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2012年8月26日

「独立国家のつくりかた」坂口恭平

▼books12-01 :自律した「個」が社会実現をするために。

4062881551独立国家のつくりかた (講談社現代新書)
坂口 恭平
講談社 2012-05-18

by G-Tools

かつてバブル崩壊後の新宿の街には、たくさんの路上生活者がいました。

建物の影に寝転がっていたり、ダンボールで家をつくったり。路上生活者の姿はたくさんみられました。通勤時間の朝、ぼくは眠たい目をしょぼしょぼさせ、会社に遅刻しそうな足を速めながら、すこしだけ彼等のことを羨ましくおもったことがあります。というのは、路上生活者のみなさんは、ある意味、仙人のようで、社会や他者の視線から解き放たれて「自由」にみえたから。

彼等からぼくらのようなサラリーマンはどのようにみえるんだろうな。路上に寝転んでみればわかるかな、などと思ったこともあるのですが、実際にやったことはありません。日常のあわただしさのなかで、そんな子供じみた疑問は忘れてしまいました。

路上生活者たちには建物も土地もありません。建物や土地が「ある」「ない」の二元論から、きちんと家や土地を持っているひとは、彼らを見下した視線でみる。ところが一方で、家を購入したひとは35年のローンなどを組んで、あくせく働かなければなりません。それが当然だとおもっています。

いまでは若干、変わりつつあるかとおもいますが、マイホームを背負うことがサラリーマンとして当然であり、家を持ってこそ一人前のように語られていた時代もありました。

なぜ土地と家にお金を払わなければならないかという、ある意味当然で、しかしながら誰も疑問視したことのない問いにこだわったひとがいます。それが「「建築」は建てたことがない建築家」である坂口恭平さんです。

坂口さんの著書『独立国家のつくりかた』は刺激的でわくわくする本でした。

ぼくは最初、タイトルから政治的な本なのかなとおもって購入。冒頭で熊本生まれであること、現在三十四歳であること、70㎡で家賃6万円の家に住んでいること、200㎡の家賃3万円の事務所を借りて弟子が居ること、年収は約1,000万円で貯金は300万円であること、などのご自身の詳細なプロフィールが書かれていて面食らいました。

さらに建築家であること、卒業論文は「0円」ハウスというという本になったこと、執筆活動で四冊の単行本、二冊の文庫本、一冊の韓国語の翻訳、写真集と合わせて八冊の本を出されている作家さんであることに続きます。

0円ハウス

いったい坂口恭平さんとは、どういうひとなんだろう。

「まえがき」を読み進めると、「僕は、ギターを弾きながら歌を歌うことができる。日に1万円ほど、路上で稼ぐことができる」というところをに惹かれました。自分でもギターを弾いたりパソコンで音楽を作っているせいもありますが、おおっなんだかこのひとおもしろそうだ、と注目したわけです。そして「ぼくは独立国家をつくったのだ」という衝撃。独立国家?なんでしょうか、それは。

坂口恭平さんは子供の頃の体験を非常に大事にされている。「まえがき」のところでは子供の頃に考えていた質問を8つ掲げられていますが、はっと気付かされる視点がある。たとえば、次のような質問(P.6)

1.なぜ人間だけがお金がないと生きのびることができないのか。そしてそれはほんとうなのか。
2.毎日家賃を払っているが、なぜ大地にではなく、大家さんに払うのか。
3.車のバッテリーでほとんどの電化製品が動くのに、なぜ原発をつくるまで大量な電気が必要なのか。

このような疑問はふと浮かぶこともあるのですが、坂口恭平さんのすごいところは、その疑問に対する答えを行動によって探ること。疑問を突き詰めた結果、0円で生活している路上生活者のところへ行き、彼等の考え方を探ります。そして「レイヤーライフ(層生活)」という考え方を得ます。

同じ新宿の街であっても、一般の生活者がみている世界と路上生活者がみている世界は違う。たとえば2000年に隅田川で出会ったホームレスの家は、ふつうのブルーシートの家なのですが、屋根にソーラーパネルが付いているハイテクなものでした。そんな家があるんですね。そして、坂口恭平さんはその「家」の主にたずねます。狭くて大変じゃないか、と。住まわれている方の回答はこうでした(P.24)

「いや、この家は寝室にすぎないから」

つまり彼にとっては周囲の街全体が自分の家なのです。墨田公園はリビングでありトイレや水道、風呂は銭湯、キッチンはスーパーマーケットの掃除の残り。そうして考えると、寝室が家になるわけです。ぼくら一般的な人間は、狭い囲まれた家のなかにさまざまな機能であるLDK(リビング・ダイニング・キッチン)を詰め込もうとしますが、家の概念を拡張して周囲の街まで拡げると、家は寝室だけでよくなる。0円で「独立した」個として生活している。

