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2012年10月14日
働くということ。
社会人として若かりし頃、ぼくはやる気に漲って知識を貪欲に吸収し「よい仕事」をしようと燃えていました。同僚の目も輝いていました。誰もが最初は試みることだとおもうのですが、セミナーや異業種交流会に積極的に参加し、ビジネス系の雑誌や書籍を必死になって読んだものです。
しかしながら、カタチばかりの勉強は実を結びません。いまそのときの自分を振り返り自省すると、めちゃくちゃな方向に猛進していた気がします。節操のない名刺の収集に耽ったり、ライフハックのような小手先の技術を身につけたりすることは大事なことではなかった。むしろ「志を高く抱き、ビジネスの思想もしくはテツガクを考え抜くことを優先すべきではなかったか」と確信するのです。
技術や戦術はいくらでも後から学ぶことはできます。ところが難しいのは、戦略やビジョンとか、あるいは仕事を通じて何を実現したいのか、という抽象的なテツガクなのです。それらを徹底的に考え抜き、自分の核として持っていれば、おのずと戦術は決まってくる。腰が据わるからビジネスの実践でひるむこともありません。
15分のスキマ時間を有意義に使う方法を窮めること、ポストイットや手帳を活用して自己管理を徹底する手法を学んだほうが実務的だ、と言うひとも多いでしょう。iPadのおススメアプリを使いこなし、スマートに仕事しようぜ、というスタイルがかっこいいこともわかる。
わかるのですが、しかし。ぼくは若い世代だからこそスタイルから入るのではなく、「なぜ自分は仕事をするのか」「わたしの仕事はどこへ向かおうとしているのか、社会にどんな働きかけをするのか」という理屈っぽい大義あるいは思想を徹底して考え抜いたほうがよいとおもうのです。ちまちましたライフハックに拘るよりも、企業と社会全体を俯瞰する思想を獲得したほうが社会人としてでっかいコトができるのではないでしょうか。
そんな考えを基盤にして、仕事について考えたことを毎朝の連投ツイートでまとめてみました。若干古くなりますが、9月19日(水)~10月6日(土)までにツイッターで140字ごとつぶやいたことに加筆、修正を加えています。
仕事はどうあるべきか。まだまだ考えることは多そうです。
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■シューカツについて。(9月19日)
就職活動をする学生たちは依然として厳しい状況にあるらしい。100社にエントリーシート(ES)を送っても書類審査だけで撥ねられる学生もいて、自分の価値を疑って凹むような状況にあるという。どういう会社を受けているかということも気になる。著名な企業ばかり受けていれば書類審査さえ通過するのが難しいのは当然だ。
2013年卒業予定の人気企業ランキング(みんなの就職活動日記:楽天株式会社)によると、人気企業の総合ランキングで1位は電通、2位は伊藤忠商事、3位はオリエンタルランド。こうした企業には必然的に応募者が集まるわけで、その企業を受けて落ちて「オレはダメだ」などと考えるのは早急すぎる。
自己分析や自己アピールを要求されて悩む学生も多いらしい。個人的な考えでは、自分を分析するよりも企業を分析するほうが重要ではないか。本人たちには申し訳ないが、学生時代に学んだことなんて、たかが知れている、直前になって海外に旅行して体験を積んでも鍍金は剥がれる。
面接の場は企業を知る「勉強の場」であると考えたらどうだろう。自分の研究よりも他者、企業の研究に重きを置けば受かった受からないのプレッシャーからすこし解放されるのではないだろうか。結果として内定が取れたら儲けもので、さまざまな企業のひとたちに会ってみる。その経験は貴重なはず。
ぼくらは結果ばかりを求めすぎる。だからプロセスを楽しむ余裕がなくなる。企業に入ってしまえば、新規開拓をする営業の場合はともかく、さまざまな企業の人事担当者に会える機会は少なくなる。さまざまな企業の人事の方とお会いできる就職活動の場は、貴重なチャンスだと考えたほうがいい。視野を広げれば地域の中小企業にも面白い会社はあるかもしれない。
■仕事について。(9月20日)
自分のやりたい仕事を優先すると、企業の求めていることと自分のやりたいことのマッチングの領域が狭まるから、自分に合った仕事がなかなかみつからない。であれば、眼前の仕事をやりたいことに変えてしまったらどうだろう。どんな仕事にも面白さを見出す。雑務を含めてあらゆる仕事も面白い仕事に変えてしまう。そうすれば仕事はもっと楽しくなる。
