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2006年7月22日
スタイル、ことばづかいの選択。
所有すること、表現は誰のものか、ということを考えつづけています。いま自分が語っている言葉は、カギカッコで引用をしなくても誰かの言葉の影響を確実に受けていて、厳密にいえば、ぼく自身がオリジナルな表現はできない。また、たとえば会社で提出する書類を話し言葉で書けないように、ぼくらの言葉は、どこで使うかという社会的な枠組みの制約を受けています。いまぼくがブログで書いている言葉にも制約があって、自由に書きたいけれど何もかも自由に書くことはできない。ただ、どのような「ことばづかい」をするのか、という選択はできます。
ブログの文章にもいくつかのスタイルがあります。改行を多用したり、絵文字を使ったり、文字のサイズを大きくしたり色を使ったりすることもできる。スタイルはもちろんどんな「ことばづかい」をするか、ということも連動していて、たとえば絵文字の入った文章で社会批判をされてもちょっと説得力がないし、ちぐはぐな感じがする。やはり社会派のブログを書くのであればそれなりのスタイルが必要だし、友達とのさりげないやりとりをするのであれば、くだいた書き方の方がよいのではないでしょうか。
ぼくはいま段落で区切って大量の文章を書くスタイルでブログを書いていますが、もともとは改行して、もっと短い文章をぽつりぽつりと書くスタイルでした。つまり、はてなで書きつづけているうちに変わっていったのですが、スタイルが変わると内容やテーマも限定されていくような気がします(もっと言ってしまうと、リアルの生き方も変わってくるのかも)。もちろんこの書き方で「とかいっちゃったりして」とか「うーむ、それは困った」などと軽めの文章を書くこともできるのだけど、すべてその書き方で進めることはできません。どんどんスタイルが崩れてしまうので。スタイル先行で内容も書き方も固まっていくようです。
ぼくがこのスタイルをとるようになった背景には、はてなのシステムも大きな要因のひとつとなっている気がします。最初は使いにくさも感じていたのですが、最近ではこのシステムに慣れてしまって、むしろ気に入っています。編集ページでプレビューのタブができたのも、何気なくうれしい。けれども、システム以上に「はてな」という会社、近藤さんの社長としての考え方に共感するから、使いつづけているということもあります。
Think!という雑誌のNo.18は「ウェブ2.0時代の仕事力」として、さまざまな取材記事が掲載されているのですが、はてなの近藤社長の記事に、ネットが「知恵の増殖装置」という考え方が示されていて共感を得ました。株式を公開しない理由、ネットビジネスの資本は「人」であるというビジョンにも頷けました。ネット企業の志やモラルを感じたというか。
ところで、スタイルを選択することによって、ずるずると周辺のさまざまなものも選択をせざるを得ないようです。これはファッションでもそうかもしれません。ある種の洋服を着るときには、音楽とか、読む雑誌とか、映画とか、ファッションをきっかけにしてその他の文化も限定されることがある。その選択が自己表現ともいえます。
ということを考えている背景には、先日読んだ内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」に書かれていた、ロラン・バルトの考え方があります。さきほどの改行したり文字を大きくしたり、ということはどちらかというと「スティル(文体)」という視点だけれど、ほかに「エクリチュール」という考え方があり、これが「ことばづかい」です。ぼくがブログで「ぼく」という「語り口」を選んだ時点で、「私」という社会的な「ことばづかい」とは異なることになります。つまりこの時点で、会社員ではない自分の人生を「ぼく」を書くという行為を選び取り、その言葉で多様なぼくを統合していく。
テーマが拡散して論点がぼやけてきた感じがしますが、何を書きたかったかというと、自分らしい表現が何かと考えたとき、結局のところみんなが考えた既存の知恵の「選択や組み合わせ」でしかなく、その内容については「自分のものでなく人間全体のもの」であるということです。ということを考えた先に、クリエイティブ・コモンズのような著作権の考え方もあると思うし、技術でいえばリナックスなどのオープンソースの取り組みもあると思います。
バルトの言葉を使うと「作者の死」ということであり、インターネットが存在する以前にこのような考え方を提示していたことが、いまとなっては新しい気がします。内田さんの本では、「テクストの快楽」から次の文章を引用しています。
すなわちテクストは終わることのない絡み合いを通じて、自らを生成し、自らを織り上げていくという考え方である。この織物――このテクスチュア――のうちに呑み込まれて、主体は解体する。おのれの巣を作る分泌物の中に溶解してしまう蜘蛛のように。
内田さんも指摘されているように、ここに蜘蛛の巣(=ウェブ)という表現があるのが興味深いと思いました。引用の織物というバルトの「テクスト」の概念は、まさにインターネットのコンテンツそのままであり、「もともと誰が発信したものか」という作者のコピーライトは問題ではなくなる。そして重要なのは、意味を生み出すのは作者ではなく、読者であるということです。情報を創り出す側はもちろん、受信する側も重要になってくる。
内田さんは、オープンソースのOSであるLinux(リナックス)の話のあとに、この章を次のように結んでいます。
作家やアーティストたちが、コピーライトを行使して得られる金銭的なリターンよりも、自分のアイディアや創意工夫や知見が全世界の人々に共有され享受されているという事実のうちに深い満足を見出すようになる、という作品のあり方のほうに私自身は惹かれるものを感じます。それがテクストの生成の運動のうちに、名声でも利益でも権力でもなく、「快楽」を求めたバルトの姿勢を受け継ぐ考え方のように思われるからです。
まだあまり手をつけていないのですが、個人的に古いPCにFedra Coreというリナックスのディストリビューションを入れてみました。このシステムを無料で提供しているのか、と思うとすごい。さらに、たくさんのひとが協力して創り上げているシステムであるということに単純に感動すらします。ぼくは文系の人間なのでプログラムなどを書けないのが悔しいのですが、こういう活動には共感します。
ちょうど、Think!ではてなの近藤社長のページにも、同様のことを言及している部分があったので、引用してみます。
何億円持っているとか、いいクルマを乗り回しているとか、そんなことは死ぬときには何の自慢にもなりません。それより「ネットでたくさんの人が使っているあのサービスはぼくが考えたんだ」といえるなら、それは死んだ後も自慢になる。ぼくはそういうものを作っていきたいんです。
これはいいですね。自慢という言葉だけに執着すると意味を取り違えるのですが、最終的には名声もどうでもよいことであって、自分の好きなことをやっていたら社会のためにもなった、というマズローの究極の自己実現をめざすということかもしれません。
いまぼくが途方もなくブログを書きつづけている理由も、個人的な知恵の探求というテーマがあるからで、もし原稿料をもらえるような仕事だったら逆につづかなかったかもしれません。というのも、もちろん小遣いはほしいけれど、小遣いのために「文化的雪かき」をして、あまり書きたくもないテーマで原稿を書かなきゃいけないのであれば、書きたいことを書いていたほうがずっと楽しい。働いてそこそこ稼いでいるのだから、あとは自分の好きなことをやりたい。自分で選ぶこと。自分でテーマを決めて、スタイルを選択してつづけることが、いちばんつづくのではないかと考えました。
投稿者 birdwing : 2006年7月22日 00:00
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