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2006年3月31日

鳥の視点、イヌの視点。

寒いです。ほんとうに3月なんだろうかという感じです。東京では風が強い一日でした。サクラが散ってしまうんじゃないだろうかと心配です。サクラも心配だけれど、この寒さと強い風のなかでお花見をしているみなさんもとても心配です。ダウンの上着など必要ないと思って着ていかなかったかもしれませんが、風邪をひかないようにお気をつけください。といっても、こんなメッセージは届かないかもしれないですね。祈るしかないでしょう。

自分とは何者なのか、他者とは何か、そして立体的に考えるにはどうしたらよいのか、というテーマを据えて、11月からほぼ毎日書きつづけたブログも今日で5ヶ月、144日目になります。

今年の1月から3月は、特に試験的にいろんなことをやってみました。感情のままに書き綴っていくつか問題も起こしました。書き直したエントリーもあります。ところが身体をはって試してみたのですが、いまだに自分とは何か、他者とは何か、立体的に考えるにはどうしたらよいのか、ということに対する明解な答えはみつかっていません。

自分探しなんて若い頃にやればいいことだ、いいオトナが自分探しなんて青臭くて気持ち悪い、という方もいるかもしれません。しかしながら、もしそんなことを言うひとがいるとしたら、よほど若い頃に高尚な悟りを開いたとてつもなく偉い神様のようなひとか、あるいは青春時代から一歩も踏み出さずに成長しなかった不遜なオレ様気取りのものすごく嫌なやつか、そのどちらかだと思います。ぼくらをめぐる環境というのは年を取るにしたがって、流動的に変わっていきます。だから年齢に合わせて自分のスタンスを破壊し、作り変えていく必要がある。どんなに高尚な悟りを得たとしても、そんな悟りは次の時代には何の役も立たないこともあります。

たとえば社会人になる。すると企業のなかで上司や同僚や部下との関係性を考えた上で自分の位置を考えます。やがて結婚すると、夫としての役割を得てどうあるべきか考える。子供ができると、父親や母親になる。父親や母親としての自分探しをします。子供が増えると、長男に対してどうあるべきか次男に対してどうあるべきかとうことを考える。一方で、年老いた親に対してはまだ子供でもあるので、年老いた親に対する関係から自分の在り方を考えなければなりません。ぼくはまだ経験がないのですが、孫ができたら孫に対する自分の在り方を考えることになるでしょう(自分の孫ってぜんぜん想像できないけど)。これは家族という閉ざされた範囲ですが、親戚関係、友人関係、仕事の取引関係、地域社会との関係など、自分を取り巻くすべての関係性において自分のポジションを考えなければならない。

さらに子供はどんどん成長します。幼児に対する父親の在り方と、小学生に対する父親の在り方と、成人した息子に対する父親の在り方はぜんぜん違うものになるはずです。子供も成長するけれど、親も成長しなければならない。だからそのためには父親としての自分探しはとても大事になる。

と、またちょっと批判的なことを書いてしまって、しばし反省しました。とはいえ、結局のところぼくは書きたいことを書いていこうと思っています。昨日、思い込みが危険であるという考察をしたのだけど、昨日書いたことに反するのですが、思い込みで突っ走っているようなブログが実はぼくは結構好きです。というのは、自分の人生をきっちり生きているライブ感がある。もともとぼく自身が攻撃的な性格を持っているせいかもしれませんが、めちゃめちゃでどろどろな文章だったとしても、そんなライブに発した言葉を読むと心に響くものがあるものです。こんなこと書いてもいいの?というぎりぎりのところで踏ん張っている覚悟のブログには、思わずエールを送りたくなります。もちろん書くことと書かずにおくことの分別がわかっていなければいけませんが、それでも書かずにはいられない衝動が感じられるとき、その文章に力を感じます。力を感じるのだけど、同時にぼくはその力が削ぎ落としたものについてもみるようにしていたい。それがぼくが求めている立体的な思考だと思っています。

話題が変わります。もう既に古いかもしれないのですが、三井不動産の芝浦アイランドのサイトをみて、いいなあと思いました。

http://www.shibaura-island.com/

このサイトでは、鳥の視点とイヌの視点から、芝浦アイランドをみることができます。まずトップページから、「芝浦アイランドの体験サイトに行ってみよう」をクリックします。その後、Flashが表示されるのだけど、上部のWALKではイヌや鳥の視点で芝浦アイランドをみることができます。また、BIRDVIEWでは上空から地図をみることができるし、TIMEではライブカメラの映像が表示される。ライブカメラの映像は一日の風景を時間を追ってみることもできるし、過去の風景もアーカイブされている。HOLIDAYのコンテンツが追加されたようですが、PIP(Person in Presentation)型の映像も楽しい。

ぼくは馬鹿なので(笑)高いところが大好きです。新宿の高層ビルの展望ラウンジとか、むしょうに登りたくなります。先日は四谷の区民図書館のビルから、新宿御苑のサクラを眺めたりしていました。緑の一角にほんのりと桜色のかたまりが存在していて、なかなか美しいものです。ところが高いところから眺めるのは好きですが、一方で高所恐怖症だったりもします。吊り橋のようなものは足がすくんで渡ることができません。それなのに、学生時代は一年間、山岳部に所属してロッククライミングなどをやってみたこともあった。自分でも不可解です。矛盾しています。

でも、そんな矛盾ばかりなものが人間です。自分の思考をみつめることによってぼくは無限の発見ができるし、さらに誰かと会ったときには、そのひとの内面に輝いている何かをみつけたときにとてもしあわせなものを感じます。他人のブログを読んでいるときにも感じるし、ライブハウスで演奏を聞いているときにも感じることがある。映画を観たり、小説を読んだりするときにも、そんな輝いているものを発見して嬉しくなります。必ずしもリアルである必要はなくて、書かれたもの、表現されたものにもそういう輝きはある。

レトリックについて考えるときも、決して技巧的なものに終始するつもりはありません。難しいことを偉そうに言うつもりもないし、賢いフリを誰かにみてもらいたいという思惑もありません。純粋に表現する人間を理解したいと思っています。そこには限りなく深い何かがあるような気がしています。レトリックについて考えるときは鳥の視点で俯瞰して表現の在り方を眺めているのだけれど、いつも高みから眺めているばかりではない。地上に降りてアスファルトの上を歩くように、現実という地面に足のついたイヌの視点も大事にしていたい。

こつこつ地味にブログを書いているより酒飲んで騒いだ方がいいんじゃないの?とアドバイスするようなひともいるかもしれないけれど、ぼくは会社から帰って息子たちとあれこれ話をしたあとの一時間ばかり、PCに向ってひとり思索にふけるのがとてつもなくしあわせな時間である、というただそれだけのことです。そんなつまらないことに費やす時間がぼくには贅沢だし楽しい。

限りなく個人的かつ了見の狭いブログだけれど、先日まったく知らない方から「面白かった」という感想をいただきました。その方は思考について検索されていたときに偶然にぼくのブログをみつけたそうですが、面白かったのでわざわざSNSで検索して、メッセージを送ってくれたようです。率直なところ、とても嬉しかったです。ありがとうございます。けれどもさらに感動したのは、その方が音楽をやっているアーティストで、非常によい曲を作られていたことでした。思わず深夜にヘビーローテーションで聴いてしまいました。

そんなつながりが生まれるのもインターネットのよいところでしょう。書かなければ、そんなめぐり合わせもなかったはずです。どんなに無様であっても稚拙であっても、ブログを書いて一歩踏み出すと広がる世界もある。大事なのは踏み出すことだと思います。踏み出すと危険がともなうのだけれど、踏み出さなければ危険もないかわりに感動もありません。

明日から4月です。さらに一歩踏み出そうと思います。試験期間で考えたことは、これから書くブログで実践していきたいと考えています。

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2006年3月30日

思いこんだら。

「思いこんだら」で連想するものといえば、「試練の道を」とつづくアニメ「巨人の星」のテーマソングです。テレビ番組か何かで聞いたような気がするのですが、この歌詞を「重いコンダラ」と勘違いされていた方もいたようでした。つまり、なんだかよくわからないのだけど、とてつもなく重い「コンダラ」という何かがある。で、そのコンダラをずりずりと引っ張っているので、試練の道を、とつづくわけです。兎跳びやタイヤかローラーを引っ張るような場面が歌の背景に流れていたような気がするので、そのイメージもあって勘違いされたのでしょう。

ちなみに、ローラーといえば、ぼくは中学時代にローラーに轢かれた哀しい経験があります。当時、ぼくは軟式庭球部に所属していたのですが、アサレン(朝の練習)のまえには、コートにコンダラ(じゃなくてローラー)をかける。おっもっい〜こんだ〜ら、のような感じでコンダラ(だからローラーですが)をごろごろと転がしていたのですが、隅っこのほうで方向転換するときに、ちょっと手元が狂ってぼくの行き場がなくなってしまった。ありゃーと思っていると、ぼくの右足の上をコンダラ(いやローラー)がごろごろと転がっていったのでした。そのときにはまったく痛みを感じなかったのですが、靴を脱いでみたところ・・・。その後、ぼくの親指がどうなったか書くことはできるのですが、そもそもぼくは痛み関連に弱く書きながら卒倒するかもしれないのでやめておきます。

と、ちょっと関係ない話に逸れましたが、コンダラコンダラと言いつづけていると、なんとなくあの重くてごろごろ転がるものがコンダラに思えてくるから不思議なものです。

なぜこんなことを書いているかというと、先日読了した「書きたがる脳」という本のなかで、暗喩(メタファー)についての記述があり、その文章にヒントを得て思索をした結果、思い込みは怖い、という結論に達したからです。と、いきなり結論から書いても、風が吹くと桶屋が儲かる、のように脈略を欠いた感じがするので、もう少しその考えに至った経緯を書いてみることにしましょう。

「書きたがる脳」のなかでは「病としての暗喩」として、「私はイエスのように苦しい」が「私はイエスだ」のように変化したときの危うさについて書かれていました。そもそも「病としての暗喩」はスーザン・ソンタグという作家の著書名であり、その著作を読まないときちんと論じることができないような気もします。とはいえ、上っ面かもしれませんが、その言葉からインスピレーションを得て考えたことを書いてみます。

以前、暗喩(メタファ)について考察したのですが、そのときに「酒は人生の薬だ」という例文を考えました。再度、その例文を考察してみます。

いま空想力に欠けるものすごく頭の硬い人間がいるとします。逆にいえば夢想的なことを拒否する現実的な(オトナの)人間かもしれません。「ネバーランド」という映画に出てくるピーターという少年のような人間です。そんな彼が「酒は人生の薬だ」という一文を読んだら、きっと次のように思うのではないでしょうか。

「酒は嗜好品であり、薬は医薬品である。したがってカテゴリーが違うのだから、酒は薬ではない。この文章っておかしいんじゃないの?」

三谷幸喜さんの「笑の大学」の登場人物である向坂という検閲者のような人物も、きっとそんなことを言うに違いない。

確かに、酒イコール薬ではありません。けれども、ぼくらの頭のなかはデジタル処理をするパソコンとは違って、意味の曖昧さや空白を自ら補おうとする。だからまったく違うものを結びつけることもできる。曖昧なつながり方こそがブンガク的であり、表現として豊かである、と認識するわけです。

しかしながら、これが過激になってしまうと、ほんとうにぜんぜん関係ないものであっても暗喩というコードによって強引に結合させてしまう。詩人の思考はそういうところがあります。どれだけ突飛な言葉と言葉をつなげられるか、というひらめきが詩人のセンスであったりもする。

詩人に限らずたとえば、ユダヤ人は悪だ、のようなことを言ったときのことを考えてみます。語と語は、もともとゆるい関係にあったはずでした。つまり、ユダヤ人は勤勉だ、のような別の語とのつながりもできた。どんな語ともつながる自由と広がりがあったはずです。ところが、そのつながりを排除して特定の語と圧力的につなげてしまうことがある。ここに暗喩的な病があると思います。

このとき現実を歪めてしまうというか、言葉が世界を閉ざしてしまう感じがあります。一方で、直喩に関してはそのビョーキ度がまだ弱い。「酒は薬のようだ」と言ったときに「酒は薬じゃないんだけど、飲むとこんなに楽しくなる、かなしいことを忘れさせてくれるから、ちょっと薬みたいだよね」という、やわらかさがある。現実を閉ざしてしまうのではなくて、まだきちんと現実を現実として直視している感じもします。ところが「酒は薬だ」と言ってしまうと、妄想的な歪め方がある。言葉のつながりを妄信的に信じた場合には、その言葉の世界以外の現実をシャットアウトする気がしました。

書いたもの、メールやブログが誤解を生むときというのは、特定の語を暗喩的に解釈したときに生まれるんじゃないか、と考えました。ほんとうはもっと別の意味があったのに、悪い意味だけにとってしまう。こいつのブログの発言はウィルスだ、と言ったとします。と、そう意味付けられたときにその発言からすべての意味が削ぎ落とされて悪者になる。書いた本人には悪意がなかったとしても、こんな劣悪な文章は削除すべきだ、ウィルスは駆除だ、という結論に導かれてしまう。こんなもん消しちまえ、そうだそうだ、という形で盛り上がってしまうこともあるかもしれません。どんなに発言がまずいものであったとしても、権力的な圧力による暴走につながる。言語統制のようなものに近くなるのではないでしょうか。そこにきちんとした論争や、理解のためのコミュニケーションがあれば問題はないのですが。

汚いものしかみることができない心の状態というものがあります。ぼくは汚いものしかみれないひとがいる、とは言いたくない。どんなひとにも美しいものを求める心はあると思うし、そう信じていたいものです。けれども、いろんなことに疲れちゃったり不信感が生まれたりすると、汚いものしかみれなくなることもある。その狭められた視野の外には、ちいさな花が咲いていたり青空が広がっていたりするものです。けれども、汚いものしかみれない心の状態のときには、視野の外に広がる世界をみる余裕もありません。

ただそういう状態は一時的なもので、その一時的な状態だけを揚げ足とってこいつはどうしようもないやつだ、こいつはだめだ、と言ってしまうようなことがないようにぼくは心がけたい。それこそ個人を暗喩的な圧力のもとに、ひとつの意味に閉じ込めようとしてしまうものです。そのひとが持っているはずのよい世界を全部切り捨ててしまうことになる。

一方で、美しいものしかみることができない心の状態というものもあります。それはそれでしあわせなのですが、実はその視野の外には汚いものもある。社会人になってはじめての新人教育で、ぼくは「美点凝視」という言葉を教えていただき、いまでも覚えています。美点凝視とはいっしょに働くひとたちのマイナス面ではなく、よいところだけをみていきましょう、という教えでした。確かに大事なことだとは思います。ポジティブに考えることはとても大切です。けれどもストレートに言ってしまうと、現実の世のなかはきれいなことばかりではない。無防備な状態で美しいものばかりをみていて汚いものに直撃すると、ものすごいショックを受ける。汚いものに染まる必要はないけれど、正義感をふりまわして怒るのではなく、そういうものもあるよね、ぐらいに認識しておく必要があります。

ぼくは(何度も書いているように)AかBか優れているほうを選択するような「ORの抑圧」を展開するつもりはありません。人間は汚いものばかりをみてしまう心の状態もあれば、美しいものを求める心もある。相反する心の状態が同時に存在するのが人間です。だから、たとえいまはマイナス面ばかりで汚いものしかみれなかったとしても、自分を卑下することはないと思う。そういう自分も自分のなかの状態のひとつです。「ANDの才能」によって、よいことも悪いことも(バイアスをかけて増幅してみるのではなく)ありのままにみることが大事ではないかと思っています。

お花見の季節なのに、今日はあまりにも寒い一日でした。

サクラは美しいけれども、心の状態によっては胸をざわざわさせるようなときもある。その気持ちがどこからやってくるのかわからないのですが、思い込みという眼鏡を外したりかけたりすることで、世界のみえ方もずいぶん変わってくるものかもしれません。

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2006年3月28日

「書きたがる脳 言語と創造性の科学」アリス・W・フラハティ

▼book06-022:病と天才のあいだで。

4270001178書きたがる脳 言語と創造性の科学
吉田 利子
ランダムハウス講談社 2006-02-03

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書かずにいられないハイパーグラフィアと書きたいのに書けないライターズブロックという病を中心に、自ら子供を失ったときに精神病を患って入院した経験のある神経科医の著者が、痛々しいまでの文章を書き綴った本です。引用されたさまざまな文章とプライベートな体験が織り成された、とてつもなく危険な書物といえるかもしれません。真面目に書かれたことを受け止めようとすると、かなりアブナイ。

インスピレーションに関する記述もありますが、天才のひらめきと精神病はほんとうに紙一重にあると思います。というぼくも、深夜に曲を作ったり文章を書いていたりすると、神様が降りてきた、という感覚を味わうことがある。わかるひとにはわかるのかもしれませんが、その快楽は異常なほどです。時間の感覚も吹き飛んでしまう。もちろん朝になって聴きなおしたり読みなおしてみるとがっかりすることが多いのだけど、あれはいったいなんだったんだろう、と思うことがあります。と、同時に、何かそれは触れてはいけないもののようにも思える。その触れてはいけないものに挑んでいる著者はすごい。

とはいえ、率直な感想を書くとすれば、周辺(辺縁)をめぐる表現に終始している感じもあり、いまひとつぐぐっと本質に突っ込んでいないような印象も受けました。大量の文章を書いているのだけれど、真理の深みは意識的に回避しているような感じもあります。一方で茂木健一郎さんの文章は短いけれど、真理に踏み込んでいる印象がある。あくまでもぼくの私見ですが。

苦しいとき、行き詰っているときに生き生きとした文章が生まれる、というのは非常にわかります。作家というのは、ある程度病んでいないと、才能を発揮できないものなのでしょうか。モーツァルトだって変質的な言葉を使った曲も作っているようなので、ひょっとしたら病んでいたのかもしれない。ビョーキの崖っぷちの手前で立ち止まって、現実と仮想の世界の両方を引き受けることができるといいのですが。3月28日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(22/100冊+26/100本)

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ANDの才能とモーツァルト。

あたたかい一日でした。サクラが満開です。会社からの帰り道、風がずいぶんやわらかくまるくなったなと思ったら、さきほど雨が降ってきたようです。風をやわらかく感じたのは、雨が降る前に空気の湿度が変わったせいかもしれません。

長い間読み進めていた「書きたがる脳」という本をやっと読み終わりました。そして、書斎に積み上げられたまま埋もれていた「ビジョナリー・カンパニー」を読みはじめています。この本は既に続編が出版されているのですが、各方面の方から評価が高い本なので読んでおこうとかなり前から思っていました(実際に読むと、ほんとうにすばらしい。もっとはやく読むべきでした)。実は「書きたがる脳」では、著者アリス・W・フラハティさんの本文よりも茂木健一郎さんの8ページ分の解説のほうに惹かれてしまった。そして、たぶんこの2冊をつづけて読んだせいだと思うのですが、「書きたがる脳」の解説と「ビジョナリー・カンパニー」の冒頭にある言葉がぼくのなかで勝手につながりました。

茂木健一郎さんの解説では、現代人は忙しく、細切れな時間をつなぎ合わせながら生きている、ということが書かれています。情報の洪水にうんざりしつつ、いくつものメールに回答しながら、資料を検索して仕事を片付ける。つまり過剰に書きつづけるハイパーグラフィア的な状態にある。しかしながら、茂木さんはここでモーツァルトを例に挙げます。モーツァルトは仲間と酒を飲みつつ、妻とくだらない世間話をしながら、みんなが眠ったあとで至高の曲を朝までに書き上げる。しかも膨大な曲を書きつづけるわけです。もちろん天才だからできたことかもしれませんが、茂木さんは現代人は「モーツァルトこそを理想とすべきではないか」と書いています。それを読んで、なんとなく共感しました。ゆっくり何かに取り組む時間がなかったとしても、その慌しさを楽しむことだって不可能ではありません。できれば、モーツァルトでありたい。

と思いつつ、「ビジョナリー・カンパニー」を読み進めたところ、ビジョンのある会社とは何かという調査を進めていくなかで、常識的に考えられていたことが覆されたという結論を「十二の崩れた神話」としてまとめていました。そのなかで興味深い表現をがあります。神話の十一「二つの相反することは、同時に獲得することはできない」ということに対して、ビジョナリー・カンパニーは、手に入れられるのはAかBかのどちらかという「ORの抑圧」で自分の首を絞めたりしないで、保守的と大胆、利益と価値観のように、相反するものを欲張って手に入れようとする「ANDの才能」を大切にする、という部分です。ぼくはこの一文を読みながらモーツァルトをイメージしたのですが、どちらかを選べというより、どっちも選ぶ、という困難に挑戦するとき、当然その慌しさや煩雑さに追い込まれたりもするのだけれど、それが自分の課題処理の能力を広げたり強化するような気がしました。

