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2012年10月28日

秋から冬のとばぐちにかけて考えたこと。

秋になって空が高くなったなあとおもったら、もはや冬の気配。なんだか眠いです。冬眠に誘われているのでしょうか。ぼくの次男は喘息持ちなのですが、空気が乾燥するこの時期、喉をいためるひとも多いのではないかとおもいます。お気をつけくださいね。

しばらくまとめていない間に溜まってきたので、10月中旬以降の連投ツイートをまとめてみます。順序は日付通りではなく、文章は修正しています。超長文で失礼いたします。


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■「なめこ」の秋。(10月28日)

「なめこ」が流行っている。といってもお味噌汁に入れるなめこではなく、株式会社ビーワークスのiPadやiPhone/Android無料ゲームアプリ「おさわり探偵なめこ栽培キット」のキャラクターである。豆しばなどキャラクター好きの小学校4年生の次男は、半年ぐらい前から嵌っている。

そもそも「おさわり探偵」という名前と(小沢里奈が主人公なのだが)「なめこ」というストレートに言ってしまえば男性特有のアレを想像させるキャラクターがちょっとエッチであり、オトナ的である。しかしながら子供にもウケている。最近では版権を売り出したのだろう。お菓子にもなっている。

・・・・・・とつぶやいたところ、「ダンボールなめこ( @BIG_the_NAMEKO ) 」さんから早速ツイートをいただいた。ダンボールなめこさんからのツイートは以下の通り。

考察、評価を興味深く拝読いたしました。「おさわり探偵」について申し上げると、ニンテンドーDS出始めの頃、「タッチ操作」をコンセプトにした企画として「おさわり」探偵は生まれました。つづく

なめこに関しては、元々別のMMORPGの企画書にスライム的な雑魚キャラとして描かれたのがオリジナルでして、とても印象的なキャラだったことから「おさわり探偵」の助手に抜擢されたという経緯があります。ちなみにそのMMORPGはお蔵入りとなっています。

長々とすみません。という訳で何が言いたいかと申しますと、「おさわり探偵」にアダルトな要素は一切ありませんよ~ということです。むしろ全く逆のハートフル&ファンタジーな世界観のゲームです。安心してお子様に楽しんでいただいて大丈夫です笑

ダンボールなめこというのは、なめこファンのひとにはわかるかもしれないが、ダンボールで顔の部分だけの着ぐるみ(?)をつくって、制作会社の「なかのひと」がなかに入ってゲームやグッズの解説をするキャラクターである。

ゲーム内でゲットできるキャラクターのひとつにもなっていて、ストラップをうちの次男も持っている。なめこの情報発信サイトに「なめこぱらだいす」通称「なめぱら」というコンテンツがあるが、そのコンテンツのナビゲーターであり「著名人(著名なめこ)」である。ちなみに、「なめぱら」はうちの次男は毎日iPadで読んでいる。4コママンガが大好き。

なめこぱらだいす http://namepara.com/

2012-10-28_namepara.jpg


とはいえ、ぼくのイメージが勘違いだったようだ。なるほど。失礼しました。そこで次のようなツイートをぼくから返信した。

先日、電車のホームでバックになめこのぬいぐるみをくくりつけた女子高生のふたり組をみた。どちらも同じようにぬいぐるみをぶら下げている。高校1年の長男に聞くと「いま、なめこのぬいぐるみをバックに付けるのがトレンド」なのだそうだ。3つぶら下げている男子高校生もいるらしい。

プロダクトを持ち歩くことが「広告あるいはPR」になり、さらにプロダクトを文化として浸透させることで「おさわり探偵なめこ栽培キット」はマーケティングに成功している。情報発信サイトを使って継続的に消費者の関心を集めていることでいえば、コンテンツマーケティングとして、またソーシャルメディアを活用したインバウンドマーケティング的にも成功しているだろう。

ソーシャルメディアなどネット広告に限定するから広告の未来がみえなくなるわけで、ぼくは広告にはまだまだ可能性があると信じている。そのひとつの効果的な方向性はアート化、「絶対領域広告」のようなファッション化なのかもしれない。そこから逆OtoOでオフラインからオンラインに引き込んでもいい。


