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2007年5月 4日

「欲望解剖」茂木健一郎、田中洋、電通ニューロマーケティング研究会

▼book07-014:マーケティングを脳科学と哲学で解剖する試み。

4344012631欲望解剖
電通ニューロマーケティング研究会
幻冬舎 2006-12

by G-Tools

人間の消費行動のメカニズムなどを心理学などによって解明する試みは従来からありましたが、この本ではさらに突っ込んで脳科学や哲学などから市場のメカニズムの解釈を試みられています。

そもそも「解剖」という言葉自体が、医学の用語です。「欲望」という意識を対象とする言葉ではありません。フィジカルなものを腑分けしようとする言葉なのですが、それがカタチのない欲望を解剖するとして使われていて、ジャンルを横断する発想が面白い。たぶんレオナルド・ダ・ヴィンチ的な発想もあるのでしょうね。ダビンチは画家であると同時に、科学者としても人体の解剖図などを描いていたので。

あればいいなあ、と思っていた本だけに、以前から気になっていました。しかしながら逆に仕事に近いということもあって、いまひとつ手にとることができなかった印象です。やはり脳科学や哲学は純粋に読書として楽しみたいという気持ちがあるからかもしれません。仕事系の本はどうしても実践のための勉強として読むようになってしまうので、なんとなく手放しで楽しめないものがあります。

脳科学者である茂木健一郎さんとマーケッターである田中洋さんは、それぞれ専門の知識から、非常にわかりやすく欲望について解説されていて、あっという間に読むことができました(その割にはレビューに時間が経ってしまいましたが・・・)。それぞれの解説があり、最後は対談というセッションで終わるという本の構成も楽しめます。できればリアルでこんな講演があったらうれしいですね。講演×2+パネルディスカッションのような。

茂木健一郎さんの解説では、従来から述べられている茂木さん的なキーワードが網羅されていて、まとめ本としてありがたいと思いました。茂木さんのキーワードを再確認する意味でも参考になります。さまざまな視点を提示されているのですが、ぼくが特に面白いと思ったのは夢の効用について書かれていた部分でした。

「夢の中で記憶の編集が行われる」として、現実の時空間におけるつながりを一旦ほぐして、再構成するのが夢である、と解説されています。つまりインプットされていても、つながっていない情報があって、それが夢という時間を経由することによって新たな文脈でつながる。意識化では分断されていたものが、夢のなかで統合されるわけです。

ネットワーク構造についても述べられているのですが、意味や欲望はネットワーク構造とは無関係につながる、という部分は、なるほどと思いました。効果的なマーケティングとは、ひょっとすると逆説的に、仕掛けてはいけないのかもしれません。さまざまな可能性を提示するだけにとどめておいて、あとは偶有性のつながり(セレンディピティ)に期待する。SNSなども、意図しないところで盛り上がったりするものです。

通常、マーケティングというとAIDMAの最後のAction(行動)が重視されるのですが、Actionのためのトリガーをあえて仕掛けない。消費者の選択に任せるようなマーケティングが、特にネットのブログやSNSを活用したマーケティングでは重要になるのではないか。そんな風に考えました。

一方で、田中洋さんの解説でまずびっくりしたのは、ちょうど読んでいたドゥルーズ+ガタリの「アンチ・オイディプス」が出てきたこと。引用してあるからこの本を選んだわけではないのですが、関心があったときだけにタイムリーでした(びっくりした)。さっぱりわからずに遅々として読み終われない「アンチ・オイディプス」ですが、田中さんが「器官なき身体」などをさらりと解説されるとわかったような気分になる。

田中さんのキーワードで最も注目したのが「ポスト・カルテジアン消費」です。まず次の部分を引用してみます(P.84)。


つい最近、カナダ・ヨーク大学のマーカス・ギースラー助教授が非常に面白いことを話していました。iPodはウォークマンとは根本的に違う、革命的な商品なのだというのです。ギースラー助教授の言うことに従えば、iPodの使用においては自分の身体とiPodの機能とが一体化する、というわけです。この見方にはなにか新しい考えがヒントとして含まれているように思われます。

これは「自分の身体と情報が結合された状態」だそうです。そして次のようにつづきます。

カルテジアンとはデカルト、人間の心と身体は別だという二元論を唱えた哲学者と、その理論の謂いですが、「ポスト・カルテジアン」という言葉は、二元論の止揚された形という意味です。これまで我々は機械を「使う」とか、情報機器を「操作する」という認識を持っていたわけですが、これからは情報消費をベースとして、モノ(機械)と自分自身=アイデンティティとが一体になるような状況が生まれてくる。これは我々にとってヒントとなる考え方ではないかと思うのです。

この考えに共感します。精神か肉体か、感情か理論か、というような二元論で展開される何かというよりも、理論的でありかつ直感に訴えるものであるとか、肉体のなかに精神を見出すとか、企業内にいながらフリーエージェント的に働くとか、対立項を選択するのではなく、複雑な絡み合った多様な世界を多様なままに考える重要性を感じています。二元論の止揚といっていいのかどうかわからないのですが。

したがって機器や情報に身体性を見出すのも面白い視点だと思いました。考えてみると、携帯電話なども自己の身体の延長という印象があります。だからこそカスタマイズ(着せ替えにしたり、メニューを変更したり、ストラップに凝ったりする)わけで。

ぼく自身が、文体=身体というコンセプトをずっと考えつづけていたのですが、テキストの文体はネットではさまざまな情報としてとらえることもでき、そのテキストの身体性によってぼくらはブロゴスフィアに存在している。たとえ文章にすぎないといっても、そこで語られることは脳内だけではなくて、ときには身体を激しく揺さぶるものです。

距離を置いて安全な場所から書いている場合には、テキスト/自己という分断された状態にあるのだけれど、のめり込むとテキスト=自己という仮想的な一体感のようなものが生まれる。だからブログを批判されると精神だけでなく身体的なダメージも受ける。逆に好意的なコメントをいただくと、好意に近い感情が生まれることもあり、リアルな身体を健やかにしてくれることもあります。

ただし仮想をリアルに接近させすぎることは危険でもあり、分身としての身体があったとしても、どこかで仮想とリアルを切断する必要があります。個人的な感覚でいうと、ハイパーグラフィア(書きたがる病)的に中毒な状態になると、かなり切断が難しくなると思いますね。情報との一体感はよいことももたらすけれども、悪影響もある。その悪影響については、ぼくもきちんと考えていきたいと思っています。

と、長文で論考しつつ何かいまひとつ核心に踏み込めていない気がするのですが、夢の効用と同様に、ここで感じたこと少し寝かせておくと、またいつか知らないうちに言葉と言葉がつながって新しい意味を生成するようになるかもしれません。4月18日読了。

※年間本50冊プロジェクト(14/50冊)

投稿者 birdwing : 2007年5月 4日 00:00

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