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2009年4月12日

ハンコック

▼cinema09-13:あまりにカジュアルなヒーロー。でも運命に泣けた。

B001NK60OQハンコック エクステンデッド・コレクターズ・エディション [DVD]
ジェイソン・ベイトマン, ウィル・スミス, シャーリーズ・セロン, ピーター・バーグ
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2009-01-28

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遠まわしに書くのですが、どんなに想っていても一緒になれない関係というものがあります。一緒にいると、何かを壊してしまう。愛し合っているのだけれど、愛し合うがゆえに互いに傷付けてしまう。だからどんなに強い想いがあったとしても、ぜったいに一緒になれません。想いがあるからこそ、離れて暮らさなければいけない。何千年もの時間を経て、一緒になれないまま思いつづけているのだけれども、遠い距離を置くことが必須の運命にある。

切ないですね。切ないけれども愛情を守るためには、それがベストである。「ハンコック」はそんな映画です。何のことやらわからないでしょう。どういうことだ?と思ったひとは、映画を観賞してみてください。きっとわかるはず。

のっけからVFXのシーンに圧倒されるのですが、ウィスキーの瓶を片手に持った酔っ払いのとんでもない男がヒーロー、ハンコック(ウィル・スミス)です。どういうヒーローかというと、重力を無視して空を飛び回る。重い車も指先でひねってぶん投げる。銃弾でいっせいに射撃されてもびくともしません。なんなんだ、こいつは。びっくりしました。凄すぎる。

けれども、超能力を使いまくって、破壊するだけ破壊してとりあえず事件を収拾するやり方に、一般市民は納得できません。むしろ無謀なやり方に激怒している。確かにわかります。やりすぎです。事件そのものよりも、彼が破壊した代償のほうが大きい気がする。

このとき思い出したのは、ウルトラマンメビウスだったかと思うのですが、変身したばかりの若葉マークのウルトラマンが闘ったとき、周囲の建物を破壊しまくって、人間の隊員に、「なんだ、その闘い方は!」と怒られて、しょぼーんとするシーンでした。

ヒーローにも、スマートな闘い方があります。ヒーローのステレオタイプというか、きちんとマスクして顔を隠してぴったりとしたボディスーツに身をつつみ、市民といざこさを起こしてはいけない。でも、ヒーローであることは特殊な人間でもあり、だからこそ飲んだくれて拗ねてみたくもなる。プライベートなヒーロー像が描かれたハンコックには、親近感が沸きました。物語では、彼に助けてもらったPR会社のダメ社員である広報マンのレイ(ジェイソン・ベイツマン)が、彼を悪いイメージのヒーローから、ほんとうのヒーローに脱却させようと努力します。

そもそもハンコックは大人気ない。子供にマヌケと言われて、制裁を加えてしまう。そんな無軌道ぶりをおひとよしなレイは、あえて刑務所に入れることで、警察や社会が彼を必要とするように仕向けます。彼は刑務所のなかでも無軌道ぶりを発揮するのですが、そのうちに、ハンコックを刑務所に入れることで事件は多発するようになり、策略は見事に効を奏するのですが・・・。

この映画で描かれるヒーロー像は型破りです。嫌われもののヒーローといえば、バットマンなどもそうだったかもしれませんが、ハンコックは、マスクも特殊なクルマもなしにヒーローとして存在している。超能力があるというそれだけで、ハンコックはヒーローなのです。ふつうの服装をした、どこにでもいるような酔っ払いでありながら、ジェット機のようなスピードで空を飛び、玩具のようにクルマを投げ飛ばし、周囲をめちゃめちゃにしながら凶悪犯罪を解決する。そのギャップがとても楽しめました。なんだかわくわくしました。

後半で彼の特殊な能力の理由が明かされていくのですが、このどんでん返しが面白い。面白いと同時に、冒頭にも書いたように切ない。これもまた唐突な連想ですが、川上弘美さんの「溺レる」という短編集に収録された「無明」を思い出しました。

と、なんとなく吹っ切れない書き方をしているのは、ネタバレを避けるためです。どちらかというとエンターテイメントというよりヒューマンタッチな映画かもしれません。武装したヒーローではなく、素顔のヒーロー像を楽しみひとにはおススメかも。問題の多いしょうもない英雄なのですが、その人間味にちょっと惹かれます。現実社会で共感を生むことでしょう。