仕事は金儲けのためと割り切ってもいい。そういう考え方があっても構わない。けれども金儲けのためだから嫌々やるのではつまらなすぎる。金儲けのための仕事であっても楽しみをみつけて、自分のためになることに変えてしまえばいい。どんな雑務にも少なからず学ぶことはある。
「自己実現ではなく社会実現」のために就職をするという考え方を坂口恭平氏が『独立国家のつくりかた』という本で述べていて共感した。自分の眼前にある仕事は社会を変える仕事だろうか。社会をもっとわくわくするもの、便利なもの、あたたかいもの、進化していくものに変えていく。そんな仕事に携わりたい。社会実現の芽はそこにある。
独立国家のつくりかた (講談社現代新書) 坂口 恭平 講談社 2012-05-18 by G-Tools |
仕事が面白くないと愚痴をこぼしたくなるときも確かにある。ただ、愚痴ばかりで何も行動しない毎日は寂しすぎる。もう一度、最初の頃に立ち戻って欲しい。その仕事を選んだのは自分なのだ。その仕事を選ばない自由もあった。自分で選んだ仕事であれば文句は言うべきではない。仕事自体を変えるのも辞めるのも、選択する権利は自分にある。
経済的に余裕があって働かなくても済むような人間は別として、たいていぼくらは何かの仕事をしなければならない。一生のうちの大半を仕事をして過ごす。であれば、その時間を有意義に変えたい。儲けるだけが仕事ではない。ライフワークというように、自分で仕事の領域や目標を決めて「稼がないけれども社会に貢献する仕事」「一生を通じてこれだけはやりきったと言える仕事」も存在するはずである。
■個がアメーバ化する組織。(9月27日)
稲盛和夫氏の『アメーバ経営』を読んだ。わかりやすい言葉で書かれているが、さすが経営者の方々のバイブルである。実践を通して培った自律した組織のノウハウと、「売上を最大にして経費を最小にする」というシンプルな指針が腑に落ちた。これからの組織を考える上でも多くの示唆があった。
アメーバ経営―ひとりひとりの社員が主役 稲盛 和夫 日本経済新聞社 2006-09 by G-Tools |
アメーバ型の組織は営業や製造などの部門が独立採算制を取り、それぞれがひとつの企業として運営されていく。企業全体が細胞分裂して最適な組み合わせを選びながらつながりを模索する。転じて考えた。個人的な考えだが、これからの時代は組織からさらに「個」という細かな単位にアメーバ的活動が求められるのではないか。
「個」がトップと同じビジョンを共有し、企画から製造・販売まで企業全体をひとりで考えられるような自律性をもつこと。歯車として組織の一部を担うのではない。経営者から細胞分裂した経営細胞として社員個人が機能する。大企業では難しいかもしれないが、中小企業ではそんな逸材は重宝されるはずだ。
大前研一氏はPRESIDENT Onlineで構想を実現するためには「パーソン・スペシフィック(人材次第)」であることを強調されている。戦略を実行に移すには「どの人間がやるか」にかかっている。その意味では組織全体で足並みを揃えているのではなく、強力なリーダーが必要になる。
自律した個人は、ばらばらな方向に迷走するのではないかという危惧もあるが、ビジョンを共有していればベクトルは揃うだろう。経営的な視座から仕事をとらえられる社員が増えれば組織の創造性はぐんと高まる。個人が自走できるアメーバであることが、これからの組織に求められる要件ではないだろうか。
■ビジョンとは。(10月6日)
ビジョンという言葉が企業で使われる。目標とする未来の企業の姿、先見性などを指すのだろう。その意義は多岐に渡っている。ジェームズ・C・コリンズ/ジェリー・I・ポラス著『ビジョナリーカンパニー』は永続する卓越した企業の条件として企業の基本理念、ビジョンに注目したすばらしい本だった。
ビジョナリー・カンパニー ― 時代を超える生存の原則 ジム・コリンズ ジェリー・I. ポラス 山岡 洋一 日経BP社 1995-09-29 by G-Tools |
中小企業ではビジョンどころではないかもしれない。いま眼前にある課題を片付け、どうやって厳しい現状を切り抜けていくか精一杯のところが多いだろう。後継者の育成も悩みどころであり、企業のDNAを引き継ぐことができるかどうか、あるいは刷新して活路を見出せるかどうかも後継者の力量で決まる。
大企業では基本理念が整備され、明文化され、共有されているところが多い。しかしながら、社員の一人ひとりに理念が浸透しているかといえば疑問が残る。末端神経ともいえるような企業の隅々にまでビジョンが共有されていなければ、ビジョンは企業全体の大きなベクトルとして立ち上がらない。
