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2013年11月18日

アイビーを刈る。

気が付けば季節はコート着用、街はクリスマスに向けてイルミネーションが賑やかな雰囲気になってきました。みなさま、いかがお過ごしでしょうか。こちらではご無沙汰しております。久し振りにブログを書きます。

11月の真ん中あたりの土曜日、そして日曜日。「すかっ」と白墨で書き殴りたくなるほど最高の青空が広り、青空フリークのわたくしとしては空を眺めているだけでしあわせな時間を過ごすことができました。とはいえ、せっかくなので、いままでやらずに放置していたことをやってみようとおもいつき、玄関のアイビーを刈ることにしました。

東京の都内なので庭などという贅沢なものは存在しないわが家ですが、玄関にはちょっとした花壇があります。そこにアイビーが植えてありました。アイビー(ヘデラ)というのは要するにツタで、つる性植物の一種です。ブドウの葉に似ている深い緑の葉を付けます。写真はWikipediaから。


Hedera_helix3.jpg


このアイビーという植物は異常に生命力があるようで、あるいはわが家の周辺が植物にとってパワースポットなのかもしれないのだけれど、どんどん繁殖して花壇どころか玄関まで進出。家に入るには草をかきわけて入らなければならないという、都会の一軒家とはおもえない状況になってしまったのです。4年もの年月のあいだ手入れせずに放置していれば、草ぼーぼーにもなるのも当然かもしれませんが。

というわけで午後に一念発起し、アイビーを刈ることにしました。

4.5リットルのゴミ袋を用意して、剪定ばさみでちょっきんちょっきんアイビーを刈っていきます。つる性植物なので、ぐいっと引っ張るとずるずると幹が伸びてくる。適当なところでちょっきんと切る。しかし、1センチ幅ぐらいの幹になっているところもあり、この場合は、はさみで挟んでぐりぐり捻って切るなど苦労しました。気分は散髪屋という感じです。あんまり切りすぎても見栄えがよくないので、体裁よく葉を残しながら刈っていく。

アイビーを刈りながら感じたのは、これってなんだか落ち着く、ということでした。うーむ。庭いじりを好むひとたちの気持ちがわかる気がする。

そもそも周囲を鬱蒼とした緑で取り囲まれた伊豆の田舎で育ったぼくは、植物といえば草でしかなく、草といえば「うっとうしいもの」としか感じていませんでした。したがって、ガーデニングとか庭いじりを好むひとたちの気持ちがよくわからなかったんですね。なぜ、植物などの手入れをして楽しいのか、と。とはいえ、ぼくの父は亡くなる寸前まで庭の草を電動草刈り機で刈ったりしていました。母はいまでも裏山のみかんや柿の枝を剪定しています(ときどき山から落ちる)。放っておけばいいのに。

なぜ多くのひとびとが草刈りに熱意を燃やすのか、ぼくにはその理由や動機がよくわかりませんでした。しかし、はじめて玄関のアイビーを刈ってわかった。これって、とても気持ちが落ち着くではないですか。というか、いったいこの充実感は何でしょう。草刈り楽しい。ブラボー草刈り。草刈正雄(意味なし)。

シニアの年齢になったからかもしれません。盆栽をいじるご老人の気持ちもわかる。植物に触れること自体が、なんだかとても和むのですね。アイビーの葉を刈ると、新鮮な緑の匂いがして、ちょっとかわいそうだなとも考えるのですが、きっと彼等は(彼等なのかわかりませんが)刈っても見事に再生する予感がある。自然の生命力を感じます。

それから、驚いたことは、刈ってはじめて気付いたのですが、落ち葉が堆積して、なんとコンクリートの上に見事な土を作っているということでした。わかりにくいかもしれませんが、写真を載せてみます。


P1000800.jpg


これ、ほんとうに土なんですよ。びっくりした。

土ができるほど枯葉を放置していたわが家もいかがなものかとおもうのだけれど(苦笑)、上のほうは枯葉で、その下の層はやや細かくなった粗い土、さらにその下はさらさらとした豊穣な土になっていました。

自然って凄いなーとおもいましたね。みずからの生命を終えると、次の世代もしくは他の生命のための土壌を「作って」いく。地球というのは、なんというクリエイティブな世界でしょう。もちろんすぐに土ができたわけではありません。長い時間をかけて(とりあえず4年ばかり)土壌に変えていった。都会の土なんてひとつもなかったコンクリートの上に、アイビーは土を作り出した。すばらしい。

おもわず人生について想いを馳せてしまいました。

ぼくらの人生もそういうものかもしれない。こんなことやって何になるんだろうか、と悩むこともありますが、その積み重ねが次の世代の土壌を知らず知らずのうちに作っているのかもしれない。そして自分自身が生きているうちにはわからなかったとしても、その土壌で育つ何かがあるのかもしれない。ブログもそうかもしれないですね。無意味ともおもえるテキストの土壌から、もしかすると新しい何かが生まれるかもしれない(生まれないかもしれない)。

アイビーの凄いところは、そんな人間の思考とはおかまいなしに、ただただ葉を茂らせて、枯葉を落として、土を生成していることです。愚直なまでにひたすら日々「生きて」いる。

いま、堀江貴文さんの『ゼロ―なにもない自分に小さなイチを足していく 』を読んでいます。本屋の店頭では平積みにされて、人気になっている本です。


4478025800ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく
堀江 貴文
ダイヤモンド社 2013-11-01

by G-Tools


この本のなかで、堀江さんは目の前にあることにとにかく集中することによって、不安を消し去ることができると説かれています。また、人生は足し算であって、ちいさなイチを積み重ねることによって、その蓄積が大きなものになっていくという思想が据えられています。

一般的に(ビジネスについては特にそうですが)「相乗効果(シナジー)」というように、掛け算によって大きな効果を生み出すことが取り上げられます。響きのいい言葉なので、コンサルタントなどは使いたがる。しかし、堀江さんの考え方によると、最初がゼロのものにいくら何かを掛けたとしても、解はゼロにしかならない。掛け算的な効果というのは一種の幻想のようなものであって、ちいさなイチの積み重ねこそが人生なのだと。

とても共感を得ました。また、稲盛和夫さんの哲学に通じるものがあるとも感じました。稲盛さんも、目の前の仕事にとにかく集中することを重要視されています。眼前の仕事を片付けていくことが実績となり、実績が次の飛躍を生むための基盤となる。

堀江さんや稲盛さんの考え方にイメージが重なったのですが、時間をかけて葉を増やし、葉から土を生み出すアイビーの「生き方」に学ぶところが大きいとおもいました。

さて、2時間ばかりアイビーと付き合っていたでしょうか。ビフォーアフターではないのですが、見違えるようになったわが家の玄関の刈り取る前/刈り取った後の写真を掲載してみます。

Before

P1000795.jpg

After

P1000804.jpg

Before

P1000798.jpg

After

P1000802.jpg

結果、4.5リットルのゴミ袋4つがぱんぱんになりました。

やれやれ。すっきりした。

投稿者 birdwing : 2013年11月18日 05:15

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