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2007年5月15日

既存の枠組みから踏み出す。

家族でテレビのCMを見ていたときのことですが、「この外人の女性はだれだっけかな?」と思い出せなくて呟いたところ、10歳の長男くんが「あれじゃないのかな。違うかな」と、自信なさそうな顔で言っていました。

間違っていてもいいから言ってみな、と促してみると「キャメロン・ディアス?」とのこと。正解。そうだよ、なんで知ってるの?と訊くと、「だって、ホーム・エクスチェンジに出てるひとでしょ」と映画名まで出てきました(うーむ、ぼくはその映画知らなかった。恥)。

10歳児とはいえ、あなどれません。アタマのなかはポケモンやウルトラマンの怪獣データベースだけかと思ったら、それ以外のこともよく知っている。もちろんテレビをよく見ているせいなのかもしれないし、あるいはまだ若くて柔軟な頭脳だからかもしれないのですが、記憶力がいい。というよりも、思い出せなくて考え込んでしまったぼくの記憶力が劣化しつつあるのか。

つなげる力、間違いという創造性

ここで記憶力と言うのは、当たり前だけれど、アーカイブされたビジュアル(映像)とコトバを結びつける力です。

名前の場合は、ほぼ1対1でビジュアルと言葉が対応している。といっても、本名じゃない芸名やあだ名などがあれば1対多になりますね。けれども、よく考えてみると、実体と言葉のつながりは強いものではなくて、実は自由に結び付けることができる。言語の恣意性というのでしたっけ、ソシュールの記号論だったような気もしましたが忘れましたが。

戸籍上ではぼくの名前はひとつですが、誕生したときを考えると、いくつもの候補があったはずです。ぼくはぼくの名前じゃなくてもよかった。(ちなみにうちの息子の長男くん誕生時には、男の子の名前はひとつしか考えていませんでした。女の子がほしかったので20個ぐらい女の子の名前は考えていたのですが)。

名前=実体の結びつきがゆるやかであるからこそ名前を間違えてしまうこともあるわけで、間違えた実体と、正解の方の実体を比べてみるとなかなか楽しいものがあります。ああ、ぼくはこういう観点でごちゃまぜにしていたんだなあ、という思考の傾向がわかる。ときにはどうしてこんな間違いをしてしまったのか、という驚きもあったりします。とんでもない勘違いに自分で脱力することもある。

けれどもこのようなつながりの間違いが、実は創造性につながるのでは?という考えが浮かびました。

とんでもないものを組み合わせてしまう発想が、新しい何かを生み出すことがあります。異種を掛け合わせて新しい種をつくるバイオテクノロジー的なアプローチに似ているかもしれません。しかも意図的にやるのではなくて、無意識のうちに、あるいは失敗して組み合わせてしまったようなときに新しいものが生まれることがある。偶然かもしれないのですが、長期的な歴史を考えると必然的に生じた間違いかもしれません。

昨日もギターを弾きながら、コード譜という既成の何かを参考にせずに、音の響きから和音を探すアプローチが面白いということを書いてみました。一度アタマのなかにあるコードの押さえ方を白紙にして、手探りで響きを探ろうとする試みです。これが結構新鮮なのですが、しかしながら、どうしても既存の枠組みにとらわれてしまう。既成のコードに絡み取られてしまうわけです。

常識というものはなかなか破壊できないものですね。その枠組みはかなり強固で、どうしてもぼくらを縛り付ける。常識から一歩踏み出すことができない。

常識から踏み出す

ところで、ちょっと話を変えるのですが、先日、川北義則さんの「男の品格―気高く、そして潔く」という本を読み終えました。その本には「男ならもっと顰蹙を買うことを考えよ」ということが書かれていました。これもまた常識を破壊して、一歩踏み出すための考え方かもしれません。

しかしながらですね、現実として、できればヒンシュクは買いたくないものです(苦笑)。実際にヒンシュクを買ってみるとわかるのですが、人間として、あるいは男としてかなりのタフさが求められる。メンタルな部分でやられます。穏やかに、角の立たないことを言って、平和に暮らすのがいちばんよいものです。悟りを開いた老人のように、ね。あるいは安全な場所から、ヒンシュクを買っているひとに突っ込みを入れる立場がいちばんいい。

しかしながら、技術にしても文学にしても、あるいは音楽にしても、新しい何かを創造するためには、既存の枠を壊すことが必要になることがあります。そこにはある程度の攻撃性も必要になるし、ヒンシュクやリスクを負わなければならないことがある。ここで覚悟ができるかどうかが重要です。

たとえばGoogleにしてもYouTubeにしても、著作権などの問題からもずいぶんヒンシュクを買っている。けれどもその従来の枠組みを破壊する企業活動が革新的に社会を変えています。Appleもそうかもしれません。

そこには未来に対する理想があるとともに、この道に進むんだという確固とした信念あるいは覚悟がある。どんなに批判されても正しいものを信じる力がある。こんなことを言ってしまうとどうかとも思うのですが、男のぼくからみて、かっこいい。イノベーションというものは、そういうものではないか。

ヒンシュクで思い出したのは、「チョムスキーとメディア――マニュファクチャリング・コンセント」というドキュメンタリー映画におけるノーム・チョムスキーでした。

チョムスキーは、ある時期から急にアメリカ批判に身を転じる。それまで順調だったアカデミックの世界から自ら離反して、徹底的にアメリカを批判する立場に変わります。実際に歯に衣を着せないトークの映像をみて、いくらなんでもこれは言い過ぎだろう、これじゃあ嫌われるよな、と思いました。でもなんとなく親近感が沸くというか、好きなんですよね、人間としてのチョムスキーが。

ときには軌道から外れてみる

年齢を重ねていくと、どうしても正しい道ばかりを歩くようになります。とんでもない組み合わせを選ぶよりも、常識の範囲で批判されることの少ない選択肢を選ぶようになる。それはそれで成熟した大人の思考であり、大切です。けれども、どうなんだろうと思うこともある。

あぶないひとであることは問題だけれど(笑)、男に生まれてきた以上、ある程度、あぶなっかしさを持っていたい気がします。けれども、なんでもかんでもヒンシュクを買えばよいというわけではなく、ヒンシュクの美学、あるいはルールのようなものが必要かもしれません。喧嘩に卑怯もフェアもないのかもしれませんが、これは絶対にやらない、という規律が大切です。

良識は大事だけれど、ときには良識を疑ってみる。昨日と同じ毎日を延々と繰り返すばかりではなく、たまには自ら軌道を外れてみる。そんな風にちいさな変化をつけることによって、みえてくることも多いような気がしています。まあ、みえなくてもいいことがみえちゃう場合もありますけどね(苦笑)。ただ、嫌なことをみちゃったとしても、それもまた貴重な経験のひとつになるかもしれません。

投稿者 birdwing : 2007年5月15日 00:00

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1 Comment

消失ぴば 2009-07-21T17:22

ヤフーの画像検索から駆けつけました。
どこからどうみてもアヴリルに見えたんで;;

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