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2006年3月19日
しぼんだ風船。
喘息の発作を起こして入院した3歳の息子(次男)ですが、土曜日に一日会わずに今日病院に会いに行ってみると、痩せてしまって顔がずいぶんほっそりして、目ばっかり大きくなっていました。咳が止まらないので、ゆっくり眠ることもできないし、まったく食事もとっていないらしい。9歳の兄よりも食べる3歳児なのに食事もとっていないとのこと。衰弱してしまって、心配です。数時間、奥さんと交代して病院で抱っこしていたのですが、ほとんど何も喋らず動こうともしない。背中をとんとんと叩いてやると、それが気持ちよかったらしく、うとうととしては目覚める。ものすごくだるそうでした。鼻に送り込む酸素の管や、点滴の管や、体内の酸素をはかる機材の管など、いろんな管につながれていて、これでは身動きも取れないだろうなと思う。はやくよくなってほしいものです。
あらためて喘息についてインターネットを使って調べてみたのですが、喘息というと、咳のひどいものぐらいにしか考えていなかったのですが、理解がぜんぜん足りなかったようです。発作が起きると咳き込むよりも、とにかくだるくて言葉も喋らないし何もできないような状態のひともいるらしい。以前にも書いたのですが、ぼくは最近では「モーターサイクル・ダイアリーズ」というチェ・ゲバラを描いた映画のなかで、若い日のチェ・ゲバラが喘息もちであり、その発作の苦しさというのが描かれていて、喘息とはこういうものかと思いました。しかし、まさか自分の息子がなるとは思っていなかった。喘息と診断されたときには、これって喘息?という感じでした。もちろんまだ話ができない年齢ということもあるのですが、そんなに咳をしているわけでもなく、どちらかというと腹痛系の何かという気がした。病気への理解というのは、なかなか難しいものです。
ところで家では、子供(長男)とふたり暮らしの状態です。終日病院で付っきりの看護をしなければならなくなった奥さんも大変ですが、親子とはいえ、いきなりふたりで生活しはじめると、戸惑いもあったり気遣いもあったりして、こちらもなかなか大変。長男を連れて病院に行ってきたのですが、12歳より下の子供は病室には入ってはいけないので、ガラス越しの対面となりました。ガラスに鼻を押し付けて笑わそうとする長男と、やっぱり元気がなくてそれを笑うこともできずにじーっとみている次男という兄弟の構図が、なんだか寂しかった。
うちの家族の場合、4人から2人+2人に分割されたことになりますが、構成要因が少なくなると、それぞれの責任や分担は増加する。知らないうちに、夫の役割、妻の役割、兄としての子供の役割、弟としての子供の役割、というものがあったらしく、しかもそれが相補的に成立していたようでした。とかなんとか、難しいことを書いてしまいましたが、要するに家族というのは支え合っていた、ということです。これは別に家族に限らず、人間と人間で成り立っている社会はみんな同じかもしれません。
あまり興味本位に書くべきではないと思うし、こういうことを書いていいのか若干迷いもするのですが、病室で隣のベットの子供は、言葉もうまく喋ることができず、足首もかわいそうになるぐらいに細い。たぶんうちの長男とあまり変わらない年齢じゃないかと思うのですが、赤ん坊のようにしかみえません。けれども、その母親は、ほんとうに優しく話しかけたり抱いてあげたり、頭を撫でてあげたりしていました。ずいぶん長いあいだ入院しているのだろうと思います。きっと数日間の入院だけのぼくにはわからない大変さがあるのでしょう。しかしながら、子供に接するその姿は、ほんとうにみていて感動的でした。母親というのは、すごいなと思った。先日、同僚から心臓を患った子供のための募金があることを教えてもらいました。世のなかには、そんな風にして闘病生活を送っている親子がたくさんいます。健康であると気付かないことも多いのですが、入院してはじめてそんなことにも気付く。がんばってほしいです。
なんとなく家族全体がしぼんだ風船のようになっています。笑わせようとしたり、盛り上げようとしたりするけれど、しぼんだ風船を膨らませるには、まず病気をきちんと治すことが大事かもしれません。
投稿者 birdwing : 2006年3月19日 00:00
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