英雄気取りで浮いちゃうひとも仕事の場ではみかけますが、ハンコックの謙虚さを見習うといい。ヒーローは悪役と紙一重であり、そのことを自覚したときにヒーローと成り得るものです。天狗になっている自意識過剰な人物は、もしかすると他のひとたちからとても疎まれているかもしれない。

ヒーローにも人間性が求められる世界です。勧善懲悪が絶対的な力を持っていたのは遠い昔のことで、いまでは悩み多き英雄が求められるのかもしれません。正義ではなくても、うじうじと病んでいても、力を駆使することを躊躇ったとしても、それがヒーローである。なんだか難しい社会になってしまいました。4月12日観賞。

■トレイラー

■公式サイト
http://www.so-net.ne.jp/movie/sonypictures/homevideo/hancock/

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投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

2009年4月10日

アイアンマン

▼cinema09-12:鋼の科学者という最終兵器。

B001MIMBJWアイアンマン デラックス・コレクターズ・エディション (2枚組) [DVD]
グウィネス・パルトロー, テレンス・ハワード, ロバート・ダウニーJR., ジェフ・ブリッジス, ジョン・ファヴロー
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2009-03-18

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このところ映画は「きまぐれロボット」「僕の彼女はサイボーグ」と、SFものを中心に鑑賞してきました。「アイアンマン」もロボットつづきと言えなくもない。正確にいうと戦闘スーツという感じでしょうか。要するに人間が入った"かぶりもの"のロボットです。バットマンなどと同様、アメコミを実写化した作品です。

軍需産業というと、平和を乱して殺戮によって儲ける汚い産業であると批判されがちですが、巨大な利益を生み出すイノベーションのインキュベーターである、という印象もあります。ホリエモンが夢見ている宇宙産業も軍需産業のミサイル作りが基盤になっていると思うし、インターネットでさえ、もとは情報戦を制するためのネットワークであったように記憶しています。自分もしくは自国を守るためには、開発競争も必死になる。だからこそ、さまざまな技術革新が生まれたのかもしれません。

暴論かもしれないし、実際に戦争で命を落としてきた人々には申し訳ないことですが、人類の進化のためには戦争は必要になることもあります。そこで何を学ぶか。ほんとうは痛い目をみずに学ぶことが大切だけれど、人間社会の悪が活気的な技術の進歩、人間の進化に貢献する場合もあるでしょう。

兵器製造会社のカリスマ社長トニー(ロバート・ダウニー・Jr)は、自社製品のプレゼン直後に銃撃されて心臓に傷を負い、ゲリラたちに拉致されます。通訳の男と洞窟のなかに閉じ込められて、この材料でミサイルを作れ、ということを指示される。しかし、ゲリラたちの言いなりになっても解放されたらどうせ殺されるだろうと考え、ミサイルを作っているようにみせかけて、ひそかに自分の心臓を守るアーク・リアクターと呼ばれる動力源を開発し、彼等に立ち向かうための戦闘スーツを組み立てます。

がらくたから作った戦闘スーツで命からがら逃げ出して、兵器作りはやめだ!と宣言するのだけれど、彼の会社の重役たちは兵器づくりの甘い蜜を諦められずに・・・。

冷蔵庫の残りもので作っちゃいました、という美味い料理には感動しますが、がらくたから戦闘スーツできちゃいました、という彼の才能が凄い。SFだからということもあるかもしれないけれど、技術者魂というか発明家魂というか、そんなロマンに惚れました。ガレージでコンピュータを組み立てたスティーブ・ジョブズのようなイメージも重なりましたが、最悪の環境のなかで最高のものを作り上げる天才に憧れます。

設計図は見張りのゲリラたちに気づかれないように巧みに分断されていて、重ね合わせるとロボットの形になる。しかも、足からジェットを噴射して空まで飛ぶことができる(結局、ばらばらになって落っこちてしまいますが)。とんかん自分でハンマーを打ちおろして鋼の戦闘スーツのプロトタイプを作っていくのですが、こういう科学者っていいなあ、と思いました。

さらにいいなあと思ったのは、彼の自宅の地下室。研究室のような場所が気に入りました。最先端の3DによるCADのようなパソコン画面に向かいながら、自分で改造したクルマのエンジンを設計し、テストしていたりする。ゲリラたちの捕獲から逃げて生きながらえた彼は、ここで洞窟のなかで作った戦闘スーツを、さらに改良して完成させていきます。

