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2007年9月10日
補う力、つなげる力。
人間には補う力があるそうです。以前にも書きましたが、3つの点があると線が引かれていなくても3つの点を結んで三角形をそこに描いてしまう。パターン認識にも通じることですが“つなげたがる力”といえるかもしれません。そんな力が人間にはあります。
どこかで見たなーと思っていたのですが、池谷裕二さんと糸井重里さんの「海馬」という本でした。カニッツアの三角形と呼ばれる錯視の図形です。パックマンが向い合うような図形の真ん中に三角形が見えるでしょ?これです。茂木健一郎さんの本でも読んだ気がします。
このつなげたがる力が想像力=創造力の原点ではないかとぼくは思っていて、このことをずーっと最近は考えつづけています。えーと、考えたからといって、何もいいことはないんですけどね(苦笑)。考えるのが好きなので、なんとなく考えてしまうだけで。そこで、考えたことを、とりとめもなく書き綴ってみます。
たとえば過去と現在という点に線を引いて、その延長線上に未来を描いたり構想することも、つなげる力の応用力ではないかと考えます。未来はここにはありません。けれども過去と現在を線で結び、その延長線上に補助線を延ばしていくことで、人間は、ここにはない未来を描くことができる。
あるいは物語構成において、起・承・転・・・という流れがあると、その先に結を想像してしまうことってありますよね。推理小説では、知らず知らずのうちに残された痕跡から犯人を探している。痕跡をつないだ先に犯人がいるかどうか確かめられるからこそ推理小説は楽しいのであって、転・・・でおしまい、という犯人解明や種明かしのない推理小説があったら、なんだこりゃー(怒)になる。なんだかすっきりしません。
というふたつの例は時間軸に関する例ですが、空間の欠けている部分を補うこともあります。しっぽだけが見えて身体の隠れている動物を想像するような感じでしょうか。あるいは古代のひとたちは、山の向こう側に別の街があり、海の向こう側に別の国があることを想像しました。その想像力がなければ、ぼくらは地球という存在あるいはグローバルな概念を生み出せなかったかもしれません。
もう少し思考を飛躍させてみます。達人の文章の秘訣は「書かないこと」かもしれない、などということも頭に浮かびました。
書いた言葉と書いた言葉を結んで、その線上に書かなかった何かをリアルに浮かび上がらせること。それが文章の達人の技ではないか。禅問答のようですが、うまい文章を書くには、どれだけ書かないかという技術を学ぶのが近道かもしれません。つまりたくさんの粋な言葉を知っているよりも、読み手のなかにみずみずしい想像力を喚起させるか、ということの方が重要になる。たどたどしくても鮮やかなイメージを想起させる名文のほうが、使い古された明言よりも心を打つことがある。
この視点から文章上達のエクササイズを考えるとすると、たとえば「かなしい」という言葉をNGワードにして、どれだけかなしい文章を書けるか、という鍛錬など面白そうです。涙も使っちゃダメ。ぼくはめちゃめちゃ明るい文章なのにぼろぼろ涙が出てくるような小説を読みたいと思うのですが(どういうひねくれものだか)、そんな小説を書けるひとは高度な文章使いですね、きっと。
あるいは、思わせぶり、ということなのかもしれません。
ストレートに、好きだ、と告げるのは男らしいかもしれないけれど、あえて大事な言葉は言わない。はぐらかしておく。ぽつりとフレーズを置いて、別の場面でまたさらりと気になるフレーズをさりげなく呟いてみる。核心にはぜったいに触れない。そうして、いくつかの言葉をつないで、あらためて上空から眺めてみるとナスカの地上絵のようにひとつのメッセージになっている、みたいな言葉の使い方でしょうか。要するに、じらしのテクニックかもしれません。
・・・という上の段落のようなことを書くとですね。読んでいてなんとなく恋愛のイメージになってしまうと思いませんか?
なんとなくこの文章は彼女の攻略法のようです。ちょっとした恋愛指南っぽい。ところがぼくは上の段落で、ひとこともこれは男女間の話であるとは書いていない。書いていないんだけれど「好きだ」「告げる」「男らしい」という言葉が「恋愛」という文脈を引っ張ってきてしまう。
試しに次のように書き換えてみます。
ストレートに、アウトドアライフが好きだ、と告げるのは男らしいかもしれないけれど、あえて大事な言葉は使わない。シュラフの寝心地、ランタンで照らされた影、満点の星空などのフレーズを置いて、別の場所にも気になるアイテムを配置する。核心にはぜったいに触れない。そうして、いくつかの言葉をつないでいき、上空から眺めてみるとひとつのメッセージになっている。
ちょっと無理がありますが、恋愛のイメージは消えますよね。アウトドアコラムの書き方というか文章読本の抜粋のようなイメージになります。で、これを読んでしまった後で、再び最初の文章を読み直すと、もう恋愛のイメージは生まれない。
この現象は、池谷裕二さんの本のなかでは「脳の可塑性」というようなキーワードで語られていたような気がします。一度、イメージが決定されると、そのイメージの力によって全体の意味が変わってしまう。
補う力、つなげる力について考察したあとで、実はその力を無効にする考え方をいま構想しています。乱暴に言ってしまうと、勝手に補ってしまった想像は現実を歪めている。補ったり、つながったりしている言葉があったとしても、ちょっとしたキーワードさえあれば妄想の呪縛を斬ることができる。妄想的な想像力を排除して、補わない、つながらない真実の姿を取り戻せないか、という考え方です。洗脳的、盲目的な心の動きから自由になるための方法論かもしれません。
「不完全という完成形」というタイトルが浮かんでいるのですが、この話はいずれ気が向いたら書いてみることにします。
投稿者 birdwing : 2007年9月10日 23:57
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