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2017年3月 4日

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ブログ移転のご案内(完全にじゃないのですが)。

おひなまつり、桃の節句が過ぎたというのに、東京は寒いです。春はまだでしょうか。もうちょっと先か。

春といえば卒業や入学、別れと出会いの季節です。年度も変わり、環境や気持ちを切り替えてリフレッシュする時期でもあります。そこで、完全に引っ越しというわけではありませんが、別の場所でブログを書き始めることにしました。その場所はといえば、はてなです!なつかしー。実は、このブログは2004年(いまから13年前)最初はmixi、それからはてなで書いていました。

といっても、完全に引っ越すわけではなく、こちらのブログにまた書くことがあるかもしれません。そして、新しいはてなのブログも、ツイッターに連続投稿したつぶやきの中から、これはというテーマをきちんと書き直すことにしています。要するに、ツイッターのまとめブログにしたいと考えています。

まだいろいろ調整中ですが、以下になります。

LifestyleInnovation_hatena.jpg

http://soseki21.hatenablog.com/

MovableTypeをアップデートしようとか、WordPressで新しく構築してMTのデータをエクスポートしてインポートしようとか、いろいろやっていたのですが面倒くさくなってしまいました(苦笑)。はてなを使ったら、使いやすいのなんの。とはいえ、MTやWordPressで試行錯誤することは勉強になり、仕事にも役立つのですが。

というわけで、もし読んでいただけるようでしたら、新しいブログの方もよろしくお願いいたします。

投稿者: birdwing 日時: 10:11 | | トラックバック (0)

2015年9月21日

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ブロガー卒業宣言。

150731_moon.jpg150812_pingpong.jpg150911_sora.jpg季節は秋ですね。といってもまだ日差しは強く、季節に乗り遅れちゃったツクツクボウシの声を聞くこともありますが。

それでも夜には虫の声が騒がしく、大気中の成分の0.35パーセントにキンモクセイの香りを嗅ぐようになりました。前回にブログを更新したのが4月なので、5か月ぶりの更新です。

かつてブログを更新しないと「大丈夫? 生きてる?」みたいなお気遣いをいただくことがありました。ぼくは生きています。問題なく、とはいえないかもしれませんが、とりあえず生きておりますのでご心配なく(苦笑)

そもそもぼくの生活は、ブログやSNSで成立しているわけではありません。世の中の多くの人間はブログなんて書かないものです。といっても、現在はSNSをやっているひとが多いので、ブログよりSNSで近況を伝え合う方が自然といえるでしょう。

ブログを書かなかった空白の期間に撮った写真から、蜜柑色の月、出窓で育てている100円ショップ観葉植物に仲間入りしたピンポンの木、そして秋の到来を感じさせるもこもこの羊雲の空を。

ところで秋といえば中秋の名月。

今年は、中秋の名月の翌日がスーパームーンとなっています。スーパームーンとは、月が最も地球に接近したときの満月あるいは新月で、月が最も大きく見える状態です。

月にちなんで、なのですが、新月から三十日月までの各状態や写真、あるいは月に関するさまざまな知識や読み物を集めた『月とこよみの本』が宝島社より9月18日に発行されました。


4800246660月とこよみの本
林 完次
宝島社 2015-09-18

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この本で、竹取物語と百人一首の超訳・現代語訳を10ページほど書かせていただきました。実は国文科卒業にも関わらず、ほとんど古文というものをしっかり読んだことがありませんでした。が、竹取物語の最後のすばらしさには感動しちゃいました。うわ、これってSF映画だよね?!みたいな。


150911_moon3.jpg


巻末にクレジットも入れていただいて、とても嬉しいです。装丁はもちろん写真やチャートも美しい素敵な本なので、中秋の名月&スーパームーンの鑑賞といっしょに、ぜひおすすめいたします!


150911_moon5.jpg


さて、ぼくは趣味でDTM(パソコンによる音楽制作)とアコースティックギターの弾き語りをやっていますが、自作曲の中でも月を取り上げた曲がいくつかあります。

その中でも「エンサイクロペディアの夜」という曲は「崩れていく波 月に照らされた/なぎさを歩くふたりの影」という歌詞ではじまります。

この曲を4月からリメイクしています。5月ぐらいには、既にバックトラック(打ち込みのカラオケみたいなもの)は、ほぼ完成していました。

ところが、ここでリードギター入れよう、なんか別の展開を入れてみよう、と考えて、あれこれ手を加えていたところ大がかりに。なんと9分14秒にも渡る大作となってしまいました。そんなわけで、いまだに完成しておりません(苦笑)

これは、はたして完成するのか? 世に出すことができるのか? と不安になってきたのでバックトラックをミックスダウンして、サビと中間部分を映像化してみました。

予告編・・・というか、こんな雰囲気の音楽も作っています、ということでYouTubeにアップした映像をご紹介します。



なお、原曲はsoundcloudにアップロードしていますので、興味のある方はこちらから聴いていただけると嬉しいです。


前置きはこれぐらいにして(ながっ。苦笑)、ぼくの中でブログやSNSに対する考え方が変わってきたので、そのことを書いています。

続きを読む "ブロガー卒業宣言。" »

投稿者: birdwing 日時: 07:40 | | トラックバック (0)

2013年1月14日

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ブロガーはどこへ行くのか。Vol.02

いきなり重苦しい哲学的なテーマからはじめますが、あらゆる人間に避けられないものがあります。それは 「死」 です。

ぼくらは永遠に生きることはできない。いつかは死ぬ。どんなに金を稼いだ人間も酒や女などの享楽に溺れた人間も、一方で絶望のどん底に突き落とされてきっと明日には人生も変わるだろうと信じていた人間も、みんな死ぬ。言霊といわれるように、むかしは言葉の持つチカラが信じられていて「死」という言葉は忌み嫌われ、使わないように配慮されてきました。ぼく自身もできれば「死」と向き合いたくない。目を逸らして生きていたいとおもっています。

しかし、ぼくらは生きている以上、必ず「死ぬ」。

ぼくらはみんな死んでしまう。中島義道氏の著作ではよく取り上げられるテーマですね。「死」というものの前では、世界のあらゆる物事が存在の意味を失われる。毎日はただただ死に向かって流れていくものであり、いずれは消え去る存在でしかなくなる。

ところで、2007年だったかとおもいますが、人力検索やブックマークなどのポータルサイト「はてな」で「はてなスター」という機能が実装されたとき、はてなの近藤社長は、日記やブログの文章を 「流れて消えていくもの」 と表現したことがありました。

はてな日記のユーザーであったぼくは、その発言に大きな憤りを感じました。当時から長文日記(ブログ)を書いていたのですが、一生懸命書き綴っているぼくらユーザーの言葉が「流れて消えていくもの」とは、どういうことだ。バカにしているのか、と。むしょうに 腹が立った。

近藤社長の言葉は、開発系サービス会社がユーザーを見下した結果の傲慢であり、言葉の重みを軽視したぼくら書き手に対する侮蔑であると感じたわけです。そのことを契機に、また別にも考えることがあり、はてなのサービスを退会して、ぼくはレンタルサーバーを借りてブログを立ち上げました。

が、いまおもうに「死」というものを前にしたとき、ブログの文章も、ソーシャルメディアのつながりも、いずれは「流れて消えていくもの」です。

自分が死んだとき、残されたブログやソーシャルメディアのコンテンツはどうなってしまうか、考えたことがありますか?

