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2009年1月12日

ダークナイト

▼cinema09-03:救われない暗黒の物語。

B001AQYQ1Mダークナイト 特別版 [DVD]
クリスチャン・ベール, マイケル・ケイン, ヒース・レジャー, ゲーリー・オールドマン, クリストファー・ノーラン
ワーナー・ホーム・ビデオ 2008-12-10

by G-Tools

ヒーローがヒーローになれない時代です。ぼくらが子供の頃にはヒーローといえば頼れる存在であり、何の迷いもなく悪を滅ぼせばよかった。勧善懲悪というステレオタイプの物語のなかで、善玉と悪玉の役割は水と油のように明確に分かれていました。

ところが、子供たちのテレビ番組(仮面ライダーやウルトラマンなど)に関しても同様のことがいえるのだけれど、数年前からヒーロー像が大きく変わりつつあると感じています。何が善で何が悪か、ということがはっきりしなくなってきました。ヒーローのなかにも悪いやつがいる。また、こいつは悪なのか善なのか?と立ち位置が曖昧なヒーローまで登場するようになりました。かと思うと、侵略者や怪獣にも倒すべきではない善人(善獣?)がいたりする。どうなってるんだ。

さらにヒーロー自体が、おれは正しいのか?と悩むようになってしまった。人間的な側面というか、弱さを開示するようになりました。ヒーローでありながら、プライベートな個人としてのしあわせ(恋人と結婚すべきか断念すべきか)と、汚れた悪人から社会を守ることの義務を天秤にかけたりもする。ある意味リアリティがあるのかもしれませんが、ヒーローはマッチョなだけでなく精神的にもタフであってほしいと思うのは、ぼくだけでしょうか。だから、なんとなくがっかりする部分でもあります。ヒーローは強くなくっちゃ。

アメリカンコミックに登場するヒーローたちも、昔はもっと単純だった印象があります。ところが、バットマンにしろスパイダーマンやスーパーマンにしても、ヒーローたちの苦悩は年々作品を追うごとに深まりつつあり、なんだかとても複雑なことになってきています。悪を滅ぼすことによって悪の力を強めているのではないかのような、殺虫剤を使ったら遺伝子の突然変異で強力な繁殖力をもった蚊が出てきちゃったんだけど、それって退治したぼくのせい?というようなことで、ちまちま悩むようになってしまった。あげくの果てに悪を倒すことにためらいまで生まれるようになりました。

うーん、ヒーローのみなさま。考えすぎじゃないのかなあ、これ(苦笑)。

世知辛く生きるのがツライ現実ですが、ヒーローもたいへん生きにくそうです。それだけ世のなかが複雑になってきているのでしょうね。世相を反映しているのだと思います。

たとえばインターネットという技術革新(=ヒーロー)によって世のなかは便利になったけれど、一方で人間の闇を掘り起こして、新たな犯罪も生まれています。人々にとってよいものが純粋によい結果をもたらすとはいえない社会です。よいものであるからこそ悪影響を及ぼすこともある。そうした社会の多様性をぼくは容認したいと思っているし、姜尚中さんの「悩む力」ではないのですが、悩むからこそヒーローは強くなれるのかもしれません。わかっているつもりです。わかるのだけれど映画としてはどうだろう。観賞後にすっきりしない。

「ダークナイト」は、映画としては珠玉の出来だと思います。バットマンシリーズはほとんど観ていますが、物語の緻密さでいうと、今回の作品がいちばん優れているような印象を受けました。

口が裂けた道化師のようなジョーカーの狂気、光に溢れた希望も一転して奈落に落ちるという人間の闇の描写、SFではなく純粋にマフィアの映画としても通用するようなハードボイルドな映像、サイケデリックな雰囲気など、ひとつひとつが見事です。単純にバットモービルのアクションだけでは終わらない深みがあります。きっとバットマンが救ってくれるだろう、という希望を抱きつつも、ヒーローでもどうしようもないことってあるよね、という切実なかなしみも感じられました。

しかしですね、暗い。暗すぎる。そして心理描写に重きを置いたせいか、派手なスタントや破壊シーンがあったとしても、なんとなく地味です。一瞬だけ人間性における信頼を回復できるようなシーンもありますが、全体を覆う暗さは拭いきれません。率直な感想としては、救われない映画でした。こういう映画を生み出してしまった時代に、うすら寒いものを感じます。なんだか滅入った。

「ノーカントリー」の後につづけてDVDを借りてきて観たせいかもしれません。「ノーカントリー」に登場する殺し屋も、金や名誉のために人を殺めているわけではありませんでした。トミー・リー・ジョーンズが演じる保安官が首を傾げて、結局のところ立ち向かうのを放棄するように、彼を殺人に駆り立てているのは狂気です。だから、理解の範疇を超えている。コインを投げて目の前の誰かを殺すかどうか運に委ねたりするわけで、そこには論理的な筋道はない。

ちょうど重なったのですが、「ダークナイト」のなかでも「光の騎士」と称賛されて悪を一掃するために全力を尽くす新人検事ハービー・デント(アーロン・エッカート)は、コインに運命を委ねます。しかし善意で使われていたコインの使い方が段々あやしくなってきます。

計画性ではなく運にすべてを任せること、意思とは関係のない狂気に犯罪の動機があることが、うすら寒さの要因かもしれません。だから理解できないし、コントロールもできない。守ろうとしていたものも守れなくなっていく。信念も揺らいでいきます。その不条理な結果として生まれるのは、無力感と不信感です。

映画の外の世界、つまり2009年の社会においても、動機の理解できない犯罪が増えてきました。お金を欲しさに・・・というのであれば、わかりやすいのですが、衝動的とも計画的とも言い難い犯罪が毎日のように報道されています。不安が犯罪を煽るのか、犯罪によって不安になるのかわかりませんが、この無力感は、「ダークナイト」の全体を覆う救われない感覚と同期するように感じました。

「ダークナイト」は、時代の共感を確かに生むでしょう。しかし、共感を生んで絶賛されることが、映画の外にある現実として果たしてよいことなのかどうか。ぼくには疑問ですね。

ゴッサム・シティの腐敗した警察官たちは、映画のなかのフィクションの話でとどめておいてほしい。映画という空想の世界が現実を侵食していかないように、無力なぼくは祈るばかりです。ただ、去年のうちに観ておけば、もう少し楽しめたのかもしれないな、ということも少しだけ考えました。どのような作品であっても、観賞したときの社会の文脈によって評価は変わると思うので。

願わくば、もう少し希望を描いてほしかったなあ。ほんと(1月12日鑑賞)。

■YouTubeからトレイラー

■公式サイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/thedarkknight/

投稿者 birdwing : 2009年1月12日 23:59

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