絶対領域広告 http://www.zettaipr.com/
2012-10-28_zettairyoiki.jpg


少し話が逸れるが、女性の脚のみえている部分にステッカーを貼る絶対領域広告も、広告をひとつの文化として広める「メディア」であると感じている。実は歩いている女性の脚に注目することは、リアルでは(男性にとっては)難しい。訴求されているメッセージを読み取ることは困難だ。しかし、たとえば村上隆著『創造力なき日本 アートの現場で蘇る「覚悟」と「継続」』のプロモーションなどは、村上隆氏の描くアートをうまく利用して、広告を掲載した本人が友達に写真を撮ってもらうなどしてSNSで拡散している。

ちなみにOtoOとは、通常はオンライン・トゥ・オフラインの意味である。オンラインで醸成した話題から消費者をオフラインの店頭などに誘導する。しかし、オフライン・トゥ・オンラインもあり得ると考える。絶対領域広告のようなパターンだ。

ぼくの私見にすぎないが、生き残る広告マンは、オンラインとオフラインの両方を見渡した俯瞰的な視点から、ニッチを突いた芸術(アート)やファッションの切り口で発想した広告的思考ができるひとではないかとおもう。文化として広告を創り出せるひとである。

このことについては「ダンボールなめこ」さんからも同意をいただいた。

次男と散歩に出掛けたとき、ぼくらはUFOキャッチャーでなめこのぬいぐるみをゲットした。300円でゲット。次男のよろこびようといったらなかった。おとーさん的には満足な瞬間だ。夏休みの終わりに上野のヤマシロヤにも連れて行ったが、なめこのコーナーがあり、集まっているのはOLさんたち女性ばかりだった。ヤマシロヤで購入したグッズはこんな感じ。


121028_nameko.JPG


株式会社ビーワークスは無料アプリ「おさわり探偵なめこ栽培キット」という魅力的なキャラクターの「プロダクト」で消費者を惹き付け、ゲームからグッズや菓子に展開している。さらにソーシャルメディアを通じて話題づくりをするとともに、ブランドイメージの維持に努めている。

現在、なめこアプリは色彩の宴バージョンからアップデートして、ハロウィン仕様になっている。ソーシャルゲーム的な要素、バックアップの機能も追加されている。利用者の拡大が予想される。次男は自分で考えたなめこの絵を日々描きまくっている。もの凄い種類を書いた。ビーワークスさんで次男を雇ってくれないかな、とおもっている。


■プロトタイピングなコミュニケーション。(10月25日)

コミュニケーションの目的は相手の正解を突くことではない。共感を得て安心を得ることでもない。コミュニケーションの本質は、異質なものと出会うことではないだろうか。極論を言ってしまえば、自己と他者が完全に同じ意識を共有することは不可能だ。しかし、だからこそ寄り添う行為が必要になる。

押井守氏は『コミュニケーションは、要らない』という本でふたつのコミュニケーション、「現状を維持するためのコミュニケーション」と「異質なものとつきあうためのコミュニケーション」を挙げている。前者は「馴れ合い」であり、新しい価値感を生み出す意志はない。しかし、後者は「議論」である。


434498255Xコミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)
押井 守
幻冬舎 2012-03-30

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議論ができない日本人を押井守氏は嘆く。コミュニケーションが「わかるでしょ?」という暗黙の了解を得る行為に陥ってしまうのだ。完全なものが最初からあるという幻想が馴れ合いを生み出すのだろう。ぼくはコミュニケーションは一方通行×2ではなく、双方の中間点に形成されるものだと考える。

つまり、創造的対話としてのコミュニケーションは、双方の協創による「プロトタイプ(試作品)」の制作過程だ。お互いが双方向の対話を繰り返すうちに、未完成なプロトタイプを削ったり付け足したりして完成形らしきものに近づけていく。まったく予想しなかったものができあがることもあるだろう。

協創的なコミュニケーションは何が生まれるかわからない。だからこそクリエイティブであり、わくわくした体験だ。最初から答えのあるコミュニケーションはつまらない。ともに未知の何かを創り上げていくプロセスにこそ魅力がある。そしてぼくはインターネットにおいてもそれが可能であると信じている。


■文体の弛緩。(10月18日)

昨夜、久し振りにはっぴいえんどの『風街ろまん』を聴いて癒された。音楽的にも素晴らしいことはもちろん、この70年代のアルバムで特長的なのは松本隆氏の作詞が「ですます調」であることだ。なんとなくとぼけたような歌詞の文体が、リスナーのこころを癒しにいざなう。


