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2006年3月21日

ミレニアル的な視点。

おやすみ、と言うなり3分もたたないうちにぐーぐー眠ってしまった息子(長男)に、こいつしあわせなやつだなあと半分あきれながら、ブログを書くために起き上がり、パソコンに向っています。朝早くから昨日借りてきたウルトラマンのDVDを観て、喘息で入院している次男の病院にお見舞いに行ってきた彼は、たぶんとても疲れたんだと思う。というぼくも疲れ果ててしまい、夕食後には、息子のご機嫌をとることすらできませんでした。息子とふたりで暮らす日々は楽しい反面なかなかしんどいものです(それは息子もそう感じているんだろうけど)。

ところで、今日の朝に息子といっしょに観たウルトラマンの映画は「ウルトラマンティガ&ウルトラマンダイナ ウルトラマンガイア 超時空の大決戦」という1999年の作品でした。メインとなるのはガイアなのですが、ピンチになってティガとダイナも応援に駆けつける。つまり怪獣を相手にウルトラマンが3人も並ぶわけです。そこでぼくが感じたことは、これは誰が誰だかわからないよ、ということでした。ということを息子に言うと、馬鹿にされちゃうのですが。

初代ウルトラマンと次のウルトラセブンは明確に違います。丸い目をしてつるりとした卵形の顔のウルトラマンと、眼鏡をかけてモヒカンのようなアイスラッガーを頭にのせているセブンはぜんぜん違う。別物です。しかしながら、ウルトラマンもシリーズ化するうちに差異化が難しくなってしまったのではないでしょうか。あっちにツノをつけたり、変身後にさらに別タイプに変身できるようにしたり、いろいろな工夫が凝らされるようになっていった。ガイアとティガとダイナの違いというのは、側頭部の切れ込みが若干異なったり、全身の模様が異なったりという細部の特長になるのですが、子供たちのように一生懸命みているわけじゃないぼくには、その違いがわからない。今後、ウルトラシリーズで細部の特長から差異化したモデルがどんどん増えていくとすると、息子たちが大人になって子供(ぼくにとっては孫か)ができた頃には、どうなっているんだろう?と思いました。

ということを考えながら、無理やりこじつけて面白いな、と感じたのですが、インターネットを取り巻く現象も似ているような気がします。ロングテールと呼ばれる少数ユーザーによって支持される圧倒的多数の商品やサイト、という現象も似ているのではないでしょうか。最初は、有名なサイトが登場する。そしてその後、そのモデルを借りて細部を差別化したサイトなどが派生的に増えていく。ポータルサイトの登場時にもそうだったと思います。また、グーグルとヤフーという2つの企業が現在では中心になっていますが、今後は対抗する企業、亜流的な企業も含めて、そのモデルがさらに多様化していくのではないでしょうか。ロングテールの長いしっぽの部分にある作品やブログというのは、基本的にクオリティやコンテンツも似通ってくる。ただ、部分的な表現や内容の差別化になってくるのではないか、と。

ある現象の進化が落ち着き、進化の速度が止まって状況が成熟すると、その進化の流れにあったすべての現象を同時にみることができる時代がやってくるのではないか、ということも考えました。つまり、進化の過程では、それぞれ個別のストーリーを中心にみている。ウルトラマンに例えるならば、ウルトラマン、セブンの連続した番組をみているわけです。けれども、息子のウルトラマンに対する接し方でびっくりするのは、20数人いるウルトラマンの物語(と登場する怪獣、必殺技など)をすべて同時に並行して把握していることでした。ティガとガイアの番組で、かっこいい怪獣の回をつまみながら同時にみることもある。ゴモラなどの伝統的な怪獣は何度も登場するし、タイラントのように過去出現した怪獣を合成した怪獣(マッシュアップ怪獣といったところでしょうか)も出てくる。それを比較並列的に把握しているわけです。これから放映する新しいウルトラマンの番組にも関心がありますが、アーカイブされた過去の作品に出てきた怪獣などに対する関心のほうが強いようです。というよりも、絶対的に過去の作品の怪獣のほうが種類も数も多いからかもしれないのですが。