中小企業のなかでも、お客様のために役立つ仕事をするであるとか、地元密着型の企業として地域社会の発展に貢献するとか、地球環境の改善に努力するとか、そんなビジョンを掲げた企業には芯の強さを感じる。そうはいっても現実は......ということもあるだろうが、社員の大切な拠り所となる気がする。
視野を拡げて日本全体のビジョンを考える。新しい政治の動きを眺めたとき、そこに日本の新しい未来像を見出すことはできるだろうか。もちろん机上の空論に陥ってはならないが、「構想力」が必要だとおもう。日本が世界のリーダーシップをとっていくためには、ビジョンの構築は欠かせない課題だろう。
■リーダーシップとは。(9月25日)
リーダーは文字通り組織をLeadする(導く)ひとであって、管理者(マネージャー)ではない。よく言われるように日本の社会には優秀な管理者は多いかもしれないが、卓越したリーダーは少ない。ビジョンを語り、進むべき道を示し、ときには反対者をも含めて組織を引っ張るような人材に欠けている。
リーダーは論理的な思考に優れているだけでなく、人間的にも魅力のあるひとがなるべきだろう。自分の周囲3メートルばかりしかみえないひとではなく、もっと高邁な思想を持っているひとがなるべきである。管理者になるのは容易い。役職を与えればいいだけだ。しかし、リーダーになるのは難しい。
協調性を重んじる横並びの文化だからなのか、日本には突出したリーダーがいない。かつて日本は世界に対してリーダーシップを取るべき時代があったにもかかわらず、腰砕けで終わってしまった。政治では明確なリーダーシップを取る人物を輩出できずに、社会は迷走を続けている。リーダー不在は問題だ。
カリスマと呼ばれたリーダーがいる。スティーブ・ジョブズ氏もそうだろうし、日本の松下幸之助氏や稲盛和夫氏もそうだろう。彼等に共通するのは仕事に対して真摯に向き合う姿勢と高い志の両方を備えていたところだ。眼前にある課題を片付けることで精一杯だとしても、視線は遥か遠くを見据えていた。
眼前のものに執着するひとは近い場所に留まるばかりだ。しかし、可能性のある未来に視野を飛翔させるひとは、どこまでも遠くまで行ける。もちろん地に足が着いていなければいけないが、リーダーは「夢を描くひと」でありたい。ひとを動かすのは金儲けだけではない。遥かな志と感動がひとを動かす。
*Photo:Matthew Yohe (talk)(Transfered by fetchcomms/Original uploaded by Matt Yohe)
■自走するためのモチベーション。(9月26日)
「モチベーションが上がらない」ということが言われる。確かに仕事の場では、合理的ではない指示を受けたり面白くない仕事を押し付けられたり、やる気が起きない場合は多々あるだろう。しかしながら、モチベーションは外部の何かによって「上がる」ものではなくみずから「上げる」ものだとおもう。
他者の言葉をきっかけにモチベーションが上がることがあるかもしれないが、原則的に、モチベーションは自発的なものではないか。モチベーションは自分のこころのなかにあるやる気を燃やすエンジンだ。他者から火を点けられるのを待っていなくても、自分で自分のこころに火をつけることはできる。
自分で自分のこころに火を点けることができれば、ぼくらは自走できる。他者から褒め言葉や評価をいただいたり、あるいは目標達成のニンジンをぶら下げられなくても、自分のなかにある原動力で走ることができる。自分のなかにある原動力が確かであるほど、外部環境の影響を受けることは少ない。
自走力の火を他人にも分け与えることができれば、組織を動かすこともできる。それがリーダーシップなのかもしれない。最もわかりやすい自走力の火は給料かもしれないが、わずかな風に吹かれたら消えてしまいそうな火では危うい。強い火を点すこと。リーダーは強い火を他人にも分け与えられる。
冷めた時代だとおもう。夢のような言葉やわずかなご褒美では、ぼくらのこころに火は点かなくなってしまった。停滞する空気を吹き飛ばすような燃料は希少になってしまった。だからこそ自走力が必要である。走らなくてもいい。歩き続ければいい。自律的な自走力のエンジンを内包している人間は強い。
投稿者 birdwing : 2012年10月14日 23:22
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