このとき、彼の天才的な発想を手伝い、助手を務めているのはマジックハンドのようなロボットです。J.A.R.V.I.S.(ジャーヴィス) という人口知能で、彼の地下室全体も制御しているらしい。ちょっとさびしい気もしますが、アームだけのロボットが結構やさしかったり、愛嬌のあることを言ったりもするので和みました。完全に機械による存在でありながら、どこか人間のように親近感がわきます。

隠れ家は男のロマンですね。地下室が、男ごころをくすぐりました。書斎というか、研究室というか、自宅スタジオというか、趣味や自分の世界に没頭できる部屋は、ぼくら男性にとっては夢の城ではないでしょうか。

考えてみると、いまぼくの住んでいる家にも、地下室と屋根裏部屋があり、いまのところ無駄に空いています。地下室は、明かりとりの窓があって外光を取り入れるようになっているのだけれど、隣りがバスルームなので、暗いし湿度が厳しそうなので、そこを自分の部屋にすることは諦めました。しかし、なんとなく地下室に篭りたい気分がする。

トニーと対立する悪い重役も彼の設計図を入手して、模造したロボットを作ります。2体の対決はなかなか見どころです。なんというか究極の兵器は科学者そのひとなのだな、と。

戦闘スーツを着用するシーンはレースのコックピットのような感じで、四方八方からマジックハンドのようなものが彼の身体にスーツを装着していく。人工知能を完全に信頼していなければできないことで、装着したのはいいけれど簡単に脱ぎ捨てられないのは面倒だな、トイレはどうするのだろう、閉所恐怖症のひとにはこいつはおススメできません、と、どうでもいい瑣末な日常的な心配ごとを考えてしまいました。

どんなに技術を模倣できたとしても、技術者のこころと頭脳がなければ、兵器もただの鉄屑になります。少年のこころを奮い立たせるような、そんな映画でした。4月5日観賞。

■トレイラー

■公式サイト
自分のアーマースーツを作って、シューティングゲームができます。
http://www.so-net.ne.jp/movie/sonypictures/homevideo/ironman/

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投稿者 birdwing 日時: 23:46 | | トラックバック

2009年4月 9日

僕の彼女はサイボーグ

▼cinema09-11:交錯する過去と未来と映画の文脈、彼女は最強。

B001D7RMQE僕の彼女はサイボーグ 通常版 [DVD]
綾瀬はるか, 小出恵介, 桐谷健太, 田口浩正, クァク・ジェヨン
アミューズソフトエンタテインメント 2008-10-17

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21世紀ということで、ロボット関連の動向が気になります。といっても、ぼくは理系でもなければ、カルト的に詳しいわけでもありません。よーし、いっちょ作ってみるか、と奮起して購入しようと考えたDeAGOSTINIのパーツを集めてロボットを作る隔週雑誌は、5回ぐらい購入しただけで挫折しました。結局、残ったのは足一本さえ完成しなかった部品ばかりです。もったいないことをしました。それなのに玩具売り場に行くと、タカラトミーのi-SOBOTなどに見惚れてしまいます。懲りないひとです。

先日、星新一さん原作のショートショートを映画化した「きまぐれロボット」を鑑賞してテンションがあがったので、ロボット関連の映画を観たくなりました。かつて観た作品から代表的なものを思い浮かべると、洋画では「A.I.」、「アンドリューNDR114」、「ターミネーター」、邦画では「鉄人28号」、「キャシャーン」でしょうか。ロビン・ウィリアムズが主演の「アンドリューNDR114」はかなり好きな映画でした。感情のないロボットが人間に近づいていく、そんなロボットの人間への憧れが描かれています。

たぶん厳密に用語を定義すると、ロボットとは、容姿が人間に近くない金属装置的なものを言うのであり、人間に近いものは、アンドロイド、ヒューマノイド、サイボーグなどと呼ばれるのではないでしょうか。完全に人間に近いロボットの登場によって、機械に恋をする、というテーマも生まれます。

どこまでがロボットなのか、人間とは何なのか、という哲学的な命題がその根底には流れています。このとき、ふと思ったのは、人間の男性がアンドロイドの女性に恋をする、というパターンが多いのではないか、ということでした。女性が男性のロボットに恋をする話はあまり聞いたことがない。人魚に恋をする、のような古い伝説のフレームワークが潜在的にありそうです。

