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2009年1月13日

科学の欺瞞、文学の欺瞞。

リチャード・ドーキンス氏が英国の公共交通機関で展開されている「無神論」キャンペーンを支援していることを知り(ロイターの記事はこちら)、そういえば「利己的な遺伝子」は著名な本にも関わらず読んでいなかったことを思い出しました。遅ればせながら今度、本屋で購入することにしましょう。読まなきゃ。

そこで、彼のことをWikipediaで調べていたところ、脇道にそれて「疑似科学」のページを読んでしまった。ところがこれが面白かった。以下、まず疑似科学について定義している部分を引用します。

疑似科学(ぎじかがく)[1]とは、学問、学説、理論、知識、研究等のうち、その主唱者や研究者が科学であると主張したり科学であるように見せかけたりしていながら、現時点(As of Today)での知見において科学の要件として広く認められている条件(科学的方法)を十分に満たしていないものを言う[2]。

たとえば脳科学者に関していえば、池谷裕二さんは科学者だと思うのだけれど、茂木健一郎さんは(とても失礼ですが)芸能人だと思う。科学者らしくない印象があります。

茂木健一郎さんは、数多くの著作を出されていますが、科学的には根拠のないエッセイも多く、科学者としては信憑性に欠ける気がしました。やわらかく最先端の知を教えてくれる意味ではよいのですが、初期の著作以外は疑似科学的な書物が多い。といってしまうと暴言でしょうか(苦笑)。

個人的な見解では、著作における茂木健一郎さんは科学者ではなく、小林秀雄のような評論家もしくはエッセイストだと思っているので、疑似科学でも十分だと思います。楽しければね。

しかし、さすがに「思考の補助線」は酷い本だと思いました。

448006415X思考の補助線 (ちくま新書)
茂木 健一郎
筑摩書房 2008-02

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茂木さんのファンではなければ読者は一冊一冊購入して読むわけです。献本でただで読めるブロガーならともかく、ぼくらはお金を払っている。購入した対価に相応しい内容を提供してほしいと思います。

同様に連想したのは、どこか偏った日本語論を語ろうとする水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」は、"疑似文学(論)"のようだ、ということでした。最近、よく引用しますが、とりあえず最後まで読もうとしているところで、もうすぐ読了です。

4480814965日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村 美苗
筑摩書房 2008-11-05

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「日本語が亡びるとき」もまた、エッセイと銘打ったほうがよいと思います。中途半端に文学を論じているようなところがよくない。書店によっては人文科学系の専門書コーナーに置かれていて、探すのに苦労しました。あの内容は学問ではないと思う。といっても女性作家の棚では売れそうにないし、書店としても困るところかもしれません。

しかし、ですよ。仮に意図して無意味な用語をちりばめているのであればすごい、とも考えました。というのは、Wikipediaの「疑似科学」の項目を読んでいて、ソーカル事件について知ったからです。引用します。

学者として認知される人も、自説を権威づける為に科学的な専門用語をもともとの意味を理解するつもりもなく並べる事がある。[19]

このような事態の一つの批判として、物理学者のアラン・ソーカルは、あえて科学用語を出鱈目に使った疑似哲学論文を書き上げて、有名な人文学評論誌「ソーシャル・テキスト」に送りつけたところ、査読を通過し、見事に載録されてしまった。そしてソーカルはその後ブリクモンとともに「『知』の欺瞞」という本を書いて、人文学批評に疑似科学的な表現があふれている事実を広めた。

これはすごいですね。学者の論文のなかには、難しい専門用語を列記して煙に巻くような意味不明な文章も多くあります。意図を探ろうとすると、ますます迷路にはまり込みます。こうした知に対する批判として、アラン・ソーカル氏は意図的にめちゃくちゃな科学用語を使った論文を捏造して専門誌に送ったところ、スルーで掲載されてしまったわけです。やるねえ。ちょっと意地が悪いけれど、痛烈な批判だ。

ソーカル事件については、Wikipediaで別に項目が立てられて詳細に解説されていました。非常に興味深く読みました。

科学用語を比喩として使っているだけでなく、本気で出鱈目な科学用語を使っているポストモダンの哲学者もいて、そんな無節操な学者を批判したかったらしい。批判の対象になったポストモダンの思想家として、ジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリ、ジャック・ラカン、ジュリア・クリステヴァの名前が出てきて懐かしくなりました。クリステヴァとか学生の頃に読んだっけなあ。よくわからなかったけど(苦笑)。

それにしてもソーカル事件。編集者は何をやっていたのだろう。ザルだったのでしょうか。

茂木健一郎さんの「思考の補助線」にしても、水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」にしても、この2冊にぼくが不信感を抱いたのは、第一に作家の姿勢です。あまりにもひどい擬似学問的な言及によって、原稿用紙を埋めればいいだろうという枚数稼ぎとも思われる作家の不誠実な姿勢にあります。しかし第二に、編集者がきちんと世に出す前にチェックしたのか、ということを感じました。書籍は編集者との共同作業によって生まれるはずなので。

