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2007年9月30日

[掌編小説] 青い鳥のおはなし。

Twitterというミニブログを併用しているのですが、そちらでは文字制限(140バイト:2バイトの日本語の場合、70文字)があって長文は入力できません。長文を入力すると画面で怒られてしまいます。

そもそもTwitterは、What are you doing? というサブタイトルにある通り「いま何してる?」という言葉でつながるというコンセプトでサービス展開されたブログでした。つながることもできるので、SNS的でもあります。そんなもの何に使うんだ?という批判もあったのですが、かしこまって書かなくてもいいので、メモ代わりとチャット風のプチコミュニケーションに何かと利用しています。

ところで、妄想過多なぼくは、ぼーっとしているあいだに曲を考えたり、物語を考えることがよくあります。

土曜日に仕事の待ち時間を利用して15分ばかりでささやかな物語を書き上げたのですが、それをTwitterにアップしてみました。「ついったー掌編小説」という試みだったのですが、Twitterはアップしたものから下に送られていくため読みにくいので、ここで全体を再掲載してみます。


+++++++++++++++++++++
青い鳥のおはなし
+++++++++++++++++++++
作:BirdWing

空が大好きな少年がいました。
とてもきれいな青空のある日、
「ぼくはこの青空を、これから10年のあいだ好きでいるんだ!」
と、少年は空を見上げて誓いました。

ところが空は、少年に冷たい雨を降らせました。
空に悪気があったわけではありません。
雨は生き物にとっては、とても大切な恵みなのです。
けれども、その冷たい仕打ちを勝手に勘違いした少年は、
むっかー!こうしてやるっ!
と、空に向かって石を投げつけました。

重力の法則にしたがって、投げた石は少年の頭に。
ぽこん。きゅう。
少年は意識を失いました。

***

目覚めてみると、少年は
一羽の青い鳥になっていました。

どうしたんだこれは。でも、ぼくは飛べるぞ!
彼は空の高みに向けて飛び立ちました。
これで大好きな空に近づくことができる!
ところが、どこまでいっても空に近づくことはできません。

青い鳥は空のために歌を歌いました。
けれども、その歌は空には届きませんでした。
青い鳥は羽を抜いてペンにして想いを書き綴りました。
けれども、その文字は空には届きませんでした。
いたたまれなくなった彼は、空に向かって飛び立ちました。

***

どれぐらい飛んだことでしょう。
凍えるような寒さに、ふと見上げると
頭上には、きらきらと輝くオーロラが。
その光の帯はまるで夢のようでした。

きれいだなあ。
そして青い鳥は思いました。
空に届かなくてもいいや。
こうして、きれいな空を見守ることができれば。

星が降り注ぎ、月がなんども満ちたり欠けたりするあいだ
彼は空を見守り続けました。

そうしていつか、静かに、
青い鳥は疲れた羽を閉じて、深い眠りに落ちたのでした。
とてもしあわせそうな顔で。
青空を見上げていた、少年のときの顔つきで。

<了>

+++++++++++++++++++++

Twitterでは上記の物語を1行ごと投稿していったのですが、リアルタイムでコメントをいただいてものすごくうれしかったです。書いた直後に感想をいただけるなどということは、印刷の出版ではあり得ないことですよね。すごい時代になったものです。

えー、ここからは物語の書き手の立場から理屈っぽいことをメモするので、純粋に物語だけを楽しみたい方は読まないほうがよいでしょう(苦笑)。

構造主義の流れで、昔話を機能から構造化したのはウラジミール・プロップだったかと記憶しています。Wikipediaのウラジミール・プロップのページに「昔話の形態学 (Morphology of the Folktale)」として昔話の構造31の機能分類があったので引用します。

01.「留守もしくは閉じ込め」
02.「禁止」
03.「違反」
04.「捜索」
05.「密告」
06.「謀略」
07.「黙認」
08.「加害または欠如」
09.「調停」
10.「主人公の同意」
11.「主人公の出発」
12.「魔法の授与者に試される主人公(贈与者の第一機能)」
13.「主人公の反応」
14.「魔法の手段の提供・獲得」
15.「主人公の移動」
16.「主人公と敵対者の闘争もしくは難題」
17.「狙われる主人公」
18.「敵対者に対する勝利」
19.「発端の不幸または欠如の解消」
20.「主人公の帰還」
21.「追跡される主人公」
22.「主人公の救出」
23.「主人公が身分を隠して家に戻る」
24.「偽主人公の主張」
25.「主人公に難題が出される」
26.「難題の実行」
27.「主人公が再確認される」
28.「にせ主人公または敵対者の仮面がはがれる」
29.「主人公の新たな変身」
30.「敵対者の処罰」
31.「結婚(もしくは即位のみ)」

ぼくが書いたのは昔話ではありませんが、プロップの機能から考えてみると、次のような機能を組み合わせて作っているのではないかと思います。

「加害または欠如」 →石を投げる
「主人公の新たな変身」 →青い鳥になる
「主人公と敵対者の闘争もしくは難題」 →歌を作る、文章を書く
「主人公の出発」 →飛び立つ
「主人公の移動」 →オーロラの見える場所へ移動
「発端の不幸または欠如の解消」 →しあわせに眠る

物語を考える上では、このような機能や構造が重要ではないか、と考えています。いま本棚のどこにあるかわからずに探し出せないのですが、映画のシナリオ(脚本)作法の「ハリウッド脚本術―プロになるためのワークショップ101」 にも同様のことが書かれていました。

484590117Xハリウッド脚本術―プロになるためのワークショップ101
ニール・D・ヒックス
フィルムアート社 2001-03

by G-Tools

長男くんが大好きなドラゴンクエストなどのRPGも基本的には伝承されてきた昔話などの機能を組み合わせて作られていることが多く、新しいようで実は古い。

そして実はこのフレームワークを認識することが、世のなかという「物語」を読み解く上では重要になってくるのではないでしょうか。もちろんフレームワークに固執すると、たとえば「起承転結」的な呪縛にとらわれて動きがとれなくなりますが、そこで意識的に「結」を別の機能に置き換えてみるとか、そんな発想がイノベーションを生むのではないか。

物語をデザイン(=設計)するという観点から、そんなことを考えてみました。

投稿者 birdwing 日時: 16:34 | | トラックバック

2007年9月29日

生活のなかで繰り返されるもの。

今月、小遣いをもらったときに、はい、と1枚多めに渡されました。おおっ、最近休日も働いているので労っていただけるのですね、ありがたく頂戴いたしますーと財布にしまっていたら、しばらくして奥さんがやってきてドアの陰から、

無理しなくてもいいからね・・・

とのこと。えーと、無理しなくても?ああ、そういうことか(苦笑)、と思い当たったのが、彼女は今月、誕生日だったのでした。とほほ。というわけで花束とプレゼント。足出ちゃったんですけど(泣)

花束

写真立て

ケーキ

なんだか結婚式の引き出もののようなプレゼントですが、というか正直なところ引き出ものコーナーのようなところで買ったのですが(苦笑)、写真立てです。欧米風に子供の写真とか飾ってほしい、と思いました。ただ、何度も写真立てはプレゼントしているので、もう写真立ては結構です(苦笑)、と言われてしまった。そりゃそうでしょう。

しかし、デパートをぐるぐる回ったのだけれど、その予算内であげられるものは結構決まってしまい、悩むんですよね。女性の方は、どんなものを贈られると喜ぶんですかね?

だいたい男性は、付き合う前とか結婚する前には彼女に対して努力や投資を惜しまないものですが、付き合いはじめたり結婚すると手を抜くものです(ははは)。ぼくもかなり手抜きなほうで、アイロンかけや掃除は趣味なのでたまに手伝ったりするのですが、料理はできないし、子供たちもまかせっきりだったりする。で、趣味のDTMに集中して(なるべく深夜にやろうと思っているのだけれど)休日は部屋に引きこもったりしているので、旦那に対する不満はいろいろあるだろう、と。

それもどうだろうと反省して数年前から、結婚記念日と誕生日には必ず奥さんへの感謝を表明し、花束を贈るようにしています。ところが、最初は困ったような泣きそうな顔をしていた奥さんも、最近は慣れてしまって、はい花束ね、ども、でおしまい。どんなことであっても、生活のなかで繰り返されるとルーティン化されて感動も薄れていくものかもしれません。

とはいえ、その日常化することが大事かもしれなくて、できれば息子たちには、誕生日には彼女(もしくは奥さん)に花束を買って帰るものだ、という常識として認識していただきたい。頼むぞ、きみたちの未来の相方を大切にしてくれたまえ。というか、相方できるのか?という不安はあるのだが・・・。

しかしながら、ママにバースデイ・カード書けば?と言い残して仕事に行ったのですが、ぜんぜん書く気もなかったようで、だから男の子は嫌いだー、と奥さんは嘆いておりました。

運動会、誕生日、お正月、クリスマスなど、生活のなかで繰り返されるイベントがあります。運動会などは子供たちがちいさいうちだけで、いずれはなくなってしまうのですが。

ということを考えていて思い出したのですが、ぼくが子供の頃、節分には親父が豆といっしょにお菓子や小銭を撒くショータイムがありました。お菓子撒くぞーという父親の召集があって、みんなでわーいと拾ったりしたものでした。100円玉拾ったときにはうれしかったなあ。よく考えると、競争力を付けさせるという親父の教育的意図があったのかもしれない(いや、そんなものなくて、ただやりたかったのかもしれん)。

成長してから、どの家族でもみんなそういうものだと思っていたら、そうでもなかったので愕然とした記憶があるのですが、家族オリジナルの習慣のようなものを作って、それを定着化するのも楽しそうですね。先日コメントでいただいた、おとーさんの出勤前に奥さんと娘さんがちゅーをして見送る、という習慣もよいなあ(遠い目)。

エイプリルフールなども、楽しもうと思えばめちゃめちゃ楽しめそうな気がする。これからの季節では、ハロウィンなどもいいですね。お月見だって楽しめたはず。

仰々しくデザインとかプランニングとか考えることも大切であり、さすがにそれが仕事であると重くもなるのですが、生活にちょっとした変化を与える「企画」というものも大切かもしれません。お金と時間をかけて贅沢に旅行することであってもかまわないのですが、もっとちいさな工夫もできそうな気がしています。

投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

2007年9月28日

磨かなければ光るはずもなく。

かっこよさ、について考えています。どうすれば年齢を重ねつつ、かっこいいオトコになれるか。男性のかっこよさとは一体何なのか。

やはり、オトコとして生まれてきた以上、いくつになってもかっこいいオトコでありたいじゃないですか。ナルシズムで勘違いしたかっこよさではなく、雑誌のトレンドの真似をするのではなく、それぞれが独創性を持ってかっこよさを追求し、シニアのかっこいいおじさんが増えると世のなかに活力が生まれる気がする。

外見についてはある意味、仕方ない部分もありますが(苦笑)、個々人が何を考えているかということは顕著に顔に出るのではないでしょうか。

自分の顔に責任を持ちなさい、などということも言われるように、姑息なことをいつも考えていれば姑息な顔になるし、夢見がちであれば夢見がちな顔になる。ネガティブなことを考えていれば視線は俯きがちになるし、未来や理想に焦点をあてていればきりりと引き締まる。

どんなに外見を繕っても、内面の弱さは必ずどこかの側面で露出します。だから思考が大事であり、内面から磨かなければ、(ほんとうの)かっこいいオトコにはなれない。

たとえば、オレにはこんなにガールフレンドがいるんだぜ、というあからさまな表明はかっこ悪いと思うな、ぼくは。自慢したいのはわかるのだが、だから?という気がする。むしろ少数の女性をひそやかに、けれども深く愛するほうが、オトコとしては格段にかっこいいのではないか。モテなくてもいい。相手を想う気持ちが強かったりするほうが、かっこいい(もちろんストーカー的に、ではなくてね)。

えーと、ここで「少数」というのが、さりげなくポイントだったりします。一途に、ひとり、でなくてもいいわけですね(笑)。かっこいいオトコはきちんとした節度のもとに、複数の誰か(何か)を愛することができるのではないか。欲張りでいい。

もう少し視点を広げてみると、不特定多数の他者からの評価を期待するのではなく、オレに何ができるのか、ということを追求する姿勢かもしれません。愛されなくてもいい、愛することが大事である、という。他者に何かを求めるのではなく、自分にできることを重視する。

愛されることばかりを期待して、愛することのできないオトコはかっこわるいですね。精神的な乳離れができていない気がします。仕事に置き換えてみると、評価ばかりを期待して実力がともなわない人間でしょうか。あるいは表層的な社内政治には長けているが、理想や信念のないオトコかもしれません。会社の利益にぶらさがっていて貢献していない。テイクばかりしていて、ギブしない姿勢です。奪うばかりで与えることがない。

まず、

どれだけのものを与えることができるか、

ということが重要だと思います。その幅が、オトコの器量となる。

器量の幅は、お金かもしれないし、美味しい店を知っているという知識や経験かもしれない。あるいは、大切なひとのために割く時間かもしれないし、やさしい言葉をかけられることかもしれない。ナロウなぼくは、どれもすっからかんで、あるいは頑張ろうとしてもいっぱいいっぱいだったりします。強いて可能であるとすれば、「やさしい言葉をかけられる」という最後のことぐらいでしかないのですね、ぼくにできることは(苦笑)。

かっこいいオトコにはテツガクがある、と思います。かっこよさが思考や信念に裏づけされているから、不動のものとなっている。表出されている外見と内面に、ブレもなければズレもない。行動規範があり、なぜそのファッションなのか、なぜその音楽や映画を鑑賞するのか、なぜその場所へ訪れるのか、という理由がある。理屈ではなくて(苦笑)

そしてオトコはある時期までは、競争や過酷な環境のなかで生きるべきかもしれない。常に四面楚歌というか、周囲は敵ばかりの環境下に置かれると、顔も引き締まざるを得ません。閑散とした職場でぼけーっと新聞を読んでいるよりも、ハードな状況下でばりばり仕事をこなしたほうが、ストレスもあるでしょうが、顔つきが変わる。

死にものぐるいの恋を経験したほうが、オーラが出る。勝ち目のない敵に牙を剥いたり、勝算のないゲームにあえて自分を投じてみたり、リスキーな仕事に自ら手を挙げてみたり。そんな挑む姿勢がオトコを磨くのではないか。そりゃ、しんどいですが、最初から穏やかな老後のような人生を送ってどうする。

年取っちゃったから、という言い訳をしたときに、すべての努力を放棄しがちですよね。おじさんはその切り札を安易に使いたがる。

最新技術が苦手で本を読まないのも年取っちゃったから(活字がちいさくて読めない、という)、流行に疎いのも年取っちゃったから、お腹がぽこぽこ出てきたのも年取っちゃったから、恋愛なんて照れくさくて知るかーというのも年取っちゃったから、ファッションはどうでもいいと思うのも年取っちゃったから。あらゆるものにこの言い訳は適応できます。万能だ。

しかしながら磨かなければ光るはずもなく、あなたがそんなおじさんになっちゃったのは、他でもない、あなた自身のせいだ、と思うのです(と、自分に言ってみる)。そして、その万能な言い訳をとりあえず封印してみるだけでも、少し背筋が伸びて、かっこよくなれるのではないか。

そんなお手本となるかっこいいオトコがロバート・ハリスさんなのですが・・・うわああっ、彼の本から示唆を得たことについて書こうと思いつつ、また書けないっ(泣)どれだけ、ひっぱるのでしょーか。

後半に続く(のか?)。ハードな仕事と緊張によるハイテンションの連続で、ちょっとおかしくなっています。壊れかけていて困ったものですが、そんな不安定な状態もまた自分である、ということで、書きながら安定した文章へ、そして安定した自分へ、リアルな部分も含めてコンディションを整えていこうと思います。

投稿者 birdwing 日時: 07:25 | | トラックバック

2007年9月25日

知的渦巻き始動。

今年の夏はブログの引越しとMovable TypeおよびCSSをいじるのに忙しくて、いまひとついろいろなことをインプット/アウトプットできませんでした。

けれども最近、MT&CSS熱も少しばかり落ち着いてきたようです。まだまだやりたいことはあるのだけれども、ブロガーとしてはイレモノを作るよりも中身を作りたいと思うわけで、とりあえずは文章を書きながらMTやらCSSやら勉強していくことにします。

久し振りに趣味のDTMに没頭して、2週間で2曲ほど作ってみたのですが、作っているときには感性の働きをフル稼働させています。あまり余計なことは考えない。けれども、完成した曲を何度も聴きながら推敲・・・推敲は文章か・・・修正のためにチェックしているとき、今度は論理的にいろんなことを考えます。創作の過程に関することであったり、全然関係のないプチ哲学的な何かだったりするのですが、そこでブログのヒントを得たりもします。

ここ2週間、超多忙な仕事の合間をぬって曲作りに没頭しながらいろんなことを考えてきたのですが、そうしているうちに、つむじ風のように知的欲求が高まってまいりました。最初はちいさな渦巻きなのですが、回転していくうちにぐるぐるさまざまなものを巻き込んでいく感じ?うーむ、ぐるぐる。

