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2010年8月 4日

かいじゅうたちのいるところ

▼cinema10-07:子供のなかにある大人的な。

B002SSSUGSかいじゅうたちのいるところ Blu-ray&DVDセット(初回限定生産)
ワーナー・ホーム・ビデオ 2010-05-19

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「子供」と「大人」というカテゴリー(分類)があります。あのひとは大人/子供だね、と批評することもあります。しかし、どこまでが子供でどこからが大人なのでしょう。煙草を吸えるようになったから、ビールを飲めるようになったから。給料を稼ぐようになったから、童貞もしくは処女を喪失したから。子供を育てるようになったから、自己責任と他者の権利を尊重して落ち着いて社会を批判的に眺められるようになったから。新聞の経済面をよく読むようになったから、ひとりで喫茶店に入ってコーヒーをミルクと砂糖なしで飲めるようになったから・・・だから大人なのでしょうか。よくわかりません。

子供と大人はまったく別個である、とぼくにはおもえない。また、子供という薄い殻に守られた成長過程があって、その殻が割れると大人になるとも考えられない。ぱんぱかぱーん、今日からあなたは大人です!なんてことはない。うまくいえないのですが、子供と大人の境界は存在しないのでは?

考えられるとすれば、子供と大人という"パラメーター"があるのではないか、とおもうのです。つまり子供成分と大人成分の配合と組み合わせによって、大人的であったり子供的であったりする。けっして年齢ではない。外見でもない。行動の規範があるわけでもない。そのひとの"成分"の違いが子供と大人を分ける。それがぼくの子供・大人観です。

音楽用語に喩えると、EQ(イコライザー)のような感じでしょうか。EQは音質を調整する装置です。通常いくつかの上下に動かすスライダーがあり、そのスライダーによって高音や低音を強調したり減衰させたりします。同様に、成長にしたがって大人的な要素を上げたり子供的な要素を下げたりしながら、ぼくらは生きているのではないか。

大人になってわかりました。完璧な大人などいないと(笑)。大人にも子供的要素はあり、子供にも大人的要素があります。潜在的に種が蒔かれていた大人的要素が成長すると、子供たちは大人になる。そして、大人になっても子供的な要素が部分的に育たなかったひともいる。シニアが子供じみた動機から犯罪を起こすこともあれば、20歳の女性がしっかりとした社会的な洞察をもっていることもあります。みずみずしい若さを失わない老人もいれば、ティーンエイジャーなのに体力も気力も底をついたひともいます。

政治的や社会的という大義のもとに、いい年をした大人が顔を真っ赤にして子供じみた喧嘩をすることもあれば、子供たちも人間関係に深刻に悩み、社会を憂いたりするものです。経験値によってもたらされる年の功は否定できないものかもしれませんが、子供も大人もある意味、対等に、ひとりのにんげんとして、その時代と社会を生きています。

モーリス・センダックの有名な絵本を映像化した「かいじゅうたちのいるところ」は、子供の世界における大人的な葛藤を感じさせる作品です。

かいじゅうたちのいるところ

8歳の主人公マックス(マックス・レコーズ)は、わがままだけれど繊細な少年。離婚して父親がいない家庭で、恋と仕事に夢中な母親、友達ばかりを大切にする姉のふたりの家族から相手にされず、ついにオオカミの着ぐるみのまま家を飛び出します。

家出したマックスが小舟に乗って辿り着いたのは「かいじゅうたち」の島でした。彼は、かいじゅうたちに「王様」として迎えられます。ほんとうは王様などではなく、ちっぽけな子供なのだけれど、食べられてしまいそうになって、王様の振りをする。そして、かいじゅうたちをひとつにまとめて、みんながしあわせになれるように大きな提案をするのですが・・・。

かいじゅうたちは二頭身で、クマやヤギ、ニワトリのような姿ですが、その顔つきは「大人」です。破壊や「かいじゅうおどり」を楽しむ子供っぽさもある一方で、嫉妬や怒りなど、かいじゅうどうしの関係の難しさに悩んでいます。

