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2005年11月30日

プレゼンの魅せ方。

IT関連のお仕事をしていますが、仮想化技術(Virtualization)関連のあるプライベートセミナーに参加しました。仮想化というのは、物理的には1台のサーバであっても、論理的に複数台のように動作させる技術のことです。したがって、WindowsとLinuxなど、複数のOSを同時に動かすようなことができるようになります。かなり専門用語が多かったのですが、やさしく解説いただいているせいか、ちんぷんかんぷんということはありませんでした。というよりも、もともと文系とはいえ業界には長いし、理解しようと思う気持ちがあれば理解できるようになるものです。まあいいやと諦めてしまうと、そこで成長が止まってしまうものでもありますが。

この仮想化技術についてもいろいろと思うことがあり書いてみたい気がするのですが、難しくなりそうな気がするので、ちょっと別の視点から考えてみようと思います。「プレゼンテーション」という視点です。

仕事としてぼくは企画書を書くことも多く、プレゼンの機会もあります。もともと編集の仕事をしていて、またDTP以前の遠い昔には簡単なレイアウトなどもやったことがあるため、どうすれば説得力のある企画書が作成できるのか、というのはぼくの永遠のテーマでもあります。そこで今日のセミナーでも、内容はもちろん、スクリーンに映し出された資料のできばえとか、プレゼンをするひとのトークなども注目していました。

今回セミナーに参加して、2つのポイントから、かっこいい(かっこよくみえる)プレゼンについて考えてみました。

第一は、スライド(スクリーンに投影する企画書など)の色とチャートについて。外資系の企業は、やはり上品で洗練されたスライドが多いなあと思いました。日本の企業の場合、年配のプレゼンテーターの方が「これはポンチ絵なんですけどね」と謙遜されてチャートを説明することもあるのですが、内心、いやーこりゃほんとうにポンチだ、とほほ、というイラストも多い。しかしながら、外資系のスライドはかなり上品なイラストを使っています。たぶん、ブランディングの一環として、印刷物やWebサイトはもちろん営業ツールに使うイラストが既に用意されていて(使い方もマニュアル化されていて)、使っているのでしょう。

あと色彩の使い方として、グレーをうまく使うと洗練された資料になる気がしました。また、赤にしても、日本ではいわゆるキンアカ(マゼンタ100%+イエロー100%)が好きなようですが、オレンジ系を使うとぐっと印象が変わる。青にしても、インディゴのような色を使うと知的になる。ただ、あまりおしゃれにしすぎると迫力がなくなるので、赤+黒のような力強い色の合わせ方もありですね。

第二は、トークと話す姿勢について。最初にアジェンダなり、アウトラインを示して、それに沿って話すと、ああ、いまはこの部分であとはこれだけあるな、ということが聞き手にもわかって安心します。逆に、構成を知ってしまったがゆえに、うわーまだこんだけしか話せていないけど時間ないんじゃないかな、あ、あと10分って紙が出されてる、大丈夫かな、と講演者じゃないのにひやひやすることもありますが。今回、これはかっこいいと感激したのは、壇上に上らないで、あえて低い位置から歩きながら説明していく、そして途中で「ここまで理解できたでしょうか。質問がありますか」と、会場の状況をうかがう方式でした。もちろん、うつむかないで、前方ちょっと上あたりを見る感じです。自信ありそうにみえる。

もちろん内容が大事なのですが、内容に合わせた演出や、長時間である場合にはちょっと余談をはさむとか、構成も大事になります。そんなところは、バンドのライブ演奏や、あるいは演劇と似ているのかもしれません。この演出の背景には、テツガクとまではいかなくても自分なりの価値観や考え方があるべきです。それがないと、ほんとうにうわべのみせ方になってしまう。

ITの最新動向はもちろん、法務的なこと、マーケティングのこと、プレゼンの演出の仕方など、仕事上でも、まだまだ学ぶことはたくさんあるようです。

++++++

一時期、それこそ50冊以上の企画書やプレゼンに関する本を購入して読み漁ったのですが、なかなかいい本がありませんでした。代理店のちゃらちゃらしたひとが好きそうな本が多いのですが、うわべの技術じゃないと思うんですよね。

そんななかで、落ち着いて納得できた本が「企画の原典」。プランナーは企画の成果にまで責任を持つべきだ、という主張にうなづけたし、秘密保持契約書のひながたまで掲載されているところに実務者としての誠実な姿勢がうかがえます。企画者は歴史を作れ、というメッセージもいい。

ただ、企画を志望する学生なんかは、おちまさとさんなどの、ちゃらちゃらした本が好きそうだから、この本はきっと売れてないだろうなあ。もちろん、ぼくはおちまさとさんの本も好きですけどね。

■「企画の原典」 淺原雄吉著(下記ページのいちばん下にあります)
http://www.ncosmos.co.jp/mag/index.html

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2005年11月17日

集合的な脳。

仕事のなかでエコシステムという言葉が出てきて、ああ、そういえばそんな言葉が一時期よく使われていたな、と思い出しました。

もともとエコシステム(Ecosystem)とは、生態系という生物学の用語ですが、食物連鎖などをはじめ生産、消費、分解などのサイクルをまわしていくことのようです。つまり、動物が植物を食べる、その排泄物が植物の栄養になる、というような永遠につづく循環です。

この言葉がビジネスとしても使われるようになった。つまり、複数の会社がパートナーシップによって協業し、ともに発展していくようなビジネスモデルのことを、自然界の生態系になぞらえてエコシステムと呼んだわけです。考え方自体は、それほど新しいものではないと思います。IBMなどではかなり前からステークホルダーという考え方のもとに、企業と利害関係をともにする人々との関係性を重視してきた、ということを以前、何かで読んだ記憶があります。と思って、調べてみると、IBMのサイトにまさにエコシステムの解説がありました。

関係性ということでは、マーケティングの分野でいうと、リレーションシップマーケティングということが、かつて言われていました。顧客との継続的な関係性を重視して、集客はもちろん、顧客の維持に注力すべきである、という考え方です。お客さまは神様です、とは昔から言われていたことですが、お客さまによって企業は生かされている。ただ、CRM、テキストマイニング(アンケートの自由回答の文章を分析する手法)というITの手法に走りすぎると、ほんとうにお客さまの心がみえているのだろうか、という疑問も若干感じたのですが。

ブログやSNSの世界も、ある意味、エコシステム的なところがあるんじゃないか、と考えました。読むこと、コメントをつけること、というのは、時間がかかるものです。自分の時間を消費して、自らの時間や労力を「与える」行為といえます。変なたとえですが、プランクトンがサカナに自分の身を与えるような行為(とはいえないか)でもある。けれども、その与える行為が、ブログの書き手を生かしてくれる。そして今度は与えてくれたひとにコメントを返す、もしくはそのひとのページを訪問してコメントすることで、循環していくわけです。

以前、あるセミナーで東京大学の社会心理学博士、池田謙一教授のお話をうかがったことがあるのですが、そのなかで池田教授は、上記のような生かし生かされる関係を「互酬性」という言葉で説明されていたようでした。インターネットは顔のみえない世界なので、ハンドルなどの匿名による書き込みも多く、個々に対する信頼性は低い。しかし、何かしてくれたことに対してはお返しをしたくなる、という意識が高いようです。というのも、コメントの連鎖を考えるとよくわかる。

コメントで書き手を生かし、生かされた書き手が読み手にコメントする。その循環が相互を生かすものであれば、永遠に生かし生かされる関係として続いていく。しかし、どちらかが支配する、奪う立場になると、生態系のバランスが崩れる。攻撃的な書き込みや煽動、いわゆる祭りというものは、盛り上がっているようにみえますが、生態系を破壊するものであるように思います。ネガティブループに引き込むことによって読み手の意識から何かを奪いつづける。