とつぜん主(あるじ)を失って、更新が止まってしまったコンテンツ。無料のブログ構築サービスを利用されている場合には、一定期間は放置されたままとはいえ、エントリやコメントなどは残っているでしょう。ぼくの場合は、さくらインターネットという会社のレンタルサーバーを使っていて、1年ごとに使用料を支払っています。1年後に契約更新の請求書が届くわけですが、家族はブログを書いていることを知らないので(ないしょというわけではないけれども関心がないようなのです)放置されたらそのまま契約解消になり、サーバーに残されたデータはすべて消去されてしまうのではないかとおもいます。

すこし前になりますが「ユーザーの人生の記録(ライフログ)」を残すとして、ソフトバンクビジネス+ITに「あなたの死後、ブログやSNSのアカウントはどうなる?発展する"死後のオンラインビジネス"」という記事が掲載されました(2010年8月16日)。

「亡くなった人のブログやSNSをそのままメモリアルページにする例も増えてきている。」として、バージニア工科大学で起きた銃乱射事件の犠牲者の多くが、フェイスブックで追悼ページになったということが記事として書かれていました。故人をいつまでも偲ぶことができるという意味では、こうした半永久的なサービスは有難いものといえます。

とはいえ、余談ですが、残してほしくないものが残ってしまって遺族が困惑する、というケースもありそうです。週刊ポスト2013年1月18日号には、「元小学校教師 死後に1000本超えるAVが見つかり遺族も絶句」という記事もありました。テキストのエントリにしても、プライベートを赤裸々に書き綴ったまま放置されていたら、ブログやソーシャルメディアを使っていた本人としては、天国あるいは地獄から 「うーむ。頼むからそれは消してくれ!」 と叫びたくなるかもしれません。

しかしながら、文豪と呼ばれるような時代に残る書き手はともかく、多くの作家でさえ、作品が絶版になり忘れ去られていきます。量産されたライターやジャーナリストも時代のなかで淘汰されていく。まして個人の書いたブログやSNSの文章などは塵のようなものです。記録としてのデータは永遠に残されたとしても、やがては読まれなくなり、消されてしまう。

多くの死んでしまったひとのことたちをぼくらは忘れていきます。次世代の子供たちが生まれ、忘却のなかに葬り去られるひとがいて、ぼくらの世界は何もなかったように回転していくのです。

すべては流れて消えていく。「死」というもののなかに飲み込まれていく。
しかし。

だからこそぼくは、 消滅する時間に文字を穿ちたい、と考えます。
いずれは死に飲み込まれて消滅する生だからこそ、死に抗いたい。
なぜならぼくにとって
「ブログは生きざま」
だからです。

もちろんブログやソーシャルメディアにはさまざまな用途があり、そんな重い気持ちで書いちゃいないよ、とか、ただのアフィリエイトを稼ぐためのツールじゃん、とか、友人とコミュニケーションする電話みたいなもの、と考えるひともいるとおもいます。それはそれで構わないとおもうし、その役割が果たされていればよい。

ただ、ライフログ(日々の記録)であると同時に、思考内の知恵を思想として結晶化させることを目的として、ぼくは消滅していく時間に挑む気持ちでブログを書いていたい。

「こんなもの書いていて何になるのかな。この書いている膨大な時間を他のことに使ったらもっと効率的ではないだろうか」などと感じたとき。

躊躇わずにそうブログやSNSに書けばいいとおもう。そう感じること自体が大切なことであり、いまここにいる自分の在りようを忠実に描写している。ブログで金を儲けなくてもいいし、著名にならなくてもいい。けれども、煩悶している"あなた"という存在の「生きざま」を記すことで充分である、とぼくは考えます。

生きざまを記すところであるブログは、生きているあいだ続いていきます。アップデート(更新)が重ねられていくわけです。実際にこのエントリは、以前書いた以下のエントリの続きとして書いています。

「ブロガーはどこへ行くのか。」2011年6月29日
http://birdwing.sakura.ne.jp/blog/2011/06/post-963.html

上記を読まれていないようでしたら、上記のエントリも読んでいただくと、ぼくのブログに対する考え方がご理解できるのではないか、とおもいます。

そして、くよくよと凹んでいるぼくに、あなたにとって 「生きることは書くこと」 でしょ?とフェイスブックで元気付けてくれた方の言葉に背中を押されつつ書きました。ほんとうに有難いことです。その方のおかげでぼくは、書くことの意味を再認識しました。同時に生きることの意味も。

また、もともとぼくは「はてな村」の住民で精神論が好きなので、はてなで「シロクマの屑籠」を書かれているシロクマ(熊代亨)氏の「俺のブロガー精神論」という記事にインスパイアを受けています。特に以下の部分には深く共感。敬意を込めてトラックバックを送信いたします。

 しかし一番大切なのは、己がブログというメディアを愛しているのか・そしてブログというメディアに見合った文字数の文章をアウトプットすることに快感を覚えているかどうか、だ。万国のブロガーは、140字には収まらぬ長文を書ける歓びを噛みしめるべきだ。その歓びを噛みしめながら、自分自身にとっての武器防具なり、見知らぬ誰かに届ける郵便物なりを鍛造すればいい。あるいは、鬱積した情念を(適切な社会化形式へと昇華しつつ)吐き出してしまえばいい。それがブロガーの生活、ブロガーの楽しみというものでしょう――少なくとも金儲けでやっているわけではない素人ブロガーならそうではないか。

シロクマ氏は 「見知らぬ誰かに届ける郵便物」 と書かれていますが、「ブログは生きざま」であると考える自分にとっては、ブログは、膨大な「エンディングノート」のようなもの かもしれません。

