy
11. Eclectric Unwinder
12. To Be What It Used to Be

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エレクトロニカをよく聴くのですが、これはエレクトロニカというよりもエレポップという感じでしょうか。1曲目から完成度が高いな、と思いました。打ち込み系としては緻密なプログラミングで、個性的なボーカルもうまく曲にのっています。特にピアノ系の使い方がうまい。都会の高層ビルから夜景を見下ろすような、そんなロマンティックな音作りをしています。

POSTAL SERVICEが好きなひとに、などというように店頭のPOPに書かれていて周辺情報がまったくなかったのですが試聴して購入。ぼくの第一印象は、ジョー・ジャクソンでした(ぜんぜん違う勝手な空耳的な印象なのだけれど。つまり洗練されているつながり、ということで)。どうやらロシア生まれでNYで活動中とのこと。デビュー作らしい。うーむ、デビュー作からこれだけ完成度が高いのはすごい。ピアノやボーカルは叙情的な路線なのですが、ビートは疾走感があって、ときどき特長的にブレイクする。気持ちよいです。

とはいえ、全部を聴いてしまうとちょっと飽きるかな、というのがホンネです。というのはクセのあるインディーズばかり聴いているぼくのせいかもしれません。あまりにも洗練され過ぎていて、BGMとしてはいいのだけれど、じっくりと聴き込むときになんとなくのめり込めない。

気に入っているのは1曲目「Driving Away」と2曲目「The Other Side」ですね。キャッチーなメロディがいいい。6曲目の「Cared More」のピアノもいい。その次の7曲目「One Night Stand」のシンセ・ストリングスなども思わず過去を回想して遠い目になります。モータウン系の大人の雰囲気もあります。

たぶんですね、このアルバムのいちばん効果的な活用方法は、彼女を助手席に乗せた深夜のドライブだろうと思う。ちょっといい雰囲気になれることは間違いありません。ぼくなんかが聴くと、なんとなく80年代的なノスタルジーを感じてしまうのだけれど、いま若いひとたちにはそんな記憶はないから、おしゃれな曲、ということで自然に受け止められることでしょう。

そんな音楽があっていいと思います。というよりも、そんな恋人たちの語らいを引き立ててくれる曲こそ、実用的な音楽なのではないかとも思ったりして。5月29日鑑賞。

公式サイト http://www.svoy.com/

myspace http://www.myspace.com/svoy

+++++
2008年3月2日追記

なんとなくシュールな感じもするPV。ぼくは単純に高速度撮影のような映像を思い出したのですが。途中、頭から木が生える映像もあるのですが、おもわず落語の「頭山」を思い出しました(苦笑)。

■SVOY - Driving Away

*年間音楽50枚プロジェクト(29/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年5月29日

AXE RIVERBOY / TUTU TO TANGO

▼music07-028:ポップスを究めた懐かしくもオーガニックな歌声。

チュ・チュ・トゥ・タンゴ
アックス・リヴァーボーイ
チュ・チュ・トゥ・タンゴ
曲名リスト
1. Guard
2. Whisper
3. Carry On
4. Roundabout
5. Follow Me
6. Long
7. On an Island
8. Fences
9. Cross the Line
10. Morning Blues

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たまたまコンビニで遭遇した会社の同僚がチケットを購入していたので、誰のコンサート行くんですか?と訊いたところ、「知らないと思うけど、アックスなんとか」と言われたのがきっかけでした。アックスなんとかって誰よ?と気になって検索したところ、アックス・リバーボーイを発見。これってTahiti80のフロントマンのソロじゃないですか!と思いつつ、フリーペーパーでも記事をみつけて購入。同僚は金曜日に原宿のライブに行くようです。いいなあ。それにしても声をかけてみるものだ。


このアックス・リバーボーイ(AXE RIVERBOY)というプロジェクト名は、グザヴィエ・ボワイエ(XAVIER BOYER)の名前のアナグラム(スペルの入れ替え)とのこと。こういうセンスのよさにもまいりました。実はぼくもやったことがあるんですよね。実名から匿名を作るという試み。韻を踏んだりメタファを多用するなど歌詞の言葉遊びも好きなのですが、バンド名そのものにひねりを加えるようなこだわりようがいい。


そもそもTahiti80はフランスのバンドで、おしゃれな1枚目の「Puzzle」はかなり聴きました。しかし、それ以降の「Wallpaper For The Soul」「Fosbury」の2枚がどうもぱっとしない印象で、ぼくはいまいち離れてしまった。彼のポップなソングライティングは好みだし、ゾンビーズのコリン・ブランストーンにも似た鼻にかかって擦れ気味な声なども気に入っているのですが、どうもアルバムは散漫とした感じで印象が薄かったんですよね。


ところが今回のソロはいい感じです。アコースティックギターを中心に、ものすごく懐かしい音作りをしている。ビートルズとか、60年代のポップスを聴いているような気分にもなりました。彼の声の特長も最大限に活かした楽曲になっている気がして、ヴォイスコンプレックスなぼくはうらやましい。こういう声のひとになりたかった(泣)。


3曲目「CARRY ON」から4曲目歯切れのいいドラムからはじまる「ROUNDABOUT」あたりはTahiti80の「Puzzle」を彷彿とさせます。かと思うと7曲目「ON AN ISLAND」や9曲目「CROSS THE LINE」の弦を使ったアレンジなどはさすがポップスのツボを押さえていらっしゃる、という感じ。ボーナストラックで、テクノの大御所エイフィックス・ツインの「MILKMAN」をアコギで弾き語ってしまうところもおちゃめです。


独特の鼻声は長く聴いているとちょっと鼻につく感じもしますが、さわやかな初夏にぴったりの1枚です。5月28日鑑賞。


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アコースティック色の強いアルバムのなかでは、ちょっと異質な感じもしますが、「ROUNDABOUT」のミュージックビデオがあったのでYouTubeから。ポール・マッカートニー的というか、トッド・ラングレン的というか、こんな風にひとりで多重録音をすることに憧れていた時期があります。マルチ・プレイヤーというとかっこいいのですが、結局、なんでも自分でやっちゃいたい偏屈な欲張りなんだと思ったりして(苦笑)。


■AXE RIVERBOY - ROUNDABOUT



*年間音楽50枚プロジェクト(28/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

雲を記述する。

昨日は会社の帰りにCDショップで購入した音楽を聴きながらお酒を飲んでいたところ、すっかりいい気分になってブログを書くのを忘れて眠ってしまいました(苦笑)。朝起きて、あっ書くの忘れた!と思った。ついでに、いい気になって飲みすぎて気持ち悪い目覚めでした(涙)。焼けた胃を鎮めるため、起き抜けに水と胃薬を飲んじゃった。やれやれ。

でも、これぐらいアバウトな方がいいのかな、という気がしています(不摂生な生活ではなくて、ブログの書き方についてなのですが)。脅迫観念的に書かねば、ということもないですよね。毎日書きつづけることを自分に課していた時期もあったのですが、そろそろそんな呪縛を解いてあげようと思います。自由がいちばん。

美文を書かねば、とか、世のなかに何か訴えねば、とか、そんな気負いは捨てよう、とも思っています。変に突っ張る必要もない。自然体でいこう、と。生活の断片を記述するようなところからはじめたいと思っていたぼくには、最初からブロガーとして大きな理想があったのかどうか疑問ですが。

文章で表現するリアル

さて、本日の東京は曇り空だったのですが、昨日はよく晴れていました。そして、昨日は空に浮かんでいる雲がとてもきれいでした。初夏だからでしょうか。雲がさわやか。

家族からぼくは風景写真家と呼ばれていて、イベントの記録としてカメラマンに駆り出されるとき以外は、デジタルカメラで空ばかり写真を撮っています。しかしながら、昨日は写真に撮ることができなかったので、文章でどこまで雲を表現できるか挑戦してみます。文章による雲のデッサンです。

異性であっても好みのタイプにバリエーションがあるように、これはと思う雲にもバリエーションがあります。ストライクゾーンはかなり広めかもしれませんが、やはりこだわりたいタイプがある。空なら何でもいいというわけではなく、この雲はいいなと思える雲がある。昨日の雲には、かなりそそられました(笑)。

ぼくがよいと思う雲は、ある程度の量的な質感がある雲です。ボリュームがある雲がいい。もくもくとした輪郭は光に輝いているのだけれど、いちばん厚みのある部分は光の透過性が悪いので少し暗かったりする。その陰影がいいですね。雲と雲はつながっているのではなくて、孤独な距離を保ってぽかりと浮かびつつ、いくつかのカタマリが少しづつ移動しているのがいい。

昨日の雲がまさにこれでした。青空と輝いている部分のコントラストも鮮やかで、飛行機から見下ろしてみたいものだ、と思った。きっと見上げるのとはまた違った印象になるのでしょう。鳥では無理だろうな。ちいさな翼ではあの高度までは飛べない気がする。あるいは余裕で雲を越えられるのだろうか、鳥さんは。

浮かんでいる雲にも遠景と近景があり、その雲の連なりがちょっとしたパースペクティブを演出してくれているのもいいですね。この雲もいずれはあちらの雲になってしまうんだな、という時間の流れを感じさせる雲の全景。物語的でもあります。ひとつの雲として成立しているのもよいのですが、全景として作品が完成されているのもいい。・・・って作品じゃないか、空は(苦笑)。

一方で、青空に透けた和紙のような雲がすーっと儚げに存在しているのも美しい。シースルーな雲という感じでしょうか。あるのかないのか、存在しているのか消えてしまうのか、一瞬先にはどうなるかわからない危うさ。類似した雲に出会えたとしても、それはいま浮かんでいるこの雲ではありません。だからこそ、消えてしまいそうな危うさが尊い。太陽の陽射しに透ける葉脈のような雲というような。

飛行機雲も楽しい。流れ星と同様、遭遇するとちょっとうれしかったりして。さすがに願いをかけるようなことはありませんが、空に起きている偶然が地上の自分にも何かを変えてくれそうな期待があります。これもまた刹那の空のゲイジュツだったりする。

と、雲を写真に撮るように、あるいは標本箱に止めるように文章で記述してみたのですが、リアルに眺める雲にはかないません。あの存在感には近づけないですね。

雲の図鑑、雲の名前

確か4歳の次男君が空の図鑑を持っていたと思うのですが、どこへしまっちゃったか。図鑑のなかで彼が好きなのは、カミナリとミカヅキだそうです。ミカヅキに関していえば、深夜に喘息の発作が起きて病院に慌てて抱えて連れて行かれるときに見上げたのがきっかけで、それ以後、好きになってしまったようです。彼の好みではマンゲツよりもミカヅキがいいらしい。そして、カミナリはイナズマのぎざぎざがかっこいいらしい。

ところで、雲の名前について検索してみたところ、那覇市立識名小学校のページが最初にヒットしました。きっと理科の先生が作ったのでしょう。雲の名前のつけ方には、国際気象会議(1894年、スウェーデン)で決められた10種分類法というものがあるとか。高度などによって分類されているようです。

ぼくの好みの雲というと、下層雲(地表付近〜2000m)のわた雲(積雲)のようです。

もちろんひつじ雲(高積雲)とかいわし雲(巻積雲)もいいのだけれど、これはポピュラーなので、きっと好きなひとがたくさんいるでしょう。どこにでもあって地味だけれども、だからこそ意味のあるわた雲にぼくは惹かれます。渋すぎか?