生態系には、バランスが重要だ、と思いました。

と、書いていていつものようにまた飛躍するのですが、映画館には足を運べないものの、レンタル屋さんに通って、来年から再び映画年間100本鑑賞プロジェクトを進めることにしました。そんなわけで、リハビリをかねて映画を観はじめたのですが、古めの映画で申し訳ないのですが、「コンスタンティン」を観ました。

B001ALQWLYコンスタンティン
キアヌ・リーブス, レイチェル・ワイズ, ジャイモン・フンスー, プルイット・テイラー・ヴィンス, フランシス・ローレンス
ワーナー・ホーム・ビデオ 2008-07-09

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キアヌ・リーブスが主演で、タバコを吸うときの仕草はかっこつけすぎ、と思ったのですが、やはりかっこいい。横顔がいい。彼は霊感のある私立探偵(というか霊媒師?エクソシスト?)で、特殊な能力を生かして、邪悪なものたちと戦う。具体的に邪悪なものとは、悪魔と天使なんですが、現実世界というのは、この悪魔と天使の世界のはざまで成立していて、バランスが取れている。その均衡を崩そうと、天使ガブリエルが企むのですが、この天使の翼が真っ黒なんですよね。天使なんだけど腹黒い。その対比を映像で表現している。天使、悪魔、人間の戦いという構図で、さっと頭をよぎったのが、まさに「デビルマン」なのですが、やっぱり同じようなテーマでSFXを駆使しても、邦画ってのは限界があるのでしょうか。コンスタンティンでは、ガブリエルの女優さんは(うーん、誰だっけこのひと)ものすごくきれいなひとなんだけど、それだけに黒い翼との対比が印象的でした。

キリスト教には、自己犠牲という考え方もあります。これは限りなく与えつづける考え方かもしれません。しかし、そんな高貴な悟りにはすぐに到達できないのもまた人間です。そして、バランスの崩れた世界というのを体験してこそ、貴い考え方もわかる。痛みをわかった人間こそが、ほんとうにやさしくなれるのかもしれません。

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■いつもながら最後には話が大きく脱線しちゃったのですが、エコシステムの解説。
http://www.blwisdom.com/word/key/1056.html

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2005年11月16日

かたいイシ。

ぼくは1年に1度、救急車のお世話になります。自慢できることではないのですが、どうやら尿管結石らしい。らしい、というのはたいてい救急車で運び込まれて、4時間ほどすると痛みが治まってしまう。お医者さんとしても、あーちいさな石だったんですね、きっと救急車で運ばれている間に落ちちゃったんでしょう、みたいな診断をされていたからです。ところが、つい先日、やはり救急車で運ばれたところ、結石じゃないな、とのこと。CTスキャンまで撮影して、確かに左側の腎臓の上あたりに石はあるのだけれど(それも困るのだが)、その石でこれほど痛くなることはないだろう、とのこと。じゃあ何が原因?というのが、不安ではあるのですが。人間、生きていると、いろんなところに支障が出てくるものです。

人間のなかで石ができるのは、とても不思議な現象です。しかし、石ができるといえば、真珠貝だって石を作るわけであり、おおー地球の仲間たち、同じだね、という感じ。生き物にはどこか共通した機能があるのかもしれません。しかし、きっと真珠貝はこんなに痛くないだろうと思う。ぼくの場合、まずは腰骨の上あたりの背中が、どーんと痛くなって、もう立っているのも辛くなる。次にだいたいみぞおちのあたりも苦しくなってくる。最近はたいてい、石がきたっ、というのがわかるようになったので、まず予感があったところで会社を早退させていただくのだけれど、電車の中では油汗ぽたぽた状態であり、我慢しきれなくなって途中下車して、駅から救急車を呼んでもらったことも既に2回あります。人も集まってきたりして恥ずかしいんだけれど、それどころではありません。

仕事関連の知人にも、いままさに大物の石を育んでいる状態だそうで、ぼくよりもひどく入院までされている。大学病院に行ったところ、おおーっ大物だねーとすごく喜ばれたそうですが、喜ばれてもいかがなものか、と思ったそうです(そりゃそうだ)。はやく生まれてくれるといいですね。

石が石を呼ぶ、というか、あーオレも結石の経験がある、ということで、いま関係者の間でちょっとした石ブームです。結石もちが集って「尿管ストーンズ」結成、という話もあるのですが、この「尿管(にょーかん)」という語感がなんとも脱力するものがあり、もうちょっとかっこよくならないか、などと思う。治療には、破砕機などというものもあるようで、こちらは超音波などで石を砕く。手術も麻酔もいらないし1時間ほどで完了するらしく、尿管ストーンズ(仮)の憧れの的です。破砕機はどの病院にあるか、と、宝物を探すような感覚で夢の機械を探しています。

結石といえば、行定勲監督に「Seventh Anniversary」という映画があります。これは失恋したあとには必ず結石で苦しむ女の子の主人公が、7番目の失恋で苦しんだ末に出てきた石を「Seventh Anniversary」と名づけて大切にしていたのですが、この石のおかげで運気が変わってくる。ある機会から雑誌で紹介されたところ、結石ブームを呼ぶ。石をゆずってくれ、というひとも出てくる。彼女は次々と石を生産して、カリスマ結石もちになっていく。そうして、わたしも石を作るわ、というひとが増えていく、というようなお話です。

実際に結石をもっている人間としては、なんともとほほ(苦笑)な笑えないストーリーなのですがやはり結石もちとしては無視できない作品でもあり、かなり前に観たことがあります。しかしながら、借金のために特大の石を作ろうとする女性の話では、もう痛みがびしばし伝わってきて、観ちゃいられなかった。思わずDVDを早送りしちゃったものです。あれは経験したひとにとっては、しんどい映像です。いま思い出しても背中がうずく。

結石もちの9割は男性、ということも聞いたことがありますが、あの映画では女性が主人公というところに意味があるのではないでしょうか。やはりどうしても出産のイメージと重ねてしまう。しかしながら、知人によると出産の痛みは痛みではない、とのこと。たしかに新しい生命である子供を産むのと、石を体外に出すのでは、まったく違うものだと思います。やはり女性は偉大です。

なぜ石ができるのか、という理由には、不摂生やストレスもあると思います。頑張るぞ!というかたい意思をもつことは大事ですが、あまりにも几帳面に頑張りすぎると、かたいイシができる。ほどほどに力を抜きつつ、やわらかく生きてみたい。背中のうずきを感じつつ、そんなことを考えてみました。いてて(いまびみょうに結石中)。

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■あまりおすすめできないかも、なのですが。結石がテーマの映画です。

行定勲 Hert Wraming Collection Seventh Anniversary行定勲 Hert Wraming Collection Seventh Anniversary
小山田サユリ 柏原収史 津田寛治


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2005年11月15日

コンペイトウ理論。

先日、ドーナッツ理論として「中心にある言葉を書かない方がおいしい」という、なんちゃって理論を書いたのだけれど、今回はコンペイトウ(金平糖)理論です。といっても、食べ物やお菓子にはぜんぜん関係がなくて、やっぱり言葉と意識に関する抽象論なのですが。

コンペイトウというのは、砂糖で作った1センチぐらいのとげとげのある菓子で、ポルトガル語で砂糖菓子を表す「confeito(コンフェイト)」が訛ってコンペイトウになったらしい。そのとげとげから発想したのだけど、言葉と意識(感情)は、コンペイトウのような形をしているんじゃないか、と、ふと考えたことがありました。ただ、固くはないから、コンペイトウの形をしたグミ、のようなものかもしれない。そんなものがあるかどうかわからないけど(ないでしょうね、きっと)。