「レイヤー」という言葉を使われていて、レイヤーとは層の意味なのですが、ふだんぼくらの生活しているレイヤーと、路上生活者のレイヤーはまったく異なっている。一般人のレイヤーでみると街はショッピング情報誌のような視点でしか見られないけれど、路上生活者の視点から見ると「新宿には何でも実っているからね。それをつまんでは食べたりするだけだよ」と「ジャングル」になる。このレイヤーの切り替えは面白いとおもいました。

そもそもぼくがブログを書きはじめた当初に掲げていたテーマは「立体的な思考の獲得」でした。点ではなく、線でもなく平面でもなく、3Dによる「立体的な思考」を獲得すること。要するに既成概念はもちろん独自な視点を獲得して、多数の視点から物事を多角的にみられるようにすることを目指していました。あるいは、地上を歩くイヌに対して上空から地上を俯瞰する鳥の思考かもしれません。はるか遠くの「空」への飛翔を標榜して「BirdWing」という匿名もつかっています。この匿名はブロガーとしての匿名であり、ぼくのブランディングと考えてもいいかもしれません。

坂口恭平さんの本は、ぼくらに自分で「考える」ことを薦めています。そこでぼくもこの本をテキストにして、さまざまなことを考えてみました。まずは次の言葉です(P.19)

歩き方を変える。視点を変える。思考を変える。
それだけで世界は一変するのである。自分に無数の「生」の可能性があることを知る。

この2行に思考を変革するポイントが凝縮されていると感じました。考えることは立ち止まっていてはだめで、歩く=行動し、視点を変えていくことによって得られるものである、ということです。なんとなくアフォーダンスの理論をおもい出したりもしましたが(視野は実体が移動することで形成されていく、というようなこと)、歩きながら視点を変えつつ考えることで世界が変わるわけです。

そこでプライベートなことをおもい出したのですが、そういえばぼくは大学時に国文学科に在籍し、卒論は夏目漱石の「草枕」をとりあげました。ちなみにタイトルは「漂泊のエクリチュール」。エクリチュールなんて言葉を使っているのが若気の至りで現在は恥ずかしいのだけれど、あのときぼくが考えたことに通じるような気がする。

草枕 (岩波文庫)

エクリチュール(écriture)は、簡単に言ってしまうと「書かれた言葉」です。パロール(話し言葉)に対応しています。ロラン・バルトやジャック・デリダなどの哲学者が使っていました。

エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)

エクリチュールと差異 上 (叢書・ウニベルシタス)

卒論でぼくは何を書きたかったかというと、「草枕」の有名な冒頭文「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という書かれた言葉を「歩きながら考える文体」として、「身体論×文体論」を掛け合わせた考察をしました。

つまり「登る」という上昇する身体の傾斜が、俗世間から離れて上昇する身体をつくり、文体も端的でリズミカルなものに変えている、主人公である「画工」を人情の世界から「非人情」の世界に運ぶ、という考察です。ああ、いま書いたほうがうまく書けそうだ(苦笑)。それはともかく。

ちょっと「道」からはずれましたね。次の言葉も考えさせられます(P.48)。

僕たちが「考える」ことを拒否するから、政治や行政は暴走するのである。故障するのである。それに気付いても止めることができず「命」を疎かにするのである。それじゃあ、僕たちも路上生活者にならって、自分たちの「思考」を開始してみようではないか。

「政治なんてわからないもん」「未来は誰かがなんとかしてくれるでしょ」という他者依存の考え方と姿勢は思考停止を生みます。ところが路上生活者はまず、今日一日を生き延びるために何とかしなければならない。だから0円で給料などもらわずにいても、生きていける最低限の知恵と術を身につけている。

しかし、これからは路上生活者ではないひとびとも、のんびりとしていられません。リストラや老後の不安、育児や子供たちの教育問題、いじめや自殺者の増加など、社会は悲鳴を上げています。政府や行政に対する不満が高まり、それらが批判されています。しかし、他律的に不満をぶうぶう垂れていても社会は何も変わらないのです。

現代の病んでいる社会に対しては、坂口恭平さんは次のように嘆いています(P.186)

それにしても、どうしたらよいものかこの自殺者数は。年間三万人という数は、普通に考えてもおかしい。僕はこれは芸術と深い関係があると考えている。

ここで芸術と深い関係があると考えられているのは、芸術が余暇、いわゆる何もしないときに現れてくるのに対し、仕事に追われたり就活に追われたり勉強に追われたり、余裕のない社会に生きているから、と考えられているようです。生きるとはどういうことか。坂口恭平さんは次のように語ります(P.168)。

つまり「死ねない」。
これ、すなわち「生きる」である。

わかりやすい。とてもシンプルです。そうして「死ねない」社会をつくるためには、ぼくらはお金を稼ぐために働くのではなく、社会をより良くするために働かなければならない、ということをおっしゃっています。社会の構成要因としてひとりひとりに「個」の役割があり、それが連携した社会になれば「死ねない」。個を尊重するとしても、個がばらばらな場合には、大きなショックに襲われたときにそれぞれが吹き飛ばされてしまいますが、手をつないで守りあえば助けられるはず。そんな社会を実現するために動かなければならない、と強調されています。そして、「個」がそれぞれ考えなければならないのです。