雲の写真集みたいなものはないのでしょうか。ちょっとほしくなりました。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年5月23日

ワークスタイル・イノベーション。

久し振りに短期間でハードなお仕事をしたのですが、率直なところ楽しかったです。

仕事が楽しいというと不謹慎に思われるかもしれないのですが、無愛想に嫌々やるよりも楽しんじゃったほうが得じゃないかな。人生、損得勘定で割り切ったほうがすっきりすることもある。何もないところからカタチを生み出すような仕事はプレッシャーもあるし、安全な場所から言いたい放題きついことを言うひともいたりして、腹が立ったり凹むこともあります。とはいえ、そんな大変さやネガティブ面も含めて楽しんじゃったほうがいい。

しかしながら、圧倒的に感じたことがあったので書いておきます。それはつまり、
年齢には勝てん(苦笑)
ということです。

若いスタッフが徹夜で仕事をするなかで、うひゃーこれについてはいけませーん、これに付き合ったら正直なところ死ぬかも、と思いました。という自分だって若い頃には(遠い目)、土日だろうが深夜だろうが働いて、始発で帰ったり会社の椅子を互い違いにしてベッドをつくって寝て泊まったこともあるのですが(これがまた身体が痛くなるんだな)、もはやそういう仕事はできそうにもない。

がむしゃらであればいい、若いひとのスタイル

若いうちはワークスタイルや効率的な仕事の方法論に関心がありますよね。ぼくも仕事のスタイルを確立したくて、啓蒙書だとか実用書を数え切れないほど読みました。企画に関する本であれば、しょうもない本も含めて、本棚が全部埋まるぐらい読んだ時期があった。要するにスマートに仕事をしたいし、できる男になりたいと思うわけです。できる男はなんとなくモテそうな感じもするし(笑)。

とはいえですね、私見だけれども、若いうちはスタイルは不要かもしれない、と思いました。乱暴なことを言ってしまえば、がむしゃらに仕事をする体力と熱意さえあればいい。必要なのは「がむしゃらさ」です。徹底的にクオリティにこだわって、自分の仕事哲学を守り、ときには上司と喧嘩するぐらいの、がむしゃらさ。それさえあればスマートさなんか求める必要はないんじゃないか。

むしろ、この仕事はこれぐらいでいいや、というように、自分で仕事の限界を決めてちいさくまとめてしまうほうがよくない。クールなスタイルのようにみえるけれども、そちらのほうが格好悪い。また、長期的にみても、ここまでと線を引き続けると、ここまで以上のことはできなくなる気がします。余剰に頑張ることが自分を成長させるものです。余剰さを求めない人間に深みは生まれない。

元気づけることが大切、もはや若くないひとのスタイル

一方で、年齢を重ねた人間にもがむしゃらさは必要だけれど、それだけではまずい。熱いおじさんもかっこいいけど、熱いだけだと、むさくるしいですよね(苦笑)。何が必要かというと、がむしゃらにやっている若いひとたちの仕事を俯瞰し、全体の方向性を見極めることが大切ではないか。

このとき、いちばん大切なのは、「元気づけてあげること」ではないでしょうか。自分が元気になる、じゃなくて。いや、元気なことはいいんだけど、若者と元気さ比べをしても意味ないですよね。

がむしゃらにやっている若いひとたちですが、ふと冷静になったとき、すごく凹むときがあるものです。凹みやすいぼくは、特にそういう傾向がありました。オレっていま何やってるんだろう、オレのやっていることって無駄じゃないのかな、何になるのかな、なんだかせつなくなってきたぞ、人間はどこからきてどこへ行くのでしょう(泣)のように、最終的にはブレードランナー的な人生とはなんぞや?という命題に突き当たってしまう。

そんなガティブループにはまっている若いひとの思考を破壊して、元気を与えてあげる必要がある。

ときには根拠のない奨励も必要です(笑)。おお、すげーよ、これいいじゃん、よくこんなの考えたなー、素晴らしい、さいこー、プレゼン取れそうな気がしてきた、いっけー!とか。

ところがそんなときに、ダメだこんなの(ぼそっ)、と言ってしまうと最悪です。疲れているひとたちを追い込んでどうする。確かに年齢を重ねた人間が若いひとたちの仕事に付き合うと疲れるのだけれど、そんなときだからこそ、やせ我慢が必要ですね。トップに立つべき上司や経営者が疲れていると、その疲れが伝播する。疲れているのは自分だけではないという認識が必要です。指揮をする人間も疲労するけれども、現場はもっと疲れているわけで。

余裕のある大人の思考へ

そんな余裕は、数々の修羅場を潜り抜けてこそ得られるもので、のほほんと仕事をして、こんなもんでいいかーという適当なやり方をしていると結局のところ経験値も知識も高くならない。ドラゴンクエストみたいなものですかね。

ただ、逆説的にいうと、年を取っても徹夜さえ辞さないがむしゃらな働き方ができると凄い。知識や経験が豊富であることに加えて、思考も柔軟で、さらにタフであると究極です。身体鍛えるか!と思いました。よーしジム通いだ、とか短絡的に鼻息が荒くなったのですが、いや、それより健康がまず最初でしょう、と。体力なさすぎ、というよりも体調悪すぎで不健全なので。へなへな。

年齢を重ねた人間の魅力は、ひとことで言ってしまうと「余裕」なのかもしれません。若いと余裕ないもんな。仕事だけでなく恋愛などもそうですね。自分の想いだけを突きつけるのは余裕がなくて、相手を考えられることが心の余裕であり、やさしさなのかもしれないし、それが大人の人間的魅力ともいえます。

というぼくはといえば、いつもいっぱいいっぱいで、体力どころか余裕もなさすぎですが(苦笑)。

あらゆる仕事をするひとに共通のワークスタイルや方法論もあるかもしれませんが、年齢に合わせたものもあります。個々にカスタマイズする必要もあるでしょう。

仕事を通じて人生のスタイルを考えてみたいと思いました。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年5月20日

フォーゲット&リメンバー。

五月晴れってこういう空を言うんだろうなあ、という東京の今日の空でした。完璧な青空だ。いい感じの雲が流れていて、写真を撮ろうとしたのですが刻々とカタチを変えてしまって間に合いませんでした。それでも何となく撮ってみた今日の空の写真です。

070520_sora.jpg

週明けの慌しさに備えて、今日はゆっくり本を読んだり曲を作ったりして過ごしました。昨日のブログを見直してみたところ、飛べない鳥の記述にカンガルーが入っていた(笑)。あわてて修正しました。カンガルーは跳ぶけど、鳥じゃないだろう。疲れていると、とんでもない間違いがあって自分に苦笑です。

さて、昨日夜更かししながら浮かんだ音があったのですが、今日の青空を見ていたら音の輪郭がはっきりしはじめて、久し振りに趣味のDTMモードに突入しました。3時間ぐらいの制作時間でしょうか。細部は詰めていません。きちんとした曲に仕上げたい気もするのですが、いまひとつインスピレーションが足りない感じ。ただ以前にも書いた通り、ぼくは日記を書くように音を創りたいと考えています。そんなわけで公開してみます。


■070520_forget_remember(1分26秒 192Kbps 1.98MB)




AG+曲・プログラミング:BirdWing


5月20日の気分はこんな音、という感じでしょうかね。アコギ(アコースティック・ギター)も弾いてみました。晴れた日にアコギを弾くと気持ちいいなあ(しみじみ)。とはいえ、短いフレーズを弾いてコピー&ペーストしています。そんなずるい作り方もできてしまうのがデジタル制作のよさです。ぼくの持っているTakamineのアコギにはピックアップがふたつ付いているのですが、これはブリッジ近くに埋め込まれたピックアップの方の音を強めにしています。そんなわけで硬めの音です。

タイトルは仮に「Forget/Remember」としてみました。忘却と記憶。忘れることと憶えていること。いずれも自然の流れに従ったほうがよいのかもしれません。忘れなければならないことを憶えているとか、憶えていなければならないことを忘れてしまうとか、そういうときにひとは哀しくなるものです。

ぼくが思うのは、後になって振りかえってみると、たとえば感情のピークレベルを超えるような悲しみ、喜び、怒り、憎しみよりも、今日の五月晴れのようななんでもない日のことを思い出すのではないか。それはまったく意味がないありふれたふつうの日常なのだけれど、そんな刹那の時間をいつか思い出せることができればいいな、と思ったりしています。

そもそも生活のすべてに意味がなきゃいけないのか、とも思います。意味がなくて、まったりとぼーっと過ごす休日もまた価値がある。

明るいうちから飲むビールは、ほんとに美味いですね。夕方の6時、そろそろ夏時間になるせいか外はまだ明るい。素敵な青空が広がっています。日曜日の夕方、自宅でビールちびちびと飲みながら、妙にしあわせだったりしています。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年5月19日

飛びたい気持ち。

鳥の翼(BirdWing)というハンドルを使いはじめて数ヶ月、最初のうちは何気なく使っていたのですが、そのうちに鳥に関するものがいろいろと気になるようになりました。それほど鳥好きというわけじゃありません。焼き鳥は好きですけれども(ビールといっしょに)。おっと、食べちゃいけないな。

tori070516.jpg そんな縁なのかどうなのか、先日、家の前に巣からちいさな雛が落っこちてきたようです。すずめではなく別の野鳥らしいのですが、何の鳥かわからなかったとのこと。奥さんと息子たちで、まずはカブトムシの虫かごに保護したようで、携帯電話のカメラで撮った写真をみせてもらいました。丸っこい雛がグリーンのプラスチック製の虫かごに入っている(笑)。頭撫でたんだよー、ふわふわだったー、と長男くんは言っていました。緑と灰色と白(そして一部ミズイロ)の鳥のようでした。

虫かごに入れておいたら、雛がぴーぴー鳴いていて、そのうちに上空から親鳥も旋回して呼応するように鳴き始めたとのこと。そこで虫かごから出して自転車のサドルにのせておいたところ、知らないうちに巣に戻っていたようです。どうやって連れて帰ったんだろう?くわえてじゃないよな。ともかく巣に戻ることができてよかった。

たぶん成長すれば、その雛も空高く飛べるようになることでしょう。まだ雛のうちだから、飛ぼうとして失敗したんだろうね。ただリスクを冒しても飛ぼうとしたきみ(雛)の気持ちを褒めておきましょう。失敗したとしても、親鳥も、そして人間のぼくらも見守っているから大丈夫。ともかく、のら猫にやられなかっただけでも幸いです。

飛べない鳥もいます。エミューなど地上を走るだけの鳥もいるし、ペンギンなどは海中を飛ぶように泳ぐことはできるけれど、ちいさな羽では空を飛ぶことはできない。そんな鳥たちは、空に憧れたりしないのだろうか。

映画で「I Can fly」という台詞が印象的なのは「ピンポン」でした。ほんとうに飛んじゃった俳優さんにびっくりもしましたが。YouTubeからトレイラーを。

■ピンポン

風呂上りにぴょんぴょん跳ねていて、飛びたいなあ、と言っていた10歳の長男くんに、にいちゃん、もっと勉強すれば飛べるよ、ともっともらしいことを4歳の次男くんは言ったことがあり、そんな話をかつて日記に書きました。もっと勉強しなさい、という親の口癖を真似たのでしょう。

けれども、そうだよ、勉強すれば飛べるぞ、とわかったような口をきいた父であるぼくの本心には、勉強だけでは高く飛べないのも現実である、という疲れた大人の諦観もあります。オヤジであるぼくが高く飛んでいるかと言うと、はなはだ疑問です。仕事でくたびれて、飛ぶというより地面を這うようにしてやっとのことで帰宅している感じ。