プラトニックな話であればロマンティックですが、下世話なことを書いてしまうと、南極○号のようなダッチワイフの世界に近くなるような気もします。ちなみに知人から教えていただいたのだけれど、バジリコという出版社からダッチワイフに関する本が出ていて、これがとても面白いとのこと。200万~300万ぐらいする最高級の製品は、ほとんど肌触りが女性らしい。細部も(なんの細部なんだか)緻密に再現されているとのこと。そんなものが部屋にあったら怖いのですが、収集家は何体も持っているようです。人形をいとおしむフェティシズムのようなものもあるのでしょうか。ぼくはやはり生身の女性のほうがいいと思うのだけれど。

エロ方面に話題が逸れました。というわけで、「僕の彼女はサイボーグ」です。

寂しく誕生日を祝う主人公北村ジロー(小出恵介)のもとに、ひとめぼれした女性とそっくりの顔つきや容姿をした美少女のサイボーグ(綾瀬はるか)がやってくる、という物語です。彼女は未来から時空を超えて彼のもとに訪れました。

さすがにサイボーグだけあって、彼女は徹底的に強い。強いのだけれど、所詮はプログラムで動いているため、感情が希薄です。学習するロボットなので、すこしずつ変わってはいくのだけれど、「僕」の戸惑いや恋愛感情をスキャンすることはできない。中途半端に読み取った感情表現が、かえって主人公をいらだたせたりもする。が、しかし、これはロボットではなくてもあり得ることで、人間であってもそサイボーグ的に恋愛の機微に疎い女の子はいる。そんなところが共感を生むのでしょう。

強い女性+弱い男性という構図で思い出すのはハリウッド版でもリメイクされた「猟奇的な彼女」であり、あとで気付いたのですが、その作品と同じ郭在容(クァク・ジェヨン)監督なのでした。草を食むような男性が増えてしまった結果、こうした構図の物語が好まれるのだろうなと感じました。女性に守ってほしい男性が多いのだろうか。女性側からみると、そんな弱々しい男性には母性本能を感じるのだろうか。だいじょうぶか、男たち。

ただジロー(小出恵介)は、とてもやさしい男です。時空を超えて返っていく彼女と別離のシーンは二度繰り返されるのだけれど、泣けた。若干、おたく的(というか、オタクってもう言わないのか)な要素を感じて借りるのを控えていた作品ですが、よかった。VFXも迫力があって楽しめました。

いろんな映画の文脈が絡み合っていると感じたのですが、時空を超えて現れた美少女サイボーグが主人公の未来を変えるテーマを過去のやり直しと未来の再構築と考えると、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」につながります。時空を超えてダメな現実をよい未来に変える映画は多数ありますが、それだけぼくらの現実は二度とやり直せない後悔にあふれている。未来からきたサイボーグが主人公を守ることに関していえば、まさに「ターミネーター」なのですが、一定の枠組みで進行する物語のフレームが、エンターテイメントとしては心地よい。ワンパターンだ、またかーという気にはならないですね。つまり、ぼくらは(あるいはぼくは)こういう物語を潜在的に求めているのかもしれない。

ほかに映画の文脈でいうと、大地震によって崩壊した世界のなかで主人公を救うシーンでは、「エイリアン」の有名なシーンを思わせるところもありました。真似というのではなく、オマージュなんだと思います。その部分を陳腐とみるか、にやりと含み笑いをするかで評価は分かれるかもしれませんが、後者であれば映画好きも満足できそう。

それにしても。綾瀬はるかさん、すごいプロポーションです。完璧だ。ボディスーツのような身体のラインにぴったりの服を着ると、セクシーというよりかっこいい。びしっと決まっているし、キュートな感じもあります。どちらかというと感情的な表現をするシーンより、サイボーグ的な無表情で、かくかくした動きにしびれます。

しかしですね、ぼくのストライクゾーンではなかったなあ。気が強い女の子は好きだけれど、綾瀬はるかさんはちょっと違う。美人すぎる気がしました。チョン・ジヒョンのような、いまひとつぱっとしない顔で平凡で、おっとりとしたかわいらしい女性が好きなのだ。自分の好みを語ってどうする、という気もするのですが。なので、綾瀬はるかさんに関しては淡々と観ることができました。彼女のファンであれば、もっと熱狂的に支持するのでは。

