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2006年7月15日
ニーチェで批判するネット社会。
午後には、ものすごい音でカミナリが鳴り、滝のように土砂降りの雨が落ちてきました。空が落ちてくる、というとキャロル・キングの歌のタイトルみたいですが、そんな感じです。少しだけ外出したときには、重苦しいぐらいに暑い空気で、暑さがまとわりついてくるようでしたが、午後からは本格的な外出は控えて、家でじっくりと趣味や片付けの時間にしました。そうして、考えること、書くことについてぼんやりと思いを巡らせました。
自分を語らずに自分について言及する、というと禅問答のようですが、そんなことができないかと考えています。というよりも、そうしたい、という理想のようなものです。ブログにしても論文などの文章にしても、他者を意識すると、どうしても本題とは別に、他者に対する「言い訳」的な文章を挿入するようになります。しかしながら、それがあまりにも多すぎると自意識過剰な印象があるし、なんとなく読んでいても冷めてしまう。メタ的に自分を他者としてとらえて言及したり解説するのではなく、自分のなかにある言葉をストレートに出した方が気持ちがよいし、また読む人にもストレートに伝わるのではないかと思いました。評価や感想は読むひとに任せればよいのであって、自分で自分を言及する必要はない。
よくビジネス系の雑誌にありがちなのですが「ちょっと待ってほしい」というフレーズがぼくは嫌いで、読者を待たせてどうする、と思う。はやく先に進めてください、ともどかしくなる。以前勤めていた会社で、とある雑誌の編集を担当していたときに、ライターさんからあがってきた原稿に400字に一度ぐらいの頻度で「ちょっと待ってほしい」と書かれていて、書くのがつらいのはわかるけど、このフレーズで文字を埋めないでほしい、と腹が立つのを通り越して脱力したことがありました。
このような他者の意識が思考に入り込んできたのは、構造主義的な世界観があったからではないかと思うのですが、内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」を読みながら、ベトナム戦争のときにアメリカはベトナムの気持ちなどを理解しなかった、それができるようになったのはつい最近である、というような指摘があり、当たり前のように思える他者のまなざしを感じ取る行為が、実は歴史上では新しいということにあらためて驚きました。
他者意識が過剰であるために、格差社会も広がりつつあるような気がしているのですが、構造主義・ポスト構造主義がもたらした弊害といえるかもしれません。一般に浸透している思想を乗り越え、新しい考え方のフレームワークを生み出さなければならない時代になっているのかもしれない。
しかし、そのためには気付かずに絡みとられている考え方、常識、「こころの格差社会」で海原さんが述べている言葉を借りるなら「ゴースト」の存在を意識し、語られたことよりもまだ語られていない何かを発見する必要があります。
「寝ながら学べる構造主義」から、ニーチェの「大衆社会」の批判を引用してみます(P.50)。
ニーチェによれば、「大衆社会」とは成員たちが「群」をなしていて、もっぱら「隣の人と同じようにふるまう」ことを最優先的に配慮するようにして成り立つ社会のことです。群れがある方向に向うと、批判も懐疑もなしで、全員が雪崩打つように同じ方向に殺到するのが大衆社会の特徴です。
同質化を求める社会ともいえます。裏返すと、多様化を拒む社会かもしれない。
ニーチェはこのような非主体的な群集を憎々しげに「畜群」(Herdeへールデ)と名づけました。 畜群の行動基準はただ一つ、「他の人と同じようにふるまう」ことです。 誰かが特殊であること、卓越していることを畜群は嫌います。畜群の理想は「みんな同じ」です。それが「畜群道徳」となります。ニーチェが批判したのはこの畜群道徳なのです。
これは古いニーチェの考え方なのですが、たとえばコミュニティの考え方にも通じるものがあり、ネット社会についても示唆を与えてくれるものかもしれません。次のような部分を読んで、そんな印象を受けました(P.53 )。
相互参照的に隣人を模倣し、集団全体が限りなく均質的になることに深い喜びを感じる人間たちを、ニーチェは「奴隷」(Sklaveスクラーフェ)と名づけました。 ニーチェの後期の著作には、この「奴隷」的存在者に対する罵倒と嘲笑の言葉が渦巻いています。
ブログにおいてトラックバックや引用は「相互参照的に隣人を模倣」する手段であり、もちろん批判も可能ですが、多くは引用者と「均質的」な喜びを得たいがための行為のように思えます。したがって、均質的な話題を増殖させていく。情報の奴隷となっていく。本人たちにとっては同質化した喜びがあるかもしれないのだけど、創造的な行為か、というと決してそうは思えない。
NHKの「おかあさんといっしょ」のスプーの絵描き歌で、歌のお姉さんが描いたキャラクターがあまりにも下手だったために、過剰にネットで盛り上がったという現象もありましたが、結局のところ「相互参照的に隣人を模倣」する行為がネガティブな部分に向えば、途方もない吊るし上げを展開することになります。それはまさに「畜人」の悦楽です。しかしながら、日刊デジクリというメールマガジンでそれを「気持ち悪い」と一刀両断していた記事があり、ぼくはその批判にすがすがしいものを感じました。やはりブロガーはマスメディアの優秀な記者には到底かなわないな、と思うのは、ゴシップや揚げ足取りや弱者に対するいじめが横行することで、批判するのであればもっと強いものを批判しろ、といいたい。例えば権力とか、しょうもない組織とか、別に正義のヒーローになる必要はないけれど、社会にはおかしい部分がたくさんあり、その部分におかしいと言及しなければ何も変わらないと思うのです。
基本的にぼくは力のないひとりの個ではあるのですが、個という地面を這いつくばった視点から、社会全体に対して何か提言できるようになりたいとも思っています。まだまだ力不足ですけど。
投稿者 birdwing : 2006年7月15日 00:00
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