それでもいまの自分よりも高く飛べるように、いろいろなものを吸収していたいものです。本も読みたいし、映画や音楽にも接していたい。

さて、そんな今日、家に帰ってみると長男くんが何かの包装紙で作った全長40センチぐらいの紙飛行機を飛ばしていました。でかすぎだろ、なんだそりゃーな感じですが、これ、すごいんだよ!と長男くんが飛ばしてみせると、どがががが、という感じでテーブルの上にあったお菓子をすべて薙ぎ倒していきました。確かにすごい。すごいのだが、飛行機じゃないだろう、それは(苦笑)。

さらに別の話になるのですが、以前、トミーから出ている室内用のラジコン飛行機のことをブログに書いたのですが、知人のブログでトンボのように羽を動かして飛ぶラジコンがあることを知りました。旦那さんがほしがったようで、トンボはダメ!と一喝したとか。これでしょうか、そのトンボは。

B000PDZS8QR/C メカトンボ ブルー
シー・シー・ピー 2007-05-31

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うーむ、ぼくもこのトンボほしいんですけど(苦笑)。

たぶんですね、男性はいつまでも子供っぽくて、空を飛ぶような非現実的な夢に憧れて、自分が飛べないのなら飛べるような紙飛行機だとかラジコンなどを欲しがるのではないでしょうか。しかしながら現実的な妻からみると、そんな非現実的な夢に憧れてないで仕事しなさい、仕事がないなら家事手伝ってよ、子供の面倒みたらどーなの、ということになるのでしょう。

いまは亡きぼくの親父も、部屋にでっかい模型飛行機を飾っていたっけ。男はつらい(苦笑)。でも、そのつらさを背中で表現しつつ、やせ我慢して生きていくのが男です。頑張るのだ。

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・・・プレッシャー満載な仕事に追われて、読み直すと文章がおかしいのですが、とりあえずアップしておきます。後日修正を加えることもありそうです。

来週は仕事が佳境を迎えそうです。明日から火曜日まではブログの更新が滞るかもしれません。が、書かずにはいられないハイパーグラフィアなぼくは、書いてしまうかもしれません(どっちだ)。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2007年5月18日

瞬きをしている間に。

瞬き(まばたき)をしている一瞬に、世界が消えていたらどうしようと思ったことはありませんか。あるいは目を開けてみるとまったく違う世界になっているとか。

けれども事実として、1秒間に誕生する人もいれば亡くなる人もいる。つまり顕著な変化は感じられなくても世界は確実に変わっているわけで、目蓋を閉じたときの世界と見開いたときの世界は違う。同じように見えるけれども微妙に別の世界です。新しい世界ともいえる。

ぼくらの住むブロゴスフィアも1秒間に大きく変化しています。数えしれないブログのエントリーがあり、消滅するブログもあり、また新しく生まれるブログもある。諍いがあり、誹謗中傷があり、美しい言葉がある。画期的な考察があり、時代を鋭く切り刻む言葉があり、愚痴がある。大量のアップロードが繰り返され、膨張していくのがこの仮想世界です。いったいどこまで広がるんでしょうか。

RSSリーダーができてから、それこそリアルタイムにブログの更新をチェックするようになってしまったのですが、RSSは安堵のためのツールかもしれません。エントリーやコメントがあがったということを確認して、見ず知らずの誰かの消息を知る。ああ、元気に書いてるなあ、と。遠く離れてわからないけれども、画面を隔てた向こう側に誰かが存在していて、まるでくしゃみをするように言葉を綴っているという確認。

テキストの情報は冷たいけれど、RSSリーダーに点滅するNEWという新着のアイコンに、わずかなぬくもりを感じたりします。というのはネットにはまりすぎなぼくだけかもしれませんが(苦笑)。

そんなことを考えてネットを彷徨ってしまったら、「1秒の世界―Global Change in One Second」という山本良一さんの本をみつけました。

44788709931秒の世界 GLOBAL CHANGE in ONE SECOND
山本 良一
ダイヤモンド社 2003-06-13

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書店でちらっとみたような気がするのですが購入していません。Webサイトで60項目の「1秒の変化」が紹介されています。これが面白い。興味のある方は、以下のページをご覧ください。本も読んでみたいですね。

http://www.thinktheearth.net/jp/onesecond/contents.html

ぼくが好きなのは、いちばん最後のこれです。


1秒間に
ハチドリが55回はばたき...
太陽系が銀河を220km進み...
人口が2.4人増えています。

人口の増加ってそんなものなのですね。少子化社会だからなあ。
この1秒間を輪切りにするデータをみていたら、そういえばジャン=ピエール・ジュネ監督の「アメリ」に、ある瞬間を共時的に言及した似たようなシーンがあったことを思い出しました。

B000063UPLアメリ
オドレイ・トトゥ, マチュー・カソヴィッツ, ドミニク・ピノン, ジャン=ピエール・ジュネ
ビデオメーカー 2002-08-02

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アメリ誕生の瞬間を、さまざまな側面から言及しています。そのほかにも、この瞬間に何組のカップルが絶頂に達したかのようなことをアメリが想像する場面もありました。絶頂に達して絶叫する15組の映像がコラージュされて、困惑してしまったのですが。同一の時間軸で空間を輪切りにするような感じでしょうかね。

ちょっと余談になりましたが、「1秒の変化 60項目」からひとに関わる項目を。


1秒間に
人は93mlの空気を呼吸し...
心臓が1回脈を打ち、60mlの血液を体に送り出し...
世界に420万トンの雨が降っています。

次は数値で表現されているのに、ちょっとかなしい。数値によって、かなしい感情を誘うことができるというのも、なんとなく不思議なのですが。

1秒間に
0.3人、4秒にひとりが飢えによって命を落とし...
5歳以下の子ども48人が汚染された水や食糧で下痢になり...
ペットボトル3,500本分のミネラルウォーターが生産されています。

インターネットに関する数値もありましたが、ネットユーザーが飽和しつつあると、だいぶ数値は変わってくるのではないでしょうか。

1秒間に
3人が新たにインターネットユーザーになり...
530万円が教育費として使われ...
4トンの文書用紙が世界で使われています。

環境に関する数値は、なかなか考えさせられるものがあります。気付かないのだけれど、環境破壊も進みつつある。わずかな変化も、長期的な時間のなかでは取り返しのつかない変化となります。

1秒間に
地表の平均気温が0.00000000167℃上昇し...
グリーンランドの氷河が1,620m3溶け...
自然災害に対して、65万円の保険金が支払われています。


1秒間に
深さ4,000mの海底を流れる深層海流が10cm動き...
チーターが28m草原を駆け抜け...
ハワイが2.9ナノメートル、日本に近づいています。

ところで、瞬きをしている瞬間に去っていってしまうひともいます。変わってしまう心もある。それは仕方がないことでしょう。自分の心であれば制御することもできるけれど、他人の心を制御することはできない。変わってしまうひとの心を強制的に押し留めることはできません。

しかし、自分の心は制御できても、記憶の方は制御できなかったりするものです。

少年の頃、とても楽しいことがあった日の夜、目をつぶってしまうとその楽しかった出来事が失われてしまうような気がして、ずーっと目を開けていようと思ったことがありました。アイドルと握手をして、もったいないから手を洗わずにおく、ということと似ているかもしれません(笑)。同じようなことを何かのエッセイで読んだ気もしています。思い出せないのだけれど。

けれども、眠りには勝てなくて、いつのまにか深く睡眠のなかへ落ちてしまう。すると次の朝には、あれほど楽しかった光景がことごとく失われてしまっています。どうして記憶を鮮やかに残しておくことができないんだろう、と悔しく思ったのですが、そんな人類の悔しさが映画やビデオカメラの発明に結びついたのでしょう。

誰かが目の前から去っていったとき、去っていったひとが亡くなったひとではなければ、世界のどこかにそのひとは存在しています。だから、0.1%だったとしても再会できる可能性はある。しかし、残念ながら亡くなったひとにはもう会うことはできない。夢のなかで会うしかない。惜しむべきなのは、目蓋を開いた世界ではなく、目蓋を閉じた世界のなかで、過ぎてしまった日々の残像が失われてしまうことではないでしょうか。

ただ、脳の本などを読むと、忘れてしまった記憶であったとしても脳内のどこかには残っている、という解説もあったような気がします。つまり、気付かない無意識のなかでぼくらの記憶はきちんとアーカイブされている。死の直前に生前のイメージを高速度フィルムのように思い出すなどということが言われますが、失われたと思っていた記憶であっても、そんなときにまた再生されるかもしれません。それは生命というメカニズムの最期のご褒美なのかもしれないですね。ちょっと期待。

仕事で追いまくられつつあるのですが、一瞬を大事にしたいと思いました。子供たちもあっという間に成長していきます。それこそ瞬きをしている間に、新しい言葉を覚えたり、新しい遊びを発明したりしている。ふたりの息子たち自体は去っていくことはないけれども、どんどん変化していきます。昨日の息子たちではない。いつまでも、ちっこいままの子供でいてほしい気がするのですが、そうもいかないものです。

一瞬の笑顔を脳内に刻んでおこうと思いました。いつかまた、その笑顔に会えるように。

+++++

「アメリ」のトレイラーです。なんとなくあの映画のよさを伝えきれていないような気もします。まるで絵本のような映像が素敵だと思いました。メランコリックな音楽も耳に残ります。実はDVD持っています。この映像は何度も観たい、と思ったので。ちょっと甘ったるいストーリーでもありますけどね。

■Amelie Trailer

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2007年5月17日

予期せぬ事態を活かす。

偶然の間違いや失敗が創造性につながるのではないか、ということを先日書いたのですが、その背景にあったのは、いま読んでいるドラッカーの「イノベーションと企業家精神」でした。

4478000646イノベーションと企業家精神 (ドラッカー名著集 5)
上田 淳生
ダイヤモンド社 2007-03-09

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この本の第3章「予期せぬ成功と失敗を利用する」を興味深く読みました。

といっても現在、複数の本に手を広げすぎていて、ついでに読書に集中できる時間もなく、どの本も中途半端に読みかじっているばかりです。ついでに読んだところを忘れてしまって、再び読み直したりしています。一歩進んで二歩下がるではないのですが、まったく前へ進めません。ある意味、永遠に読むことができてしあわせ、かもしれないのですが(苦笑)。

ちなみにこの本が書かれたのは1985年、ドラッカー75歳とのこと。75歳といえばぼくもじきに迎える年齢ですが(嘘です。笑)、瑞々しい文章と前向きな発想が心地よい。70歳を過ぎて、ぼくもこんな文章が書けるのだろうか。そもそも文章を書く以前に健康かどうかも自信がないのだけれど、できれば、こんな文章を書いていたいですね。内容はもちろん、著者の生き方が元気を与えてくれます。

イノベーションの7つの機会

さて、ドラッカーはイノベーションの機会として次の7つを挙げています。


第一の機会:予期せぬ成功と失敗を利用する
第二の機会:ギャップを探す
第三の機会:ニーズを見つける
第四の機会:産業構造の変化を知る
第五の機会:人口構造の変化に着目する
第六の機会:認識の変化をとらえる
第七の機会:新しい知識を活用する

常識的に考えると、イノベーションの機会の第一としては、産業構造や人口構造の変化ではないかと思いました。けれども、ドラッカーは予期せぬ成功あるいは失敗を第一に挙げている。この発想が新鮮です。