そんなわけで本日。トウキョウの日差しはまだまだ暑いのですが、お腹がすいてしょーがない秋の昼下がり。ぺペロンチーノ+タマゴサンドというダブルな注文をぺろりと平らげて、今度は知的なハングリーさを解消しましょうと、ほんとうに久し振りに書店に立ち寄って「Think! Summer 2007 No.22」と「一橋ビジネスレビュー AUT.2007」を購入。おおっ、ほんとうに久し振りだ本屋さん。

4492830235Think! No.22(2007 SUMMER) (22)
東洋経済新報社 2007-07

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4492820310一橋ビジネスレビュー 55巻2号(2007年AUT.) (55)
一橋大学イノベーション研究センター
東洋経済新報社 2007-09

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どちらもビジネスにおけるデザインが特集テーマです。と思ったら、出版社はどちらも東洋経済新報社なのか。「Think!」に関しては季刊の夏号なので、ちょっと遅すぎですね。来月の22日には次の号が出るようで、次回の特集は「ビジネスプロフェッショナルの編集力」。こちらも面白そうです。

それにしても、これらのビジネス雑誌は値段が高い(泣)。「Think!」1800円、「一橋ビジネスレビュー」2000円だもんなあ。合わせて4000円弱ではないですか。音楽に投資すべきか迷うところではありますが、買っちゃったからしょうがない。もったいないので隅々まで読み尽くして、脳内の栄養にしようと思います(でも、次からは図書館で読むかも)。ついでに何回か、ブログも書けそう。

さらに、ビジネス系の雑誌2冊とともに購入したのは、ロバート・ハリスさんの「ワイルド・アット・ハート」でした。小遣いが(泣)。

4492042830ワイルド・アット・ハート 眠ってしまった冒険者たちへ
ロバート・ハリス
東洋経済新報社 2007-07-20

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「ワイルド・アット・ハート」といって思い出すのは、ニコラス・ケイジが出てくるデイヴィッド・リンチ監督の映画で、なんとなく「ラヴ・ミー・テンダー」が聴こえてきそうな感じなのですが、この本は、J-WAVEでDJをされているロバート・ハリスさんの人生指南という感じです(Wikipediaにもロバート・ハリスさんの解説があります)。

別に宿題として読み終えたい池谷裕二さんの「進化しすぎた脳」もあり(ああっ、ぜんぜん進まないんですけど。泣)、感想を書きたい購入したCDも数枚溜まっていて、しかも息子たちの運動会を控えていたり・・・などなど盛りだくさんな秋なのですが、渦巻きの力を借りてぶんぶん飛ばしていこうと思います。

ちょっとメモ的にこれから書いてみたいことを整理。書かないかもしれん。

■「Think!」から
・経営的な視座からのデザイン
・デザイン思考のリズム(奥出直人さん)
・Advocasy Marketing:徹底的に顧客側に立つ信頼ベースのマーケティング手法
・擦り合わせ型(インテグラル)と組み合わせ型(モジュラー)
・空間認識、時間認識、幽体離脱

■「一橋ビジネスレビュー」から
・デザイン・イノベーション
・アーキテクチャのイノベーション
・知財戦略とデザイン
・「Without thought」(深澤直人さん)
・「build to think」(奥出直人さん)

えーと、今日は書こうと思うだけで終了することにします(苦笑)。宣言することで自分を追い込んでみます。

投稿者 birdwing 日時: 23:01 | | トラックバック

2007年9月24日

すべての現象には。

土曜日から日曜日にかけて趣味のDTMで「Crator」という曲を作って、昨日ブログで公開しました。最初にこの曲に着手したときには、だめだこりゃ(泣)と思ったんですよね。なんとなくありきたりで、曲の展開もダサい。洗練されていませんでした。

いまでもそう感じる部分もありますが(苦笑)、最初に作ったプロトタイプより少しはよくなった気がします。創作の過程には行き止まりの混沌状態があって、けれどもそこで投げ出してしまうと完成しない。これは・・・と思った曲に対しては、我慢してしばらく取り組んでいると光がみえてくる(こともある)。仕事も同様のことがあるし、人間関係もそういうところがありますね。パートナーシップを長続きさせるコツかもしれません。嫌だと思っても、とりあえず現状維持してみること。

いろんなことを考えながら作っていくうちに、「Crator」には思い入れが強くなりました。自分以外のひとにどう聴こえるかわからないのですが、風変わりな印象があるのではないでしょうか。ふつーの曲ではない。音楽というよりもノイズのコラージュっぽい。どこがサビかもわからないし、唐突に終わってる(苦笑)。でも、ぼくにとっては、この曲は重要な1曲になりそうです(かなり)。

というのも、ぼくは商業的なミュージシャンではなく、趣味なので大勢に受ける曲を作らなくてもよいと思っていて、曲作りはあくまでもブログを書くことと並列に考えています。「日記のように曲を書く」というコンセプトで毎週のように曲を作っていた時期があるのですが、日々の生活で感じた音をコード化して曲にしているようなところもあり、アウトプットが文字(=ブログ)なのか音(=DTM)なのか、という違いでしかありません。

したがって、他人には意味不明な音のカタマリだったとしても、ぼくが聴くと、作成したときの気持ちを再現できる曲だったりもするわけです。

「Crator」には封印していた、とても個人的な気持ちを込めました。ただ長い時間を経て(年月を経たワインのように醸成もされていたため)、自分でも驚くほどまったく違う何かになっていましたが。

人間にはさまざまな二面性があります。穏やかな部分と攻撃的な部分を同時にもっていることもある。たとえばひとを好きになったとすると、やさしい気持ちと同時に相手をひとり占めしたいというか暴力的に奪いたい気持ちもあるのではないでしょうか。特に男性はそうかもしれないですね。

ふたつの、あるいはそれ以上の複雑な感情は、同時に存在しています。ふたつに限定した場合、表裏一体という感じでしょうか。週を前後して作った穏やかな「half moon」と攻撃的な「Crator」は同じルーツから表現が派生したものであって、ぼくのなかでは表裏一体な曲としてとらえています。

しかしながら、表現者として考えてみると、光の当たる場所は問題ないのですが、影の部分、ダークサイドというのはちょっと厄介です。ブログを書くにあたっても、ダークサイドを露出してしまうと思わぬことが起きたりもする(苦笑)。

かつてブログで非常に攻撃的なことを書いたことが(何度か。苦笑)あったのですが、「そういうことは書くべきではない」というお叱りをいただいたこともありました。指摘をいただくことは非常に有り難いのですが、なんとなく漠然とした違和感もあった。フィルターを通したきれいなものだけを書いているのは、何か嘘っぽくないか、と。人間はきれいな部分ばかりじゃないでしょう、と。

とはいえ、ダークサイドを表現することは、とてもリスキーです。攻撃の毒で自分も傷付けることにもなり、一般に公開しているブログであれば、当然のことながら血に飢えたハイエナのようなコメンテーターを集めることにもなる。要注意です。よほど精神的にタフでなければ書かないほうがいい。ダメージの後遺症はかなり後をひくので、リアルライフにも影響を及ぼします。心して書かないと、ネットの闇に堕ちてしまう。あるいは二度とブログなんか書かない、と筆を折ってしまうことになる。

かつてぼくは失敗したら何度でもリセットすればいいじゃないの?と安易に考えていた時期があるのですが、いまあらためて思うのは

人生はリセットできない

ということです。ブログは消去できたとしても、書きながら感じてきた「想い」を消去することはできない。暗い気持ちであったとしても書くことによって、一種「実体化」されます。だから残る。

言葉化しなければ意識から忘却されたはずのものも、言葉化することによって脳の編成そのものが変わるような気がします。脳の可塑性というんでしたっけ。一度、言葉化して世界の見え方を変えてしまうと、その見え方ですべてを見るようになる。だから考えてしまったことは、もう頭から消去できない。考えなかった前に戻ることはできない。

けれども、ここであらためてまたぼくが考えるのは

リセットできないからこそ意味がある

ということです。ぱぁっと目の前に光が広がるような感動も、どよーんと闇のなかに突き落とされたような失望も、意味があるからこそ存在している。おまえに会わなきゃよかったよ、という存在も、あなたのような素晴らしいひとに出会えてよかった、という存在も、同等に意味がある。考えてしまったことは消去できないからこそ意味がある。

けれども、そこでぼくがさらに考えを深めようとしていることは

失望は次の幸運のためにあるわけではない

というようなことです。不幸な出会いがあればその後に幸福な出会いがあるのではない。このことを「未完成という完成形」というテーマとして現在も考え続けていて、まとまらない思考なのだけれど、人間の脳って補う力があるじゃないですか。結ばれていない図形から三角形を見出す「カニッツアの三角形」についてエントリーで書いたこともあるのだけれど、起・承・転・・・ときたら、物語の「結」を補ってしまう。でも、実は、「起承転」という完成形もあるのではないか。

つまり、あらゆるものがつながっているわけではない。そのつながりは幻想や妄想だったりすることもあるわけです。つなげることが現実を歪めることもある。だから単体としてある「いま」という現象が完成形であると思わないと、いつまでも不完全なわけです。

もちろん不完全であることが原動力となって何かを生み出すこともあるけれども、ひとつひとつの「いま」が完成形であることを認識すると、少し気持ちも楽になるのではないでしょうか。わかりやすいので恋愛に喩えてみると、片思いは両思いになるための途上ではなく片思いという完成形である、というようなことです。うーむ、この場合は認識しても、楽にならないか(苦笑)。

以前の自分と比較するから「こんなに変わっちゃって」などと悲嘆することもあるかもしれませんが、変わっちゃったいまの自分が完成形だと考えること。そして完成にこだわらずに、どんどん変わってしまえーと思うこと。刹那(瞬間)ごとの自分をそれでよしとすれば、激怒した自分も、みっともない自分も許せます。というのは、別の完成形もたくさんあるのだから。

すべての現象には、その現象の意味がある。ただ、辛い経験は未来のよいことのためにあるわけではなく、単体の辛い経験として意味があるのではないか。失敗は成功のためにあるわけではなくて、失敗は失敗だ、と。ただ、その無数の点をつなぐとみえない何かが星座のように浮かんできて、それが自分かもしれません。さらに点の延長線上に、みえないけれども存在するはずの自分もいる。

あるがままに日常を生きるためには、いまある世界をそのまま受け止めるフラットな感覚が必要なのかな、などと考えました。成功は成功として受け止め、失敗は失敗として受け止める。かなしみはかなしみとして受け止め、よろこびはよろこびとして受け止める。そんなプレーンな認識こそが、難しいのかもしれませんが。

禅問答みたいですけどね。そんなことを考え続けています。

投稿者 birdwing 日時: 18:21 | | トラックバック

2007年9月23日

[DTM作品] Crater(クレーター)

変わりやすい秋の気候ですが、暑さの厳しい晴れた日があるかと思うと今日はすっかり曇り空です。奥さんが子供たちを連れて出て行ってしまったので(といっても喧嘩したわけではなくて、急遽、親戚の家に遊びに行きました)、ぼくは家で留守番。ぼくも行こうか?と言ったのですが、いいわよ、とのこと。まあ奥さんのお気遣いと考えましょう。おかげさまで静かな部屋でひとり。のんびり羽を伸ばしました。

さあて久し振りに映画でも借りてこようか(そういえば最近、ぜんぜん観ていない)とも思ったのですが、ヘッドホンを被りやすい季節になったので創作モードに突入してしまい、昨晩からのめり込んでいる趣味のDTMに集中。気付いたら昼飯も食べずに夕方5時でした。やれやれ。

というわけで、先週に引き続き今週も曲を公開してみます。先週は「half moon」ということで半月の曲だったのですが、今回も月つながりで「Crater(クレーター)」です。以下、どうぞ。


■Crater(2分40秒 3.68MB 192kbps)


作曲・プログラミング:BirdWing


今回は男子力を発揮しようと思いました(そんなのあるのか?苦笑)。

実は、このところなんとなく気持ちが穏やかな日々が続いていて、ものすごく優しくて綺麗な曲を作ろうと思っていたのですが、「half moon」はどちらかといえば優しいメロディです。なので、今回はまったく逆のイメージに挑戦しようと考えました。美しい月の裏側というか、ダークサイドを音にしてみよう、と。

ちょっと破壊的なエッセンスを加えつつ、ハードな曲にしたかったですね。ぎゅわーんとストラトキャスターあたりを弾く感じ(弾いてないけど)。自分のキャラクター的に無理なのですが(苦笑)、思い浮かべた印象はナイン・インチ・ネイルズ(NIN)あたりでしょうか。あとは主にループの素材を使っているので、BECKっぽいアプローチともいえる。ついでにディレイかけまくったギターはドゥルッティ・コラムのような感じ。

B000OMD254Year Zero
Nine Inch Nails
Island 2007-04-16

by G-Tools
B000HIVO64The Information
Beck
Interscope 2006-10-03

by G-Tools
B000PIU05Crebellion
ドゥルッティ・コラム
インペリアルレコード 2007-06-27

by G-Tools

ドゥルッティ・コラムのこのCD購入していませんでした。そういえば、ナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナーは「おれたちのCDを盗め」とか過激な発言が物議を醸しだしていましたっけ(記事はbounce.comより)。しかし、考えてみると、パンクロックやビジュアル系のミュージシャンというのは結構、健全な気もしていて、いちばん不健全なのはエレクトロニカ系のラップトップミュージシャンではないでしょうか(苦笑)。なんというかですね、思考が不健全な気がする・・・。トレント・レズナーはワルだけれど、とてもわかりやすいと思います。むしろ、何を考えているかわからないワルがエレクトロニカ系には多いような気がする。ちょびっとだけワルになりたいと、ぼくも憧れますけれども。

以前のエントリーで、ピアノロールという膨大な方眼紙にマウスでちくちく音をおきながら曲を作っている話を書いたのですが、DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)を使った音楽の制作には、音のファイルをそのまま読み込んで、波形ごと編集していくという方法もあります。そして、MIDIのデータと音のデータを混在しながら編集できる。

QY-20というおもちゃみたいなシーケンサーで打ち込みをはじめたぼくにとっては、これはもう画期的です。しかしながら、「できあがったループを使うような楽をすべきじゃない。打ち込みの醍醐味はオルゴール職人だっ」と意味のない意地を張っていたので、しばらくは素材を使った制作をしませんでした。ちまちまとマウスで音を置いていたわけです。ところが去年あたりから、音を編集する方法に変わってきたように思います。

ピアノロールによる入力はオルゴール風で、どこか絵画に喩えると点描画のような音の創り方=デジタルな制作なのですが、音の素材を編集する方法は、ちぎり絵といったところで、コラージュ風に音を切り貼りするので、なんとなくアナログです。どちらが優れているとはいえないのですが、両方ハイブリッドに使いこなすと面白いものができる。

ちなみに、音の切り貼りは以下のような画面になります。

DAWの画面

もじゃもじゃのゲジゲジみたいなやつが音のファイルで、これをコピーしたりカットして使う。右側の方が大きくなっているゲジゲジは、リバース(逆回転)させた音です。

曲の印象はクレーターなのですが、アラビアンナイトというか、月光の下で広がる異国の宴のような印象を思い浮かべました。月は美しいものではありますが、同時に狂気の象徴でもあります。満月の日に精神の均衡を崩すひとが多いからか、狼男のような伝説も生まれたとも言われます。

ちなみにWikipediaでクレーターについて調べてみました。命名したのはガリレオとのこと。

1609年にガリレオ・ガリレイは、月面を天体望遠鏡で観察し、多数の円形の凹地を確認した。この地形をギリシア語のコップ、椀を意味する語からクレーターと命名した。

なるほど。地球のクレーターの記述が面白いと思いました。

地球に落ちる隕石の大きさがそれほど大きくなくても巨大なクレーターができる。クレーター径は隕石の直径の約20倍と見積もられており、周囲5km、深さ170mの大きさのクレーターはクレーターとしてはかなりの大きさだが、それを作った隕石の大きさは直径約250mでしかない。地球上のクレーターは100個以上確認されているが、大部分は侵食で痕跡すら消えてしまっている。

隕石は破壊力があるんですね。でっかい地球も宇宙の脅威にさらされているわけだ。しかし、いちばん地球を苦しめているのは外部からの隕石ではなく、人間の環境汚染ではないかという気もするのですが。

投稿者 birdwing 日時: 17:52 | | トラックバック

2007年9月22日

リーダーシップについて考えること。

やわらかい話題が多かったので、たまには真面目に仕事の辛口な話を(笑)。

休日にも仕事のことを考えているのかおまえは、という視点もあるかもしれませんが、休日だからこそ仕事について語るのだ、と。なぜなら、仕事をしている最中には目下の進行に夢中であって、全体がみえない。ほっと一息ついた休日に、仕事の全体がみえると思うんですよね。

現在、ぼくは休日出勤や残業に次ぐ残業でかなりハードな状況にあります。趣味の曲作りやブログで夜更かしもしているので(それはプライベートの問題かー)、目のふちにクマができてクマったものです(笑)。でも、自分自身としてはかつてないぐらいに仕事が楽しい。トラブルや難問すらも楽しめている。