Wikipediaによると、「エンディングノートとは、高齢者が人生の終末期に自身に生じる万一のことに備えて自身の希望を書き留めておくノート」と解説されています。読むかどうかわかりませんが、ぼくの息子たち、あるいは次世代の若者に読んでいただきたい自分史であり、かっこわるい部分も含めた人生指南のようなものでしょうか。わざわざ公開する必要もないものを公開しているのは、やはり「見知らぬ誰か」に届けたい想いがあるからでしょう。

というわけで「死」を踏まえた上で、ブログの価値を自分の「生きざま」を残すものであると再認識したわけですが、そのために自分は何に気をつければいいのか、具体的にはどんなブログ作法をすべきかについて、以下5つのポイントをまとめてみました。


■■「生きざま」を綴る5つの方法


①自分の「羽」で織り上げる。

テクストは「引用の織物」であると、ロラン・バルトなどポスト構造主義の思想家や言語学者は述べています。どんな文章も、文化や社会の文脈(コンテクスト)の影響を受けていて、さまざまな過去の引用を縦横の糸として織り上げられた織物のようなものである、ということです。注意しておきたいのは、ブロガーよ、パクリなさい、という愚かな発言をしているプロブロガーもいますが、引用は盗用(パクリ)ではありません。

「生きざま」を綴るブロガーに必要なことは、自分の人生を切り売りすることさえ厭わない覚悟 でしょうか。二次情報のような聞きかじった知識の糸を織り上げるだけでなく、一種の痛みをともなうような自分の経験を織り上げていくことです。

日本の民話のひとつである「鶴の恩返し」をおもい浮かべていただけばいいとおもいます。鶴は誰にも見られないように部屋に篭って、自分の羽を一枚ずつ抜きながら機を織っていきます。自虐的になるのもどうかとおもいますが、「生きざま」を綴ることは痛みをともなうことであるとぼくは覚悟しています。BirdWingという匿名を使っていますが、まさに 自分の羽を抜くようにしてこのブログは書かれている のです(笑)


②主観と客観のバランスをとる。

「生きざま」を綴るときに主観的な言葉はライブ感(臨場感)があってよいもので、そんな独白の激流のようなブログがあってもいいでしょう。ぼく自身は、実はそんなブログをいちばん楽しみにしています。 かつてのはてなは、そんな日記ばっかりだったなあ。

しかし、もうひとつ上のブロガーを目指すのであれば、客観的な視点を忘れないことが重要です。文章を書くこと自体が自分の考えを客観視することではあるのですが、書かなくてもいいこと、書いちゃいけないことは書かない。ときには自制心も必要です。また逆に書いちゃいけないけれども演出的に書くことができれば、エンターテイナー(ぼくはブロガーはジョングルール=大道芸人だとおもっています)としては上級 といえます。

あまりにも生々しい主観で書く場合には、非公開で書く、友人限定で書くなど、公開範囲を限る書き方もあるでしょう。書いてはいけないとはいいませんが、実名で書くとすれば社会的責任のともなうものになりますから、常識的な範囲で「書き方」を客観的に選ぶ必要もあります。


③ソーシャルメディアとブログを連携させる。

ぼくはブログと並行して、ツイッター、フェイスブックを活用しています。ブログとツイッターは匿名のBirdWing、フェイスブックは実名です。ツイッターとフェイスブックはクライアントソフトのHootsuiteから同報する場合もあり、フェイスブックで友達限定のウォールを書くこともあります。

ブログとの連携で去年から試みていることは、ツイッターに140文字×5ツイートでコラムを書いて、10日分ぐらい溜まったところでブログにまとめて掲載する、というやり方です。長文志向のブロガーですが、この 「自己課題」が文章の鍛錬になる。 家入一真氏も、いくつかの短文をツイートしたあとでフェイスブックにまとめて掲載する、という方法を取られていて、これはなかなかいいなとおもいました。

複数のソーシャルメディアを使うと、それぞれに違うことを書かなきゃいけないのかと疲弊したり、安易にアプリケーションの設定でツイッターの内容をフェイスブックにも掲載することが多いのですが、もう一歩進んで 「ツールの棲み分け」 を考えると、社会のペルソナ(仮面、役割)による多様な記載方法があります。要するに、ぼくらはおとーさんでありながらビジネスマンでもあり、また夫や親でもあるわけで、それをブログにごちゃまぜに記載していくのではなく、書き分けていくこともできるということです。


④ルールで縛らない。

企業サイトや企業ブログでは、更新頻度が重視されます。作業のスケジュールや費用を管理しなければならないためでもあるのですが、その 「更新至上主義」がコンテンツの品質を落としている のではないか、という印象も受けます。

企業ブログではない個人ブログであれば、別に書きたいことがなければ放置していても構わないのではないでしょうか。アフィリエイトなどで稼いで生計を立てなければならない「プロブロガー」ならともかく、毎月何回更新しなければならない、などのルールで縛るのは無意味です。長文にならないときは短文でもいい。何時に更新というのもどうでもいい話で、むしろブログに縛られずに、自分の生き方として更新したい時間に更新するというほうが重要です。 ブログありきの人生ではなく、人生ありきのブログ なのだから。

ツイッターのような短文のSNSをマイクロブログのような名称で呼んでいた時期もありましたが、ツイッターでつぶやくエントリもあっていいとおもう。ツイッターをコミュニケーションツールに限定する必要はなく、ツイッターをツールとするブロガーもありだとおもうのです。


⑤気負わない。

生きざまを記したブログではあるのですが、俺のブログは人生そのものだぜ!というのはかっこわるいとおもいます。誠実に真剣に書くとしてもブログはブログ。つまるところ たかがブログ です。

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ブログは生きざま、というコンセプトを定め、ブログについてあれこれ考えてきましたが、結局あらためて感じたことは、ぼくはブログが好きなのだな、これからの長い歴史のなかではソーシャルメディアの黎明期と呼ばれるかもしれない21世紀はじめに生きてきてよかった、ということでした。欲をいえば、もうすこし早い時期にブログやソーシャルメディアと関わりたかった。そして、ソーシャルメディアをデフォルトとして生きられる次世代の子供たちが羨ましくおもいます。

テクノロジーの進化も重要ですが、ぼくは「ブログとは何か」というような哲学、そして「精神論」はとても大事だと考えています。「ブログ精神論が流行っているので考えてみた」という軽率なものではなく、いままでもずっと考えてきたし、これからも考えていきたいテーマです。