こんなサイボーグが世のなかに出てくるのはあと何年後だろう、そのときにサイエンスフィクションつまり空想小説は何を描けばいいのか衰退してしまうのか、という余計な心配をしたり、音声合成のVocaloidのように、やっぱり人間は生身であるからこそ人間だ、いや人間を模倣する先端技術に拍手を送るべきだ、のような議論が生まれるのだろうな、ということをぼんやりと考えたりもしました。未来は何処へ。4月5日観賞。

■トレイラー

■公式サイト
http://cyborg.gyao.jp/
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投稿者 birdwing 日時: 23:53 | | トラックバック

2009年4月 7日

ウォンテッド

▼cinema09-10:暗殺者に転職した人生落伍者の過酷なレッスン。

B001O09470ウォンテッド リミテッド・バージョン [DVD]
ジェームズ・マカヴォイ, アンジェリーナ・ジョリー, モーガン・フリーマン, テレンス・スタンプ, ティムール・ベクマンベトフ
UPJ/ジェネオン エンタテインメント 2009-02-25

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野球選手には、バッターボックスで精神を集中する球が止まってみえる、というひとがいます。分解処理の能力をあげていくと、時間はゆっくりと、そして空間は細部まで見渡せるようになるのかもしれません。

というような表現で思い出す代表的な映画は「マトリックス」でしょうか。のけぞって弾丸を避ける表現は、VFXならではのものでした。「ウォンテッド」は暗殺者の物語ですが、暗殺者視点ではなく弾道視点で、銃から発射された弾がターゲットを射抜いたところから逆に時間を遡って、はるかな飛距離を越えて銃のなかにおさまる。まずは、そんな表現が印象的でした。

どん底の生活のなかで自分を見失っている主人公ウェスリー(ジェームズ・マカヴォイ)。会社では顧客管理担当という仕事に就いていますが、肥満の女性上司に、耳元でかちかちホチキスを鳴らされて小言をぶちまけられながら、ストレスにまみれた毎日を送っています。しかも、後ろの席の同僚に恋人を寝取られている。住んでいるアパートといえば電車の高架の近くで騒音が酷い。悲惨な人生を悲惨とも思わないほどに麻痺してしまっていて、毎日を惰性で生きています。

ところが、実は7歳のときに自分のもとから去っていったという父親は凄腕の暗殺者で、彼にもその暗殺者としての潜在的な凄い能力が眠っています。父親は、繊維工場で織物に託されたメッセージから次のターゲットを決めるという謎の組織フラタニティに所属していました。その父が殺されたということで、いきなりフラタニティ参加を求められた主人公は、過酷な特訓を重ねて暗殺者として成長していくのですが・・・。

アクションは凄い。女性暗殺者フォックス役のアンジェリーナ・ジョリーは、こういう映画では映えるなあ、と思いました。ふくよかな唇は健在という感じで、全裸で風呂からあがるシーンもあるのですが、あまりセクシーとは思わなかったかな。むしろ、アクションシーンの激しさのほうがインパクトがありました。

映像もテンポがよく、やはりかっこいい。スローモーションや早送りのような処理を多様した表現は非常にクールです。が、勢いに流されて観終わったあとに冷静に考えると、ストーリーの整合性としてどうなの?とか、ちょっと強引すぎませんか?という細部が気になります。詳細は語りませんが、父親をめぐる設定は、なんとなく納得できない。

そんな細部の整合性を考えさせる余地のない、ぐいぐいと押してくる映像に圧倒されました。生半可な気持ちで、ストレスまみれのサラリーマン生活から暗殺者という専門職(なのか?)に仕事替えをしたウェスリーは、リンチにも似た残虐な特訓を受けます。そうして、遺伝として父から引き継いだ殺人の超能力を呼び覚ましていく。

ハードな特訓で再起不可能に傷付けられると、回復風呂というものに入れられて、全身の傷を癒します。この回復風呂、いいなーと思いました。入りたい。できれば、こころの回復風呂があってほしい。しかし、身体の傷はある程度なおすことができたとしても、こころの傷は治しがたいものでしょう。

ストレスまみれの袋小路のサラリーマン人生と、過酷な特訓のうえに飛んでいるハエの羽を撃ち抜く(どこか中国的です)凄腕の暗殺者の人生。強引にフラタニティに引き戻されたとはいえ、これは天職への転職の物語かな、と考えたら、なんとなく深いものを感じてしまいました。