いちばんの要因としては、お客様にしてもいっしょに仕事をするパートナーにしても、“仕事を楽しめるひと”とめぐり合い、組むことができたからではないか、と思っています。その素晴らしい偶然のめぐり合わせに感謝したい。そうして苦労ですら楽しめるようないまの仕事を通じて思うことは、やはり

仕事をするのは“ひと”である

ということです。システムではない。理論でもない。もちろん会社組織や技術もあるかもしれないけれど、血の通っていない体制や先端技術からよい仕事は生まれないのではないか。

では、どんなひとがよい仕事をするのかといえば、やはり前向きに考えられるひとでしょう。

別にやたら元気じゃなくてもいいと思うんですよね。物静かで穏やかに笑っているひとでもいい。けれども決して弱音を吐かない。たまには愚痴も言うけれども、次の日にはあっさりと忘れている。誰かに責任転嫁したり、姑息な小技や社内政治に長けていたりしない。失敗もするし、欠点もあるけれども、そんなでこぼこな人格であってもなぜか許せる。職場のちいさな変化にも気付き、声をかけることができ、困っているスタッフを見逃さない。他者の痛みに共感できる。そうして自分から率先してことに当たることができるひと。

ライフハックだとかワークハックだとか、知的な武装はもちろん情報機器のガジェットでがしゃがしゃ武装していたり、あるいは発想論や効率化の手法にやたらこだわったり、取得した意味不明な資格で履歴書を飾ったりしなくても、背筋がすっと伸びていて前を向ける人間であれば、よい仕事ができるのではないか。というよりも、よい人生を送れそうな気がします。たとえ社会的な地位がともなわなくてもね。

ある時期、ソニーなどを中心に学歴無用論という考え方が提示されたこともありましたが、究極の採用の要諦としては人間を測ることができることではないか、と思います。未来も含めてその人材の価値(バリュー)を見抜くことが重要ではないでしょうか。武装されたがしゃがしゃした装飾に目を奪われているようでは、そのひとの本質を見抜いていない。

ということを考えながら、リーダーシップという言葉を最近、仕事のなかで聞き、あらためてその言葉について思索しつつあります。

どうもリーダーシップというと、誰かを支配したり指示したり、管理することがリーダーシップのように考えているひとが多いようです。たいした仕事でもないのに権力を誇示するようなこと、無駄な管理ばかりに時間をさけるひと、(メイワク極まりない存在だと思われていたとしても)誰かの上に立つことがリーダーシップである、というように考える。

でも、ぼくの考えとしては、リーダーシップは個が発揮するものではないか、ということです。孤高のリーダーシップというものを思い浮かべているのですが、人を従わせるのではなく、おのずと人が従いたくなるもの。それがぼくの考える理想としてのリーダーシップです。つまり、そのためには、自分を磨かなければならない。自分を磨く努力を怠る人間に、ひとはついていかない。実力のある個であってこそ、はじめて、ひとはついてくる。

自分の専門性=プロフェッショナルな部分がないのに、組織化して何かをやろうとするひとは、結局のところリーダーというより“手配師”でしかないでしょう。

代理店の営業にはそんな他人の威を借りるタヌキおやじがたまにいて、スタッフの努力があって挙げている実績や数字であったりするのに、何にもしていない自分の手柄のように語ったりする。おまえらに指示しているのはオレだ、オレがいちばん偉いのだ、と胸を張っていたりする。でもスタッフが去ったときのタヌキに何が残るかというと、接待上手でお客様のご機嫌をとる技術、つまりひとを化かす技術ぐらいしかなかったりする(苦笑)。

先日、A+Bという提案の仕事があって、仕事の趣旨からBは不要であるとぼくは判断しました。そこでとある営業から言われたことは「Aって大変じゃないの?」ということです。

何を言っているんだこのひとは、と思ったのですが、どうやらAが大変だからという言い訳のもとにBの損失をAで埋めようと考えたらしい。それって不誠実じゃないですか。お客様に要らないものを押し付けても仕方ないし、大変でもない仕事を水増しして請求するのはどうかと思う。であれば、Cというまったく新しい提案をするか、困難だけれど新規開拓に注力したほうがいい。

そんなことやってるから、あんた売り上げさっぱりなんだろ、とぼくは思った。重ねて訊いてくるので「ぜんぜん大変じゃありません(きっぱり)」と答えておきました。えーと、大変だったんですけどね、多少は・・・。でも、他の部分で提案の余地があるお客様だと思う。そんなところで、ちまちまお金をとっても仕方ないでしょう。努力すべき場所が違う。

リーダーシップとは、自分から率先して何かをやることだ、そしてそこには徳があるべきだ、と究めて当たり前のことをいまぼくはあらためて胸に刻もうと思っています。やはり、ひとあってこその仕事です。

たとえばヨゴレた仕事を率先してやるのは立派なリーダーではないでしょうか。トイレ掃除を自らやるとか、社内の問題から逃げるのではなく誰から言われたのではなくても自分で着手するとか。売り上げが厳しいのであれば、部下におまえらがきちんと働かないからこんな数字なんだと叱咤するのではなく、自らが最も困難なクライアントに営業をかけるとか。

率先してやるひとのパワーには、ひとは従わざるを得ない、と思います。気の流れに引っ張られて、思わずついていってしまう。バイタリティなのかもしれないけれど、体力的なものだけでなく、精神力の若さともいえます。そして、なんとなくそのひとがいるだけで場が明るくなるとか、和むとか、癒されるとか、そんなひともきっとリーダーシップを発揮している。

そんなひとになりたい、とぼくは思っています。なれるかな?思い続けていれば、いつかなれるかも。諦めたら終りですが、諦めなければそれはまだ“成功への途上”であると考えることもできそうです。

投稿者 birdwing 日時: 06:16 | | トラックバック

2007年9月21日

万有引力とは引き合う孤独の力。

ハードな一日でございました。日付変更線を越えるあたり、くたびれた足を引き摺りながら見上げて月を探したのですが、東京の夜は曇り空、月はみえませんでした(泣)。残念です。

でも、ここ(コンビ二)になら半月はあるだろうと最近楽しみにしているのがこれ。

yonayona.JPG

「よなよなエール」は軽井沢の地ビールとのこと。缶にオレンジ色の半月がプリントされています。実はそれまで気付かなかったのだけれど、半月に関心が出てきたここ最近、俄然、このビールを買いはじめました。ところが今日、コンビ二に行ってみると売り切れ。がーん。よなよな、じゃなくて、よろよろ。運命にも見放されてしまったかー。仕方なくトマーテを買って帰りました。野菜+お酒を補給。

月と地球のあいだには引力が働き、それが潮のみちひきだったりします。カラダの70%が水分といわれる人間にも、引力は影響を与えているのかもしれません。月の引力のことを考えていて思い出したのが、谷川俊太郎さんの「二十億光年の孤独」という詩でした。

二十億光年の孤独 (愛蔵版詩集シリーズ)二十億光年の孤独 (愛蔵版詩集シリーズ)
谷川 俊太郎


Amazonで詳しく見る
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これは愛蔵版の詩集ですね。文庫で読めば十分という気もしますが、ファンとしては持っておきたい本でしょうか(ぼくは持っていませんが)。

その「二十億光年の孤独」の詩に次のような言葉があります。

万有引力とは 引き合う孤独の力である

さびしさというマイナスの力があるから、ひとは求め合う。満たされていれば、誰かを(あるいは何かを)求めることはないのかもしれません。

けれども引力に関していえば、圧倒的な威力や影響力を持つひとがいる。圧倒的な存在感をもって、周囲を引きつけてやまないひとがいます。

とある撮影に立ち会ったときですが、カメラマンさんとデザイナーさんが面白い話をしていました。

まずはカメラマンさんのお話ですが、某・芸能人を撮影したときに、「シャッターを押すのではなく、シャッターを押させられた」らしい。通常は、いいねー、いまの表情素敵だねー、とカメラマンのほうが優位に立っているのだけれど、さあ、オレを映せ、いまだ、いまシャッターを切るのだ、というようにパワーというかオーラが発散されていて、思わずシャッターを押していたとのこと。凄い。

という話をしながら別のデザイナーさんが話してくれたのだけれど、とある有名カメラマンの撮影に同行したときに、ふざけてそのカメラマンさんが「ちょっと写真撮ってみな」と言ってカメラを渡してくれたそうです。しかし、ファインダーを覗いて、女性モデルさんがポーズを撮った途端に、恥ずかしくて撮影できなくなったとのこと。

というのは、ぼけーっとしていた女性モデルさんが仕事モードに入って、プロのポーズを発揮した途端、ファインダー越しに自分がみつめられているような気がして、どきどきして照れてしまったようです。つまり、モデルさんとしては仕事モードでみつめたのだけれど、自分がみつめられているように感じたらしい。

人間には、そんな風に途方もない引力を発揮するひとがいます。それは、話力であったり、美貌であったり、聞く力であったり、文章力であったり、あるいは眼力だったりするのですが、ほっとけない孤独の力を発揮するひともいる。そんな人間のもつ力についてぼくは解明できればと思うのですが、なかなか難しいものです。

恋愛であるとか結婚も、お互いに惹かれあう力があったからこそ成立したのではないかとも思います。しかしながら、年月が長くなるとよくわからなくなってくる(苦笑)

相方というか奥さんに「いつもと違う」と惚れ直すときってどんなとき?という設問をいただいて、ううううむ、と考え込んだまま思考がフリーズしてしまい、何度も書き直したまま回答できません。気が付くと考えている命題なのですが、いまのぼくにとってはいちばんの難問です(苦笑)。ごめんね。

早朝から深夜まで働いて思考が働かなくなってきました。仕事のせいだけじゃない気がするのですが、今日は眠って明日はしゃきっとしましょう。

投稿者 birdwing 日時: 01:47 | | トラックバック

2007年9月20日

ムラ、ムラ、ムッシュー。

ムッシュ、ムラムラーなんて言葉がありますが、いつの時代ですかそれは・・・という感じなので却下(苦笑)。ムッシューという言葉に覚醒されたのかどうかわかりませんが、ジャン=フィリップ・トゥーサン(Jean=Philippe Toussaint)というベルギー生まれの作家を思い出しました。ジャンルとしては仏文学でしょうか。映画監督もやっているのですが、彼には「ムッシュー」という小説があります。

4087731251ムッシュー
野崎 歓
集英社 1990-12

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とーさんはトゥーサンが好きだな、とくだらないことを言っていますが、実際にぼくはトゥーサンのファンです。彼の飄々とした文体に惹かれています。会話文をカギカッコ内に入れずに地の文に溶け込ませる手法(なんて言ったっけかな)も好みで、先日、「half moon」というDTMのオリジナル曲を作ると同時に掌編小説を書いてみたりしたのですが、多少彼の影響があるような気がします。ほんとうに多少ですけどね。

その彼が描くムッシューは、ムラムラな気分から遠く離れたとても淡い感じの人物像なのですが、ころころと虫の声も騒がしくなりつつある秋、どーいうわけかムラムラな気分の到来に困惑中です。といっても、エッチがしたいっ、というあからさまな欲望はあまりなく、ぼくも年齢を重ねたせいか、すっかり枯れた気分でございます。エッチはしなくていいけど、ちゅーはしたいというか、手をつなぎたいというか。欲望の枯れたおじさんはロマンティストになって困ります(苦笑)。

ところで、芸術の秋、スポーツの秋、食欲の秋などなど、さまざまな秋がありますが、その根本にあるのはムラムラ=欲望ではないかと思いました。

芸術というと非常にクレバーでドライな感じがしますが、実は芸術家を突き動かしているのは、どろどろとした欲望のような気がします。画家を描いた映画などもいくつか観た記憶がありますが、純粋に芸術を信奉して描いているのではなく、あいつには負けたくない、という非常に政治的な狭い意地で作品を生み出していたりする。

フェルメールを描いた映画「真珠の耳飾りの少女」にも、嫉妬などの欲望が渦巻くなかで作品を生み出す画家の泥沼のような現実と、結晶のような芸術の世界の両方をみつめる姿が描かれていたような気がします。

B0001X9BLK真珠の耳飾りの少女 通常版
オリビア・ヘトリード
メディアファクトリー 2005-01-25

by G-Tools

そう、ぼくが感じているムラムラは、エッチな気分に似ているけれども、そうではない気がする。たとえばですね、音楽なんてまったく知らないのに、会社の帰りにブルースハープ(要するに渋い大人のハモニカ)などをついつい買ってしまう感じ、でしょうか。あるいは夏が終わったのに、いきなりプールで泳ぎ始めちゃう感じとか? 天文学の分厚い専門書をうんしょうんしょ買って帰るのも近い。女性がおシャレで高価な下着を衝動買いしてしまうのも似ているような気がします(笑)。男性の場合は、それが身体や精神を磨く方向に行ってしまうわけで。

出会うであろう誰かを想定して、自分を磨き始めるってことでしょうか。出会うであろう誰かのためには、完璧な身体を持ちたいし、完璧な知性を備えていたい。そして素敵でありたい。シャドーボクシング的な誰かのために、身体的にも精神的にも自分を鍛えていたい。素敵な誰かにとって、ふさわしい人物でありたい(なんだか、RedioheadのCreepとか聴こえてきそうだ)。そんなムラムラ=欲望はとても大事ではないか、とぼくは思います。よいことです。

無欲が大事、欲望から解き放たれた生活が理想、などということを言われることもありますが、どうでしょう。ぼくはですね、いくつになってもムラムラしていることって大事なような気がします。ぎとぎと、とか、ぎらぎら、しているのはどうかと思いますが(なんか抑制とか恥じらいを失った中年っぽい)、ムラムラしているひとは魅力的ではないでしょうか。

ムラムラしているひとは、ちょっと目が潤んでいたりして、あやしい光がぽっと灯っていたりして、けれども決して自制心を失ったわけではない。紳士・淑女なわけです。あー、なんかやましい妄想を考えているなーという雰囲気がある。けれども、だからといって安易に欲望に身を投じるわけではない。安易には動かないのだけれど、一度傾くとどこまでも堕ちていく。

人間をほんとうに動かすのは、このムラムラ=欲望なのかもしれません。理性で説得しても、なんとなく冷めた感じがある。根源的な感情を揺さぶる言葉こそが人間を動かすのではないでしょうか。つまり説得力のある文章を書くのであれば、ムラムラ=欲望をスタティックな文章から発動させる必要がある。そんなダイナミックな文章を書くことが、ほんとうに精神だけでなく身体も揺さぶる文章家として、真の力を発揮するような気がします。アタマでっかちで説得してもね、ひとの心は打てない。

ムラムラーになろうと思いました(笑)。えーと、よくわからないと思いますが、ムラムラするひと=ムラムラーです。

ただ、そのムラムラが通りすがりの素敵な女性に向かってしまうと、とってもあぶないひとになってしまうので(苦笑)、ぼくの場合には創作活動に向けるべきでしょうか。美しい音楽を女性のように愛することができたり、美しい小説と密度の濃い時間を過ごすことができるのが、大事なことかもしれません。文章や音楽に恋をするのだ。とかなんとか、この詩的な表現自体が、どうしちゃったんだとーさん?!という感じなんですけどね。やれやれ。

秋はひとを狂わせる季節なのかもしれません。あるいは人を狂わせるのは月の満ち欠け、なのかもしれないのですが。

投稿者 birdwing 日時: 01:50 | | トラックバック

2007年9月18日

ハンゲツの作り方。

没頭すると周囲を忘れてしまう自分ですが、土曜日、久し振りにヘッドホンを被って趣味のDTMに集中していたところ、すーっと次のような付箋が。

070915_husen.JPG

奥さんからでした。あーはいはい。呼ばれてたんですね。ご飯ですね。そもそもぼくは集中するとご飯さえ忘れてしまいがちなのですが、付箋のおかげで現実世界に引き戻されました。そして、家族団欒でご飯を食べたのでした。けれども、お腹がいっぱいになって、ふと付箋を見ると・・・。

070915_husen2.jpg

キティちゃんが怒ってるっ!ううう、奥さんったら怒ってたのねっ!

