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2006年7月21日
挨拶としてのブログ。
ブログ「挨拶」論として書こうと思ったのですが、よくわからないのでやめました。ブログに関する超・個人的な見解であり、まだ理論にもなっていません。とはいえ思ったことをまとめてみようと思います。ブログを長くつづけるための心がまえというか、個人的なぼくの覚え書きです。
韓国のオーマイニュースという市民ジャーナリズム(参加型ニュースサイト)が日本にも進出することが決まり、8月28日の創刊を予定されているそうです。鳥越俊太郎さんが編集長とのこと。これで一般の投稿も本格的にメディアになりそうな予感もするのですが、なかなか難しい問題もありそうな気がしています。というのはWeb2.0と騒がれていますが、日本のブログやSNSが成熟しているかというと、私見では疑問もありそうです。盛り上がってはいるけれど、内輪の話題だったりもする。さらに成熟が必要なのか、という観点もある。成熟とは何か、ということも考えてみるとよくわかりません。
ぼくも社会的な話題を書いてみたい、挑戦しようと思うときがあるのですが、結局のところ、権力をカタログ的に羅列して批判したときに、その行為自体が権力的であるというフーコー的な視点が気にかかります。別に社会的な話題で権力批判をする必要はなく、ただ日常の身辺で「こんなことがありましたー」というニュースを発信してもいいと思うのだけど、それでいいのかな?と疑問です。もちろん、このような考え方こそが「あらねばならない」偏見や執着にとらわれているのかもしれないのですが、単純に、日常生活で何か投稿するネタはないかと探しまくるような生活はおかしいと思うし、かといって流行っている話題を引用するだけのブログもマンネリに陥ります。それに、あまりに気負うと書きつづけられなくなってしまいそうな気がするのです。
そこで、崇高な見解を捨てて、ものすごく個人的な見解を述べるのですが、ぼくがなぜブログを毎日つづけられているか、というと、非常に個人的なことを書いているからです。さらにテーマすら絞り込んでいない。思考というテーマがあることはあるのですが、崇高なことを考えても、しょうもないことを考えても、それは思考の一部であり、よく考えてみると何を書いてもいいわけです。このいい加減さがつづける秘訣なのかもしれない、と思いました。日記でもないですね。というのは、今日あったことを書いていない日もあるので。
ついでに、文章を書いているとも思っていない。ブログ文章術について語られたブログもあったりするのですが、はっきりいって、文章術について語るのであれば面白い文章を書いてからにしてくれ、というようなブログもありました。妙にテンションが高い文章が面白い、と思っているかのような記述もあるのですが、読んでいる方はさむく感じていることもある。このレベルの文章を書いているひとに教わりたくないなあ、と思う。ぼくに関していえば、文章は上手くなりたいと思っているけれど、このブログは「ですます」「である」混在であるし、誤字もかなりあるし、ひどいものだと思います。高みから教えられるような能力はないのだけど、しいていえば息子の作文ぐらいはみてやることができる。そんなものです。
そこでぼくの持論なのですが、ブログは「挨拶」だと思います。ニュースでも良質の文章でもなくていいのではないでしょうか。
「こんにちはー、お元気ですか?」と世のなかに向って挨拶する。「今日は雨降っちゃいましたね。ちょっとブルーです」と世間話をつづけてみる。興にのってきたら「いま、こんなことに興味あるんですよ。ははは、面白いですよー」と言ってみる。最後に「じゃあまた」と挨拶をして終わる。礼にはじまり、礼に終わる、です。
挨拶だからといって、答えろ、と強要してはいけません。答えを強要した途端に、つづかなくなります。
ぼくは挨拶というものは、自分でするものであって、相手が答えてくれようがくれまいが、自ら挨拶することが大事だと思っています。そして一期一会、毎回はじめてのひとと出会い(もちろんいつも読んでいる方もいるかもしれないのですが)、はじめてのひとと別れることを大事にすべきではないかと考えました。だからブログの冒頭の文章は大事だし、最後の文章も大切です。はじめて出会うひとにきちんと礼を尽くし、きちんと別れる。もしかすると、また出会えることもあるだろうし、もう会えないかもしれない。でも、テキストがサーバーにアーカイブされているとはいえ、削除することも書き換えることもあるわけで、一回性の出会いだからこそ、大切にしたい。
特にブログは必ず新しいエントリーを読むわけではありません。検索エンジンを辿って、以前の記事を読むひともいる。そのときに、きちんと挨拶できているかどうか、ということが大事です。挨拶をコミュニケーションと置き換えることもできるかもしれませんが、必ずコミュニケーションが成立するとはいえません。まとまらないのですが、先日読んだ構造主義の入門書から、エクリチュールという考え方によってブログ論を展開できそうな気もしています。
今日は外出したあと、池袋のリブロに立ち寄って、Think!という雑誌(「Web2.0時代の仕事力」という特集です)、川上弘美さんの「ざらざら」という短編集、カフカの「流刑地にて」を買いました。いま恩師である小森陽一先生の「心脳コントロール社会」を読んでいて(P.56あたりを読書中)、こちらも面白い。つまらないことに腹を立てるのはやめて、楽しいことを考えていようと思います。
投稿者 birdwing : 2006年7月21日 00:00
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