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2006年3月 6日

表現することの技術。

総表現社会というキーワードからいろいろなことを考えつつあるのですが、表現にもさまざまなカタチがあると思います。みんなの前で自己紹介のスピーチをするということも表現です。荒川静香選手のフィギュアスケートも素晴らしい表現力でした。小説を書く、音楽を創る、絵を描くということだけが表現ではなくて、彼女や彼氏にアピールするのも表現だし、よく頑張ったねと子供を誉めてあげるのも表現です。

今日こんなランチを食べました、というのも表現だと思うし、この映画を観て感動した、というのも表現だと思います。あいつの言葉に頭にきたとか、日本の社会は間違っているという意思表明も表現といえます。何を着て会社に行くか、鞄やノートパソコンにどんな道具をチョイスするかというのも表現。ひとことで表現といっても、さまざまな表現があります。

まず断っておきたいのは、ぼくはさまざまな表現に優劣をつけたり正誤を問うわけではないということです。その前提のもとにあくまでも私見を述べるのですが、ブログやSNSをはじめとしてインターネットは、すばらしい表現ツールだと思っています。しかしながら、はたして創作上の表現力を高めるかというと、難しいんじゃないのかな、という実感があります。

というのも、いきなりですが実験的に2日ばかり掌編小説を書いてみました。過去に書き溜めていたものではなく、いわゆる書下ろしです。いつもブログを書く時間を使ってテーマと構想を考えて小説としてカタチにしてみたらどうだろう、と思って試しにやってみました。書く方法とプロセスはそのままでアウトプットを小説にしてみようと考えただけのことですが、この試みで感じたことは、通常のブログを書くのとはまったく別の思考が必要になった、ということでした。正直なところ疲労度も違います。これはいったいどういうことだろう。

そこで何が違うかということを考えたのですが、いちばん大きかったことは、小説を書くためには一度素材を自分とは切り離して脚本家や映画監督的に眺める必要があるということでした。思いのままに書くのではなくプロットを構成しなければならない。それだけでなく物語内の主人公として、物語内的な時間をきちんと生きる必要もある。一方で、読み手に伝わるだろうか、ということも考える。さらに同時代的な作品の座標において、これってどの辺に位置するのだろうか、ということも考えたりする。したがって、ものすごく多面的で複雑な思考が求められます。メタ的な、作家としての自分を用意する必要がある。

メタ的な発想で思い出したのですが、ぼくはDTMを趣味としていて「Oxygen」という曲を作ったことがあります。この曲は実は、2歳の息子(次男)が喘息で入院して、酸素ボンベから吸入をしてもらいながら「もうおしまい?もうおしまい?」と繰り返していたときのイメージを発端としています。病院が大嫌いの息子がほんとうに悲痛な声で助けを求めていて、苦しいんだろうなあと思った。同時に、人間には酸素が必要なんだ、とあらためて感じた。その個人的な体験をそのまま作品にしても、子育てが大変な親たちの共感は得たとしても、かなりニッチなので届きにくい。そこで個人的な体験とそのときに感じた気持ちをキープしておいて、大切なひとを失ってしまってひとり残された部屋、という架空のシーンに表現の対象をスライドさせました。

うまくいったかどうかは疑問ですが、特に小説などの創作で表現力を高めるためには、このメタ化が重要になるような気がしています。体験や気持ちを直接書くのではなく、ひと晩寝かしておく。スープを作るように鶏がら的な部分は捨ててしまって、いい味の出た部分だけを使ってメインとなる料理を作る。ところがブログの文章というのは、そんなに時間をかけずに、ありのままの自分を出すのがいい。ストレートな自己表現が気持ちいいので、あまり作為的な作りこみは不要なことが多い。この対比から、文芸作品を志向するとなると表現力養成にはブログは向かないんじゃないかと感じました。もちろんいろんなことに気づく感度というのは鍛えられるかもしれません。ただし、小説を書くのは感度だけでは難しい。ブログ人口が増えて、総体として表現するひとが増えるのはすばらしいことだけれど、だからといって小説家がたくさん登場するわけではないのかな、と思いました(エッセイストは増えるかもしれない)。文芸作品的な表現を高めるには、プラスアルファの何かが必要になる気がしています。

コミュニケーションの表現力を高めるためには、インターネットは優れていると思います。特にSNSでは、日記にコメントをいただくことが最もうれしいし、その双方向的なコミュニケーションで盛り上がったりもします。うまく伝わらなくて問題になることもありますが、対話中心型のインターネットの未来は何となく想像ができます。みえないのはテキストによる創作表現としての未来です。それともテキスト中心の小説自体が既にオールドメディアであり、今後は音声や映像やアニメーションによるマルチメディア小説が前提になったりするのでしょうか。あるいは消費者の物語が作品としての小説を淘汰していくとか。ぼくはやっぱりすばらしい作品に出会うたびに、そんな作品を生み出すひとが増えていってほしいと思うし、ひとりの読者としてそんな作品を読みたいと思っているのですが。

ところで、ぼくの言うメタ化というのは自分のなかに仮想的に他者を作ることですが、テクノロジー用語である仮想化(バーチャライゼーション)もサーバーやクライアントPCのなかに、もうひとつの頭脳を存在させることです。通常言われていることは、WindowsやLinuxなど別のOSを稼動させることです。しかし、もうひとつの頭脳とは、単なるOSの問題ではなくて共作者(コラボレーター)としての頭脳であるかもしれない。あるいは、ひとつのマシンのなかの仮想的な頭脳間で対話が成り立つようなことかもしれない。

書くことはそもそも文章にすることで自分を対象化することでもあるのですが、マルチタスクのように単純に処理を並列化するのではなくて、昨日見た「笑の大学」という映画のような校閲者と作家が同居するようなイメージもあります。つまり同じ部屋(物理的なパソコン、あるいは物理的な人間の脳)において、複数のパーソナリティが存在するということです。パソコンと人間の脳の新しい在り方とその問題について、もう少し深く考えてみたい気がしています。

投稿者 birdwing : 2006年3月 6日 00:00

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