そもそもマネジメントとは、予期せぬことがあってはいけないもので、目標値をきちんと定め、目標値からまっすぐに引いた線上に事業や組織の進路を定め、その軌道を外れないように管理することではないでしょうか。ギャンブル(賭け事)じゃないのだから、運まかせで成功しちゃったとか、思いがけないチャンスに恵まれたとか、いきなり足元をすくわれて失敗したとか、そんなことがあってはならないはずです。不測の事態が起きないように、科学的に予測し、きちんと計画を立て、リスクを回避しつつ利益を追求する。

ところが、ドラッカーは予期せぬ成功と失敗に着目して、その「兆候」を読み取り、分析することが重要であると説きます。

ここでぼくは、そうか!と思ったのですが、たいてい予期せぬ出来事に遭遇したときは、「なんだか偶然においしい(あるいはとんでもない)目にあっちゃったな」という感想で片づけてしまいます。偶然にもたらされた出来事が何を意味するのか、どんな兆候なのかなど考えることはない。偶然でした、として思考停止して、その偶然を体系化したり構造化することはない。

けれども、この予期せぬ成功や失敗からパターンを見出すことがイノベーションを考える上では重要であり、論理的思考だけでなく直感のようなものが求められる。さらに分析だけでは不十分で、「調べるために出かけなければならない」とドラッカーは書いています(P.37)。いわゆるフィールドに赴き、そこで起こっていることを自分の目で確かめる。

予期せぬ機会を逃さない

ところで、この章を読んでいて、笑ってしまったのは次の一文でした(P.21)。



しかも予期せぬ成功は腹が立つ。

ははは。そうだよなあ。たとえば、偶然に隣り合った美人と話をして仲が良くなった話を聞くと、ちぇ、なんだよそりゃーと腹が立つ。しかしながら、これもまた腹が立っておしまい、ということが多い。

けれども、美人の定義、偶然に隣り合う時間的な要因、空間的な要因、心理的な要因・・・などから多角的に分析すると、人生における機会とは何か、という理論を構築できるのかもしれない。でも、理論どおりにやっても美人と仲良くなれるとは限りませんよね。だから人生は面白いのだけれども(笑)。

茂木健一郎さん的に言うと、偶有性いわゆるセレンディピティにつながる話かもしれませんね。

この偶有性について、通常は分析して理論化しようとは思いません。理論化できないから偶有性なのだ、という風に勝手に思い込んでしまっている。きっちりと思考の垣根を作って、そこから踏み出そうとはしないものです。トライしても無駄だと考えてしまう。ところが、無駄とも思える予期せぬ事態をあえて理論化すべきだ、と述べるドラッカーは、実は相当ぶっとんでいるのではないか、と思いました。

予期せぬ成功のエピソードとして、たまたま晩餐会で隣に座った女性から「どうしてお宅の営業マンは、私のところに売り込みに来ないのですか」と話しかけられたことから窮地を脱したIBMの話が引用されていました。

倒産の危機に直面していた1930年代初めのIBMでは、売れ残った銀行用の事務機に困っていた。ところが偶然に話しかけられた女性は図書館の館長で、彼女のところには潤沢な政府の予算があり、彼女の図書館に事務機を納品することによって、IBMは窮地から救われたとのこと。

一般的に考えると、たまたま運がよかっただけじゃないか、で終わる話です。あるいは、営業として自分から声をかけずに声をかけられた機会を利用するのは能力でもなんでもないんじゃないの、という気もする。しかしながら、この話が面白いのは、販売先のターゲットとして想定もしていなかったところに売れる可能性があり、そのチャンスを活かすのも殺すのも何気ないひとことをキャッチするかどうかにかかっていた、ということです。

もし、IBMの創立者トマス・ワトソン・シニアが彼女の言葉を聞いて、彼女が図書館の館長であることを知っても、いやうちには関係ないですから、と申し出を断っていたとしたら、ひょっとしたら今日のIBMはなかったかもしれません。そう考えると、すごい。予期せぬ事態にYesかNoかを選択することによって、分岐される未来の明暗が大きく分かれるわけです。

この予期せぬ(けれども将来に影響を及ぼす)一瞬を感知できるかどうかは、そのひとのセンスによるところもあるでしょう。ただ、常日頃アンテナを伸ばしていると、自然とキャッチしやすくなるようなものじゃないかとも思っています。

明日から、話しかけてくれるひとをぼくは無視しないようにしようと思いました。にっこりと微笑みつつ、お話してみよう。何気ない通りすがりのひとが、実はぼくの人生を変える大切なひとかもしれない。

実は今日のお昼に、定食屋のおばさん(失礼、おばさま)から話しかけられたのですが、あのおばさまはひょっとしてぼくの人生を変えてくれる女性だったのだろうか。

な、わけないな(苦笑)。

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2007年5月16日

言葉のフィールド・レコーディング。

いい風が吹いていました。会社からの夜の帰り道、夏のようで、ちょっとだけ草の匂いのような成分が含まれているのだけれど涼しい。それはまだ夏になりきれない季節の風であって、加熱気味な仕事でじんじん痺れるような脳内をクールダウンしてくれるようです。さわやか。

そんな道すがら、風に吹かれながら、ぼくのアタマのなかでは、なんとなく音が鳴っていて(DTMを趣味とするぼくにはときどきそういうことがあります)、言葉が電光掲示板のように明滅していました。その音や言葉は生まれる端から消えていくのだけれど、それでかまわない。きっとまたいつか再会できるような気がします。だから消えていく音にはこだわらずに、再びどこかで会えることを期待しつつ、消えていくままにしておく。

いつかやってみたい2つの創作スタイル

PCによる音楽制作、DTMを趣味としているのですが、ぼくはやってみたい音楽のスタイルが2つほどあります。

ひとつ目。まずぼくはヘッドフォンと生録の機材を抱えて、アウトドアへ。昔であればデンスケだと思うのですが、いまはデジタルですごい機材があります。たとえば、SONYのPCM-D1とか、EDIROLのR-09とか。サウンド&レコーディング・マガジンの5月号に電池駆動型のハンディ・レコーダーが特集されていたのですが、欲しいなあと思いました。

これはSONYのPCM-D1。丸いVUメーターがそそります(笑)。

こちらはEDIROLのR-09。実際に触ってみるとあまりに軽すぎて、ちょっとその軽さが残念だったりするのですが。

さて、そんな録音機材を使って、新宿の雑踏であれば雑踏の音を録音するわけです。これがいわば食材の調達になります。帰宅したら、その音をPCに取り込んで"料理"する。サンプリングされた音をスライスして、女の子の笑い声、クルマのクラクション、風の音などに刻んでいく。その音をループさせながら、アコギをぽろぽろやって音を重ねる。フェネス+サカモトっぽいアプローチかもしれません。

できあがったものは、リズムもメロディもないような音楽になりそうです。何度も引用しているのですが、この雰囲気に近い音楽づくりは、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」という映画のなかの浅野忠信さんが演じているミュージシャンですね。

B000FQWH14エリ・エリ・レマ・サバクタニ 通常版
青山真治
バップ 2006-07-26

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ふたつ目。歩きながら音が生まれてしまうぼくは、携帯電話でその音を作曲できればいいのに、と思うことがあります。かつてはアタマのなかで何度も繰り返して家に帰るまで忘れないようにしたこともあったのですが、結局、今日の夕飯なんだろう?とか考えた拍子にメロディが消えてしまう。別に趣味だからいいじゃん、とも思うのですが、結構、アタマ掻きむしる瞬間だったりする(苦笑)。そんなわけで、その場で生まれた音を形にできるようなことができるといいですね。そして完成した音は、すぐにネットで公開できるといい。

実はぼくは趣味のDTMで日記を書くように音を創っています。文章であれば簡単に綴ることができますが、音にするのは時間がかかる。そんなわけで月に数曲しかできないのだけれど、ぼくは商業的な音楽を創っているわけではないので、とても個人的な意味で、そのときに感じた音を作品にしています。

ところが、暗号のようにリアルな気分を結晶化しているので、後になってみると辛くて聴けない曲もある。昨年「ミカヅキノヨル」という曲を作ったことがあり、それはぼくにとってはその後の曲作りを大きく左右するほどの重要な曲だったのですが、いま聴くと破綻しています(苦笑)。

破綻もさることながら、音に込めた暗号が記憶を再生するので、とても辛くて聴いちゃいられません。たかが趣味で何をミュージシャン気取りで書いてるんだ、と批判もされるかもしれませんが、ぼくの音楽は日記みたいなものなのです。そもそも文章で書いた日記でもありますよね。うわーこれは読みたくないぞ、というような過去の日記が。

そんな音楽的なアプローチに近いのは、これもまた何度か引用している気がするのですが、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「海の上のピアニスト」かもしれません。船上で孤児として育ってピアノ弾きに成長した1900(ナインティーン・ハンドレット:ティム・ロス)は、酒場のひとびとを観察しながら、それぞれのひとにあった音楽を即興で表現します。あの感じ。

B00170LCJK海の上のピアニスト
ティム・ロス, ブルート・テイラー・ロビンス, ジュゼッペ・トルナトーレ
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン 2008-06-20

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集積される言葉、言葉がつくる空気

ところで、言葉もそんな風に、そのときどきに思い浮かんだままに記録できればいいのにと思っています。いわば言葉のフィールド・レコーディングでしょうか。短文を入力できるTwitterは、そんなツールじゃないかと思っています。

常々思うことですが、ブログはどうしても過去のパブリッシング、いわゆる出版になぞらえて考えられることが多い。けれども別に印刷物の本となぞらえる必要はなくて、まったく違うメディアもしくはツールではないのか、とぼくは考えます。つまりですね、これは個人的な見解ですが、読者を想定して完成された文章をアップする必要もないし、究極のことを言ってしまえば、文章になっている必要さえないのではないか。単語でもかまわない、と。

もちろんパブリッシング系のブロガーがいて、パブリックを意識した崇高な文章があってもいいとは思うのですが、短文で「気持ちよかった」だけでもかまわない気がするわけです。

当然、その「気持ちよかった」は単体では意味をなさないし、ゴミのような言葉かもしれません。けれども、ブロゴスフィアのなかで、50万人の「気持ちよかった」が集積されたとき、その言葉はもはやリアルの世界に蔓延する空気を代弁しているのではないか。同様に「腹が立つ」も50万人集まれば時代の苛立ちとなる。

ブロゴスフィアの言葉はフラットだとぼくは考えていたのですが、それはそういう意味で、いま考えるとフラットという概念も違うな、と思いました。なぜならば、フラットという概念の背後には、誰かと誰かを比較する思考がある。ぼくがブログスフィアの言葉に優劣はないと感じたのは、多様性を容認するとともに、どんなに瑣末な言葉であっても集積されれば空気を形成するというような考え方があったからでした。

つまりひとりのカリスマが発した完璧な文章よりも、50万人が発した「気持ちよかった」という短文が圧倒的な影響力をもつことがある。だからこそぼくはアルファブロガーという存在に疑問を感じているわけで、集合知というとどこかコミュニティやらSNSで議論しなきゃだめだという印象もあるけれど、議論などなかったとしても、集合的な知というか時代の雰囲気=空気が形成されることに意義があると思うんですよね。

だからこそ、空気清浄という観点から「その言葉は汚れているから使うな」と統制することに問題があるのではないか。

どんなに汚れた言葉であっても、リアルの空気を代弁しているからこそ意義がある。世界というのは、きれいごとだけでは済まされないものです。汚い言葉(ノイズ)を排除しろというのは、もしかすると言葉のアウシュビッツといえるかもしれない。

影になる部分があるからこそ光も輝くわけで、光と影の両側面を存在させることが世界をよりリアルに再現することになると思う。もし汚い言葉に触れたくないのであれば、わざわざ読みに行かなければいい。読みにいってわざわざ不快になっているのは、読んじゃった人間の責任ではないのでしょうか。そんなわけでぼくは最近、読みにいかないブログが増えてしまったのですが。

仕事で疲れて思い出せないし、いまは本を探す気力もないのだけれど、村上春樹さんの短編に、シャワーを浴びていると無意識におかしな言葉を呟いている主人公がいて、妻にそのことを指摘されるんだけど、自分ではさっぱり覚えていない、というような話があったような気がします。ブログに書かれる言葉は、そんなシュールな言葉であってもいいと思うんですよね。うーむ、これは言いすぎか?

