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2006年7月27日

ふだん着の言葉と、継続は力。

めぐりめぐってまた同じ場所に戻る、というか、ぼくのブログは途方もない繰り返しと循環だと思うのだけど、最近はそれでいいのではないかと思いつつあります。そして、小森陽一先生が文芸評論家であることを公言したように、ぼくはブロガーであることをきちんと認識しようとも考えています。アルファもベータもつかない、ただのブロガーです。それはただのオトコであるとか、ただの会社員であるとか、その意味に等しいものであり、特別である必要はない。プロダクトデザイナーである深澤さんの言葉を借りるならば「ふつう」であることを大事にしたい。

ロバート・スコーブル+シェル・イスラエルによる「ブログスフィア」という本も読み始めたのだけど(また買ってしまった(泣)。夏よりもぼくの財布のなかの方が熱い。火の車です)、その冒頭で、ブログは生身の言葉であることが重要ということが書かれていました(P.8)。

4822245292ブログスフィア アメリカ企業を変えた100人のブロガーたち
酒井 泰介
日経BP社 2006-07-20

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ブロガーは、ブログを通して、とにかく単純に会話をする。投稿には文法ミスも多い。話題があれこれと移り変わっては、堂々巡りもしたりする。質問、提案、議論のふっかけなどによって、ブロガー同士のさやあてが起きたりもする。だからこそ、彼らの間に信頼が生まれるのだ。ブログ界の草分けのひとりデイブ・ワイナーは、このやり取りを「ふだん着の会話」と言う。

では、ふだん着の会話の反対は何かというと、「スーツ」だそうです。それは企業においては広報の言葉でもある。

さらにブロガーは、大多数の人々と同じように、企業の公式スポークス・パーソンの如才ない流れるような言葉遣いを、総じてうさん臭く思う。ブログ用語で「スーツ(お歴々)」といえば、投稿者が生身の人間ではないという含みがある。広報担当者の奇妙な言葉遣いは「コープスピーク」と呼ばれ、それは慎重な法律用語とマーケティング的誇張があいまったつじつまの合わない物言いを指す。コープスピーカーは、相手が聞きたいときにではなく、自分の都合で勝手に語りかける。

一時期、広告の時代は終わってこれからはPRだ、広報だ、という流れもあったかと思うのですが、統制されて抑止がきいた企業広報の言葉といえども、そのつくられた言葉が逆に消費者の心を打たなくなっている。そんな時代かもしれません。だからこそ、ホンネのトークが展開されるブログが注目される。もちろんブログにも倫理感は必要だと思うのですが、企業の倫理を個人に適用する必要はない。スーツを着ていては語れない言葉があるもので、なんとなく嫌なものは嫌だ、逆にこれはもう大好きだ、ということについて語ることができるのがブログであり、社会的な抑制や権力に縛られた評論家には語れないものだと思います。しかしながら企業広報の語る言葉もブログに遜色なくターゲットに届くスタイルやエクリチュールがあると思います。それは誠実であることを原則として語る零度の言葉、という気がしているのですが。

ぼくはブロガーとして、そんな風にうまく語れるようになりたいと思うのだけど、なかなか難しい。そのためにはセンスも必要になります。センスというのは難しいものだけど、地下鉄の駅で配布されているGOLDEN min.を読んでいたところ、藤巻幸夫さんの「サムライ・チェーン・マネジメント」というコラムに次のような一文がありました。ちなみにこれはSCM(サプライ・チェーン・マネジメント)にかけている言葉だと思うのですが。

たくさん美術品を見たり、良い物に触れたり、美意識を持つことがセンスを高めると、本とかに書かれているし、フジマキもそう思う。だけど、誰もが言うような"良い物"だけじゃなく、日常のなかにもセンスを磨く要素はたくさんある。例えば、気になる音楽があったらすぐに手に入れて、すぐ聴いて、たくさん聴くことで音楽のセンスが磨かれるわけ。そうやって何でも触れてみることが大事。センスは雑誌や本だけを読んで得るものじゃない。平たく言えば、日常の一瞬一瞬の中でひたすらにどう生きるか、どう楽しませるか、どう楽しむかを考え続けるっていう継続力こそがセンス。

うーん、いいなあと思いました。まさにぼくは昨日、衝動買いでCDを購入したところでもあり、その衝動買いが正当化されたからうれしいということもあるのですが、最後の「継続力こそがセンス」というのも思いっきり頷きました。当たり外れ、上昇と下降という波があるのだけど、それでもつづけることが大切です。継続して、積み重ねていったとき、アリとキリギリスじゃないけれど、夏のあいだ遊んでいたキリギリスには出せないパワーが生まれる(と信じていたい)。

それから、最終形を予測しないことも大事だと思います。どうなるかわからないけれど、とにかくつづける。読書としては、同時進行的に内田樹さんの「態度が悪くてすみません」を読んでいるのですが、書くという行為は、わかっていることを言葉にするのではなく、わかっていないことを書こうとするからいい、という表現があり、なるほどなーと思いました。引用します(P.8)。

4047100323態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い (角川oneテーマ21)
角川書店 2006-04

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私たちがものを書くのは、「もうわかっている」ことを出力するためではなく、「まだ知らないこと」を知るためです。自分が次にどんなことばを書くのか、それがここまで書いたセンテンスとどうつながるかが「わからない」ときのあのめまいに似た感覚を求めて、わたしたちはことばを手探りしているのです。

この表現、いいですね。内田樹さんの本は、ものすごく面白い。文章が詩的ですらあります。そしてぼくも、未知の何かを追い求めつつ、文章を書いていきたいと思っています。

投稿者 birdwing : 2006年7月27日 00:00

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