ウルトラマンの過去の歴史とバリエーションを俯瞰している、ということかもしれません。俯瞰しながら、実はデータベース的に知識を蓄積しているので、実はぼくなんかよりも怪獣について詳しい。広く浅くと言うわけではなくて、知識の深さもある。ぼく自身が子供の頃に同時代的に番組をみてきたはずの怪獣について、え?こいつはそういう怪獣だったのか?という斬新な知識を息子から学ぶことがあります。

普遍的な法則として考えてみると、特定のジャンルが成熟すると、個々はより細部の差異が求められる、ということかもしれません。最初に登場したモデルはシンプルでわかりやすいものがいい。というのは、他に似たモデルがないからです。けれども、モデルが進化し成熟していくと、複雑化して(それこそウルトラマンの胸の一本線が違うだけで別のものになるように)細部が重要な差別化のポイントになる。インターネットのサイトやブログも、進化の段階では大きな差別化ができますが、成熟してしまうと、ほんとうに細部の工夫などによってしか差別化できないような気がしました。

息子の話に戻るのですが、もしかするとまったくぼくらとは違った情報能力を持った子供たちが育ちつつあるのではないか、とちょっと怖くもなります。インターネットによる情報収集や新しいコミュニケーションを当然として受け入れて育つ子供たちを、ミレニアル世代というようです。彼らにとっては、現在だけでなく過去の系譜をすべて同時に把握できるような情報感度を備えているんじゃないか。そうなってくると、古い作品をノスタルジーをもってみるのではなく、逆に新しい作品のひとつとして観ることにもなります。次にはじまるウルトラマンメビウスも、ティガもガイアも並列的にとらえている。価値判断があるとすると、歴史的な価値より、かっこよさ、でしょうか。

なにしろ3歳の次男が大好きな怪獣は、エレキングです。ええっと思いました。エレキングは1967年にウルトラセブンに登場した怪獣です。なぜ最近の作品の怪獣ではなく、エレキングなんだ、とちょっと納得がいかない。それだけエレキングの怪獣としてのデザインが優れていて魅力的だったのかもしれませんが、これでは新しい怪獣を生み出すのも難しいだろうな、という気がしました。むしろ、過去の怪獣を使いまわしつつ、リニューアルなりマッシュアップ的に怪獣の素材を組み替えていったほうがいい。

話が飛躍しますが、たとえば本であれば、図書館に置かれた古くて色あせた本は、ああこれは古いものなんだな、と思う。けれども情報をテキスト化してしまった場合には、純粋に文字情報としてのテキストがあるだけで、紙がもっていた質感などは失われてしまいます。保存されたファイルのプロパティをみなければ、情報が古いかどうか判別できないかもしれない。そうすると、逆にどんなに古い時代のものであっても新しいものとして受け入れられる。アーカイブされたものだとしても、情報が優れたものであれば、他の情報に淘汰されてしまうのではなく、時代を超えて生き残るものかもしれません。

ブログを書きながら、何かヒントをつかんだような気がしています。しかしながら、アイディアが散漫になり(というか生活にくたびれちゃって)、きちんと書けていません。範列と統辞という記号論的な考え方も考慮しつつ、子供たちと遊んでいるなかで気付いたこともメモしながら、情報の在り方についての考察は、継続してもう少し考えていきたいと思っています。

ちなみに小田急線の祖師ヶ谷大蔵では、商店街の名前がウルトラマン商店街に変わり、駅前にウルトラマンの像ができました。地味なわかりにくい場所にあるのですが、ウルトラマンの前で待ち合わせね、というようなひとが増えるのでしょうか。

投稿者 birdwing : 2006年3月21日 00:00

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