願わくば自分にもそんな超能力があればいいのだけれど。といっても小心もののぼくには殺人者などぜったい無理です。殺人以外で何か特殊な能力が眠っていないか、と探してみるのですが、なかなかない。人生って、そんなものです。4月4日観賞。

■トレイラー

投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

2009年4月 6日

入学式というはじまりに想う。

東京のサクラは満開。3月から4月にかけて、あわただしく時間がすぎていきます。というのも、うちの子供たちは3月から4月にかけて卒業・入学ラッシュです。長男は小学校を卒業、中学へ。次男は幼稚園を卒業、小学校へ。さすがに4回も会社を午前半休するわけにはいかないので参加しなかったのですが、本日は次男の小学校の入学式に付き添って行ってきました。

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いい天気でした。グラウンドが眩しかった。青空に伸びるサクラの樹、はらはらと散るサクラの花びらがきれいでした。ハレーションを起こしたようにまばゆい校庭が、思いのほか広くみえました。家族のことを書くのは久しぶりなのですが、考えたことをすこしばかり書いておきます。

教育の荒廃とか、モンスターペアレンツとか、さまざまな問題が掲げられていますが、毎回、子供たちのイベントに参加して感じるのは、子供たちの歌声を聞いていると、こころが洗われるというか、ああ、この気持ちを信じていたいな、と感じることです。天使の歌声とまではいいませんが、子供たちが式で歌う合唱は、形容しがたい感覚を呼び覚ましてくれます。

かつてはぼくらもあんな子供たちであったという事実が、どうしても信じられません。物理的な変化があるからでしょう。たくさんの時間も過ぎています。それでも、こころのなかに残っている何かだけは信じられる。子供たちの歌を聞いていると、あどけない声がトリガーとなって忘れていた感覚がよみがえります。

しかしながら、楽しそうな顔の裏側で、進行している闇もあるかもしれません。存在しないことを祈るのですが、いじめなど、やりきれない気持ちを抱えている子供もいるかもしれないですね。子供=純真というステレオタイプな構図もどうかと思っていて、子供は基本的に意地悪な感情を持っているものであり、子供の社会にも子供なりの狡猾さや残虐さがある。けれどもそうした暗さも含めて、校舎のなかで過ごす数年間というものを大切にしてほしいな、と思いました。

たとえば合唱をする時間、運動をする時間など、社会に出てしまうとそんな機会はほとんどなくなってしまう。子供だからこそ体験できる時間があるはずであり、勉強はもちろん、その時期でしかできない体験をさせてあげることが学校の大切さかもしれないな、と。英語とか、パソコンとか、あまり特殊なことを早い時期からさせなくても、成長過程に必要な体験があると思います。

ところで、ふだん見慣れているとわからないのですが、たとえわが子であっても時間を分断して比較すると、赤ちゃんから小学校までの子供の成長には驚くべきものがあります。たとえば、生まれたばかりのときは、こんな後ろアタマだったのが・・・。

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小学校では、こんなになる。

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次男の後ろアタマは、どことなくやはりぼくに似ているようです。それから親のひいきめですが、大きな声で返事をしている次男に驚きました。長男はもじもじしていたからなあ。兄弟は似ているけれど違う。次男は堂々としていて頼もしい。

一方、頼もしく変わりつつある息子の背中を眺めながら自分を省みると、正直なところ父親であることはとても難しい。ここしばらく考えつづけてきて、やっと認めつつあるのですが、ある種の子供じみた思考を残したまま、ぼくは成長してしまったようです。だから大人であることを受け止める覚悟に欠けていました。また、遠くのものにこころを奪われて、こころはここにあらずという状況が長くつづいていたため、現実に関わっているという感覚、リアリティが希薄でした。遠くにある自分と、いまここにある自分の乖離にずっと苦しみつづけていたようです。

その認識の乖離をなんとかしようともがきつつ、あらためて思うのは、大人もまた成長の過程にあるということです。

大人に求められる成長は、背が伸びるように、知識を増やすように、上方に向けて伸張させたり広げる成長ではない、と考えました。自分にとって悪影響を与えている何かを切り捨てること、自分自身を辛くさせている執着や呪縛を解くこと。つまり自己を削ぎ落とすことも成長であると思います。ときには、身の程にあまる理想を却下することも成長かもしれません。人脈を増やしたり情報のキャパシティを広げたり、他者と競うようにして多くのものを得ることだけが成長ではない。孤独な状態に身を沈め、自分の尺度を確立し、深く自分の内部を鍛えていくことも成長です。