ところで、今日は仕事関連でアフィリエイトで有名な和田亜希子さんと、とある企業の情報システム室の室長の方(匿名にする必要もないかと思うのですが)とお会いしてお話しました。事前に和田さんのサイトやブログを拝見していたのですが、ココログからアメブロ、ヤフーなど10サイトものブログを運営されている。和田さんこそモーツァルト的なひとだ、と思いました。さすがに多方面で活躍されているだけあって、アイディアがぼんぼん出てきます。ぼくもつられて脳内がとても活性化しました。和田さんはすごいひとです。

いろんなアイディアが出たなかで、企業ブログにはブロガーだけでなくブログ編集者が必要、というお話も納得です。また、炎上したブログを鎮火させるためのコンサルタントの必要性というのも、もっともだと感じました。以前、ハッカーだった人間が逆にセキュリティの会社を立ち上げて信頼されたということもあったかと思うのですが、ブログコンサルタントにおいても、自ら痛い経験がそのノウハウを生かせるようになるかもしれません。ぼくもたまに問題発言によって騒動を起こしたこともあり反省もしているのですが、ひょっとすると痛い経験のあるぼくは、その経験を生かすこともできそうだ、と思ったりしました。傷付けられたり傷付いたり辛さやかなしみを経験した人間こそが、ほんとうにやさしくなれるものです(いや、ほんとうに)。

さて。帰り道、家の近くにあるCDショップに立ち寄ったのですが、モーツァルトのことを考えていたせいか、ついつい「どこかで聴いたクラッシック モーツァルト名曲ベスト101」という6枚組みのCDを買ってしまいました。クラシックのCDを買うのは、子供が生まれるときに胎教のために奥さんにCDを買ったとき以来かもしれません。ほんとうはこんなオムニバスを買うのは邪道かもしれませんが、クラシックはほとんど聴かないぼくとしては取っ付きやすい。何も知らないとはいえ、なんとなくDECCAはいいんじゃないかという気がして選びました。ドナルド・フェイゲンの13年ぶりのソロアルバムや、小沢健二さんの新譜(どうやらインストアルバムらしい)も気になったのですが、いずれ購入することにしましょう。

CDショップで気付いたのですが、モーツァルトは生誕250周年なんですね。そんなわけで企画もののCDがたくさん出ている。いまCDを聴きながらブログを書いているのですが、モーツァルト結構いいかもしれない。メロディの奔放さや飛び跳ねた感じが、なんとなく気持ちを軽くしてくれます。春らしいともいえる。さらにこのCDでは、映画に使われたモーツァルトとして、ピアノ・ソナタ第11番は「ビューティフルマインド」に使われたこと、フィガロの結婚の手紙の二重唱は「ショーシャンクの空に」に使われたことなど、映画やCFなどに使われたという情報が明記されているのがうれしい。
趣味のDTMでも、ほんとうは弦を多用した曲を作りたいのですが、なかなか才能がなくて難しい。実は以前に作った「Oxygen」のサビの部分をサンプリングの弦でアレンジしたメモ曲もあり「Oxy弦」などと呼んでいたのですが、ひとりの方に聴いていただいたまま未完成でオクラ入りしています。完成していないのですが、muzieで公開しようかとも思います。たぶんいま公開している「Morning_light_reprise」に近い雰囲気です。この曲もシンセで弦を表現しようと試みたのですが、きっと本職の方からみると変な弦でしょう。

ところで、テクノ界のモーツァルトといえばエイフェックス・ツインという方もいるようです。怖い顔がジャケットのCDをぼくは持っています。これはほんとうに怖いので、いつも顔の面は伏せているのですが。

凡人のぼくはモーツァルトのような天才にはなれませんが、モーツァルト的でありたいと思っています。

+++++

■しばらくモーツァルトばかり聴いているかもしれません。6枚組みで101曲あります。

B0009XE7RUどこかで聴いたクラシック クラシック・ベスト101
マリナー(ネヴィル)
ユニバーサル ミュージック クラシック 2005-08-24

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■こちらはテクノ界のモーツァルトです。顔が怖い。

B000002HOFRichard D. James Album
Aphex Twin
Elektra 1997-01-27

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2006年3月27日

ネバーランド

▽cinema06-026:信じること、空想すること。

B000FHIVWMネバーランド [DVD]
デイヴィッド・マギー
ショウゲート 2006-06-23

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ピーター・パンの劇作家ジェームズ・バリ(ジョニー・デップ )の物語です。4人の息子をもつ未亡人(ケイト・ウィンスレット)と公園で出会い、彼女の家族と過ごすようになります。息子のうちのひとりにピーターという少年がいるのだけれど、父を亡くしたときから心を閉ざしてしまって、夢みることを拒絶している。その少年ピーターとの関わりに、なかなか切ないものがありました。たかが芝居だ、とか、あなたは父ではない、とか、現実を冷たくみつめて言い放つ少年に、バリは夢をみることを教えようとする。「彼は、はやく大人になろうとしている」と表現するのですが、それでもやっぱり子供は子供なんですよね。母親の愛情を求めているし、父親と約束したのに行くことができなかった釣りのことがずっと心に陰を落としている。

緑の芝生の映像や、空想のシーンと交錯するイメージや、空をふわふわ飛ぶような浮遊感や、どこか曇ったガラス越しにみるような風景そのものが、なんとなく気持ちいい。信じるとそこにネバーランドが存在する、というのは、映画そのものも同じかもしれません。3月27日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(21/100冊+26/100本)

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感情のモノサシ。

感動した、というときにひとはどのくらいの感動をしているんだろう。たとえば感動のメーターがあったときに、メーターの針を振り切ってしまうような感動もあれば、わずかに針がぴくんと触れる感動もあるわけです。けれども、いずれにしろ言葉にすると、感動した、ということになる。針の触れ方は削ぎ落とされて、ある意味、デジタル処理されてしまう。言葉にすることはアナログのようで、実はものすごくデジタルなのかもしれません。

しかも、感動メーターがあるとすると、そのメーターは個々のものなので、感度が違っています。たとえば映画を観ているときに、まったく本筋と関係のない青空に泣けるようなひともいれば、映画館の全員が号泣しているのに、まったく平静なひともいるものです。はたして絶対的な尺度のモノサシはないのではないか、ということも考えてしまいます。もちろん統計学的には一定数のサンプルを集めたなら、ある程度の傾向がみえるのかもしれませんが。

満足に関しても同様のことがいえます。文章を書いていたり、音楽や絵画などの作品を創っているときに、ああこれで満足だ、作品が完成だ、と思えばそれで終了です。しかしながら、ちょっと待てよ、と思いはじめると、細部の詰めが気になってくる。もう一度やり直しをかけているうちに、別の部分も気になってくる。結局のところ永遠に直しつづけることになり、いつまでたっても完成しない。たまにぼくは、そんな無限ループにはまることがあります。

以前、はてなの開発者には「50%ルール」がある、ということをどこかで拝見しました。つまりサービスは、50%完成したところで公開してしまう。β版の段階で一般のひとに使っていただき、結果をフィードバックしてサービスの完成度を挙げていく、ということのようでした。50%というのは完成度が低いような印象もありますが、完璧なものが完成したときには時代に取り残されてしまうようなスピード勝負の時代には、不完全であってもまず世のなかに出してしまうスタイルが受け入れられるのでしょう。

一方でそれはインターネットの世界だから通用するスピードであり、なんでもかんでもそのルールを適用すると中途半端にもなってしまいます。スピードの速さで疲弊してしまう。リアルな世界では、スローライフな毎日もいいものです。

といいつつ、音を理解するスピードから脳の速さを測定するサイトがあるということをCNETJapanの記事で知りました。「脳の回転の速さを測れるウェブサイト、米国で登場」という記事から引用します。

同社のウェブサイトでは10分間のオンラインテストが受けられる。このテストでは、被験者に音の違いを矢印をクリックして回答させ、回答の速さと正確さを測定する。テストが終了すると、回答者はミリ秒までの精度で自分の脳の処理速度を知ることができる。

速度の判定には、以下のような基準があるそうです。

平均的な聴覚処理速度は、20歳代が68ミリ秒で、40歳代になると87ミリ秒、そして60歳代になると106ミリ秒になる。

最近、脳ブームともいえますが、ニンテンドーDSの人気ゲームのような仕組みでしょうか。結果を知るのが怖いのでやっていません。あえて、自分のモノサシは自分で作ります、とか言ってみたりして。

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2006年3月26日

オールド・ボーイ

▽cinema06-025:壮絶な笑顔、復讐の最後。

B0007INYIUオールド・ボーイ プレミアム・エディション [DVD]
パク・チャヌク
ショウゲート 2005-04-02

by G-Tools

2週間ぐらい前に、とある知人の方と飲んだのですが、韓国に詳しいその方から、ぜひ観ろと猛烈にプッシュされました。そんなわけですぐに借りてきて観なければと思っていたのですが、子供が喘息で入院したので観ることができず、延滞および再びレンタル期間を延長までして借りて伸ばし伸ばしにしていたのですが、やっと観ることができました。

まず、感想をひとことで言うと、凄い。凄すぎる。映画を観ていないインターバルがあったのですが、久し振りに映画を堪能したという感じです。しかしどちらかというと、刺激が強すぎました。暴力的な映画が苦手なひとにはあまりおすすめできないかもしれません。とはいえ、最初から最後まで、ぐいぐい引っ張られます。

15年間、理由もわからずに監禁された男の物語です。しかし、15年後に解放される。ところが解放された理由には、すさまじい復讐の罠が隠されていた。監禁の間に身体を鍛え、監禁した男を探り出し、なぜ自分を監禁したのか理由を説い正し、復讐しようとするのですが、とんでもない真実が待っています。硬派でハードボイルドな映画ですが、歯を抜いたりするような拷問のシーンが多く、そもそも先日歯を抜いたばかりであると同時にお医者さんが苦手なぼくには、この場面は直視できませんでした。タランティーノが絶賛、ということをその知人の方からも聞いていたのですが、こういうことだったか、と納得しました。

原作は日本のコミックなんですね。オ・デス役のチェ・ミンシクの壮絶なまでの笑顔が印象に残りました。映像のテンポもいいし、ほんとうに衝撃的な作品という感じです。映像は暴力的かつ衝撃的なんだけれども、対比するような音楽の官能的でせつないメロディも印象的でした。3月26日鑑賞。

公式サイト
http://www.oldboy-movie.jp/

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(21/100冊+25/100本)

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クライマックスについて。

映画も小説も同じですが、たぶんこのあとにクライマックスだな、と想像しながらストーリーを追うことがあります。ぼーっとスクリーンを眺めながらも、なんとなくいままで観た部分を整理したり、先読みをして主人公がこれからどうなるのか、などをあれこれ考えているものです。

たいてい起承転結型のパターンにあてはめて、その枠組みのなかで展開を考えている。そして、起承転結パターンの場合には、転・結という後半部分がヤマになる。しかしながら最後が、起承転結・結・結のように2回ぐらいどんでん返しをする映画もたまにあります。予想もしなかったエンディングが用意されていると、かなり感動するものです。シナリオの完成度が高いので、脚本家の勝利ともいえる。結末にひねりが効いた作品はネタばれになってしまうので、レビューなどでは結末を書かないことが暗黙のルールだったりもします。逆に思わせぶりな伏線をはっておきながら何も起きない映画には、肩すかしをくらわされたような感じがして不満も残る。

一方で、淡々としてヤマのない映画もあります。個人的にはそういう映画も好きなのですが、一般的にはあまり盛り上がりに欠けるような映画は好まれないのかもしれません。確かにエンターテイメント系の映画であれば特に、日常生活にはないスリルなどを求めているわけなので、あまりにも日常的な日々がスクリーンのなかで繰り返されると眠くなってしまう。別に観なくてもいいや、ということになる。

このクライマックスを求める気持ちはなんだろうか、ということを考えていました。それがひょっとすると物語に対する渇望のようなものかもしれない。一方で、何も起こらない淡々とした映像を好むのは、アンチ物語的というか、一種の詩的な広がりを好むことなのかもしれません。

小説でいうと、ぼくは保坂和志さんの小説に傾倒したことがあるのですが、保坂さんの書く小説はみごとに何も起こらない小説です。しかしそのまったりとした日常的な世界に漂っていると、妙に居心地がいいものがある。海外では、ジャン=フィリップ トゥーサンなども飄々としている文章なんだけど、クライマックスがあるようでないような小説だと思います。これもぼくが好きな作家で、「カメラ」「ムッシュー」などは文庫になっていた気がしました。紀伊国屋書店で購入した「愛しあう」はサイン本だったりします。来日したときのサイン本らしく、サイン会場に行きたかったなと後で思いました。

広告もそうですが、一般的に世のなかというものは物語的に生きることを提案していることが多い。知らず知らずのうちに誰かの提案している物語に絡め取られてしまっていることがあります。ここでいう物語というのは、スタイルという言葉に近いでしょう。ぼくらは社会人の物語(スタイル)であったり、子供を持つ父親の物語(スタイル)というひな形を借りて日常生活を送るのですが、自分のオリジナルストーリーだと思っていることが、ステレオタイプのありきたりな常識の物語だったりもします。常識でかまわないけれども、常識の物語はスクウェアなので肩が凝る。

ところで、自分のなかにある展開パターンというのはかなりがっちりとしたもので、その枠を壊すのはなかなか難しいものです。若い頃には融通も利くかもしれないけれど、パターンをわざわざ壊すのは面倒だし力も必要なので、古いパターンでまあいいか、ということになってきます。

久し振りに趣味のDTMに没頭して、3月の初旬頃から中断していた曲を作ってみたのですが、サビの展開を考えようとしたら、どうしても前に作ったことがあるなというサビが出てくる。サビの部分だけ何回も作り直してみるのだけれど、どれも斬新な何かに欠けていて納得ができません。困ったなあ、という感じです。

そのときにいろいろと考えたところ、そもそもサビって必要なのか、ということが頭に浮かんだ。サビというのは曲のクライマックス的な部分ですが、別にクライマックスなんてなくてもいいじゃんと思ったわけです。限りなくアンビエントな方向に向うのかもしれませんが、そういうのもありです。しかしながらぼくは、ポップスを志向したいので、ポップスの場合は覚えやすいメロディで盛り上がる部分というのは必要ではないか、などと考えて、やっぱりサビは必要か、という結論に落ち着いたのですが。

ちなみに曲は80%完成したのですが、3月中に公開できればいいなと思っていますが、気がつくとあと1週間で3月は終わりだったりします。はやいものです。

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2006年3月25日

PSEの行方。

学生時代や、お茶の水に近い職場で働いていたときには、よく楽器店に行って中古の楽器を物色したものです。ギターやベースはみているだけで何か幸せな気分になったのですが、特にデジタル系の機器は、安価なエフェクターを含めて、じっくりと時間をかけて吟味した思い出があります。買うかどうかはともかく、ですが。

4月から中古家電に販売規制がかかり、PSE(Product Safety,Electrical Appliance & Materials)マークの取得が必要になります。なんとなく面倒なことになってきたな、という気がするのですが、販売店も重い責任を負うことになるため、中古販売店ではいろいろと悩むところが大きいようです。レンタルという手段もあるようですが、やっぱり個人としては手に入りにくい名機をこつこつお金を貯めて購入するという楽しみもあり、自分で所有したいという欲もあるのではないでしょうか。

ビンテージという言葉があり、シンセサイザーに関わらず、ファッションやクルマ、ワインなどさまざまなモノに渡って使われていると思うのですが、それを国が法律で定義しようとしている。なんとなく無理がある気がします。asahi.comの「ビンテージってなんや PSE法で電気街・日本橋も混乱」という記事にも書かれていますが、さまざまな反発の声から「例外」の措置を考えて苦しい対策をしているうちに、余計に混乱を招いている。それにしてもPSEを認定するための試験機器も不十分である、というニュースを聞いたような気もするのですが、準備期間は長かったようですが、いざ実施にあたってさまざまな問題が浮かび上がってきたようです。

坂本龍一さんも、批判しているようですね。15日の古い記事になりますが、CNETにも「はっきり言うと、これは文化破壊--坂本龍一氏らがPSE法に対する要望を発表」ということが書かれていました。

ところで、ぼくはその昔には、ローランドのJUNO-106という入門用のシンセサイザーを持っていました。それほど高価な機器ではなかったと思うのですが、まだ若くて貧乏な時代だっただけに、ローンを組んで大事に使っていたものです。結婚後、使わなくなってしまって、部屋の隅に立てかけておいたところ、何も弾かなくてもぶーんと音が出るように壊れてしまったので、まあいいやという感じで手放して処分してしまいました。けれどもローランドの楽器は、ピアノはともかく、オルガンやストリングスはなかなかよい音だったと思います。そして何よりも部屋に鍵盤がある、というだけで何か雰囲気が違う。

いま、ビンテージのシンセサイザーは、わざわざハードウェアを購入しなくてもソフトウェアで実現できるものも多い。ミニムーグや、DX7、コルグの製品など、往年の名機をソフトウェアで再現したものが数多く出ています。フリーウェアとして提供されているものもあり、これが無料か?とびっくりする。

もちろん音楽を創るという結果論からいえば、別にハードウェアじゃなくてもソフトウェアのシミュレータで十分な部分もあります。マシンのスペックにも依存するけれど、配線コードをつないだりする面倒もなく、パソコン上で制作環境を完結することもできます。けれども、上に書いたように、やはり機械ではあってもハードウェアがもつオーラというか、存在感というものがある。ソフトウェアではなんだか物足りない感じもします。最近ではそれほど感じなくなったのですが、当初はクリエイティブなことをやろうとするとウィンドウズじゃなくてマッキントッシュのマシンだ、というこだわりもありました。なんというか、モノづくりに対するこだわりだやテツガクが感じられると、創作意欲も刺激されるものです。

それはブログに関してもそうかもしれません。はてなで日記を書くとやはり何か刺激されるものがあります。デジタルだから、アナログだから、という区別はなく、ビジョンの掲げられたサービスや製品を使うと、そのビジョンに影響を受ける。幻想かもしれませんが、そういう感覚を信じていたい気もします。

なんとなく悪者になってしまったような感じもあるPSE法ですが、もともとは消費者の安全を守るために生まれた法律だったという認識もあります。電気ストーブに関する事故も一時期多発しましたが、これらの事故の場合、ひとつ間違えると死に至るような危険性もある。電気ストーブと電子楽器というのは、同じ電化製品とくくってしまうこともできますが、どうも違うカテゴリーという気がします。というのは、生活において何をもたらすのか、と考えた場合にまったく別物です。

PSE法についてはちょっとかじっただけなので、きちんと理解していないのですが、危険度の高いものから考えていく、ということはできなかったのかな、と思いました。消費者のシーンを考えずに機能的に実施してしまうところが、お役所的といえばお役所的なのですが。

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2006年3月24日

姿勢を正す。

梅田望夫さんのブログを読んでいたところ、トラックバックから引用されていた住太陽(スミモトハル)さんのブログを読み、ちょっと感銘を受けました。ということをストレートに書いていいのかどうかとも思うのですが、ぼくは自分がよいと思ったものに対しては率直な感想を書きたいと思っています。かっこつけて気取ってみてもしょうがない。年上であろうと年下であろうと、権威的であろうとなかろうと、よいものをキャッチしたときには、これっていいよ、と素直に言えるひとでありたい。そして、感性に引っかかるものをキャッチするアンテナを常に磨いておきたいものです。そんなわけで、住さんのブログから引用です。

まずブログの冒頭に書かれている言葉に、うーんと唸りました。引用します。

小手先のテクニックが有効な期間は、周囲の者たちが、それを真似るか見破るかするまでのごく短い期間だけです。このブログに綴られているのは、僕がテクニックではない「本質的な何か」を探す旅の行程です。それは真理かもしれませんし、知恵かもしれませんし、自分自身の心と体かもしれませんし、他人や社会や世界とのつながりかもしれません。いずれにせよ、僕はそれを追い求める旅を、今後もずっと続けていくでしょう。

非常に端的に書かれていますが、これは深い。そして言葉は違いますが、ぼくの求めているものも同じだと思いました。ぼくは特に考え方に注目してテツガクと言っているのですが、住さんは「他人や社会や世界とのつながり」と言っているところに広がりを感じました。

さらにプロフィールに書かれている次の文章も、これは!と思いました。「情報を集めること」と「表現すること」が「生きること」と同じ意義を持っているとして、さらに次のように続けます。引用します。

また人は、生命を維持するために表現します。自分の状態や欲求を他者に伝え、必要な援助を得るためです。さらに人は、生命の維持だけでなく、社会に参加したり、その中で認められたりするためにも表現します。集めた情報や、それによって変化した自分を表現し、社会生活を営むのです。「表現」を「コミュニケーション」と言いかえてもいいでしょう。この意味で、表現することは、生きることと同じように重要なことです。