例えば、ある感情があるとすると、そこからいくつものとげとげが出ている。そのとげとげの先端にあるのが言葉であり、ひとつの感情を核として、その感情から派生する言葉はいくつもあるわけです。「さびしい」を核とするコンペイトウであれば、「ひとり」「夕暮れ」「青空」などの言葉がとげになっている。「青空」はさびしい、とはいえないかもしれない。ひょっとすると「楽しい」コンペイトウのとげとげのひとつという気もする。そんな風に、ちょっと核とは遠いようなとげとげもあったりする。

そして、あるとげとげを引っ張ると、そのとげとげの核となっている意識(感情)がずるずると引き出されてくる。引き出される途中で、ぷつんと切れてしまうとげとげもあるわけです。その言葉の広がりはそこまで。ところが、とげとげのなかのひとつには、その意識の総体を引きずり出すような、言葉のツボ、というか、とげとげの王者、がある。そいつを引っ張ると、コンペイトウ型の感情全体を引き出すことができるんじゃないか、と。

谷川俊太郎さんの「コカ・コーラレッスン」という詩に出てくる少年は、そんな意識の総体を引き出すような言葉の「突起」をつかんだのかもしれません。詩のなかに出てくる「突堤の先端に腰掛けて」という言葉が、符合のようにも思えてくる(考えすぎか)。上空からみたら、彼は海に面した地上の「とげ」の先端にいたわけです。

ところで、書いている本人にそういう意識はなかったとしても、ある意識をずるずると引き出してしまうような言葉もあります。言葉というのは記号にすぎないから、言葉という「とげ」から逆にそこにはない意識を再生することもできる。書き手はひとりであっても、読み手は複数だから、そこにさまざまなコンペイトウが生まれる。そうして生まれたコンペイトウのなかには、鋭い刃物のようなとげで誰かを傷つけるものもあるかもしれない。だから、何かを書くこと、というのは難しいし、何かを伝えること、というのも、ものすごく難しいことだと思っています。

ぼくらはどんな言葉でも自由に書くことができる。徹底的にひとを追い込んで糾弾することもできるし、元気づけて明日への活力を与えることもできる。ぼくの場合には、癒すこと、なごませること、ほわほわな気持ちを生成するような言葉を使うことができないか、と、ずっと考え続けています。できれば言葉を武器として使いたくない。使いたくなる感情を理性でコントロールしていたい。ほわほわな気持ちを生成するコンペイトウの突起はどこにあるんだろうと探しているのですが、なかなかみつからないものです。

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■フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の金平糖。写真がかわいい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B9%B3%E7%B3%96

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2005年11月14日

青空が広がるとき。

あるセミナーで、はてな社長の近藤氏が「日本のGoogleをめざす」というお話をされていました。そのお話に誘発されて、半年以上、放っておいたはてなの日記を復活させたのだけど、半年の間にものすごく変わっていてびっくりです。ロゴが洗練されている、というのがまずなんとなくうれしいのですが(デザインは結構大事。これは9月28日にリニューアルしたんですね)、サービスが増えている。まだ全部を理解しきれていないのですが、少しずつ使っていこうと思います。

もちろん変わっていない部分もある。はてならしいといえば、はてならしい部分だけれど、コメントの部分の記述方法とかテンプレートとか、もう少しどうにかならないのかなという部分もある。ただ、改行が多い文章を書くひとには向いていない印象もありますが、ブロックでががーっと大量の文章を書く場合には向いている気がする。

ブログにも特長や個性があるようで、デザイン志向であればやはりデザインテンプレートに凝ったものが用意されているブログがいいだろうし、文章志向であればとにかくシンプルで書きやすいのがよい。自分に合った部屋を選ぶように、自分に合ったブログを選ぶことが長続きするコツかもしれません。ぼくはこのDeltaのテンプレートがお気に入りです。いろいろとほかのブログに浮気をしようとも思ったこともありますが、ここに戻ってくるとほっとする。そして書きたい気持ちになります。

はてなのサービスのうち、はてなリングとフォトライフを使ってみたのだけど、結構楽しいですね。写真に関しては、デジタルカメラを持っていないひとは少ないだろうし、携帯電話にはカメラが、ほとんど付いている。しかしながら、写真でコミュニケーションをする、というのは、どういうことなのだろう、とあまりぴんときませんでした。でも、「つながること」なんだとわかった。

デジタルカメラの使い方といえば、ぼくは看板とか地面とか、あとは空なんかばかりを撮影しているので家族から「風景写真家」などとからかわれているのですが、その一部の写真を以前はココログで公開していたのですが、アクセス数はわかるものの、だからどうだ?というのはあった。

ココログで公開していた写真をフォトライフの方に移してみたところ、面白い機能に気づきました。フォトライフに掲載された写真の下に、その写真に使われている色の四角いアイコンが2つほど表示される。ほんとうにちいさな四角形で、なんだろうなと思っていたのですが、このアイコンをクリックすると、その色を構成要素とする写真が検索されて、ぱあっと表示される。

ぼくの写真は空ばかりなのだけれど、青いボタンを押したら、ぱあっとブラウザの画面いっぱいに青空が広がった。

わーこれはいいなあ、と思いました。つまり点在している青空の写真が、青いという色によってつながるわけです。夕焼けの赤い色を押すと、赤つながりの写真が表示される。ただの検索機能じゃん、と言ってしまえばそのままなのですが、この検索結果の向こうには、写真を撮ったひとがいて、そのひとのブログもある、と想像すると、一面に広がった青空からどこかのブログへ、飛んでいきたくなる。

そういえば、画像を解析するそんなサービスがあることを聞いたことがあり、そのときは何に使うのかよくわからなかった気がします。プロのイラストレーターが素材を検索するのに使う、というようなイメージだったけれど、こんな風にサービスになってはじめて、あの技術はこんな風に使えるのか、とあらためて思いました。

ところで、プロの写真家ではないのだけれど、ブログのなかで写真をうまく取り入れながら日記を書いているひともいます。ぼくのお気に入りは、七井李紗(なないりさ)さんという方の「ほっと!ぐらふ」というブログ。七井さんはとあるIT関連企業の広報を担当されている方ですが、ブログのタイトルは、Photograph(フォトグラフ)をもじった造語で心が「ほっ!」となごむ風景やスポットなどを写真とともにご紹介するとのこと。ほんとうになごみます。食べ物の写真がちょっと多くて、夜中に見ているとお腹がぐうぐう鳴るのですが。*1

写真ブログについては、はてなリングでつながっていくと、写真集をいくつも見ていくような楽しさができるのかな、と思います。ちなみにぼくは「Web Marketing」「書評」「映画」「DTM」というリングに参加させていただいたのですが、それっぽい話が少なくてすみません。

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■ほっと!ぐらふ。七井李紗さんはAll Aboutで「夏の癒し空間」という記事も書いていました。人気投票では21サイトの中で4位入賞だったとのこと。

http://hot771.jugem.jp/

■さすがに写真を使うブログだけあって容量がいっぱいだったようなのですが、ブログをお引越しされたようです。あたらしい、ほっと!ぐらふも楽しみです。お引越し先は以下です(11月18日更新)。

http://hot771.blog37.fc2.com/

*1:七井さんのブログのどこかにトラックバックさせていただこうと思っていたのですが、東京ビックサイトの雨上がりの青空にトラックバックさせていただきます。ほかにも素敵な写真は多いです。08.14の、ひまわりの風景も素敵で、ぼくはその写真のイメージをもとに稚拙なショートショートを書かせていただいたこともありました。

