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2007年8月14日

「アフォーダンス―新しい認知の理論」佐々木正人

▼世界の認識を変える、考えつづけたギブソンの軌跡。

4000065122アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))
佐々木 正人
岩波書店 1994-05

by G-Tools

アフォーダンスって・・・。なんだか「わい、あほやねーん」という陽気なおじさんたちが腕を組んで、たらったらった踊っているイメージがありませんか?そりゃ、アホダンスか(苦笑)。

残念ながらダンスの理論ではなく、ジェームズ・ギブソンというアメリカの知覚心理学者によって1960年代に確立された、従来の考え方を覆すような画期的な認識理論だそうです。彼が生涯かけて考えつづけた理論は、ロボットなどAI(人工知能)を研究する学者にも注目されている、とか。

そもそもぼくは少年の頃から、世界がどこにあるのか、世界はどうやって存在しているのか、という哲学的といえば哲学的ですが、どーでもいいことに関心があり、物思いに耽るひとでした。

しかしながら、そんな深遠なテーマの答えがみつかるわけもなく、わかったとしても何か儲かるのかといえば利益も何もないのですが、いまでもその分野に好奇心がそそられて、脳科学とか認識論の本を手に取ってしまいます。

この薄い本にはギブソンの考え方の要点がわかりやすく説明されています。彼の生い立ちからはじまるところに親しみやすさを感じたのですが、ギブソンは生涯に100を超える研究論文と3冊の書物を著しているそうです。まず、彼の生きざまとして、次の言葉に惹かれました(P. 14)。

三冊の書物には一つの思考が流れている。その歩みを振り返ると、ジェームス・ギブソンという人が、「生涯をかけて一つのことだけを考え続けた人」であるという印象が強く残る。ギブソンはアメリカという風土が生んだ「タフなサイエンティスト」だった。

いいですねえ。ドラッカーも同様ですが、ぼくは考えつづけるひとに憧れます。

「考えすぎ」なのは困りものですが、立体的な思考の獲得を目的にブログを書きはじめたこともあり、できれば脳が機能を停止する寸前まで、フルに考えていたい。企画という考える仕事に就いていることもあるのですが、脳の病に倒れた亡き父の面影に背中を押されているのかもしれません。

■点から面へ、面から動きへ

と、前置きが長くなりましたが、ギブソンの思考の発端について、この本では「ゲシュタルト」から解説されていきます。

ゲシュタルトと言って思い出すのは、「お」という字をたくさん書いてじーっとみつめていると、それがだんだん何という文字だかわからなくなってくるゲシュタルト崩壊ですが、彼はゲシュタルトについて「感覚要素の総和以上のもの、総和とは異なったもの」と定義したようです。著者の佐々木さんも非常にわかりやすく解説されていて、本のなかから次の部分を引用します(P.16)。

たとえば音のつながりは、一つのメロディーとして聞こえる。「移調」して要素音をまったく変えてしまっても、同一のメロディーを聞くことができる。したがってメロディーは、要素である個々の音とは異なるレベルをもつ「ゲシュタルト」である。

要するに1+1=2なのですが1+1と2はまったく別のもの、ということでしょうか。足されて2になったときに別の何かになる。あるいは、好きなひとがいるとします。声だったり、仕草だったり、部分的に好きな部分があるかと思うのですが、結局のところ総体として好きだったりします。部分が集まったときの全体は、まったく別物になる。

一時期、パソコンで勝手に音を組み合わせて音楽にする、というようなソフトがありました。しかし、ぼくは何かが納得できなかった。そのときのもやもや感がこの文章を読んですっきりしたのですが、音+音が音楽になるかというとそんなことはなく、メロディという流れは組み合わせを超えたものである。だからめちゃめちゃに音を組み合わせても音楽にはならない、というわけです。音という部分にこだわることも必要だけれど、ゲシュタルトとしてのメロディや音楽全体を考えるべきである、という。

ゲシュタルトを発端として、ギブソンは点で世界は構成されているという考え方を「ビジュアル・ワールド」という考え方に進化させます。それは、面(サーフェス)とキメ(テクスチャー)による認識です。わかりやすいのが3Dゲームだと思うのですが、点と点のキメが粗いと近くに、キメが細かくなると遠くにみえる。パースペクティブ(遠近法)的な考え方かもしれませんが、模様(キメ)の細かさが距離を表現するわけです。

さらに面からレイアウトへ、レイアウトから動きへ、とギブソンは認識論を進めていくのですが、さすがに彼の考え方を追っていると大量な文章になりそうなので、省略することにします。

■ぼくらが動くと、そこに世界が生まれる

ぼくが凄いと思ったギブソンの考え方に焦点を絞ると、動くものこそが世界として認識される、ということでした。面やレイアウトがあったとしても、動かなければ世界は成立しないということです。