就活や企業では、よく「自己実現」や「やりたいこと」という言葉が使われますが、坂口恭平さんはそれを次のように指摘します(P.163)。

だからやりたいことじゃない。若い人にはまずそこをわかってほしい。そこを見誤ると大変なことになる。実際、学生時代に「おれ、こういうことをやるんだ」と吠えていたちょっと変わった個性的な人とか、結局何もつくらないし、発言しないし、びびって、大人になったらどこかへ隠れてしまうのだから。悲しすぎるよ。
自己実現をするのではなく、社会実現に向かっていく。
それをまず決めるんだ。

共同体に依存すれば生きていける幻想は崩れたといっていいでしょう。日本にいれば大丈夫だ、日本が世界のトップだ、という時代も終わったのかもしれません。そのような現状をしっかり認識して、ぼくらの「個」がしっかりとしていかなければならない。そんなメッセージが坂口恭平さんの文章に込められてると感じました。

個の才能については次のように書かれています(P.176)。

ぼくにとっての才能というものは秀でているものではない。才能とは、自分がこの社会に対して純粋に関わることができる部分のことを指す。
才能は「音色」を持っている。才能には上や下はない。どんな音を鳴らしているか、それに近いのではないか。自分がどんな楽器であるかは変えることができない。でも、技術は向上させることができる。技術は経験によって習うことができる。つまり「答え」の出し方は伸ばすことができる。それさえ変化すれば、生き方自体が変化する。だからおもしろいし、希望がある。

才能に音色を見出すあたり、さすがギターを弾いて路上で稼がれているだけのことはあります。美しい表現です。そんな個々人の才能を活かしあう社会のことを、坂口恭平さんは「態度経済」と呼んでいます。

「態度経済」でおもいだした言葉は、クリス・アンダーソンの「フリー <無料>からお金を生み出す新戦略」の「非貨幣市場」、あるいはタラ・ハントの「ツイッターノミクス」に書かれていた「ギフト経済」でした。

フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略

ツイッターノミクス TwitterNomics

貨幣経済とは別のものであることは同じなのですが、坂口恭平さんの語る「態度経済」はやや異なるようです。次のように定義されています(P.112)。

態度経済というのは、通貨というような物質によって何かを交換する経済ではない。交換ではなく「交易」するものだ。交易。つまり、そこに人間の感情や知性などの「態度」が交じっていることが重要だ。ただの交換ではないのだ。

この言葉に重みを感じたのは、坂口恭平さんが自分の卒論を写真集にまとめ、それをご自身で出版社に売り込み(つまり交易し)、海外の営業までご自身で行い、さらには人脈から自分の絵を売るチャンスを得て、その結果、現在の生活に至り、熊本にある家と人脈を「新政府」と名づけて活動されるようになった背景を読んだからです。

凄い。このひとは凄い!

「まず資金がなくちゃ何もできないよ」と言い訳をするひとが大半です。しかし、必要なのは「行動を起こす」ことなのです。行動を起こさなければ、どんなに大きなビジョンがあっても絵に描いた餅にすぎません。また、才能がなければ、ということも言い訳に過ぎません。才能は既にあるのです。個人の「音色」として。

そんなことを考えていたら、がーんとアタマを殴られたような衝撃を受けました。いままで自分は何をやっていたんだ。大事なものはすべてここにあるじゃないか、と。そこでぼくもちいさな革命を起こそうと考えました。自律した個による社会実現のために。

行動することで、態度をみせることで、社会を変えられることができる。ぼくはそう信じています。また、考えるだけでなく行動しようと「考えて」います。

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そして、ぼくの企画とは。

実際に行動する「企画」の骨子は次の通りです。

ぼくはこの本を読んで共感し、とても坂口恭平さんに会いたくなりました。会って話を聞いてみると、もっとご本人のことがよくわかるとおもったからです。とはいえ、本屋で平積みにされるような新書の著者であり、セミナーなどの機会もなさそうです。いや、それよりもまず熊本に住んでいらっしゃる。

とはいえ、ぼくは次の文章を読んじゃったのです(P.171)。

だから議論ならいつでも僕は受ける。どんな人の言葉にも返す。

この本がツイッターにつぶやいたことからまとめて作られたことも知りました。探してみると、ツイッターに坂口恭平さんはいらっしゃるではないですか!さっそくフォローしました。

というわけでぼくが考えているのは、ブロガーとして坂口恭平さんに向けた「ツイート公開インタビュー」なのです!もちろん独立国家の政府の活動にお忙しいでしょうし、事情があって無名の一般人であるぼくにはお返事いただけないかもしれません。けれどもそれでかまわない。行動することが大事である。

経緯がありましたら、またこのブログでご紹介したいとおもいます!

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坂口恭平さんの新政府のビデオがありました。かっこいい!

投稿者 birdwing : 2012年8月26日 12:47

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