この切実さ。表現するとは何か、ということをぼくも考えつづけていたのですが、明確な答えを得たような気がしました。

そこでいくつかのエントリーを読み漁ったのですが、共感できるものがたくさんありました。住さんは、非常に抑制の利いた文章を書かれていて、まずその文章が気持ちいい。さらに、権威的なものによりかかるのではなく、ご自身の体験から真理を導き出そうとされている。その姿勢がいい。

3月23日のエントリーでは「僕がフリーランスを志向する理由」として、組織に属さない生き方についての考察をされています。そのひとつの方法としては、アフェリエイトがあるのですが、実際にぼくもアフィリエイトに関しては、ちょっときちんと学んでみようと思っていました。しかしながら、住さんが冒頭に掲げているように、「金儲け」のノウハウという表層的なテクニックに終始すると、たぶん広がりがなくなってしまう。

ダイバーシティ(多様性)の容認ということから、仕事における新しいスタイルとは何か、ということをぼんやりと考えていたのですが、それはIT業界のCPUをあらわす言葉ではデュエルあるいはマルチのように複数の頭脳を共存させる生き方につながっていくのではないかとイメージしています。つまり、ある意味、スーパーマン的な社会かもしれない。表向きの姿は新聞記者だけど、ネットという電話ボックスを潜り抜けると、まったく違うキャラクターに変身する。そんな感じです。仕事の傍らにブログやコミュニティを運営するなど、内職的に携わるパーソナルプロジェクトがあってぜんぜんかまわないかもしれません。むしろ、それを容認する企業が今後は主流になるべきだと考えています。しかしながら、どっちが本業?のようになってしまうのでは問題があるので、本業は本業であくまでもレベルの高い仕事をする必要があります。複線的に広がるそれぞれの世界が互いに影響を及ぼして、相乗効果をあげるのが理想的です。ということを、以下のように住さんは書かれています。

少し話が脱線しましたが、僕は通常業務であるところのウェブ制作やウェブ・マーケティング、そしてそれら関連した講演や執筆を本業としていて、それらの活動から派生したサイトを複数運営しています。しかし、本業だけに拘るのではなく、それらで得た「ノウハウ」や「人的ネットワーク」や「リンクポピュラリティ」や「トラフィック」を総合的に活用することで、さらに新たな「ノウハウ」や「人的ネットワーク」や「リンクポピュラリティ」や「トラフィック」を得ることができる、という好循環も生み出すことができます。このブログなどはその好例で、本業には関わりのないこともたくさん書いていますが、それらは、どんな形でかはわかりませんが、再び僕に戻ってきます。そしてまわりまわって、本業でも役に立つ、という具合です。

いままで、ぼくは自分の考えにいまひとつ自信が持てずにいました。というのは、複数の仕事やネットワークを共存させる考え方は圧倒的にマイノリティな感じがして、どこか後ろめたくもあり、もしほんとうにそれをやろうとすると組織から出て独立したほうがいいんじゃないの、ということにもなりかねません。実際に、そうしてフリーの道を歩んでいるひとも多いのですが、自分としては組織のなかにいながら複数の能力を発揮すること、組織にいながら内部に執着するのではなくて外部にも開かれているのが理想的だと思っていたわけです。

住さんの書かれていることが、ひとつのヒントになりました。そしてブログの書き方についても、学んだような気がします。そろそろ3月が終わりますが、1月から3月まではぼくのなかではある意味、実験期間でした。かなりラジカルな試みも意図的に行って、なるほどなあと感じたことが多くあります。来週、1週間はその総括を行いつつ、 自己規範のようなものを決めて、4月から次のフェーズへスタートしたいと考えています。

住さんのブログには、思わず姿勢を正されました。住さんがインターネットの信奉者であるように、ぼくもブログの可能性を信じているひとりです。へこみそうなときもありますが、そんなマイナスな自分も自分として認めつつ、さらに何ができるか考えていこうと思います。

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2006年3月23日

ななめ読みの春。

長男は終業式でした。通知表はいまひとつですが、まあよかろう。頑張ったんじゃないかな。そして、喘息の次男が退院できました。朝には曇り空だった天気も晴れて、彼の退院を祝ってくれたようです。けれども、ちょっと歩いてはぺたんとしりもちをついたり、また歩いてはぱたんと倒れたり、さすがに1週間の入院は彼の体力を奪っていたようです。とはいえ、しおしおになって寂しさを埋めるために未来探偵コナンを全巻読破しようとしていた長男にも、やっと笑顔が出ました。

というぼくにもやっと余裕が生まれはじめています。フリーペーパー2冊と雑誌1冊をゲットして、ななめ読みできる余裕もできました。ななめ読みして、これはと思ったことをピックアップしてみます。

まずは地下鉄の駅に置かれている「metro min.」。実はぼくはこのフリーペーパーをずっとストックしているのですが、No.41は、春らしいピンク色の表紙に木村カエラさんが黒板に書かれたおだんごを口を開けて食べようとしている写真があって楽しい。特集のなかにも教室でお弁当を食べる木村カエラさんの写真もノスタルジックでよいです。あらためて思ったのですが、このフリーペーパー、レイアウトのセンスがよくなっているような気がしました。前からこうでしたっけ?この冊子が無料と言うのはうれしい。お花見特集ということで、「花見を読むという方法(P.12 )」では、花見に関係する小説などが紹介されていて、川上弘美さんの「神様」と「センセイの鞄」があって、そういえばこの小説のなかで、お花見のシーンは印象的だったな、と思いました。それから藤原新也さんの「月の裏側で歌っています」では、デヴィッド・シルビアンの新譜を紹介しているのですが、思わず聴きたくなりました。デヴィッド・シルビアンの歌について「耳元一センチぐらいのところで聞こえるような気がしたの」という印象を述べる女の子が登場するのですが、この表現はうますぎです。デヴィッド・シルビアンでよく聴くのは(というか実はいまそれしか持っていないのだけど)「EVRYTHING AND NOTHING」という2枚組みの輸入版CDなのですが、まゆげをぐりっと描かれたイヌのジャケットなど、写真をみていても面白い。このCDは気だるさがよいです。でも、新譜を聴きたい。

次に「R25」。こちらはサクラ色のmetro min.と対比するかのように、今回のNo.86は若草色の表紙です。そのなかで注目したのは、「はてな」と「新会社法」の記事でした。「「へんな会社」の作り方」という本が出ているのですが、ぼくがこのブログを書いているはてなはとてもユニークな会社です。そもそも自分の机が決まっていなくて、出社したら好きな場所に座る。これはすごいな、と思ったのですが、海外にはそういうスタイルも多いということをどこかで読みました(どこで読んだのか失念)。「新会社法」については、LLPという形態がなかなか面白いと思いました。経済産業省のページでいろいろと資料を読んだのですが、やはり海外ではさまざまな事例が出てきているようですが、想定例としては、インテルやIBM、AMDなどの半導体メーカーが共同開発する例がなかなか興味深いものがありました。

ここまではフリーペーパーですが、久し振りに購入したのが「ダカーポ」です。これは学生時代によく読んでいたような気がします。No.580は「2006年版 絶対必要な常識の3大特集」で、新社会人などに向けた企画のようです。「新入社員の基礎常識」というのはもはや読んでいても遅すぎる(泣)という感じなのですが、冒頭のところで、宮崎学さんという作家が「相反する常識が併存し、バランスを取るのが成熟社会だ」という提言をされていることに注目しました。金がすべて/金がすべてではない、という複数の常識が成立するのが社会であり、ライブドア事件を例に挙げている。なにが正義か、ということも常識と同様、複数あるわけで、あるものにとっての正義が別のものには悪であることもあるし、その逆もあり得る。権威的なものからみると、その権威に対抗するものはすべてが悪なわけです。抹殺すべき邪悪なウィルスにすぎない。しかしながら確かにウィルスかもしれないが、正義をもって権威に対抗するものもある。

ところで駅や街のなかで、はかま姿や着物姿の学生が目立ちました。卒業式、謝恩会の季節です。子供たちは明日から春休み。寒いことは寒いのですが、久し振りに家族が揃って気持ちがぽかぽかしています。この陽だまりのような時間が、長くつづきますように。開花宣言も過ぎて、サクラもそろそろ咲き始めるのでしょうか。

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2006年3月22日

質より量のアーカイブ。

時間軸に沿ってコンテンツや作品が生成するとき、生成のスピードが止まって成熟すると、時間軸という縦の方向のベクトルから今度は空間的な横の方向へ並列して俯瞰するようになる、というアイディアを昨日考えてみました。と、書いてしまうと理屈っぽいのですが、息子のウルトラマンの楽しみ方からヒントを得たアイディアです。その考えをさらにすすめてみたのですが、情報というのは鮮度やクオリティも重要だけれど、圧倒的な量も重要になるのではないでしょうか。つまりひとつのキラーコンテンツより、高レベルや低レベルを含めて雑多だけれど大量のアーカイブのほうが優れている、という仮説です。

かなり前になりますが、あるWeb系のセミナーで、コンテンツの構造は三角形のツリー構造よりも逆三角形の構造として考えた方がいい、というようなことが提示されていました。通常は、トップページから必要なページを辿るような構造になっているけれど、SEOが進むと、検索エンジンによってダイレクトに検索結果に表示されたページをクリックするようになる。したがって、コンテンツの下位に存在する個々のページが、訪問者が最初に訪れるページになるということです。つまり企業のサイトであれば、企業名や全体像をあらわしたコンテンツよりも、製品やキーワード解説などのページをダイレクトにみることもある。業界用語集やFAQなどを備えたサイトも多くありますが、それも多様な網を投げておくという意味ではよいのではないでしょうか。

ブログに関してもそうですが、引用元(リファラー)をみると、必ずしも最新のページのキーワードから訪問しているわけではないようです。過去に書いた記事のキーワードからページにやってきているひとも多い。ぼくのブログでも、本文で展開しているテーマとは関係なく、年間本100冊+映画100本というパーソナルプロジェクトを進行中で、そのレビューをコラム的に挿入しているのですが、そちらをみていただいて、あらためて本文に関心をもっていただくような方も多いようです。そんな風にして、引き出しが多いことが訪問者を増やすきっかけづくりには効果的かもしれません。ただし、あまりにも関係のない引き出しを作ってしまうと、そのサイトの文脈とはかけ離れた趣向のひとが集まってしまう。キーワードの区切り方にも影響するかもしれませんが、たとえば「プロモーション」の「プロ」のところで検索してやってくる専門的な知識を求めている方もいるわけです。それはそれで偶然の出会いがあって面白いのですが。

この偶然の出会いというのが、茂木健一郎さんの著作にもよく出てくるセレンディピティと呼ばれるものでしょう。コンテンツの量を増やせば、セレンディピティも増える。きっかけとしてやってくるひとは点としてのページを閲覧する訪問者であっても、その訪問先に満足したり関心を持てば、別のコンテンツを読むようになります。ということは、量を増やせといっても実は次のページを読ませるためのクオリティの充実も求められるわけで、ひとつひとつのコンテンツについて手を抜くことはできない。とはいえ、情報発信者が設計や意図をしなかった偶然が生まれることが、インターネットの面白さでもあります(設計や意図しなかった問題が生まれることもありますけれど)。

企業のサイトに関していうと、量を増やそうといってもなかなか難しいこともあります。しかし、歴史のある会社であれば、過去に蓄積してきた経緯というのは十分にコンテンツになり得る気がします。一般に略歴のようなかたちで年表化してしまうことが多いようですが、それぞれの時代にやってきたことを個別のコンテンツとして成立させると、それだけで量は充実する。新しいものばかりに目がいきがちですが、古い情報のアーカイブもひょっとすると新しい情報以上に重宝されるかもしれません。

企業や個人のどちらにおいても、つらかった時代、失敗した時代があるものです。そのときの情報を掲載しておくことによって弱みにつけこまれるような場合もあり、あえて掲載しない判断もあるかもしれません。しかし、そのマイナス面から逆に共感を得られることもあります。BtoBのコミュニケーションについてはまた別途考察したいと思っているのですが、法人と個人は異なる部分もあり、一概にすべて掲載すればよいわけではありません。といっても、よい情報だけでなくあまりよくない情報も網羅すること、構造的に完璧なものではなくて遊びの部分が残っていること、つまり量が豊富といっても画一的な内容ではなく多様性に富んでいることが重要ではないか、と考えました。

個人的に趣味でmuzieでDTMによって制作した音楽を公開しているのですが、コンテンツが一定量を超えたときに、過去の作品についてのダウンロードも増えてきました。あっちはいいけどこっちはいまいちだな、のように比較できることが、訪問者の楽しみを増やすのではないでしょうか。よく言われることですが、価格.comなどの比較サイトも情報に辿り付くまでの楽しみを提供しています。そのためには、やはり比較対象が大量である必要があり、その大量の情報からみつけだすことが重要です。これは息子のトレーディングカードをみていても感じられることです。レアカードも大事だけれど、それ一枚を持っているより、たくさんの種類を組み合わせたりして遊ぶほうが楽しそうです。

ダイバーシティ(多様性)という言葉を取り上げて、組織のなかの多様性の容認について以前書いてみたことがありますが、自分のなかの多様性というのはなかなか難しいものです。アイデンティティというように、統合されていることがよいと思われているのですが、キラーコンテンツ的な売りがなかったとしても、なんだかとりとめもないけど面白そう、という方向性も十分に個性になる気がしました。

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2006年3月21日

映画 ウルトラマンティガ・ウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦

▽cinema06-024:空想と現実のあいだで。

B002MH1AOO映画 ウルトラマンティガ・ウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦 [DVD]
バンダイビジュアル 2010-01-27

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ティガもダイナもガイアも出てくるという、これでもかという作品ですが、うちの9歳の長男はいたく気に入ったようで2回も観ていました。というのも、物語の上手さにあるような気もします。不思議な赤い球を手にすることで、主人公の少年たちはその願いを現実化することができるようになる。そこで、空想の世界であるガイアを現実世界に呼び出すわけです。この映画自体が空想の世界といえばそうなのですが、空想のなかの世界でまた入れ子構造の空想の世界が現実化され、ガイアに変身する隊員は戸惑ったりもする。大人の目からみると、こういうのあり?という苦笑気味な展開なのですが、よく考えてみると、少年時代には空想も現実の一部でした。サンタクロースを信じるような確かさで、ウルトラマンも信じていたかもしれない(もちろんどこか特撮でしょ、と冷めた気持ちもあったことは確かですが)。そしてただのヒーロー映画ではなく、日々の生活で言いたいことも言えずに勇気の出ない少年が異次元からの転校生の少女に恋する、世界を守るために勇気を出す、という物語が秀逸だったのだと思います。思えば「時をかける少女」など、NHKの少年ドラマシリーズには夢中になったものです(あ、年齢が)。そしてあの物語のなかでも、いっしょに過ごした記憶が消えてしまうことが、ある種の切なさをもって心に残ったものでした。ジュブナイル的な物語のツボを押さえたよい作品だと思います。3月21日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(21/100冊+24/100本)

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ミレニアル的な視点。

おやすみ、と言うなり3分もたたないうちにぐーぐー眠ってしまった息子(長男)に、こいつしあわせなやつだなあと半分あきれながら、ブログを書くために起き上がり、パソコンに向っています。朝早くから昨日借りてきたウルトラマンのDVDを観て、喘息で入院している次男の病院にお見舞いに行ってきた彼は、たぶんとても疲れたんだと思う。というぼくも疲れ果ててしまい、夕食後には、息子のご機嫌をとることすらできませんでした。息子とふたりで暮らす日々は楽しい反面なかなかしんどいものです(それは息子もそう感じているんだろうけど)。

ところで、今日の朝に息子といっしょに観たウルトラマンの映画は「ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ ウルトラマンガイア 超時空の大決戦」という1999年の作品でした。メインとなるのはガイアなのですが、ピンチになってティガとダイナも応援に駆けつける。つまり怪獣を相手にウルトラマンが3人も並ぶわけです。そこでぼくが感じたことは、これは誰が誰だかわからないよ、ということでした。ということを息子に言うと、馬鹿にされちゃうのですが。

初代ウルトラマンと次のウルトラセブンは明確に違います。丸い目をしてつるりとした卵形の顔のウルトラマンと、眼鏡をかけてモヒカンのようなアイスラッガーを頭にのせているセブンはぜんぜん違う。別物です。しかしながら、ウルトラマンもシリーズ化するうちに差異化が難しくなってしまったのではないでしょうか。あっちにツノをつけたり、変身後にさらに別タイプに変身できるようにしたり、いろいろな工夫が凝らされるようになっていった。ガイアとティガとダイナの違いというのは、側頭部の切れ込みが若干異なったり、全身の模様が異なったりという細部の特長になるのですが、子供たちのように一生懸命みているわけじゃないぼくには、その違いがわからない。今後、ウルトラシリーズで細部の特長から差異化したモデルがどんどん増えていくとすると、息子たちが大人になって子供(ぼくにとっては孫か)ができた頃には、どうなっているんだろう?と思いました。

ということを考えながら、無理やりこじつけて面白いな、と感じたのですが、インターネットを取り巻く現象も似ているような気がします。ロングテールと呼ばれる少数ユーザーによって支持される圧倒的多数の商品やサイト、という現象も似ているのではないでしょうか。最初は、有名なサイトが登場する。そしてその後、そのモデルを借りて細部を差別化したサイトなどが派生的に増えていく。ポータルサイトの登場時にもそうだったと思います。また、グーグルとヤフーという2つの企業が現在では中心になっていますが、今後は対抗する企業、亜流的な企業も含めて、そのモデルがさらに多様化していくのではないでしょうか。ロングテールの長いしっぽの部分にある作品やブログというのは、基本的にクオリティやコンテンツも似通ってくる。ただ、部分的な表現や内容の差別化になってくるのではないか、と。

ある現象の進化が落ち着き、進化の速度が止まって状況が成熟すると、その進化の流れにあったすべての現象を同時にみることができる時代がやってくるのではないか、ということも考えました。つまり、進化の過程では、それぞれ個別のストーリーを中心にみている。ウルトラマンに例えるならば、ウルトラマン、セブンの連続した番組をみているわけです。けれども、息子のウルトラマンに対する接し方でびっくりするのは、20数人いるウルトラマンの物語(と登場する怪獣、必殺技など)をすべて同時に並行して把握していることでした。ティガとガイアの番組で、かっこいい怪獣の回をつまみながら同時にみることもある。ゴモラなどの伝統的な怪獣は何度も登場するし、タイラントのように過去出現した怪獣を合成した怪獣(マッシュアップ怪獣といったところでしょうか)も出てくる。それを比較並列的に把握しているわけです。これから放映する新しいウルトラマンの番組にも関心がありますが、アーカイブされた過去の作品に出てきた怪獣などに対する関心のほうが強いようです。というよりも、絶対的に過去の作品の怪獣のほうが種類も数も多いからかもしれないのですが。

ウルトラマンの過去の歴史とバリエーションを俯瞰している、ということかもしれません。俯瞰しながら、実はデータベース的に知識を蓄積しているので、実はぼくなんかよりも怪獣について詳しい。広く浅くと言うわけではなくて、知識の深さもある。ぼく自身が子供の頃に同時代的に番組をみてきたはずの怪獣について、え?こいつはそういう怪獣だったのか?という斬新な知識を息子から学ぶことがあります。

普遍的な法則として考えてみると、特定のジャンルが成熟すると、個々はより細部の差異が求められる、ということかもしれません。最初に登場したモデルはシンプルでわかりやすいものがいい。というのは、他に似たモデルがないからです。けれども、モデルが進化し成熟していくと、複雑化して(それこそウルトラマンの胸の一本線が違うだけで別のものになるように)細部が重要な差別化のポイントになる。インターネットのサイトやブログも、進化の段階では大きな差別化ができますが、成熟してしまうと、ほんとうに細部の工夫などによってしか差別化できないような気がしました。

息子の話に戻るのですが、もしかするとまったくぼくらとは違った情報能力を持った子供たちが育ちつつあるのではないか、とちょっと怖くもなります。インターネットによる情報収集や新しいコミュニケーションを当然として受け入れて育つ子供たちを、ミレニアル世代というようです。彼らにとっては、現在だけでなく過去の系譜をすべて同時に把握できるような情報感度を備えているんじゃないか。そうなってくると、古い作品をノスタルジーをもってみるのではなく、逆に新しい作品のひとつとして観ることにもなります。次にはじまるウルトラマンメビウスも、ティガもガイアも並列的にとらえている。価値判断があるとすると、歴史的な価値より、かっこよさ、でしょうか。

なにしろ3歳の次男が大好きな怪獣は、エレキングです。ええっと思いました。エレキングは1967年にウルトラセブンに登場した怪獣です。なぜ最近の作品の怪獣ではなく、エレキングなんだ、とちょっと納得がいかない。それだけエレキングの怪獣としてのデザインが優れていて魅力的だったのかもしれませんが、これでは新しい怪獣を生み出すのも難しいだろうな、という気がしました。むしろ、過去の怪獣を使いまわしつつ、リニューアルなりマッシュアップ的に怪獣の素材を組み替えていったほうがいい。