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2005年11月13日

伝わらなくても、かまわない。

日曜日の朝、ぼんやりとまどろんでいると、2歳の次男と奥さんのやりとりが聞こえてきました。「えーちょ、でんでん、むしむし、あったっちょ?」「はぁ?ガチャポンの電車のこと?それともムシキング?」「ちやうよ、えーちょ...」

魔邪まがいの、はぁ?はどうかと思うのですが、最近、2歳の息子は、いろいろなことを伝えたがるようになりました。ときどきはっきりとした言葉を使うようにもなった。けれども、まだうまく言えないのでもどかしいらしい。伝わらないから、ぴょんぴょん飛んで、ちやうよ(訳:ちがいますよ)を繰り返すのだけど、親がまったく見当外れのことばかりを言うので面白くて笑ったりしているうちに、どうでもよくなってしまうようです。

彼がいちばん好きなのは、電車とムシキングです。そしてTV番組ではIQサプリの合体漢字、ドラマ「野ブタ。をプロデュース」の主題歌などなど*1。あとはアンパンマンも好きです。長男はリアリストだったらしく、汽車に顔がついている機関車トーマスやアンパンマンが嫌いだったのですが。

ところで、なぜアンパンマンが好かれるのだろう、ということを一時期、深く考えていました。これはあるブログなどで書いたことではあるのですが、もう一度、整理してみたいと思います。

まず、見た目が「丸い」ということがあります。子供たちは丸いものが好きです。伊豆急行に黒船のかたちをしたリゾート21という電車があるのですが、窓が丸くなっていて、次男はお気に入りでした。携帯電話で写真を撮ったら、何度も見せろとせがんでくる。関西でいうと、ラピートという鉄人28号の顔のような電車も窓が丸いですね。息子が鉛筆で書けるようになった最初の図形も○(まる)。そういえば、動物の子供がなぜ丸い顔をしているのかというと、母性本能を誘発するためであるという理由を聞いたことがあります。確かに角が立っている図形よりは、攻撃性が少ないと印象としてもやわらかいし、親しみやすい。アンパンマンの顔を構成している図形も、丸ばかりです。だから親しみやすい。

次に、アンパンマンというネーミングそのものの理由。このブログにコメントもいただいている大学時代の知人、かおるんさんから聞いた話から考えを広げました。アンパンマンというネーミングそのものがよくできているのではないかという理論です。

かおるんさんの息子さんがちいさいときに、アンパンマンをじーっと見ていて「あんあんあん」と、ぼそっと言ったそうです。あんあんあん、と聞くと、とっても大好きドラエもん、と続けたくなりますが、このときにふとぼくはこんなことに気づきました。アンパンマンから母音だけを抽出すると

 AN-AN-AN

になる。したがって、この母音さえ合致していれば

 「ぱんぱんぱん」 PAN-PAN-PAN

でも

  「たんたんたん」 TAN-TAN-TAN

でも、アンパンマンに聞こえなくはない。

デジタル的な判断をするならば、「ぱんぱんぱん」は「アンパンマン」ではない。きちんと伝わらないのですが、情報を受け取る側(母親もしくは父親)が、「そうだねー、これはアンパンマンだね」と補足してあげると、コミュニケーションが立派に成立する。

親子のコミュニケーションを促進するネーミングとしてすぐれているかもしれない、と思ったわけです。

「あっ、たんたんたんっ」
「そうねー。アンパンマンだねー」
「(にこっ)だよねー。たんたんたん、だーいすき」

もし母親がロボットであれば「ビー、タンタンタン、ハ、アンパンマン、デハナイ。ニンショウフカ。テキゴウシマセン」ということになるかもしれませんが、デジタル思考ではないアナログな人間は、言葉の背景にある意味を補う、という心を持っている。

親子で会話が成り立つこと。情報として正確かどうかよりも、子供が伝えたがっていることを親が理解してあげることができること。そのことによってコミュニケーションが成立することがいちばん大事じゃないか。そうした観点から、アンパンマンという名前はすごい、と考えたわけです。まだ言葉をうまく言えない幼児にとっては、親にわかってもらえることがいちばんうれしいですよね。子供にとっては、親との関係性が唯一の社会であり、世界の全体なわけなので。

コミュニケーション論の本で、コミュニケーションと言うのは、伝えたいメッセージがあってそれを100%受信者に伝えることではなくて、伝えたいメッセージなどはなくてもよくて(もちろんメッセージがあればあったでいいのだけど)情報の発信者と受信者の間で形成されるものである、ということを読んだことがあります。まさにこのことが重要で、親から子供へ一方的に伝えることがコミュニケーションではない。双方向のやりとりのなかで、お互いに情報を補足しながら、関係性を作っていくのが、コミュニケーションなのではないかと考えます。つまり、スタティックな構造ではなくて、他者との間で生成される過程がコミュニケーションである、ということです。この理論はブログやSNSにも応用できるかもしれません。

この生成していく関係性においては、あいまいであることがポイントになる。あいまいな情報を、発信者と受信者の双方が補足する作業になります。だから情報は完全であるよりも、ある不確実な部分、あいまいなところを残していた方がいい。解釈に余裕がある方がいい。人口知能(AI)などの分野でも、いえることなのかもしれません。その道のスペシャリストではないので、よくわかりませんが。

ちょっと難しくなってしまいました。話題を変えましょう。

アンパンマンにはかなりシュールな部分もあって、頭を取り替えることができる。「アンパンマン、新しい顔よっ!」とか、バタ子さんに投げてもらって交換する。やさしいアンパンマンは、お腹が減っているひとに、自分の顔を食べさせてあげることもあります。そうすると顔が欠けてしまって(ここが妙にリアルなんだけど)なかのあんこがみえる。

うちの次男(2歳児)にとって、このあんこが出ている状態は尋常ではないようで「あんこ、ででん!あんこ、でてん!(訳:あんこでてるじゃないですか。どーしちゃったんですか、このひとは。大丈夫でしょうか)」という。ぼくとしては、この「でてん」というのが面白くて、わざと彼の上着をめくって「はら、でてん。はら、でてん」とか、オムツの後ろをちょっと下げて「しり、でてん。しり、でてん」とかやるのですが、あんまりしつこいと泣いてしまう。2歳児をいじめちゃいけませんね。

さて、アンパンマン占いというサイトもみつけました。やってみたところぼくは次の結果です。


● ○○さんは【カビルンルン 】です!
● カビルンルンさんのあなたは、一言で言うと、のんびり屋さん。多少の問題が起こっても、気にすることのない楽天家タイプです。そんなあなたに周りの人たちも気を許し、のほほんとした存在感になごんだ空気を感じているはず。が、裏を返せばめんどくさがり屋。頼りがいがないと思わることも...。やればできるというアピールをもっとすれば、人の見る目もきっと変わってくるはず。がんばって!
● ○○さんのモテ度は、9点です!

カビルンルンってなんだ?わからなかったので「なかまたちのしょうかい」から「かびるんるん(こちらではひらがな)」を見ました。これかーカビルンルンって。とほほ。やればできる。頑張ります。

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■アンパンマンの公式サイト。四谷にアンパンマンショップもあります。
http://www.ntv.co.jp/anpanman/

■アンパンマンの謎についての掲示板。
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1771610

*1:修二と彰の「青春アミーゴ」という曲で、ドラマの最後にブタがごろごろ転がるアニメーションが好きらしい。そもそもジャニーズファンの奥さんの影響を多大に受けていると思われる。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2005年11月12日

そらってなに?

