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2006年3月14日
言葉の力。
こんなロングテールの先っぽの辺鄙な場所でこつこつとブログを書いていても誰もみないだろう、と思っていたところ、そうでもなかったようです。きちんと言葉は届いていたようでした。ちいさな石であっても、池に落とせば波紋は大きく広がるものです。あらためて言葉の力というものを感じました。
たとえば一般論ですが、権威的なもの(企業や団体)に対して批判的な何かを提示したとき、「そんなこと言うなら解雇するぞ」とか「もし業界で仕事をしたいなら名前を変えた方がいい。おまえが仕事できないようにしてやる」とか「閑職に追いやる」などのように脅しをかけられることはよくあることです。それはそれでネタとしては面白いので、そういう状況に陥ったときの推移をブログで中継するのもなかなか興味深いかもしれません。
ペンという武器を持っていて、ブログという盾を使って身を守ろうとしても、現実には、ひとというのは権威的なものに対してものすごく弱いものです。きっと権威的なものに対しては言いたいことも言えずに屈してしまうか、そのプレッシャーに負けてしまうでしょう。ただ、ハードボイルド的ではあるのですが、どんなにめちゃめちゃで間違っていたとしても、言いたいことは言っていたいと思います。もちろん言葉として発するまでには熟考に熟考を重ね、ほんとうに言うべきかを慎重に判断した上で言葉にしたい。ついでに、ブログに書くかどうかはともかく、です。
ちょっと批判的な文章を使っておこがましい提言をしたのですが、ぼくの場合には、提言した方と、きちんと話をすることができました。内容を理解していただいたようなので、ひとまずは安心です。というよりも、ぼくは批判するつもりはまったくなくて、肝心なところは、ぼくらの方向性をきちんとしましょう、ということを切実な願いを込めて言いたかったわけです。何度も言ってきたことだと思うのですが、どうも何にもなりませんでした。そして念のために断っておくのですが、なんとかしてください、という他力本願ではなくて、考えなければならない部分は、もちろんぼくもいっしょに考えたり行動する、という前提があります。ある意味、崖っぷちのぎりぎりのところで、変革すべきであるということを訴えたつもりでした。
書かなければいけないこと、書いてはいけないこと、などというのは、自分でも分かっているつもりです。しかしながら、書かなければ(あるいは言葉を発しなければ)何も変わらない現実と言うのもある。発しても発しても何も変わらないこともあるのですが、それはまあ仕方がないので諦めるしかない。モラルやリテラシーは重要ですが、ときにはショック療法的に発しなければならない声もあると思います。
とりあえず、体外的な体裁はともかく、今回ぼくが提言したことに対しては本心であるところを聞いていただけたのではないか、と思っています。そう信じていたい。であれば、捨て身の気持ちで書いたぼくの決意も報われるものです。それでも何も変わっていない場合には、ふたたび失望もしますが、そのときはぼくがどうするかを考えればいいだけです。変わらないものを変えようとしても、無駄な努力を重ねるだけです。
組織が腐っているね、というとき、それは自分のなかの腐っている部分を対比していることがあるかもしれません。腐っているのは組織ではなく、自分のなかにある仮想的な組織かもしれない。早い話が、おまえおかしいよ、と言ったときに、おかしいのは実は自分だったりもする。放っておくと癌細胞のように自分のこころ全体を腐ってしまう意識というものがあります。腐ってしまう種が生まれると、その周囲まで腐らせてしまうものです。
ぼくの意識のなかに、そんな種を生まないようにまずは気をつけなくては。
投稿者 birdwing : 2006年3月14日 00:00
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