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2007年9月 4日

発熱する身体と文体。

どうも調子が悪いな、と思って家に帰ってから熱を測ってみると38度あり、風邪をひいたようでした。おでこと脇に冷えピタ(子供用)を貼っておとなしく横になっていたのですが、落ち着かない。そんなわけで、ひえピタ(子供用)装着のまま、のこのこ起きて書いたのが昨日のブログです。ちなみになぜ脇に冷えピタ(子供用)を貼ったかというと、動脈などの部分を冷却すると熱が下がりやすいから、とのこと。ほんとか?

体調によっては同じ38度でも関節が痛んで七転八倒することもあれば、平気なときもある。昨日は熱は身体の身体の動きが鈍いのだけれど、なんとなくいい感じの熱でした。熱出していい感じというのもいかがなものか(苦笑)と思うのだけれど、気持ちのテンションが張り詰めているからか、治そうという前向きな気持ちがありました。この前向きな気持ちが萎えてしまうときには、ほんと、たかが熱にも負けちゃいますね。寝込んでしまう。

熱を出したせいかわかりませんが、面白いなーと思ったのは、時間がものすごくゆっくりと進むこと。熱によって身体の時計がぐにゃりなのかびろ~んなのか伸びてしまったのかもしれないのだけれど、仕事をしていても、あれ?まだ1時間しか経っていないんだ、という感じでした。その時間に倍の仕事が進むかというと、そうではないのが熱の効果のかなしいところで、いつもと変わらない(苦笑)。いつもと変わらないんだけれど、時間がとてもゆったりと流れていくのを感じる。

なんでしょうね、これは。そして読み直してみて思ったのですが、熱を出した日の文章は、なんとなくやっぱりほんわりと微熱的な浮遊感がある。

「文体=身体」論という勝手な持論をぼくは卒論の頃から持っていて、これはどういうことかというと

ハルキは鼓動が高鳴るのを感じた。

と書くとき、主人公の鼓動が高鳴っているのはもちろん、作家の身体でも鼓動の高鳴りがあり、読者にもその身体状況が伝播する。このときの最適な文体は「高鳴っている」文体であることが理想ではないか、というような考え方です。

よくわからないですね(苦笑)。

要するに、ぼくは文体というスティル(英語の文体、あるいは静的)なものをリアルな動的なものにするにはどうすればいいか、ということを考えていて、誰かを突き動かす文章は、脳内よりも身体を揺さぶる文章でなければいけないのではないか、ということを考えてきたのでした。考えるよりも先に、身体で読む。

つまり「高鳴っている文章」には動悸の早まるリズムがあり、短いセンテンスで構成され、曖昧な抽象的な言葉であるよりも、具体的な先鋭的な言葉を選ぶ。そのことによって内容はもちろん、文体という身体がリアルを再現するために機能する。語の音も、「た」「か」などのように息を吐く音に近い音で構成され、その音が脳内で再現されることによって擬似的に高鳴っている状態を生む。

なんてことを考えながら文章を書くのは疲れるので、現実的ではないと思います(ははは)。ただ、それがぼくの構想している「文体=身体」論なのでした。

たかが文章とはいえ、ときに文章はぐさりとぼくらの胸に突き刺さる。使い方によっては凶器にもなります。凶器としての使い方を制限するモラルを考慮しつつ、ぼくは心を揺さぶる文章を書きたい。そのためにはどうすべきか、ということを考え続けていきたいと考えています。

そのひとつの理想が「文体=身体」論であり、熱を出したことをきっかけに、そんなことを思い出しました。

投稿者 birdwing : 2007年9月 4日 23:57

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