9月といえども厳しい暑さが続いておりますが、それにも関わらず思わず背筋がすぅっと寒くなる一瞬でございました。こうした不満の積み重ねによって、人生の坂道に躓き、熟年の危機に向かって仲睦まじき夫婦もいっきに転がり堕ちていってしまうのでしょうか。ああ、せつない(涙)。趣味は大事ですが、没頭のしすぎに注意しましょう。

というせつない状況にも負けず、久し振りに集中して「half moon」というオリジナル曲を完成させて、掌編小説とともにブログで公開しました。ぼくはメイキングというか、その創作過程についてもブログで書いていこうと思っているのですが、今回のエントリーは掌編小説などを作ってしまったので、あまり過程については書けませんでした。そこで少しばかり制作の裏話を書いてみます。

まず、ぼくは貧乏ミュージシャンなので、基本的に高価なソフトウェアや音源などを持っていません。かろうじてDTMにお金をはたいたのがSONARというDAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)でした。といっても、Studio Editionという中級向けのパッケージで、しかも最新ではなく現在もSONAR5という以前の世代のものを使っています。

そしてSONARにソフトウェアのシンセサイザー(VSTi)を登録して使っているのですが、これもまた無料のソフトウェアシンセサイザーをネットで拾ってきて使っています。しかしながら、驚くことに無料といってもかなり使えるものが多い。今回の曲ではPad系の音が重要になっているのですが、利用したのはまずSUPERWAVE P8でした。インターフェースはこんな感じ。結構、いかついのですが、ヴィンテージ・シンセっぽくていいですね。好みです。

superwavep8

■SUPERWAVE P8(英語)
http://home2.btconnect.com/christopherg/main.htm

イントロのふわーっとした音はSUPERWAVE P8に深いリバーブをかけています。その背後でしゃかしゃかしゃかしゃか聴こえたり、ぴんこぴこぴん・・・という音が鳴っているのがCrystal。こちらも無料のソフトウェアシンセサイザーですが、知るひとぞ知る定番だと思います。ちなみに、インターフェースはこれです。

crystal

■Crystal(英語)
http://www.greenoak.com/crystal/index.html

Crystalによる、次のようなふたつの音を組み合わせています。音だけ取り出してひとつにしてみました。

ちなみにこれもまたネットで拾ってきたおかしなmp3プレーヤーですが、のっぺりとした棒の左の部分を押すと再生されます。音の大きさは変えられないので、ご注意ください。また、右端を押すとファイルをダウンロードできます。ただ、こういうシンプルなFlashも重宝しますね、ときには。




さらに中盤から出てくるピアノも無料のシンセで(考えてみるとタダばっかし)、mdaPianoというフリーソフト音源です。

■mdaPiano(英語)
http://www.pluginspot.com/English/frames.html

なんとなくピアニストっぽいフレーズではあるのですが、ピアノをどのように弾いているかというと、実は弾いていません(笑)。マウスを使って方眼紙のような画面に音を置いていく。ピアノロールといいますが、こういう画面です。

piano_roll

左端に鍵盤が縦になっていますが、縦軸の上が高音、下が低音です。横軸は右に向けて曲の時間軸になっていて、この膨大なマトリックス、というか方眼紙に音を置いていく。再生すると、右の方へこの方眼紙が流れていくので、さながらちょっとしたオルゴールという感じでもあります。

ちなみに上記画面を再生すると、次のようになります。




というようなカタチで、どちらかというと音楽というよりも絵画的な感覚で曲を作っていきます。

この「half moon」のピアノを作っていてあとから気付いたのは、低音部分はなんとなくベートーベンのピアノソナタ14番(月光)の影響を受けているかもしれないな、と思ったことでした。ぜんぜん似ていませんけどねー。そういえばよく学校にいませんでしたか? 音楽室で月光をピアノで弾いちゃうようなやつ。でも、ちょっとかっこよかったからぼくも弾けるようになりたかったですね。結局、弾けませんでしたが(怒)。

そんな月光ライクな低音部分を作りつつ、構造的に、低音部分に対して16音符分ずらしながら高音の音を「置いていく」ということを考えていたような気がします。つまり、音的にどうだというよりも、空間・平面的な幾何学的な配置として作っていった感じです。

まだまだ語りたい気がするのですが、ぼくはそんな風にしてDTMで音楽を作っています。音楽制作というよりも、どこか知的な遊びに近い部分があって、ナマの楽器を弾くのとはまた違った楽しさがある。楽器が弾けなくても、作品を自分で作りたい、表現したいという欲求を満たしてくれます。

音と知的に戯れたいひとに、DTMはおススメです。といってもなかなか入り口がみつからないかと思うので、初歩の初歩についても書いてみたいと思います(いつか)。

投稿者 birdwing 日時: 06:25 | | トラックバック

2007年9月17日

折り紙ヒコーキを作ろう(1)

長男くん(10歳)の夏休みの自由研究は、「紙飛行機の研究」でした。その経緯については、「仕事よりハードなものは。」というエントリーで書いたのですが、なかなか大変でした。もちろん、親がやってどうする?という観点もあります。ただ、ぼくは子供に全面的に任せても、よっぽど優秀な子供でなければ、自由研究なんてものはやり方がわからないと思うんですよね。

ついでに、大変だったとしても親も楽しみたい気がする(笑)。結局のところそれかーという感じがするのですが、大変だ大変だと言いながらも、いちばん楽しんでいるのはおとーさんだったりするわけです。ふだんは忙しくて放置気味な子供と、まとめてお話することもできるし。

今回、10種類の紙飛行機をふたりで折って、長男くんが折っている横でとーさんはデジタルカメラで汗をぽたぽた流しながら撮影していたのですが、せっかく努力した成果を父としてもブログで活用しようと思いました。そんなわけで(気が向いたときに)紙飛行機の折り方を公開していこうと思います。

第1回目は「へそヒコーキ」の作り方です。

仕事柄(企画のお仕事をやっています)PowerPointを使うので、PowerPointで作ってみました。ただ、Webに公開するにあたっては、マクロメディアのFlashPaperというアプリケーションを使って、PowerPointのドキュメントをさくっとFlash化しています。

えーと、メインページではあちこちにFlashを使っているので、重くて表示できない方もいるかもしれません(すみません)。ページが重すぎです(泣)という方はコメントください。Jpegでスライドショーにするなど、対策を考えますので。

では、こちらでご覧ください。

ちなみにブログの横幅が短いため、ページをめくるボタンが隠れてしまっていますが、プリントの横にある四角形のボタンを押すと、別ウィンドウが開きます。そちらでページをめくって見ていただいたほうがよいかもしれません。

このへそヒコーキ、ぼくもいまは亡き親父に作り方を教わりました。あと、イカヒコーキという翼の前方にちいさな翼がある紙飛行機も教えてもらった記憶があります。実は、紙飛行機といえばへそヒコーキだと思っていたのですが、一般にはそうではないようですね。

紙飛行機を折るだけの自由研究は10歳としてどうだ?幼稚じゃないか、という考えもあったのですが、そんなに優秀な少年ではない(というのも彼にとってはどうかと思うけれども)長男くんは折り紙が苦手で、きちんと折り紙を対角線で半分に折れないひとでした。が、この研究後には、めざましい進歩を遂げています。ちょっとした折り紙上手になった。それだけでもいいか、と。

苦手なものであっても強制的に大量にやらせる、ということが大事なことかもしれません。大量にやることで身体で仕事を覚える。料理や伝統的なものづくりの職人は、地道な下積みが大切になります。コピーライターだって、まずはひとつの課題で1000本コピーを書くことを課されたりする。そういう下地のできていない人間は、窮地に追い込まれると弱い。付け焼刃で凌げるほど、現実は甘くない。日々の積み重ねがモノをいうものです。

ということを長男くんが理解したかどうか(苦笑)。たぶん、理解していないと思うのですが、大人になっていつか、そういえば親父に「違うっ!」とか怒鳴られながら、大量に紙飛行機を折らされた夏があったっけなあ、あれは何だったんだろう・・・などと、思い出してくれたらいいなあと思っています。

そんなことより、おとーさんは仕事が佳境なのだが(泣)。

投稿者 birdwing 日時: 18:32 | | トラックバック

2007年9月16日

日本を知る、外側から見る。

土曜日、日曜日とすばらしくよい天気だったのですが、残暑がきついですね。趣味のDTMに没頭してみたところ、まだまだヘッドホン被っていると暑い。

さて、海外と接する機会がないので、島国根性まるだしというか、せまーい見解のまま毎日をのほほんと過ごしています。しかしながら時々、それでいいのだろうか?という気分がむくむくと盛り上がってくる。そんなわけで急に語学関係の本を購入して英語を学び始めたりするのだけれど、あまり長くは続きません。

グローバルな視野が得られるような、そんな面白そうな本や雑誌がないかと探していたところ、COURRIER Japon Vol.036のWe Love NIPPONの表紙に惹かれました。

COURRIERJapon036.gif

特集は「外国人記者が泣いて、笑った!“不思議の国”日本をめぐる冒険」。さまざまな外国人特派員が日本の伝統についてレポートしています。文章も上手くて、読ませる。たとえば「菊乃井」に弟子入りしたシェフの体験レポートで、海苔を包丁で刻むのですが、うまく刻めない。そこで失敗した海苔を食べてしまうのだけれど、次のように表現されていたりします(P.32)。

私は刻んだ海苔を口のなかに押し込んで、新しい海苔の束を刻みはじめた。口のなかは、たちまち、あの煙にも似た海苔の味でいっぱいになった。

うーむ、海苔の味は煙の味ですか。確かにそんな感じもあります。けれども、たぶん外国人だからこそ、そう感じるのではないでしょうか。日本人にとっては海苔は海苔であり、香ばしいとか、ぱりぱりするとか、ありきたりな表現しか浮かびません。しかし外国人にとっては、古寺などの線香のかおりに近いものを感じているのかもしれないですね。スイス人記者の温泉レポートも楽しめました。

そのほかにも、TIME誌による村上春樹さんの独占インタビュー、ダイアナ妃に関する記事など、なかなか興味を引かれるタイトルが並んでいます。あと、どうでもいいことですが、この雑誌、手に取ったときの紙の感触がいい。

村上春樹さんのインタビューでは、日本のいわゆる文壇のようなものから距離を置き、異質な存在であることを認めながらも、自分は日本人である、という心情が語られているのが興味深かったと思います。まずは次の文章を抜粋してみます((P.27)

自分が異質であるという強い感覚は村上の中にずっとあった。それは外国の小説に惹かれた若い頃にさかのぼる(いずれも国語教師だった両親はさぞ残念に思ったことだろう)。その異質さはいまも残っており、彼はずっと日本の文学界から意図的に距離を置き、節制した生活を送ってきた。
「作家や芸術家は不健康で自由奔放な生活を送ることになっている」
と村上は言う。
「でもぼくは違う生活をしたかった」

決して日本の作家や芸術家だけが不健康な傾向にあるわけではないと思うのですが、確かに村上春樹さんのようにジョギングや水泳をして規則正しく小説を書く作家は少ないように思います。なぜでしょうね。

たぶん日常から隔離された制作活動に没頭することによって、リアルよりもバーチャルな創作の世界の比重が重くなる。すると現実を軽視して、不健康な生活へ向かわせるような気がします。

ぼくは作家でも芸術家でもありませんが、これだけ長文のブログを書いていると、やはりときどき(あるいはいつも。苦笑)精神の平衡感覚を大きく失います。日本の私小説的な作家の伝統が強く残っているせいか(あるいは日本の湿度の高さのせいか)、どうも文章を書いているとじめじめとしてくる(苦笑)。村上春樹さんの初期の文体はからりと乾いていて、どこか日本的ではない雰囲気があります。そんな風にはなかなか書けない。けれども彼の文学の凄いところは、その明るい文体の背後に、ものすごくダークな何かが潜んでいるところだと思いますが。

村上春樹さんは、異質であることを認めつつ、次のように語ります。

村上は「かつては祖国を捨てた作家になりたかった」と認め、こう続ける。
「でもぼくは日本の作家だ。ここが自分の土地であり、ここがぼくのルーツなのだ。自分の国から逃れることはできない」

次の小説として、日本のナショナリズムを取り上げることをほのめかしているようです。どんな小説になるのでしょうか。ちょっと楽しみです。

COURRIER Japonでは、そのほかに「変貌するマフィアの世界」とか、「民主主義よりWiiが欲しい 新・中国人」とか、「イスラムのSEXを徹底調査」とか(うーむ)、表側から裏側から生活まで、さまざまな視点から世界のあれこれを切り取っていて、なかなか読みごたえがありました。

忘れてしまいそうなのですが、インターネットは狭いソーシャルネットワークだけでなく、世界に開かれています。ただ開かれすぎているだけに、どのように使いこなせばいいのか途方に暮れることもある。だからコンシェルジェというか、ガイド役がいてほしい。世界の諸事情だとか、外国からみた日本の姿などを教えてくれるCOURRIER Japonのような雑誌は、なかなか貴重じゃないのかなと思いました。

ただ、本やネットだけでなく、実際の目で“1次情報として確かめる”ことも大事だと思いますけどね。

投稿者 birdwing 日時: 23:09 | | トラックバック

2007年9月15日

[DTM×掌編小説] ハーフムーン。

パソコンによる音楽づくり、いわゆるDTM(デスクトップ・ミュージック)がぼくの趣味です。しかも、鍵盤楽器を使わずにVAIOノートでマウスを使って曲を作ります。その作品の一部は、トップページのJukeBoxで聴けるようにしてあります。よければ聴いてくださいね。

3年ほど前からネットで趣味で作った音楽を公開しているのですが、最初はmuzieというサイトで配信していました。その後、ブログで記事といっしょに配信するようになって今日に至ります。日記を書くように曲を作る、というコンセプトのもとに毎週感じた音から楽曲にしてみたこともあります。

理想としては音楽+映像、音楽+小説のようなハイブリッドというかマルチな創作活動をやってみたいと思っています。欲張りなので(笑)。「rewind」という曲を作ったときには再会というテーマで掌編小説を書いたりもしました。

9月から10月といえば月が美しい季節ですが、そんな「月」が今回のテーマです。7日間連続で働いたハードな仕事にくたびれてダウンしながら、それでも好きなことに没頭すると癒されるものです。作っている途中で、ああやっぱり音楽っていいなーと思いました。

久し振りの自作曲後悔・・・じゃなくて公開となります。さらに短い曲ですが、その曲を聴きながらアタマの中に浮かんできた物語があり、それを掌編小説にもしてみました。というわけでお恥ずかしいのですが、[DTM×掌編小説] として発表してみます。

まずは掌編小説から。


自作DTM×ブログ掌編小説シリーズ02
+++++++++++++++++++++
ハーフムーン
+++++++++++++++++++++
作:BirdWing

ぼくらは肩を寄せ合い、公園の隅っこにあるベンチでハンバーガーとポテトを分け合いながら食べていた。街灯の向こう、覆いかぶさるようにして深い木々が繁っている。そのあいだから月がみえる。半月だ。レモンをスライスしたような月を眺めながら、ぼくは彼女にキスをした。バーンズとポテトフライの匂いに紛れて、甘ったるい彼女のくちびるの味がした。

月がみえるね。なんとなく間合いがとれなくてぼくは呟く。そうね。彼女はちいさな声で同意して、ぼくの胸に鼻のあたまを押し付ける。あのう、臭わないかな、お風呂入ってなくて。ぼくは真剣に心配をした。へいきよ、わたしだってくさいもん。彼女が言ってくすくす笑う。つられてぼくも笑った。

ホテルに泊まるお金がなくなって、昨日はひと晩中ファーストフードで過ごした。冬じゃなくてよかった。そう思う。凍えてしまわないだけでもまだましだ。ふたりでいるとあたたかいのだけれど、そのぬくもりも冬の厳しさには勝てないだろう。秋はまだこれから。残暑の厳しい日が続いている。けれどもいずれ冬はやってくる。冬になった頃、ぼくらはどうしている?

15歳というのは面倒くさい年齢だとぼくは思う。子供ではないのだけれど、大人には遠い。というか、ぜんぜん子供だったりする。スカートからまっすぐに伸びた彼女の脚がまぶしくて、ぼくは月の方角へ目をそらした。ぼくらはお互いによくわからないまま抱き合った。それが愛し合う行為なのかどうかもわからずに身体を重ねた。その結果としてもたらされた彼女の変化を、彼女の両親に気付かれた。そうしてぼくらは逃げている。逃げ場所なんてないのだけれど、とりあえずはふたりの両親から、大人たちから逃げている。

咳をする彼女の身体の揺れがぼくに伝わる。大丈夫?うん、へいき。彼女はくちびるの端をすっと横に広げて笑みをつくった。でも、やっぱり疲れているのがわかる。彼女は裕福な家庭に生まれて、何ひとつ苦労なく育ってきたひとなのだ。ヴァイオリンを習っていて、年に2回は海外へ旅行する家に生まれた大切なひとり娘なのだ。ごめんね。ぼくは意味もなく謝ってしまう。どうして?なぜ謝るの?彼女がぼくをみつめるのがわかる。いや、そのう・・・。ぼくは理由をうまく言えない。あたしは後悔していないよ。きみを好きになってよかったよ?