話が飛躍しますが、たとえば本であれば、図書館に置かれた古くて色あせた本は、ああこれは古いものなんだな、と思う。けれども情報をテキスト化してしまった場合には、純粋に文字情報としてのテキストがあるだけで、紙がもっていた質感などは失われてしまいます。保存されたファイルのプロパティをみなければ、情報が古いかどうか判別できないかもしれない。そうすると、逆にどんなに古い時代のものであっても新しいものとして受け入れられる。アーカイブされたものだとしても、情報が優れたものであれば、他の情報に淘汰されてしまうのではなく、時代を超えて生き残るものかもしれません。

ブログを書きながら、何かヒントをつかんだような気がしています。しかしながら、アイディアが散漫になり(というか生活にくたびれちゃって)、きちんと書けていません。範列と統辞という記号論的な考え方も考慮しつつ、子供たちと遊んでいるなかで気付いたこともメモしながら、情報の在り方についての考察は、継続してもう少し考えていきたいと思っています。

ちなみに小田急線の祖師ヶ谷大蔵では、商店街の名前がウルトラマン商店街に変わり、駅前にウルトラマンの像ができました。地味なわかりにくい場所にあるのですが、ウルトラマンの前で待ち合わせね、というようなひとが増えるのでしょうか。

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2006年3月20日

生活に追われる。

強風が吹き荒れた昨日とはうって変わって、ぽかぽかした一日でした。会社はお休みをいただき、喘息の次男が帰ってきたときのためにハウスダスト撲滅として、布団を干したり、カーペットを替えたり(これがひとりでやると結構大変)しました。長男を小学校に迎えに行ったり、寂しそうにコナンを全巻読破しはじめようとしちゃった彼の遊びにつきあってあげたり、夕飯にカレーを作ろうとチャレンジして失敗したり(それでも空腹の長男は全部たいらげてくれた)、そんな感じで一日があっという間に過ぎました。

生活に追いまくられている気がします。ビデオレンタルで借りてきた映画2本も、日曜日までに観る予定が結局観ることができず、延滞までして返しに行ったのですが、なんとなく未練があったのでさらに1週間同じものを借りることにしました。そういえば読みかけの本も開いていません。趣味の音楽も、いまひとつ中断気味です。そして、仕事に関することや思考を深めていくためのこのブログも、くたびれちゃって書けない。なんだか腰抜けな状態にあります。ほんとうは、そういう状態にありながらも、仕事も趣味もがんばるのがいいのでしょう。

でも、そんなに気負わなくてもいいかな、と思っています。

瑣末な生活の時間のあいだで、空ばっかり見ているような気がします。小学校で長男を待っている間に雲がきれいだなと思ったり、洗濯物を取り込むときに夕焼けだと思ったり、夜中に長男といっしょにビデオレンタルショップに行くときに息子から3つ並んでいる星がみえることを教えられたり。

きっとまた徹夜で仕事をしなければならない時期は来るだろうし、いままで仕事ばっかりしていた時期もあったわけで、こういう時間というのも決して無駄ではない。仕事はどうなるんだろうと将来に対する不安がじわじわと感じられたりするのですが、そんな不安は一生なくならないと思う。その不安に付き合っていくしかありません。実は3月のお休みを利用して田舎に帰ったり、長男と映画を観にいったりるする計画もあって、それらは全部潰れてしまったのですが、だからといって過ごせなかった時間を悔やんでも仕方がないことです。やりたい趣味もできないけれど、また趣味に没頭できる時期はくる。目の前にないものにあれこれ焦ったり悩んだりするより、いまを十分に生きることが大切なんだと思います。

昨日、ぼくが病院で喘息の次男を抱っこして帰ったあと、次男は急に元気が出て、おやつもしっかり食べるようになったらしい。とりあえず安心しました。これは勝手な思い込みかもしれないけれど、ぼくはこの次男となんだか波長が合う。もちろん長男もぼくの遺伝子を受け継いでいるので、ああその行動はわかるな、という部分があるのだけど、ぼくも長男であるせいか、長男には遺伝子的に受け渡した性格のマイナス面ばかりがどうしても気になってしまう。ところが次男に関しては、何かを面白いと思うツボや腹を立てたりするポイントというのが自分にそっくりです。そんなわけで次男を抱っこすると波長がシンクロしてお互いに癒されてしまうせいか、ふたりでぐーっと眠ってしまったりする。

病院で次男に付き添っている奥さんも睡眠不足で大変なようですが、この大変さも今週いっぱいぐらいだろうな、という感じです。

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2006年3月19日

しぼんだ風船。

喘息の発作を起こして入院した3歳の息子(次男)ですが、土曜日に一日会わずに今日病院に会いに行ってみると、痩せてしまって顔がずいぶんほっそりして、目ばっかり大きくなっていました。咳が止まらないので、ゆっくり眠ることもできないし、まったく食事もとっていないらしい。9歳の兄よりも食べる3歳児なのに食事もとっていないとのこと。衰弱してしまって、心配です。数時間、奥さんと交代して病院で抱っこしていたのですが、ほとんど何も喋らず動こうともしない。背中をとんとんと叩いてやると、それが気持ちよかったらしく、うとうととしては目覚める。ものすごくだるそうでした。鼻に送り込む酸素の管や、点滴の管や、体内の酸素をはかる機材の管など、いろんな管につながれていて、これでは身動きも取れないだろうなと思う。はやくよくなってほしいものです。

あらためて喘息についてインターネットを使って調べてみたのですが、喘息というと、咳のひどいものぐらいにしか考えていなかったのですが、理解がぜんぜん足りなかったようです。発作が起きると咳き込むよりも、とにかくだるくて言葉も喋らないし何もできないような状態のひともいるらしい。以前にも書いたのですが、ぼくは最近では「モーターサイクル・ダイアリーズ」というチェ・ゲバラを描いた映画のなかで、若い日のチェ・ゲバラが喘息もちであり、その発作の苦しさというのが描かれていて、喘息とはこういうものかと思いました。しかし、まさか自分の息子がなるとは思っていなかった。喘息と診断されたときには、これって喘息?という感じでした。もちろんまだ話ができない年齢ということもあるのですが、そんなに咳をしているわけでもなく、どちらかというと腹痛系の何かという気がした。病気への理解というのは、なかなか難しいものです。

ところで家では、子供(長男)とふたり暮らしの状態です。終日病院で付っきりの看護をしなければならなくなった奥さんも大変ですが、親子とはいえ、いきなりふたりで生活しはじめると、戸惑いもあったり気遣いもあったりして、こちらもなかなか大変。長男を連れて病院に行ってきたのですが、12歳より下の子供は病室には入ってはいけないので、ガラス越しの対面となりました。ガラスに鼻を押し付けて笑わそうとする長男と、やっぱり元気がなくてそれを笑うこともできずにじーっとみている次男という兄弟の構図が、なんだか寂しかった。

うちの家族の場合、4人から2人+2人に分割されたことになりますが、構成要因が少なくなると、それぞれの責任や分担は増加する。知らないうちに、夫の役割、妻の役割、兄としての子供の役割、弟としての子供の役割、というものがあったらしく、しかもそれが相補的に成立していたようでした。とかなんとか、難しいことを書いてしまいましたが、要するに家族というのは支え合っていた、ということです。これは別に家族に限らず、人間と人間で成り立っている社会はみんな同じかもしれません。

あまり興味本位に書くべきではないと思うし、こういうことを書いていいのか若干迷いもするのですが、病室で隣のベットの子供は、言葉もうまく喋ることができず、足首もかわいそうになるぐらいに細い。たぶんうちの長男とあまり変わらない年齢じゃないかと思うのですが、赤ん坊のようにしかみえません。けれども、その母親は、ほんとうに優しく話しかけたり抱いてあげたり、頭を撫でてあげたりしていました。ずいぶん長いあいだ入院しているのだろうと思います。きっと数日間の入院だけのぼくにはわからない大変さがあるのでしょう。しかしながら、子供に接するその姿は、ほんとうにみていて感動的でした。母親というのは、すごいなと思った。先日、同僚から心臓を患った子供のための募金があることを教えてもらいました。世のなかには、そんな風にして闘病生活を送っている親子がたくさんいます。健康であると気付かないことも多いのですが、入院してはじめてそんなことにも気付く。がんばってほしいです。

なんとなく家族全体がしぼんだ風船のようになっています。笑わせようとしたり、盛り上げようとしたりするけれど、しぼんだ風船を膨らませるには、まず病気をきちんと治すことが大事かもしれません。

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2006年3月18日

病院というお仕事。

木曜日の深夜に喘息の発作を起こした3歳の次男は、思いのほか容態が悪かったようでした。吸入やステロイドの薬を使って一度帰宅したものの、やはり夜の間ずっと苦しみつづけ、明け方にふたたび小児科専門病院の救急センターへ。そのまま入院となりました。とはいえ、はじめて入院させたときに比べると、こちらの意識もかなり慣れてきたので、いろんな面で落ち着いて行動できたような気がします。

病院に行っていつも思うことは、医師と看護婦というお仕事は大変だけれどもとても大事な仕事だということです。ひとの命を守る仕事ということもあるのですが、まず夜の間、ずっと働いているというだけでも頭が下がります。さらに子供が相手であれば、泣いたり暴れたりわめいたり、ほんとうに体力勝負になる。うちの次男なんか特に太い足と腕で暴れまくるので、みていてほんとうにしんどいものがある。一方で親の方も疲れがたまっているため、ちょっとした対応でかちんときたりもする。そのあたりのケアも重要になります。

病状の説明に関しても、患者の親としては、その言葉のひとつひとつに過敏に反応してしまうものです。昨年の10月頃にはじめて喘息の発作で病院を訪れたときには、お腹を痛がっているようだったので、お腹の病気じゃないか、と医師に説明したところ、腸重積かもしれないが、それほどひどくないので一度帰っても大丈夫です、と診断をいただきました。よくわからないけれど、なんとなく病気の名前を聞いてほっとして帰ったのですが、インターネットで調べたらそれほど安心できる病気ではないことを知って逆に焦ったことがありました。

病名を教えていただけることはありがたいのですが、一方で余計な情報を勝手に収集していしまうことにもなります。一方で、あまりにも曖昧な診断であると納得もいかない。この微妙な部分をうまく説明していただけるお医者さんというのが理想的です。治療という技術面だけでなく、コミュニケーション面においてもなかなか難しいお仕事です。

ほんとうにやわらかい感じでやさしいお医者さんもいれば、無愛想で訥々としたしゃべり方だけれど信頼できるお医者さんもいる。お医者さんにも個性があります。けれども、お医者さん共有の何かしらオーラのようなものというのはある気がする。

ところで、数日で退院と思われていたのですが、1週間はかかるらしいということを今日聞きました。喘息の発作を起こし昨年の秋から、少しずつなんとかしなければと思っていたのですが、徹底しなかったことも多かった。反省しています。この休みの間に、まずハウスダストをなくすように徹底的に掃除をしたり、喘息についてきちんと対策を練ろうと思っています。

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2006年3月17日

隔たれた溝の向こう側へ。

昨日、ストリートミュージシャンとして、スタジオではなく路上を表現の場として活動しているひとたちについて書いたのですが、そもそも街頭演説などの歴史を考えると、路上で演奏するスタイルは特に新しいものではないかもしれません。けれどもその境界のなさが、逆にぼくにはあらためてインターネット的な在り方を思わせました。つまり本来であれば音楽はライブハウスで演奏するものであり、路上は通行するものです。その閉ざされた空間と開かれた空間が交錯している。

雑誌などでもよく言われることですが、電車のなかで化粧をしている女性については、個人のスペースと公共のスペースの境界がなくなっているということもよく言われることです。そのことについて、最近読んだ山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室。」にも書かれていました。はるみさんという方からの「都市にひとがいなくなる」というメールを引用しつつ考察を加えているのですが、電車のなかで化粧をする女性は、他人から見られているという意識がない。つまり、他者の存在を消してしまっている。コミュニケーションする相手を見ない、聞かない、と外部をシャットアウトするわけです。あるいはサヴァイヴァル的な観点から、「見たいモノだけを見る」という「セレクティブ・ビジョン」という考え方も引用されていました。一方で、他者だけでなく自分も消してしまうことも多い。そのことを「一人称がいない」と表現されています。

表現か、自己満足か、という境界は、自分はもちろん他者をきちんと存在させることができるかどうか、という点にポイントがあるような気がしました。引用や抽象的な言葉、専門用語は自分の存在を消し去るのには優れています。しかしながらそういうものを散りばめすぎると、そのひとがみえてこない。

書いたものが力を持つためには、もちろん一般的や抽象的な考えばかりではなくて、そのひと個人の何かを発動させる必要があるのではないか、とぼくは考えてきました。個人のなかでもいちばんわかりやすのが情動的な部分です。感情にまかせて書いた文章がいちばん力がある。あるいはプライベートなできごとを綴ったときにリアリティが生まれる。しかしながら、たとえばネガティブな感情が特定個人や団体に向った場合には、誹謗中傷としてのキケンを孕むことになります。何でも書けるのだけれど、抑制すべきポイントはいくつかあります。

他人の書いたものを読む状態から自分で書く状態に移行するというのは、実は大きな溝があって、そこを乗り越えるのがまず困難です。そして、その溝を乗り越えてしまうと、書くことの地平はものすごく広がる。社会について、自分の好きなことについて、何でも書くことができる。広がるのだけれど、実はその先にはまた大きな溝があります。

路上で声を張り上げてみても、多くのひとは立ち止まってくれない。けれども、立ち止まって思わず聞いてしまう声もあります。次に声を聞いたときにじっくり聞いてみようと思うこともあるものです。ブログも同じで、流行に合ったキーワードや辛辣な批判で一時的に足を止めることはできるけれど、そうしたうわべの言葉だけでは大きな溝の向こう側には行くことができません。とても難しいのですが、最終的には人間性に辿りつくような気もしました。

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2006年3月16日

弾き語る、自分を表現する。

人間の表現力というのはすごいな、と思っています。そして表現できる人間というのは、やっぱりすごい。インターネットでブログを書いているひともそうだし、アマチュアの方の音楽作品をダウンロードして聴いてもそう思う。そして、リアルな場所で演奏できるひとには圧倒的な存在感があります。

昨日は、ライブの告知をいただき、仕事場からも近かったため、四谷天窓.comfortというところでピアノの弾き語りを聴いてきました。以前、このブログでも紹介したことがある藤田麻衣子さんをはじめ、川崎萌さん、山本さくらさんという3人の方の「カントリーガール」という企画的なライブでした。

四谷天窓というライブスペースがあることは以前から知っていて、しかも仕事場からすぐ近いので気にはなっていたのですが、今回行ってみて、とてもよい雰囲気だなあと思いました。ところで階段を登りながら、FOURVALLEYの文字をみて懐かった。これもまた知らずに行ったのですが、天窓はFOURVALLEYの系列のライブスペースらしい。FOURVALLEYというのは、そのまま和訳して四谷なんだけれど、かつて大学の先輩たちと社会人バンドを組んでいたとき、ここで演奏をしたことがあります。ぼくはベースで、しかしながらものすごく下手で演奏に余裕がなさすぎだったのですが、男3人のギター、ベース、ドラムという最小編成で、ギターを弾いている先輩のオリジナルを5曲ほど演奏しました。当時はへフナーをまだ持っていなかったので、フェンダーのセミアコのプレシジョンベースを弾いていた気がします(そのベースは部屋の片隅でケースに入ったまま埃に埋もれている)。

と、ちょっと回想が長くなりましたが、ちいさなライブスペースではあるのですが、四谷天窓.comfortには50人ぐらいのひとがぎっしりと入っていました。基本的にはグランドピアノとマイクが置かれているだけなのですが、2方向ぐらいからカメラで映像を撮ってプロジェクターで投影もしている。フェードインなどのエフェクトもさりげなくかけていた気がします。DVD制作などもしているようですが、このままインターネットでライブできるといいなあ、とも思いました(もしかしたらできるのかもしれない)。

このところほとんどライブハウスに行っていなかったのですが、まずやはり生のピアノの音、人間の(というと変なのですが)歌声の表現力、存在感もしくは質感は違うなあ、圧倒的だ、という冒頭の感想を得たわけです。ぼくは打ち込みで曲を作ったりもして、Vocaloid MEIKOという拝郷メイコさんというシンガーの歌声を解析した合成音声ソフトウェアに歌わせてインターネットで公開しているけれど、リアルの歌とピアノは別物だ、という当たり前の衝撃を得ました。これはかなわない。同じことをやろうとしても無理です。何が無理かというと、同じひとりのひとの声であっても、その表現はものすごい幅がある。かすれたように歌うとき、強く発声するときなど、それはデジタルな打ち込みでパラメーターを設定して表現できる世界ではない。そしてピアノと歌という同じ構成であっても、演奏するひとによってまったく別の世界観をつくることができるものだな、と。

イメージですが、川崎さんは声のかすれ具合といい、草原を渡っていく風、という感じがする。同じ静岡県人なので同郷の親近感もあり、静岡県人らしい(というのも変ですが)やさしさとあたたかみがある曲調でした。一方で、藤田麻衣子さんは声は繊細でかわいいのですが、その歌っている世界とピアノに意思がある。書かれたものを読んでいても思うのだけど、実は強い意志のあるひとじゃないかと思います。それが演奏からも伝わってきて、かなり感情を揺さぶる。これがいいです。山本さくらさんは、さすがバンドをやっていただけあって、自己主張する輪郭のはっきりしたピアノを弾きます。ツアーしながら演奏しているそうですが、筋金入り(は失礼でしょうか)という感じがしました。

カントリーガールという企画なので、静岡出身(川崎さん)、名古屋出身(藤田さん)、北海道出身(山本さん)という地方の話も交えての演奏だったのですが、曲としても川崎さんの「ここではないどこかへ」や藤田麻衣子さんの「新しい世界」のように地方からトウキョーに出てきたときなどの気持ちを歌った曲が印象に残りました。考えてみると、そんな気持ちからずいぶん遠ざかっています。

それにしても、たとえば50人の前で50分間だけ自分について語ってみろ、と言われてもまずできません。曲と曲の間に入るお話も含めて、自作の曲を弾き語りするというのは、それに近いものがあります。まったく単純なことで恥ずかしいけれど、両手でピアノを弾きながら歌いつつ、お客さんの方に向ってにこっと笑えるということ。この当たり前のようにやっているライブパフォーマンスに、あらためてすごいなと思いました。

そして、このひとたちの演奏する曲とプロの曲はどう違うんだろう、という疑問も感じる。もちろん曲によって完成度にばらつきはあるかもしれないけれど、完成度の高い曲はラジオで流れていてもおかしくない。しかしながら、これはシロウトのぼくの感覚であって、ぼくには0.1ぐらいの差しかないと思うものがプロの目からみると100ぐらいの隔たりがあるのかもしれません。それがプロの世界なのでしょう。きちんとやろうとすると甘くはないのでしょうね。

実はライブのスケジュールをみると、こういうひとたちがたくさんいる。インターネットによって表現する場は増えたと思うのですが、昔から歌いたい、演奏したい、アーティストになりたいひとはたくさんいました。うちの近くの駅でも最近になって路上で演奏しているひとが出てきましたが、若干変わった見方をしてみると、ストリートミュージシャンは路上をインターネット的な表現の場に使っているともいえる。座り込んでじっくり聴いている取り巻きのようなひともいるけれど、通りすがりのひともいる。これもインターネットと同じです。場所の境界をなくすことが、インターネット的な社会の在り方かもしれません。

ところで、通り過ぎてしまうけれど、ひょっとしたら次の世代の名曲を生み出すようなアーティストがいるかもしれない。がしゃがしゃとうるさい曲ばかりのように聴こえるけれど、もしかするとノイズばかりではなかったりもする。

ときどきは耳を澄ましてみよう、と思いました。

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■四谷天窓.comfortはピアノラウンジです。男性のピアノ弾き語りというのも聴いてみたい。あと、ギターの弾き語りも聴いてみたいですね。若林哲平さんという方が、いいと思っています。時間がなくてライブに行けないのですが、手作りの自作曲CDをわざわざ送ってもらったことがあります。これが泣けた。
http://www.fourvalley.co.jp/tenmado/comfort/

■muzieで藤田麻衣子さんの「恋に落ちて」を聴くことができます。
http://www.muzie.co.jp/cgi-bin/artist.cgi?id=a034234

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2006年3月15日

みること、対象をずらす手法。

写真を掲載しているブログをいくつか拝見することがあるのですが、うまいなあと思うのは、写真としての風景の切り取り方です。先日、範列(パラディググム)という記号論の言葉を思い出してメモを書いてみたのですが、複数の写真が掲載されているのであれば、読んでいるぼくらとしては、どうしても切り取られた写真と写真をつないで物語を構成したくなる。ぼくらの頭脳は、情報をつなげたがる傾向にあるようです。

