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2006年7月 2日
記憶を想起させる感覚。
夏の夕暮れ、あるいは夜には独特の匂いがあるようで、近所を散歩しただけでもそんな匂いを感じることがあります。それは焼き鳥の匂いであったり、蚊取り線香の懐かしさであったり、湯上りの石鹸のようなふんわりと漂う空気だったりするのだけれど、爽やかさとは正反対に湿度の高い重い空気がまとわりついてくる。汗をかいたTシャツが肌にぴったりと重なって気持ち悪くもあるのだけれど、そんな夏の夜が好きだったりもします。
小田急線の新宿地下ホームの匂いが好き、といったのは息子(長男)で、なんだかすーっとする匂いがするらしい。ぼくは駅で降りるたびに彼の言葉を思い出して空気を思い切り吸い込んでみるのだけど、いまだにそのすーっとする感じを味わえないでいる。きっとこれからも味わえそうにありません。それは地方で生れたぼくに対して、東京生れの子供だからこそ感じられる何かなのかもしれないけれど、あるいは東京に出てきたばかりのぼくはその匂いを感じていたのかもしれない、とも思ったりして。
嗅覚というのは、視覚や聴覚に比べると、それほど重視されていないようにも思うのですが、大切な感覚のひとつです。武満徹さんの「Visions of Time」という本は、次のような言葉の引用から始められています(P.4 )。
人間は、目と耳とがほぼ同じ位置にあります。これは決して偶然ではなく、もし神というものがあるとすれば、神がそのように造ったんです。目と耳。フランシス・ポンジュの言葉に、「目と耳のこの狭い隔たりのなかに世界のすべてがある。」という言葉がありますが、音を聴くとき--たぶん私は視覚的な人間だからでしょうか--視覚がいつも伴ってきます。そしてまた、眼で見た場合、それが聴感に作用する。しかもそれは別々のことではなく、常に互いに相乗してイマジネーションを活力あるものにしていると思うのです。
鼻と口が近い場所にあるのも、また食という行為に近い機能が集まっているのかもしれない、などと考えました。
さて。今日、仲人をしていただいたかつての職場の部長から電話をいただきました。いまは退職されて、畑を耕したり本を読むような日々を送っているそうです。絵も描かれているらしい。ときどき退屈もする、とのこと。電話の声を聴きながら、穏やかな顔を思い出しました。穏やかであることがいちばんいいと思います。穏やかでありたい。
思いのほか体調がすぐれずに、寝たり起きたりの一日だったのですが、こういうときだからこそ波長が合う何かというものもあるようです。元気なときには感じ取れない何かを捉えつつあるような気がします。
投稿者 birdwing : 2006年7月 2日 00:00
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