ぼくは泣きそうになった。

だから話をそらした。月ってさ、地球の影で満ち欠けするでしょう?月がいちばん明るくなるときってさ、地球と太陽の位置が重なっていないときなんだよね、きっと。ぴったりと地球と太陽と月の位置が一緒になるとき、皆既月食っていうんだっけ、月はみえなくなる。でも、それって別にたいしたことじゃないよね。なんていうか、空が曇っていれば月なんか見えないことがあるし。あれ? 何を話そうとしてたんだっけ。よくわからなくなっちゃった。

気が付くと、ぼくはぼろぼろ涙を流していた。ばかねえ。彼女が苦笑しながら、ぼくにハンカチを差し出した。鼻をかもうとしていると、いつの間にか近づいていた制服の大人がぼくらに声をかけようとしているところだった。静かな声で制服のひとは言った。ちょっと、きみたち・・・。

ハンカチを投げ捨てて、ベンチから立ち上がる。逃げろ。囁いて彼女の手を引いた。あ、ちょっと待ちなさい。あわてて追いかけようとする声を後ろに聞いて、ぼくは逃げる。大人たちから逃げなければならない。でも、逃げている大人たちに近づいているのではないか。

吐き気がした。彼女がつんのめって転んだ。お腹をおさえている彼女がいとおしい。いつまでもいっしょにいたい。いっそのことふたりで老人になりたい。いられるのだろうか。いられるのなら。なれるのだろうか。なれるのなら。でも無理なのかもしれないと弱気になる。ぼくはきみにふさわしくない。ぼくはきみを不幸にしている。確実に。好きになることで確実に。

ぼくは15歳を嫌悪した。

<了>

++++++++++

というわけで、久し振りのオリジナルDTMの楽曲です。今回は曲が先にできて、曲を聴きながら小説を考えてみました。掌編小説「ハーフムーン」のBGMとしてお聴きください。

■half moon(2分35秒 3.57MB 192kbps)

作曲・プログラミング:BirdWing

掌編小説のほうは川上弘美さんっぽいテイストを試みたつもりなのですが、ちょっとありがちな話でしょうか(苦笑)。物語の創作力が鈍っているのかもしれない。小説を書く趣味もあったのですが、最近、ブログばっかりに入れ込んでいるので、いまひとつかもしれません。

ムーンというタイトルで思い出す小説はといえば、ポール・オースターの「ムーン・パレス」。オースターの小説にも行き場のないやるせなさがあると思います。というか、ムーンというと、どうしてもセーラームーンのようなイメージが付きまとって困惑なのですが。うーむ、タイトル再考か?

4102451048ムーン・パレス (新潮文庫)
ポール・オースター
新潮社 1997-09

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女性ボーカルが入っていますが、これはLotusloungeのSheepさんの声です。ネットコラボでご協力いただき「AME-FURU」という曲を作ったのですが、そのボーカルをサンプリングして切り貼りして使わせていただきました。一度いただいた音声ファイルはどこまでも利用するという(苦笑)、エコロジーな創作活動です。歌詞というよりも言葉の断片という印象になってしまいましたが、やはり素敵な声です(しみじみ)。という意味では、この曲はAME-FURUの新しいリミックスともいえますね。

音楽的には、最近よく聴いているドイツのエレクトロニカ・ユニット、ウルリッヒ・シュナウス(Ulrich Schnauss)の影響が大きいでしょうか。ドリーム・シューゲイザー的なリバーブの残響音に溶け込むようなノイジーなギターの感じを出したいと思いました。えーと、弾いてませんが(苦笑)。ネットを彷徨って拾ってきたフリーのギター音源を加工しています。半分の月に照らされる闇を、大人たちから逃げる主人公の少年。そんな感じでしょうか。

この2枚はかなりヘヴィ・ローテーションなアルバムです。

B0001VON60Far Away Trains Passing By
Ulrich Schnauss
City Centre Offices

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GoodbyeGoodbye
Ulrich Schnauss


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「ハーフムーン」の曲を思いついた契機は、金曜日の夜、送別会後に会社に戻ったら別のひとに誘われて終電まで飲んでしまい、へべれけになって3駅乗り過ごしてタクシーで帰ったことでした。夜の住宅街を酔っ払ってふらふら歩いていたところ、なんとなく破滅的な気分の向こう側にインスピレーションがわいてきました。ほぼ記憶がなく(苦笑)、自動操縦で気が付いたら家にいたのですが、たまにはそんな生活もしてみるものです。

とはいえ土曜日。一日中、気持ち悪かった。気持ち悪いなかで一気に曲を作り上げることができたのは儲けものでしたが、飲みすぎに注意しましょう。

+++++

■9月16日追記

やはり小説というと縦書きじゃないか、ということが頭にあり、そういえばCSSの本で縦書きのサンプルをみた気がしました。

そこでネットで調べて作ってみたのが以下のページです。IEの5.5以上ではないとうまく表示されないようです。Mac環境のテストはしていませんがすみません、見ることができないかもしれません。とりあえず味もそっけもないページですが、縦書きの実験ということで。

縦書きを使うのは日本が中心であり、縦書きに表示することが必要かどうかという問題もありますが、やはり小説などに親しんでいるものとしては縦書きがいいなあと思うこともあります。いずれは標準化されるのかもしれないし、逆に縦書きの文章が廃れていくのかもしれません。

画面キャプチャーをクリックすると別ウィンドウで開きます。

縦書きテスト

投稿者 birdwing 日時: 23:49 | | トラックバック

2007年9月13日

Amiina / Kurr

▼music07-044:はじまりも終わりもない御伽話のような北欧の響き。

KurrKurr
Amiina


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01. Sogg
02. Rugla
03. Glamur
04. Seoul
05. Lupina
06. Hilli
07. Sexfaldur
08. Kolapot
09. Saga
10. Lori
11. Blafeldur
12. Boga

オーガニックという形容詞が最近よく使われますが、北欧の音楽に最もふさわしい言葉であるような気がします。生音だけでなくシンセサイザーのようなエレクトロニカであっても、どういうわけか北欧のミュージシャンが作り出す音楽には自然な響きがある。

ジャケットの表紙で編み物をしている姿が印象的なアミーナは、シガー・ロスのストリングス・アレンジを担当していたとのこと。エッダ・ルーン・オウラブスドッティル、ヒルドゥル・アウサイルス・ドッティル、マリア・フルズ・マルカン・シグフースドッティル、ソウルン・スマルリダドッティル(はぁはぁ、北欧の人名ってどうなってるんでしょうか)という4人の女性編成です。北方の女性はなんとなく色白でふくよかで家庭的な感じがいいですね(ぽっ)。

同封されている解説によると、アイスランドには人口30万人にして音楽学校が90校以上も存在するらしい。どんな国なのでしょう。そんな音楽学校で出会った4人のようです。まずは弦楽四重奏として活動をスタートさせたようです。

最初に聴いたときは、たま(知っているひと少ないのでは。イカ天出身の変わったバンド)か?と思ってなんとなく戸惑いも感じたのですが、グロッケンやアコーディオン、弦楽器などが使われた御伽話のような音の響きが心地よく、彼女たちの歌声やハーモニーも透明感がある。聴いているうちに馴染んできました。なんとノコギリも楽器として使用していて、癒し系の音楽でありながら試みていることはかなり実験的です。

シガー・ロスの音楽自体がアルバム全体でつながっていたりして、はじまりもなく終わりもないような永遠の時間を感じさせる音楽なのですが、このアミーナの音も同じように時間という枠組みを超えている印象があります。同じフレーズを繰り返しながら変奏していくスタイルで、曲自体が終わってもアタマのなかで鳴り続けていたりする。

どの曲が好きだ、ということはなかなか言えないのですが、2曲目「Rugla」のギターの調べ、ストリングスのアレンジはかなり好み。6曲目「Hilli」のシガー・ロスっぽいハーモニー、同様にワルツなのですが7曲目「Sexfaldur」などはしんみりと聴けます。

気が付かないで購入したのですが、タイトルの「Kurr」はアイスランド語で鳥のさえずりを表現する言葉らしい。なんとなく鳥というハンドルを使っているぼくには偶然とはいえ、親近感の持てるものでした。

+++++

YouTubeから、アルバムにも入っている「Seoul」。テルミンかと思うのですが、ほんとうにノコギリを演奏していると、へぇーっと思いますね。それにしてもツアーなどで持ち歩くときに大変だなあ、とは思いますが。ノコギリをケースに入れて持ち歩いているんですかね(笑)

途中からベルをふたりで演奏している姿にも感動。なんだか楽しそうです。

■amiina - seoul

■公式サイト
http://www.everrecords.com/amiina/

■myspace
http://www.myspace.com/amiina

*年間音楽50枚プロジェクト(44/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 23:11 | | トラックバック

2007年9月12日

Tamas Wells / A Mark on the Pane

▼music07-043:神様が降りてくる少し前、静かな朝を待つ光の音色。

A Mark on the Pane
タマス・ウェルズ
A Mark on the Pane
曲名リスト
1. When We Do Fail Abigail
2. Broken By the Rise
3. Chandliers
4. Redueced to Clear
5. Petit Mal At a Grand Occasion
6. Even in the Crowds
7. Annalee Argyle
8. Segue in Gym
9. If You Bring Me Aubergines
10. A Dark Horse Will Either Run First or Last
11. Cigarettes, A Tie And A Free Magazine
12. Where The Koran Seems To Rhyme
13. The Necessary Ones
14. Reduced To Clear (EP version)
15. 41 Union Drive, Caroline Springs 3023
16. Even Through
17. Beauty Cream
18. Stitch In Time
19. Instrumental

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11-13 from 1st EP "cigarettes a tie and a free magazine"
14-19 from 2nd EP "stitch in time"


すばらしい作品に出会うと、奇跡のような表現があたかもふいにそこに現れたような驚きがあります。けれども創り手であるアーティストは、手品のように空中から作品を取り出したわけではありません。奇跡に出会うまで、こつこつと自分の信じているものを作りつづけた日々があり、陽が当たらなかったとしても培ってきた背景がある。決して脈絡もなくその世界が生まれたわけではない。

「A mark on the pane('04)」は再発されたTamas Wellsの1stです。2ndの誠実でひたむきな世界に打たれたぼくは、彼のコンサートの前日に慌ててこのアルバムの存在を知り、購入したのですが、ゆっくり聴く時間がありませんでした。そして、なんとなく2ndの「A Plea En Vendredi」ほどの研ぎ澄まされ方はないな、音も安定していてつまらないかも、などと思っていたのですが。

いやいや、そんなことはありませんでした。やっぱり、いい。
タマちゃん、最高(笑)。

静謐な、という言葉が似合いすぎる音は、1stではアコースティックギターだけでなくエレキギターにリバーブをかけたような音も使われていて、逆回転なども多用されています。実はそんな細かなアレンジは、「A Plea En Vendredi」の生音志向の音づくりよりもエレクトロニカ好きなぼくの好みだったりします。さりげないので、すーっと聴き逃してしまいそうですが、メロディも完璧なぐらいに美しい。

要するにですね、文章もそうなのですが美しく完成されすぎたものは、すーっと身体に入り込んでくるのではないか。ただ、ここがまたアートの面白いところですが、完成されすぎないもののほうが琴線に触れることがある。2ndを聴くと、かなりリズムに揺らぎがあるし、ちょっと雑なところもあるんですよね。でも、そこがじーんと心に染みたりする。1stの方が格段と丁寧に、計算されて作られているのですが、この作り方ではタマちゃんらしさが出ないのではないでしょうか。

ということを考えていて、彼のコンサートの風景が頭をよぎりました。そう、彼は500円ぐらいのおんぼろのギターを抱えてステージに現われたのでした。音もしっかり出ないようなギターだったんだけれど、彼が歌い始めると世界が変わったかのように思えたことを、はっきりと覚えています。楽器ではない。技巧でもない。そこには確かに音楽があった。

だから、彼の音楽が好きなのかもしれないと思いました。音楽に対するひたむきな想いがあるからこそ、Tamas Wellsの歌を聴いていてぼくは自然に涙も出た。結局のところ、ぼくは音楽ファンやリスナーとしては失格かもしれなくて、音楽を聴きたいのではなく、曲の背後にある薀蓄や知識を語りたいわけでもない。アーティストという人間に出会いたい、ひたむきな"想い"を聴きたいのかもしれません。そして彼の音楽にはそれがある。

あっ。アルバムについて何も書いていなかった(苦笑)。

1曲目、「When We Do Fail Abigail」は2ndに近い歌い方、楽曲です。そして逆回転とオルガン+ピアノではじまる「When We Do Fail Abigail」は、なんとなくベルセバ(ベル・アンド・セバスチャン)っぽい。でも、このメロディいいです。つづく3曲目の「Chandliers」のギターと歌は、まさに天国から光が降りてくるような雰囲気。さらに6曲目の「Even in the Crowds」のようなちょっと3連っぽいノリの曲は、タマちゃんらしいのでは。コーラスを聴いて背筋になにか走りました。このあたりの曲、聴き込めば聴き込むだけ好きになってきます。もともと彼はピアノを弾いていたらしく、インストの「A Dark Horse Will Either Run First or Last」のピアノも切なくていい。

さらにBONUS TRACKSとして、EPの曲が追加されていてうれしい限りなのですが、最初の「Cigarettes, A Tie And A Free Magazine」はライブで聴いたっけなあ(しみじみ)。バイオリンの音が入ってくるあたり、やられました。「Where The Koran Seems To Rhyme」はちょっとタマちゃんらしくない感じ。ですが、キャメロン・クロウ監督の映画あたりで使うと効果的っぽい気がする(笑)。15曲目、「41 Union Drive, Caroline Springs 3023」 も、オーランド・ブルームがクルマを運転しているイメージが浮かんだりして。勝手なイメージを付加してすみません。17曲目「Beauty Cream」は、ブラシのドラムの乾いたショットも気持ちいい。そして最後のインスト曲は、うーむ、打ち込みっぽいドラムも聴こえてきたり。いろんな側面があって楽しいじゃないですか。

というわけで、やっぱりタマちゃんいい、というのが結論です(笑)。

+++++

■Liricoのページから「A MARK ON THE PANE」
http://www.inpartmaint.com/lirico/lirico_title/LIIP-1502.html

おっ、インタビューも掲載されているじゃないですか。

■TAMAS WELLS INTERVIEW
http://www.inpartmaint.com/lirico/lirico_feature/interview_tamas.html

次の言葉に、にやり。まずは、アルバムか「Plea en Vendredi」について。

『Plea en Vendredi』というタイトルは英語とフランス語をミックスしたものなんだ。「Vendredi」はフランス語で「金曜日」という意味で、アルバムのなかの1曲のタイトルでもある。コンセプトは、意識の流れと入念な計画(それは「Valder Fields」の意味でもある)のミックスなんだよ。・・・僕らの意識は、完全に意図的なものでも、行き当たりばったりなものでもない・・・ばかばかしいほど漠然として聞こえるけど、許して!

そして、これからの予定。

いま、いくつかの曲を作っている最中だよ。今年の後半にアルバムができればいいんだけど。あと、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』(Heart of Darkness)とルソーの『社会契約論』を読むことを計画しているよ。あと、フーコーの本もいくつか読みたいんだけど、とても難しそうなんだよね。

そういうひとでしたか(笑)。だから好きなわけだ、ぼくは。

*年間音楽50枚プロジェクト(43/50枚)

投稿者 birdwing 日時: 23:33 | | トラックバック

2007年9月11日

空が落ちてくる。

雨降りすぎでしょう(苦笑)。どうしちゃったんでしょうかね、今日の天気は。昼飯を食べようとしたら、ものすごい土砂降りでした。こんな土砂降りの日に思い出した曲といえば、キャロル・キングの「つづれおり」に収録されている「I Feel the Earth Move(空が落ちてくる)」でしょうか。いやーほんとに空が落ちてきそうな土砂降りでした。

キャロル・キングのこの曲は歴史的な名曲ですが、アップテンポで特に低音のベースラインが落ちてくる空の音を表現しているような気がします。そして、サビですっとメロディが明るくなるのもいい。トヨタRAV4(木村佳乃編)のCFソングにも使われていたとか。YouTubeから1971年のライブです。

■Carole King - I Feel the Earth Move
  (1971 LIVE at the BBC)

こういうピアノが結構好きです。アルバムはこちら。

B0001N1OUQつづれおり
キャロル・キング
Sony Music Direct 2004-04-21

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いろんなひとのカバーがあるようですが、MartikaのカバーをさらにYouTubeから。80年代っぽいですね。

■Martika I Feel The Earth Move

ぼくがこの曲および歌詞を聴いていてイメージするのは、なんというか夏目漱石の小説「それから」の最後の部分です(暗っ)。

4101010056それから (新潮文庫)
新潮社 2000

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友人・平岡の妻・三千代を好いてしまった裕福な「高等遊民」代助は、家族から見放され、孤立無援な状態で平岡に三千代を譲るように言います。小説のなかとはいえ、えええっ、という展開ではあり、実はブンガクというよりも究極のいけない恋愛小説なわけですが、そんなエンターテイメントの機微がわかるようになるのは、学生の頃よりも、ある程度年を重ねて落ち着いたいまのぼくのような年齢かもしれません。

映画化もされていて、 森田芳光監督、松田優作さんが出ています。彼女とビデオでこの映画を観たことがあるのですが、重すぎて取り返しのつかないことになりました(苦笑)。カップルで観るもんじゃないです(というか、誰も彼女と観たりしないかー)。

B000BDJ0XEそれから [DVD]
夏目漱石
東映ビデオ 2005-11-21

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自滅的な代助は、まったく「それから」のみえない明日にふらつく足で踏み出します。そこに流れる音楽は「 I Feel The Earth Move」ではないか、と。もちろんキャロル・キングの方のバージョンです。