投稿者: birdwing 日時: 06:00 | | トラックバック (0)

2012年9月 1日

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連投ツイートをコラムにまとめる。

現在では脳科学者というより芸能人の印象が強い茂木健一郎さんは、ご自身のツイッターで、つぶやきを連続させ、考えたことを発信されています。

茂木健一郎さんにならって、ツイッターでコラムを書くようになりました。ぼくの場合は毎朝5時に起き(老人か)、この時間を連投ツイートに当てている。TLを汚さないためでもあり、早朝に何かを考えることが気持ちいいからでもあります。ツイートは断章になってしまうので、個別の用語や名称などを重複させて書いています。この散在するツイートを集めて、重複する部分を推敲し、きちんと読めるコラムにまとめてみました。

毎日、書くために要する時間は30分から60分。最少文字数で140字×5ツイートなので700字。およそ400字詰め原稿用紙2枚弱です。毎日継続することをこころ掛けています。

ツイートの構成は変わっていませんが、引用の間違いと誤字や脱字を修正、文章をすこし変えています。実際のツイートが気になるかたは、ぼくのツイログを参照してください。

同時に、参考図書へのリンクも貼っておきました。興味があれば、それぞれの本やサイトや映画などをご覧ください。なお、コラムは日付順にならんでいません。内容から組みなおしました。

以下、8月25日(土)~9月2日(日)までのツイートを推敲したり情報を追加して、コラム風にまとめてみました。

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自信について。(8月26日)
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自信は文字の通り「自ら」を「信​じる」ことである。決して「他者」を信じる「他信」ではない。シ​ョウペンハウアーという哲学者は「自分を慰める上に外部からはほ​とんどあるいは全然何ものをも必要としない人間が、いちばん幸福​である」と『幸福について―人生論 (新潮文庫)』に書いている。

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哲学者の言葉を引用したが、ぼくらは一般的に自分を信じるより他​者の言葉や評価を信じてしまう。「みんながそういってるよ」とか​「有名人がいった言葉だよ」とか。社会全体の評価という大きなも​のに頼って大多数の仲間入りをすることで安心を得る。というのは​自分の思考を捨てたほうが楽になるからだ。

自分で考えることはツライ。他者の考えに頼ってしまったほうが楽​だ。しかし、他者の考え方に頼ってしまったとき、ぼくらの思考は​停止する。安全地帯に逃げ込んだようにほっとするが、そのような​安住が実は危険である。他者の考えに安住すると、思考に緊張感がな​くなる。他律的になる。盲目になる。

尊敬するひと、カリスマを持つこと、こころのなかに理想の人物を​掲げることは大事だが、「自分」で考えるチカラを捨ててはいけな​い。要するに「信者」になってはいけない。信者はカリスマの悪い​ところがみえない。カリスマを批判するひとたちを嫌悪し、排除し​ようとする。彼の世界観を守りたがる。

他者を頼って安心を得たとしても一時的な安らぎにすぎない。ほん​とうに大切なことは「自分」を頼ること。自分のなかに不完全なも​の、欠点があってもいい。そんなマイナス面も含めてそれが自分の​人生なのだ。人生を生きるということは自分を生きることである。​決して他者の思考をなぞることではない。


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いまを生きること。(8月27日)
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「未来はない」と言ったら誤解を生​むだろうか。これは「将来の希望はない」という意味ではない。ま​た、「未来はぼくらが創っていくもの」というポジティブ思考でも​ない。ぼくは「未来」も「過去」もないと考えている。どちらも各​個人のアタマが創り出したものだからだ。

たとえば「過去」について考えてみる。過去は記録される。映像で​、写真で、文章で。しかしそれらはすべて「終わってしまったこと​」。自分のアタマのなかにある「過去」は自分の解釈の産物で、他​者の過去とは違っている場合がある。過去の「解釈」はすべて創ら​れる。解釈が変われば過去が変わる。

過去と違って「未来」はまだ記録されていない。しかし過去と同様​に「未来」もまた創り出されたものである。それは大勢に共有され​た未来のようにみえても、結局は各個人のアタマのなかにある妄想にすぎない。各個人の未来であれば、さらに脆い妄想にすぎない。​だから未来を信じることは不毛である。

在るのはただ「現在(いま)」だけだ。ぼくらは「いまここ」に存​在している。疑うのであれば、自分の身体を感じ直してみればいい​。それは妄想だろうか、儚いものであろうか。違う。ぼくらが「い​まここ」に居ることは疑いようのない事実である。信じられるのは​「現在(いま)」。過去や未来ではない。

「いまここ」は否定できない。ぼくらは「いまここ」に生きている​。刹那に生まれて死んでいく。ぼくらは毎日生まれ変わる。ぼくら​は毎日違う生を生きている。「いまここ」の連続が人生なのである​。「過去」や「未来」は存在しないが、人生を生きることはできる​。いまを生きること。それが人生。


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逃げろ、追いかけるものたちから。(8月28日)
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逃走、逃避。逃げることはよ​くないとされる。逃げないで堂々と闘えといわれる。そうだろうか​。堂々と闘うことが不毛なときもある。議論であっても、建設的な​何かを生み出せない不毛な議論に関わる必要はない。何も生み出せ​ない対話は閉ざしたほうがいい。

諺では「逃げるが勝ち」ともいう。論争のスタイルには、闘う、防​御する、逃げるがある。正面切って闘わずに勝つ「逃げる」はひと​つの戦術だ。ただし、恐怖心やチキン(臆病)でその場を放棄する​こととは違う。怯えや恐れではなく、強いこころで自覚的に逃げる​のである。冷静に逃げることを選択する。

かつて遠い昔に浅田彰氏という思想家は『逃走論―スキゾ・キッズ​の冒険』という本を書いた。自分なりにこの本を解釈すると、文化​や社会は常に枠組みをつくろうとする。思考を固めようとする枠組みから常に「知的に」逃げ続けること。それがぼく​らの知の戯れになる。時代や文化からの逃走である。

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いじめられている子供たちは、身体や精神が「逃げられない」状態​にある。けれども、自分の意思で逃げ出してもいいんだよ。「弱虫​」と罵られてもかまわない。思考停止して、されるがままになって​いるから、さらに相手はいじめたがる。いじめられているきみは逃​げろ。きみには逃げる権利がある。