と、2歳の息子に訊かれた。答えられなかった。

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ぼくにはふたりの息子がいます。長男は8歳で、どちらかというと(というよりもかなり)おとなしいタイプ。ほっぺたもぷよぷよしている。幼稚園の入園式で、園児入場のときに、ひとりだけ母親に手をひかれて入園したのが彼でした。そんなわけで、うちの奥さんを幼稚園の先生だと思っていた親も多かったらしい。自分の考えを言うのが苦手で、誰かが何かしてくれるのを待っている。ただ、ぼくもそういうところがあるので、どちらかというとぼくの遺伝子を受け継いだかな、という感じです。顔つきに関しては、これはもう奥さんゆずり。

次男は2歳で、こちらは格闘技系のカラダをしている。とにかく固い。ぼくは土曜日、たいていクリーニングを出しに行きながら、彼をベビーカーに乗せて公園に連れて行くのだけど、ベビーカーからおろすやいなや30分ぐらいはただ走り回っている。走っているだけできみは楽しいのか?と思うのだけど、走り回っている。とはいえ走るフォームがめちゃめちゃで、左右にタコ踊りしているようにみえてとても変。そんなわけで豪快によく転ぶ。大丈夫かなあ、幼稚園に入ったらきちんと走れるようになるのかな、と心配です。顔は上戸彩もしくはサトエリという印象で、親戚などの評価では、パパにそっくりだ、とのこと。ちなみにぼくはぜんぜん上戸彩にもサトエリにも似てないんですけど。

どちらもぼくのいちばんの宝物です。

そうして彼等にいろんなことを教えてもらっています。

彼等はぼくの大切な宝物であると同時に、人生の教師でもあります。仕事に忙しかったり、趣味に没頭したりで、奥さんとしてはもっと子供に接する時間を増やしてほしい!と思っているかもしれないけれど、ぼくはいつでも子供たちのことを考えている。考えるようにしています。そうしてもちろん父親として何が教えられるのか、わずかだけれど人生の先輩として、よりよく生きていくためにはどうしたらいいのか、というメッセージを(彼等に伝わるように、わかりやすく)伝えていきたい。

そのことが逆に仕事にフィードバックするときもありますね。仕事は仕事、家庭は家庭、趣味は趣味。そんな風にデジタルに切り離すことも大事だけれど、ときには公私混同することで、新しい認識が生まれることもある。

とにかく、同じ人生を生きているという意味で、親子は同等です。同じ生命、同じ人間、という意味でも同等。ちょっとだけ人生を長く生きていてもぜんぜんわかっていないこともあれば、2歳の息子が深い真理をつかんでいることもある。だから面白いんですよね、人間って。ぼくは子供たちが大好きです。

ぼくの父親が脳梗塞で倒れて、もう意識が戻らない、薬で延命するしかない、ということになったとき、ぼくは薬でぱんぱんに膨らんだ手のひらを握って、バトンタッチしたからね、ということを心のなかで父親に話しかけた。もちろん答えはなかったのだけど、過去から未来へつづく長い人間という種のリレーのなかで、そうしてぼくは父親になった気がします。子供が誕生したときではなくて、父親を失ったときに父親になった。子供が生まれたときに父親になればいいんだけど、自分のことにせいいっぱいでまだ不完全な親だったような気がします。そんなものです。これからパパさん、ママさんになろうとしているみなさん、安心してくださいね。誰だって親になるのは、はじめての経験であり不安なものです。

いまでも父親見習いなのかもしれないのだけど、父親らしくなれるよう、頑張りたい。子供たちとの関係づくりのなかで、いいことも悪いことも体験しながら、父親に成っていくつもりです。

投稿者 birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック

2005年11月11日

こころに残る。

フリーペーパーが好きです。特にR25はかかさず毎週読んでいるのだけれど、今回のNo.68号では石田衣良さんの連載エッセイ「空は、今日も、青いか?」で、ジャズ・タクシーの話が書いてあって、ちょっとじーんときました*1

実はR25を持って帰ろうとして会社に忘れてしまったので思い出しながら書いているのですが、ジャズタクシーというのは、真空管アンプを搭載して、ジャズのレコードをがんがんかけながら走る名物タクシーのこと。何かのニュースでぼくも実物をみたことがある。そもそも運転手さんの趣味ではじめたのが、かなり引き合いも多いらしい。特に、定年退職をする上司の送別会で、花束を抱えた上司をそのタクシーに乗せてあげるそうです。びっくりしているおじさんに、JAZZ好きなあなたのために部下のみなさんからの贈り物なんですよ、と運転手さんが教えてあげると、定年退職のおじさんは男泣きに泣くそうだ。そりゃ泣けるだろう。ぼくだって書いていてなんだか泣けてきた。というか涙腺弱いのですが。きっとその日のことは、いつまでもこころに残ると思います。

石田衣良さんのIWGPは、ドラマはDVDを借りて全部みたのだけれど、小説はまだ全部を読んでいません。そのなかに「ワルツ・フォー・デビー」という作品があるらしい。ワルツ・フォー・デビーというのは、有名なビル・エヴァンスのアルバムおよび曲で、ぼくが最初に買ったジャズのレコードでもあります。もうはるかな昔のことで(遠い目)うろ覚えなのだれども、逗子に住んでいるちょっとおしゃれな友人と、学生時代に渋谷のタワーレコードに行ったときに、これいいよ、これぜったいにぴったりだから聴きなよ、と勧められて買った輸入版のレコードでした。半信半疑で持ち帰って家で聴いてみると、まさにぼくにぴったり。めちゃめちゃはまった。その時期、朝起きると一度、学校やアルバイトから帰ってくると寝るまでずっと、ワルツ・フォー・デビーを聴きながら暮らしたものです。たぶん、いま家にはレコードが1枚、CDが2枚あるはず。

もちろんビル・エヴァンスのピアノもやさしくていいのだけど、スコット・ラファロのベースがよい。奔放というか、メロディアスというか。とはいえ、ジャズを聴くひとにとっては、このアルバムは若葉マーク的、というか入門編ではないかと思います。残念ながらぼくはあまりジャズには詳しくありません。ただ、学生のときに逗子在住のおしゃれな彼に教えてもらったビル・エヴァンスとチェット・ベイカーに関しては、いまでも時々聴くことがあります。彼らの曲を聴くと、学生時代のおんぼろなアパートと、リサイクルで1万5000円で買ったステレオの音を思い出します。

さらにジャズベースで連想したのですが、ぼくがかっこいいと思ったのは、かなり前にラガーのCM「カンパイ!ラガー」で、いまは亡き、いかりや長介さんがエレキのアップライト・ベース(BSX)を弾いてたシーン。曲はベイ・シティ・ローラーズのサタデイ・ナイトです(これもまた懐かしい)。かっこよかったなあ。一時期キリンのサイトで公開されていたのですが、もう公開されていないのでしょうか。CMの動画ファイルがないか、必死で探しているんですが、みつからない。でも、あるブログでちょっとみつけた。かっこいいなあ。みつからないのだけど、たくさんのブログで「あのCMはよかった」という風に語られている。

ベーシストらしい存在感、というのが、いかりやさんにはある。親指でばしばし弾く、「いかりや弾き」という個性的な奏法は当時話題にもなっていたようですが、物静かなんだけど頼りになって、しかも時には情熱があるという人徳がまず大きい。年齢を重ねるにしたがって、そんな人徳を身につけていきたいものです。ぼくは社会人になってからバンドをやっていたことがあるのですが、ベース担当で、そのときに10年後には、アップライト・ベースを買う、弾けるようになる、と言っていたことを思い出しました。そのままになっているのですが。ちょっとまたはじめてみようか、と思ったりして。