そんなリスキーな日々は小説のなかだけにしておきたいものですが、激しい雨の音を聴きながら、激しい音楽と激情にかられた物語などを思い出したりしました。疲れ気味なぼくには、そんな激しさを遠くに聴くばかりですけれども。

そういえば今日は9・11。テロも恐ろしいのですが、自分の心のなかのテロリストがいちばん怖いかもしれないですね(苦笑)。どんな人間の心のうちにも、ひそかに隠れているテロリストがいるものです。落ちてくる空よりも、心のなかのテロリストにご注意を。

投稿者 birdwing 日時: 23:40 | | トラックバック

2007年9月10日

補う力、つなげる力。

人間には補う力があるそうです。以前にも書きましたが、3つの点があると線が引かれていなくても3つの点を結んで三角形をそこに描いてしまう。パターン認識にも通じることですが“つなげたがる力”といえるかもしれません。そんな力が人間にはあります。

どこかで見たなーと思っていたのですが、池谷裕二さんと糸井重里さんの「海馬」という本でした。カニッツアの三角形と呼ばれる錯視の図形です。パックマンが向い合うような図形の真ん中に三角形が見えるでしょ?これです。茂木健一郎さんの本でも読んだ気がします。

070910_kanizsa.JPG

このつなげたがる力が想像力=創造力の原点ではないかとぼくは思っていて、このことをずーっと最近は考えつづけています。えーと、考えたからといって、何もいいことはないんですけどね(苦笑)。考えるのが好きなので、なんとなく考えてしまうだけで。そこで、考えたことを、とりとめもなく書き綴ってみます。

たとえば過去と現在という点に線を引いて、その延長線上に未来を描いたり構想することも、つなげる力の応用力ではないかと考えます。未来はここにはありません。けれども過去と現在を線で結び、その延長線上に補助線を延ばしていくことで、人間は、ここにはない未来を描くことができる。

あるいは物語構成において、起・承・転・・・という流れがあると、その先に結を想像してしまうことってありますよね。推理小説では、知らず知らずのうちに残された痕跡から犯人を探している。痕跡をつないだ先に犯人がいるかどうか確かめられるからこそ推理小説は楽しいのであって、転・・・でおしまい、という犯人解明や種明かしのない推理小説があったら、なんだこりゃー(怒)になる。なんだかすっきりしません。

というふたつの例は時間軸に関する例ですが、空間の欠けている部分を補うこともあります。しっぽだけが見えて身体の隠れている動物を想像するような感じでしょうか。あるいは古代のひとたちは、山の向こう側に別の街があり、海の向こう側に別の国があることを想像しました。その想像力がなければ、ぼくらは地球という存在あるいはグローバルな概念を生み出せなかったかもしれません。

もう少し思考を飛躍させてみます。達人の文章の秘訣は「書かないこと」かもしれない、などということも頭に浮かびました。

書いた言葉と書いた言葉を結んで、その線上に書かなかった何かをリアルに浮かび上がらせること。それが文章の達人の技ではないか。禅問答のようですが、うまい文章を書くには、どれだけ書かないかという技術を学ぶのが近道かもしれません。つまりたくさんの粋な言葉を知っているよりも、読み手のなかにみずみずしい想像力を喚起させるか、ということの方が重要になる。たどたどしくても鮮やかなイメージを想起させる名文のほうが、使い古された明言よりも心を打つことがある。

この視点から文章上達のエクササイズを考えるとすると、たとえば「かなしい」という言葉をNGワードにして、どれだけかなしい文章を書けるか、という鍛錬など面白そうです。涙も使っちゃダメ。ぼくはめちゃめちゃ明るい文章なのにぼろぼろ涙が出てくるような小説を読みたいと思うのですが(どういうひねくれものだか)、そんな小説を書けるひとは高度な文章使いですね、きっと。

あるいは、思わせぶり、ということなのかもしれません。

ストレートに、好きだ、と告げるのは男らしいかもしれないけれど、あえて大事な言葉は言わない。はぐらかしておく。ぽつりとフレーズを置いて、別の場面でまたさらりと気になるフレーズをさりげなく呟いてみる。核心にはぜったいに触れない。そうして、いくつかの言葉をつないで、あらためて上空から眺めてみるとナスカの地上絵のようにひとつのメッセージになっている、みたいな言葉の使い方でしょうか。要するに、じらしのテクニックかもしれません。

・・・という上の段落のようなことを書くとですね。読んでいてなんとなく恋愛のイメージになってしまうと思いませんか?

なんとなくこの文章は彼女の攻略法のようです。ちょっとした恋愛指南っぽい。ところがぼくは上の段落で、ひとこともこれは男女間の話であるとは書いていない。書いていないんだけれど「好きだ」「告げる」「男らしい」という言葉が「恋愛」という文脈を引っ張ってきてしまう。

試しに次のように書き換えてみます。

ストレートに、アウトドアライフが好きだ、と告げるのは男らしいかもしれないけれど、あえて大事な言葉は使わない。シュラフの寝心地、ランタンで照らされた影、満点の星空などのフレーズを置いて、別の場所にも気になるアイテムを配置する。核心にはぜったいに触れない。そうして、いくつかの言葉をつないでいき、上空から眺めてみるとひとつのメッセージになっている。

ちょっと無理がありますが、恋愛のイメージは消えますよね。アウトドアコラムの書き方というか文章読本の抜粋のようなイメージになります。で、これを読んでしまった後で、再び最初の文章を読み直すと、もう恋愛のイメージは生まれない。

この現象は、池谷裕二さんの本のなかでは「脳の可塑性」というようなキーワードで語られていたような気がします。一度、イメージが決定されると、そのイメージの力によって全体の意味が変わってしまう。

補う力、つなげる力について考察したあとで、実はその力を無効にする考え方をいま構想しています。乱暴に言ってしまうと、勝手に補ってしまった想像は現実を歪めている。補ったり、つながったりしている言葉があったとしても、ちょっとしたキーワードさえあれば妄想の呪縛を斬ることができる。妄想的な想像力を排除して、補わない、つながらない真実の姿を取り戻せないか、という考え方です。洗脳的、盲目的な心の動きから自由になるための方法論かもしれません。

「不完全という完成形」というタイトルが浮かんでいるのですが、この話はいずれ気が向いたら書いてみることにします。

投稿者 birdwing 日時: 23:57 | | トラックバック

2007年9月 9日

日記らしい日記。

厳しい残暑の日曜日でした。そして、雲の流れが速い日でした。午後から出勤して仕事をしていたのですが、通勤の電車を待つあいだ、雲がきれいだなーとぼんやりと眺めていました。デジタルカメラを持ってくればよかったと思うことしきり。帰りの電車では、暑さで疲れたせいか、うとうと居眠りをして右に左に揺れているひとが多かったようです。そんな光景を見ながら、仕事で神経が研ぎ澄まされてしまったぼくは目がぱっちり開いてしまっていたのですが。ぜんぜん眠れん。

くたびれつつ9時に会社を出たあとには、ぶらぶらと新宿の街を歩き、CDショップへ立ち寄りました。CDのポイントが貯まっていたので、Tamas Wellsのライブで共演していたthe guitar plus meの「ZOO」というアルバムを購入。

zoo.jpg

すみません、ポイントで購入などというのは失礼な感じがします。でも、聴いてみたかったので。TRAVISを買おうか迷ったのですが次の機会にしました。未熟なリスナーゆえに聴いたことがない大御所バンドが多いのですが、TRAVISもなかなかよさそうです。

コンビ二に寄って帰宅したところ、昨日の残りのカレーが。ううう、そうだったー。納豆巻き(5本)買って帰っちゃいました。なぜに納豆巻きかというとそれしかなかったからなのですが、仕方ない、カレー完食して納豆巻きも・・・と思ったけど、1本さすがに残しました。無念。あっ、そうだ4時ごろにパスタも食べたんだった。ひょえー忙しくて忘れてた。老人のように過ぎ去りし時間を思い起こせなくなったわたくし。大丈夫でしょうか。食いすぎだろ。気持ち悪いです(泣)。自業自得。

と、いつになくリアルタイムの日記らしい日記を書いています。実は、金曜日から昨日の土曜日にかけては7日の「クールとはなんでしょう。」というエントリーとともに、8月の間に終わらなかった宿題の「Carla Bruni / No Promises」のCDの感想と、「知の遠近法」という本の感想を書いていました。しかも今日、昨日の日記を書いたばかりです。ぜんぜんリアルタイムじゃありません(苦笑)。しかも久し振りにまとまった文章を書いたら疲れること疲れること。見直す気力もないのですが、誤字とかありそうです。

明日から、長男くんは林間学校(?)というか移動教室のようなものに行くようです。朝早い彼に合わせて、今日はみんな早寝だったようです。キャンプファイヤーとかあるらしい。うらやましい。オクラホマミキサーとか踊っちゃうんだろうか。好きなあの子と手をつなげるのだろうか。緊張して手が汗ばんじゃたらどうしましょう。そんなこと心配している父はどうでしょう。それにしても、ぽち持って行かなくていいのかな。おっと、これは言ってはいけないことか?(笑)実は・・・いやいや、彼の名誉のためにやめておきましょう。

ううう。あまりにも胃が苦しくて、新三共胃腸薬(3錠)を投入。南アルプスの天然水が喉に染みます。

そして、the guitar plus meの音楽が心に染みます。泣ける(涙)。

明日は、とてもハードな一日の予定。無事に終わりますように。そして、みなさんの一日も素敵でありますように。まだまだ暑い日が続きます。夏バテに気をつけてくださいね。ブラウザを隔てた遠い場所から、咳き込みつつ、目をしょぼしょぼさせつつ、深呼吸しながら、さまざまな交錯する思いを放置しながら。

日記らしい日記を。

あっ、9月9日なんですけど、
99と重ねて書くと、なんか上空を眺めている目のように
みえませんか。

みえないか・・・。

ヘッドホン、
まだ被るには暑いです。

秋を、待つ。

投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

2007年9月 8日

コラボレーションのかたち。

ほとんどテレビを観ないぼくですが、たまたまCMを観たところ、これはかっこいいぞ!と思ったCMがありました。富士ゼロックスの「一人一音の演奏会」です。

以前ピアノ編も観た記憶があるのですが今回はギター編で、ひとつの弦しか張っていないギターを抱えたギタリストが、それぞれ一音だけ奏でます。その一音ギタリストの音が集まると、サラサーテのツィゴイネルワイゼン(作品番号20)になるわけです。

合成ではなくて、どうやらせーので弾いているっぽい。最初は、これAppleのCMかな?と思ったほど洗練された映像で、ホワイトを基調とした画面にクロを中心としたギタリストがずらっと並ぶ姿がかっこいい。

すぐに消されてしまうかもしれませんが、YouTubeに掲載されていましたので、そのCMをどうぞ。

■FUJI XEROX 「一人一音の演奏会」シリーズ ギター篇

もちろん、富士ゼロックスのページでも観ることができます。こちらは、ピアノ編の映像もあり、さらにFlashによるコンテンツも用意されていました。

■富士ゼロックスのCMページ
http://www.fujixerox.co.jp/event/cm/piano/

CMのコンセプトは、次のように解説されています。

個人の“知”を一つの音に例えながら、 『アイデアが触発し合い、新たな価値が生まれる企業環境』 の構築をお手伝いしていきたい、という富士ゼロックスの 企業姿勢をお伝えしています。

うーん、いいですね。ぼくはこういうメッセージに弱い。富士ゼロックスといえば、IT関連の老舗ともいえる大企業ですが、時代に合わせてしなやかに変わろうとしている企業姿勢が感じられました。もちろん大企業であるがゆえの課題もあるかとは思うのですが、広告だとしても、こういうメッセージを外部に発信している企業は好感があります。

このメッセージの背景にあるのは、当然のことながらブログによって生まれた集合知(Wisdom of Crowds、Collective Intelligence)でしょう。

「集合知」とは、ブームとなったWeb2.0などの基本となる考え方ですが、ひとりひとりが持っていた情報や知識がインターネット上にアップされ、保存(アーカイブ)され、検索されるようになる時代における新たな知のあり方です。

質問のあるひとと回答できるひとをマッチングすることにより、世界中の知恵袋のような誰かから何かを教えてもらうことができたり、オープンソースのシステムやWikipediaのように、みんなで協力してアプリケーションを開発したり膨大な百科事典を編纂したり・・・などなど。一本の矢では折れやすいが三本集まると折れにくい(by 毛利元就)ような協働のかたちでしょうか(違うか)。

この考え方をWeb2.0のようにまとめてしまうとネットの狭い社会でしか通用しませんが、富士ゼロックスのCMのように、たくさんの音が集まると楽曲になるという風に考えると、メタファ(暗喩)としてさまざまな場面で使えそうな気がします。

ただ、ここに自分なりの厳しい解釈を加えるとすると、ひとりが奏でる一音は一音ではあるが渾身の一音であるべきで、一音であるからといって気を抜いちゃいけない(苦笑)。完璧な一音であることが重要ではないか、ということです。他の音に依存しているのであれば、その一音の気の緩み加減は全体に影響します。だから一音であっても、ぴんと張り詰めていなければならない。

というのは、かつて趣味で3ピースの社会人バンドをやっていて感じたことですが、ドラムス+ベース+ギターという最小限の編成のバンドをやっていると、ミスをするとものすごく目立つわけです(苦笑)。楽器が下手なぼくはミス多発で頭掻きまくりでしたが、その度に嫌な汗をかいていました。ほんとうにたかが演奏ですが緊張します。でも、その緊張感が結構大事だったりします。さらに緊張した上で自分を表現できるかどうかが重要で、これが難しい。

決められた通りに上手く弾くだけであれば、自分ではなくてもよいわけで、スタジオミュージシャンでも雇えば上手い演奏はいくらでもできる。けれども、なぜそこに自分がいるのかといえば、下手でも自分を表現したいからだと思います。バンドという全体の一員でありながら、個人として音を表現したい。自分だけの音を出したい。その気持ちを大切にしたいと思います。

そんなバンド経験がいま、組織における自分の生き方にものすごく影響を与えている気がします。

協調性が大事だとか、コラボしましょうとか、会議で情報共有すべきとか、会社にはそんなことをやたらと言いたがるひとがたまにいます。けれども、そういうひとに限って自分では何にもやらず(できず)、成功は横取りして失敗は責任転嫁、他人の力の上に胡坐をかいてふんぞり返っていたりするものです。バンドにおいても家でこつこつと練習する時間の重みがスタジオに入ったときに明確に現われたりするものですが、表層的にきれいなスローガンを連発するひとは、なんとなく言葉に薄っぺらな印象が伴いますね。技術を、あるいは人間を磨いていないのがわかる。

それではいけない、とぼくは思います。協調の前には自律があるべきで、オレはこれができる、これなら任せとけ、で、きみはどうする?という姿勢が大事ではないでしょうか。できる、と言ってしまったときに、ほんとか?という突っ込みは必ずあります。けれども言ってしまった後で、改めてできるようになればいい。自律するということは、未来の責任を負うことも含めて自分を宣言することではないか。

やってみてわかることもあります。ぼくがブログ構築しているのは、なんでもできるスーパーマンを目指そうとしているわけではなく(ましてそんなマルチな人間になれるわけがなく)、ただ、自分でやってみるとシステム担当者の気持ちであるとか、デザイナーの気持ちがわかる。これはできないよな、とか、この程度であれば簡単に修正も可能だろう、など、ある程度の読みができるようになります。そのためです。

バンドにしても組織にしても(あるいは夫婦や家族関係にしても)、コラボレーションには基本的に緊張関係の上に成立するものであり、みんな仲良く楽しく・・・という幼稚園のお友達関係のようなコラボはあり得ない気がします。などと言っている自分は厳しすぎるのかもしれませんが、その厳しさの上に立ち、それでも、

他者を許せるか

ということを考えていきたい。

こころに余裕がなくてただひたすら自分にも他者にも厳しいひとではなく、最終的にはひとを許すという切り札を手のなかにあたためながら、それでも自分の信念に誠実であり、仕事のクオリティに徹底的にこだわる。

そんな厳しさを持ちたいものです。

投稿者 birdwing 日時: 23:29 | | トラックバック

2007年9月 7日

クールとはなんでしょう。

眠いです(泣)。不眠気味な今日このごろ。仕方がないので風の吹き荒び雨が打ち鳴らす音を聴きながら、昨日の深夜にはブログのデザインをこつこつと組み直していました。これがまたとんでもない手法でデザインしているので、やりかたは秘密です(苦笑)。というか恥ずかしくて言えません。とはいえ、トップページの現状をスナップしておくことにします。

トップページのレイアウト(070906現在)めざしたのは淡いエンボス調です。クールなデザインのブログにしたかった(苦笑)。しかし、クールってなんでしょう?そもそも何がクールであることの要素となるのか。

こういうデザインのサイトおよびブログは多いですね。淡い影で立体的な雰囲気を醸し出しながら、なんとなくシンプルでかっこいい。どこかApple的であるともいえます。ぼくはデザイナーではないのでよくわからないのですが、白を生かしたデザインは洗練されていてよいと思いました。基本的には深澤直人さん的というか、何もデザインされていないかのようにみえて美しい、というのが理想でしょうか。それがいちばん難しそうなのだけれども。