また、人生のかなしみなどかなり突っ込んだテーマのハードな文章を書きつつ青空や海の写真を掲載しているひともいるのですが、テキストが表わそうとしている意味とビジュアルで表現されている意味が組み合わさると、ものすごく象徴的な世界が広がる。この異質なものの組み合わせ方も面白いと思いました。現実の風景を切り取ってその風景についてテキストを書く場合にはジャーナリスティックな広がりがあります。一方で、カット的に写真を利用する場合には、ブンガク的な広がりが生まれるものかもしれません。

夏目漱石に「文学論」という理論書があります。このなかに、ものをみるとはどういうことなのか、ひとが何か対象に視線をフォーカスするとはどういうことか、という考察があったような気がします。そして、この理論を実践したものとして「草枕」という小説があったのではないか。「草枕」の主人公は、画工です。つまり現実の対象をみるひとである。しかしながら、この画工は一枚として絵を完成させられません。絵としては完成できないけれども、いろんなものをみている。

ぼくの父親は国語の教師だったので、家の書斎は壁一面が文学全集で埋めつくされていました。そのなかには漱石全集もありました。やはり父の影響で、ぼくも社会人になったら全集を買おう、と思っていて、御茶ノ水の丸善に注文して漱石全集を購入。いま書斎(といえるかどうか)にあります。この漱石全集購入にあたっては勝手に注文して奥さんからひどく叱られたことを覚えているのですが、思い切って買っておいてよかったなと思います。そんなわけで「文学論」も手元にあり、もう一度読み直してみようとも考えたのですが、実は自分のなかでは漱石を分析するのは仕事をリタイアしてからの楽しみに取っておこう的な思惑もあります。そこで、なんとなく手が伸ばせずにいます。ちなみに、ぼくの父が亡くなる寸前には漱石の「硝子戸の中」を読んでいたようでした。この作品については何か論じるつもりです。

と、道草をしましたが、表現において対象と表現をずらすのはどういうことか、ということを考えたとき、暗喩(メタファー:metaphor)、換喩(メトニミー:metomyny)、提喩(シネクドク:synecdoche)なんてものがあったことを思い出しました。いわゆるレトリック、といわれるものです。きちんと調べていないのですが、ローマン・ヤコブソンあたりの言語学者が提唱していた考え方かもしれません。文学的な表現の模索に入り込んでしまいそうですが、ちょっと客観的にひいてみると、思考の訓練として発想法にも使えそうです。

たとえば酒をめぐる表現で、レトリックを考えてみると次のようになります。

暗喩(メタファー)というのは、「酒は人生の薬だ」というような表現です。これが、「酒は人生の薬のようである」と言ったときには直喩になります。これって人生みたいな?という語尾を上げる表現がかつてありましたが、直喩的な結びつきによって断言するのをやわらげていたような気もします。

換喩(メトニミー)は、時間や空間による隣接性で対象を置き換えることです。「ボトルを入れてくれ」といったとき、ボトルは酒の容器ですが、容器を酒と置き換えています。このとき空き瓶を入れるようなことはないでしょう。

提喩(シネクドク)は、全体を部分、もしくは部分を全体で表すことでしょうか。バーに入って「何か飲みものを」というとき、飲み物は酒なのですが、飲み物というカテゴリー全体によって酒を表しています。まさかそこでミルクが出てくるとは思わない。

と、考えていて気付いた当たり前のことではあるのですが、お笑いというのは高度なレトリックによる芸能です。つまり表現している対象を意図的にずらしてしまう。これらのレトリックは、現前にない抽象的な概念も含めて、どこに視線をもっていくか、という視線の位置づけが重要になるのではないでしょうか。直接言い切ってしまうのではなくて、ちょっとずらしてみる。このとき表現が豊かになるような気がしました。また、どんな表現があるか、時間的もしくは空間的に思考の幅を広げることでもあります。

レトリックを含めて表現方法については、中長期的に調べたり考えたりしていこうと思います。

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2006年3月14日

言葉の力。

こんなロングテールの先っぽの辺鄙な場所でこつこつとブログを書いていても誰もみないだろう、と思っていたところ、そうでもなかったようです。きちんと言葉は届いていたようでした。ちいさな石であっても、池に落とせば波紋は大きく広がるものです。あらためて言葉の力というものを感じました。

たとえば一般論ですが、権威的なもの(企業や団体)に対して批判的な何かを提示したとき、「そんなこと言うなら解雇するぞ」とか「もし業界で仕事をしたいなら名前を変えた方がいい。おまえが仕事できないようにしてやる」とか「閑職に追いやる」などのように脅しをかけられることはよくあることです。それはそれでネタとしては面白いので、そういう状況に陥ったときの推移をブログで中継するのもなかなか興味深いかもしれません。

ペンという武器を持っていて、ブログという盾を使って身を守ろうとしても、現実には、ひとというのは権威的なものに対してものすごく弱いものです。きっと権威的なものに対しては言いたいことも言えずに屈してしまうか、そのプレッシャーに負けてしまうでしょう。ただ、ハードボイルド的ではあるのですが、どんなにめちゃめちゃで間違っていたとしても、言いたいことは言っていたいと思います。もちろん言葉として発するまでには熟考に熟考を重ね、ほんとうに言うべきかを慎重に判断した上で言葉にしたい。ついでに、ブログに書くかどうかはともかく、です。

ちょっと批判的な文章を使っておこがましい提言をしたのですが、ぼくの場合には、提言した方と、きちんと話をすることができました。内容を理解していただいたようなので、ひとまずは安心です。というよりも、ぼくは批判するつもりはまったくなくて、肝心なところは、ぼくらの方向性をきちんとしましょう、ということを切実な願いを込めて言いたかったわけです。何度も言ってきたことだと思うのですが、どうも何にもなりませんでした。そして念のために断っておくのですが、なんとかしてください、という他力本願ではなくて、考えなければならない部分は、もちろんぼくもいっしょに考えたり行動する、という前提があります。ある意味、崖っぷちのぎりぎりのところで、変革すべきであるということを訴えたつもりでした。

書かなければいけないこと、書いてはいけないこと、などというのは、自分でも分かっているつもりです。しかしながら、書かなければ(あるいは言葉を発しなければ)何も変わらない現実と言うのもある。発しても発しても何も変わらないこともあるのですが、それはまあ仕方がないので諦めるしかない。モラルやリテラシーは重要ですが、ときにはショック療法的に発しなければならない声もあると思います。

とりあえず、体外的な体裁はともかく、今回ぼくが提言したことに対しては本心であるところを聞いていただけたのではないか、と思っています。そう信じていたい。であれば、捨て身の気持ちで書いたぼくの決意も報われるものです。それでも何も変わっていない場合には、ふたたび失望もしますが、そのときはぼくがどうするかを考えればいいだけです。変わらないものを変えようとしても、無駄な努力を重ねるだけです。

組織が腐っているね、というとき、それは自分のなかの腐っている部分を対比していることがあるかもしれません。腐っているのは組織ではなく、自分のなかにある仮想的な組織かもしれない。早い話が、おまえおかしいよ、と言ったときに、おかしいのは実は自分だったりもする。放っておくと癌細胞のように自分のこころ全体を腐ってしまう意識というものがあります。腐ってしまう種が生まれると、その周囲まで腐らせてしまうものです。

ぼくの意識のなかに、そんな種を生まないようにまずは気をつけなくては。

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2006年3月13日

多様性と正解のない世界。

春だというのに寒いなあと思っていたところ、東京ではちょっとだけ雪が降りました。ビル風に巻き上げられてふわふわ落ちてくる春の雪は、なかなか趣き深いものがありました。

ところで最近、雑誌などで、ダイバーシティ(多様性)という言葉をよく見かけます。ぼくがいままで知らなかっただけかもしれませんが、実はモバイル関連IT用語と人事労務用語と2種類があるようです。

モバイル関連IT用語の場合、ダイバーシティ(ダイバシティ)とは複数のアンテナで受信したときに電波状況のよいアンテナの信号を優先的に受信する技術のようです。一方で、人事労務用語として使う場合には、人種、性別、年齢などの制約を超えて幅広い人材活用を促進しようとする動き、とのこと。日本では特に、女性の雇用に関して注目されていて、東京電力をはじめとしてダイバーシティを推進する部署も生まれているようです。

この人事労務用語の方のダイバーシティ(多様性)について考えてみます。

女性の考え方というのは男性とは違って直感的な感覚に優れていると思うので、尊重すべきであるとぼくは思います。けれども、どちらが優位という問題ではなくて、最終的には性別や人種などの分類を超えて、マイノリティな考え方を尊重するということが重要であると考えました。という意味で、以下の「30代女性会社員の気になるニュース」の「「東横イン、従業員の95%が女性」と知って思ったこと」というエントリーに共感を得ました。年配女性には「女性がもっと増えれば日本企業はよくなる」「女性が政治リーダーになれば戦争はなくなり平和になる」という主張をするひともいるようですが、女性の観点から以下のような見解を述べています。

間違ってはいないが「女」のみを活用するという発想はやっぱり古い。おそらく大事なのは、組織にとって少数派である人の意見を取り入れることだ。そうすることで独善に陥って間違った方向に進むことを避けられる。これまで日本企業では女性が圧倒的に少数だったから、現段階では女を増やすことが最優先課題になっている組織が多い。けれど、業種や企業によっては女性職場に男性を増やしていくべきだ。

女性的な発想、男性的な発想ということがよく言われます。非常に乱暴な括り方をすると、右脳的(感覚的)=女性的、左脳的(論理的)=男性的というイメージも浮かぶのですが、実際にはそんなことはない。男性であってもしなやかな発想をするひともいれば、女性であっても逞しい論理的な発想をするひともいるものです。女性だから、男性だからと、思考の枠を作ること自体が、既にダイバーシティに反しているような気もします。けれども圧倒的な少数派であるがゆえに、日陰に追いやられてしまう考え方もある。それが間違っているかというと、そんなことはない。少数派であっても正しい。

ということを考えるようになった発端は、はてなの近藤社長の「「正しい」って何だろう」という日記を読んだからです。まず短い以下の部分を引用します。

基本的に僕は、「正しさ」には個人的なレベルと全体的なレベルの2種類があって、個人レベルでは「人々の意見は全て正しい」のだと思っています。

これはほんとうにそう思いますね。個人的には、みんな正しい。たとえば子育てひとつをとっても、何が正解というのはありません。正解だとおもって子供をやさしく育てたとしても、競争に弱い子供になってしまうこともある。一方で、じゃあ厳しくすればいいかというと、厳しさが逆にトラウマになってしまったりもする。

正解が必ずひとつある、という教育のせいかもしれません。マークシート式の問題を解くことの弊害かもしれない。といってしまうと話が大きくなりすぎるのですが、息子の勉強をみてあげているときにも、正解が複数ある問題は戸惑うようでした。正解は1つしかないと考えたほうが、きっと割り切りやすいのだと思います。

しかしながら教育も少しずつ変わってきているようで、授業参観に行ったとき、通常は2+3=?という計算問題だったと思うのですが、?+?=5という形で複数の正解がある問題を解かせていて興味深いものがありました(というより、ぼくがそういう教育を受けていなかっただけでしょうか)。

正解が複数あるような問題を解く場合、どの正解を選ぶかというと、権威的なものにも影響されやすいものです。やはり近藤社長のブログから引用です。

自分が一番知識が多いから正しいはずだ、とか、自分が一番長い時間考えたから正しいはずだ、みたいな人の話は眉に唾を塗って聞くのが良い対処法でしょう。あと、「この人の意見は必ず正しい」みたいに特定個人を神みたいに崇めるのも自分の思考が停止していて危険だと思います。「天才」とか「専門家」とか「権威ある」みたいな言葉は自分の思考にフィルターをかけるので注意が必要です。

自分の意見をきちんと述べるのはかなり難しい。近藤社長の少し前のブログにも書かれていましたが、誰かの言葉を借りて(引用して)述べた方が言いやすい。誰かの言った事だけどね、というクッションを置いてみると、なんとなく責任も回避できるし、やわらかく聞こえる。けれども、とても回りくどい気がする。

ダイバーシティ(多様性)を尊重する社会になると、いやそうじゃなくてぼくは違うことを考えたんだけど、ということがストレートに言えるようになるのでしょうか。社会のせいではなくて、単純に個人的な性格の問題かもしれない、とも思うのだけれど。

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■ダイバーシティに関する基礎知識

http://www.jinken-net.com/old/tisiki/kiso/jin/ti_0302.html

■東京電力のダイバーシティ推進室のリリース。

http://www.tepco.co.jp/cc/press/06012602-j.html

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2006年3月12日

真珠の耳飾りの少女

▽cinema06-023 :心まで描くということ。

B0001X9BLK真珠の耳飾りの少女 通常版 [DVD]
オリビア・ヘトリード
メディアファクトリー 2005-01-25

by G-Tools


画家フェルメールを描いた物語です。しかし、フェルメールの家に使用人として働くことになった貧しい少女を主人公として描かれています。最初のうちには、少女は彼の部屋の掃除をするだけだったのですが、アトリエの窓を掃除するときに「窓を拭くと光が変わってしまいますが」のようなことを言う。文字は読めなくても使用人の彼女には絵に対するセンスがあったようです。やがて、彼女は絵の具の調合などを任されるようになります。当時の絵の具は、薬品を調合して色を出していたと思うのですが、調合するシーンはアーティストというより科学者のように思えました。また、カメラ・オブスクラといって、たぶんピンホールカメラだと思うのですが、大きな箱にレンズが付けられたものを運び込んできて、少女にみせる。カメラで映し出された風景をみて「光の絵」という少女の台詞が印象的でした。雲の色は何色だ?ということをフェルメールから問われて、彼女が、白、黄色、灰色とさまざまな色を答えるシーンもよかった。やがて、使用人の少女をモデルにして、絵を描くようになります。けれどもそうすると彼の奥さんが嫉妬に狂う。さらに、子だくさんなフェルメールは生活のために絵で稼がなければならないのだけど、パトロンがスケベなおじさんで絵を描かせるからという理由で使用人の少女を狙っていたりもします。

コラボレーションというのは心のつながりがあってこそのものなので、画家とモデル/見る見られるという関係であっても、深い絆が生まれるものかもしれません。自分の絵を見せられて、「(画家は)心まで描くの?」と驚く使用人の少女の台詞もよかった。映画全体がまるで絵画のような色調でした。3月12日鑑賞。

公式サイト
http://www.gaga.ne.jp/pearl/

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(21/100冊+23/100本)

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インファナル・アフェア III 終極無間

▽cinema06-022:善とは何か。

B0009WWF3Oインファナル・アフェア III 終極無間 [DVD]
ポニーキャニオン 2005-09-21

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シリーズの3作目ですが、第1作と第2作を観たのがかなり前だったので、これはどういう設定だったっけかな、というのを理解するのにちょっと苦しみました。確か2作目ではトニー・レオンが出演していなかったので、さらに混乱した。香港マフィアと警察の戦いですが、マフィアのなかに潜入している警察官がいるとともに、警察のなかにも送り込まれているマフィアがいる。マフィアでありながら善の心を守ろうとする潜入警察官と、実はマフィアなんだけど警察のなかで葛藤に苦しむニセの警察官の対比がいいです。しかしながら、ほんとうにどっちがどっちだか、わからなくなってしまった。最後のシーンに辿りついて、ああそういえばそんなことあったよね、という感じでやっと思い出すことができました。ファンサービスというか、笑いのシーンなども盛り込まれているのですが、ぼくとしては1作目の無間道について毒々しいまでの解説からはじまる暗いイメージがよかったかなと思います。3月12日鑑賞。

公式サイト
http://www.infernal.jp/index_top.shtml

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(21/100冊+22/100本)

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範列と統辞。

難しいことを思い出しちゃったので、メモとして書いておくことにします。しかしながら難しいことなので、よく理解していません。間違っているかもしれない。ほんとうはきちんと調べて書きたいのですが、あくまでもメモ、ということで。

学生の頃に記号論を学んだとき、範列(パラディグム:Paradigms)と統辞(サンタグム:Syntagms)という言葉を知りました。ソシュールの考え方を基盤に、ローマン・ヤコブソンというひとが定義したようです。

どういうことかというと、「僕は電車に乗ってきみに会いに行く」という文章があったとき、時間的な推移で線的に統合されている「僕」「乗って」「行く」という言葉は、統辞関係にある。一方で「電車」という乗り物は「タクシー」だっていいわけです。駅まで遠ければ、タクシーつかまえた方が早い。この文章ではタクシーのように、現前では選択されなかったけれども頭脳のなかには存在している交通機関のような言葉は、範列関係にある(のではないかな?)。書かれていない背景にある言葉、「ぼく」が選択しなかった言葉は範列関係ということです。

音楽でいうと、メロディというのは時間的な文法によって流れていくので、統辞的な関係にあります。一方で、和音というのはメロディの背後で範列的な広がりを作るものかもしれない。マッシュアップやリミックスは、もともと統辞的な力でつながれていた曲を分解して、あらたな統辞関係を(ときには強引に)創るということかもしれません。ただ、ひょっとするとその関係は、あまりつながりが強くないものだったりもする。ぼくはDTMで創った曲をmuzieで公開しているのですが、「Wakusei」という曲ではベースラインは変わらずに、その上に乗るメロディと和音的なものがどんどん変化していく、ということをやろうとしました。それは範列的な展開をめざしていたのかもしれません。

映画では、たとえば緊迫したサスペンスのシーンで、まったく関係のない窓の外の空が映し出されたりすると、範列的である。いままさに誰かが殺されようとしているわけで空どころじゃないでしょ、と思うのだけれど、効果的に使った場合、そのカットが映画に深みを与えることにもなります。しかし、このようなカットを多用すると空間的な広がりはできるけれども、逆に物語的な力は弱くなる。映像詩的な要素が強くなるわけです*1。

乱暴ですが、範列=詩的表現、統辞=小説的表現という方法論になるかもしれません。横と縦の関係といえるかもしれない。そもそも、ぼくがこのことを思いついたのは、プレジデント3.20号の特集「「考え方」革命」のなかで、縦の論理と横の論理という思考プロセスについて書かれていたからです。縦と横、のほうがわかりやすいですね。ついでに高さを付け加えると、立体的になりそうです。

一方で、検索エンジンやテキストマイニングの世界においても、語と語のつながりが重要になってきます。自分の日記内における言葉と言葉のつながり方(文脈)は、統辞的であるといえるでしょう。一方で自分の使っている言葉と、誰か他のひとのブログのなかにおけるその言葉の使われ方は範列的になる。

先日クリエイティブ・コモンズについて書いたところ、phenotexさんからトラックバックをいただいたのですが、ぼくにとっては「受験」と「著作権」は統辞的な関係にない言葉でした。ふたつの言葉のつながりが考えられなかった。しかしながら、phenotexさんのブログで、赤本が訴えられたというニュースを知り、うわっと思った。同じ内容を扱っているブログも参考になるのですが、まったく違ったところから範列的なつながりができるのも面白い。知識の幅が広がるわくわく感があります。

と、まあ、ぼくはこういう理屈っぽいことを考えるのが好きなんだと思います。

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■記号論の本をもう一度ひもとこうと思ったのですが、本棚のどこに入っているか探すのが面倒で断念。インターネットで検索したところ、以下、非常に充実しているテキストに出会いました。Googleのめざしている世界かもしれませんが、本のテキストがインターネット上でアーカイブされたら、ものすごく便利になるような気がします。社会が変わるんじゃないだろうか。内容自体を知りたいときには別に本という形態じゃなくてもいい。でも、紙の質感は捨てがたいですけどね、個人的には。

Semiotics for Beginners-初心者のための記号論-
http://www.wind.sannet.ne.jp/masa-t/

■こちらはPDFファイルです。東京大学の講義資料のようです。
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/course-list/interfaculty-initiative-in-information-studies/information-semiotics-2005/lecture-notes/2003-5.PDF

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*1:参考:Semiotics for Beginners-初心者のための記号論-
http://www.wind.sannet.ne.jp/masa-t/hannretutougo/hannretutougo.html

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2006年3月11日

そして、ふたたびブログの海へ。

春らしいぽかぽかした日になりました。とても眠い。ぐうぐう眠ることができる。怠惰かもしれないけれど、人間も含めて眠ることができる生き物たちはしあわせです。お昼寝している犬もしあわせそうです。睡眠時間を削りに削って趣味に没頭したり、仕事に追いまくられて徹夜する日もありますが、寝るときゃ寝る。誰がなんといおうとも寝る。春はいいなあ。しあわせに眠ることができて。

