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2007年9月 8日
コラボレーションのかたち。
ほとんどテレビを観ないぼくですが、たまたまCMを観たところ、これはかっこいいぞ!と思ったCMがありました。富士ゼロックスの「一人一音の演奏会」です。
以前ピアノ編も観た記憶があるのですが今回はギター編で、ひとつの弦しか張っていないギターを抱えたギタリストが、それぞれ一音だけ奏でます。その一音ギタリストの音が集まると、サラサーテのツィゴイネルワイゼン(作品番号20)になるわけです。
合成ではなくて、どうやらせーので弾いているっぽい。最初は、これAppleのCMかな?と思ったほど洗練された映像で、ホワイトを基調とした画面にクロを中心としたギタリストがずらっと並ぶ姿がかっこいい。
すぐに消されてしまうかもしれませんが、YouTubeに掲載されていましたので、そのCMをどうぞ。
■FUJI XEROX 「一人一音の演奏会」シリーズ ギター篇
もちろん、富士ゼロックスのページでも観ることができます。こちらは、ピアノ編の映像もあり、さらにFlashによるコンテンツも用意されていました。
■富士ゼロックスのCMページ
http://www.fujixerox.co.jp/event/cm/piano/
CMのコンセプトは、次のように解説されています。
個人の“知”を一つの音に例えながら、 『アイデアが触発し合い、新たな価値が生まれる企業環境』 の構築をお手伝いしていきたい、という富士ゼロックスの 企業姿勢をお伝えしています。
うーん、いいですね。ぼくはこういうメッセージに弱い。富士ゼロックスといえば、IT関連の老舗ともいえる大企業ですが、時代に合わせてしなやかに変わろうとしている企業姿勢が感じられました。もちろん大企業であるがゆえの課題もあるかとは思うのですが、広告だとしても、こういうメッセージを外部に発信している企業は好感があります。
このメッセージの背景にあるのは、当然のことながらブログによって生まれた集合知(Wisdom of Crowds、Collective Intelligence)でしょう。
「集合知」とは、ブームとなったWeb2.0などの基本となる考え方ですが、ひとりひとりが持っていた情報や知識がインターネット上にアップされ、保存(アーカイブ)され、検索されるようになる時代における新たな知のあり方です。
質問のあるひとと回答できるひとをマッチングすることにより、世界中の知恵袋のような誰かから何かを教えてもらうことができたり、オープンソースのシステムやWikipediaのように、みんなで協力してアプリケーションを開発したり膨大な百科事典を編纂したり・・・などなど。一本の矢では折れやすいが三本集まると折れにくい(by 毛利元就)ような協働のかたちでしょうか(違うか)。
この考え方をWeb2.0のようにまとめてしまうとネットの狭い社会でしか通用しませんが、富士ゼロックスのCMのように、たくさんの音が集まると楽曲になるという風に考えると、メタファ(暗喩)としてさまざまな場面で使えそうな気がします。
ただ、ここに自分なりの厳しい解釈を加えるとすると、ひとりが奏でる一音は一音ではあるが渾身の一音であるべきで、一音であるからといって気を抜いちゃいけない(苦笑)。完璧な一音であることが重要ではないか、ということです。他の音に依存しているのであれば、その一音の気の緩み加減は全体に影響します。だから一音であっても、ぴんと張り詰めていなければならない。
というのは、かつて趣味で3ピースの社会人バンドをやっていて感じたことですが、ドラムス+ベース+ギターという最小限の編成のバンドをやっていると、ミスをするとものすごく目立つわけです(苦笑)。楽器が下手なぼくはミス多発で頭掻きまくりでしたが、その度に嫌な汗をかいていました。ほんとうにたかが演奏ですが緊張します。でも、その緊張感が結構大事だったりします。さらに緊張した上で自分を表現できるかどうかが重要で、これが難しい。
決められた通りに上手く弾くだけであれば、自分ではなくてもよいわけで、スタジオミュージシャンでも雇えば上手い演奏はいくらでもできる。けれども、なぜそこに自分がいるのかといえば、下手でも自分を表現したいからだと思います。バンドという全体の一員でありながら、個人として音を表現したい。自分だけの音を出したい。その気持ちを大切にしたいと思います。
そんなバンド経験がいま、組織における自分の生き方にものすごく影響を与えている気がします。
協調性が大事だとか、コラボしましょうとか、会議で情報共有すべきとか、会社にはそんなことをやたらと言いたがるひとがたまにいます。けれども、そういうひとに限って自分では何にもやらず(できず)、成功は横取りして失敗は責任転嫁、他人の力の上に胡坐をかいてふんぞり返っていたりするものです。バンドにおいても家でこつこつと練習する時間の重みがスタジオに入ったときに明確に現われたりするものですが、表層的にきれいなスローガンを連発するひとは、なんとなく言葉に薄っぺらな印象が伴いますね。技術を、あるいは人間を磨いていないのがわかる。
それではいけない、とぼくは思います。協調の前には自律があるべきで、オレはこれができる、これなら任せとけ、で、きみはどうする?という姿勢が大事ではないでしょうか。できる、と言ってしまったときに、ほんとか?という突っ込みは必ずあります。けれども言ってしまった後で、改めてできるようになればいい。自律するということは、未来の責任を負うことも含めて自分を宣言することではないか。
やってみてわかることもあります。ぼくがブログ構築しているのは、なんでもできるスーパーマンを目指そうとしているわけではなく(ましてそんなマルチな人間になれるわけがなく)、ただ、自分でやってみるとシステム担当者の気持ちであるとか、デザイナーの気持ちがわかる。これはできないよな、とか、この程度であれば簡単に修正も可能だろう、など、ある程度の読みができるようになります。そのためです。
バンドにしても組織にしても(あるいは夫婦や家族関係にしても)、コラボレーションには基本的に緊張関係の上に成立するものであり、みんな仲良く楽しく・・・という幼稚園のお友達関係のようなコラボはあり得ない気がします。などと言っている自分は厳しすぎるのかもしれませんが、その厳しさの上に立ち、それでも、
他者を許せるか
ということを考えていきたい。
こころに余裕がなくてただひたすら自分にも他者にも厳しいひとではなく、最終的にはひとを許すという切り札を手のなかにあたためながら、それでも自分の信念に誠実であり、仕事のクオリティに徹底的にこだわる。
そんな厳しさを持ちたいものです。
投稿者 birdwing : 2007年9月 8日 23:29
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