まだ思い浮かんだことがいくつかあるのですが、一気に書いてしまうとつまらないので、また次の機会に。

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2007年5月15日

既存の枠組みから踏み出す。

家族でテレビのCMを見ていたときのことですが、「この外人の女性はだれだっけかな?」と思い出せなくて呟いたところ、10歳の長男くんが「あれじゃないのかな。違うかな」と、自信なさそうな顔で言っていました。

間違っていてもいいから言ってみな、と促してみると「キャメロン・ディアス?」とのこと。正解。そうだよ、なんで知ってるの?と訊くと、「だって、ホーム・エクスチェンジに出てるひとでしょ」と映画名まで出てきました(うーむ、ぼくはその映画知らなかった。恥)。

10歳児とはいえ、あなどれません。アタマのなかはポケモンやウルトラマンの怪獣データベースだけかと思ったら、それ以外のこともよく知っている。もちろんテレビをよく見ているせいなのかもしれないし、あるいはまだ若くて柔軟な頭脳だからかもしれないのですが、記憶力がいい。というよりも、思い出せなくて考え込んでしまったぼくの記憶力が劣化しつつあるのか。

つなげる力、間違いという創造性

ここで記憶力と言うのは、当たり前だけれど、アーカイブされたビジュアル(映像)とコトバを結びつける力です。

名前の場合は、ほぼ1対1でビジュアルと言葉が対応している。といっても、本名じゃない芸名やあだ名などがあれば1対多になりますね。けれども、よく考えてみると、実体と言葉のつながりは強いものではなくて、実は自由に結び付けることができる。言語の恣意性というのでしたっけ、ソシュールの記号論だったような気もしましたが忘れましたが。

戸籍上ではぼくの名前はひとつですが、誕生したときを考えると、いくつもの候補があったはずです。ぼくはぼくの名前じゃなくてもよかった。(ちなみにうちの息子の長男くん誕生時には、男の子の名前はひとつしか考えていませんでした。女の子がほしかったので20個ぐらい女の子の名前は考えていたのですが)。

名前=実体の結びつきがゆるやかであるからこそ名前を間違えてしまうこともあるわけで、間違えた実体と、正解の方の実体を比べてみるとなかなか楽しいものがあります。ああ、ぼくはこういう観点でごちゃまぜにしていたんだなあ、という思考の傾向がわかる。ときにはどうしてこんな間違いをしてしまったのか、という驚きもあったりします。とんでもない勘違いに自分で脱力することもある。

けれどもこのようなつながりの間違いが、実は創造性につながるのでは?という考えが浮かびました。

とんでもないものを組み合わせてしまう発想が、新しい何かを生み出すことがあります。異種を掛け合わせて新しい種をつくるバイオテクノロジー的なアプローチに似ているかもしれません。しかも意図的にやるのではなくて、無意識のうちに、あるいは失敗して組み合わせてしまったようなときに新しいものが生まれることがある。偶然かもしれないのですが、長期的な歴史を考えると必然的に生じた間違いかもしれません。

昨日もギターを弾きながら、コード譜という既成の何かを参考にせずに、音の響きから和音を探すアプローチが面白いということを書いてみました。一度アタマのなかにあるコードの押さえ方を白紙にして、手探りで響きを探ろうとする試みです。これが結構新鮮なのですが、しかしながら、どうしても既存の枠組みにとらわれてしまう。既成のコードに絡み取られてしまうわけです。

常識というものはなかなか破壊できないものですね。その枠組みはかなり強固で、どうしてもぼくらを縛り付ける。常識から一歩踏み出すことができない。

常識から踏み出す

ところで、ちょっと話を変えるのですが、先日、川北義則さんの「男の品格―気高く、そして潔く」という本を読み終えました。その本には「男ならもっと顰蹙を買うことを考えよ」ということが書かれていました。これもまた常識を破壊して、一歩踏み出すための考え方かもしれません。

しかしながらですね、現実として、できればヒンシュクは買いたくないものです(苦笑)。実際にヒンシュクを買ってみるとわかるのですが、人間として、あるいは男としてかなりのタフさが求められる。メンタルな部分でやられます。穏やかに、角の立たないことを言って、平和に暮らすのがいちばんよいものです。悟りを開いた老人のように、ね。あるいは安全な場所から、ヒンシュクを買っているひとに突っ込みを入れる立場がいちばんいい。

しかしながら、技術にしても文学にしても、あるいは音楽にしても、新しい何かを創造するためには、既存の枠を壊すことが必要になることがあります。そこにはある程度の攻撃性も必要になるし、ヒンシュクやリスクを負わなければならないことがある。ここで覚悟ができるかどうかが重要です。

たとえばGoogleにしてもYouTubeにしても、著作権などの問題からもずいぶんヒンシュクを買っている。けれどもその従来の枠組みを破壊する企業活動が革新的に社会を変えています。Appleもそうかもしれません。

そこには未来に対する理想があるとともに、この道に進むんだという確固とした信念あるいは覚悟がある。どんなに批判されても正しいものを信じる力がある。こんなことを言ってしまうとどうかとも思うのですが、男のぼくからみて、かっこいい。イノベーションというものは、そういうものではないか。

ヒンシュクで思い出したのは、「チョムスキーとメディア――マニュファクチャリング・コンセント」というドキュメンタリー映画におけるノーム・チョムスキーでした。

チョムスキーは、ある時期から急にアメリカ批判に身を転じる。それまで順調だったアカデミックの世界から自ら離反して、徹底的にアメリカを批判する立場に変わります。実際に歯に衣を着せないトークの映像をみて、いくらなんでもこれは言い過ぎだろう、これじゃあ嫌われるよな、と思いました。でもなんとなく親近感が沸くというか、好きなんですよね、人間としてのチョムスキーが。

ときには軌道から外れてみる

年齢を重ねていくと、どうしても正しい道ばかりを歩くようになります。とんでもない組み合わせを選ぶよりも、常識の範囲で批判されることの少ない選択肢を選ぶようになる。それはそれで成熟した大人の思考であり、大切です。けれども、どうなんだろうと思うこともある。

あぶないひとであることは問題だけれど(笑)、男に生まれてきた以上、ある程度、あぶなっかしさを持っていたい気がします。けれども、なんでもかんでもヒンシュクを買えばよいというわけではなく、ヒンシュクの美学、あるいはルールのようなものが必要かもしれません。喧嘩に卑怯もフェアもないのかもしれませんが、これは絶対にやらない、という規律が大切です。

良識は大事だけれど、ときには良識を疑ってみる。昨日と同じ毎日を延々と繰り返すばかりではなく、たまには自ら軌道を外れてみる。そんな風にちいさな変化をつけることによって、みえてくることも多いような気がしています。まあ、みえなくてもいいことがみえちゃう場合もありますけどね(苦笑)。ただ、嫌なことをみちゃったとしても、それもまた貴重な経験のひとつになるかもしれません。

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2007年5月13日

Guitar / Dealin With Signal Noise

▼music07-027:海がテーマの爽やかなエレクトロ・シューゲイザー。

Dealin with Signal and Noise
Guitar
Dealin with Signal and Noise
曲名リスト
1. Flowers Look Up into the Sky
2. Sine Waves
3. Ballad of the Tremoloser
4. Just Like Honey
5. Song Without Signal
6. I Kissed the Dirt + She Kissed Her Bobtail
7. Watch the White Bird
8. Guitardelays
9. Here
10. Live at Hotel Palestine
11. What Is Love?
12. Guitardelays, Pt. 2
13. Sign Waves

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ネオ・シューゲイズの人気ユニットらしいのですが、Guitarという名前はネットで周辺情報を探しにくい(苦笑)。ぐぐるとギターショップが出てきちゃうもんな。アルバムジャケットで煙草をくわえている彼のいわばひとりユニットで、Digital Jockeyがアーティスト名で本名はMichael Lueckner。ドイツのアーティストとのこと。今回はシアトルのVoyager Oneというバンドをゲストに迎えているようです。

シューゲイザーというのは、そもそも靴紐をみつめるように俯いて内省的なギターを弾くところから呼ばれたそうで、内省的なぼくにはもってこいのジャンルです。しかしながら、どろどろした内側を見つめすぎると現実に戻れない感もありますが、Guitarの創る音は結構からりとしている。というのも、ドリーミーな歌声の日本人女性ボーカリスト、アヤコ・アカシバさんの歌声によるところが大きいかもしれません。Blonde Redheadに引き続き、こちらでも日本の女性シンガーさんが頑張っています。グローバルで女性の活躍が凄いですね。ちなみにアヤコさんはこんなひと(右写真)。

Discography(ドイツ語
http://www.allscore.de/sites/verlagayako_de.htm#disco

着物の後姿が素敵です。

アーティストを理解するために国内盤の前作を購入しようとも思ったのですが、試聴したところ、4曲目の「Just like honey」の爽やかなポップな感じに惹かれてしまいました。押し寄せる波のようなノイズ系のギターも素敵です。浮遊感のあるストリングスもまさに夢のような印象。それから6曲目、テレキャスターのフロントピックアップの音にディレイをかけたようなかわいらしい音ではじまる「I kissed the dirt + she kissed her bobtail」もしあわせな気持ちになれます。難しいことは何もやっていないのですが、単純なフレーズの繰り返しがいい。ずーっとこの音の波打ち際でぼんやりと海をみつめていたい。7曲目「Watch the white bird」(おお、鳥だ)のループはちょっとフェネスっぽい。男性ヴォーカルの「Here」もいい感じ。ベースがいいですね、これは。音質といいフレーズといい、ぼくの好みだったりします。

どうも内省的なアルバムばかりになってしまって、聴いている音楽の傾向が狭くなりがちでどうかなとも思うのですが、最近よい音楽にヒットする確率が高くてしあわせです。5月13日鑑賞。

+++++

なかなかみつからなかったのですが、「Here」の映像をYouTubeで発見。VJでしょうかね。前半のノイズはアルバム内では「Guitardelays」だと思います。GWには水族館に行ってきましたが、深海にいる気分になれますね。

■Here

*年間音楽50枚プロジェクト(27/50枚)

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2007年5月12日

Small Sails / Similar Anniversaries

▼music07-026:聴きやすいけれど、緻密なこだわりが随所に。

Similar Anniversaries
Small Sails
Similar Anniversaries
曲名リスト
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小川のせせらぎのようなアコギからはじまる「somnambulist」。そのきらきら感に惹かれて、ずーっと気になっていたアルバムでした。スモール・セイルズはオレゴン州を拠点に活動する4人編成のバンドだそうですが、イーサン・ローズがバンドの核であること、メンバーに16ミリフィルムを操る映像担当がいることがバンドの最大の特徴とか。あっ、なんとこのバンドもベース不在だ。映像担当がいてベースがいないとは。