いじめられているきみがどこへ逃げ込むか。安全地帯である両親の​もとかもしれない。あるいは、別の場所かもしれない。法律などを​学び、反撃のチャンスをうかがうためにひきこもることかもしれな​い。追いつこうとするものに、追いつかないほど遠くに「逃げる」​こと。それは知的な戦闘のひとつなのである。


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自由人という在りかた。(8月29日)
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自由を縛るのは他者ではない。自分のこころである。ほんとうに自由な人間は自分の感情や環境から解き放たれている。『ショーシャンクの空に』という映画でアンディ・デュフレーン(ティム・ロビンス)は終身刑の罰から牢獄に入れられた。しかし自由を決して諦めなかった。

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「フリーランス」が自由な働き方のように考えられてきた。最近では「ノマド」という場所を選ばない働き方も注目されるようになった。しかし、ほんとうに自由なのだろうか。ぼくは「自由人」というフリーな生き方が自由であると考える。自由人は企業に働いていても仕事内容や環境から解放されている。

身体的な「私」が拘束されていても、こころが解き放たれていれば、ぼくらは「自由」である。明治時代には大学の教育を受けて経済的余裕のあるひとを「高等遊民」と呼んだ。夏目漱石の小説『それから』にも登場する。現在、大学卒業にあたって就職も進学も考えなかったひとが約3万3000人いたらしい。

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自由人は経済や社会や思考に脅かされることはない。自分の生きている「価値」を把握しているからだ。しかし、現代のいじめや自殺者の増加はどうだろう。他者や社会に追い詰められている。気付いてほしい。自分の思考や行動は自分で選択できる。自由は無責任ではない。自分で覚悟を決めることが自由なのである。

日本国憲法第21条では「表現の自由」や「言論の自由」が守られている。自由人は憲法に守られている一方で品格を保たなければならない。自由で満たされていれば他者を罵倒することもない。貨幣的に裕福ではなくてもいい。こころが豊かであればいい。だから自由人は、他者に対してやさしさを施すことができる。

自由人であることは、特定のひとには難しいかもしれないが、自己実現のセミナーを受けたり修行することもない。自分で自分のこころを解き放てばいいのだ。ぼくらは誰でも自由を守られている。自由人になれる。こころの鍵を開けることが大切。そして閉ざしていた扉から青空にこころを解放すること。


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親になること。(8月30日)
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一般に結婚して子供が生まれると必然的に「親」になる。男性であれば「お父さん」に、女性であれば「お母さん」に。了承を得てなるわけではない。ある日突然妊娠したことを告げられ助走をはじめ、出産することで親になる。だが、子供ができても真の意味で親とはいえない。

「親がなくても子供は育つ」という。そうだろうか。これは地域や親族によるコミュニティが機能していた時代の話だ。その頃の子供は周囲を頼りながら自律的に成長できた。現代は様相が違う。都市圏では地域社会との断絶が加速化しつつある。「親」がなければ子供は育たない。育児は放棄できない。

「親」の意味を拡張すると、中高年シニアの世代は「社会」の親でなければならない。人生の知恵を蓄え余裕もできた親たちは、次世代の子供たちを育成(インキュベーション)する存在であるはず。ところが、親になれない大人が増えているようだ。子供の権利を奪い、育成を妨げている。「老害」である。

政治活動や企業や学校には老害が蔓延しているかのようだ。一方で、よい年齢をしたオトナたちがインターネットなどの「遊び」に耽っている。良識を問う。日本国憲法第26条では教育の義務を謳っているが、教師による性犯罪、いじめの多発はどうしたことか。学校教育における「親」は何をしているのか。

高校や大学に「親学」なるものはない。当然、家庭の親は知識をもたずに親になる。企業の「親」である上司にも部下の教育は必要になる。手探りをしながら「親」になるしかないが、時代や社会の変化にしたがって、親の役割や教育の意義も変わる。「親」になる方法は資格もなければ正解もないのである。


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コミュニケーションを考える。(8月31日)
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「コミュニケーション」は「伝達」とも訳されるが「コミュケーションはキャッチボールである」ということを『コミュニケーション100の法則』という本で読んだ。この意味は深い。相手がいて相互間で成立するものということ。そして、受け止められない球を投げてはいけないということ。

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コミュニケーションは双方向間で行われる。しかし広告業界では広告主から消費者への一方的な情報伝達にとらえがちで、だからインターネットの登場により「インタラクティブ・コミュニケーション」が強調された。ここで重視されるのは効果測定。どれだけの人が受信して売り上げに直結したのかが重要。

ソーシャルメディアの時代にコミュニケーションを数値のみで測っていてよいのだろうか。もちろん数値化はぼくらの交流を「みえる化」してくれる。しかしサン=テグジュベリの『星の王子さま』に書かれているように「 大切なものは、目に見えない」。相互間の信頼は言葉にはできないものである。

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ディスコミュニケーションの課題は受信と発信の双方にある。発信者側では相手を特定しない発言、理解されない言葉、受信者側では情報のブロック、理解力あるいは想像力の欠如。ハイコンテクストな文化をもつ日本人は理解されることを前提にコミュニケーションを試みるが、届いていない言葉も多い。

広義のコミュニケーションは「ノンバーバル(非言語)」なコミュニケーションを含む。ノンバーバルとは身振りや態度など、言葉化されない表現である。主としてリアルな場における対話で行われるが、YouTubeなどの映像メディアによってインターネットにおいても可能ではないか、とおもわれる。

ディスコミュニケーションもコミュニケーションのひとつであれば、相手のメッセージを遮断することも情報伝達の意思ととらえられるかもしれない。あるいは無関心を装うことも。しかしながらほんとうに無視している、関心がない、メッセージに気付かないことはコミュニケーションといえるかどうなのか。

マーケティングの世界では、BtoB(企業と企業)、BtoC(企業と消費者)あるいはBtoE(企業と社員)などの言葉が使われてきた。今後はOtoO(オンラインからオフラインへ)が重要になるといわれている。時代は変化しつつある。新しい時代に合ったコミュニケーションが求められている。


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アドバンスド・プランニング 拡張型プランナーをめざして。(8月25日)
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かつてぼくはプランナ​ーだった。編集者を経験した後のプランナーなので、ぼくの企画書​はレイアウトやデザインに凝っていて、目をひく企画書が営業に注​目され、単独のプランナーになった。しかし、当然のことながら、​大事なことは体裁ではない。

意識を刷新するひらめき(アイディア)、最初から最後まで一貫し​た論理(ロジック)、考え方の枠組みをつくる構想(コンセプト)​、そしてクリエイティブ(制作物)や実施計画、運営組織、概算費​用。それが企画書に必要となる。プランナーは制作や営業と協力し​て、それらを組み立てていく。