一方でプロモーションの視点、ブランディングの視点から考えると、ぼくらはそんなCMを見たいですよね。そうして、なんだかむしょうにラガーが飲みたくなってくる。ラガーの6缶を買うと、いかりやバージョンのCDがもらえたらしい(いいなあ)。もちろんビールを売りまくることが大事なのかもしれませんが、いかりやさんのかっこいい姿は、ずーっとみんな忘れない。それがもとでベースをまた弾きはじめたなんてブログもありました。

秋だからでしょうか。亡きひとを思ったり、過去の日々を懐古したり。ちょっと湿っぽくなってしまいましたが、そんなときもある、ということで。

ついでに、亡きひとについて、思い出だけでなく遺伝子情報を残す、という試みもあるようです。亡くなったひとのDNAを木に注入し、その木を生きた墓標とする、とのこと。HOTWIREDの記事「故人のDNAを含む木を「生きた墓標」に」を読んで、すごいことになっているなあ、と驚きました。

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■現在のラガーのサイト。「人は、人を思う」というコピーで、やはり人と人のあたたかいつながりをテーマに、ビールのある風景を訴求しているようです。


http://www.kirin.co.jp/brands/RL/


*1:じーんときたことはジャズ・タクシーのほかにもあって、仕事がつらい、おもしろくないといいがちだが、ほんとうにそうだろうか、と石田衣良さんは書いている。ジャズ・タクシーのように、自分のやりかたで演出し、自分もお客さんも楽しくすることが大事じゃないか、と。先日の日記にも書いたけれど、ぼくもこの考え方に全面的に賛成です。

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2005年11月10日

ムラサキでいこう。

なんだか「ムラサキでいこう」と書くと、居酒屋の村さ来へ行こう、みたいなイメージもありますが、そうではありません。

少し前に、29manとして知られるブロガー渡辺英輝氏が、はてなの近藤氏とパネルディスカッションをするという贅沢なイベントがあったのですが、その場で、渡辺氏が「いま、セス・ゴーディンの著作を読み直している。彼の著作は古いんだけどいまもなお新しい。というか、彼の言っていることが現実になっているんだよね」というようなお話をされていました。

渡辺氏といえば、販促会議12月号の表紙ジャックをしています。ぼくは宣伝会議、販促会議の大ファンで愛読者でもあり、先日、書店に行ったときに販促会議の表紙を拝見して、おお、これは渡辺氏ではないか、ブログの表紙にあるイラストとそっくりであることだなあ、そういえばセス・ゴーディンって言ってたよな、ということを思い出しました。そこで、ちょっと古い(2004年の2月に発行)のですが「「紫の牛」を売れ!」という本を購入しました。ちなみに、同時に買ったのはダン・ギルモアの「ブログ 世界を変える個人メディア」です。

この紫の牛本がですね、すいすい読めて面白い。しかも、前半の方では、ドン・ペパーズとマーサロジャースの本や「キャズム」など、さまざまなマーケティング本を横断してさらっと端的に俯瞰してみせて、俯瞰的な思考を標榜するぼくとしては、いいな!と思いました。ごちゃごちゃと難しいことを書いた本は多いのですが、これほど簡単な言葉で、しかもさーっと俯瞰した文章に出会うのは久し振りです。とても気持ちよかった。

まだ半分ぐらいしか読んでいないのですが、彼が言いたいのは明確で「目立ちなさい」ということ。つまりそれが「紫の牛」なのです。マザー牧場で牛を眺めていると(本文中はマザー牧場じゃありませんが)、牛っていいなあ、和むなあ、癒されるなあ、と思うが、次第に、どれもこれも白黒じゃん、もー牛いいですっ!と思うようになる。馬はいないの?とか、羊はどうした!シープ、プリーズという気持ちになる。でも、そのなかに突然、紫の牛が登場したら、げ、なんだこりゃ、変なの!と注目する。

さまざまな刺激や手法が繰り返されて、ぼくら消費者の思考は磨耗している。だからこそ、強いインパクトを与える製品やメッセージが必要であり、そのために注力すべきである、ということ。そして紫の牛なんてものが現れたら、「おい、あのムラサキの見たか?」のように口コミで広げることができる。

ところで、またまた関係ないところに考えがとんでしまうのですが、ムラサキってどんな色だったっけ?と思いました。ぼくの頭のなかには、ぼんやりと紫色が浮かんでいるのだけど、それがあっているのかどうか。あるいは古文では、紫式部などがありますが高貴な色であったような気もして(ほんとうに国文出身なのか??)、紫がひとに与えるイメージはどうだろう、とか。大学のゼミの先輩が、色彩心理学の関連のお仕事をされていて、いつか本をいただいたような、ということも思い出したりしました。

Googleで検索したところ、色事典というページを発見。秋田公立短期大学の助教授をされている方のページらしい。その紫に関する解説では高貴な色、静けさというよいイメージがある反面、欲求不満や不信感、不吉などのマイナスなイメージもあり、「アンビバレントな色」などとも書かれている。日本語で紫を示す色を抜粋してみると、浅滅紫(あさけしむらさき)、菖蒲色(あやめいろ・しょうぶいろ)、薄滅紫(うすけしむらさき)、梅紫(うめむらさき)、江戸紫(えどむらさき)、紫苑(しおん)、紫紺(しこん)、灰紫(はいむらさき)、半色(はしたいろ)、鳩羽紫(はとばむらさき)、藤紫(ふじむらさき)、などがある。この文字だけを見ていても趣きがある。いろいろないろがあるもんです。そして、これは青だろうか、ピンクだろうか、という微妙な境界にある色もある。もう少し掘り下げてみたいのだけど、そのためには色彩に関する基礎知識が必要になってきそうです。ついでにパープルという語から連想する音楽としては、ディープ・パープルだったりパープル・レイン(プリンスの曲。一時期、変な記号のひとになりましたが)だったり。

ともあれ、安全な路線よりも、ちょっと危険だけれども目立つ路線をめざしたい。どんなに失敗しても、高貴な志だけは持っていたい。そうだ、ムラサキでいこう。そう思いました。

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■紫の補色は黄色だったかと思うんですが、本の装丁もインパクトがある。

4478502242「紫の牛」を売れ!
門田 美鈴
ダイヤモンド社 2004-02-20

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2005年11月 9日

想像する力さえあれば。

企業の不祥事が頻発したときに言われはじめたコンプライアンス(法令遵守)ですが、最近は一般的に使われるようになりました。個人情報保護法というのが最近の大きな話題ではあったのですが、今後、企業においては日本版SOX法という内部統制が注目を集めているようです。

ちょっと難しくなっちゃいましたね。実は書いている僕もまだきちんと理解できていないので、それぐらいにしておきます。そんな動向もあるようなので、ビジネスマンとして最低の法律は知っておいたほうがいいかな、と思って、いま実務法務の勉強をしています。

こんなことも知らなかったのか、ということがぼろぼろ出てきて、恥ずかしいかぎりですが、なんとなく勉強している時間が楽しい。なぜ楽しいのか。いままで勉強をしていなかったからだろという理由も、もちろんあるのですが、学んでいる内容が法律だから、ということがあるかもしれない。学生の頃には法律なんてぜんぜんつまらなく感じていたのですが、きちんとあの頃に学んでおけばよかったなあ、と後悔することしきりです。

