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2006年7月31日
ユーモアとアイロニー。
しなやかでありたいものです。硬直しているものすべてに死の傾向があり、生きているものはやわらかくしなやかだということを読んだのは、海原純子さんの「こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人 (角川oneテーマ21)」という本に引用されていた老子の文章だったかと思うのですが、性別にかかわらず、女性にもこちこちに固まっている思想の方もいれば、読んでいるとふにゃふにゃになるぐらいやわらかい発想のひともいる。それは書き方の問題ではなくて、テキストの背後に息吹いている人間性の問題という気がします。文体でもなくて、「である」調でかしこまっていても、やわらかい身体をイマジネーションさせるような方もいる。一方で、明るくやわらかい文章で書いていても毒のあるひとには毒があるもので、ああ、隠して書いているけどほんとうは違うでしょ?ということがわかる。毒というものはそう簡単には抜けないものです。困ったことに。
一方で男性は比較的こちこちなひとが多いのだけど、男性のなかにもとてもやわらかい発想の方がいて、今日読み終えたのですが「態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い」という本を書かれた内田樹さんは、非常にしなやかな方だと思いました。何がしなやかであるかというと、まずタイトルからして、「すみません」と謝ってしまうことが、やわらかい。たいてい、自分の説を曲げずに、あやまるもんか、悪に染まるものか、まっすぐに生きてやるぞオレは、と頑なになるもので、その執着やこだわりは偉いものだと思うのですが、その肩に力が入った生き方が結構、窮屈だったりもする。うちのちいさな息子も、謝りなさいっ!というと頑なに謝らないのだけど、さっさと謝ってしまえばその後でおやつにもありつけるわけで、もちろん反省がなければまた叱られるのですが、謝ることで全人格が否定されることはなく、打たれ強くなってほしいし、しなやかであってほしいものだ、と思う。
内田さんの文章を読んでいて思ったことは、文章に余裕がある、ユーモアがあるということでした。ユーモアのある文章を書くためには、相当の余裕がなければ書けないもので、肩に余計な力が入っていると書けない。ところで、ユーモアとちょっと近い言葉にアイロニー(皮肉)があるのだけど、どのように違うのかを考えてみると、ユーモアは人を笑わせる言葉であり、アイロニーは人を笑う言葉のような気がしました。ユーモアは他人を豊かにするけれど、アイロニーは他人を損なうことで自分の優位性を確保しようとする。ユーモアは笑いというクリエイティブな日常のゆとりを生み出すけれど、アイロニーは批判という言葉で他人を縛りつけて自由を奪うものです。ユーモアには拡散性があり、アイロニーには方向性がある。ユーモアは忘れてしまうけれど、アイロニーは根にもつ。
悪口や愚痴や皮肉をサカナに酔っ払うことが大好きなひとがいて、そのひとにとってそれがしあわせであればそれもまた人生だとは思うのだけど、どちらかといえば、ぼくはユーモアのある生き方を選びたいものです。それは単純に価値観の違いであって、どちらが正解というものではないと思います。ほんとうのところどちらの生き方がよいのか、というとぼくにはわからないのだけど、選ぶのはユーモアのほうかな、という感じでしょうか。ただ、ユーモアのほうが難しいんですよね、アイロニーよりも数段。
さて。よくわからないのですが肩甲骨(背中の翼)の痛みについて先日書いたところ、翌日から次第に痛みが引きつつあり、なんだかとても健康になりつつあります。気持ちも落ち着いて、のんびりゆったりした時間を過ごしています。ブログ健康術って、あるんでしょうか。言葉にすると、文体が身体を浄化するとか。気持ちのもちようかもしれませんが。
投稿者 birdwing : 2006年7月31日 00:00
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