ぼくもこのブログの設定にあたっては文字の大きさとか行間とか、びみょーにこだわって作っているつもりです。まだ技術と知識がともなわないので、うまくいかないんですけどね。細かいことをいうと、行の右で文字がばらけているのが気になる。ここをなんとかしたい。たぶん何かわざがあると思うのですが、こういう細部にブログデザインの神様が宿る気がします。研究しよっと。

色彩に関していえば、一方で黒や赤などでがつんと決めるサイトもかっこいい。迷いどころです。黒と赤という配色は、力強さを感じていいですね。赤もちょっと暗めの赤を選びたいところで、キンアカというか、これはアカですっ!と主張するアカではなくて、いぶし銀のように控えめでありながら存在感のあるアカ(よくわかりませんが。苦笑)。

情報を整理するにあたっては、カテゴリーのメニューをヘッダーの下に配置しました。よくタブ風のグローバルナビゲーションを配置しているサイトがありますが、その感じでしょうか。しかし、すっきり整理されすぎてぼくにはかすかな不満が漂います。うーん、これはどうだろう。

birdw2.pngトップのヘッダーには青空と鳥を配置しました。鳥の絵を加工したものも作ったのですが、シンプルに空を白い鳥で抜くことにしました。この鳥の絵は、パソコンでちまちまと描きました。こんな感じのもの作ったのですが、ボツ。

ちなみにぼくはPhotoshopなど専門的なフォトレタッチソフトは持っていないので、もっぱらフリーソフトのJTrimで写真を加工しています。これ、無料にしては高機能でよいソフトだと思います。画像を立体化する機能とか、プラグインがもう少しかっこいいといいなーとは思うのですが。

通常は、トップページと各エントリーページは同一のスタイルシートを使うことが多いと思うのですが、別のスタイルシートにしています。そんなわけで個別のページに遷移すると、サイドバーが緑色になる。そうしたいと思ったわけではなくて、単純にMovableTypeを使い始めて、どのスタイルがどうなっているかよくわからなかったからです。なので、ああここを緑にするとこのページが変わるのか、という目安にしていました。

かつてブログを書いていたときに、「日本でブロガーと言われるひとのブログには、どうしてひどいデザインしかないのでしょう」という言葉をいただいたことがあり、その言葉が楔のようにずっと刺さっています。そんなわけでぼくは書く内容はもちろん、ブログのデザインについても考えていきたい。クールなブログを求めて、インターネットの旅に出ることにします。

と、凝り性なぼくは、そんなことに時間をかけると、他のことがまるっきりできなくなってしまうのが問題ですが(泣)。

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ところで、検索エンジンに更新通知を飛ばしはじめて1週間。

analyticsによると、訪問された方(ほんのわずかなんですけど)の93.1%が「Lifestyle Innovation」という言葉で検索して、ここへ来ていただいたようです。みなさん、生活のイノベーションに関心があるんですね。というか、探されてます?わたくし(苦笑)。

よい意味で探されているのであればともかく、そうではない関係者に訪問されるのはどうかなあ。もし、かつてのブログを読まれていて、そういえばあのブログ消えちゃったみたいだけど、また読みたくなっちゃって探してやってきました、という奇特な方がいればコメントください。昔のエントリーもありますので、ご紹介しましょう(いずれはこのサイトに統合する予定)。

それにしても、ちょっと更新通知を飛ばす時期が早すぎたかもしれないと後悔。

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■9月8日追記

どこかで書こうと思ったのですが、あえて書くようなことでもないので控えめに。このブログには、次のアドレスでもアクセスできます。いずれは、独自ドメインを取得しようと思っています。

http://birdwing.halfmoon.jp/

ミカヅキにしたかったんですけどね。それにしても、sakura(花)、birdwing(鳥)ときてhalfmoon(月)とは風流ですな。あとは風なんですけど・・・あっ、ぼくは風邪ひいてる(笑)。これで揃いました。

投稿者 birdwing 日時: 23:29 | | トラックバック

2007年9月 6日

直感的であることの優位性。

台風が来日してトウキョウをはじめとして関東は凄いことになっています。えーと、来日ってのはアーティストみたいで変ですね(笑)。上陸でしょうか。雨と強風に吹き飛ばされて、傘がおちょこになっているひとを何人もみました。ビニール傘は面白いようにへなちょこになります。と、面白がっているうちに自分の傘がへなちょこになりそうになって困惑。

軟弱なぼくは(風邪をひいていることも言い訳にして)、早めに会社をあがろうとしたのですが、会社から10メートルぐらい歩いたところで「お客様から電話が入っています」という携帯電話に呼び出されて、急遽、会社に引き返しました。それにしてもお客様も、この台風の日に大変です。会社に残っている同僚たちも大変です。みんな帰ることができたのでしょうか。強風と豪雨が吹き荒れるあらしの夜に、あまり無理しないように、と思いました。長男くんは明日は3時間目から授業、次男くんの幼稚園はお休みのようです。じゃあ、ぼくも・・・休めません(涙)。

というわけで、本題。

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たとえば、ざわめくフロアで誰かと待ち合わせるときのこと。

行き交う雑踏をさっと見渡しただけで、待ち合わせの相手の場所を感知し、その姿がすっと目に飛び込んでくることがありませんか。視線というよりも心のセンサーがキャッチして、直感的に待ち合わせるひとを探し出すわけです。勘が働く、というか。

その検索能力は、コンピュータよりも優れているかもしれません。コンピュータの場合には、たぶんひとりひとりの情報を端から合致しているかどうか処理していくことでしょう。けれども人間は、直感的に会いたいひとを探し出す。

まったく会ったことがないひとを直感的にいっぱつで発見した経験が、ぼくにはかつて一度だけありました。フロアを見渡して、このひとかな?というセンサーが働いた。それはもう偶然としかいいようがなかったのですが、そんな奇跡的なこともたまには起きる。だから人間って楽しいですね。一方、何かを探しているうちに、求めていたものではなかった別の素晴らしいものを発見することもあります。セレンティビティというようですが、そんな偶然も楽しい。

人間の顔を認識する技術も、セキュリティの分野を中心に急速に発展しているようです。その技術の応用として、最近のデジタルカメラは賢くなりました。人間の顔を認識してピントを自動的に合わせる。さらに昨日、ソニーのサイバーショットに「スマイルシャッター」機能が搭載されたというニュースがありました。笑顔を感知するようです。日経産業新聞の記事から以下を抜粋します。

スマイルシャッターはカメラが笑顔を検出して自動的にシャッターが切れる機能。子供の自然な笑顔などを逃さず撮影できるという。事前に笑顔を撮りたい被写体の顔を選択すると、一度に最大6枚まで笑顔のたびに撮影できるという。

ソニー製品情報|Cyber-shot<サイバーショット>|DSC-T200
DSC-T200.jpg

上記の製品情報サイトでは、タッチパネルの体験コンテンツもあるようです。

この機能があれば、一度だけ笑顔を登録すれば、笑顔の瞬間に自動的にシャッターを切ってくれるようです。うちのアマノジャクな次男くん(4歳)はひねくれた芸能人のように写真嫌いで、わらってーというと変な顔をする。じっとしてーというと動き回る。だからこのカメラをひそかに向けておいて笑わせることができれば、自然な笑顔の写真が撮影できるかもしれません。とはいえ、自動的に笑顔に合わせて撮影できるのは便利ですが、あーっいまの最高の笑顔撮り逃したっ(泣)という瞬間がいいと思うんですけどね。個人的には。

昨日、天文画像をきれいに撮影する「Lucky Imaging」という記事を紹介しましたが、消えてしまう「いま」をきれいに残そうとする人間のこだわりにはすごいものがあると思いました。写真や動画というのは、これからもなくならないのだろうな、という気がします。

直感的という観点から操作性について考えてみると、デジタルカメラをはじめ携帯電話、携帯音楽プレイヤーなど、デジタルなガジェット(小物)でも、直感的に操作ができるインターフェースが求められていると思います。

まさに本日、米国のAppleから「iPod Touch」が発売されました。さっそくGizmodeのサイトに操作の動画が掲載されています。

■iPod Touchを触ってみたよ Gizmodo Japan

iPod Touch

Appleの製品情報サイトはこちら。

■iPod Touch
http://www.apple.com/jp/ipodtouch/

すげーっ!!これほしいっ!!日本の出荷は28日以降のようですね。うーむ、最初は手に入らないんだろうな。クリスマスには買い替えようかな、iPod。

要するに、iPhone-電話機能=iPod Touchなのですが、なんとなくかつてのSONYのPDAに似ているとはいえ(苦笑。どこやっちゃったっけかな、あれ)、ビジュアルで直感的に操作していく画面が素敵です。余計なボタンもなくて、すっきりしたスタイルもいい。

願わくば、パソコンがこうなるといいなあ。難しいことは何も考えずに、直感的に使えるようになってほしい。21世紀、まだまだ面白くなりそうな感じで、わくわくしました。物欲のほうも盛り上がってまいりましたが、なにしろ先立つものが少ないゆえ・・・(泣)。

投稿者 birdwing 日時: 23:06 | | トラックバック

2007年9月 5日

いいトコドリな技術。

天気雨だったり、土砂降りだったり。結局のところ雨降りな一日でした。

台風の影響でしょうか。なんとなく不安定な気候です。そういえば、トップページにクーラーみたいなJukeBoxが設置されていますが、これはぼくが趣味のDTMで作った曲を聴けるようにしています。この1番目と2番目の「AME-FURU」という曲は、今日のような雨降りにはぴったりの曲ですが(自画自賛か。苦笑)、ボーカルはLotusloungeのSheepさんにご協力いただきました。

ちなみにクーラーのようなJukeBoxの使い方ですが、曲番号を選んで、再生ボタンを押してください。ただ、02ではなく2で再生です。0を入れてしまうと再生できなくなるので、そのときは「CLEAR」のボタンを押してください。さらに、連続して曲を聴く場合には、次の曲を再生するボタン(再生するボタンの右側)を押して再生した方がスムースかもしれません。

と、のっけからJukeBoxの再生マニュアルを書いていますが、なにをやっているのでしょうか(苦笑)。

さて。本題。

+++++

仕事でも趣味でも同様ですが、ゼロから何かを作ろうとすると途方もない労力が必要になります。マッシュアップ(MashUp)という言葉もありましたが、既にできあがったパーツを組み合わせて何かを作ると効率的であり、楽ちんです。

そもそもマッシュアップは音楽用語で、既存の曲をリミックスして新しい曲にするという意味だったようでした。それが、開発系の用語として使われるようになった経緯があります。Webサービスの機能が無償でAPIとして公開されることによって、サービスとサービスを組み合わせて、簡単に面白い仕組みを作ることができるようになりました。いわばWebの電子ブロック(古っ!)ですね。知らないか、誰も。

創造性は組み合わせだ、

ということを広告マンのバイブルを書いたジェームズ・W・ヤングやジャック・フォスターや、あるいは創造性の開発において一人者である野口悠紀雄さんなども言っていて、なるほどなあと思った記憶があります。かつてのブログではもう何度も取り上げたのですが、また掲載しておきます。この本です。

4484881047アイデアのつくり方
ジェームス W.ヤング
ティビーエス・ブリタニカ 1988-03

by G-Tools
4484031019アイデアのヒント
Jack Foster 青島 淑子
阪急コミュニケーションズ 2003-01

by G-Tools
4062754312「超」発想法 (講談社文庫)
野口 悠紀雄
講談社 2006-06-15

by G-Tools

また、池谷裕二さんの本にも、年齢を重ねれば重ねるほど組み合わせの能力というものは発達するものだ、などという元気付けられる見解があったり、茂木健一郎さんの本にも、眠っている間に記憶と記憶が新しいつながりを生成する、などということが書かれていて、非常に興味深いものがありました。脳科学的にも組み合わせは創造力の原点のようです。

という、この文章自体が、いままでぼくが読んだ本の断片を組み合わせて書いているわけですが(苦笑)、じゃあひとの文章ばかりで自分ってものはないのか?と言われると、

組み合わせ方、あるいはパーツをチョイスするセンスが自分

ではないか、と思いました。要するにファッションセンスのようなものですかね。どのジャケットを選んで、どのパンツを選ぶか、という選択が組み合わせのセンスである、と。

いいトコドリで構成していくわけです。けれども、そこには関係性の力学が働いて、このジャケットを選ぶならこのパンツはないでしょう、とか、このパンツを選ぶひとはこのジャケットは買わないんじゃないの、という組み合わせがある。

さらに、あまりにも同一系のセンスばかりを組み合わせると、いまひとつぱっとしないものがあり、かっこいいなかにわずかにダサいものを忍び込ませると、それがちょっと効いたりもする。スパイスの効かせ方もまたセンスともいえます。

という(大きな意味で)組み合わせに関連した話題ですが、天体画像の撮影で「Lucky Imaging」という技術が開発されたようです。

デジカメで写真を撮るときに失敗しないように同じシーンを何枚も撮るのですが、先日、息子の自由研究で折り紙飛行機を撮影したときに、ぶれてしまうなどピントが合わないことがありました。

天体画像では空気の状態によって画像が大きく変化するようですが、この「Lucky Imaging」という技術は、複数の画像を撮影してきれいに撮れた部分を合成して一枚の写真に仕上げるのだとか。以下、CNET Japanの記事から引用です。

新技術「Lucky Imaging」--地上望遠鏡で鮮明な天体画像を

ケンブリッジ大学とカリフォルニア工科大学の科学者らが、「Lucky Imaging」と呼ばれる技術を開発した。この手法は、多数の写真を撮影することにより、地球の大気によって天体の画質が損なわれる問題を回避するというもの。この手法を可能にするのが、高速度カメラとコンピュータだ。毎秒20コマの撮影が可能な高速度カメラで撮影した画像の中からコンピュータが最も鮮明な画像を選別し、それらを組み合わせて1枚の画像に仕上げる仕組みだ。

CNET Japanの写真の記事を見ると、一目瞭然ですね。

かなり以前から考えられていた技術のようですが、いいトコドリの発想は他にも使えそうな気がしました。

顔色悪いけど発想抜群とか、仕事はいまいちだけど趣味では充実とか、あるいはその逆のときもあったりして、山あり谷ありな自分ではあります。そこで、自分のパーフェクトな部分を合成すると、とんでもないすばらしいひとになるのではないか、と思ったりして。けれども、よーく考えてみると、あらゆるものに対して平均的な自分ができあがりそうな気がして、ちょっと凹んだりして(苦笑)。

人間、でこぼこだからよいのかもしれません。

投稿者 birdwing 日時: 23:29 | | トラックバック

2007年9月 4日

発熱する身体と文体。

どうも調子が悪いな、と思って家に帰ってから熱を測ってみると38度あり、風邪をひいたようでした。おでこと脇に冷えピタ(子供用)を貼っておとなしく横になっていたのですが、落ち着かない。そんなわけで、ひえピタ(子供用)装着のまま、のこのこ起きて書いたのが昨日のブログです。ちなみになぜ脇に冷えピタ(子供用)を貼ったかというと、動脈などの部分を冷却すると熱が下がりやすいから、とのこと。ほんとか?

