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2006年3月 9日

みえないものを見る力。

ここ数日間、みずから小説を作りつつ表現することについて考えてきました。けれども、この試みを通じて考えた思考のフレームワークは、小説だけでなくビジネスにおいても、あるいは生活全般に関しても応用できることかもしれません。昨日に引き続き、考えたことをまとめてみます。とても理屈っぽく青臭い文章ですが。

まず書くことについて。文章を書くこと、言葉にすることは、何かを選択して一方で何かを捨てていることです。現前で起こっている今日の出来事を書くような日記であっても、ぼくらは現実をそのままのサイズで記録することはできません。圧縮もしくは省略して記録する。自分の視点で現実の一部を切り取っている。自分が生きてきたライブな現実世界を編集している、ともいえます。したがって文章にしたとき、文字として切り取らなかった何かは零れ落ちてしまう。だから書くという行為は難しいのかもしれません。書くということは、現実のある部分を選択することです。原稿用紙やPCの前で悩むのは、選択する苦しみともいえます(その裏返しとして、切り捨てるかなしみでもある)。

現前にないもの、小説のような架空の世界を書くのは、なおさら困難です。というのは、現実に起こったことであれば、書く範囲はある程度限られます。しかしながら想像の世界には、果てというものがありません。書く対象は頭脳のなかに無限に広がっている。どんなことでも書くことができる。その自由さがぼくらを苦しめる。大きな海を前にして感じるような畏怖があります。想像の水平線は、はるか遠くまで広がっていて霞んでいる。霞んでみえないほどでっかいものに立ち向かおうとするとき、ぼくらの足はすくんでしまう。

みえるものは書きやすい。みえないものを書くのは難しい。しかしながら、記録的であっても創作であっても「みえないものを見る力」が大事ではないか、とぼくは考えました。

たとえば生活においても、自分ではない他者の考えや心というのは、みえないものです。

「ぼく」は「きみ」ではない。「ぼく」は「ぼく」であって、「きみ」は「きみ」である。どんなに近くにいても、「ぼく」と「きみ」の心には20億光年ぐらいの距離が隔てられている。同じ世界を眺めていたとしても、「ぼく」のみている世界と「きみ」のみている世界はまったく違う。理解した、共感した、というのはある種の幻想です。ほんとうにぴったりと心が重なり合うことは有り得ない。世界はそこに存在するひとの数だけあるものかもしれません。けれども、お互いの存在が異なること、個々の視点を取り替えて他者のレンズで世界をみることはできないということを理解した上で、それでも「みようとする」ことが大切ではないでしょうか。

ではどうやってみるのかというと、頭脳のなかに仮想的な他者をつくり、他者の世界を疑似体験する。そのようにして「みる」しかないのではないか。先日、自分の頭のなかにもうひとりの自分を作る仮想化について考えました。仮想的な他者というのは、どんな形にも自分を変えられる物体のようなものです。つまり粘土人形のようなものでしょうか。ターミネーターか何かの映画に出てきた気がしますが、どろどろの液体なんだけど、対象に合わせて自分を変化させられるような物体。あれが自分の心のなかにある仮想的な他者のイメージです。

自分のなかの仮想的な他者は、あるときには上司かもしれない。またあるときにはクライアント企業の担当者かもしれない。子供かもしれないし、知人や友人かもしれない。そんな風に自分のなかに自分ではない他者をどれだけリアルに存在させることができるか。自分のなかに精度の高い他者を共存させて、その感情を察知できるような仕組みをバーチャルで作ったり壊せたりすることが、EQという観点からも重要であると思います。仮想的な他者を壊すことができないと、自己が他者に侵食されてしまうかもしれない。ときにはキケンな考え方に感染した他者を隔離できるようなコントロールも必要になります。また、このシステムが立体的な思考のために重要な気がしました。

顧客主義というスローガンを経営で使うことがあります。それも顧客という(基本的には理解が難しい、みえない)他者の視点で自社のサービスをとらえ直そうとする試みかもしれません。「日経ビジネスAssocie」という雑誌の3/21号では「見える化」の特集がされていましたが、ハーバードビジネス・スクールのジェラルド・ザルトマン教授によると、人間は考えていることの5%しか言葉にできなくて、あとの95%は無意識化にある、ということも引用されていました。5%の言葉にできたことで他者を理解するのは、綱渡りのようなものです。ところで、雑誌にはフィッシュボーンやポストイットの活用法が書かれていましたが、ぼくはツールも大事ですが、みえないものをみようとする姿勢の重要性というか、なぜみえるようにしなければいけないのか、という考え方が必要と感じました。スキルやノウハウを共有する必要はない、みえなくってもいい、という考え方がまだまだあるような気がします。

一方で、「ニューズウィーク日本版」の3/15号では、カトリーナの被害がもたらした社会問題の記事がありました。難民を受け入れてきたヒューストンで、寛大な心を維持できずに難民に対して出て行けというような問題も生じているそうです。この海の向こう側における出来事を、自分のなかのリアルとして再現できるのか。9・11もそうだったかと思うのですが、国際的なレベルにおいて仮想的だとしてもリアリティを持って考えられること、世界のどこかで起きている痛みを自分の痛みとして感じられるかどうかが大事かもしれません(ちなみにニューズウィーク日本版3/15号の特集は「ブログは新聞を殺すのか」で、これはこれで考えさせられるテーマです)。

ちょっと大きな話になりすぎたので、仕事の話に戻ります。

マーケッターやプランナーは、小説家的な素質が必要かもしれません。現前にない未来をどれだけ細部まで想像して、企画としてまとめることができるか。全体と部分の両方を把握しつつ、シナリオとしてアイディアを構想化していくことができるか。内容はもちろん、ターゲットやクライアントの心を読むことも大切です。ロジックは大事だけれど、共感を生むハートの部分はもっと大事かもしれない。一方で、ターゲットやクライアントばかりに固執しても、よい企画にはならない。決められた枠のなかで、自分を表現することも大切です。自分と仮想的な他者たち(クライアント、ターゲットなど)のように、いくつもの他者を頭脳のなかに仮想的に同居させて、わいわいがやがや討議させる。そんな「ひとりブレスト(ブレイン・ストーミング)」ができれば、多面的に企画の精度をあげることができそうです。

想像してごらん、とジョン・レノンは「イマジン」で歌いました。「ショーシャンクの空に」という映画で、主人公は刑務所のなかにいながらも外の世界を想いつづけました。SF小説で想像してきた夢物語のような未来の一部は、21世紀のぼくらの生活のなかで現実化しています。みえないものはみない、みたくないから目をそらす、のではなくて、みえないものをみようとしたときに、ぼくらは成長したり進化できるような気がしています。

そんなわけで、ぼくにとって小説を書くことや音楽を創ることは、みえないものをみようとしてカタチにする訓練として、間接的だけれど仕事の質を高めるために役に立っているのかもしれない、なんてことを考えました。まあ、基本的に趣味なんですけどね。

投稿者 birdwing : 2006年3月 9日 00:00

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