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2007年5月16日
言葉のフィールド・レコーディング。
いい風が吹いていました。会社からの夜の帰り道、夏のようで、ちょっとだけ草の匂いのような成分が含まれているのだけれど涼しい。それはまだ夏になりきれない季節の風であって、加熱気味な仕事でじんじん痺れるような脳内をクールダウンしてくれるようです。さわやか。
そんな道すがら、風に吹かれながら、ぼくのアタマのなかでは、なんとなく音が鳴っていて(DTMを趣味とするぼくにはときどきそういうことがあります)、言葉が電光掲示板のように明滅していました。その音や言葉は生まれる端から消えていくのだけれど、それでかまわない。きっとまたいつか再会できるような気がします。だから消えていく音にはこだわらずに、再びどこかで会えることを期待しつつ、消えていくままにしておく。
いつかやってみたい2つの創作スタイル
PCによる音楽制作、DTMを趣味としているのですが、ぼくはやってみたい音楽のスタイルが2つほどあります。
ひとつ目。まずぼくはヘッドフォンと生録の機材を抱えて、アウトドアへ。昔であればデンスケだと思うのですが、いまはデジタルですごい機材があります。たとえば、SONYのPCM-D1とか、EDIROLのR-09とか。サウンド&レコーディング・マガジンの5月号に電池駆動型のハンディ・レコーダーが特集されていたのですが、欲しいなあと思いました。
これはSONYのPCM-D1。丸いVUメーターがそそります(笑)。
こちらはEDIROLのR-09。実際に触ってみるとあまりに軽すぎて、ちょっとその軽さが残念だったりするのですが。
さて、そんな録音機材を使って、新宿の雑踏であれば雑踏の音を録音するわけです。これがいわば食材の調達になります。帰宅したら、その音をPCに取り込んで"料理"する。サンプリングされた音をスライスして、女の子の笑い声、クルマのクラクション、風の音などに刻んでいく。その音をループさせながら、アコギをぽろぽろやって音を重ねる。フェネス+サカモトっぽいアプローチかもしれません。
できあがったものは、リズムもメロディもないような音楽になりそうです。何度も引用しているのですが、この雰囲気に近い音楽づくりは、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」という映画のなかの浅野忠信さんが演じているミュージシャンですね。
エリ・エリ・レマ・サバクタニ 通常版 青山真治 バップ 2006-07-26 by G-Tools |
ふたつ目。歩きながら音が生まれてしまうぼくは、携帯電話でその音を作曲できればいいのに、と思うことがあります。かつてはアタマのなかで何度も繰り返して家に帰るまで忘れないようにしたこともあったのですが、結局、今日の夕飯なんだろう?とか考えた拍子にメロディが消えてしまう。別に趣味だからいいじゃん、とも思うのですが、結構、アタマ掻きむしる瞬間だったりする(苦笑)。そんなわけで、その場で生まれた音を形にできるようなことができるといいですね。そして完成した音は、すぐにネットで公開できるといい。
実はぼくは趣味のDTMで日記を書くように音を創っています。文章であれば簡単に綴ることができますが、音にするのは時間がかかる。そんなわけで月に数曲しかできないのだけれど、ぼくは商業的な音楽を創っているわけではないので、とても個人的な意味で、そのときに感じた音を作品にしています。
ところが、暗号のようにリアルな気分を結晶化しているので、後になってみると辛くて聴けない曲もある。昨年「ミカヅキノヨル」という曲を作ったことがあり、それはぼくにとってはその後の曲作りを大きく左右するほどの重要な曲だったのですが、いま聴くと破綻しています(苦笑)。
破綻もさることながら、音に込めた暗号が記憶を再生するので、とても辛くて聴いちゃいられません。たかが趣味で何をミュージシャン気取りで書いてるんだ、と批判もされるかもしれませんが、ぼくの音楽は日記みたいなものなのです。そもそも文章で書いた日記でもありますよね。うわーこれは読みたくないぞ、というような過去の日記が。
