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2006年7月23日

ハイブリッドな役割。

谷川俊太郎さんの「夜のミッキー・マウス」のあとがきに、この詩で何を言いたいのかと聞かれると答えられなくなってしまう、という表現がありました。そこで思い出したのですが、先日読み終わった内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」という本にも、類似した表現をみつけました。村上龍さんのインタビューについて書かれています(P.128)。引用します。

村上龍はあるインタビューで、「この小説で、あなたは何が言いたかったのですか」と質問されて、「それを言えるくらいなら、小説なんか書きません」と苦い顔で答えていましたが、これは村上龍の言うとおり。答えたくても答えられないのです。その答えは作家自身も知らないのです。もし村上龍が「あの小説はね・・・・・」と「解説」を始めたとしても、それは「批評家・村上龍」がある小説の「解説」をしているのであって、そこで語っているのは「村上龍」ではありません。

書く行為においては、書いたことの背後に書かずにおいた(あるいは書けなかった)ことがある。書いた意図、あるいは書かれなかった意図について解明するのが評論家の役割です。だから、作家が評論家のように語れないジレンマがある。もちろん作家の内面にも書きたかったことや理由はあるだろうと思うですが、正解の答え合わせが文芸的な活動かというと、そうではないような気もします。内田さんの本では、作品の意図を読み解けば批評家の「勝ち」、作者の秘密に手が届かなければ批評家の「負け」というようにも書かれていました。けれども、その原則を退け、「起源=初期条件」というものがないとしたのがロラン・バルトであったと解説されています。

また難しくなってしまいそうなのでなるべく難解になることを避けたいのですが、作家というのは理屈を考えるよりも、四の五の言わずに書け、まず書くことが大事だ、という一般論のようのものもあります。理論で武装するよりは作品を創ることが先決だ、という考え方です。だから、テレビ番組に出演して本業以外のことを語り出す作家は、なんとなくうさんくさく感じる。とはいえ、村上龍さんなどはメディアに出つつも作品を精力的に書いていて、すごいなと思うのですが。

書かれたものに対して意味をつけることが評論家の役割ともいえます。小森陽一先生の本を読んでいると、「文芸評論家」としての責任という言葉があり、危険な思想をジャッジするような役割もその言葉に込められているようです。とはいえ、評論家には、ぼくはどうしてもネガティブなイメージを感じます。ちょっとやわらかい話を書いてみると、名探偵コナンというマンガに怪盗KIDという泥棒(といっても少年)が出てくるのですが、彼が「泥棒は芸術家で、探偵はその芸術を批判する批評家にすぎない」とコナンに言う台詞がありました。台詞は正確ではないかもしれないけれど、計画的な完全犯罪を生み出すことに才能が必要で、それを解読したり、トリックを見破るのは簡単でしょ、とKIDは冷ややかな目でみるわけです。

音楽でも、他の芸術でもそうかもしれないのですが、自分の創ったものに対して自ら批評家の立場で何かを解説したり、弁解したり、過剰に何かを語ることはよい印象がないようです。プロダクトデザイナーである深澤直人さんの本にも「デザイナーは語る必要はない。ものが語ればいい。」という言葉があり、そのことをブログにも書きました。

しかしながら、ほんとうにそうだろうか?ということを考えてしまったのですが、現代においてはそうともいえない状況にあるような気がします。作家は作家であればそれでいい、あとは批評家が何かを言ってくれる、という時代ではないのではないか。というのはインターネットが出現して、表現を取り巻く環境が変わりつつあるからです。

すべての人がブログを書いているとはいえないとは思うのですが、インターネットやテクノロジーがもたらした現象として、ひとりの人間において、作家/読者のふたつの面が混在しつつあると感じています。つまり、ハイブリッドな役割になりつつある、ということです。

ブログを書いているひとは、自分のブログにおいては作者ですが、他のひとのブログを読むときには読者になってコメントする。コメントされたひとにおいても、また別の誰かのブログでは読者です。書くと同時に読む。書くだけではなく、必然的に読みとる力、コメンテーターの力も必要になります。さらに、作家/読者のハイブリッドだけでなく、買い手/売り手のハイブリッドも考えられます。つまりオークションにおいては、自分で何かを売ると同時に買い手でもある。さらに、広告についても配信主(アフィリエイトなど)であると同時に、広告のターゲットとして広告にも接触します。

ややこしい時代になったものだ、と思うのですが、作家はこれから「きみたちには説明できない何かを書いているんだ」と、えへんと胸を張って言えなくなるような時代ではなくなる気もしています。というのは、一般の読者の方が、ブログによって表現者としても批評家としても磨かれていくと思うので。

といっても、言葉にならない何かというものは確実に存在していて、作家にしてもブロガーにしても、その何かに揺り動かされて書きつづけるのですけどね。

投稿者 birdwing : 2006年7月23日 00:00

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