で、なぜ僕はいま法律が楽しいんだろう、と考えてみました。3つの理由があるようです。

第一に、構造的だから。体系的なんですよね、法律って(当たり前か)。パソコン用語にディレクトリという言葉がありますが、学んでいく知識がディレクトリ的に整理される。この下にこいつがぶら下がる、などなど。その論理的な構造が気持ちよい。

第二に、言葉を定義するから。「契約」と「取引」の違いは何か、ということをひとつひとつ丁寧に定義するわけです。なんとなく辞書を作るような作業で楽しい。

第三に、論理的なんだけど、解釈の余地があるというか非常に曖昧な部分が多い。だから弁護士さんたちは戦うことができるんでしょうね。傾向としてぼくはデジタル系の発想をするひとですが、アナログの曖昧さも好きです。

弁護士、と書いて思い出したのだけど、スティーブン・ソダバーグ監督に「エリン・ブロコビッチ」という映画がありました。ジュリア・ロバーツが演じる貧乏なシングルマザーが、たまたま知り合った弁護士の法律事務所で働きはじめる。やがて大企業に対する訴訟という重大な案件に取り組むようになる。エリンは、インテリではないので、机にしがみついて資料を探していないで、地域の住民たちと仲良くなって、重大な証言を集めていくわけです。

と、脇道にそれて映画のことを考えていて、はっと気づいたのですが、僕の勉強というのは机の上で言葉遊びをしているようなものじゃないか、と。浅いなあ。

法律は「現実とつながっている」ことが大事なんでしょうね。「契約」という言葉の定義の向こうに、品物を持ったおじさんと、お金を持ったおじさんがいて、互いに書面を交わして握手する、みたいな。概念ではなくて事例(ケーススタディ)に結び付けること、現実にその学んだ言葉が像を結んでいくことが大事じゃなかろうか、と考えました。マーケティングや企画だって、現実にぴったりと沿っていないといけない。概念だけをこねくりまわしてもしょうがないですよね(また横道にそれましたが)。

いま読んでいる教科書のなかには、随所にケーススタディ(事例)が出てきます。ところがこの、事例がどうもピントこないんですよね。どういうわけか、イメージを膨らませることができない。事例の部分で眠くなります。なんでだろう?

債務者Aと債権者Bのように匿名になっているからだろうか。□(四角形)と→(矢印)だけで解説されているからだろうか。その殺伐としたチャートから想像力を働かせることができれば、理解も進むかもしれない。しかしながら、この図形から現実を想起させるには、ただものではない力が必要になる。WとXとYから女性を想像するようなものでしょうか。この想像する力さえあれば、もう少し法律を理解できそうなんですが、現状では難しい。バラエティ番組じゃないけど、ドラマ仕立てで解説してくれるとわかりやすいのですが。先日、個人情報保護の教育用ビデオをみたのですが、事例がドラマ仕立てで、ものすごく面白かった。楽しめました。

経済にしても、政治にしても、法律にしても、現実の社会とつながっている学問です。ぼくの場合、ブンガクなんてものを専攻したばっかりに、どうも現実離れした子供っぽい考え方というか抽象的な概念思考が多いのですが、もうちょっと若い頃に成熟した思考を鍛えて、現実的な学問に関心を持っていれば、いまとは違った人生を歩んでいたかもしれません。

とはいえ、永遠に成長できるのが人生、とも思う。人間は、いくつになっても変わることができるものだと信じて、頑張ります。楽しいことを、みつけるのも大事ですよね。それから新しい発見も。「ほう!ほう!ほう!こうなってたのか法は!ほー!」と掛け声をかけつつ学んでいこうと思います(すみません。これはやりすぎでした)。

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■SOX法については、まず用語解説から。
http://coin.nikkeibp.co.jp/coin/nc/gk102/

B00PXKX25Wエリン・ブロコビッチ コレクターズ・エディション [SPE BEST] [DVD]
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2014-12-19

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*1:ついでに今日は、知的財産に関する法律を学ぶセミナーに参加しました。今日のテーマは、技術移転。大学における発明や開発案件をどのように企業で活用するか、そのとき問題になることは何か、知財を資産化して売買するときにどんな契約などが必要か、その権利はどこに帰属するのか、というお話でした。面白かった。いまの仕事のなかでは生かせないのだけど、考え方のフレームは何か活用できそうな気がします。

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2005年11月 8日

生の対極にあるのではなく。

本田美奈子(実はいま知ったのですが、本田美奈子.と、名前の最後にピリオドをつけるのが正式なんですね。asahi.comの記事では「歌手本田美奈子.(ほんだみなこどっと)さん」と書かれている。姓名判断から付けられたそうです)さんが亡くなった。11月6日、急性骨髄性白血病。まだ38歳だったとのこと。若すぎる死だと思います。残念です。

ぼくがそれを知ったのは、コンビニの店頭で売られているスポーツ新聞の見出しだったのだけれど、一瞬、え?と立ち止まった。名前は知っていて、きれいなひとだな、とは思っていたのだけれど、それほど好きなアイドルというわけではなかったし、歌だってあまり覚えがない(すみません)。そんなぼくがこんなことを書くのは失礼な気がするけれど、やはり驚きがあったし、そのことでショックを感じていたひとも周囲には多かったようです。

ひとの死、という意味では、どのひとのいのちの重みもみんな同じものです。幼くして事故でなくなってしまった子供も、かっとなった息子に刺し殺されてしまった母親も、100年という長寿をまっとうしたお年よりも。厚生労働省の人口動態調査によると、2004年には1,110,721人のひとが日本で生まれて、1,028,602人の人が亡くなっている。平均して31秒にひとりが日本のどこかで亡くなっているようです。そのひとりひとりの命が大切なものですよね。

しかしながら、そのすべての死を同等に受け取って悲しむことはできません。そんなことをしていたらぼくは壊れてしまう。それでも、日本のどこかでいまも亡くなっていくひとがいる、ということを、あらためて認識しました。本田美奈子さんが、そのことを気づかせてくれたわけです。

「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ。」と書いたのは村上春樹さんの「ノルウェイの森 上」だったかと思うのだけれど、平凡な毎日の生活のなかで、死のことについてはっと気づかされるときがあります。永遠に続くものはない。あるとすれば記憶のなかで生きつづけること、ぐらいでしょうか。

4062035154ノルウェイの森〈上〉
村上 春樹
講談社 1987-09

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4062035162ノルウェイの森〈下〉
村上 春樹
講談社 1987-09

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断片的にいろんなテーマにフラッシュバックするのですが、パトリス・ルコントに「橋の上の娘」という映画がありました。ある方の日記でこの映画のことを思い出して「ナイフ投げの男と的になる女性の話ですよね」と書いたら「自殺する女性とそれを救う男性の話」という風に訂正していただいた。ぼくとしてはすっかり意識が抜け落ちていたのだけれど、この作品もやはり死が重要なテーマだった気がします。ナイフ投げの男の指先がちょっとでも狂えば、彼女は死ぬことになる。でも、そもそも自殺しようと思って、生きることを投げていた女性です。だからこそ、的として冷静でもいられる。死を覚悟しているから。

B0002L4COW橋の上の娘
ヴァネッサ・パラディ, ダニエル・オートゥイユ, パトリス・ルコント
ショウゲート 2004-09-10

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秋から冬へ季節が変わりつつあり、休日は雨模様だったけれど昨日は青空が広がりました。今日もいい天気です。少しづつ寒さも感じられるのですが、そんな冬へと張り詰めていく空気のなかで、少しだけ死について考えてみました。

そういえば、今月は父の命日の月だということを思い出しました。父が亡くなったとき、ぼくはあらためて父の大きさを知った。そして、ぼくがこれからどうするべきか、を深く考えたものです。

