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2006年3月17日

隔たれた溝の向こう側へ。

昨日、ストリートミュージシャンとして、スタジオではなく路上を表現の場として活動しているひとたちについて書いたのですが、そもそも街頭演説などの歴史を考えると、路上で演奏するスタイルは特に新しいものではないかもしれません。けれどもその境界のなさが、逆にぼくにはあらためてインターネット的な在り方を思わせました。つまり本来であれば音楽はライブハウスで演奏するものであり、路上は通行するものです。その閉ざされた空間と開かれた空間が交錯している。

雑誌などでもよく言われることですが、電車のなかで化粧をしている女性については、個人のスペースと公共のスペースの境界がなくなっているということもよく言われることです。そのことについて、最近読んだ山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室。」にも書かれていました。はるみさんという方からの「都市にひとがいなくなる」というメールを引用しつつ考察を加えているのですが、電車のなかで化粧をする女性は、他人から見られているという意識がない。つまり、他者の存在を消してしまっている。コミュニケーションする相手を見ない、聞かない、と外部をシャットアウトするわけです。あるいはサヴァイヴァル的な観点から、「見たいモノだけを見る」という「セレクティブ・ビジョン」という考え方も引用されていました。一方で、他者だけでなく自分も消してしまうことも多い。そのことを「一人称がいない」と表現されています。

表現か、自己満足か、という境界は、自分はもちろん他者をきちんと存在させることができるかどうか、という点にポイントがあるような気がしました。引用や抽象的な言葉、専門用語は自分の存在を消し去るのには優れています。しかしながらそういうものを散りばめすぎると、そのひとがみえてこない。

書いたものが力を持つためには、もちろん一般的や抽象的な考えばかりではなくて、そのひと個人の何かを発動させる必要があるのではないか、とぼくは考えてきました。個人のなかでもいちばんわかりやすのが情動的な部分です。感情にまかせて書いた文章がいちばん力がある。あるいはプライベートなできごとを綴ったときにリアリティが生まれる。しかしながら、たとえばネガティブな感情が特定個人や団体に向った場合には、誹謗中傷としてのキケンを孕むことになります。何でも書けるのだけれど、抑制すべきポイントはいくつかあります。

他人の書いたものを読む状態から自分で書く状態に移行するというのは、実は大きな溝があって、そこを乗り越えるのがまず困難です。そして、その溝を乗り越えてしまうと、書くことの地平はものすごく広がる。社会について、自分の好きなことについて、何でも書くことができる。広がるのだけれど、実はその先にはまた大きな溝があります。

路上で声を張り上げてみても、多くのひとは立ち止まってくれない。けれども、立ち止まって思わず聞いてしまう声もあります。次に声を聞いたときにじっくり聞いてみようと思うこともあるものです。ブログも同じで、流行に合ったキーワードや辛辣な批判で一時的に足を止めることはできるけれど、そうしたうわべの言葉だけでは大きな溝の向こう側には行くことができません。とても難しいのですが、最終的には人間性に辿りつくような気もしました。

投稿者 birdwing : 2006年3月17日 00:00

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