B001INLH5A風街ろまん
はっぴいえんど
ポニーキャニオン 2009-02-18

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ところで、日本語の文体には大きく分けて「です・ます調」と「だ・である調」のふたつがある。通常、作文のセオリーでは文体を統一することが重要であるといわれるが、混在して使うこともある。冷泉彰彦著『「関係の空気」「場の空気」』という本で「コードスイッチ話法」という用法を知った。

「です・ます調」と「だ・である調」を混在させる「コードスイッチ話法」は意識的に文体の弛緩と緊張を作り出す。「文体を変えることで、リズムの変化がつき、一方的にその場を支配している冷たい感じを避けることができる」と冷泉彰彦氏は語っている。確かにその通りだろう。文体にはリズムが必要だ。

文体の弛緩と緊張のリズムは、身体の弛緩と緊張のリズムを生み出す。ぼくも試行錯誤の末にブログでこの「コードスイッチ話法」の文体に辿り着いたのだが、より話し方に近づいた文体になり、強調部分の「だ・である調」と親しみを表現する「です・ます調」がうまく調和するように心がけている。

たかが文体、されど文体である。文章の奥は深い。いま読書中の押井守著『コミュニケーションは、要らない』ではインターネットの文章を徹底的に批判されているが、ぼくはこの場所で日本語が損なわれているとは感じない。より洗練された次世代の日本語はインターネットから生み出される、と考えている。


■日本語と身体感覚。(10月20日)

日本語の言葉には身体感覚がともなう。日本語の大きな特長といえるだろう。押井守氏が『コミュニケーション、は要らない』で指摘されているように、漢語を輸入して改良して日本語をつくり上げた日本人には言語的オリジナリティはないだろうが、身体感覚をともなう日本語こそが大きな文化である。

日本語の独自性が最終的には世界から日本を守る、というようなことをドラッカーも述べていた。ぼくらは日本語を文化として有していることに自信をもち、大切にしていかなければ、とおもう。インターネットで日本語が乱れるともいわれる。しかし、この場から新しい日本語も生まれると信じている。

日本語の語感に注目して、感性的な分析をされているのが黒川伊保子氏である。『怪獣の名前はなぜガギグゲゴなのか』を読んでファンになり『ことばに感じる女たち』『恋愛脳』などの著作を読んだ。彼女は言葉のクオリアやサブミリナル・インプレッションなどを研究されている。非常に面白い。


4106100789怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか (新潮新書)
黒川 伊保子
新潮社 2004-07

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4584392544ことばに感じる女たち (ワニ文庫)
黒川 伊保子
ベストセラーズ 2007-12-18

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4101279519恋愛脳―男心と女心は、なぜこうもすれ違うのか (新潮文庫)
黒川 伊保子
新潮社 2006-02

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例えば、母音の「あいうえお」は開放的で親近感を持たせる。異性と話すとき「あいたかった、あえてよかった、ありがとう、あとで○○しようね、あしたね、いいね、うん、おはよう」と母音はじまりの言葉を使うと親近感がぐっと増すそうだ。黒川伊保子氏は製品やサービスについても分析されている。

黒川伊保子氏は「ちぇっ」という舌打ちを、歯の裏側を舌で蹴飛ばす行為であり言語であるとともに身体感覚が連動していると考察されている。書き言葉と話し言葉がほとんど同一である日本語は、インターネットの書き込みも身体に影響を与えていると考えていいだろう。身体的に快い言葉を使いたいものだ。


■感情との付き合い方。(10月15日)

感情は「情報」のひとつである。というと伊藤計劃氏の小説『ハーモニー』をおもい出す。21世紀後半を描いたこのSFでは、EMOTION-in-Text Markup Language:Version=1.2というマークアップ言語で物語が綴られていく。感情がタグとして記述される。


415031019Xハーモニー (ハヤカワ文庫JA)
伊藤 計劃
早川書房 2010-12-08

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ぼくらが伝達・共有する情報は、無機質なデータだけではない。怒りや嫌悪、よろこびやかなしみなどの感情も立派な情報である。したがって不毛におもわれるような「ばーか」や「死ね」などの言葉も情報のひとつといえる。その情報に積極的に関わるか無視(スルー)するかは、情報の受信者に委ねられている。

はるかぜちゃん(春名風花さん)のように、あらゆるネガティブな書き込みに丁寧に向き合う姿勢は驚きに値するが、自分に気持ちのいい感情だけが情報ではない。とはいえ、あらゆる情報を受け止める彼女のこころの強度は凄いとおもうし、新たなデジタルネイティブが持つべきリテラシーなのかもしれない。

