« ウォーク・ザ・ライン 君につづく道 | メイン | ウォーク・ザ・ライン 君につづく道 »

2006年7月29日

複雑に絡み合う倍音、言葉。

夕方から夜のはやい時間にかけて、近所でお祭りの音らしきものが聞こえていて、遠くに聞こえるその音にそわそわと促される何かがあったのだけど、結局のところ静かに家で過ごしました。梅雨は終わっていないらしいのですが(もうすぐ終了らしい)、夏らしくなってきた夜の雰囲気がよいなあと思いつつ、ロディ・フレイムの「ウェスタン・スカイズ」などを聴きながら書いています。

趣味としてぼくはDTMで曲を創ってmuzieで公開しているのですが、最近はVAIOのノートパソコンのなかですべて完結しています。外部からの録音することはまったくなく、さらにキーボードさえも使わないでマウスで音を置いて作っていく。ボーカルに関してはVocaloidというソフトウェアで音声合成によって歌わせています。しかしながら、この試みのなかで、どんなにリアルに近づけようとしても近づかない何かがあることに気づきました。それは何かというと、VSTiによるソフトウェアシンセやVocaloidには「身体がない」ということかもしれません。

いま、内田樹さんの「態度が悪くてすみません」という本を読み進めていて(現在、P.170)、その「言語と身体(P.58)」という章が非常に面白くて、実は書店でこの部分を立ち読みして思わず買ってしまったのだけど、音楽にも文章にもあてはまるような深い考察があります。

大学の研究室にいるとき、高校生が芝居の稽古をしている声が外から聞こえてくる。その芝居の声は日常の言葉であるにも関わらず、嘘(芝居)であることがすぐにわかる。それは、言葉の平坦さ、なめらかさにあると指摘します。そうして次のように書いています(P.61)。

「嘘」や「芝居の台詞」には「何か」が決定的に欠けている。
身体が欠けているのだ。

もちろん発話している芝居の稽古をしている高校生には、身体があります。しかしながら、演じている言葉には、どんなにリアリティをもたせようとしても再現として「印字」する言葉でしかない。身体の欠けている言葉は、どんなにきれいでなめらかであったとしても相手には「届かない」とします。

言葉が相手に届き、理解されるためには、まず相手の身体に「響く」必要がある。そして、言葉における「響き」を担保するのは、さしあたり意味性よりはむしろ身体性なのである。

このあとに村上春樹さんの言葉を引用しています。それはJ・D・サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の翻訳に対して書いたことらしいのですが、ぼくも非常に興味深く読みました。村上春樹さんの言葉を引用します。

極端なことを言ってしまえば、小説にとって意味性というのは、多くの人が考えているほど、そんなに重要なものじゃないんじゃないかな。というか、より大事なのは、意味性と意味性がどのように有機的に呼応し合うかだと思うんです。それはたとえば音楽でいう『倍音』みたいなもので、その倍音は人間の耳には聞きとれないんだけど、何倍音までそこに込められているかということは、音楽の深さにとってものすごく大事なことなんです。

当然ですが、村上春樹さんが言っている倍音とは倍音的な何かであって、音楽的に倍音そのものではありません。だからシンセサイザーで倍音を付加すればカイゼンされるという問題でもない。人間が声を出すことを考えてみると、身体のさまざまな部位で共鳴したりしなかったり、とても複雑になる。さらに歌っているひとのプライベートも含めたさまざまな「思い」が歌声のなかに存在していると思います。発話を音声的に解析すれば、そうした思いは削ぎ落とされてしまうかもしれないのだけど、その思いが微妙に音程を狂わせたり音質を変えたりしている。Vocaloidは非常に細かくハーモニクスなどのパラメーターを指定できるのだけど、その「思い」までをシンセサイズすることはできません。

文章あるいは文体も同じだと思います。2バイトの文字情報のデータの集合として置き換えてしまえば、書いているひとの「思い」はデジタルに削ぎ落とされてしまうのだけど、しかしどこかにその見えない「思い」が反映されていて、思いがあるということはそれに応じた心拍数の変化であるとか、汗のかき具合、快や不快の感情による体内や脳内物質の変化もある。そうした身体も含めた変化が伝わる文章と言うのは確かにあるもので、だからこそブログを読んでいて泣ける文章もあれば、非常に腹が立つこともある。

その身体性を削ぎ落とした言葉がまさに、「ブログスフィア」という本で語られている「スーツ」な言葉であり、企業における広報的な統制と抑制によって平坦になったリリース文、もしくは戦略的な意図で心脳的な操作を目的としたマーケティング的なアプローチかもしれません。

ずばっと鋭利な刃物で斬るような言葉も考えもので、ぼくは曖昧性に富んだ文章こそ、身体の複雑さを文体にも投影しているような気がします。白か黒かはっきりさせることが大事なのではなく、グレイであることをグレイであるとする文章に誠実さを感じる。

内田樹さんの本では、「知性が躍動する瞬間(P.119)」でそのことが書かれています。優秀な学生の論文を読んでいて、最近は「一刀両断」に斬り捨てるような文章ではなく、「書いている学生の息づかいや体温のようなものがにじみ出した文章」が多いとのこと。それは、AとBという主張があるがどちらが正しいかわからないという主張だそうですが、以下のように述べられています。

こういう文を読むと、私はほっとする。
「私にはわからない」という判断留保は知性が主体の内側に切り込んでゆくときの起点である。「なぜ、私はこのクリアーカットな議論に心から同意することができないのか?」という自問からしか「まだ誰も言葉にしたことのない思考」にたどりつくことはできないからである。

わからないことを無理にわかろうとするのではなく、わからないままに留保する。あるいは、わからないと言ってみる。それは複雑に響きあう言葉に耳を傾けることでもあり、結果ではなくプロセスを楽しむ生き方にも通じるものがあるような気がします。

投稿者 birdwing : 2006年7月29日 00:00

« ウォーク・ザ・ライン 君につづく道 | メイン | ウォーク・ザ・ライン 君につづく道 »


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://birdwing.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/459