いずれも出版社は筑摩書房です。筑摩書房といえば知の最先端として、すぐれた本をたくさん出しているはず。優秀な編集者がたくさんいるのではないでしょうか。その編集者が、あの内容でよしとしたのだろうか。

活字離れは年々激しくなっていくようです。ブームの新書に活路を見出したとしても、キャッチーなタイトルの本ばかりが先行して、競争が激しくなっていると思います。しかし、酷い内容だけど出しちゃえ、のような悪書量産体制は、逆に本離れを加速させるのではないでしょうか。本好きな自分としては歓迎できる傾向ではありません。いい加減に書いてお金を巻き上げる作家より、真剣に書いている一般のひとのブログを読んだほうがよほどよいと思ってしまう。プロ意識に欠ける本にはお金を払いたくない。

編集にもプロモーターやマーケッターのスキルが必要な時代かもしれません。けれども、利潤追求の商人的なスタンスではなく、昔ながらの編集魂を取り戻して襟を正してほしいものです。もしかすると梅田望夫さん+水村早苗さんの一件も、筑摩書房がくわだてた「日本語が亡びるとき」のブログプロモーションの一環だったかもしれないですね。のせられたか。

という意味では、読者も批判精神を持って、自分の考えから情報を精査する必要があります。影響力のあるブロガーが推薦しているからといって浮わついた言葉に流されて闇雲に買うのは、無駄な出費です。結局のところ、そうやって意志薄弱なまま本を購入しても、献本者や出版社と共謀して一行だけのレビューを書いたブロガーをアフィリエイトで喜ばせるだけでしょう。読者には得るものが何もなかったりします。また、テレビに出ている、話題になっているから作家だからといって、書いたものを盲目的に信じるのも危険です。

一方、ブログで文章を書くぼくらも気をつけなければなりません。

なんとなくわかったような気になって、口当たりのよい言葉を使って安易に論じるていると、とんでもない思い込みだったりすることもあります。解釈は自由ですが、ひとつの解釈の対極となる解釈、あるいは横展開して派生する解釈をきちんと考え、複数の可能性のオプションから考えを立体的に組み立てることが重要ではないでしょうか。

脊髄反射的な"断言"はわかりやすいけれど、そのわかりやすさの危険性も知っておくべきです。ひょっとしていまオレはわかりやすさの暴力に洗脳されてないか?と振り返ること。常に自己を点検し確認する客観性は持っていたい。

ただし、慎重になりすぎてもいけない。一歩踏み出すときは無知でも構わない、とも考えます。そうではないと踏み出せなくなってしまうので。書いて、叩かれて、悩んで、考える。その過程でブロガーとしての成長もあるわけで、最初は無知であっても、書きつづけているうちに、おのずと内容は深まっていくはずです。

たとえば、5年前には、ぼくはほとんど映画を観ていませんでした。けれども年間100本鑑賞!を掲げて、とにかくノルマのように毎週2本レンタル屋で借りてきて(結局、忙しくて観れなかったことも多かった。泣)感想を書くという課題を課しているうちに、量が質に転じたと感じる時期がありました。まだ映画通にはほど遠いのですが、数年前の無知な状態と比べると、少しだけ映画についてわかってきた気がしています。

音楽についても同様です。最初は試聴してもハズレを掴むことが多かったのですが、試行錯誤をしているうちに、身体で好みの音楽を掴んでいくことができる。CDショップでどこへ行けば自分に合った音楽が眠っているか、その在り処について嗅覚が効くようになってきました。

が、知りすぎるのもよくない(うー、どっちなんだ。笑)。あの俳優がどうだとかカメラのアングルがどうだとか、インディーズの実験性の高い音楽にかぶれてしまうとか、これもまた知ったかぶりの行為や言葉が出てきてしまう。なので、踏み出しつつ振り返る進歩がやはり必要です。

わからない言説に出会ったとき、ああこれは自分のアタマが悪いからわからないんだ・・・と考えると思考停止します。ひょっとしたら、わからないことを言っている相手のほうが、アタマが悪いのかもしれない。あるいは、どこかで借りてきた言説を繰り返しているだけで、発言している本人が自分の言っていることを少しも理解していないかもしれません。

子供が、なぜ?どうして?ほんとう?と訊くように、鵜呑みにしないこと。知らないひとについていってはいけないこと。簡単に欺かれないこと。実は情報化社会で自衛のために最も必要であり、かつ知的な行為は、この疑う精神ではないでしょうか。振り込め詐欺にも対応できるわけで。

「日本語が亡びる」といわれたとき、ああ亡びちゃうんだ、やっぱり英語だ、とあたふたするのではなく、ほんとうに亡びるのか?と問いただせること。知的好奇心を発動させながら、ちょっとやそっとでは欺かれない。そんなひとになりたいものです。

投稿者 birdwing : 2009年1月13日 23:59

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