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2006年7月30日

骨太な遺産たち。

世界の巨大恐竜博2006に行ってきました。仕事ではよく行くことのある幕張メッセですが、息子を連れて行ったのは、はじめてです。下の子はまだ無理だろうということで、長男とふたりで本格的な夏らしい快晴の天気のなか、恐竜三昧してきました。

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アーケードゲームで恐竜のカードゲームが流行っていたこともありましたが、もう下火じゃないだろうか?とタカをくくっていたのですが、そんなことはなく、夏休みということもあって家族でかなりの混雑でした。世のなかのお父さん、お母さんたち、ほんとうにお疲れさまです。

ジュラ紀とか白亜紀とか、そんな昔のことはどうでもよかろうと思っていたのですが、子供に帰ってあらためて学んでみると、なかなか面白い。ちいさな恐竜博士ともいえる息子の頭のなかは、ものすごいデータベースになっていて、今日ばかりは全面的に彼に教えてもらいました。会場のあちらこちらには、CGで恐竜たちの生態を再現した映像も流されていて、ビデオ&ゲーム世代の子供たちと親たちの注目を集めていたようです。しかし、やはりとんでもない存在感だったのは恐竜たちのでっかい骨で、スーパーサウルスが目玉だったのですが、それ以外の恐竜たちもなかなかのものでした。

と、これだけでは単なるマイホームパパの日記になってしまうので、いつものような思考を働かせて理屈っぽく考えてみます。

短い歴史で連続的な世界というのは「つづいている」感じがあります。たとえば、昭和と平成は大きく変わったといえ、まだ時間的にお隣りさんという感覚がある。けれども何億年と離れてしまうと、これはもう別の地球のできごとではないか、と思いました。あの骨になっているでっかい生き物は爬虫類のおじいさんだ、と言われたらそうかなとも思うのですが、理屈では納得できたとしても感覚的に疑問符がある。あなたたちは、ほんとに存在しているんですか、で、地球のいまにつながっているわけですか、と疑わしい。

この感覚は、恐竜の時代に関してだけではないと思います。ドッグ・イヤーなどといわれるインターネットやITの世界も同じです。紙にパンチ穴をあけてプログラムを書いていた時代なんて恐竜のようなものであって、そのITはいまとは別の世界のできごとだったのではないか、ひょっとしたら夢のなかの出来事だったんじゃないか、と思う。同時代に生きていれば、そういう時代もあったよね、と懐かしく語ることができるのですが、現在のネット社会も、子供たちが大人になる頃には恐竜のような化石になっているかもしれません。

とはいえ、とにかくでっかい骨を残した恐竜というやつらは、すごいなと思いました。彼等の影には、土となって風化したやからがたくさんいるわけであって、それはビジネスの世界にもいえるかもしれない。歴史に残るのはそれこそ一部の巨大な業績を残した企業であり、それこそ恐竜のしっぽ(ロング・テール)のように試行錯誤を繰り返していたのだけれど、結局のところ芽が出ずに、隕石の衝突のような突然の環境変化によって滅んでいった恐竜(=企業)も多い。

しかしながら、たとえ骨だけであっても歴史に何かを残すことはすごいことであって、そこには生きてきた証がある。願わくば実体は滅んだとしても、時代に何かを残したいものだと思いました。骨が風化しても生きつづけるのは、もしかするとビジョンのようなものかもしれません。「ビジョナリー・カンパニー」に書いてあったことですが、業績をいくら残したとしてもそれは束の間の栄光であって、ビジョンを残した企業こそが未来へと存続できる。

もう少し別の視点から考えてみると、以前、日刊デジクリというメールマガジンに、「進化」と「深化」の違いが書いてあったような気がします。いま手もとにそのメルマガがないので、内容はすっかり忘れてしまいましたが、あらためてぼくがその言葉について解釈を加えると、淘汰などを含めて対外的に変わっていくことが「進化」であり、より内省的に自分の思考を深めていくことが「深化」ではないかと思います。そして、どちらが優れているか、ということではなく、その「進化」と「深化」のどちらも自己には(企業には、生命には、地球には)必要な気がしました。

つまり進化に関して言えば、自分はなりたくないのにこんなになっちゃったよ、という進化もきっとある。競争社会のなかで淘汰されないためには必要だったことで、そのときには必要なのだけど、長期的にみると歪みが生じるような進化もあります。しかし、深化については、じっくりと深耕していけばよいのであって、社会がどうあろうと関係ないかもしれない。これを究めたいから放っておいてくれ、というカタチで深めていくことです。

恐竜というばかでかいやつらには深い考えなどなく、ただ生きて、ただ喰らい、時期がくれば繁殖し、夢をみることもなく滅んでいったのかもしれませんが、ぼくらは彼等の生命としての素朴な生きざまを継承しつつ、さらに言葉を操り、考える生き物として骨ではない何かを残していきたいものです。

いずれは骨になるのであれば、いまをせいいっぱいに丁寧に生きたいものだ、とも思いつつ、おとうさんは恐竜三昧にくたびれてしまいました。息子とすごした楽しい一日と心地よい疲労を反芻しつつ眠ることにします。骨にならない程度に。

投稿者 birdwing : 2006年7月30日 00:00

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