さて、この一週間。批判すること、引用することに疑問を感じて、自分は創造する側でいたい、湖から飛び立つ最初の一羽でありたいと考え、でもそんな偉そうなことを言ってもほんとうにできるのかよ?何をやるんだ、と突っ込みつつ、自分に何ができるか、ということをうーんと唸りながら考えた後、掌編小説を3編だけ書いてみました。稚拙でしようもない物語ですが、小説を書くのも面白いなとあたらめて実感しました。一方で、創造することとは何か、どうして現前にないみえないものをひとは見ようとするのか、総表現社会はどこへ向うのか、ということを考えてきました。

他人のブログに感化されやすいぼくは、この試みの間、極力他人のブログはみないようにしていたのですが、その体験を通じて、自分が何を求めていたのか、どこへ向おうとしていたのかを再確認できたような気がします。加えて、自分を制御する仮想的なココロのシステムを構築する、ということも考えることができた。この仮想的な自分がこれからやろうとすることを客観的に把握して、さらに創造的で豊かな何かをもたらしてくれるように祈りたい。

というわけで、ブログをみることを解禁にします(自分へのご褒美。よくやった)。といっても、ちょっとだけ禁を破ってみちゃったんですけどね。

たとえば山にこもって、久し振りに下界におりてくる。そうすると、あらためていろいろなことに気づく。といっても山伏ではないので、山にこもる人はいないでしょうが、体育会系では合宿で山にこもることがあるので、そんな状況を想像してください。都会の喧騒から離れて山のなかで生活して再び都会に出てみると、いろんなことが新鮮です。ああ、人間ってこんなにたくさんいたものなんだ、とか。女の子はやっぱりきれいだな、とか。その感覚を大事にしたい。わけもなく意地になってただ一日を埋めるためにブログを書きつづけるなら、しばらくは休んでみるのもいいかもしれません。

ところで、一方でブログ以外のものも、いろいろと吸収しようと思っています。久し振りに、雑誌をたくさん購入しているのですが、プレジデント3.20号はまさに「「考え方」革命」という特集で、大前研一さんが構想力や右脳と左脳の話などを書かれていて面白い。実は気になりつつ読んでいなかった雑誌で、答え合わせみたいな感じなのですが、ぼくが考えていたことと重なる部分もありました。どうやら間違っていないようだ、ということがわかりうれしかった。また、「devil's advocate(悪魔の使徒)」という反対意見を言うことによって議論をするやり方や、「ソクラテスの会話」という架空の役回りで議論する方法などは参考になります。最後の部分は心に留めておきたい文章です。プレジデント3.20号「9割の人は「頭の使い方」が間違っている」という大前研一さんの文章から引用します。

相手の立場に立ってモノを考えるのは、イマジネーションが巧みでなければできない。想像力、空想力から一段昇華した「構想力」というのは、そういう訓練をしなければ開発できないものだ。
思考方法、思考能力で進歩しなければ、先進国では二一世紀を生きていけない。だからすべての時間、頭をフルに使うべきである。

ついでに、かなり前のものなのですが、茂木健一郎さんのブログ「茂木健一郎 クオリア日記」で、mediaCLUBKINGのTALK dictionaryを知り、坂本龍一さんと茂木健一郎さんの対談をポッドキャスティングしてiPodで通勤途中に聴いていたのですが、こちらもなるほどなあ、という感じでした。坂本龍一さんの言葉ですが、ピアノには88鍵しかなく、結局のところ88鍵でできることしかできない、じゃあ新しいことって何だ、ということを考えられていたそうです。茂木健一郎さんも、若いうちは前衛的なことをやりたがるのだけど、どんなに前衛的と思ってやっていたことだとしても何かの影響を受けている、まったく新しいことなんてできないんだ、とお話されていました。つまりすべてが何かの引用的である、引用であることからは逃れられないのかもしれません。

ぼくは自分の掌編小説をクリエイティブ・コモンズのライセンス下においてみましたが、ぼくの書いた作品も何かの影響を受けているはずです。完全にオレのオリジナルなものだ、とはぜったいに言えない。自分で別の作品を意識している部分もあるし、無意識のうちに時代の意識を織り込んでしまったものもある。息子の言葉をそのまま拾っている部分もある。そもそも作品を創るということは、すべてマッシュアップ的であります。一方で、著作権については、そこから利益をあげるビジネスモデルで成立している企業があり、そのお金で生活しているひとがいる以上、一概にフリーにすべきだとは言えないと思うのですが、もう少しゆるやかな制度があってもいいかもしれません。

自分のなかでブログおよび引用の解禁。ふたたびいろいろなひとの意見を参考にしつつ、考えつづけていきます。

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■茂木健一郎さんのブログ。放送スケジュールや書かれた記事などの情報の合間に、著書では読めないリアルな茂木さんの言葉があり、そのクオリアに思わず、にやりとするブログです。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/

■mediaCLUBKINGのTALK dictionary。なんとなくポッドキャスティングを聴く身体になっていないので落ち着かないんですが。
http://www.clubking.com/news/

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2006年3月 9日

みえないものを見る力。

ここ数日間、みずから小説を作りつつ表現することについて考えてきました。けれども、この試みを通じて考えた思考のフレームワークは、小説だけでなくビジネスにおいても、あるいは生活全般に関しても応用できることかもしれません。昨日に引き続き、考えたことをまとめてみます。とても理屈っぽく青臭い文章ですが。

まず書くことについて。文章を書くこと、言葉にすることは、何かを選択して一方で何かを捨てていることです。現前で起こっている今日の出来事を書くような日記であっても、ぼくらは現実をそのままのサイズで記録することはできません。圧縮もしくは省略して記録する。自分の視点で現実の一部を切り取っている。自分が生きてきたライブな現実世界を編集している、ともいえます。したがって文章にしたとき、文字として切り取らなかった何かは零れ落ちてしまう。だから書くという行為は難しいのかもしれません。書くということは、現実のある部分を選択することです。原稿用紙やPCの前で悩むのは、選択する苦しみともいえます(その裏返しとして、切り捨てるかなしみでもある)。

現前にないもの、小説のような架空の世界を書くのは、なおさら困難です。というのは、現実に起こったことであれば、書く範囲はある程度限られます。しかしながら想像の世界には、果てというものがありません。書く対象は頭脳のなかに無限に広がっている。どんなことでも書くことができる。その自由さがぼくらを苦しめる。大きな海を前にして感じるような畏怖があります。想像の水平線は、はるか遠くまで広がっていて霞んでいる。霞んでみえないほどでっかいものに立ち向かおうとするとき、ぼくらの足はすくんでしまう。

みえるものは書きやすい。みえないものを書くのは難しい。しかしながら、記録的であっても創作であっても「みえないものを見る力」が大事ではないか、とぼくは考えました。

たとえば生活においても、自分ではない他者の考えや心というのは、みえないものです。

「ぼく」は「きみ」ではない。「ぼく」は「ぼく」であって、「きみ」は「きみ」である。どんなに近くにいても、「ぼく」と「きみ」の心には20億光年ぐらいの距離が隔てられている。同じ世界を眺めていたとしても、「ぼく」のみている世界と「きみ」のみている世界はまったく違う。理解した、共感した、というのはある種の幻想です。ほんとうにぴったりと心が重なり合うことは有り得ない。世界はそこに存在するひとの数だけあるものかもしれません。けれども、お互いの存在が異なること、個々の視点を取り替えて他者のレンズで世界をみることはできないということを理解した上で、それでも「みようとする」ことが大切ではないでしょうか。

ではどうやってみるのかというと、頭脳のなかに仮想的な他者をつくり、他者の世界を疑似体験する。そのようにして「みる」しかないのではないか。先日、自分の頭のなかにもうひとりの自分を作る仮想化について考えました。仮想的な他者というのは、どんな形にも自分を変えられる物体のようなものです。つまり粘土人形のようなものでしょうか。ターミネーターか何かの映画に出てきた気がしますが、どろどろの液体なんだけど、対象に合わせて自分を変化させられるような物体。あれが自分の心のなかにある仮想的な他者のイメージです。

自分のなかの仮想的な他者は、あるときには上司かもしれない。またあるときにはクライアント企業の担当者かもしれない。子供かもしれないし、知人や友人かもしれない。そんな風に自分のなかに自分ではない他者をどれだけリアルに存在させることができるか。自分のなかに精度の高い他者を共存させて、その感情を察知できるような仕組みをバーチャルで作ったり壊せたりすることが、EQという観点からも重要であると思います。仮想的な他者を壊すことができないと、自己が他者に侵食されてしまうかもしれない。ときにはキケンな考え方に感染した他者を隔離できるようなコントロールも必要になります。また、このシステムが立体的な思考のために重要な気がしました。

顧客主義というスローガンを経営で使うことがあります。それも顧客という(基本的には理解が難しい、みえない)他者の視点で自社のサービスをとらえ直そうとする試みかもしれません。「日経ビジネスAssocie」という雑誌の3/21号では「見える化」の特集がされていましたが、ハーバードビジネス・スクールのジェラルド・ザルトマン教授によると、人間は考えていることの5%しか言葉にできなくて、あとの95%は無意識化にある、ということも引用されていました。5%の言葉にできたことで他者を理解するのは、綱渡りのようなものです。ところで、雑誌にはフィッシュボーンやポストイットの活用法が書かれていましたが、ぼくはツールも大事ですが、みえないものをみようとする姿勢の重要性というか、なぜみえるようにしなければいけないのか、という考え方が必要と感じました。スキルやノウハウを共有する必要はない、みえなくってもいい、という考え方がまだまだあるような気がします。

一方で、「ニューズウィーク日本版」の3/15号では、カトリーナの被害がもたらした社会問題の記事がありました。難民を受け入れてきたヒューストンで、寛大な心を維持できずに難民に対して出て行けというような問題も生じているそうです。この海の向こう側における出来事を、自分のなかのリアルとして再現できるのか。9・11もそうだったかと思うのですが、国際的なレベルにおいて仮想的だとしてもリアリティを持って考えられること、世界のどこかで起きている痛みを自分の痛みとして感じられるかどうかが大事かもしれません(ちなみにニューズウィーク日本版3/15号の特集は「ブログは新聞を殺すのか」で、これはこれで考えさせられるテーマです)。

ちょっと大きな話になりすぎたので、仕事の話に戻ります。

マーケッターやプランナーは、小説家的な素質が必要かもしれません。現前にない未来をどれだけ細部まで想像して、企画としてまとめることができるか。全体と部分の両方を把握しつつ、シナリオとしてアイディアを構想化していくことができるか。内容はもちろん、ターゲットやクライアントの心を読むことも大切です。ロジックは大事だけれど、共感を生むハートの部分はもっと大事かもしれない。一方で、ターゲットやクライアントばかりに固執しても、よい企画にはならない。決められた枠のなかで、自分を表現することも大切です。自分と仮想的な他者たち(クライアント、ターゲットなど)のように、いくつもの他者を頭脳のなかに仮想的に同居させて、わいわいがやがや討議させる。そんな「ひとりブレスト(ブレイン・ストーミング)」ができれば、多面的に企画の精度をあげることができそうです。

想像してごらん、とジョン・レノンは「イマジン」で歌いました。「ショーシャンクの空に」という映画で、主人公は刑務所のなかにいながらも外の世界を想いつづけました。SF小説で想像してきた夢物語のような未来の一部は、21世紀のぼくらの生活のなかで現実化しています。みえないものはみない、みたくないから目をそらす、のではなくて、みえないものをみようとしたときに、ぼくらは成長したり進化できるような気がしています。

そんなわけで、ぼくにとって小説を書くことや音楽を創ることは、みえないものをみようとしてカタチにする訓練として、間接的だけれど仕事の質を高めるために役に立っているのかもしれない、なんてことを考えました。まあ、基本的に趣味なんですけどね。

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2006年3月 8日

「上陸」田中小実昌

▼book06-021:戦争による壊れ方。

4309407579上陸 (河出文庫)
河出書房新社 2005-09-03

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ずっと前に購入して半分まで読んだところで放っておいた本でした。ある小説作法の本で、田中小実昌さんの「ポロポロ」が絶賛されていて読んでみたいと思っていたのですが、なかなか手に入らず、この短編集から読みました。作者である田中小実昌さんのことはよくわからないのですが(勉強不足です)、この短編集は同人誌などに書いていた初期の作品らしい。確かに生き生きとしたものがあります。

生き生きとしたものがあるのですが、内容としては終戦後、戦争によって壊れた心の主人公が登場するものが多く、なかでもぼくは「生き腐れ」という短編がよいと思いました。通訳として働いている主人公が、雨の日、「ヘイ!ユウ」とアメリカ人の曹長に呼ばれる。名前を聞かれて「ゲンタロー・トクナガ」と応えると「おまえはジョージだ」と勝手にアメリカ人の名前をつけられる。けれども抵抗しない。この無力さが、戦争によって降伏した日本人の敗北感、どうにでもなれという感じをよく表しています。彼は曹長に指示されたことを人夫小屋に行って伝えようとするのだけど、わらわらいる日本人の人夫たちは勝手なことを言って動こうとしない。そこへしびれを切らしたアメリカ人の曹長が銃をかまえてやってくる。無気力と雨で湿度の高い空気、緊迫しているんだけど、やけくそな気持ちが、とてもリアルに伝わってきます。希望を持ってみたり、いや、やっぱり自分はだめだ、と自己を卑下したりする。この壊れ方は、その時代の空気を再現している気がしました。3月8日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(21/100冊+21/100本)

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総表現社会の行方。

つづけざまに掌編小説を書こうとしたところ、なんとなく筆(というかキーボード)の勢いが止まりました。おっ、なんだか書けなくなってきたぞ、これがライターズ・ブロックか?と、ちょっと嬉しくなったりしたのですが、先週末から情報を遮断しつつ、自分を実験材料にして、書くことについて深く考えています。そして掌編小説を書くという試みを通じて、いろんなことを感じました。感じたとはいえ、ものすごく当たり前のことです。当たり前すぎて恥ずかしいのですが、試みを通じて考えたことを書いてみます。

なぜ日記やブログを書くのか。日記やブログというのはリアルな自分の生活に近いところにある文章です。今日、自分はこんなことをした、こんなものを読んだ、こんなひとに会った、これを食べた。多くは記録的な要素であり書く必然性がある。なぜなら現実というのは、どんどん過去として失われていくものだからです。生きていくこと自体が、途方もない喪失かもしれない(村上春樹さん的な言説ですが)。だから残しておきたい。一方で、離れた場所にいて頻繁には会えない友人や知人がいるのであれば、そのひとに向けた報告という意義もあります。コミュニケーションの架け橋として機能する。日記やブログには、そんな風に意義がある。しかしながらですね、小説や詩というのは、

「別に書かなくても、暮らしていける」

ものです。おまけに面倒くさい。小説や詩に没頭しているぐらいなら、酒飲んで、わいわい騒いだ方がきっと楽しい。日記にコメントがつくのはうれしいけれど、小説ってコメントを必要するのかどうか。もちろん作家は読者の感想があれば有難いかもしれないのですが、コメントがなくても書くと思うんですよね。小説などの創作というものは、ある意味、自己完結的なものです。自己完結していても書くひとは書きつづける。作家になろうがなるまいが書く。これってなんだろう。

いまぼくは馬鹿馬鹿しいほど当たり前の疑問に直面していて自分でも苦笑ぎみなのですが、その直面している疑問とは、こういうことです。

「人間はなぜ、現実ではない仮想の物語を書こうとするんだろう」

現実を生きればいいじゃん、と思う。そして現実を生きるのに必死であれば、架空の物語なんて考えている暇はない。小説家が破綻するのは、現実よりもこれから書こうとするバーチャルな物語の方にウェイトを重くしすぎるから、かもしれません。

そもそも小説とは何か、ということをもう一度考え直す必要があるかもしれません。むかーし、大学の講義で何か学んだような気もします。文学だけではなくて、一時期マーケティングの世界でも物語が必要であるとして、物語マーケティングのようなことも言われていたことがありました。とはいえそれは企業が販売したい製品にコンテクストによる物語という付加価値をつけて、その物語によって共感を生むこと、製品によってもたらされる理想の世界をより現実的に感じられるようにすること、という意味がありました。

ブログなどに書かれたリアルな個人的体験は、どうしてもインパクトが強い。ブログを読んでいるとお腹がいっぱいになってしまって、小説を読もうとする気力も萎えてきたりします。ぼくだけかもしれませんが、リリー・フランキーさんの「東京タワー」も途中で挫折しています。というのは、自分史的な表現が鼻についてしまって、これなら個人的な体験をストレートに書いているブログを読んだ方がよっぽど泣けそうだと思ってしまったからです。もちろんまだ半分だけしか読んでいないので、後半にすごい展開があるのかもしれません。期待しています。

個人的な趣向ということもある。川上弘美さんがエッセイに書いていた気がするのですが、川上さんは今日あったことを書く作文は苦手だったそうです。けれども、でっちあげの物語であればいくらでも書けたとのこと(うろ覚えなので確かではありません)。個々に適した能力だと言ってしまうとミもフタもないのですが、記録的なことに能力を発揮するひと、でっちあげの空想を書く大嘘つき、批判に限りないよろこびを見出すような評論家、などなど、それぞれタイプの違いかもしれません。

現実の人生に勝る物語はない、という感じですが、リアルに対する挑戦もあるかもしれません。架空の箱庭を、どれだけ現実っぽくみえるように作ることができるか。現実そっくりじゃなくても、生身の人間たちに何かの感情を起こさせることができるか。ぼくはDTMでVocaloidというソフトウェアに歌わせようとしていますが、それも挑戦的なものがある。負けちゃいますけどね。

かつて少年時代のぼくは、自分を表現する手法として音楽や小説を考えていたような気がします。音楽であれば楽器を上手く弾くというのも自己表現だと思う。ところが、どういうわけかそちらの方面の気持ちはまったく欠けていました。他人の曲を上手く弾けるよりも、へたくそでも自分の作った曲がいいと考えていたわけです。作曲家と演奏家の違いでしょうか。

超多忙なプレゼンが終わった日の深夜にそんなことを考えていたところ、表現とは何か、ということがわからなくなってきました。総表現社会といっても、議論すべきことはあるような気がします。たとえば誰かが何か言ったことを引用してコメントをつけるだけの表現が成熟した表現なのか。総コメンテーター時代が豊かな表現社会といえるのか、揚げ足取りの量産化ではないのか。整理という観点が重要とはいえ、整理したところで整理は整理でしかなくてほんとうに何かを生み出しているのか(企業にとって管理はコスト削減になりますが、全体の売り上げを伸ばすものではない。部屋の整理をすれば気持ちいいけれど、掃除もしくは整理を目的にして、永遠に掃除しつづける生活は何か本質的なものを見失っている気がする。雑多で整理されていなくても、豊かな何かがあるような、ないような)などの疑問を感じました。

では、どうするか。考えなければならないのはそこからです。

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2006年3月 7日

掌編#03:ちいさきもの。

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ブログ掌編小説シリーズ#03:ちいさきもの。
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春の夕暮れ。さわさわと木の葉が揺れる帰り道の途中で、少年はちいさきものをみつけた。ちいさきものは電信柱の影に隠れて、西のほうの空を眺めていた。その視線の先には、オレンジ色の夕焼け雲が広がっていた。あれはちいさきものだ、と少年はどきどきしながら思った。ちいさきものに出会うことができる日は、それほど多くない。友達から自慢されて、いいなあ、ぼくもいつかは出会ってみたいなあ、と悔しく思っていた。けれどもいま、ちいさきものはそこにいる。手を伸ばせば、つかまえられそうな先に。

少年はちいさきものを驚かさないように、そっと近寄った。そうして一緒に、ことことと煮立ったスープのような夕焼けの空を眺めた。しばらく黙って眺めていた。時間がのんびりと動いていく。ちいさきものも黙っていた。けれどもやがて、ゆっくりと少年のほうに顔を向けた。少年は口を尖らせるような顔をして言った。空を見ていたの?ちいさきものはゆっくりと頷く。夕暮れの空を?ふたたび少年がたずねると、こくりと首を縦に動かした。夕暮れはいいよね。毎日見ることができるわけじゃないのがいいよね。夕焼け雲を見ていると、ぼくはお腹が空いてくる。少年は夕暮れのほうを見ながら、それでもちらりとちいさきものも気にしながら言った。煮立った空が冷たくなるまで、少年とちいさきものは空を眺めていた。やがて少年は言った。ぼくんちに来ない?ちいさきものは、そうして少年と暮らすことになった。

