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2009年4月 6日

入学式というはじまりに想う。

東京のサクラは満開。3月から4月にかけて、あわただしく時間がすぎていきます。というのも、うちの子供たちは3月から4月にかけて卒業・入学ラッシュです。長男は小学校を卒業、中学へ。次男は幼稚園を卒業、小学校へ。さすがに4回も会社を午前半休するわけにはいかないので参加しなかったのですが、本日は次男の小学校の入学式に付き添って行ってきました。

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いい天気でした。グラウンドが眩しかった。青空に伸びるサクラの樹、はらはらと散るサクラの花びらがきれいでした。ハレーションを起こしたようにまばゆい校庭が、思いのほか広くみえました。家族のことを書くのは久しぶりなのですが、考えたことをすこしばかり書いておきます。

教育の荒廃とか、モンスターペアレンツとか、さまざまな問題が掲げられていますが、毎回、子供たちのイベントに参加して感じるのは、子供たちの歌声を聞いていると、こころが洗われるというか、ああ、この気持ちを信じていたいな、と感じることです。天使の歌声とまではいいませんが、子供たちが式で歌う合唱は、形容しがたい感覚を呼び覚ましてくれます。

かつてはぼくらもあんな子供たちであったという事実が、どうしても信じられません。物理的な変化があるからでしょう。たくさんの時間も過ぎています。それでも、こころのなかに残っている何かだけは信じられる。子供たちの歌を聞いていると、あどけない声がトリガーとなって忘れていた感覚がよみがえります。

しかしながら、楽しそうな顔の裏側で、進行している闇もあるかもしれません。存在しないことを祈るのですが、いじめなど、やりきれない気持ちを抱えている子供もいるかもしれないですね。子供=純真というステレオタイプな構図もどうかと思っていて、子供は基本的に意地悪な感情を持っているものであり、子供の社会にも子供なりの狡猾さや残虐さがある。けれどもそうした暗さも含めて、校舎のなかで過ごす数年間というものを大切にしてほしいな、と思いました。

たとえば合唱をする時間、運動をする時間など、社会に出てしまうとそんな機会はほとんどなくなってしまう。子供だからこそ体験できる時間があるはずであり、勉強はもちろん、その時期でしかできない体験をさせてあげることが学校の大切さかもしれないな、と。英語とか、パソコンとか、あまり特殊なことを早い時期からさせなくても、成長過程に必要な体験があると思います。

ところで、ふだん見慣れているとわからないのですが、たとえわが子であっても時間を分断して比較すると、赤ちゃんから小学校までの子供の成長には驚くべきものがあります。たとえば、生まれたばかりのときは、こんな後ろアタマだったのが・・・。

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小学校では、こんなになる。

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次男の後ろアタマは、どことなくやはりぼくに似ているようです。それから親のひいきめですが、大きな声で返事をしている次男に驚きました。長男はもじもじしていたからなあ。兄弟は似ているけれど違う。次男は堂々としていて頼もしい。

一方、頼もしく変わりつつある息子の背中を眺めながら自分を省みると、正直なところ父親であることはとても難しい。ここしばらく考えつづけてきて、やっと認めつつあるのですが、ある種の子供じみた思考を残したまま、ぼくは成長してしまったようです。だから大人であることを受け止める覚悟に欠けていました。また、遠くのものにこころを奪われて、こころはここにあらずという状況が長くつづいていたため、現実に関わっているという感覚、リアリティが希薄でした。遠くにある自分と、いまここにある自分の乖離にずっと苦しみつづけていたようです。

その認識の乖離をなんとかしようともがきつつ、あらためて思うのは、大人もまた成長の過程にあるということです。

大人に求められる成長は、背が伸びるように、知識を増やすように、上方に向けて伸張させたり広げる成長ではない、と考えました。自分にとって悪影響を与えている何かを切り捨てること、自分自身を辛くさせている執着や呪縛を解くこと。つまり自己を削ぎ落とすことも成長であると思います。ときには、身の程にあまる理想を却下することも成長かもしれません。人脈を増やしたり情報のキャパシティを広げたり、他者と競うようにして多くのものを得ることだけが成長ではない。孤独な状態に身を沈め、自分の尺度を確立し、深く自分の内部を鍛えていくことも成長です。

成熟ということばに置き換えることもできそうですが、大人も、そして親たちもそんな成長ができるといいのではないか、と思いました。という一般論はおこがましいですね。ぼくはそうありたいと願っています。

ある一点を記して、左側に線を引けば、その一点は終点であるかのようにみえます。一方で、その右側に線を引けば、始点であるかのようにみえる。もうおしまいだ、という状態は、実は右側の線を見すごしていて、右側に補助線を引けば、そこからはじまる未来もみえてくるかもしれません。

右側の未来の線をみるためには、左側の線をきちんと消すことも必要になる。もちろん過去はなくなりません。写真やテキストなどの記録は残り、何よりも脳内の記憶も決して消し去ることはできない。けれども、過去に囚われているばかりでは、はじまらないものもあります。

終わったものを清算し、はじまった未来に目を向けること。子供のころには卒業式や入学式という式典によって節目が提示されていて、リセットせざるを得ない状況にあったのですが、大人になったいま、自分でものごとの卒業(=終わり)や入学(=はじまり)を決めることが必要になるようです。自分の責任において終わりとはじまりを決めることができるのが大人であり、自立した思考ではないか、とも考えます。

投稿者 birdwing : 2009年4月 6日 23:36

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