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2006年3月 8日

総表現社会の行方。

つづけざまに掌編小説を書こうとしたところ、なんとなく筆(というかキーボード)の勢いが止まりました。おっ、なんだか書けなくなってきたぞ、これがライターズ・ブロックか?と、ちょっと嬉しくなったりしたのですが、先週末から情報を遮断しつつ、自分を実験材料にして、書くことについて深く考えています。そして掌編小説を書くという試みを通じて、いろんなことを感じました。感じたとはいえ、ものすごく当たり前のことです。当たり前すぎて恥ずかしいのですが、試みを通じて考えたことを書いてみます。

なぜ日記やブログを書くのか。日記やブログというのはリアルな自分の生活に近いところにある文章です。今日、自分はこんなことをした、こんなものを読んだ、こんなひとに会った、これを食べた。多くは記録的な要素であり書く必然性がある。なぜなら現実というのは、どんどん過去として失われていくものだからです。生きていくこと自体が、途方もない喪失かもしれない(村上春樹さん的な言説ですが)。だから残しておきたい。一方で、離れた場所にいて頻繁には会えない友人や知人がいるのであれば、そのひとに向けた報告という意義もあります。コミュニケーションの架け橋として機能する。日記やブログには、そんな風に意義がある。しかしながらですね、小説や詩というのは、

「別に書かなくても、暮らしていける」

ものです。おまけに面倒くさい。小説や詩に没頭しているぐらいなら、酒飲んで、わいわい騒いだ方がきっと楽しい。日記にコメントがつくのはうれしいけれど、小説ってコメントを必要するのかどうか。もちろん作家は読者の感想があれば有難いかもしれないのですが、コメントがなくても書くと思うんですよね。小説などの創作というものは、ある意味、自己完結的なものです。自己完結していても書くひとは書きつづける。作家になろうがなるまいが書く。これってなんだろう。

いまぼくは馬鹿馬鹿しいほど当たり前の疑問に直面していて自分でも苦笑ぎみなのですが、その直面している疑問とは、こういうことです。

「人間はなぜ、現実ではない仮想の物語を書こうとするんだろう」

現実を生きればいいじゃん、と思う。そして現実を生きるのに必死であれば、架空の物語なんて考えている暇はない。小説家が破綻するのは、現実よりもこれから書こうとするバーチャルな物語の方にウェイトを重くしすぎるから、かもしれません。

そもそも小説とは何か、ということをもう一度考え直す必要があるかもしれません。むかーし、大学の講義で何か学んだような気もします。文学だけではなくて、一時期マーケティングの世界でも物語が必要であるとして、物語マーケティングのようなことも言われていたことがありました。とはいえそれは企業が販売したい製品にコンテクストによる物語という付加価値をつけて、その物語によって共感を生むこと、製品によってもたらされる理想の世界をより現実的に感じられるようにすること、という意味がありました。

ブログなどに書かれたリアルな個人的体験は、どうしてもインパクトが強い。ブログを読んでいるとお腹がいっぱいになってしまって、小説を読もうとする気力も萎えてきたりします。ぼくだけかもしれませんが、リリー・フランキーさんの「東京タワー」も途中で挫折しています。というのは、自分史的な表現が鼻についてしまって、これなら個人的な体験をストレートに書いているブログを読んだ方がよっぽど泣けそうだと思ってしまったからです。もちろんまだ半分だけしか読んでいないので、後半にすごい展開があるのかもしれません。期待しています。

個人的な趣向ということもある。川上弘美さんがエッセイに書いていた気がするのですが、川上さんは今日あったことを書く作文は苦手だったそうです。けれども、でっちあげの物語であればいくらでも書けたとのこと(うろ覚えなので確かではありません)。個々に適した能力だと言ってしまうとミもフタもないのですが、記録的なことに能力を発揮するひと、でっちあげの空想を書く大嘘つき、批判に限りないよろこびを見出すような評論家、などなど、それぞれタイプの違いかもしれません。

現実の人生に勝る物語はない、という感じですが、リアルに対する挑戦もあるかもしれません。架空の箱庭を、どれだけ現実っぽくみえるように作ることができるか。現実そっくりじゃなくても、生身の人間たちに何かの感情を起こさせることができるか。ぼくはDTMでVocaloidというソフトウェアに歌わせようとしていますが、それも挑戦的なものがある。負けちゃいますけどね。

かつて少年時代のぼくは、自分を表現する手法として音楽や小説を考えていたような気がします。音楽であれば楽器を上手く弾くというのも自己表現だと思う。ところが、どういうわけかそちらの方面の気持ちはまったく欠けていました。他人の曲を上手く弾けるよりも、へたくそでも自分の作った曲がいいと考えていたわけです。作曲家と演奏家の違いでしょうか。

超多忙なプレゼンが終わった日の深夜にそんなことを考えていたところ、表現とは何か、ということがわからなくなってきました。総表現社会といっても、議論すべきことはあるような気がします。たとえば誰かが何か言ったことを引用してコメントをつけるだけの表現が成熟した表現なのか。総コメンテーター時代が豊かな表現社会といえるのか、揚げ足取りの量産化ではないのか。整理という観点が重要とはいえ、整理したところで整理は整理でしかなくてほんとうに何かを生み出しているのか(企業にとって管理はコスト削減になりますが、全体の売り上げを伸ばすものではない。部屋の整理をすれば気持ちいいけれど、掃除もしくは整理を目的にして、永遠に掃除しつづける生活は何か本質的なものを見失っている気がする。雑多で整理されていなくても、豊かな何かがあるような、ないような)などの疑問を感じました。

では、どうするか。考えなければならないのはそこからです。

投稿者 birdwing : 2006年3月 8日 00:00

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