感情という情報は共鳴(共感)を生む。思考と違ってアタマのなかを暑くしたり寒くしたり、こころを揺さぶるから問題だ。ブロックして安全地帯に逃げ込むのも手かもしれないが、正々堂々と感情に向き合うとすれば、感情から共鳴を奪い、客観的に自分の外側に置いて観察することが必要になるだろう。

感情から距離を置くためには、伊藤計劃氏の感情マークアップ言語ではないが、<anger>アタマが爆発しそうだ</anger>のように一度、怒りをカッコで括ってみるのもいい。機械的に感情を自分の外に置くとすこしだけ落ち着く。感情という情報は、翻弄されたものが負けである。


■プライベート/パブリック。(10月21日)

クリス・アンダーソンの新刊『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』が超面白い。わくわくしながら読み進めている。しかし、気になるのはかなり長い間放置してあるジェフ・ジャービス著『パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ』である。こちらも大変興味深い本なのだが。

ジェフ・ジャービスの『パブリック』は、半分以上読み進めているのだが、異性と混浴のサウナを恥ずかしがるか恥ずかしがらないかなどというわかりやすい点から、ドイツでグーグルマップの撮影がプライバシーの侵害として猛反対を受けたことなどまで、プライベートとパブリックの境界を探っていく。


4140815132パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ
ジェフ・ジャービス 小林 弘人
NHK出版 2011-11-23

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ブログやSNS、ツイッターなどもプライベートとパブリックの境界がわかりにくいツールである。匿名にすればプライベートとしての利用であろうが、だからといっておおやけに殺人予告をすれば個人の責任が問われる。また、プロフィールに実名や企業代表者などを記述すれば、もはやパブリックである。

企業の社長が「いま昼食なう」などくだらない写真付きのツイートをして自己満足していたから気が緩んでしまったのかもしれないが、企業名と職名を明記すればパブリックな発言と読まれて当然。まして「バカ」という暴言や「死にたい」など発言すれば、本人が無意識でも企業人としての責任が問われる。

池田紀行著『キズナのマーケティング』では、企業のソーシャルメディアガイドラインとして「このブログの内容や意見は、私個人に属するものであり、私が所属する組織はもとより、他の組織の見解を示すものではありません」という免責事項を書くことが重要であり、記載頻度が高いと書かれている。

プロフィールを実名にし、企業名や代表者との肩書きを書いた時点で、その発言は必然的にパブリックな発言になる。「だってつぶやきだから会社と別でいいじゃん」などというのは幼稚。甘えたことを言っていられない。企業人として矜持を正すべし。それができなければツイッターなど辞めたほうが無難だ。


■つながりについて。(10月22日)

ソーシャルメディアは「つながり」を重視する。mixiではマイミク、Facebookではフレンド、Twitterではフォロワーなどと呼ばれたが、ソーシャルネットワークサービス(SNS)ではつながりを通してネットワークを構築し、そのつながりにおけるコミュニケーションが注目されてきた。

しかしながら、インターネットのつながりは仮想のものであり脆い。日本では実名ではなく匿名であることもその要因のひとつとなっているかもしれない。たとえば数百人のフォロワーを持っているTwitterでもアクティブなつながりは数名に過ぎないだろう。「沈黙」しているつながりもある。

「キズナ」ということも池田紀行著『キズナのマーケティング』で書かれているが、「キズナ」を感じられる心からのともだち「心友」をつくることは難しい。幸いなことにぼくはTwitterで心友をつくることができ、コミュニケーションの可能性を信じているのだが、企業と消費者ではさらに難しい。

「六次の隔たり(Six Degrees of Separation)」ということも言われる。「自分の知り合いを6人以上介すと世界中の人々と間接的な知り合いになれる(Wikipediaより)」という仮説である。つながりのネットワークを張り巡らせると、あらゆる人物とつながっていく。

リアルなつながりでは細田守監督の『サマーウォーズ』をおもい出す。あの映画で、主人公たちが危機的状況に陥ったとき、陣内家のおばあちゃんは知人に電話をかけまくって叱咤激励した。たぶんインターネットでは、あの場面ほど強い絆で人を動かすことはできないだろう。つながりの強度は重要である。

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投稿者 birdwing : 2012年10月28日 11:10

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