しかし、たとえばいま目の前にあるパソコンの機械は動かないですよね。それでもぼくの目の前に世界として存在している。それがなぜ世界として認識されるかというと、ぼくらの眼球が動いているからです。眼球の動きによって視点がいつも変わりつつあるから、世界がそこに生まれる。眼球が固定されていたとしたら、世界には精彩がなくなる。

そして「情報は光のなかにある」ということが述べられています。ギブソンは「生態光学(エコロジカル・オプティックス)」という新しい光についての考え方を提示したそうですが、特定のモノが反射した光だけでなく、ぼくらの周囲は光に満たされています。

これを「包囲光(ambient light)」と彼は呼んだようですが、満たされているからこそ面やキメが生まれるわけで、ぼくらが動くことによってその配列の構造が変化して、またそこに別の世界がみえてくる。環境の「持続」と「変化」によって世界を認識しているのですが、鳥が羽ばたく、クルマが走るなど世界の動きだけでなく、ぼくらが主体的に動くことによることでも世界は認識されるわけです。

次の部分にも、ぼくは衝撃を受けながら読みました(P.49)。

もし私たちが動かない「動物」(これは言葉の矛盾である)ならば、固定された一つの包囲光配列に表現された立体角だけから対象が何であるのかを「推論」する必要がある。個々の立体角をつなげるために「記憶」を必要とするかもしれない。しかし、動くことが可能ならば、そのような不十分な情報から「推論」する必要はないし、静止した情報を「記憶」でつなぐ必要はない。情報が足りないのならば、視点を変えることで、十分な情報を光の中に探せばよいのである。

記憶や経験がなくても、動けば環境が情報をぼくらに伝えてくれる、ということではないでしょうか。要するに動かないで世界を認識しようとしたら、膨大な記憶や推論が必要になる。でも、自分が動くことによって、ぼくらは世界から情報を入手し、最小限の記憶や推論で世界を認識できる。

■情報はぼくらのなかではなく、ぼくらの外にある

ちょっと猫っぽい喩えですが、この道通り抜けられるかな?と思ったとき、その場所にじっと佇んでいるだけでは何もわからないですよね。これぐらいのところを通った経験があるから大丈夫じゃないの?いやいや無理かも、と永遠に考えつづけなければならない。けれども、道に近づいてみることで、んーやっぱり無理そうだ、などということが直感的にわかる。

ブログもそうですが、一歩踏み出してみるとわかることが多いと思います。それは自ら動くことによって視点が変わるからであって、踏み出すことによって世界も「動く」からなのでしょう。知覚に関する理論なのですが、なんだか人生論にまで発展させてしまいました(苦笑)。

そこでアフォーダンスなのですが、この道通り抜けられる、という情報はどこにあるかというと、自分の脳内ではなく、風景の方にある、という考え方のようです。アフォーダンスとは「~ができる、~を与える」というアフォード(afford)という言葉からギブソンがつくった造語とのこと。この考え方にも、がーんと衝撃受けました(笑)。なぜなら、情報は脳内で処理していると思っていたので。

上手く説明できないのですが、ベッドを持ち上げられるか持ち上げられないか、という情報について例にあげると、可能か不可能かの情報は脳内にあるのではなくベッドのほうにある、という考え方のようです。しかも個人によって世界観が異なり、がんがん力仕事に能力を発揮しているひとにはベッドを持ち上げるアフォーダンスは可能として認識されるのですが、マウスより重いものを持ったことがないひとには不可能となる。あるいはベッドという「情報」に近づいたときに、アフォーダンスが発動するという感じでしょうか。

面白そうだと思ったのは、もし自分の脳内でしか世界を認識できないのであれば、ベッドを持ち上げる感覚は共有できないですよね(それを共有してどうする?という話は置いといて)。しかし、外部に情報があるとすれば、感覚を他者と共有することも可能だろうし、ロボットにその処理を移植できる。さらに同じベッドを見ていたとしてもアフォーダンスは各個人で異なるわけで、だからこそ多様な発想が生まれるわけです。

重要なのは脳という閉鎖された機関のなかで世界が形成されるのではなく、外部の環境とのやりとりのなかで世界が「生成」されていくということではないかと思いました。脳に関する研究はどうしても脳内の物理的な変化に注目する印象がありますが、ぼくらは情報に囲まれて生きている、情報は外にある、という考え方は、なんとなくぼくの発想を変えてくれそうな期待感があります。

このアフォーダンス理論を基盤として、さまざまなリアリティーのデザインが行われているようです。まだまだ書きたいことがたくさんあり、消化できていないもどかしさを感じるのですが、ぼくにとっては目からウロコな一冊でした。

投稿者 birdwing : 2007年8月14日 17:33

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