プランナーにもいろいろあって、ぼくはセールスプロモーション(​販売促進:SP)の企画を立てるプランナーだった。例えばゲームプランナーのことをぼくは知らない。彼等の書く​企画書はまた違っているだろう。ただ慣れてくるとわかるのだが、​SPの企画はだいたいフレームが決まっている。使いまわせる。

しかしながら、ぼくは企画書の使いまわしに疑問を感じた。提案す​るお客さまを馬鹿にしていないか。それぞれのお客様がそれぞれの​悩みを抱えているわけで、これにしましょうと画一的なものを押し​付けるのでは押し売りといっしょだ。お客さまが抱えているモヤモ​ヤをカタチにしてあげるのが企画では。

そこでぼくはプレゼンの方法を変えることにした。一方的な説明型​プレゼンテーションではなく、対話型プレゼンテーションにしたの​だ。説明が終わって、はい質問は、ではなく、市場の整理のページで​あれば、「・・・と判断したのですが御社ではいかがですか?」と​きいてみる。コンペの場では難しいけれど。

つまりプランナーであるぼくは、プレゼンの場をヒアリングの場で​あるとも考えたわけだ。もし、それで提案が通らなかったとしても​情報が得られる。次に書く企画書のヒントをいただけることもある​。企画書なんて通らなければただの紙切れなのだが、コンペ落ちし​た企画書にも意味を見出せるようにした。

そうやって対話型プランナーのぼくは、企画書を書くばかりでなく​、コミュニケーション能力を磨くきっかけになった。偉そうに上か​ら話してもダメだ。カタカナ用語で煙に巻いてもいけない。エンタ​ープライズであれば大企業の言葉で、中小企業であればオーナー社​長に響くような言葉を使い分けていく。

企画書だけ書けばあとは営業の仕事でしょ、というプランナーもい​るかもしれないが、それは違うとおもう。自分のアイディアや構想​がいくらのお金を生み出したか、アカウントにも責任を持たなけれ​ばいけない。最終的には提案先の企業さまの経営において、どれだ​けの効果を上げたかという責任も必要。

中期経営計画・短期経営計画があり、企業の理念と目標があり、そ​のなかで自分の組み立てている企画書はどのような費用対効果をあ​げるか。そこまで目が届き、責任を負うことができなければ、ホン​モノのプランナーとはいえない気がする。最初は難しいことだが、​意識を高めておくとみえるようになる。

お客さまの経営に貢献するプランナーになるためには、ビジネス書​やマーケティングの理論書を読んでアウトプットを充実させること​は必要。とはいえ、コンセプト作りは感性によるもので、小説や音楽​、映画などに対しても開いて自分の感性を高めておく。仕事とおも​わなくても人間形成の一環と考える。

ぼくはただの企画書かきから、対話型プレゼンによって企業の悩み​に耳を傾けるマーケッター、経営計画を(難しいので財務などは弱​点だったか)理解することで、事業プランとシンクロするようなプ​ロモーションプランナー、最終的には事業のプロデューサーというより併走者でありたいと模索した。

あまりに自分の理想と目標を高く掲げすぎたため、結局、俯瞰的なプ​ランナーにはなれていない気がする。しかし、生き残るプランナー​であるためには、企画書を書いて満足していてはいけないのだとお​もう。プランナーの領域を拡張するのだ。


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恩師と語った夜。(9月1日)
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ぼくの恩師は、東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻の小森陽一先生である。先生が成城大学にいらっしゃった頃にぼくは教えていただいた。あの頃、先生はゼミの学生に多大な質問を投げかけた。特に「おまえはそれでいいの?」が口癖だったような気がする。

東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
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成城大学
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金曜日の夜、小森先生と下北沢のイタリア料理店、トラットリア イル・コンソラーレでワインを飲みながらおおいに語った。先生と語り合うのは1989年に大学を卒業してから実に23年ぶり。髪に白いものが増えて老眼鏡を取り出しながらメニューを選んでいらっしゃったが先生は先生だ。


大きな地図で見る

小森先生は熱心にメニューという「テクスト」を読み、気になった部分はトラットリア イル・コンソラーレの店で働いているかわいい女の子に「これ何」と質問した。若い女の子とお話したかっただけかもしれないが(ぼくもお話したかったが)、テクストを解析しようとする真摯な姿勢を感じた。

美味しいイタリア料理とワイン。居心地のいい空間。暗闇のなかでひとり内省ばかり繰り返す精神の病による日々から解放され望んだ仕事を得て、ぼくはみょうにテンションが高まっていた。小森先生は『草枕』が夏目漱石の転換期の作品であったことにふれ、いまのぼくもそうであるとご指摘いただいた。

23年という空白をまったく感じさせない夜。事前にブログの原稿は郵送でお渡しした。そして本を書きたいというぼくの意志を伝えて、ツイッターをまとめた原稿を読んでいただいた。しかし、小森先生はネットを断固拒否している。オールドメディアのなかでどこまで生き残れるか覚悟をされている。

小森先生とは反対にぼくはインターネットを信じている。先生によると冷たい世界であるネットの世界をあたたかいものに変えたいと考えている。「やりなさい」と先生はおっしゃった。ぼくは経験からメディア論、コミュニケーション論などを展開した。先生はにこやかに聞きながら同意や反論を語る。

マイケル・サンデル批評、東浩紀氏の『日本2.0 思想地図β vol.3 』批評であるとか、そんなお話も面白かったが、ぼくは小森先生の知の教え子であるとともに人生の教え子でもある。先生とぼくの人生論を重ね合わせた議論が楽しい。人生を学ぶことができるゼミなんて他にあっただろうか。

日本2.0 思想地図β vol.3
日本2.0 思想地図β vol.3東 浩紀 村上 隆 津田 大介 高橋 源一郎 梅原 猛 椹木 野衣 常岡 浩介 志倉 千代丸 福嶋 麻衣子 市川 真人 楠 正憲 境 真良 白田 秀彰 西田 亮介 藤村 龍至 千葉 雅也 伊藤 剛 新津保 建秀

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「悩むことが人間を大きくする」という、ある意味シンプルで、この部分だけ切り出すと陳腐にもおもわれそうな小森先生の言葉が、ぼくの胸を打った。たぶんあのときの対話のなかにいて、場とコンテクスト(文脈)を共有しなければ屹立しない発話である。しかし、ぼくは忘れない。