イーサンは、自動ピアノロール、壊れたオルゴール、フィールドレコーディング(生録ですか)を組み合わせた「シーリング・ソングス」というアルバムを発表しているようで、これはフェネスの「エンドレス・サマー」に匹敵するクオリティーらしい(ライナーノーツから)。このスタイルが結構好みです。ラップトップミュージックのテイストでありながら、アコギを弾いてハミングで歌って、街頭録音なども加えたりするという。

このアルバムのよさは、電子音を散りばめながら、やはり生ドラムだからでしょうか。タムやスネアの微妙な空気感は、打ち込みのドラムにはない自然な感じがする。そして、イーサンのハミングも気持ちいい。6曲目の「lown makers」のヴォイスとかいい。基本的にインストのポストロックバンドだと思うので、ヴォーカルというよりも声(ヴォイス)なんですよね。そして、サンプリングされた音声をスライスして使っている「earthbound with parents」も面白い。

なんというかですね、音づくりというかサウンドに対するアプローチに非常に親近感がありました(笑)。ああ、ぼくもこうやって作りたいなあ、という。耳あたりがよいので、非常にアンビエントで聴きやすく、ちょっとイージーリスニングやAOR的なサウンドスケープでもあります。カフェでぼんやりと本を読みながら聴きたい音楽という感じでしょうか。陽だまりのなかで。

しかしながら、その実は非常に凝っている。電子音の配置とか耳を澄ませて聴きこむと完璧で、思わずうーむと唸るものがあります。ビブラフォンはこうした曲には欠かせない感じ。8曲目「this flimsy traveling machine」でビブラフォンと一緒に鳴っている電子音のちらばりかたも気持ちいい。

完成度の高い音楽だと思います。そして感性度も高いかも。ぜひ、映像担当のライアン・ジェフリーの映像といっしょに聴いてみたいものです。癒されそうだ。5月12日鑑賞。

+++++

と思ったらYouTubeに映像がありました。木漏れ日のような音と映像ですね。もうちょっと凝ってもいいのかなーとも思うのですが。

■Small Sails - Sonmambulist

*年間音楽50枚プロジェクト(26/50枚)

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2007年5月11日

ブラームス:チェロソナタ集

▼music025:あらためてクラシックに号泣。

ブラームス:チェロソナタ集
ロストロポーヴィチ(ムスティスラフ) ブラームス ゼルキン(ルドルフ)
ブラームス:チェロソナタ集
曲名リスト
1. チェロ・ソナタ 第1番 ホ短調 作品38 第1楽章: Allegro non troppo
2. チェロ・ソナタ 第1番 ホ短調 作品38 第2楽章: Allegretto quasi Menuetto
3. チェロ・ソナタ 第1番 ホ短調 作品38 第3楽章: Allegro
4. チェロ・ソナタ 第2番 ヘ長調 作品99 第1楽章: Allegro vivace
5. チェロ・ソナタ 第2番 ヘ長調 作品99 第2楽章: Adagio affetuoso
6. チェロ・ソナタ 第2番 ヘ長調 作品99 第3楽章: Allegro passionato
7. チェロ・ソナタ 第2番 ヘ長調 作品99 第4楽章: Allegro molto

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先日亡くなったチェロ奏者ロストロポーヴィチのチェロソナタのアルバムです。ピアノはルドルフ・ゼルキン。

なんとなく気になっていたものの手にすることはなかったアルバムですが、今日、会社の帰りにCDショップに立ち寄り、エレクトロニカのCDを2枚ほど購入したのですが、ちょうどクラシックのフロアも同じだったのでざっと見渡してみると、追悼としてピックアップされていた。試聴コーナーで聴いてみようと思ったのですが、既に試聴機を独占しているメガネの男性がいて、なかなか終わってくれない(苦笑)。そんなわけで、1000円だったこともあり、試聴しないで買っちゃえ、ということでレジに持って行って購入しました。

ぼくはクラシックに詳しくありません。バッハぐらいしか聴いたことがない。けれども、まあ聴いてみるかぐらいの感じで、帰宅して深夜にチェロ・ソナタ第1番ホ短調作品38の第1楽章を聴いたのですが・・・。

ちょうど第1楽章の5分を過ぎたあたりで涙がぼろぼろ出てきて止まらなくなった。これは、わかる。すごい。わかるというか、もはや音楽ではない気がする。音が直接、ぼくの脳内の感情に接続された感じ。まいった。いまちょうど、ヘ長調の第1楽章を聴いているところだけれど、やばいです。こんな音楽があったのか!続けて聴いていると自分が崩壊しそうなので、ちょっとやめてみた。はぁ。

ぼくはいままで音楽の何を聴いていたんだろう。そんなことを考えました。けれども受容美学的な観点からすると、作品はそのものの価値だけでなく、受け止めるリスナーのコンディションによって価値はいくらでも変わるものではないでしょうか。いまぼくのセンサーはこの曲を120%キャッチしていて、それは麻薬的にやばいものがあります。クラシックでこれほど感銘を受けるとは思ったことがなかったので、自分でもショックを受けています。ロックどころの感動ではないな。

作品99の第1楽章の終りから、第2楽章のあたり、演奏がロックっぽい気もしました。かっこいい。第2楽章は、ピアノとチェロの対話も美しい。4分あたりの展開もいいし、その後のピチカートの演奏もすごい。パーカッシブで打楽器のようでもある。かすれた音もいい。いま、リアルタイムで曲を聴きながらメモしているのですが、ほんとうにすばらしい演奏だと思う。楽曲もいいなあ。第4楽章の終わりあたりもいい。クラシックでこんなに興奮するとは思わなかった。

音楽って深いですね。まだぼくの知らない世界がある。それにしても感動しすぎて、へとへとです(苦笑)。今日は他のアルバムを聴くのは断念しました。これで満足。5月11日鑑賞。

*年間音楽50枚プロジェクト(25/50枚)

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2007年5月 6日

ディボース・ショウ

▼Cinema016:コーエン兄弟らしいドタバタな法律ドラマ。

B000BIX8GOディボース・ショウ
ジョージ・クルーニー キャサリン・ゼタ=ジョーンズ ジェフリー・ラッシュ
ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン 2005-12-23

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大金持ちと結婚して離婚することによって巨額な富を得ようとする美女マリリン(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)と、離婚専門の弁護士で彼女と法廷で闘う凄腕のマイルズ(ジョージ・クルーニー)の騙し合いのドラマです。コーエン兄弟の監督した映画は、どこか人間のおかしさを描きつつ、人生の落とし穴にはまるかなしい男たちを描いたものが多いと思うのですが、この映画でも、相手側の依頼人としてのマリリンに惹かれて翻弄されてしまうマイルズの愚かな哀愁がうまく描かれていると思いました。


マリリンとマイルズが食事をする場面では、自分の言葉を話さずに引用によって会話するシーンがクールです。敵対する立場にあるので、まずい言葉を使ってしまうと命取りになる。それにしても、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、美しいなあ。そして悪女っぷりも見事です。こういう美女なら騙されてみたいと思ったり思わなかったり(笑)。さらに、ジョージ・クルーニーもびしっとした紳士なのですが、だからこそ逆に取り乱したところがいい。


騙し合いも突き詰めていくと、騙しきれない本心にぶちあたるのかもしれないですね。大笑いできるようなコメディではないのだけれど、どこかシニカルな笑いがある映画でした。5月6日鑑賞。


*年間映画50本プロジェクト(16/50本)

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ヘイヴン -堕ちた楽園-

▼Cinema07-015:ヴィヴィッドな映像が美しい、でもストーリーは・・・。

B001525JP8ヘイヴン -堕ちた楽園-
オーランド・ブルーム ビル・パクストン ゾーイ・サルダナ
ワーナー・ホーム・ビデオ 2008-04-11

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オーランド・ブルームに惹かれて借りてしまいました(苦笑)。なんとなくミーハーな自分がいます。物語は、カリブ海のケイマン諸島で繰り広げられる脱税と麻薬をめぐる人間模様であり、ヴィヴィッドな映像がとても美しい。美しいのだけれど、ストーリー的にはありきたりという感じ。


サスペンスものに多いシーンを断片的にみせてフラッシュバックさせる手法が使われていますが、なんとなくその手法が逆効果な部分もあると思いました。ああ、このシーンはここにつながるのか、と頭のなかで再構成するのが面倒だったりする。もちろん時間を遡ることによって、運命に翻弄される因果関係などが浮き彫りにされるのだけれど、ここまで複雑にしなくてもいいんじゃないでしょうか。夕日の高速度撮影もきれいなんだけど、別になくてもいい気がしました。


島の住民として暗い過去を持ちながら、島のお嬢様であるアンドレア(ゾーイ・サルダナ)と恋をする青年シャイをオーランド・ブルームが演じています。この映画で演じられるシャイは、明るい表情もあるのだけれど、大半が暗い。その暗さを演じているオーランド・ブルームの凄みは魅力的なのだけれども、彼にはやっぱり「エリザベスタウン」のようなハートウォーミングな作品を演じてほしいですね。4月30日鑑賞。


*年間映画50本プロジェクト(15/50本)


公式サイト


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2007年5月 5日

「男の品格―気高く、そして潔く」川北義則

▼book07-015:孤高を恐れず、気高く生きる覚悟のために。

4569652115男の品格―気高く、そして潔く
PHP研究所 2006-04

by G-Tools

思考するブロガーでありたいぼくは、いろいろなことを考え、ときに考えすぎて消耗することさえあります。まず"どう生きるべきかを考える時間は途方もなく無駄である"と仮に言ってみましょうか。どう生きるかなど考えなくても、いまを充分に生きればいい。ぐちゃぐちゃ考えていないで生きろ、行動しろ、という視点です。

けれども人生の密度を高めるためには、たとえ万人にヒンシュクをかってもオレはこう生きる、という行動指針のようなものが重要になることがあります。既成のステレオタイプな考えではなくてもよい。自分なりの価値判断でかまわない。自分の規範(ルール)を持っている男は強いと思います。なんとなくハードボイルド的でもあります。

男にとって生きる規範となるものが美学です。美学は決してきれいごとではない。オレは人生の闇の部分すなわち汚れちまったかなしみだけを引き受けて、ダークサイドに生きていくぜ(ふっ)という選択および価値判断もひとつの美学です。ちょっと辛そうですけどね。無理してそうだよな、これは。決して泣き言を言わないというのも美学です。簡単そうで、なかなかできないことです。どうしても愚痴や辛さは口から零れてしまうので。

あるいは嫌われようが批判されようが、その先に出口がないばかりか荒涼とした大地が広がっていようが、ひとりの人間に徹底的に愛情を注ぐこと、あるいはひとつの分野の仕事や研究を穿ちつづけることもまた美学でしょう。映画や小説のなかにはそんなストーリーがいくつもあります。が、しかしながら現実には、あまりあり得ない。どこかで折り合いをつけてしまうものです。もっと効率よく考えましょう、無駄だからやめときましょうと思う。

しかしながら、無駄なことに対して途方もない費用と時間を費やす生き方こそが、川北義則さんの考える最上の「男の品格」のようです。見返りも求めないし、横並びに誰かがやっているから自分もやるのではない。自分で選び、自分で責任を取る。その覚悟について書かれた本です。そう、覚悟なんですよね、大切なのは。