成熟ということばに置き換えることもできそうですが、大人も、そして親たちもそんな成長ができるといいのではないか、と思いました。という一般論はおこがましいですね。ぼくはそうありたいと願っています。

ある一点を記して、左側に線を引けば、その一点は終点であるかのようにみえます。一方で、その右側に線を引けば、始点であるかのようにみえる。もうおしまいだ、という状態は、実は右側の線を見すごしていて、右側に補助線を引けば、そこからはじまる未来もみえてくるかもしれません。

右側の未来の線をみるためには、左側の線をきちんと消すことも必要になる。もちろん過去はなくなりません。写真やテキストなどの記録は残り、何よりも脳内の記憶も決して消し去ることはできない。けれども、過去に囚われているばかりでは、はじまらないものもあります。

終わったものを清算し、はじまった未来に目を向けること。子供のころには卒業式や入学式という式典によって節目が提示されていて、リセットせざるを得ない状況にあったのですが、大人になったいま、自分でものごとの卒業(=終わり)や入学(=はじまり)を決めることが必要になるようです。自分の責任において終わりとはじまりを決めることができるのが大人であり、自立した思考ではないか、とも考えます。

投稿者 birdwing 日時: 23:36 | | トラックバック

2009年4月 2日

草を食む時代に。

いつの時代にも恋愛の傾向をあらわす言葉やモテる人物像を括る言葉があります。評論家によって作られ、マスコミを通して広く使われるようになる、というのが一般化するパターンでしょう。

最近では、"草食(系)男子"という言葉がありました。「協調性が高く、家庭的で優しいが、恋愛に積極的でないタイプ」だそうです(Wikipediaの解説はこちら)。どちらかというとひとりで静かに家で過ごすことを好む性格で、がつがつとコイビトを求めたりしない。そんな男性が増えていて、女性からも人気とか。

確かにそういう傾向もありそうです。ただ、若い頃には愛情に飢えてがつがつと恋愛をしていたような自分としては、すこしばかり違和感も感じていました。そもそも年齢を経ていけば自然と淡白になるのだから、若い時期から達観することもなかろうに、と思う。

草を食むようなおとなしさは行儀がいいし、やさしく聡明な印象も受けますが、反面、人間関係に臆病なだけではないか、という感じもします。正直なところ自分は洗練された人間ではないから、スマートな恋愛ができる若いひとたちに羨ましさもあるんだろうね、きっと。

しかし、恋愛傾向を越えて、ぼくが納得させられてしまったのは、フリーペーパーR25に連載されていた石田衣良さんの「空は、今日も、青いか」の「草食男子進化論(3.26号No.231)」で語られていた時代に対する考察でした。

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石田衣良さんは、草食男子という増加しつつある新しい恋愛のパターンの出現を、100年に一度の金融危機と結びつけて考えています。つまり、この危機的な状況を生き延びるには、消費に積極的ではなく、ひとりで生きることを好む「突然変異で生まれた新たな種」が必要になるとのこと。まず次を引用します。

バブル世代の高エネルギー消費や恋愛・セックスの過剰は、いってみれば白亜紀の恐竜のようなものだったのだろう。草食男子は巨大な恐竜の足元で震えながら生き延びたぼくたち哺乳類の先祖のネズミのような存在なのかもしれない。

時代に合った生活様式が求められ、古い様式は淘汰されていきます。結婚して家を構えること、クルマを持って休日には子供を連れてアウトドアに出掛けること、仕事をバリバリこなして家庭でもよい父でありつづけること、恋愛に積極的であり男らしく生きることが正しいという価値観。そんな理想を求めていた時代もありました。しかし、その生き方を追求すると限りなく「高エネルギー消費」になります。家族はもちろん、彼女とのデートや家のローンやクルマの維持費などを支払う生活は、とにかく金がかかる。節約もできそうですが、究極の節約はひとりでいることです。

残念ながら、この不況はまだまだ続くことだろう。世界が同時に沈んだので、どこか一国だけが浮き上げるのは困難なのだ。サブプライムローンでは傷の浅かった日本も、世界全体がふたたび元の成長コースに復帰するまで景気回復は望めそうもない。そうなると、低成長所得、おまけに貧困率の高まるこの国で、草食男子が選択した閉じた生き方は、最良の生き残り策といっていいかもしれない。恋愛や結婚をすることで、他人の分まで経済的なマイナスを背負いこむのは危険なのだ。嵐の海を漂う救命ボートの定員は1名なのである。