店を出て、小田急線下北沢駅の改札の前で、小森先生は二度、ぼくの背中を叩いてくれた。そんなさりげない行為が、ぼくのこころにあって殻のようにまとわりついた何かを、ぽろぽろと落としてくれた。背筋が伸びた。先生は常に人生の先を行かれている。だが、ぼくは先生に追いつきたいと考えている。


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創造的に生きるために。(9月2日。9月3日追加)
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創造的なことをクリエイティブ(creative)と呼ぶ場合もあるけれども「創造」でよいのではないか。創造は、広告代理店や制作会社のコピーライターやデザイナーなどの職に限られた権利ではない。あらゆる人間が創造的に生きられる。生活を創造的に変えられる。

「創造力」には「想像力」が欠かせない。カタチのない未来や製品を想像することによって、まず思考のなかにプロトタイプ(試作品)が形成される。思考のなかにある試作品は脆い。だから現実の試作品に落としこむ。このときに想像はみえるようになる。想像が創造になる。現実化することが創造力。

創造力は製品やサービス、アート、文化などを生み出す。政治や行政も創造的な活動であり、日本の行く末を実体化する。日常生活において創造的であるためには、他者に対する想像力は不可欠かもしれない。また、想像力の基本となる発想(アイディア)は、まったく新しいものを考える必要はない。

まったく新しいものを発想するのではなく既存の何かを組み合わせて新しい発想を生むことは、野口悠紀雄氏の『「超」発想法』に書かれている。同様のことが、広告業界ではバイブルとも言われていたジェームス W.ヤング『アイデアのつくり方』、ジャック フォスター『アイデアのヒント』にもある。

4062754312「超」発想法 (講談社文庫)
野口 悠紀雄
講談社 2006-06-15

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4484881047アイデアのつくり方
ジェームス W.ヤング 竹内 均
阪急コミュニケーションズ 1988-04-08

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4484031019アイデアのヒント
ジャック フォスター 青島 淑子
阪急コミュニケーションズ 2003-01-10

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創造的に生きることは難しいことではない。日常の何かと何かを組み合わせてみてはどうだろう。組み合わせは関係性ともいえる。父親と息子の組み合わせ、母親と娘の組み合わせから新しい生活が生まれるかもしれない。組み合わせたことがない関係をつなぐこと。身近な場所から創造的なヒントは生まれるものである。

投稿者: birdwing 日時: 13:21 | | トラックバック (0)

2012年8月19日

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ツイッターのトラブル対処法。

ツイッターを使っているときに、執拗に絡まれたり、ネットの知らない人物から個人のプライバシーを開示されてしまう危険があります。そのときの対処法、事前にこころ掛けておくことを自分の経験から以下にまとめてみます。

1)相手にせず、発言をスクリーンキャプチャー
ツイッターで誰かに絡まれたとき、大切なことは、まず感情的になって「相手にしない」こと。相手の発言をスクリーンキャプチャーに取っておきましょう。スクリーンキャプチャーの取り方は、Windowsではコントロールキー(Ctrl)とオルトキー(Alt)とプリントスクリーンキー(PrtScn)を同時に押すと、開かれているウィンドウの画像がコピーされます。つづいて画像編集ソフトなどでその画像を開き、保存してください。あわてて怯える必要はありません。大丈夫。まずはひと呼吸して「証拠」を残してください。

2)面倒な相手をブロック
それから執拗に絡んでくる相手をブロックしてください。自由な発言ができるツイッターですが、個人情報を開示するのはプライバシー権の侵害であり、バカヤロウなどの発言を浴びせられたら侮辱罪にもふれます。このような言葉を浴びせられたときは自分を「守り」つつ、「反撃」の準備をしましょう。弁護士や警察に連絡するような大きな場合もありますが「自衛する」知恵も大切。賢くなってください。

3)「謝罪」という言葉を使わずに謝る
訴訟を起こすまで諍いを発展させるのは不毛です。しかし、覚えておきたいこと。もし自分の発言がきっかけで相手と争う場合には、法律的な意味から「謝罪」してはいけません。自分の非を認めてしまうことになるからです。とはいえアタマを下げる素直さも大事です。やっちゃったなーとおもったら、「謝罪」という言葉を使わずに、「今回の発言では、大変失礼いたしました。ご迷惑をおかけしたことをお詫びします。」と相手に告げてください。

4)トゥギャられても消せる
ツイッターの発言を「Togetter[トゥギャッター]」で自分の了承を得ずに勝手に引用されて、まとめられてしまう可能性もあります。この場合にも、やはりスクリーンキャプチャーを取っておいてください。エビデンス(証拠)を残しておきます。

実際にメールで「Togetter[トゥギャッター]」の運営会社に問い合わせたところ、このサイトは自分の発言を、発言者の権限で削除できるとのこと。

ツイッターをお使いであれば、アプリの認証でログインできますので、ログインしたら、「まとめ」という見出しの右端にある「▼メニューを開く」をクリック。ポップアップしたメニューから、「ツイートを削除する」を選択してください。個別に自分のつぶやきを選択することができるだけでなく、一括して全部を削除することもできます。自分の発言が削除されてしまうと、まとめとしての流れが「破壊」され、意味がわからなくなってしまうので有効です。

5)NAVERまとめへの連絡は平日に(8月27日追加)
「Togetter[トゥギャッター]」と同じようなまとめサイトに、NAVERまとめがあります。Wikipediaの「ネイバー」では以下のように書かれています。

ネイバー(NAVER)は、韓国最大手のインターネット検索ポータルサイトある。運営会社は、NHN Corporation。日本で提供しているインターネット検索サービス「NAVER (ネイバー)」の運営はNHN Japan(旧ネイバージャパン株式会社を吸収合併)が行っている。また、「NAVER」はNHN Japanのウェブサービス事業におけるフラッグシップブランドの名称でもある[1]。

このNHN Japan株式会社が運営する「国内最大キュレーションプラットフォーム」がNAVERまとめであり、このサイトを使って勝手に自分のツイートがまとめられてしまうこともあります。

重要なことは、ここで自分のツイートが取り上げられた場合、みずから消す機能がないということです。その点で「Togetter[トゥギャッター]」と違って不親切かもしれません。

もともとはキュレーションとして、これが面白いよ、というようなおススメをまとめるべき使い方だったかとおもうのですが、個人を特定して感想と称したいやがらせの発言を掲載するのは、悪用といってよいでしょう。