そんな音楽的なアプローチに近いのは、これもまた何度か引用している気がするのですが、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「海の上のピアニスト」かもしれません。船上で孤児として育ってピアノ弾きに成長した1900(ナインティーン・ハンドレット:ティム・ロス)は、酒場のひとびとを観察しながら、それぞれのひとにあった音楽を即興で表現します。あの感じ。
海の上のピアニスト ティム・ロス, ブルート・テイラー・ロビンス, ジュゼッペ・トルナトーレ パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン 2008-06-20 by G-Tools |
集積される言葉、言葉がつくる空気
ところで、言葉もそんな風に、そのときどきに思い浮かんだままに記録できればいいのにと思っています。いわば言葉のフィールド・レコーディングでしょうか。短文を入力できるTwitterは、そんなツールじゃないかと思っています。
常々思うことですが、ブログはどうしても過去のパブリッシング、いわゆる出版になぞらえて考えられることが多い。けれども別に印刷物の本となぞらえる必要はなくて、まったく違うメディアもしくはツールではないのか、とぼくは考えます。つまりですね、これは個人的な見解ですが、読者を想定して完成された文章をアップする必要もないし、究極のことを言ってしまえば、文章になっている必要さえないのではないか。単語でもかまわない、と。
もちろんパブリッシング系のブロガーがいて、パブリックを意識した崇高な文章があってもいいとは思うのですが、短文で「気持ちよかった」だけでもかまわない気がするわけです。
当然、その「気持ちよかった」は単体では意味をなさないし、ゴミのような言葉かもしれません。けれども、ブロゴスフィアのなかで、50万人の「気持ちよかった」が集積されたとき、その言葉はもはやリアルの世界に蔓延する空気を代弁しているのではないか。同様に「腹が立つ」も50万人集まれば時代の苛立ちとなる。
ブロゴスフィアの言葉はフラットだとぼくは考えていたのですが、それはそういう意味で、いま考えるとフラットという概念も違うな、と思いました。なぜならば、フラットという概念の背後には、誰かと誰かを比較する思考がある。ぼくがブログスフィアの言葉に優劣はないと感じたのは、多様性を容認するとともに、どんなに瑣末な言葉であっても集積されれば空気を形成するというような考え方があったからでした。
つまりひとりのカリスマが発した完璧な文章よりも、50万人が発した「気持ちよかった」という短文が圧倒的な影響力をもつことがある。だからこそぼくはアルファブロガーという存在に疑問を感じているわけで、集合知というとどこかコミュニティやらSNSで議論しなきゃだめだという印象もあるけれど、議論などなかったとしても、集合的な知というか時代の雰囲気=空気が形成されることに意義があると思うんですよね。
だからこそ、空気清浄という観点から「その言葉は汚れているから使うな」と統制することに問題があるのではないか。
どんなに汚れた言葉であっても、リアルの空気を代弁しているからこそ意義がある。世界というのは、きれいごとだけでは済まされないものです。汚い言葉(ノイズ)を排除しろというのは、もしかすると言葉のアウシュビッツといえるかもしれない。
影になる部分があるからこそ光も輝くわけで、光と影の両側面を存在させることが世界をよりリアルに再現することになると思う。もし汚い言葉に触れたくないのであれば、わざわざ読みに行かなければいい。読みにいってわざわざ不快になっているのは、読んじゃった人間の責任ではないのでしょうか。そんなわけでぼくは最近、読みにいかないブログが増えてしまったのですが。
仕事で疲れて思い出せないし、いまは本を探す気力もないのだけれど、村上春樹さんの短編に、シャワーを浴びていると無意識におかしな言葉を呟いている主人公がいて、妻にそのことを指摘されるんだけど、自分ではさっぱり覚えていない、というような話があったような気がします。ブログに書かれる言葉は、そんなシュールな言葉であってもいいと思うんですよね。うーむ、これは言いすぎか?
まだ思い浮かんだことがいくつかあるのですが、一気に書いてしまうとつまらないので、また次の機会に。
投稿者 birdwing : 2007年5月16日 00:00
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