本田美奈子さんのご冥福をお祈りいたします。

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本田美奈子さんはAVE MARIAというアルバムでクラシックにも挑戦していたんですね。聴いてみたい。元気な写真を見ていると、ほんとうに亡くなられたことが信じられません。

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2005年11月 7日

ドーナッツ理論。

最近、ドーナッツを食べる機会が多くなりました。家に帰ると、動物のキャラクターの箱が、ぽんとキッチンのテーブルに置かれている。ライオンやエリマキトカゲのたてがみがドーナッツになっている、というあれです(どこのドーナッツか、すぐにわかりますね)。おやつには最適かもしれませんが、ビールを飲んだあとでドーナッツを食べないようにしてください。気持ち悪くなります。そんな食べ方をするのは僕だけかもしれませんが。いや、ほんとうに気持ち悪くなったので、ご注意を。

ドーナッツといえば、村上春樹さんの小説、「ツインピークス」のクーパー捜査官などなど、ぼくの知人たちはブログでいろいろな連想を広げていました。そんなわけでぼくの頭のなかにも、ドーナッツが居残りつづけたのですが、今日書こうと思っているのは、食べ物のドーナッツの話ではありません。

どちらかというと、コピー論にも近いのかもしれない。とはいえ、ぼくはコピーライターではないので、あくまでもなんちゃってコピー論というか、ブンガク論というか、ビールを飲んだあとにドーナッツを食べたおろかもののたわごとというか、そんな感じです。ひとことで言うと

「中心を書かない方が、おいしい」

ということです。

と、そんなことを書くと、インテリな方は、ポスト構造主義あたりで使われた中心と周縁などの思想をぽっと思い浮かべたりするかもしれませんが、僕の考えることはそんなに難しいことではなくて、魅力のある言葉って中心よりちょっとずれている方がいいんじゃないか、ということです。

インテルのCMだったかと思うのですが、電話をかけている男の子がいて、どうしても告げたい言葉があるのだけど、言えなくてもじもじしている。そのとき窓辺のサボテンがぴゅっと針を飛ばして、あいてーっと叫ぶ。すると、電話の向こうの彼女が「あたしも。あたしも会いたい」という。

このときに、「好きだー」という直接的な言葉、つまりダーツで中心を射抜くようなストレートな表現よりも、「会いたい」という風にちょっとずれたところにある言葉の方が、広がりや趣きがあっていいんじゃないか、と思うわけです。

例えば、こんなポップスの歌詞があるとします。

君に会いたい。
呼吸ができない。
君のいない部屋は酸素が足りない。

この3行が何を表しているか、分析してみると以下のようになります。

君に会いたい。=感情
呼吸ができない。=身体的な状況
君のいない部屋は酸素が足りない。=環境

それぞれの中心にある感情をあらわす言葉を引っ張り出すと、

(君に会いたい)好きだ。=感情
(呼吸ができないぐらいに)苦しい。=感情
(君のいない部屋は酸素が足りないと感じられるほど)寂しい。=感情

これはもう感情の羅列で、べたべたすぎる。

アイドルの歌謡曲であれば、そういう風に感情ばかりの直球ストレートな歌詞の方がよいかもしれませんが、奥行きがないですよね。なんか、砂糖と油でべとべとしたドーナッツみたいな印象がある。この、もちもち感が好き、という方もいるかもしれませんが、ぼくはあっさりのシナモンタイプなので、ちょっとひいてしまう。

感情は大事だと思うのですが、感情との距離のとり方が、曲の立体感を出すのに必要かもしれない。ぼくのこころのなかに居残ったドーナッツの幻影が、そんな考えを広げてくれました。だからといって、何かに使えるというわけじゃないんだけど。

+++++
「酸素が足りない」という歌詞をVocaloidという歌うソフトウェアに歌わせた、へんてこな曲を聴きたい方は、こちらへ。

■Oxygen
http://www.muzie.co.jp/cgi-bin/artist.cgi?id=a024420

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2005年11月 6日

立体的な思考のために。

少年の頃、世界はどこにあるのか、ということを考えたことがあります。

哲学なんて言葉をまだ知らない時期だったのですが、もしかするとぼくの見ている風景と友達の見ている風景はまったく別の風景かも、ということをふと考えたわけです。世界は自分の外側にあるのか、内側にあるのか、ぼくはどこにいるのか。石ころを蹴飛ばしながらの帰り道(蹴飛ばした石を自分の家まで持って帰れるか、ということに凝っていた)、そんなことを考えていると、一瞬、ぶわっとアイディアが広がって、もしかしたらこれはとんでもない発見だったりして、という気持ちになった。で、石ころどころではなくなって、大急ぎで家に帰って、母親にいま考えていたことを伝えようとしたのだけど、うまく伝わらない。少年のぼくにとって、そのアイディアは言葉にするには大きすぎたようです。しどろもどろになっているぼくをみて、母親は、この子はどうしちゃったんだろうねえ、頭がおかしくなっちゃったんだろうか、と怪訝な顔をしていました。

谷川俊太郎さんに「コカコーラ・レッスン」という詩があります。「その朝、少年は言葉を知った」という文からはじまる散文詩で、海辺の突堤に腰掛けて、少年が<海>と<ぼく>という言葉をぶつけているうちに、世界の成り立ち、のようなものを知る。すると、いっきに彼の頭のなかに言葉が溢れ出して、彼は怖くなる。落ち着こうとしてコカ・コーラを飲もうとするんだけど、そのコカ・コーラの缶をきっかけにして、その缶の背後にある言葉たちが彼を襲ってくる。彼は途方もない「言葉の総体」と戦った後、それらに打ち勝って、コカ・コーラの缶を踏み潰して帰る。そんな詩です。

ぼくはこの詩が好きなんだけど、どこか少年時代のぼくの経験に似ている気がします。そしていまでも、ひとつのことを集中して考えているうちに、「アイディアの総体」のようなものがぶわっと広がることがある。一時期、思考を横断する、とか、世界を俯瞰する(Overlook)瞬間という言葉で、その気持ちを置き換えていたんだけれど、なんとなく言い切れていない気がする。うーむ、もっとぴったりな言葉がないのだろうか、と、考えているうちに立体的な思考、あるいは遠近法(パースペクティブ)という言葉に辿り着きました。

そもそも遠近法というのは美術の手法であって、視覚を通じて立体的にみせる、視覚を騙すことにほかならないのだけど、ぶわっと広がったアイディアについて、遠くにある思考をちいさく(=地)、近くにある思考をおおきく(=図)していくことは、まさに遠近法で世界を描くことに近い。思考をデザインするといってもいい。

ブログの登場によって、ぼくはいろんなことを書きながら深く考えるようになりました。書いたものに対してコメントやトラックバックを返していただけることで、予期しない方向に展開したり、あらたな視点を発見したり、ブログというのほんとうに楽しい。はてなのブログでは、かつて技術的なニュースを複数取り上げて考える、という練習をしていたのだけれど、「考える」というテーマに戻って、また何か書き始めていこうと思います。あるときは技術に関する話題かもしれないし、音楽や映画や本などのことかもしれない。ものすごく抽象的なこともあるだろうし、個人的なこともある。とはいえ、ぼくの文体、ということを意識しながら、一定のテンションを維持しつつ、(ときには中断したり離れたりもしながら)書き続けていくつもりです。

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谷川俊太郎さんの「コカコーラ・レッスン」は、「朝のかたち」という文庫に収録されています。

404128502X朝のかたち―谷川俊太郎詩集 2 (角川文庫 (6071))
角川書店 1985-08

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