こちらもまずサイトのスクリーンキャプチャーを取っておいてください。その後、まとめられたサイトを表示させ、画面の右上にある「ログイン」の画面をクリック。アプリを選択する画面になります。そして、ツイッターのアイコンをクリックし、さらにアプリの認証画面で「連携アプリを認証」をクリックするとサービスに入ることができます。

その後、スクロールして右下にある「内容について運営スタッフに連絡」のリンクを辿ると、「ご連絡フォーム」が別ウィンドウで表示されます。ヘルプセンターからも同様の申請ができます。

「まとめ」の場合、いくつかのプルダウンメニューがありますが、プライバシーの侵害、ストーカー行為などであれば、「権利侵害」として、嫌がらせを受けたNAVERまとめのURL、勝手に引用された自分のサイトやツイッターのURLを入力します。自分のサイトに関しては、複数指摘することが可能です。記入項目はあとひとつ。どのような権利侵害を受けたかを記述。添付ファイルを付けることもできますので、スクリーンキャプチャーを添付してください。

実際にメールで「ネイバー(NAVER)」に問い合わせてみました。しかしながら土曜日・日曜日をはさんでしまったせいか、別々に書いた4通の申請に対して、自動返信4通、ヘルプセンターからのメールは1通。自動返信とはサーバー側で決められたテンプレートのメールを機械的に返信するものです。またヘルプセンターからのメールもテンプレートをそのまま送信したような非人間的な文面でした。「【緊急】」などと訴えても、返信なし。

結局、具体的な対処の返信があったのは月曜日で、ヘルプセンターからのメールも定型的な文章という印象を受けました。消費者向けのサービスであれば、土曜日や日曜日にも対応していただきたいですよね。

このNHN Japan株式会社が運営するサービスに最近伸びてきた「LINE」があります。しかし、問題が起きたときの対応力には疑問を感じました。問題がないことを祈りますが、利用者は留意しておいたほうがいいでしょう。

6)利用規約を読み直す(8月29日追加)
陰湿な嫌がらせが書き込まれたとき、「NAVERまとめ」はアクセス制限措置によってそのページを閉鎖できます。一方で「Togetter[トゥギャッター]」では、さまざまなひとからの嫌がらせのコメントやまとめの記述が残ってしまうことがあります。コメントでは、実名を名指しで罵られることもあるでしょう。

こんなときも冷静に。そして、もう一度、利用規約を読み直してください。たいていのひとは利用規約など読まずに利用者になってしまうのですが、利用規約には重要なことがたくさん書かれています。「Togetter[トゥギャッター]」の利用規約(平成23年1月17日制定)を例に挙げます。

まず「消してください」「公開しないでください」というコメントを書いたにも関わらず消されない場合には、以下の利用規約の運営を乱していると考えられます。

第9条 本サービス機能の運営
1.ユーザーは、自己の作成したユーザーコンテンツの管理義務を負うものとし、他のユーザーからの削除・非公開などの要求に対して迅速かつ誠実に対応するものとする。

さらに重要なことは、次のようなことが書かれています。

第2条
5.トゥギャッターは、本サービスにおいてユーザーが投稿又は編集した一切の情報(以下「ユーザーコンテンツ」といいます。)につき本利用規約に抵触すると判断した場合には、ユーザーへの事前の通知又は予告なしに、そのユーザーコンテンツの全部若しくは一部を非公開とし、又は削除をすることができるものとします。

つまり、運営会社に連絡すれば悪質な「まとめ」は、それを作った本人に確認しなくても運営会社が削除してくれるというわけです。その規約に基づいて考察すると、例えば「実名や職業、病気など個人的なことを書かれた、嫌な気持ちになった」「バカオンナ」「50過ぎたおっさん」などの場合を考えてみると、規約の次のような部分に反している(抵触している)と考えられます。

第3条 個人情報
1.個人情報保護法その他の法令により認められている場合

第5条 利用機能の制限
3.本サービスの利用による投稿又は編集等が、第三者に嫌悪感を与え又は公序良俗に反する表現を含んでいる場合

第6条 禁止行為について
1.法令、公序良俗若しくは社会通念に反し又は反するおそれのある行為

4.トゥギャッター若しくは第三者を不当に差別し若しくは誹謗中傷し、又はトゥギャッター若しくは第三者の信用若しくは名誉、プライバシー権、パブリシティ権、肖像権、若しくはその他一切の権利を侵害する行為若しくは侵害するおそれのある行為

7.国籍、民族、人種、社会的身分、性別、思想、信教、又は年齢等に関する差別的な表現と一般ユーザーが感じ得る行為

19.個人の住所、氏名、メールアドレス、電話番号、金融機関の口座番号等の個人を特定しうる情報を含むまとめ又はコメントの掲載行為

21.第三者の住所、氏名、メールアドレス、電話番号等の個人を特定する情報を取得する目的の行為
これらを抜粋して、違反していることを運営会社に報告(メールや連絡フォームを利用)してください。「Togetter[トゥギャッター]」であれば、平日に連絡するとほぼ1日で対応していただけます。

7)非公式RTを多用しない(8月25日追加)
事後の対処法ではなく、ふだんから心がけておくことですが、実名やアカウントを名指しで批判しないこと、そして非公式RT(リツイート)を多用しないこと。非公式RTはツイッターのリツイート機能を使わずに、RTを使って引用し、「バカじゃね? RT ぼくはこのように考えます」というような形式で発言することです。このような使い方をすると、他のフォロワーの方にも争論の内容がみえてしまい、炎上を加速することにもなりかねません。また、RTが連続すると、ふだんからきちんとコミュニケーションを取っていた方のTL(タイムライン)に送信したRTが連続して並び、不快感を与えることもあります。議論は相手と1対1でするもの。周囲を巻き込んで不愉快な炎上をさせないようにこころ掛けてください。

8)楽しんで使うこと
インターネットの世界は移ろいやすく、炎上したとしても注目を集めるのは3日ほどです。1週間を過ぎればアクセスはぐんと落ち、誰もが忘れてしまいます。とはいえ、「嫌だ」とおもったらその感情にこだわるのではなく、冷静に「処理」しましょう。ゴミが散らされたあとの後片付けであると考えてください。

簡単につぶやくことができるのがツイッターの醍醐味であり、だからこそトラブルにも巻き込まれやすいものです。しかしながら、このツールは、コミュニケーションを楽しむものとして使いましょう。どんな危険性が潜むかをあきらかにすることで、ソーシャルメディアを有効に活用することができます。

あなたのソーシャルメディアライフを大切に。

投稿者: birdwing 日時: 12:25 | | トラックバック (0)