最初のうち、ちいさきものはしゃべることができない。ただ、黙って少年の言葉を聞いているだけだ。ちいさきものは食事をしない。パンくずを食べるわけでもないし、牛乳を飲むわけでもない。けれども、少しずつ成長していく。どういうことかというと、ちいさきものは少年が話しかけた言葉を栄養にして、成長するのだった。今日の給食はね、がーりっくとーすとだった。がーりっくとーすとが、ぼくは大好きなんだ。ちょろぎは嫌いだけどね。ちょろぎは食べられないんだよ、どうしても。お正月に食べて、おえってなった。給食にちょろぎが出なくて、よかったよ。少年はひとりで話しつづけた。ちいさきものは黙って少年の言葉を聞いている。少しだけ左側に顔を傾けながら。漢和辞典のはしっこに腰かけて、ちいさきものは少年の話を聞き続けた。

ある日、ちいさきものはしゃべった。ちいさきものは、ちいさきもの。あれっ、きみ、しゃべれるんだ。少年は図書館から借りてきた恐竜の本(白亜紀)をカーペットの上に放り投げると、机の上のちいさきもののところへ行った。なんて言ったの?もいちど、しゃべってよ。ちいさきものは、ちいさきもの。鈴のような、オルゴールのような、そんな声でちいさきものは話をした。へえ、そんな声なんだね。少年は感心したようだった。ちいさきものは、ちいさきもの、か。そうだね、きみはぼくじゃないもの。きみはきみであって、ぼくはぼくだ。なんだか当たり前のようで、すごいことのようにも思えるね。うん、すごい。テツガクシャっていうんだよね、そういうの。少年が語りかけると、やっぱりちいさきものは応えた。ちいさきものは、ちいさきもの。

ところが、いつまでたっても、ちいさきものはちいさきもの、としかしゃべらなかった。少年は何だか馬鹿にされているような気がして、次第にイライラしてきた。おい、他のことは言えないのかよ、そればっかしかよ、つまんないなあ。でこぴんで、ちいさきもののちいさな頭をつんと弾いたりした。嫌いになりはじめると、ちいさきものの存在は逆に、彼の心のなかでおおきなものになってきたようだ。おまえなんか拾ってくるんじゃなかった、がっかりだよ、おまえになんか出会わなきゃよかった。思いっきり悪態をついてみる。けれども反応は同じだ。ちいさきものは、ちいさきもの。やっぱり同じことを繰り返している。少年はとうとう我慢がならなくなって、おまえなんか顔も見たくないよ、こんなか入ってろ。紅茶の缶のなかに入れて蓋をぎゅうっと閉めた。

それからしばらくの間、少年は友達とサッカーをして遊んだり、母に連れられて田舎に帰ったり、忙しいけれど楽しい毎日が続いた。ちいさきもののことなんて、すっかり忘れてしまった。宿題をやろうとして紅茶の缶のことを思い出して、そういえばちいさきものはどうしただろう、と気になった。

缶のふたをあけてみると、ちいさきものは細長くてひからびたものになっていた。おい。何も応えない。ねえ。指で突っついてみると、かさかさになった細い腕がぽきりと折れた。どうしちゃったんだよ。少年は紅茶の缶の奥に、深いあなぼこが空いたような気がした。胸のまんなかあたりがぎゅうっと縮んだ。ちいさきものが眺めていた夕焼けを思い出した。ことこと煮込んだような夕焼け。ちいさきものは、ちいさきもの。という声を聞いた気がした。

なんだよ、ちっちゃいなあ、おまえ。

声に出して言ってみたら、ふいにぶわっと涙が出てきた。少年はぼろぼろと泣いた。細長くてひからびたものの上に涙がかかって、ふやけたへんてこなものになった。少年は、わんわん泣いた。けれども漢字ドリルを3ページやらなければならなかったので、瞼を擦りながら漢字ドリルを終えて、宿題が終わって夕飯までの間に、また泣いた。

(ブログ掌編小説シリーズ#03/了)

Creative Commons License この作品は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。

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2006年3月 6日

表現することの技術。

総表現社会というキーワードからいろいろなことを考えつつあるのですが、表現にもさまざまなカタチがあると思います。みんなの前で自己紹介のスピーチをするということも表現です。荒川静香選手のフィギュアスケートも素晴らしい表現力でした。小説を書く、音楽を創る、絵を描くということだけが表現ではなくて、彼女や彼氏にアピールするのも表現だし、よく頑張ったねと子供を誉めてあげるのも表現です。

今日こんなランチを食べました、というのも表現だと思うし、この映画を観て感動した、というのも表現だと思います。あいつの言葉に頭にきたとか、日本の社会は間違っているという意思表明も表現といえます。何を着て会社に行くか、鞄やノートパソコンにどんな道具をチョイスするかというのも表現。ひとことで表現といっても、さまざまな表現があります。

まず断っておきたいのは、ぼくはさまざまな表現に優劣をつけたり正誤を問うわけではないということです。その前提のもとにあくまでも私見を述べるのですが、ブログやSNSをはじめとしてインターネットは、すばらしい表現ツールだと思っています。しかしながら、はたして創作上の表現力を高めるかというと、難しいんじゃないのかな、という実感があります。

というのも、いきなりですが実験的に2日ばかり掌編小説を書いてみました。過去に書き溜めていたものではなく、いわゆる書下ろしです。いつもブログを書く時間を使ってテーマと構想を考えて小説としてカタチにしてみたらどうだろう、と思って試しにやってみました。書く方法とプロセスはそのままでアウトプットを小説にしてみようと考えただけのことですが、この試みで感じたことは、通常のブログを書くのとはまったく別の思考が必要になった、ということでした。正直なところ疲労度も違います。これはいったいどういうことだろう。

そこで何が違うかということを考えたのですが、いちばん大きかったことは、小説を書くためには一度素材を自分とは切り離して脚本家や映画監督的に眺める必要があるということでした。思いのままに書くのではなくプロットを構成しなければならない。それだけでなく物語内の主人公として、物語内的な時間をきちんと生きる必要もある。一方で、読み手に伝わるだろうか、ということも考える。さらに同時代的な作品の座標において、これってどの辺に位置するのだろうか、ということも考えたりする。したがって、ものすごく多面的で複雑な思考が求められます。メタ的な、作家としての自分を用意する必要がある。

メタ的な発想で思い出したのですが、ぼくはDTMを趣味としていて「Oxygen」という曲を作ったことがあります。この曲は実は、2歳の息子(次男)が喘息で入院して、酸素ボンベから吸入をしてもらいながら「もうおしまい?もうおしまい?」と繰り返していたときのイメージを発端としています。病院が大嫌いの息子がほんとうに悲痛な声で助けを求めていて、苦しいんだろうなあと思った。同時に、人間には酸素が必要なんだ、とあらためて感じた。その個人的な体験をそのまま作品にしても、子育てが大変な親たちの共感は得たとしても、かなりニッチなので届きにくい。そこで個人的な体験とそのときに感じた気持ちをキープしておいて、大切なひとを失ってしまってひとり残された部屋、という架空のシーンに表現の対象をスライドさせました。

うまくいったかどうかは疑問ですが、特に小説などの創作で表現力を高めるためには、このメタ化が重要になるような気がしています。体験や気持ちを直接書くのではなく、ひと晩寝かしておく。スープを作るように鶏がら的な部分は捨ててしまって、いい味の出た部分だけを使ってメインとなる料理を作る。ところがブログの文章というのは、そんなに時間をかけずに、ありのままの自分を出すのがいい。ストレートな自己表現が気持ちいいので、あまり作為的な作りこみは不要なことが多い。この対比から、文芸作品を志向するとなると表現力養成にはブログは向かないんじゃないかと感じました。もちろんいろんなことに気づく感度というのは鍛えられるかもしれません。ただし、小説を書くのは感度だけでは難しい。ブログ人口が増えて、総体として表現するひとが増えるのはすばらしいことだけれど、だからといって小説家がたくさん登場するわけではないのかな、と思いました(エッセイストは増えるかもしれない)。文芸作品的な表現を高めるには、プラスアルファの何かが必要になる気がしています。

コミュニケーションの表現力を高めるためには、インターネットは優れていると思います。特にSNSでは、日記にコメントをいただくことが最もうれしいし、その双方向的なコミュニケーションで盛り上がったりもします。うまく伝わらなくて問題になることもありますが、対話中心型のインターネットの未来は何となく想像ができます。みえないのはテキストによる創作表現としての未来です。それともテキスト中心の小説自体が既にオールドメディアであり、今後は音声や映像やアニメーションによるマルチメディア小説が前提になったりするのでしょうか。あるいは消費者の物語が作品としての小説を淘汰していくとか。ぼくはやっぱりすばらしい作品に出会うたびに、そんな作品を生み出すひとが増えていってほしいと思うし、ひとりの読者としてそんな作品を読みたいと思っているのですが。

ところで、ぼくの言うメタ化というのは自分のなかに仮想的に他者を作ることですが、テクノロジー用語である仮想化(バーチャライゼーション)もサーバーやクライアントPCのなかに、もうひとつの頭脳を存在させることです。通常言われていることは、WindowsやLinuxなど別のOSを稼動させることです。しかし、もうひとつの頭脳とは、単なるOSの問題ではなくて共作者(コラボレーター)としての頭脳であるかもしれない。あるいは、ひとつのマシンのなかの仮想的な頭脳間で対話が成り立つようなことかもしれない。

書くことはそもそも文章にすることで自分を対象化することでもあるのですが、マルチタスクのように単純に処理を並列化するのではなくて、昨日見た「笑の大学」という映画のような校閲者と作家が同居するようなイメージもあります。つまり同じ部屋(物理的なパソコン、あるいは物理的な人間の脳)において、複数のパーソナリティが存在するということです。パソコンと人間の脳の新しい在り方とその問題について、もう少し深く考えてみたい気がしています。

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2006年3月 5日

笑の大学

▽cinema06-021:人間の深い描き方、しなやかな戦い方。

B0001M3XGU笑の大学 スペシャル・エディション [DVD]
三谷幸喜
東宝 2005-05-27

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戦時下の日本、喜劇作家の椿(稲垣吾郎さん)と検閲官向坂(役所広司さん)による対決の物語です。検閲官としては、戦争に向けて国民の意識を高揚させない脚本はボツにしようと考えるため、「お国のために」という言葉を入れてくれ、この部分は削れとか無理難題を言う。しかしながら、「笑の大学」という劇団のために脚本を書いている椿としては、早く脚本を完成させたい。最初のうちは、その構図が単純なかたちでみえているのでわかりやすいのだけれど、実はこう思っている、という心情の告白が出てくるあたりから、どんでん返し風に人間の心の深みに入っていくので面白い。感動しました。物語のなかで、「その場面で、警察官はそういう台詞を言うだろうか」のような感じで、検閲官である向坂は台詞の背後にある人間性まで考えようとするのですが、たとえ作られたものであっても、作品と誠実に向い合うということは、そうじゃなきゃと考えさせられました。

いままで笑ったことがない検閲官を最終的には80回以上も笑わせる脚本を書き上げるのだけれど、このふたりは検閲官と劇作家という関係を超えて、もはやコラボレーターのような関係になっている。つまり、共同して作品を創り上げているわけです。これは編集者と作家というような関係かもしれない。批判は何も生み出さないかもしれないけれど、批評としてほんとうに作品に向き合ったとき、ひとりの作者の力量を超えたものを生み出す可能性があります。

権力に真っ向から戦うような戦い方もあるかもしれないのですが、権力を受け入れつつ、ほんとうに面白い笑いを生み出そうとすることに集中する作家・椿の姿に共感しました。三谷幸喜さんのことは詳しく知らないのですが、もとは舞台で上演されていたものらしい。映画というよりは舞台的なのですが、人間の描き方という点では、三谷さんはやっぱりすごいな、と思いました。3月5日鑑賞。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(20/100冊+21/100本)

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掌編#02:あおぞら冷蔵庫。

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ブログ掌編小説シリーズ#02:あおぞら冷蔵庫。================================================================

玄関のチャイムが鳴ったとき、私はちょうど2歳の息子のおむつを替えていた。すぐに出ることはできないので、ちいさな息子の両方の足首を持ち上げてウェットティッシュでおしりを拭いながら、そのままじっと身構えた。宅配便か、あるいは新聞の勧誘といったところか。出なくてもいいだろう。できることならば通り過ぎてほしい。息子はおしりを私に任せながら、自分の手を組み替えて静かに遊んでいる。天井に向って影絵を演じているようだ。

けれどもしばらく時間を置いたあとで、チャイムはまた鳴った。私は息子にしっかりとおむつを履かせると、コリン・ブランストーンの「一年間」というCDを消した。甘ったるいソフトロックだけれど、最近、このCDをかけていると息子が暴れないでおむつを替えさせてくれる。私は息子をカーペットの上に転がしておいたまま、玄関まで行くと、チェーンキーを外してドアを開けた。

ああ、いらっしゃいましたか。よかった。

スーツ姿で細いインテリ風のめがねをかけた男性が立っていた。あと1回だけチャイムを鳴らしたら帰ろう、と思っていたようだった。なにか?私が腕を組んで聞くと、彼は言った。おやすみのところ、誠に失礼いたします。わたくし、株式会社あおぞら冷蔵庫のカミジョーと申します。ご主人さまでございますか?そうだけど。私は腕をほどかずに言う。奥さまはいらっしゃいますでしょうか。いまはいない。ぶっきらぼうに応えた。お買い物ですか、いつお戻りでしょうか。わからない。私が応えると、カミジョーさんは困ったような顔をした。

いつ戻るかわからないんだ。戻そうと思えば戻るんだけど。で、なにか?私が訊くと、カミジョーさんは一瞬戸惑ったが、マニュアル通りにセールスを進めようと考えたようだ。鞄のなかからカタログを取り出すと、付箋の付いたページを広げながら説明をはじめた。

では、旦那さまにお話をさせていただきたいのですが、わたくしどもはあおぞら冷蔵庫と申しまして、白物家電として冷蔵庫がご家庭に普及をはじめた時代から、お客さまの生活における保存という大切なソリューションを提供するために、さまざまな冷蔵庫の開発と販売に携わってまいりました。ひとくちに冷蔵庫と申しましても、最近はお客さまのニーズに従いまして、さまざまな機能が求められております。ひとり暮らしの寂しさを紛らわすために音声合成コミュニケーション機能つきの冷蔵庫ですとか、人工知能による冷蔵庫ですとか。

うちは必要ないから。

私は途中でカミジョーさんの話を打ち切ろうとした。じゃあね。ドアを閉めようとすると、あ、ちょっと待ってください、もちょっとだけ。と、彼はぐいと私の方に近づいてドアを閉めるのを阻止した。香水の甘ったるい匂いがした。あの、今回ですね、わたくしどもはついにミッションでもある最終的に目標としていた製品、つまりまったく画期的な冷蔵庫を開発したんです。それが、これ、青空冷蔵庫です。付箋をたぐってそのページを開いた。

わたくしどもは会社名にも掲げておりますように、青空を冷蔵庫で保存することを最終的な企業の目標として努力しております。そして長年の研究開発の上、ついに完成しました。こちらが製品になります。BSF-1068β、やっとみなさまにお届けすることができました。そこでこうして、みなさまのお宅を訪問してご紹介しているわけです。パンフレットには、ネイビーブルーの冷蔵庫の写真があった。扉はひとつしかなくて、前面には取ってのようなものが付いている。シンプルなデザインだ。冷蔵庫の横に笑顔のモデルが立っていた。青空を保存するには小型すぎる気がする。小型だけれど、機能的には従来のものを上回るのだろう。それにしても、だ。

青空なんて冷凍してもしょうがないだろう。

私が言うと、みなさんそうおっしゃいます。と、カミジョーさんは、その応えを待っていたんです風の顔をした。けれどもですね、青空をいつでも保存して解凍できるということは、われわれの生活を根本的に変えてくれます。まったく新しいライフスタイルをご提案できるわけです。たとえばですね、これから梅雨の季節になりますが・・・あ、おぼっちゃんですか?いつの間にか私の後ろに息子がやってきていて、ズボンの裾をつかんでいた。かわいいですね。ありがとう。私は腕をほどいて、息子のやわらかい頭を撫でた。

申し訳ないんだけど、こいつのご飯を作らなければならないので、もういいかな。私が言うと、あ、どうも失礼いたしました、貴重なお時間をありがとうございます、ではカタログだけでも置かせてください。カミジョーさんは、カラーできれいに印刷されたカタログを私の方に手渡すと丁寧にお辞儀をした。私は玄関のドアを閉めた。セールスマンだけれど、押し付けがましいところはなくて、さわやかな印象がある。

青空冷蔵庫ね。テーブルの上にカタログを放り投げた。なんとなく疲れてしまって、もう一度繰り返した。青空冷蔵庫か。そんなもの売れるわけがないだろう。でも、売らなきゃいけないんだろうな。彼はセールスマンだから。大変な仕事だ。どれくらい売れたんだろうか。

息子が私のところまで歩いてきて、こちらをじっと見ている。左右の人差し指を合わせて三角形のような図形を作っている。

ちょっと待ってな、いい子だから。私はまた息子のやわらかい頭に手を置いた。そろそろうちの奥さんに戻ってもらった方がいい頃だ。私は台所で冷蔵庫の扉をあけた。妻を解凍するために。

(ブログ掌編小説シリーズ#02/了)

Creative Commons Licenseこの作品は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。

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2006年3月 4日

掌編#01:おじいさんになりたい。

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ブログ掌編小説シリーズ#01:おじいさんになりたい。

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完璧だわよ、とユウコは思った。だから振り返って、斜め後ろの席に座っている悪友のサナエにぴーすをしてみせた。彼女の自慢の指はとても細くて、きれいなコンパスのように20度の角度ですっと伸びる。いつかお弁当を食べながら、サナエがため息をついて、あこがれちゃうわね、その指、と言ってくれたことがあった。完璧なあたし、そして完璧な指(でもピアノは弾けない)。その指を胸のまえでさりげなくぴーすの形にして、ウィンクした。サナエが両手を機関銃にしてこちらに、どどどどどと機銃掃射をしてきた。

じゃあ次、タナカ読んでみろ。

ほらきた。待ってました。国語のオザワが教壇の上で、を(ぅお)の口をして顎を掻きながら、ユウコを指名した。はい。よそゆきの声で返事をすると、椅子を押して立ち上がる。原稿用紙を持ち上げて、えへんと一度咳払いをすると一行目をゆっくりと読んだ。

64歳になったら、あたしはおじいさんになりたい。

読み終わると同時に、隣の席のシゲキがぷっと吹き出した。なんだそりゃ、タナカよう。するとそのひとことに合わせて、クラスの全員がどっと笑った。あはははは。サナエの方を振り返ってみると、教科書で顔を隠している。けれども髪の毛がふるえている。笑ってるな、あいつ。色が黒くて背が低くて、ひしゃげた竹中直人のような国語のオザワは、表情を少しも変えずに言った。

おまえ、おじいさんにはなれないだろう、女子だからさ。なるとしたらさ、その、おばあさんだろうが。

ふん、それだから、あんたは作家になる夢をかなえられずにこんなところで中学生に作文ばっかり書かせてるんだよ。と、ユウコは思ったが、もちろんそんなことは言わない。かっと頭が熱くなるのを感じたけれど、こんなのへっちゃらだ。冷静に、冷静に。

いいんです、これで。

ちょっと右に顔を傾けて、ふっと嘲笑を含んだ感じで言い放ってやった。続きを読もうとすると後ろの方の席で馬鹿っぽいサヤマが、あーでもさートシ取ると、おじいさんだか、おばあさんだか、わかんなくなるよねー、うちのばーちゃんもヒゲ生えてるんだよねー、まいっちゃうんだよねーと言った。また教室の中がどっとわいた。だから馬鹿はやんなっちゃうのよ、もう。ユウコは読みたいメーターの針が思いっきり下がったような気がした。

まあ、いいや。読め、続きを。

オザワが面倒くさそうに言った。もういいです。いや、続きを読まないと全体がわからないだろう、読め。ユウコの頭のなかでぷちんと音がして、思わず怒鳴った。嫌です、読みませんから!