ビジネスでは効率化が重視されますが、実は効率ではないところに人生の価値があったりもするものです。生活を豊かにするためには「遊び心」が必要です。遊びという言葉からは一見いい加減な印象がありますが、ほんとうの趣味や遊びは、いい加減に適当にやるものではない。趣味や遊びだからこそ真剣にやる。ここまでやったから遊びは終了というものではなく、遊びには限界がありません。無限につづけることができる。だから、徹底的にお金も時間もかけて、あるいは遊ぶために健康管理をして体力を万全にして臨むのが大事である、と。恋愛も同様とのこと。ホンモノの恋愛は命がけであるから、めったにできるものではないと書かれています。

男は遊びのための金を年間100万円用意しろ、というような提言があって、ううむと思ったのですが、「無駄金をどれだけ使えるかが、その人間の器を決めるともいえる。」という一文には圧倒的な何かを感じました。ちまちまと消費しているぼくは、だから器がちいさいのか(苦笑)。

ただ、自分のことを考えてみても、ブログや趣味のDTMには途方もない時間や費用をかけているのですが、これが遊びなのかもしれません。ブログに関していえば、ライターとして原稿料をもらって書くのだとしたら、きっとここまで注力することはないと思います。なんだ○万円しかくれないなら、このぐらいの文章でいいか、と割り切ることもきっとある。もちろん、そんなビジネスライクな職業原稿書きが多いからこそ、費用以上のクオリティや成果をあげるライターが評価されるのだと思いますが。

この本では、いくつも矛盾した見解が出てきます。趣味を究めろ、恋愛は他人の女とするものだ、他人の幸せだけ考えて男は自分の幸せなど考えるな、と述べたかと思うと、趣味で熱くなるのはみっともない、家族が大切、自分だけ幸せになればいい、などと力説されたりしています(苦笑)。ある意味、破綻している。さっき言ってたこととまったく反対じゃん、という提言が多い。

でもですね、ぼくはこの矛盾した提言にむしろ信頼を感じました。世のなかはひとつの理論で解明できるものではない。さまざまな正解が複雑に入り組んでいるものだと思います。また、いずれかの正解を選ぶ覚悟は重要ですが、頑なに守り通すことがよいとはいえない。違うと感じたら潔く捨てる覚悟も必要です。それがしなやかに生きることでもあるわけです。

そして、対立項を同時に存在させようとするときに創造性が発揮され、イノベーションが生まれるのではないでしょうか。いわゆる、小型だけれど高性能、という相反する要件を同時に成立させる無理な難題に取り組むことによって、飛躍的に進歩してきた技術分野は多いと思います。欲張りであることが大切なんだな。

しなやかな生き方の例としては、ハンプトン・ルトレンドという人物のエピソードを引用されていました(P.198)。株で儲けたカリスマ的な存在だった彼は、問題を起こしてどこかへ消えていたのですが、十数年後に現れたときには生き方を180度変えてしまっていたそうです。ストイックな過去のライフスタイルをまったく変えて、煙草は吸う、酒はがぶ飲みする、美味いものを食べる、という徹底的に「いまを楽しむ」スタイルになっていたとのこと。

抑制されたライフスタイルを厳しく評価するかつてのエグゼクティブたちからはヒンシュクを買ったようですが、自分に正直な生き方から彼はまたカリスマになったとのこと。ちなみに「男ならもっと顰蹙を買うことを考えよ」ということも書かれていました。確かに顰蹙を買うことを恐れていると、人間は(というか男は)ちいさくまとまってしまうものです。危なっかしい不良のほうがかっこいい。

他にもいくつも面白いエピソードを引用されていて、川北さんの美学に考えさせられるところがたくさんあります。ちょいワルオヤジなどという言葉もありましたが(もう死語?)、ファッションとか、おしゃれな店を知っているとか、そういう面だけが強調されていた印象もあります(それってちっともワルくないのでは)。大切なのは考え方のような気がしますね。そして川北さんは、考え方はもちろん「経験値を増やすこと」が大事だと述べられています。いくつも恥をかいて、顰蹙を買って、痛い目をみてはじめて、かっこよくなれるのかもしれません。

とはいえ、こんな本を読まなくても粋に生きている男性もたくさんいる。うらやましいものです。読みかけの本を置いていたら「男のひんかくっ(ぐいっと腕を上に)・・・ってなにさ?」と奥さんにからかわれました。「やせ我慢することだよ」と答えておきました。5月1日読了。

※年間本50冊プロジェクト(15/50冊)

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2007年5月 4日

「欲望解剖」茂木健一郎、田中洋、電通ニューロマーケティング研究会

▼book07-014:マーケティングを脳科学と哲学で解剖する試み。

4344012631欲望解剖
電通ニューロマーケティング研究会
幻冬舎 2006-12

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人間の消費行動のメカニズムなどを心理学などによって解明する試みは従来からありましたが、この本ではさらに突っ込んで脳科学や哲学などから市場のメカニズムの解釈を試みられています。

そもそも「解剖」という言葉自体が、医学の用語です。「欲望」という意識を対象とする言葉ではありません。フィジカルなものを腑分けしようとする言葉なのですが、それがカタチのない欲望を解剖するとして使われていて、ジャンルを横断する発想が面白い。たぶんレオナルド・ダ・ヴィンチ的な発想もあるのでしょうね。ダビンチは画家であると同時に、科学者としても人体の解剖図などを描いていたので。

あればいいなあ、と思っていた本だけに、以前から気になっていました。しかしながら逆に仕事に近いということもあって、いまひとつ手にとることができなかった印象です。やはり脳科学や哲学は純粋に読書として楽しみたいという気持ちがあるからかもしれません。仕事系の本はどうしても実践のための勉強として読むようになってしまうので、なんとなく手放しで楽しめないものがあります。

脳科学者である茂木健一郎さんとマーケッターである田中洋さんは、それぞれ専門の知識から、非常にわかりやすく欲望について解説されていて、あっという間に読むことができました(その割にはレビューに時間が経ってしまいましたが・・・)。それぞれの解説があり、最後は対談というセッションで終わるという本の構成も楽しめます。できればリアルでこんな講演があったらうれしいですね。講演×2+パネルディスカッションのような。

茂木健一郎さんの解説では、従来から述べられている茂木さん的なキーワードが網羅されていて、まとめ本としてありがたいと思いました。茂木さんのキーワードを再確認する意味でも参考になります。さまざまな視点を提示されているのですが、ぼくが特に面白いと思ったのは夢の効用について書かれていた部分でした。

「夢の中で記憶の編集が行われる」として、現実の時空間におけるつながりを一旦ほぐして、再構成するのが夢である、と解説されています。つまりインプットされていても、つながっていない情報があって、それが夢という時間を経由することによって新たな文脈でつながる。意識化では分断されていたものが、夢のなかで統合されるわけです。

ネットワーク構造についても述べられているのですが、意味や欲望はネットワーク構造とは無関係につながる、という部分は、なるほどと思いました。効果的なマーケティングとは、ひょっとすると逆説的に、仕掛けてはいけないのかもしれません。さまざまな可能性を提示するだけにとどめておいて、あとは偶有性のつながり(セレンディピティ)に期待する。SNSなども、意図しないところで盛り上がったりするものです。

通常、マーケティングというとAIDMAの最後のAction(行動)が重視されるのですが、Actionのためのトリガーをあえて仕掛けない。消費者の選択に任せるようなマーケティングが、特にネットのブログやSNSを活用したマーケティングでは重要になるのではないか。そんな風に考えました。

一方で、田中洋さんの解説でまずびっくりしたのは、ちょうど読んでいたドゥルーズ+ガタリの「アンチ・オイディプス」が出てきたこと。引用してあるからこの本を選んだわけではないのですが、関心があったときだけにタイムリーでした(びっくりした)。さっぱりわからずに遅々として読み終われない「アンチ・オイディプス」ですが、田中さんが「器官なき身体」などをさらりと解説されるとわかったような気分になる。

田中さんのキーワードで最も注目したのが「ポスト・カルテジアン消費」です。まず次の部分を引用してみます(P.84)。


つい最近、カナダ・ヨーク大学のマーカス・ギースラー助教授が非常に面白いことを話していました。iPodはウォークマンとは根本的に違う、革命的な商品なのだというのです。ギースラー助教授の言うことに従えば、iPodの使用においては自分の身体とiPodの機能とが一体化する、というわけです。この見方にはなにか新しい考えがヒントとして含まれているように思われます。

これは「自分の身体と情報が結合された状態」だそうです。そして次のようにつづきます。

カルテジアンとはデカルト、人間の心と身体は別だという二元論を唱えた哲学者と、その理論の謂いですが、「ポスト・カルテジアン」という言葉は、二元論の止揚された形という意味です。これまで我々は機械を「使う」とか、情報機器を「操作する」という認識を持っていたわけですが、これからは情報消費をベースとして、モノ(機械)と自分自身=アイデンティティとが一体になるような状況が生まれてくる。これは我々にとってヒントとなる考え方ではないかと思うのです。

この考えに共感します。精神か肉体か、感情か理論か、というような二元論で展開される何かというよりも、理論的でありかつ直感に訴えるものであるとか、肉体のなかに精神を見出すとか、企業内にいながらフリーエージェント的に働くとか、対立項を選択するのではなく、複雑な絡み合った多様な世界を多様なままに考える重要性を感じています。二元論の止揚といっていいのかどうかわからないのですが。

したがって機器や情報に身体性を見出すのも面白い視点だと思いました。考えてみると、携帯電話なども自己の身体の延長という印象があります。だからこそカスタマイズ(着せ替えにしたり、メニューを変更したり、ストラップに凝ったりする)わけで。

ぼく自身が、文体=身体というコンセプトをずっと考えつづけていたのですが、テキストの文体はネットではさまざまな情報としてとらえることもでき、そのテキストの身体性によってぼくらはブロゴスフィアに存在している。たとえ文章にすぎないといっても、そこで語られることは脳内だけではなくて、ときには身体を激しく揺さぶるものです。

距離を置いて安全な場所から書いている場合には、テキスト/自己という分断された状態にあるのだけれど、のめり込むとテキスト=自己という仮想的な一体感のようなものが生まれる。だからブログを批判されると精神だけでなく身体的なダメージも受ける。逆に好意的なコメントをいただくと、好意に近い感情が生まれることもあり、リアルな身体を健やかにしてくれることもあります。

ただし仮想をリアルに接近させすぎることは危険でもあり、分身としての身体があったとしても、どこかで仮想とリアルを切断する必要があります。個人的な感覚でいうと、ハイパーグラフィア(書きたがる病)的に中毒な状態になると、かなり切断が難しくなると思いますね。情報との一体感はよいことももたらすけれども、悪影響もある。その悪影響については、ぼくもきちんと考えていきたいと思っています。

と、長文で論考しつつ何かいまひとつ核心に踏み込めていない気がするのですが、夢の効用と同様に、ここで感じたこと少し寝かせておくと、またいつか知らないうちに言葉と言葉がつながって新しい意味を生成するようになるかもしれません。4月18日読了。

※年間本50冊プロジェクト(14/50冊)

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イルカな休日。

エプソン品川アクアスタジアムに行ってきました。なんとなくいつもGWになると水族館にイルカのジャンプを見に行っている気がします。青葉が繁り、陽射しが強くなりつつあると、プールのなかを泳ぐさわやかなイルカたちに会いたくなるのでしょうか。イルカがぼくを呼んでいるか(これはダジャレか)?そうでもないか。