特にかいじゅうのリーダー格であるキャロルは、友達を作って出て行ってしまったKWに激しく嫉妬し、怒りのために次々と周囲のものを破壊しようとします。このキャロルとKWの関係は、マックスのリアルな世界における離婚(母親と父親の関係)に通じるのではないかとおもいました。

キャロルとKWの壊れた関係を修復するために、マックスは王様として、いろいろなアイディアを練ります。そのひとつが「どろだんごによる戦争」。どろだんごをつくって雪合戦のようにぶつけ合って楽しむのですが、結局、怪我をするかいじゅうが出たり、気まずいことになってしまったり。「戦争(ごっこ)」が仲直りの方法だ、というマックスの発想は子供っぽいものです。複雑でアンバランスな大人の顔をした「かいじゅう」関係には通用しませんでした。そして、マックスは王様としての力を疑われてしまうようになります。

みんながしあわせになれること。幸福の最大化という「功利主義」的な考え方といえるでしょうか。しかし、かいじゅうたち個々の性格がぶつかり合った末、うまく噛み合ったように感じられた関係の歯車は、いつも最後にはぎこちなく破壊されます。KWがしあわせになることでキャロルは不機嫌になり、みんなでいっしょに暮らそうという提案をしたマックスが王様の部屋を作ろうとしたとき、キャロルは、みんなが等しく幸福になるはずだったのに、ひとりきりの部屋を作るのはおかしいんじゃないか?と疑問をぶつけます。彼には返すことばもありません。

不満のあまりに当り散らすキャロルは、トリのようなかいじゅうの羽をもぎとってしまう。このとき、キャロルの行き場のない怒りは、父親を失い、母親と姉にも冷たくされたマックスの憤りに重なります。残忍さが痛々しく響きました。トリさん(名前を失念)は、なくした片腕のかわりに義手(羽?)として木の枝を挿してあらわれます。羽を失ってもマックスを責めずに、木の枝の羽でマックスに優しく話しかけるトリさんは、かいじゅうたちのなかでは、いちばん大人だなあと感じました。

最後に素朴な感想を。

「これ、子供が観てわかるのかな?」が本音です。対象年齢とすれば小学校高学年から中学以上。しかし、描かれているかいじゅうたちの心理は、孤独や嫉妬など複雑に入り組んだ「大人」の感情です。だから子供であっても、大人的な感受性のある子供たちにしか理解されないのではないか。

ぼくは児童文学研究者でもないし、心理学者でもないからわからないのですが、かなり高度な「大人意識」がなければ、なぜキャロルがそんなに不機嫌なのか、みんなのしあわせとはどういうことか、わからないとおもうのです。

一方で、大人の観点からは理解しやすいのではないでしょうか。「かいじゅうたち」とは、戦争などの諍いを好み、退屈に飽きていつも不機嫌で、あるいは嫉妬や差別意識に苛まれている大人たちそのものなのだから。

この映画は大人向けのファンタジーと捉えたほうがいい。スパイク・ジョーンズ監督の映像は魅力的で、かいじゅうたちが森をどっかんどっかん破壊したり、重なり合って眠るシーンは子供たちには楽しいかもしれないのだけれど、かいじゅうたちの関係や心理の機微は、大人的素養の高い子供にしか理解されないような気がします。

が、しかし。ぼくら大人たちが考えるほど、子供たちは「子供」ではないのかもしれません。幼い彼らのなかに眠っている大人意識を目覚めさせる、そんな映画かもしれない。絵本が高い評価で読みつづけられていることも考慮すると、表面的な子供というかいじゅうの裏側でうごめいている、大人というかいじゅうを「目覚めさせる」絵本だからかもしれないですね。

■トレイラー

■公式サイト

http://wwws.warnerbros.co.jp/wherethewildthingsare/

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投稿者 birdwing : 2010年8月 4日 22:29

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