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2005年11月15日

コンペイトウ理論。

先日、ドーナッツ理論として「中心にある言葉を書かない方がおいしい」という、なんちゃって理論を書いたのだけれど、今回はコンペイトウ(金平糖)理論です。といっても、食べ物やお菓子にはぜんぜん関係がなくて、やっぱり言葉と意識に関する抽象論なのですが。

コンペイトウというのは、砂糖で作った1センチぐらいのとげとげのある菓子で、ポルトガル語で砂糖菓子を表す「confeito(コンフェイト)」が訛ってコンペイトウになったらしい。そのとげとげから発想したのだけど、言葉と意識(感情)は、コンペイトウのような形をしているんじゃないか、と、ふと考えたことがありました。ただ、固くはないから、コンペイトウの形をしたグミ、のようなものかもしれない。そんなものがあるかどうかわからないけど(ないでしょうね、きっと)。

例えば、ある感情があるとすると、そこからいくつものとげとげが出ている。そのとげとげの先端にあるのが言葉であり、ひとつの感情を核として、その感情から派生する言葉はいくつもあるわけです。「さびしい」を核とするコンペイトウであれば、「ひとり」「夕暮れ」「青空」などの言葉がとげになっている。「青空」はさびしい、とはいえないかもしれない。ひょっとすると「楽しい」コンペイトウのとげとげのひとつという気もする。そんな風に、ちょっと核とは遠いようなとげとげもあったりする。

そして、あるとげとげを引っ張ると、そのとげとげの核となっている意識(感情)がずるずると引き出されてくる。引き出される途中で、ぷつんと切れてしまうとげとげもあるわけです。その言葉の広がりはそこまで。ところが、とげとげのなかのひとつには、その意識の総体を引きずり出すような、言葉のツボ、というか、とげとげの王者、がある。そいつを引っ張ると、コンペイトウ型の感情全体を引き出すことができるんじゃないか、と。

谷川俊太郎さんの「コカ・コーラレッスン」という詩に出てくる少年は、そんな意識の総体を引き出すような言葉の「突起」をつかんだのかもしれません。詩のなかに出てくる「突堤の先端に腰掛けて」という言葉が、符合のようにも思えてくる(考えすぎか)。上空からみたら、彼は海に面した地上の「とげ」の先端にいたわけです。

ところで、書いている本人にそういう意識はなかったとしても、ある意識をずるずると引き出してしまうような言葉もあります。言葉というのは記号にすぎないから、言葉という「とげ」から逆にそこにはない意識を再生することもできる。書き手はひとりであっても、読み手は複数だから、そこにさまざまなコンペイトウが生まれる。そうして生まれたコンペイトウのなかには、鋭い刃物のようなとげで誰かを傷つけるものもあるかもしれない。だから、何かを書くこと、というのは難しいし、何かを伝えること、というのも、ものすごく難しいことだと思っています。

ぼくらはどんな言葉でも自由に書くことができる。徹底的にひとを追い込んで糾弾することもできるし、元気づけて明日への活力を与えることもできる。ぼくの場合には、癒すこと、なごませること、ほわほわな気持ちを生成するような言葉を使うことができないか、と、ずっと考え続けています。できれば言葉を武器として使いたくない。使いたくなる感情を理性でコントロールしていたい。ほわほわな気持ちを生成するコンペイトウの突起はどこにあるんだろうと探しているのですが、なかなかみつからないものです。

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■フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の金平糖。写真がかわいい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B9%B3%E7%B3%96

投稿者 birdwing : 2005年11月15日 00:00

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