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2005年11月 6日
立体的な思考のために。
少年の頃、世界はどこにあるのか、ということを考えたことがあります。
哲学なんて言葉をまだ知らない時期だったのですが、もしかするとぼくの見ている風景と友達の見ている風景はまったく別の風景かも、ということをふと考えたわけです。世界は自分の外側にあるのか、内側にあるのか、ぼくはどこにいるのか。石ころを蹴飛ばしながらの帰り道(蹴飛ばした石を自分の家まで持って帰れるか、ということに凝っていた)、そんなことを考えていると、一瞬、ぶわっとアイディアが広がって、もしかしたらこれはとんでもない発見だったりして、という気持ちになった。で、石ころどころではなくなって、大急ぎで家に帰って、母親にいま考えていたことを伝えようとしたのだけど、うまく伝わらない。少年のぼくにとって、そのアイディアは言葉にするには大きすぎたようです。しどろもどろになっているぼくをみて、母親は、この子はどうしちゃったんだろうねえ、頭がおかしくなっちゃったんだろうか、と怪訝な顔をしていました。
谷川俊太郎さんに「コカコーラ・レッスン」という詩があります。「その朝、少年は言葉を知った」という文からはじまる散文詩で、海辺の突堤に腰掛けて、少年が<海>と<ぼく>という言葉をぶつけているうちに、世界の成り立ち、のようなものを知る。すると、いっきに彼の頭のなかに言葉が溢れ出して、彼は怖くなる。落ち着こうとしてコカ・コーラを飲もうとするんだけど、そのコカ・コーラの缶をきっかけにして、その缶の背後にある言葉たちが彼を襲ってくる。彼は途方もない「言葉の総体」と戦った後、それらに打ち勝って、コカ・コーラの缶を踏み潰して帰る。そんな詩です。
ぼくはこの詩が好きなんだけど、どこか少年時代のぼくの経験に似ている気がします。そしていまでも、ひとつのことを集中して考えているうちに、「アイディアの総体」のようなものがぶわっと広がることがある。一時期、思考を横断する、とか、世界を俯瞰する(Overlook)瞬間という言葉で、その気持ちを置き換えていたんだけれど、なんとなく言い切れていない気がする。うーむ、もっとぴったりな言葉がないのだろうか、と、考えているうちに立体的な思考、あるいは遠近法(パースペクティブ)という言葉に辿り着きました。
そもそも遠近法というのは美術の手法であって、視覚を通じて立体的にみせる、視覚を騙すことにほかならないのだけど、ぶわっと広がったアイディアについて、遠くにある思考をちいさく(=地)、近くにある思考をおおきく(=図)していくことは、まさに遠近法で世界を描くことに近い。思考をデザインするといってもいい。
ブログの登場によって、ぼくはいろんなことを書きながら深く考えるようになりました。書いたものに対してコメントやトラックバックを返していただけることで、予期しない方向に展開したり、あらたな視点を発見したり、ブログというのほんとうに楽しい。はてなのブログでは、かつて技術的なニュースを複数取り上げて考える、という練習をしていたのだけれど、「考える」というテーマに戻って、また何か書き始めていこうと思います。あるときは技術に関する話題かもしれないし、音楽や映画や本などのことかもしれない。ものすごく抽象的なこともあるだろうし、個人的なこともある。とはいえ、ぼくの文体、ということを意識しながら、一定のテンションを維持しつつ、(ときには中断したり離れたりもしながら)書き続けていくつもりです。
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谷川俊太郎さんの「コカコーラ・レッスン」は、「朝のかたち」という文庫に収録されています。
朝のかたち―谷川俊太郎詩集 2 (角川文庫 (6071)) 角川書店 1985-08 by G-Tools |
投稿者 birdwing : 2005年11月 6日 00:00
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