納得してしまった。本音で言ってしまうと、いま働いているおとーさんの何割かは、家族という負担がなければどれだけ安堵するか、と思っているのではないでしょうか。ただ、独身のように、自分ひとりさえよければ、と割り切ることはできませんが。

回想すると、今年のはじめにぼくは自分を究める、深める、のような目標を立てたことがありました。この考え方の基盤にも、内面に向かう志向性があり、いわゆる草食的な守りの考え方といえるかもしれません。内田樹さんがブログで書かれていた内向きの志向に対する擁護というものも、急速に冷え込んだ景気を踏まえて戦略転換のひとつの視点の提言だったと認識しています(関連エントリは「内向きとか外向きとか」)。

つまり、本能的にぼくらは時代の冷たさを感じて、内部をかためることにより外界の激動から自己を守ろうとしている。ちょっと妄想が入るけれど、不況にしても恋愛の保守的な傾向にしても、増えすぎた人類を抑制するための地球規模の機能のひとつかもしれない、などとも考えました。その全体的な傾向が恋愛に波及すると、草食男子となる。

ところで、厳しい状況に対する考察のあとで、石田衣良さんの小説家ならではの次の言葉に和むものを感じました。

草食男子が低消費サステイナブルな世界の主流になる日は近いと、ぼくは思う。願わくば、その世界でも新しい形の恋愛や欲望が生き残っていますように。恋愛小説を書く作家としては、生存には不要かもしれない甘ったるいあれやこれやが絶対に必要なのだ。

和んだのだけれど考えているうちに、時代の傾向も大事だけれど、ちょっとそれは不安に思いすぎじゃないですか石田さん、時代にとらわれすぎ、という印象を受けました。こういう時代だからこそ、時代に迎合しない、草食ではないレトロな純愛、激しい恋愛の形を小説として書いてほしい気もしています。でも、時代に合った小説を書くのが、石田衣良さんのスタイルでしょう。

時代の圧力というものがあります。男子は草食でなければダメよ、草食って素敵よね、と女子から言われてしまうと、ああ大好きな彼女と激しくセックスしたいのだけれど肉食系のぼくの欲望って穢いんですね、嫉妬に狂う自分はいけないのですね、という風に自己否定の呪縛で自分を追い込んでしまう若い男性もいるかもしれません。

けれども肉食恐竜のような進化に乗り遅れた種も、そのまま生きていけばいいんじゃないかなと思う。うまくいかなかったとしても、遠いむかしからそうやって悩んで生きてきた種もまた存在していました。穢い欲望や目を瞑りたいような感情が、さまざまな原動力になる場合もあります。もし、こころの奥深いところに違和感があって、草食ではないのに草食と偽って生きるぐらいなら、貪欲に愛情を求めてアプローチで撃沈して挫折して、絶滅に追いやられたとしても草食ではない生き方をまっとうすればいい。時代に迎合する必要はない。

救命ボートに乗った自分ひとりを救うための閉鎖した考え方も大事だけれど、そうした生き方は、現状を乗り切るだけのものであり、変えることはできないような気がしました。むしろ、草食ではない考え方に、時代をぶち壊すブレイクスルーが生まれるのではないか、と期待もしています。

絶対多数としては、草食的な生き方や自分を大切にする生き方が主流になっていくのかもしれません。他者を尊重する草食男子の紳士的な、成熟した考え方には、学ぶべきところもたくさんあります。しかしながら、静かに草を食み、自分の世界を深めていった過程で培ってきたものが、いつか誰かを求める力になったり、現状を変えるための基盤となってほしい気もします。

愛情はぼくらの根源的な力です。保守的な自己愛として自分の生き残りのためだけに使うだけでなく、仕事に愛情を注げば、愛されるプロダクトやサービスを生み出すこともできる。時代から身を守るためにはコートの襟を閉じることも必要ですが、北風が吹き終わったあとには、太陽のぬくもりを感じたい。

冬を耐えてきたひとたちに、やがておだやかな春が訪れるといいなあと、そんな願いを込めて時代の動きをみつめています。まあ、理想論ですが。

投稿者 birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック

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