体調によっては同じ38度でも関節が痛んで七転八倒することもあれば、平気なときもある。昨日は熱は身体の身体の動きが鈍いのだけれど、なんとなくいい感じの熱でした。熱出していい感じというのもいかがなものか(苦笑)と思うのだけれど、気持ちのテンションが張り詰めているからか、治そうという前向きな気持ちがありました。この前向きな気持ちが萎えてしまうときには、ほんと、たかが熱にも負けちゃいますね。寝込んでしまう。

熱を出したせいかわかりませんが、面白いなーと思ったのは、時間がものすごくゆっくりと進むこと。熱によって身体の時計がぐにゃりなのかびろ~んなのか伸びてしまったのかもしれないのだけれど、仕事をしていても、あれ?まだ1時間しか経っていないんだ、という感じでした。その時間に倍の仕事が進むかというと、そうではないのが熱の効果のかなしいところで、いつもと変わらない(苦笑)。いつもと変わらないんだけれど、時間がとてもゆったりと流れていくのを感じる。

なんでしょうね、これは。そして読み直してみて思ったのですが、熱を出した日の文章は、なんとなくやっぱりほんわりと微熱的な浮遊感がある。

「文体=身体」論という勝手な持論をぼくは卒論の頃から持っていて、これはどういうことかというと

ハルキは鼓動が高鳴るのを感じた。

と書くとき、主人公の鼓動が高鳴っているのはもちろん、作家の身体でも鼓動の高鳴りがあり、読者にもその身体状況が伝播する。このときの最適な文体は「高鳴っている」文体であることが理想ではないか、というような考え方です。

よくわからないですね(苦笑)。

要するに、ぼくは文体というスティル(英語の文体、あるいは静的)なものをリアルな動的なものにするにはどうすればいいか、ということを考えていて、誰かを突き動かす文章は、脳内よりも身体を揺さぶる文章でなければいけないのではないか、ということを考えてきたのでした。考えるよりも先に、身体で読む。

つまり「高鳴っている文章」には動悸の早まるリズムがあり、短いセンテンスで構成され、曖昧な抽象的な言葉であるよりも、具体的な先鋭的な言葉を選ぶ。そのことによって内容はもちろん、文体という身体がリアルを再現するために機能する。語の音も、「た」「か」などのように息を吐く音に近い音で構成され、その音が脳内で再現されることによって擬似的に高鳴っている状態を生む。

なんてことを考えながら文章を書くのは疲れるので、現実的ではないと思います(ははは)。ただ、それがぼくの構想している「文体=身体」論なのでした。

たかが文章とはいえ、ときに文章はぐさりとぼくらの胸に突き刺さる。使い方によっては凶器にもなります。凶器としての使い方を制限するモラルを考慮しつつ、ぼくは心を揺さぶる文章を書きたい。そのためにはどうすべきか、ということを考え続けていきたいと考えています。

そのひとつの理想が「文体=身体」論であり、熱を出したことをきっかけに、そんなことを思い出しました。

投稿者 birdwing 日時: 23:57 | | トラックバック

2007年9月 3日

折り紙のテツガク。

息子の自由研究が終わってほっとしているのですが、今度はとーさんの自由研究が始まってしまいました。今回、長男くんの夏休みの研究テーマは折り紙飛行機だったのだけれど、理屈っぽいぼくは、折り紙についていろいろと考えはじめています(苦笑)。そんなこと考えてどーなるの?という感じですが、自由研究なんだから終わりにするのも続けるのも自由でいいではないか、と。そんなわけで考えたことを書きとめておきます。

何の雑誌だったか思い出せないのですが、駅のスタンドで、折り紙が子供たちの脳力を育てる、というようなタイトルを読んだ気がしました。ありがちな見出しです。さすがにその短絡的な効果はどうかな、と思うのですが、あらためて折り紙文化とは何だろう、ということを考えてみたところ、次の5つの視点が浮かんできました。試しに考察してみます。

① 2次元から3次元を生み出す創作であること

たとえば絵画も遠近法によって、2次元のキャンバスに3次元的な立体の空間を生み出します。けれども、折り紙は一枚の紙が、折っていく過程のなかで立体に変化する。このダイナミックに変わる過程が面白くて、一枚の紙が飛行機にもなれば動物にもなる。素材から立体的な世界を生み出して、しかもそこには何もゴミが出ない、という効率さもあります。

② 丁寧な仕事をするためのエクササイズであること

きっちりと頂点に合わせて折る、半分に折る、という几帳面さが求められます。この几帳面さは、古来からある日本人のモノづくりの基本だったのではないでしょうか。と、そこで、まてよと疑問が浮かんだのですが、世界に折紙がないのだろうか、と。ネットで調べてみるとありました。なあんだ。これはさらに面白そうなので、またいつか詳しく調べてブログに書いてみたいと思っています。

というわけで残念ながら日本独自の文化ではないようなのですが、息子と折り紙飛行機を作って思っていたのは、折って開く、しるしをつける、という準備的な仕事が多かったことです。この準備的な作業は、その過程ではそれが一体何になるのかわからない。けれども後になってから、しるしの意味が生きてくる。

このときにしっかりと折り目をつけておかないと、きれいに出来上がらないんですよね。準備して、カタチにする。それは仕事はもちろん、料理にも言えることでしょう。趣味の絵画や音楽だってそうかもしれない。そんな丁寧な仕事をするためのエクササイズになる。その規律をぶっ壊したい気持ちもありますけどね(笑)

③ 工夫・改善・創造ができること

既成のラジコンであれば、必ず飛ばなきゃ欠陥商品です。飛ばないラジコンはクレームの対象になります。ただ、自分で作った折り紙、そして折り紙飛行機は、飛ばなければ、なぜ飛ばないのか、と考えさせられます。折り方が悪いのか、飛ばし方が悪いのか、それとも風向などコンディションが悪いのか。自分で作ったのであれば誰を責めるわけにもいかない。自分で考え、工夫や改善をして、こうしたらもっとよく飛ぶんじゃないかと新たな発想をする。これが大事です。

ブログやネットのマッシュアップ、自分でガジェットを作るなどの行為は、新しい時代の「折り紙」になるのかもしれないですね。そんな文化を内包している気がします。

④ コミュニケーションであり、伝承であること

そもそも折り紙の展開図なんてものは古来にはなかったような気がしていて、親から子供へといっしょに折って伝承していったのではないかと思います。うちの親父が教えてくれた紙飛行機は、へそヒコーキだということがわかったのですが(なんか、かっこ悪いぞ、へそヒコーキ)、そのほかにも折り方は忘れてしまったのだけれどイカヒコーキなども折ってくれた気がします。つまり、達人の技と同様に、折り紙もひとからひとへ、ともに折ってみせたり折ったりしながら伝わっていったのではないのか。

そうじゃないよ違うよ、とか、おおうまく折れたじゃん、とか、その作業工程を共有できる。そんなコミュニケーションツールである、という点も見逃せません。

⑤ 折る行為は、パターンの組み合わせであること

きちんと分類していませんが、Wikipediaの折り紙のページにも書かれているように、折り紙は、山折、谷折、ちょっと難しいところだと中割折りなどの折り方と、三角形に折るのか、四角形に折るのか、半分に折るのかなど、どのように折るかというパターンの組み合わせだと思います。これが理解できていないと、展開図をみただけでは折り方が想像できないのだけれど、一度分かってしまうと、ああ、鶴のあの部分の折り方ね、と結構わかったりもします。パターン認識を鍛える上で、かなり意義があるのではないか。

+++++

ということをつらつらと考えてみたのですが、そんな難しいこと考えずに折りなさい、折れば楽しいからいいでしょう、という気がしてきました(苦笑)。折り紙の意味を再発見するのも創造的な活動のひとつではないか、と無理やりこじつけて終わることにします。

投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

2007年9月 2日

仕事よりハードなものは。

それは息子の夏休みの自由研究です(苦笑)。

ああっ、9月のはじまりの土日はそれで終わってしまった。息子よりもおとーさんの方がプレッシャーに負けそうでした。今日の夕食前には、ほんとうに具合が悪くなって倒れました。風邪をひいたのかもしれませんが、頭痛と眩暈に寝込みました(30分ほど)。

とはいえ、うーんうーん寝ているぼくのところへきて、次男くんには「あー、へんなひとがいるー(笑)」とか言ってからかわれるし、奥さんと長男くんといえば「じゃあお風呂入っちゃおうか?」とかぼくには声もかけてくれないし、ひとりで苦しんでいるのがばかばかしくなって、頭痛の引くのを待って必死で自由研究のフォローに向かったぼくは健気です。えーと、これは誰の自由研究なんだ?(苦笑)。

今年の長男くんの自由研究は、「紙飛行機の研究」をテーマとしました。

実は以前のブログで、「親子であそぶ折り紙ヒコーキ―かんたんに折れて、よく飛ぶ名作・新作13機」という紙飛行機の本を買ってあげた話を書いたこともありました。この本です。この本が、夏休みの自由研究の契機となりました。

親子であそぶ折り紙ヒコーキ―かんたんに折れて、よく飛ぶ名作・新作13機親子であそぶ折り紙ヒコーキ―かんたんに折れて、よく飛ぶ名作・新作13機
戸田 拓夫


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長男くんは紙飛行機が好きです。しかしながらヤリ飛行機というか、とんがらせた飛行機を飛ばすというより投げているばかりで、しかも図面思考が苦手な奥さんの血を引いたのか、折り紙が苦手。というわけで紙飛行機の研究となりました。ぼくは別のテーマを挙げていたのですが、安易な長男くんと奥さんに押し切られました(笑)。

とにかく本のなかにある10機を作ろうということで、クロの模造紙を買ってきて、その上で10機を折らせて、ぼくが折る過程をデジカメで撮影しました。これがまた面倒なんだなー。クーラーが効いている部屋なのに、どういうわけか撮影していると汗がぽたぽた落ちてくる。カメラマンって大変だ、と思いました。

数週間前に5機で終わったままだったので、土曜日に残りの5機を撮影。1ページに折る過程を3枚ずつ掲載しようとしたのですが、なんと今日の朝確認してみると、紙もなければプリンタのインクもない(もっと早く気付けー)。

最終的なレポート(というほどでもないか)の構成を説明して、奥さんに「これを買ってくるように!」と指示を出し、長男くんに「これを書いておくように!」と指示を出し、ぼくは新宿まで紙とインクの買出しに。トンボ帰りで帰宅すると飯も食わずに、公園へみんなを連れて行って、どれがいちばんよく飛ぶかのチェック。無軌道な次男くんが、あっちこっちを走り回るのにはらはらしながら、距離を測定しました。そうしてやっと3時すぎに冷めたスパゲッティの昼食にありつけた(泣)。

いやー仕事と変わりません。というか、やさしいパパモードではぜったいに終わらないと思ったので、仕事モードにぼくもチェンジしました。あら、いつものぼよよ~んとしているか、廃人でぶっ倒れているパパとは違うわね、という奥さんの視線を感じたのですが、そりゃそうだ。家のなかでビジネスライクなスキルを発揮しても胡散臭いだけで、そんなものは封印している。でも、この危機を乗り切るには、そんなこと言ってられないでしょうが(泣)。

休む暇なく、80枚近い折り紙の制作過程の写真をリサイズ(ちいさくすること)して出力。と、同時に、長男くんの進行状況を確認して手が止まっていれば、いろいろとアドバイス。奥さんにしてみれば、たかが自由研究に何を凝ってるんだかこのひとは(苦笑)、と思っていたかもしれません。いや、そうかもしれないのだが、参観日に行って思ったのだけれども、結構みんなすごいのだ。自由研究につぎ込む熱意には、ただならぬものを感じます。そして、ぼくは勉強はどうでもいいと思ってしまうのだけれど、自由研究はどういうわけかライバル意識むき出しで熱くなってしまうのです。

というわけで紙飛行機の自由研究が10時ぎりぎりに完成しました。ふ~。お疲れさま。

せっかくなので、撮影した10機の折り紙飛行機の作り方はこのブログで紹介していこうと思います。もしかすると紙飛行機に関心のあるひとの参考になるかもしれません。

ちなみに息子(長男くん)とぼくの力作レポートはこんな感じです。じゃーん。

070902_jiyukenkyu1.JPG

070902_jiyukenkyu3.JPG

070902_jiyukenkyu2.JPG

ついでに言うとですね、実は紙飛行機を作るだけではなくて、羽田や成田のほんものの飛行場に行って、飛行機を見る計画をぼくは立てていたのでした。インドア派な奥さんから「そこまでしなくても(苦笑)」と言われたのだけれど、ぼくは自由研究の最後をそれで締めたかった。

というのは・・・。かつて、ぼくが好意を抱いていたひとが飛行場を好きな場所として挙げていたからです。長男くんが、ひょえーやっぱり実際の飛行機は紙飛行機とは違うねー、と驚いている横で、父はひそかにノスタルジーに浸りたかったのだ。夏の終わりに。

ただ、そんな余裕もなく慌しく過ぎ去った夏休み最後の日も、それはそれでいいかもしれないな、と思ったのでした。

長男くんへ。きみが折った飛行機はあまりよく飛ばなかったけれども(苦笑)、きみがもっと遠くへ羽ばたいてくれることを、父は祈っている。

なんというかだなー、きみの自由研究なのにぜんぜん危機感のないきみに、奥さんと同じ血を感じてしまって、それはそれで頼もしいと思ったのだよ。きみのママは、ほんとうに危機感のないひとでした(苦笑)。いや過去形はまずいよね、危機感のないひとです。ただ、考えすぎて火のないところに危機感の火を勝手に起こしがちなぼくは、きみのママのいい加減さ(笑)に、どれだけ救われたかわからない。お互いに似たものどうしであれば、きみは生まれてこなかったかもしれない。

ハードな自由研究のフォローのせいか、ビールのせいか、風邪をひいたせいかわかりませんが、まとまらない思考のまま、書き殴って終わることにします。いやー疲れたぞ、父は。そして明日からまた、ハードな1週間がはじまります。

投稿者 birdwing 日時: 23:41 | | トラックバック

2007年9月 1日

ささやかな通知。

涼しくなりました。会社から帰る道すがら、ころころと虫の声を聴くようになったと思ったら、もう9月。はやいものですねえ。秋じゃないですか。なんとなくトウキョウはまだ蒸し暑いけれども。

曇り空の本日。長男くんの自由研究を手伝った後で、日々の疲れが溜まっていたせいか、涼しさが気持ちよかったせいか、うとうと眠ってしまいました。すると、浅いまどろみのなかで楽しい夢をみました。

くじらのようなでっかい飛行船が空に浮かんでいて、飛行船のお腹の下を潜り抜けるように、奥さんがクルマを運転して子供たちと快適にドライブしている。うーむ、奥さんは免許持っていないんですけど(苦笑)。まあいっか、夢のことだし。クルマの窓から流れる緑の木々の風景がとても快適でした。そう、ちなみにぼくはカラーの夢を見ます。

というどうでもいい夢の話はさておき。MovableTypeでこのブログを構築して、ようやく1ヶ月になります。ほんとうに親しい(信頼できる)ひとだけに場所を告げて運用していたので、たぶん毎日MAXで10人ぐらいの訪問だったでしょうか(笑)。ページビューに関しては、自分で更新しまくったため1,300PV/月ぐらいいってしまいましたが、8,000PV/月だったはてなの頃と比べると穏やかになりました。うーむ。これぐらいがいいぞ。自分としては最適だ(日に8,000PVというときもあったんだけど、あれはもうこりごりだ)。

ちなみにぼくはGmailとともに、Google Analyticsをログ解析に使っています。ココログなどでは、生ログにフラグを立てて誰が見にきたか(つまり足跡機能ですね)なんかもできるのだけれど、なんとなくぼくは好きではない。現在はレンタルサーバーで運用しているので、サーバーの生ログをひろってくれば同じことは可能です。でも、やらない(笑)。

Analyticsのよいところはアバウトなところです(笑)。ビジュアルで概要をつかめる。こんな感じです。

analitics_0708.JPG

解析したいサイトにタグを埋め込まなければならないけれど、簡単で高機能です。基本的にグーグルが買収した企業のUrchinという製品で動いていると思うのですが、仕事でログ解析などもしなけりゃならないので、ちょっと触ってみました。ぐーんとグラフを右肩上がりにしたいとか、そういう思いはぜんぜんございません。平行にずーっと続いてほしい。

ぼくは書きたいことを書く、それだけのことです。

ミニマムな運用ですが、だからといって手を抜かず、1ヶ月のあいだ全力で書いてきました。そしてこれからも全力で書いていこうと思っています(なので、読んでいただける方、よろしくお願いします)。

特定の少数のひとに向けて書いたほうが気持ちが入るのかもしれませんね。ブログで人気者になれ、稼げ、という方向性もありだとは思うのですが、ぼくはもっとミニマルなものであってよいのではないか、ということをずっと考えてきました。

かといって、閉鎖的になるのではなく、いろんな偶然の広がりのようなものを作りたい。どーでもいい不特定多数に読まれるよりも、読んでほしいひとに訪問していただけるようなSEO(検索エンジン対策)も考えたい。というわけで、少しずつ外部に開いていくつもりです。

いままでは検索エンジンにPING(更新通知)を飛ばさなかったのですが、9月になったので、Googleのブログ検索とYahooのブログ検索だけに、さりげなく更新通知を飛ばしてみました。

たくさんのひとに見ていただかなくてもいい。ほんとうに趣味や人間性の合うひとたちに読んでいただき、いろいろなお話をしたい。というわけで更新通知を飛ばしてみたのですが、きちんと反応してくれる検索エンジンとしてくれないエンジンがあるようです。面白い。

それにしても、いまだに検索すると自分の過去の汚点(苦笑)を目のあたりにして困惑します。インターネットの怖いところは、キャッシュ(データを一時的に保存すること)に残ってしまうことかもしれない。一度、取り返しのつかないことを書いたら、しばらくはその過去から逃れられません。やれやれ。

しかしですね、ぼくが思うのは、結構こういうことは気にしているのは自分ばかりで、他のひとはどーでもよかったりするのではないか、と(笑)。転んだら立ち上がればいいわけで、自分なりの価値判断をどーんと持てば、たいていのことには揺らがなくなります。

ここで書いてるよー、というささやかなお知らせを飛ばしながら、こつこつとエントリーを積み上げていきます。

まだβを外すことはできないんですけどね。そもそもデザインをなんとかしたいです(苦笑)。それから、カレンダーの翌月、前月を表示させるという簡単そうなことができなくて困惑中。ブログ書きと平行して、勉強しますか。

ヘッドホンが暑くて被れなかったので保留にしていたDTMも、そろそろ再開しようと思っています。ゲイジュツの秋、よい曲を作りたいものです。さらに映画も観たい、本も読みたい、と欲張りな秋です。

投稿者 birdwing 日時: 23:06 | | トラックバック

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