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2007年9月24日

すべての現象には。

土曜日から日曜日にかけて趣味のDTMで「Crator」という曲を作って、昨日ブログで公開しました。最初にこの曲に着手したときには、だめだこりゃ(泣)と思ったんですよね。なんとなくありきたりで、曲の展開もダサい。洗練されていませんでした。

いまでもそう感じる部分もありますが(苦笑)、最初に作ったプロトタイプより少しはよくなった気がします。創作の過程には行き止まりの混沌状態があって、けれどもそこで投げ出してしまうと完成しない。これは・・・と思った曲に対しては、我慢してしばらく取り組んでいると光がみえてくる(こともある)。仕事も同様のことがあるし、人間関係もそういうところがありますね。パートナーシップを長続きさせるコツかもしれません。嫌だと思っても、とりあえず現状維持してみること。

いろんなことを考えながら作っていくうちに、「Crator」には思い入れが強くなりました。自分以外のひとにどう聴こえるかわからないのですが、風変わりな印象があるのではないでしょうか。ふつーの曲ではない。音楽というよりもノイズのコラージュっぽい。どこがサビかもわからないし、唐突に終わってる(苦笑)。でも、ぼくにとっては、この曲は重要な1曲になりそうです(かなり)。

というのも、ぼくは商業的なミュージシャンではなく、趣味なので大勢に受ける曲を作らなくてもよいと思っていて、曲作りはあくまでもブログを書くことと並列に考えています。「日記のように曲を書く」というコンセプトで毎週のように曲を作っていた時期があるのですが、日々の生活で感じた音をコード化して曲にしているようなところもあり、アウトプットが文字(=ブログ)なのか音(=DTM)なのか、という違いでしかありません。

したがって、他人には意味不明な音のカタマリだったとしても、ぼくが聴くと、作成したときの気持ちを再現できる曲だったりもするわけです。

「Crator」には封印していた、とても個人的な気持ちを込めました。ただ長い時間を経て(年月を経たワインのように醸成もされていたため)、自分でも驚くほどまったく違う何かになっていましたが。

人間にはさまざまな二面性があります。穏やかな部分と攻撃的な部分を同時にもっていることもある。たとえばひとを好きになったとすると、やさしい気持ちと同時に相手をひとり占めしたいというか暴力的に奪いたい気持ちもあるのではないでしょうか。特に男性はそうかもしれないですね。

ふたつの、あるいはそれ以上の複雑な感情は、同時に存在しています。ふたつに限定した場合、表裏一体という感じでしょうか。週を前後して作った穏やかな「half moon」と攻撃的な「Crator」は同じルーツから表現が派生したものであって、ぼくのなかでは表裏一体な曲としてとらえています。

しかしながら、表現者として考えてみると、光の当たる場所は問題ないのですが、影の部分、ダークサイドというのはちょっと厄介です。ブログを書くにあたっても、ダークサイドを露出してしまうと思わぬことが起きたりもする(苦笑)。

かつてブログで非常に攻撃的なことを書いたことが(何度か。苦笑)あったのですが、「そういうことは書くべきではない」というお叱りをいただいたこともありました。指摘をいただくことは非常に有り難いのですが、なんとなく漠然とした違和感もあった。フィルターを通したきれいなものだけを書いているのは、何か嘘っぽくないか、と。人間はきれいな部分ばかりじゃないでしょう、と。

とはいえ、ダークサイドを表現することは、とてもリスキーです。攻撃の毒で自分も傷付けることにもなり、一般に公開しているブログであれば、当然のことながら血に飢えたハイエナのようなコメンテーターを集めることにもなる。要注意です。よほど精神的にタフでなければ書かないほうがいい。ダメージの後遺症はかなり後をひくので、リアルライフにも影響を及ぼします。心して書かないと、ネットの闇に堕ちてしまう。あるいは二度とブログなんか書かない、と筆を折ってしまうことになる。

かつてぼくは失敗したら何度でもリセットすればいいじゃないの?と安易に考えていた時期があるのですが、いまあらためて思うのは

人生はリセットできない

ということです。ブログは消去できたとしても、書きながら感じてきた「想い」を消去することはできない。暗い気持ちであったとしても書くことによって、一種「実体化」されます。だから残る。

言葉化しなければ意識から忘却されたはずのものも、言葉化することによって脳の編成そのものが変わるような気がします。脳の可塑性というんでしたっけ。一度、言葉化して世界の見え方を変えてしまうと、その見え方ですべてを見るようになる。だから考えてしまったことは、もう頭から消去できない。考えなかった前に戻ることはできない。

けれども、ここであらためてまたぼくが考えるのは

リセットできないからこそ意味がある

ということです。ぱぁっと目の前に光が広がるような感動も、どよーんと闇のなかに突き落とされたような失望も、意味があるからこそ存在している。おまえに会わなきゃよかったよ、という存在も、あなたのような素晴らしいひとに出会えてよかった、という存在も、同等に意味がある。考えてしまったことは消去できないからこそ意味がある。

けれども、そこでぼくがさらに考えを深めようとしていることは

失望は次の幸運のためにあるわけではない

というようなことです。不幸な出会いがあればその後に幸福な出会いがあるのではない。このことを「未完成という完成形」というテーマとして現在も考え続けていて、まとまらない思考なのだけれど、人間の脳って補う力があるじゃないですか。結ばれていない図形から三角形を見出す「カニッツアの三角形」についてエントリーで書いたこともあるのだけれど、起・承・転・・・ときたら、物語の「結」を補ってしまう。でも、実は、「起承転」という完成形もあるのではないか。

つまり、あらゆるものがつながっているわけではない。そのつながりは幻想や妄想だったりすることもあるわけです。つなげることが現実を歪めることもある。だから単体としてある「いま」という現象が完成形であると思わないと、いつまでも不完全なわけです。

もちろん不完全であることが原動力となって何かを生み出すこともあるけれども、ひとつひとつの「いま」が完成形であることを認識すると、少し気持ちも楽になるのではないでしょうか。わかりやすいので恋愛に喩えてみると、片思いは両思いになるための途上ではなく片思いという完成形である、というようなことです。うーむ、この場合は認識しても、楽にならないか(苦笑)。

以前の自分と比較するから「こんなに変わっちゃって」などと悲嘆することもあるかもしれませんが、変わっちゃったいまの自分が完成形だと考えること。そして完成にこだわらずに、どんどん変わってしまえーと思うこと。刹那(瞬間)ごとの自分をそれでよしとすれば、激怒した自分も、みっともない自分も許せます。というのは、別の完成形もたくさんあるのだから。

すべての現象には、その現象の意味がある。ただ、辛い経験は未来のよいことのためにあるわけではなく、単体の辛い経験として意味があるのではないか。失敗は成功のためにあるわけではなくて、失敗は失敗だ、と。ただ、その無数の点をつなぐとみえない何かが星座のように浮かんできて、それが自分かもしれません。さらに点の延長線上に、みえないけれども存在するはずの自分もいる。

あるがままに日常を生きるためには、いまある世界をそのまま受け止めるフラットな感覚が必要なのかな、などと考えました。成功は成功として受け止め、失敗は失敗として受け止める。かなしみはかなしみとして受け止め、よろこびはよろこびとして受け止める。そんなプレーンな認識こそが、難しいのかもしれませんが。

禅問答みたいですけどね。そんなことを考え続けています。

投稿者 birdwing : 2007年9月24日 18:21

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