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イルカはすごいな。彼等は鳥ではないのだが、高く跳べる。けれども高く跳べないラッキーくんというカマイルカもいて、なんだか溺れているようにみえた(苦笑)。半分溺れているのだけれども、一生懸命頑張っていて、けなげですね。実は彼は唯一のオスらしく、あとはすべてメスのイルカとのこと。跳べない不器用なオスのイルカくんに共感というか同情を感じてしまいました。頑張れ。

水族館のあとは、甘味処でひとやすみして、子供たちは季節を先取りしてカキ氷を満喫。ぼくはビールを飲んでいたのだけれど、彼等が残した2つのカキ氷のフィニッシュ役になってしまった。これがまた甘くてまいった。とはいえ、カキ氷のあとにビールじゃなくてよかったですね。夕飯はそのまま外で焼肉を食べたのですが、こちらではぼくが肉を焼いている端からみんな食べられてしまったため、お酒ばかりを飲んですっかり酔っ払いました。

家族サービスというほどではなくて、イルカをみたいといったのはぼくだったし(みんな、えーっと嫌がっていた。まったくうちのインドア家族ときたら)、次男などは「はやく帰ろうよ」ばかり言っていたのだけど、まあ、それなりに楽しかったようです。そんなわけで満足です。

時間は永遠にあるように感じるのだけれど、子供たちもどんどん育っていく。そのうちに、家族の時間より友達や彼女との時間を優先するようになるのでしょう。それはそれで頼もしいのだけれど、親としては寂しいものもあります。あとどれだけ、こうやって家族で楽しむ時間が残っているのか。家族に限らず、あらゆるコミュニケーションにおいて言えることなのかもしれませんね。ぼくらは永遠に生きつづけることはできない。いつまでも同じ時間を共有することは不可能です。

そのかけがえのない時間は、一瞬だけ高く跳び上がって水滴をきらめかせるけれども、すぐに水のなかに潜ってしまうイルカのジャンプのようなものかもしれません。

いまを大切にしたいものですね。

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2007年5月 3日

ふんばってるキノコは。

連休真っ只中ですね。今日はものすごい快晴でした。しかし、家で仕事をしておりました(あまりはかどらず)。仕事をしているんだけど、音楽を聴きながらいろいろと考えたりする時間が楽しい。連休だからどこかへ出かけねば、という強迫観念は捨てて、仕事を楽しむ、音楽を楽しむ、部屋の片づけを楽しむことに割り切りました。

部屋の片づけでは、ものすごく大量のものを捨てました。明日あさってにも継続して捨てるつもりですが、すっきりだ。ついでにPCやネット関連のブックマークなども整理中です。息抜きを楽しむことに関しては、ギター弾いたり、曲作ったりしているのですが、先日あまりにものめり込んで作りすぎたので、ちょっと後遺症があります。できあがったものはたいしたことないのですが、ものすごく細かい編集作業をしたんですよね。で、燃え尽きちゃった(苦笑)。しばらくは、あまり曲は作れないかもしれないなあ。とはいえユーガな休日です。

ところで、机の前には次男くん(4歳)作の絵があって、これがもうほんとうに和ませてくれます(笑)。ウルトラセブンに登場する怪獣を書いた絵です。これです。

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キングヨーって(苦笑)。キングYO!って感じでしょうかね。かっこいいYO!おっきいんだYO!みたいな。ちなみに正式名称はキングジョーです。ソフビ人形の写真を。

B000R4NC40ウルトラ怪獣シリーズ16 キングジョー
バンダイ 2007-06-30

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ところで、隅っこのほうに、たぶんちっぽけなウルトラマンともうひとつ「ふんばってるキノコ」のようなものがあります。なんだこりゃー?。拡大してみると、これです。

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なになに?えびらやいじん?「や」じゃなくて逆さまの「せ」か。ああ、セブンに出てくるビラ星人か。エビみたいだから、「えびら」ってのはわからないでもない。パパもそういう名前かと思っちゃったぞ。探してみたらこれです。

B001ILKTVUX-PLUS エクスプラス・大怪獣シリーズ ウルトラマンセブン編 宇宙蝦人間ビラ星人
エクスプラス

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うーむ。どうでしょう(笑)。まあ、怖そうな顔を書こうとすると、次男くんの表現としてはこうなっちゃうんだろうな。むーって口も結んでいるし。

彼と話していると、うれしい話になるとぴょんこぴょんこ跳びはねたり、走り出したりするので困る。もうちょっと落ち着いて話なさい、といっても、だってうれしいとこうなちゃうんだもーん、とのこと。しかも、走り出すと必ず何かを破壊するか、転んで自分を破壊して泣いちゃうかどっちかなので苦笑です。まあ、アーティストは破壊が大事だよな。ほどほどに破壊してくれ。

明日はどこかに外出したいなあ。そんなこと考えながら、ビール飲みつつブログ書いている休日のど真ん中の夕方でした。

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2007年5月 2日

ashes and snow。

感動というものは、そのとき/その場所においては満たされていても、すぐに薄れてしまうものです。ゆっくり書こうと思ったのですが、日常生活のなかでどんどん失われてしまうので、先に書いておくことにします。

快晴の振替休日、お台場のノマディック美術館でグレゴリー・コルベールの「ashes and snow」の展示を鑑賞に行ってきました。茂木健一郎さんのブログ「クオリア日記」の記事で知ってサイトを見て、おおーこれは行きたいぞと思った展示です。

お台場の大観覧車を見上げつつ、コンテナで組まれた倉庫的な美術館へ。連休ということもあって、かなりのひとが訪れていました。

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非常に立派なパンフレットと小冊子が無料で配られていてすごいなと思ったのですが、解説から引用します。

Ashes and Snowは、写真作品、映像、美術装置、手紙形式の小説が一体となった、現在も進行中のアートプロジェクトです。15年間にわたり、グレゴリー・コルベールは40回以上もの長期遠征を行い、インド・エジプト・ミャンマー・トンガ・スリランカ・ナミビア・ケニア・南極大陸・ボルネオ諸島など世界各地で、人間と自然界の傑作ともいうべき動物との交流を写真や映像に収めてきました。

15年つづいていて、いまも進行中のライフワークということに驚きました。グレゴリー・コルベールはもともとパリで社会問題のドキュメンタリーフィルムの制作からスタートして、芸術作品の分野に転身したようです。はじめての作品展示は1992年のようですが、つづく10年間はまったく作品を発表しなかった。そして、空白の期間を含めた15年にわたる制作活動がいまも継続されている。なかなかできることではありません。

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芸術を究めるためには、孤独のなかで自分に向き合う時間が大切であった、と茂木健一郎さんのブログでは書かれています。以下、引用します。

グレゴリーは、何よりも、魂の
孤独(solitude)が必要だったと
言った。

現代人は、あまりにも多くの
情報に串刺しされて日々を過ごして
いるが、孤独に浸って初めて
わかることがある。

グレゴリーの作品は、動物と人間の
間の共感(empathy)を描く。
グレゴリーの写真の中に表出するような
深い共感も、それに呼応する
魂の孤独があって初めて可能に
なるのかもしれない。

先日、「品格ある人物になりたい」という記事でも書いたのですが、時間に追い立てられたり、さまざまなしがらみのなかで絡み合った生活の中で、ときにはあらゆるつながりを切断してひとりになる。そんな時間も大切です。ぼくもひとりで美術館を訪れたのですが、こういうのも悪くないな、と思いました。

ノマディック美術館の入り口を潜り抜けたとき、わっと押し寄せてきたのはまずはインキの匂いでした。大きな手漉きの和紙に動物たちと人間の写真が焼き付けられていて、すべてがセピア色です。粒子が粗くて、木炭のデッサンのようにもみえる。作品の下には石が敷き詰められていて、大きな写真に囲まれた通路は宮殿あるいは街路樹に囲まれた舗道のよう。この美術館は日本人建築家の坂茂さんによって設計されたとのことです。

大きな写真と3つの映像が展示されているのですが、いずれもアジア系の人物と動物たちが寄り添うように存在するシーンで、人間たちは、ほとんどが目をつぶっています。瞑想しているようにもみえるし、祈りを捧げているようにもみえる。一方で、動物たちは目を見開いている。サルがぱちっと目をあける映像では、こんなにかわいい目をしていたのか、と思いました。涙が溜まっているようにもみえた。

動物と人間の動きにまず感動です。野生の動物たちに演出はできないですよね。彼らに人間の言葉はわからない。けれども、動物たちの動きはまるで演出されたかのように美しい。そして人間の舞い踊る姿と重なることによって、もしかして神様っているのかも?!と思うような、神秘的な世界を生み出しています。世界の広がりも感じる。

写真と同様のシーンが映像にもなっていたので、これは映像から静止画をプリントしたのか、と思ったのですが、そうではないようです。次もパンフレットから引用。

どの作品もデジタル画像処理や合成、字幕などを加えずにコルベール自身がレンズを通して見たままに記録されました。スチールとムービーカメラの両方を使っていますが、スチール写真は独自に撮影されたもので、映像のワンシーンを流用したものではありません。

これは何気なく凄いことです。どうやって撮影したんだろう。

ちょっと官能的なシーンもあって、オランウータンと人間の女性が手を絡めて、たぶん彼女の腕についた水を舐めようとしているのだと思うのだけど、まるでオランウータンが彼女の腕にキスをするようにみえる映像もありました。勝手な見る側の解釈だけれど、自然界における異種を越えた愛情を感じました。ふたりは舟のなかにいるのですが、オランウータンは彼女の手を引いて、舟の先頭のほうへ移動する。言葉はないのだけれど、なんだか、こっちへおいでよ、という声が聴こえそうな映像です。

3つの映像が公開されていたのですが、2つ目の大きめな会場で映像を観ているときに、ああーこれはやばいなと思ったら、感動して不覚にも涙が出てしまった。

確か踊る女性の後ろからワシのような鳥が飛んでくるシーンだったかと思います。音楽もいい。弦の響きが広い館内に響きわたって、特にチェロのような低音がやさしい。さらに2番目の会場では、パーカッション的な激しいビートも使われていて、思わずリズムを解析しようとしている自分がいました(苦笑)。

おみやげに奮発して、ジャバラになったミニ写真集と、「the bird path」といういわゆるパラパラ漫画的な写真集を購入。いずれも1600円。ううう、ちょっと出費が痛いです。DVDを購入すると、いろいろなものがもらえたようですが、1万円だもんなあ。

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ちなみに、帰宅して「the bird path」を息子たちにみせたのですが、すぐに反応したのは次男くんでした。「もういっかいやってみたい」とぺらぺらやるのですが、ぐしゃっと折りそうな感じで、はあああ、それはちいさいけど1600円もしたので大切にしてくださぁい(泣)と父は怯えました。ちょっとリッチな時間を過ごしても、家に帰るとぜんぜんリッチじゃないな。

6月24日まで開催されているようです。ううむ、書き足りないような気がする。ぼくのセンサーは館内でいろいろなことをキャッチしていたはずなのですが。

+++++

公式サイト。このサイトだけでも写真を鑑賞できます。やはりインキの匂いや館内に響く音は美術館に行ったほうがよいと思うのですが、いずれはインターネットでバーチャルな臨場感も可能になるのでしょうか。

http://www.ashesandsnow.org/jp/
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