おいおいヒステリーかよ、おまえまさか・・・と、隣のシゲキが言うので、教科書の角のところですこんと殴ってやった。思いのほか決まって、シゲキはいってーと頭を抱えた。ふん、いい気味だ。ほんとうに痛かったらしい。涙を流している。男がそれぐらいで泣くなよ。耐えろよ。しょうがねえなあ、とオザワが言って、じゃあおまえ読め、シゲキ。と、頭を抱えているシゲキを指名した。えっ、おれっすか?そうだよ、おまえだよ、読め。シゲキはしぶしぶ立ち上がった。

64歳のぼくは、おじいさんになっていると思います。

くすっと誰かが失笑。おまえそれじゃあ、タナカの作文と変わらんだろう。やっぱり表情を変えずに、オザワは言った。

***

ユウコは聴いたことがなかったのだけれど、ビートルズという古臭いバンドに「ホエン・アイム・シックスティー・フォー」という曲があるらしい。柄にもなくオザワのお気に入りの曲らしく、その曲にちなんで64歳になったら、というテーマの作文を書かされた。

結局のところ読まなかったけれど、作文の続きをユウコはこんな風に書いていた。あたしのおじいさんは、64歳で亡くなった。おじいさんはいつも陽だまりでにこにことしていた。悪い親戚に騙されて土地を奪われてしまったときにも、癌で病院に入院しなければならなかったときにも、おじいさんは、気にすんな、あしたという字は明るい日と書くんだよユウコ、というのが口癖だった。まだ子供で何もわからなかったあたしは、おじいさんは天国に行っちゃうの?行っちゃやだ、と言って困らせたことがあった。天国なんか行くもんか、おじいさんはね、いつもここにいるから。そう言って、あたしの頭を撫でてくれた。大好きだった。大きな煙突のある場所で、母といっしょにずーっと煙が空にのぼっていくのを見ていた。おじいさんはお空に行ったんだよ。そう言われたが嘘だ。おじいさんはいまでもここにいる。だから64歳になったとき、あたしはおじいさんになって、おじいさんが生きることのできなかった時間をかわりに生きようと思っている。

他のひとが発表している間に、ユウコは原稿用紙をきれいに消しゴムで消した。灰色のかすがいっぱい出たけれど、そんなことはどうでもよかった。捨てちゃえばいい。そして真っ白な原稿用紙に、高齢化社会に対する不安と政治が何をすべきか、という提言をきっちりとした文字で書いた。5分もかからなかった。

窓の外では青空にいわし雲が広がっている。オザワの作文でおじいさんのことを書くのはもったいないや、とユウコは思った。おじいさんのことは頭のなかの原稿用紙に書いておけばいい。干草のような芝生のような、あるいは神様のような、おじいさんの匂いを思い出そうとした。けれども、どうしてもその匂いを思い出せなかった。校庭で金属バットの音がして、わっと歓声があがった。誰かがヒットを打ったらしい。授業の終わりまであと10分。時計の針が進むのが遅い。

(ブログ掌編小説シリーズ#01/了)

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2006年3月 3日

「経営の構想力 構想力はどのように磨くか」西浦裕二

▼book06-020:経営書というよりもエッセイとして。

4492531734経営の構想力 構想力はどのように磨くか
東洋経済新報社 2004-02-13

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冒頭の部分では、いくつか参考になる考え方がありました。たとえば、全体を俯瞰する力と現場の力という両方が必要であるとか、哲学とリアリティの必要性、編集力という視点、「幼い時期の特徴を失わずに成長すること」という生物学用語のネオテニーなど。しかしながら、そうした言葉が引用としてばらばらに散りばめられている感じがあり、全体として統合されていない印象を受けます。おいしい言葉をつまんできてはトッピングしているけれど、本質的な著者自身の思想が見えてこない。

たとえば、編集という用語を使われていますが、たぶん著者は編集者ではないと思うので、その実体がともなっていないような印象を受けました。テキストをツギハギに引用することが編集ではないと思います。借り物の言葉を散りばめることは編集ではなく引用であり、編集にはさらに高度な知的な作業が必要になるはずです。個人的な体験も引用されているけれど、その体験が考え方や思想というところまで高められていないため、薄っぺらな感じがしました。同様に、構想力という言葉も耳あたりはいいけれど、全体的にはキーワードだけが浮いていて、その考え方を深化させていないように思えます。あまりにいろんなものを盛り込みすぎているので、ある特定のテーマを集中して深化させた方がよい気がします。

経営書として考えると物足りないし散漫なイメージの本ですが、エッセイとして読むと、それなりに楽しめるかもしれません。すぐに読み終わることもできるので。3月3日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(20/100冊+20/100本)

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引用から離れて。

目がまわりそうな数日間でした。何かに追い立てられるようにして、とにかく目の前の仕事を片付ける。片付けると次がある。といっても、時間的にはそれほど長い時間を拘束されているわけではありません。ただ、とにかく慌しい。忙しすぎるのも問題だな、と思いました。何よりも気持ちが殺伐とします。といっても、以前に比べるとそんなにハードというわけではありません。要するに、2月の中旬あたりにはあまりにも平穏な日々がつづいていたので、身体がなまっていたのかもしれません。平穏な日々が懐かしい。

ところで、「経営の構想力」という本を半分まで読みました。最初のうちはなんとなく惹かれるキーワードもあって面白そうだ、と思っていたのですが、読み進めるうちに、うーん、どうだろう?という気持ちになってきました。何かを言っているようで何も言っていない。そんな印象です。なぜかというと、引用があまりにも多すぎる。以前、「EQマネージャー」という本を読んでいてやはり同じような気持ちになったのですが、引用ばかりの本というのは、著者は何が言いたいのか、みえなくなってしまいます。さらに、この「経営の構想力」には著者の個人的な経験まで引用されている。もちろんその引用が効いていればいいのですが、コーヒーブレーク的な挿話だったりするので、読んでいて拍子抜けする。ちょっと物足りない本でした。

同様にブログもそうかもしれないなあ、と思いました。引用すること、リンクをはることが、ブログの大きな特長でもあると思うのですが、あまりにも引用に頼りすぎると、できの悪い大学生の論文のようになってしまう。

全文引用はできないので、どうしても部分を切り抜くわけですが、まったく違う文脈になってしまうこともあります。それが面白い効果を生んでくれるといいのですが、自分の意見を正当化するための強引な引用になることもある。批判することは簡単でつまらない、ということを先日書いたのですが、引用することも簡単かもしれません。ぼくも書くことに困るとブログなので引用するネタを探す。ブログやインターネットをうろうろしていると、何かしら引っかかってくるネタはあるもので、そうすると一日を埋めることができるわけです。埋めればいいってものなのか、とも思うのですが。

そこで、ぼくは考えました。しばらく他人のブログを読まない。そして引用することをやめてみよう、と。

期間限定。試験的に、です。読んじゃダメといっても、そんなに意思が強い方ではないので、読んでしまうかもしれない。禁煙みたいなものです。禁断症状が出たら1本だけ読んでみる。でも、1本で我慢しておく。そして何も引用しないで、ブログを書いてみる*1。

なんとなく不安です。いや、ものすごく不安かもしれない。いま息子が自転車の補助輪を外して、うまく乗れるように練習しているのですが、そんなぐらぐらとした感じがする。今日はこんなことがありました、というプレーンな日記になってしまいそうです。それもいいか。いや、だめか?

立体的な思考のために、という目標を掲げているので、一日ごとにテーマを設定して、そのテーマについて自分が考えることと深く向いあってみようと思います。そんなわけで、ものすごくつまらない日記が来週いっぱいぐらいまでつづくかもしれません。どこか他の楽しい日記をおすすめします。たぶん来週ぐらいまで、抽象的なものすごくどよーんとした話題がつづく予定。

ぼくがこのブログを再スタートしたとき、谷川俊太郎さんの詩をベースにしていたものの、限りなく自分の内面的な何かを拠り所にして動き出していた気がしました。試行錯誤しているうちに見失ってしまったものもあります。方向がずいぶんそれてきちゃった感じもする。原点に戻ってみようと思います。

パソコンの画面が深い底なしの穴のようにも思えてきた。この試みがぼくをどこに運ぶのか、まったくわかりませんが、いい機会かもしれません。ネットの引きこもりみたいなものかもしれませんが、暗闇から光が見出せることを祈りつつ。

明日から1週間ばかり、いままでと違ったスタイルで書きます。コメントいただいてもレスはないかもしれません。ご了承ください。

あ、そういえば今日は桃の節句です。うちの子は男ばかりで関係ないんです。

+++++

*1:本100冊+映画100本プロジェクトは継続しますので、この期間に読んだ本や映画については引用する部分もあるかもしれません。

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2006年3月 2日

構想力の必要性。

「経営の構想力」という本を昨日購入して読みはじめました。どうやらぼくは読書に浮気傾向があるようで、一冊の本だけなく同時進行的に複数の本を読んでしまう。「書きたがる脳」も継続して読んでいます。さらに、ちょっとビジネス書に傾倒しすぎた感じがするので、今月からは文学系も読み進めたいと思っています。栄養と同じように、読書にもバランスが大事という気がします。

その「経営の構想力」の冒頭で、いろいろなキーワードから考えが広がりました。いま60ページあたりを読書中ですが、とてもわかりやすく示唆に富んでいます。すぐ読み終わりそうで、もの足りなさを感じたりもするのですが。

たとえば、構想力とは、リアルな現場をわかりつつ全体を見渡すことができる力、と書かれています。部分を大切にしながら、その細部のこだわりに終始するのではなく、全体を俯瞰する力ということです。そして「見えないものを見る力」であり、見るだけでなく「行動」し現実化する力である。その意味で、「着想」「発想」「空想」「妄想」とは異なる、と書かれています。

部分と全体ということで考えたのですが、先日、はあちゅうさんときっこさんのブログを引用しました。その内容をとらえるにあたって、瑣末な部分ばかりに注目しがちじゃないか、と。批判に対する批判であったり肯定が是か否かというのは、ほんとうに揚げ足取りに近い「部分」のような気がします。ほんとうはもっと全体を見渡して言及すべきことがあるんじゃないか、ということです。構想に欠けているわけです。

ぼくらは「だれが」「どうした」という主語+述語的な言説に関して、「主語」の部分に注目しがちです。「あいつが」あんなこと言ってる、「あいつが」あんなことやった、という風にです。これは「経営の構想力」のなかでも触れられているように、日本の社会が同質化を重視して、出る杭を叩きたがる文化に根ざしているから、という印象もあります。短絡的ではあるけれど、そういう感情がある。けれども、「主語」も大事だけれど、その部分だけにこだわりすぎるのはゴシップ的な表層に終始するような気がしました。全体をみていません。むしろ「述語」の部分を「主語」とは切り離して考えるべきかもしれない。

ほんとうは書き込まれたコメントをひとつひとつ考える必要があるとは思うのですが、はあちゅうさんに関して誰が何を言ったか、ということをきっちり調べるほど時間もありません。そこでぼくだったら、はあちゅうさんの何を議論したか、ということを試しに考えてみます。

はあちゅうさんの発言全体のなかから、よいと思ったのは以下の部分です。

もしあれが私の子供だったら、末代までの恥。

自分が母となる未来を「構想」しているということと、その「覚悟」がある。そして個人の感情から出発して、最後には全体的な教育について言及します。

教育を徹底改革して、子供には常識を叩き込むべきだと思う。

茂木健一郎さんの言葉を使うと、この部分で「大文字」の言葉を使っているのが若干気になりますね。また常識を叩き込むのは、教育機関だけではなくて家庭という場が重要かもしれない。

言及していることを今度はぼくのなかに照射して、自分は何を考えるか、というと、政治的な教育改革も必要だけれど、父親として母親としてできることがあるんじゃないのか、ということです。「もしあれが私の子供だったら、末代までの恥。」という基本感覚があるかどうか。恥を恥として感じない緩みが自分にもあるんじゃないか。

「勉強をしなさい」と子供に言います。ちょっと教えたりもする。けれどもほんとうに大事なのは、勉強よりも「知恵」なのかもしれない。「宿題やっちゃったよ」「あと赤ペン先生、何ページやればいい?」と息子は言います。でも、ほんとうに大事なのは、やったかどうかよりも、そこで何をみつけたか知恵になったか、ということかもしれません。足し算の解き方よりも、父親としての知恵を彼に教えた方がいいんじゃないか。教育の専門家ではないので、ほんとうに上っ面なことしか言えずに恥ずかしいのですが、教育改革も形式より内容が重要だと思う。社会全体が形式ばかり重視して内容はどうでもいい傾向にあるような気がします。

20代の頃、ぼくは正直なところ結婚なんてしたくないしぜったいに子供もいらない、と思っていました。そして子供ができて、父親としてどうすべきかわからずにおろおろしつつ、なんとか父親らしくもなってきた。なってきたけれども、ほんとうに父親として満点か、というと大いに疑問があります。父親にも完成形はなく、常に学びつつ成長し、進化させていくものだと思う。

教育は国だけの問題ではない、というのはスタートにすぎません。じゃあどうするか。個人的な経験と大きな見えない全体の両方を考えるとき、構想が生まれるのではないでしょうか。

はあちゅうさんの発言が誰か大人に吹き込まれたものだろう、というのもどうでもいいことです。というのは自分の発言だって、きっと誰かが言っていることに影響されている。もしほんとうにオリジナルな言語を喋るようなひとがいたら、その言葉は誰にも理解されないと思います。

何度も書いているのですが、ぼくは批判的なもの、ネガティブな感情、ゴシップ的なものを否定するわけではありません。ぼくだってそういう部分があるし、人間には清い部分ではなく濁りの部分もある。泥沼のような現実に這いつくばって、きれいな青空を見上げているようなものです。

あくまでもぼくがどちらを向いていたいか。誰にも押し付けるつもりもないのですが、青空を見ていたいものだなあ、と思うだけのことです。

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2006年3月 1日

書かないという選択。

同時発生的に議論されていて面白いと思うのですが、ブログ文章術について、さまざまなブログで盛り上がっているようです。ぼくもブログで表現する方法ついて書いているのですが、梅田さんの提唱された総表現社会をはじめとしてブログ社会の在り方について模索が始まったような印象があります。いい傾向だと思います。

そうしたブログ文章術のなかでも、批判的な発言についての考察に、なかなか面白いものがあります。はあちゅうさんのブログに書かれている「小娘が何か言ってます。」という記事は、かなり話題になっていました。渦中に書くのはどうかと思ったので、いまその話題について書いてみます。はあちゅうさんといえば、さきっちょさんといっしょに女子大生ブロガーとして有名になったひとでした。引用します。

この間テレビで
「なんで人を殺しちゃいけないのか説明してください」
って言ってる高校生を見て、
「は?」って思った。
もしあれが私の子供だったら、末代までの恥。
世の中には説明の要ることと要らないことがあって、
その質問は後者のカテゴりーに属するでしょ。
生きるのに苦労してないからそんな質問出てくんだろうね。<
あたしも大して苦労してないけどさ。
生きることがどれだけ大変なことか知ってたら、
そんな質問できなくない?
そういう低レベルなことをぼやいてる奴らをまとめて、カルカッタのマザーハウスとかルワンダとかに全員ボランティアに行かせるべきだと思った。
向こうも迷惑だろうけど、頭下げて勉強させてもらいに行くべき。
必死に生きることにすがりつく人間を目の当たりにしたら、
「なんで殺しちゃいけないか」なんて言えなくなるはず。
こういう感覚を持った若者がいること自体間違ってるよ。
日本、なんか最近情けなくない?

ぼくはこの発言自体は、いいなあと思っていたのですが、それがどうやら批判もされているらしい。そもそも、まだ20代ですよ。ぼくが問題だと思うのは、はあちゅうさんの批判的な発言よりも、その発言を怒涛のように批判する(ことに、よろこびを見出す)ブロガーの姿勢です。

というぼくも、試しに批判的なことを書いてみようか、書いたらどうだろう、と思ったことがありました。今年の1月〜3月には、感情にまかせて書いたらどうなるかなど、自分を人体実験にしてやってみようと思っていたからです。けれども、その批判に対する批判(というかお叱り)もいただいたりしたので、やめました。もうひとつ、批判をやめた大きな理由があります。それはやってみてわかったことですが、こういうことです。

「批判的な文章を書くのは、簡単すぎるのでつまらない」

感情的になって逆のことを言えばいいだけですからね、簡単すぎます。簡単すぎるものに一生懸命になって取り組んだとしても、自分のためにはなりません。もちろん高度な批判も可能かと思うのですが、それは批判ではなく論争的なレベルではないでしょうか。何か言ってる小娘に逆上してコメントして、どうだ!というのは大人げない。しかも大勢で吊るし上げるのは、人間がちいさすぎる。

彼女のことを思って批判するんだ、という意見もあるかもしれません。しかしながら、ほんとうに?とぼくは突っ込みたい。ナルシスト的に、かっこつけてるんじゃないの?という感じです。自分のストレスを解消するために彼女をおかずにつかっているんじゃないのか。

山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室。」にも、批判に対する言及があります。ズーニーさんのところに寄せられるメールには、鉛のようにどす黒い批判も少なくはない。そんな批判も真摯に受け止めていたのですが、結局わかったそうです。批判が自分を成長させてくれることはない、と。

何かコメントしたからといって、偉いわけではないですよね。ほんとうに偉いのは、誰かが書いたものにコメントをつける安易なことではなくて、自分で新しいアイディアを創出して発言をすること、もしくは発言した考え方を基盤に「行動すること」だと思います。ブックマークに付けられた批判から盛り上がって、自分の発言で盛り上がった!のように興奮するひともいるようですが、ぼくの正直な感想は、寂しいひとだなあ、という感じでした。

たとえば子供の教育がなっていない、と発言する。その発言自体は大事です。まず問題意識を持ち、自分の考えを表明することは重要だと思います。だから、はあちゅうさんの発言もぼくは全面的にいいと思っています。ただ大切なのは、次に何をするか、ですね。急に政治家になれるわけでもない。松下村塾のような教育を始めることもできない。世界を救え!なんてことはできません。じゃあ、自分に何ができるのか。

地震や台風などの天災でも電車事故でもいいのですが、政府の対応の遅さや企業の腐敗などを批判することは簡単です。でも、被害者のために募金をする、という行動がさっとできるかどうか。批判よりも、すべきことはたくさんある。

さらにクリエイティブな世界に考え方を拡大すると、アマチュアの音楽作品についてどうこう言うのは簡単です。でも、じゃあおまえはすごい作品が創れるのか?ということになると、何も言えない。ソフトのここが変だというのも簡単。じゃあプログラム組んでみろ、と言われたら組めません。デザインについても同じです。デザインしてください、と言われてもできない。だから、何かを作り出そうとするひとは(特に自分にできないことを考えたり作り出しているひとは)すべて、ぼくは尊敬しています。

ついつい批判を書きたくなる気持ちはわかります。でも、ぼくはこう思います。

「書かない、という選択もある」

ココロのなかで思っていればいいじゃないですか。こいつの考え方は違うね、と。まったくばっかじゃなかろうか、ぷんぷん、と。あえて書かなくてもいい。

有名な方ですが「きっこのブログ」に「「きっこの日記」は無料です」というエントリーがありました。これもまたどうでもいいことですが、ブログのクオリティの高さやスクープ的な情報感度から、ほんとうはプロのライターが複数で書いているんじゃないのか、などの都市伝説的な憶測も飛んでいるブログです。引用します。

今までに何度も何度も何度も何度も何度も何度も言ってるけど、この「きっこの日記」は、あくまでもあたしのプライベートな日記であって、あたしが書きたいことを書くための日記だ。だから、読者のために書いてるんじゃなくて、あたしの自己満足のために書いてる。

そりゃそうです。先日、ぼくは読者を意識した方が自分の成長のためになる、ということを書いたのですが、基本的には、きっこさんと同じかもしれない。第一は自分のために書いています。きっこさんは次のようにつづけます。

だけど、ものすごくたくさんの応援や感想のメールが届くから、一応は、「皆さん、いかがお過ごしですか?」とか言ってみたりして、読者のことも意識して書いてるけど、基本的には、あたしのプライベートな日記だ。だから、読みたい人は勝手に読めばいいけど、こっちから「読んでください」なんて頼んだことは一度もないし、あたしと考え方や趣味の違う人は、わざわざ読んで不愉快になる必要もないし、読まなきゃいいと思う。世の中には、星の数ほどWEB日記やブログがあって、色んな考え方や趣味の人がいるんだから、他人の日記を読むことが好きな人は、たくさんある中から、自分の好きな日記を探して、それを読めばいいってことで、何もわざわざ自分と違う考え方の日記を読んで、不愉快になることはないと思う。

これも同感。

むかーっときたやつはリンクを外せばいいだけです。余計なおせっかいのコメントには反応しなきゃいい。なんか感情にさわるものがある、というブログはRSSリーダーから外して二度と見ない。たかがブログです(されどブログですけどね)。とはいっても、人間だから、批判はつまらんと思っていても批判的な気持ちがむくむくあがってくることもある。そういうときは、ひとさまのブログではなくて、自分のブログで書けばいい。名ざしやトラックバックすると、批判されたひとにはプレッシャーになると思うので、あくまでも一般論として書く。きついことを書く(もしくは言う)ひとは、逆に言われることに弱いものです。やさしくしてあげましょう。


ぼくは一日にブログを1〜2時間で書き上げるようにしています。もちろんそれは目安であって、3時間近くあれこれ考えていることもある。けれども2時間というのは、一日の24時間のうちで10%にも満たない。その他に、仕事したり趣味に没頭したり食べたり寝たり、リアルに生きている時間がたくさんある。だからブログ=自分ではまったくない。ブログに書かれている自分は、ぼくのほんの一部に過ぎないと思っています。

ブログにも人格はあるけれど、それはリアルな人格のごく一部分です。

日本人は議論が下手だといわれるのは、発言をそのひとのすべてだと思い込んでしまうところにあるような気がします。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

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